包丁がまな板を叩く音は、耳に心地よい慣れたリズム。
鼻歌交じりに、時折鍋の方の様子も見ながら、狭い台所を右へ左へ。
「……今日はそう遅くならないと言っていたからな」
彼の仕事は、ほぼ毎日が残業だった。町外れの小さな工場で、油にまみれながらそれでも必死に働いている。それは勿論彼自身のためだが、うち何割かは自分のためでもあると自惚れることもささやかな幸せ。
「ん、帰ってきたな」
安普請のアパートの錆びた鉄骨階段を上ってくる足音は、それだけで誰のものかわかる。少々足取りが重い気もするが、何しろ肉体労働だ。そんな日も少なくはない。
「もう少し、おかずは奮発するべきだったか」
大根だけの味噌汁に白菜の浅漬け、アジの開き。色気も何もない、実に若者らしくない食卓だが、彼の稼ぎと自分のバイト代だけではこれが精一杯なのだ。もう少しだけ贅沢しようと思えば出来なくもないが、その分は結婚資金という名目でしっかり貯金してある。家族の中で彼のことを気に入ってくれているのは弟だけという現状では、結婚資金は全て自分達で都合をつける必要があった。もっとも、最初から親を頼ろうとは思っていなかったのだが。
その時、ガチャリ、と玄関の戸が開く音がした。
「おかえり、朋也」
コンロの火を一旦止め、パタパタと玄関へ向かい出迎える。
だが、どうにも様子がおかしい。
いつもなら、自分が『おかえり』と言うか言わないかのうちに『ただいま』と、余人が聞いたならおそらくはひどく無愛想な、しかし彼に近しい人間なら一発でそれが照れているのだとわかる声で告げてくるのに、果たして何の反応もない。
「……朋也、どうしたんだ?」
目の前に立っているのは、間違いなく自分――坂上智代――の恋人である岡崎朋也だ。薄汚れた作業着に、少し伸ばし気味の髪。愛嬌のない表情はいつも通りだったが、加えて何やら覇気もない。
「……智代」
そこで、ようやく朋也は口を開いた。
重苦しい。
こんな重苦しい雰囲気の彼を見るのは久しぶりだ。以前に見た時のことは、今でも思い出すだけで泣きたくなってくる。
「朋也、一体どうしたんだ。何かあったのなら、黙ってないで言ってくれ」
それでも聞かずにはいられない。
どんな苦しいことも、悲しいことも、ともに乗り越えていこうと誓った二人だから。
暫しの逡巡。
ギリッ、という歯軋りの音が聞こえたかと思うと、朋也は突然、
「朋也!?」
頭を下げていた。
「どうしたんだ、本当に。何が……」
嫌な予感がする。
あの日。あの坂で告げられた別れの言葉。
もし、またもう一度あんな言葉をかけられたなら、きっと自分は耐えられない。もう朋也無しでは生きていけない、いけるはずがない。
そんな不安を必死に呑み込んで、智代は朋也が顔を上げてくれるのを待った。
永劫とも思える、実際にはほんの僅かであったろう時間の果て……
「智代、驚かずに聞いてくれ」
朋也がようやく顔を上げる。
その苦渋に満ちた表情を真剣に見つめ返し、智代は気丈にも彼が告げるであろう言葉を待った。
「……工場が、倒産した……」
「……は?」
思わず、聞き返す。
「いや、だから、工場が倒産したんだ」
朋也が今にも泣き出しそうな顔で繰り返す。
「……な、んだ。そんなことか」
一方、智代はこれ以上なく安堵していた。彼の雰囲気があまりにもあの最悪の別れの日に似ていたものだから、てっきりまた別れ話でも持ちかけられるのかと思ったのだが、どうやら杞憂で済んだらしい。
「あまり驚かせないでくれ。相変わらず朋也は人が悪いな」
「え、いや、だから……」
「さ、夕飯にしよう。それとも風呂を先にするか? 安心しろ、ちゃんといい具合に沸かしてあるぞ。……む、それとも、またその……エ、エッチな事とか考えてるんじゃないだろうな? だ、駄目だ、駄目だぞ! 今日は結構暑かったし、私だって風呂に入って汗を流してからでないと……その――」
「ちっがーーーーーーう!!」
絶叫。
「――って、吃驚するじゃないか。それともそんなにエッチなことを……」
「ちげーよ! エッチはしたいしする気満々だけどそうじゃねぇよ! そんな事よりもお前何聞いてたんだよ!? もっと重要なことがあるだろうが!」
そう一気に捲し立てられ、智代は首を傾げた。
眉間に皺を寄せ、ウ〜ンと何度も頭を振りながら唸る。
「……お前、頭いいけどたまに凄くアホだよな」
「む、失礼なことを言うな。彼女をアホ呼ばわりはあんまりだぞ」
腰に手をあてて抗議してくる恋人を一頻り見やった後、朋也は重苦しく陰鬱な溜息を漏らしながら、部屋へ上がった。
「取り敢えず、アレだ。飯食って風呂入ってエッチして、それから考えよう」
「……重要なこととか言っておいて結局エッチはするのか」
智代が心底呆れた顔で朋也の後に続く。
「したくないなら、別に――」
「い、いや、誰もそうは言ってないぞ。その、なんだ、お前がしたいというのなら私はいつだって、それに、わたしだって……その……あ」
その続きを遮るかのように、朋也は真っ赤になって俯く智代の顎を持ち上げ、軽く口づけた。
「……そう言えば、今日はただいまのキス、まだしてなかったよな」
一見手慣れた手つきと台詞だが、しかしその顔は智代に負けず劣らず真っ赤だ。そんな恋人の唇に、今度は智代の方から口づける。ほんの少しだけ強く、長く。
「夕飯……冷めてしまうな」
「冷めても美味いさ」
普段なら絶対に口に出来ない歯の浮くような台詞とともに、二つの影がもう一度重なり合う。互いの温度を確かめ合うかのような柔らかな抱擁と、そして、三度目の口づけを交わそうとした、まさにその時――――
「岡崎、わりぃけど暫く泊めてくれ! ……って」
この場合、悪いのは一体誰であろうか。
帰宅後、鍵を閉め忘れた朋也か?
玄関を入ってすぐの場所で恋人のされるがままになっていた智代か?
それとも、呼び鈴も鳴らさず、ノックもせずにドアを開け放った闖入者か?
智代の明晰な頭脳は即座に三つの選択肢の中から答えを弾きだし、しなやかな彼女の肉体は硬直する三者の中で誰よりも早く行動を開始していた。
即ち――
「ふぇブシッ!!」
闖入者の、撃滅である。
速く鋭いそれは、フカフカのクマさんスリッパのカタチをしていた。本来はただの可愛らしいぬいぐるみスリッパであったろうそれが、野生の熊の凶暴さもかくやと言った鮮烈な一撃を男の顔面へと見舞う。それも、一度ではなく……
「ひゃぶ、ゴベ、びブッ!」
一瞬で、四度も。
「変質者か強盗か知らんが、運がなかったな」
ボコボコにされた男は、無様に尻餅をついた状態で必死に命乞いをしようとしていた。だが顔面が見事に陥没してしまっているせいか、その口から漏れ出すのは言葉にならない掠れた音のみだ。
「ヒ、ヒィーーーーー!」
「……トドメだ」
「待て、智代!」
智代の手刀が男の脳天をかち割ろうとした瞬間、ようやく動きを取り戻した朋也が彼女を止めた。
「どうしてだ、朋也。こいつはきっと凶悪な変態且つ強盗だぞ? 見ろ、この残忍そうなツラ構えを。きっと今までに力無い老人や子供を散々食い物にしてきたに違いない根っからの悪党だ」
智代の言うところの残忍そうなツラ構えは、潰れたアンパンのようになってしまっていてどちらかというとB級ホラーテイストだったが、朋也はどうにも先程のヘタレた悲鳴に覚えがあるような気がした。
「まぁ落ち着けよ。なんか、こう、覚えがあるような無いような……頭に引っかかってるものがあるんだ」
「では、知り合いだというのか? 朋也、差し出がましいことかもしれんがお前はもっと交友関係というものについて考えた方がいい」
交友関係。その言葉も妙に引っかかる。
はて、何か忘れているような……
「交友関係……ヒ、ヒィーーー……ヘタレ……あっ」
そこまで考えて、ようやく思い出した。
「春原!?」
「思い出すの遅いっすね!」
潰れたアンパンのようだった顔は気がつけば見覚えがある男の顔へと復元していた。相変わらずの不死身ぶりだ。
「……いっつー。ったく、相手の顔くらい確認してから攻撃してくれ……」
春原陽平。朋也の高校時代の悪友である。
無論、智代とも面識がある。高校三年に進級したばかりの頃、二年生だった智代も含めて散々に馬鹿をやったものだ。なのに、
「……朋也。で、こいつは誰なんだ?」
「知らない人かよ! 春原だよ! 春原陽平です!」
言われて、智代は暫く俯いて深く深く考え込んだ。
「そこまで考えなきゃ思い出せない人かよ僕は!」
「……貴様、嘘をつけ。春原の頭は見ていて頭が痛くなるようなドギツイ金髪だ。そんな黒い頭で春原を名乗るとは、故人を騙り私達から金でも騙し取ろうという魂胆だろう?」
「ツーか故人じゃねぇし! 岡崎、お前からも何とか言ってやってくれよ!」
「新手の詐欺師か」
「お前もかよ!!」
「はは。冗談だ春原。大きくなったなぁ。五年ぶりくらいか?」
「僕はあんたの親戚の子ですか!? ってかまだ一年も経ってねぇよ!」
そんなこんなで再会を果たした三人は玄関口で一頻り騒ぎ、取り敢えず落ち着いて卓袱台を囲むことにした。そして、何故かその頃には春原の顔には新しい痣が幾つか増えていた。
「しかし二人とも結局ヨリを戻したんだなこん畜生。畜生、羨ましいぜ畜生」
「お前、相変わらずボキャブラリー貧困なのな」
「放っておいてくださいますかねぇ!」
あはは、と団欒しながら、朋也は味噌汁を啜った。
「ん、やっぱ智代の味噌汁は絶品だな」
そう言って、今度は白菜の浅漬けへと箸を伸ばす。
「この浅漬けも、塩っ辛すぎずいい感じだ」
「馬鹿、そう褒めるな。恥ずかしいじゃないか」
照れながら、こちらはアジの開きへと箸を伸ばし、ご飯と一緒にじっくりと咀嚼する。今日の料理も我ながらいい出来だと智代は思った。
そんな二人の姿を、春原は彼にしては珍しく嫌味のない朗らかな笑みを浮かべて見つめていた。
「はは、でも本当に羨ましいぜ。高校の頃の弁当もそうだけどさ、智代って意外と料理が上手いからなぁ」
いつもならそこで智代の鉄拳が飛びそうな発言であったが、春原の心底羨ましいと言った表情と言葉に二人は彼の友情を感じ、そのはにかんだ笑顔を温かく見つめた。友人達の仲睦まじい姿に、春原も嬉しそうに大根の尻尾をシャクリと囓る。
「……ってなんで僕だけ生の大根の尻尾なんすか!」
「当たり前じゃないか。うちには余分な食材なんて無いんだ。突然訪ねてきて、夕飯を食わせて貰ってるだけありがたいと思え」
「これ普通は夕飯って呼ばないっす!」
「お前相変わらず喧しいなぁ。飯の時くらい静かにしろよ」
「いいよねあんたはちゃんとしたご飯食べれて!」
あんまり喧しいので、見かねた智代の手刀が延髄の辺りを強かに打ったら春原はまるで糸の切れた操り人形のように静かになった。こうしていると、三人で仲良く騒いでいたあの高校時代に戻ったかのような錯覚をうける。
「この感じ、懐かしいなぁ」
「そうだな」
二人はとても懐かしく、綺麗なものを見るかのように物言わぬ春原を見た。
やっぱり、全然綺麗じゃなかった。
「で、田舎で就職してたはずのお前が何でこの町にいるんだ?」
「聞くの遅いっすね」
夕食後。
三人は卓袱台を囲み、現状についてしっかり話し合うことと相成った。朋也にしろ智代にしろ、本音を言えば春原のことは非常に邪魔だったのだが、無碍に追い返そうとして騒がれると御近所の目が痛い。
「どうせ何とか就職したまではよかったがおちこぼれ社員への風当たりは予想以上に強くあっさりと耐えきれなくなって遅刻と無断欠勤を繰り返し問答無用でクビになって実家に申し訳も立たないからこの町に逃げてきたとか言うオチじゃないのか?」
「うぅ、酷いっす。僕、そんな目で見られてたのかよ……」
智代の言葉に、春原の両目からハラハラと涙がこぼれ落ちた。それを見て流石に智代も焦る。
「う、その、すまん。別に悪気があったわけじゃないんだ」
悪気など欠片もなく素直に思ったことを言っただけだったのだが、気の毒なことを言ってしまったと、智代は頭を下げた。
「……いや、いいんだ。本当のことだし」
「事実かよ!」
春原はあまりにも予想通りに春原のままだった。
「だってよぅ、聞いてくれよ」
「嫌だ」
即答。
「こっちはこっちで大変なんだ。智代、今度こそよく聞いてくれ」
ブツブツと呟きながら床にのの字を書き連ねているヘタレは無視して、朋也は智代に不況の煽りを食って工場が潰れてしまったことを、再び、今度はちゃんと詳しく話して聞かせた。
「倒産!? マジ!? 何お前、僕と同じで無職!? ぶははははへブゥッ!!」
指をさして笑い転げる春原の顔面に、智代の鉄拳がめり込む。
そもそも、同じく無職確定とは言え目の前のヘタレと違って朋也は真実必死に働いていたのだ。工場が潰れてしまったのは彼のせいではない。
「……ごめんな、結婚式、遠のいちまった」
女の子らしさというものにこだわり続けてきた智代が、純白のウェディングドレスを着てバージンロードを歩く、そんなどこにでもある平凡な結婚式にどれだけ憧れているのか、朋也は誰よりもよく知っていた。
本当なら、彼女は自分のような道端の雑草になど脇目もふらず、もっともっと高く飛べたはずの存在なのだ。ずっと遠くまで、たくさんの人達の夢と希望を連れて。そんな彼女をこの片田舎にとどまらせてしまった、輝かしい未来を奪ってしまったことが罪ならば、朋也にとって、智代のささやかな望みを出来る限りかなえ続けてやることこそが唯一の贖罪だった。肩を壊し、バスケを失ったあの日から、目的もなく、自堕落な生活を続けてきた朋也がようやく手に入れた生きる意義。愛する女性を幸せにしたい、たったそれだけのこと。
それなのに、どうしていつもいつも世界は自分の邪魔をするのだろう。
「……朋也」
言いようのない悔しさに震える肩を、温かな両腕がそっと包み込んでくる。
「気に病むことはない。今回の件は、朋也が悪いわけじゃないだろう?」
「でも、俺は結局お前に何もしてやれてない。人並みの幸福さえ、与えてやれないんだ。なら、やっぱり俺達は……」
朋也を抱いた両腕に、力がこもる。
「そんなこと、言わないでくれ。私は今でも充分に幸せなんだ。朋也と一緒にいられなかったあの八ヶ月間は、とても辛い日々だった。あの頃と比べたら、今は幸せすぎて怖いくらいだ」
それは真実智代の本心だった。一緒にいる、ただそれだけのことがどんなに幸せなことか。
「それに、今の朋也は昔とは違う。私のために頑張ると、そう言ってくれたじゃないか。だから、きっと大丈夫だ。新しい仕事も、すぐに見つかる」
不安なんてない。誰かのために、夢のために頑張れば、きっとかなう。あの八ヶ月は、幸せと引き替えにそれを教えてくれた。
「智代」
「うん」
朋也の腕が、力強く智代の身体を抱き返していた。
そう、きっと大丈夫だ。この腕の温もりがある限り、大丈夫。
薄れゆく意識の中、春原は完全に自分達だけの世界へと突入してしまった二人の姿をいつまでも見つめていた。
朋也が今どこに住んでいるのかを電話で尋ねた時、藤林杏がどうしてあんなに喜々として現住所を教えてくれたのか、何となくわかった気がした。まるで受話器が握り潰されていくかのようなあの音は、気のせいではなかったのだ。
「……ちく、しょう……」
最後の力を振り絞って中指を立てると、春原の意識はついに闇に沈んだ。
憎しみで人が殺せたら……心底、そう思いながら。
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