…ありがとう



…おまえのおかげで



いい人生だったよ



さあ、いこう



世界は美しく



そして



人生はかくも素晴らしい











智代アフターアフターアフター



◆    ◆    ◆





「……It's a Wonderful Life――と」
 これが本当に秋なのかと疑いたくなるくらい暑い夕刻、鷹文と可南子は狭苦しい部屋の片隅に設置されたパソコンの画面を食い入るように見つめていた。河南子の右手はマウスへと添えられ、じっとりと汗ばんでいる。
「取り敢えず、バグはないね」
 安堵のためのものか。恋人の口から漏らされた溜息の温度を、文字通り息のかかるほど近い距離にいた鷹文は僅かに胸高鳴らせながら感じていた。夕暮れに赤く染まる世界、恋人と狭い部屋に二人きり、しかも密着状態とくれば、鷹文とて健全な男子高校生だ。涼しい顔をしつつも内心穏やかならぬ複雑さだった。
 それでも思い止まっていられたのは、流石にこの部屋でコトに及ぶ――それもお互いに初体験――は不味かろうという最後の理性がためだ。
「僕がプログラミングしたんだから当たり前だろ」
 だから口をついて出たのは、どうと言うこともない、そんな言葉だった。
「わっかんないヤツだねぇ。だから心配なんじゃん」
「もうちょっと労いと労りの心を持てよ! 同じ漢字並んじゃってるし意味重複してるかもだけどそのくらいしてくれよ……」
 やれやれと両手をプラプラさせる河南子に食って掛かれば、後はもういつも通りの雰囲気だ。ホッとしたのを悟られないようツッコミを入れて距離を取る。妙に鋭いところもある彼女だが、この手のコトには結構鈍いので助かる。
 それに、少しは労えと言うのは本心だ。
 いきなり一冊の大学ノートを押しつけられ、その中に書かれたシナリオでゲームを作れと問答無用で命じられたのが三日前。しかも姉とその彼氏には決して悟られるなと言いつつ作業現場は当の彼氏の部屋である。たまったものではない。
「まぁ、にぃちゃんにバレたら……それはいいとして、ねぇちゃんにバレたら僕は間違いなくあの空に一際高く輝く一番星だけどさ」
「あたしだって先輩にバレたらなんて考えたくもないわよ。だから急ぎでお願いって言ったんじゃん。報酬は山分けってワケにゃいかないけど二割くらいやるから」
「少なくないオイ!?」
「うっさいわねぇ。こっちも三日間授業中ほとんど寝ないでそれ書き上げたんだから苦労は同じだっつの。わかってるか?」
「授業中に寝ないのは当たり前だしってか授業中に書いたのか……濡れ場も?」
「うん。濡れ場も」
 さも当然、とばかりに。
 そんなことで胸を張られても困る。
「いや、マジ辛かったんよ? 登校途中にゴミ捨て場から拾ったフランス書院のエロ文庫本を教科書で隠しながら、チラリチラリと描写書き溜めしてさぁ」
 今までもアホだアホだアホの子だと思っていたが鷹文は今こそ確信した。自分の彼女はド阿呆だ。病気の域だ。しかも不治の。
「ザーッと見た感じ、目立った誤字とかもなかったもんね。やったー流石鷹文キャー素敵! マスターアップしましたパンパカパ〜ンドンドンパフパフ! パフパフってなんだかエロいなコンチクショー!」
「ちょ、狭いんだから暴れるなよ」
「細かいこと気にすんなよテメー。めでたいんだからさ」
 そう言って、ゴソゴソと自分の鞄から一升瓶を取り出す。
「取り敢えず呑みながら反省会しよ」
 この女、呑まなくても酔っぱらってるのに呑んだらなお酷いことは鷹文無論承知している。正直、タイマンで呑みたくない相手ランキングブッちぎり一位だ。それでも上機嫌な河南子を見ていると断るのも憚られたので、自分は本当に不幸だなぁとか考えながら鷹文は台所へとコップを取りに行ったのだった。





◆    ◆    ◆






「でも、ここでにぃちゃんを殺す必要あったのかなぁ?」
 今まで鷹文が遭遇した姉カップルのエッチ場面情報とフランス書院を参考に河南子が書き上げた渾身のエロシーンの批評を終え、次に鷹文は大学ノートに書かれたシナリオのラストシーンの辺りを指して呟いた。記憶喪失ネタから始まって、姉の智代と恋人の朋也がその状態で愛を確かめ合って成功率の低い手術に挑み、結果として朋也は死亡。あんまりにもあんまりな展開に、タイピングしている最中自分が書いたわけでもないのに罪悪感を覚えずにはいられなかった。
「別におかしくないじゃん? ここはあいつに死んでもらって、その事で二人の愛は綺麗なまま永遠になんのよ。だってあいつ生きてたら絶対何回か浮気するよ? この間もあたしの太股ジッと見てたもん」
 鷹文の記憶が確かなら、朋也が河南子に向ける視線は呆れか哀れみが八割だ。残りの二割は怒りとか蔑みとか色々。七月の半ば頃から始まった奇妙な関係の中、彼が河南子に情欲の類の視線を向けたことなどついぞ記憶にない。
「先輩は永遠の愛を信じてるんだしさ。そこであたしは尊敬する先輩のために、こう、ね? 二人の愛を永遠に昇華してあげたってワケよ。ップハーッ! いい事した後に呑む酒は格別だね! 永遠はあるアルよ! ここにあるアルよ!」
 いい具合に酔いが回ってきたらしく、河南子は今にも踊り出しそうなくらい上機嫌だ。本当に踊り出されると部屋が滅茶苦茶になりかねないからその時は全力で止めねばなるまい。朋也に怒られるのはいいとして、智代の怒りを買うことだけは出来るだけ避けたい。坂上鷹文、家族のために車に飛び込んだ過去はあるが、やはり命は惜しい。
「アイヤーッ! 鷹文、お前ももっと呑むアルよ」
「何で中国人になってるんだよ……」
「細かいことは気にしないニダ。……ま、このゲームなら絶対売れるね。間違いないよ。これで岡崎の野郎も食費のこととか金のことであたしにグチグチ言えなくなるんだから万事上等ハッピーエンド! 未来は明るい、いざ行かん未来!」
 未来どころか異世界まで飛んでいきそうな勢いだ。
「だったらこの部屋に入り浸るのやめればいいのに」
 夏休みが終わってからも、河南子は週に三度くらいはこの部屋に入り浸っていた。無論、金は一銭たりとも支払うことなく。ここに来れば鷹文に会えるというのも大きいが、他にも幾つか理由はある。
「だーって。ようやく再婚話もまとまったのにさ、恋の炎が燃え上がってる中年再婚夫婦の邪魔とかしたくないじゃん?」
 一時は再婚に反対して家出した娘の、せめてもの母親孝行のつもりなのである。
「結果としてあたら若い恋人同士の蜜月を邪魔してるんだけど」
「あの二人はいいのよ。どうせあたしのシナリオ通りなら岡崎朋也はもうすぐぶっ倒れて記憶を失います」
 文房具屋で百円で買った大学ノートに書かれたシナリオが現実になるならこの世界は今頃滅亡している。
「そんじゃ早速このゲームをダウンロード販売サイトに登録して、そこら中の掲示板でキタ━━━(゚∀゚)━━━ッ!!!!! って感じに大騒ぎするわよ。自作自演っぽさを醸しつつも『でも本当におもしろそうじゃね?』とか思わせることが出来れば勝利!」
「そう上手くいくかなぁ」
「大丈夫だってば。なんのために岡崎の野郎を殺したと思ってるのよ? あいつあたしの事どうも金も稼げないニート娘だと考えてる節があるからね。ここらでギャフンと言わせておかないと調子づいてセクハラとかしてきそうだし」
 それだけは無いだろうと鷹文は黙って口をへの字に曲げてみたが、河南子は『セクハラ対策その一! 抉り込むようにスパイラル! スパイラル!』と叫びながらコークスクリュー気味に虚空を拳で切り裂いている。あれにあたったらさぞかし痛かろう。あと、どうでもいいがギャフンと言わせるために殺したというのはわけわからん。
「死ねっ! 死ねっ! エロ崎朋也! このエロスの国から来た七番目の戦士、あたし呼んでエロティカセブンめ! てりゃーッ!」
 あまりにもあんまりな言いぐさに、鷹文はもう何と声をかけていいものやらわからずに取り敢えず肩を落として溜息を吐いてみた。この調子では、彼女は今し方玄関から聞こえた扉を開ける音にも全く気付いていないだろう。扉を開けて呆然としている朋也と智代に全て説明するなんて、まったくごめんこうむりたい。
 取り敢えずモニターの電源だけ落とし、姉の怒りの矛先をなんとかして自分とパソコンから逸らすことだけ考えながら、鷹文はいまだ二人の帰宅に気付くことなく拳を突き出している河南子の肩をそっと叩いたのだった。





◆    ◆    ◆






「……で、なんでおまえは俺に死ね死ね言いながら宙を殴ってたんだ?」
「ウッス。うちの田舎の方の掛け声なんスよトモヤシネ。トモヤシネッ!」
 人類史上ここまでアホな言い訳があっただろうか。いや無い。
 こんな言い訳を信じられるなら人類はとっくに恒久平和を実現している。
「そうか。掛け声だったのか」
 だが智代だけは納得していた。それを聞いて、河南子がよっしゃとガッツポーズをとって勝ち誇る。誰に対して勝ち誇ったのかはきっと本人も考えていないだろう。
「だが近所迷惑になるからもう少し声は小さくした方がいいな」
「あ、すいません」
「おまえら怒るところも謝るところも違うからなそれ」
 そう言って朋也はよっこらしょと腰を下ろした。
「で、にぃちゃん。検査の結果はどうだったの?」
「ああ、異常ないとさ。念のためにもう一回くらい来てくれって言われたけどまぁ大丈夫だろう」
 あの夏の日。
 ゴミ山から転げ落ちて頭を五針縫った朋也は、智代があまりに心配するものだから病院に行って何度か検査を受けていたが、今のところ再手術が必要だとかは無いらしい。それでも頭の怪我というのは暫く経ってからいきなり、という事もある。安心するにはまだ早いとは智代の弁だ。
「とか何とか言って、実は医者はもうサジ投げてるってオチですよ。むしろあたしなら投げるね。その一投で疲労性骨折は確実だと言われても力の限り投げてやる」
 謎の投球フォームをとりながら嘯く河南子。まったく忙しない。
 そんな河南子に対し智代は不敵な笑みを浮かべると、
「ふんっ。そんなサジなど私が場外までかっ飛ばしてやる」
 丸めた新聞紙を力の限りにスイングしていた。凄まじい風切り音に思わず朋也も鷹文も耳を塞ぐ。場外どころか月まで飛んでいきそうな振りッぷりを見て、河南子はガックリと膝を突いて『あたしの敗けよ……花形さん』とか呟いていた。
「ちょ、待て。それじゃ結局俺死ぬし」
 冷静に考えて、かっ飛ばされたサジは遙か月だ。
「あ、そうか……なら、ピッチャー返しだ。これで朋也は死なないぞ」
 ナイスアイデアとばかりに智代の顔がパッと輝く。
「ピッチャーが死にそうだけどね」
「うぅ……難しいな。だが朋也のためだ、私は何としても投げられたサジを打ち返してみせるぞ」
 凄く変な熱血だった。
「ところでお前ら、俺達の留守中に部屋で何してたんだ? ホテル代わりに利用するなら金取るぞ?」
「ちっげーよバーカバーカ! エロいコトなんかしてねっての! この部屋から出てエロマンガ島に帰れよエロス人!」
 エロマンガ島の島民に聞かれたら殺されても文句は言えまい。
「それは私が困る。エロマンガ島からでは高校に通えないじゃないか」
 真面目に困った顔をする智代が寧ろ困りものだ。
「大丈夫です。岡崎さんがまた学校くらい作ってくれます。エロマンガ島立第一エロマンガ高等学校を」
「じゃあねぇちゃん今度はエロマンガ島立第一エロマンガ高等学校の生徒会長になるのか……すげぇや」
「しかし余所者の私に務まるだろうか? エロマンガ島立第一エロマンガ高等学校の生徒会長などという重役が……」
「いや、お前らエロマンガ島の人達に謝れ、な? 俺も一緒に謝ってやるから」
 そこで、ふと朋也は親友である春原陽平のことを思い出していた。
 朋也が初めてエロマンガ島の名前を知ったのは春原のおかげだった。地理の授業のあと、地図帳を広げて嬉しそうに『おい岡崎、エロマンガ島だってよ! 凄いぜこんな楽園が地球上に存在してたなんてさ! 僕、高校卒業したらエロマンガ島に移住して一生エロマンガな生活を送りたいよ!』と捲し立ててきたものだ。
 春原は今頃何処で何をしているのだろう? 地元に戻って就職したはずだが、もしかしたらエロマンガ島に移住したかも知れない。
「なぁ智代。今度、春原に電話でもしてみるか」
 懐かしそうにそう言った朋也に、
「……春原? 誰だそれは?」
 智代は暫し逡巡して後、欠片も心当たりが無いとでも言いたげにそう返した。春原なんて、所詮はそんなものなのかも知れない。それに今は春原の代わりに鷹文と河南子がいる。二人合わせれば春原と同レベルだ。人間的に。出来ればもう少しヘタレ度が高ければ完璧なのだが、そこまで望むのは酷だろう。
「ツーかエロマンガ島も春原もどうでもいいんだ。ほら、智代」
「ああ、そうだな。二人とも、こっちに来てくれ」
 エロマンガ島と春原を頭から追い出し、四人はテーブルを囲んで着席した。少々狭いがそれはもう慣れたものだ。
 そこで智代は全員の顔を見回すと、わざとらしくコホンッと咳払いしてから一通の封筒を取り出してテーブルの中央に置いた。
「なにこれ?」
 鷹文と河南子は訝しげに封筒へ視線を集中させた。そこにはかろうじて読める程度の文字で、たどたどしく『おかざきともやさまへ』と書かれている。
「うん。実はな、実は……」
 懸命に言葉を紡ごうとして、しかし智代はそれ以上続けられなかった。必死に堪えているのだろうその様子を見れば、二人にもこの封筒が誰からのものなのかは察しがついた。
「さっき郵便受けを覗いたらな、この手紙が来てたんだ」
 どうしても続けられない様子の智代に代わって、朋也が穏やかに告げる。
 差出人の名は、三島とも。
 一夏のほんの短い時間を、四人と一緒に過ごしたかけがえのない少女。
 余命幾ばくもない母親との生活を選び、この部屋を去っていった少女からの手紙だった。



「それじゃ、開けるぞ」
 ハサミで丁寧に口を開けて、朋也は封筒の中身を取り出した。全員が見守る中、出てきたのは数枚の雁皮紙。そこに宛名と同様のたどたどしい文字で、ともの近況が綴ってあった。おそらくは、母親や村の大人達に教わりながら必死に書いたのだろう。うんうんと唸りながら鉛筆を滑らせるともの姿が目に浮かぶ。
 手紙には、何度も何度も『たのしい』という文字が見受けられた。
 子供が楽しめる施設など何も無いはずの村だ。一番近い町までも何時間もかかるような、テレビだってろくなチャンネルの映らない山奥の村で、それでも彼女は自分が今どれだけ幸福なのかを伝えていた。
 読めば読むほどに、知らず目頭が熱くなってくる。朋也も、鷹文も、それに河南子も泣き笑いのような表情を浮かべている。
 そんな中で、おそらくはもっとも涙もろいだろう智代が懸命に堪えていた。
 嬉しいのなら、泣いてもいいのにと……朋也がそう言ったが最後、彼女はきっと大泣きしてしまうだろう。だから、言わずにおくことにした。たとえ嬉し泣きであろうとも涙を流さずにいるのは、それがきっと彼女なりのけじめなのだと思うから。
 ともは、今、とても幸せなのだ。なら、笑って祝福してやればいい。



 最後に、一枚の写真が同封されていた。
 ともと、母親の有子。そして村人達が、あの学校を背にして映っている。
 初めてあの村を訪れた時が嘘のように、みんな笑っていた。これが本当に人生に疲れ、絶望した挙げ句にあそこに辿り着いた人々なのかと、そんなことが信じられないくらいの、誰しもがいい笑顔だった
 だから朋也も、鷹文も、河南子も、そして智代も、笑ってその写真を見た。長いこと見つめ続けていた。





◆    ◆    ◆






「私は、この感動をもっとたくさんの人に伝えたい」
 写真立てにともからの写真を収め、棚の上に立てかけると智代は他の三人に向かってそう宣言した。まだ少し目は潤んでいるが、晴れ晴れとした表情だ。
「そうだな。それはいいな」
「うん、そうしなよ、ねぇちゃん」
「応援しますよ」
 大切な人達からの声援に、智代はちょっとだけ乱暴に目を拭うと、パソコンの前へと腰掛けた。

 ――ネットは世界中のいろんな人と出会い、交流することができる。悩みを抱えてる人たちもたくさんいる。そういう人たちに、ねぇちゃんはアドバイスしてあげることができる――

 夏の初めに鷹文が言った言葉だ。
 今だって自分のことを偉そうなことが言えるような人間とは思わない。それでも、鷹文の言葉通りに、智代は、悩みを抱えているたくさんの人達に、今自分が感じている幸福を、人生の素晴らしさを伝えたいと――純粋に、そう思った。
 電源に手を伸ばす。
「……ん?」
 が、そこであることに気がついた。
「鷹文、パソコン、電源が入ったままだぞ?」
 姉の一言に、鷹文が凍りつく。河南子は……既に玄関で靴を履いていた。流石に素早い。だが彼氏を即座に見捨てるのはいかがなものだろうか。
「困ったやつだな。使い終わったらモニターだけでなくちゃんと主電源を切っておかなくちゃ駄目じゃないか。どれ、モニターのスイッチは……」
 以前に教わった通りに、モニターへと手を伸ばす。



 そう言えば画面はエッチシーンの批評をした時のままだったなと、そんなことをボンヤリ考えながら、鷹文は無言で十字を切っていた。

 It's a Wonderful Life!

 人生は、かくも素晴らしい。






そして日々は続いていく







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