Turning Fate/The end for beginning
episode-00
〜鉄色の冬〜
生に対する執着なんて無い。 死は常に身近にあった。否、死をあまりにも近い前提として自分は生を授かった。 生物として如何に歪であろうと、しかしそれがイリヤスフィールという少女の生であったのだから、仕方がない。初めからそう仕組まれた存在である以上、それを享受する以外に生きる道も、また術もなかった。疑問に思う予知もなければ必要もない。 黒い森と、鉄の城。 幼き頃の記憶を占める、深く、深く、暗い場所。 たくさんの人間と、実の祖父である人物が自分を囲む。 繰り返される儀式と術式。身体を弄られることに嫌悪感を抱いたことはない。何故なら、それが常であったゆえ。 何かを埋め込まれ、刻まれ、奪われ、取り替えられる。それが日常。 己の肉体の果たして何処から何処までが既存の部品であったのか、人として判別されるべきはどのあたりまでなのか、考えるだけ無駄なこと。イリヤスフィールとしての自我など不要。求められたのは最新にして最高のユスティーツァ。人でなく、器としての完成度を高めることこそがアインツベルンの本意。 なのに、母は泣いていた。 長いこの髪も、雪のような肌も、全ての白い色は美しかった母から譲り受けたもの。全身を弄り回されながらも唯一それだけが失われなかったことを、あの頃の自分は喜んでいたのだろうか? 優しかった母。歌を歌ってくれた母。頭を、頬を撫でてくれた母。自分と同じく、ユスティーツァとして望まれながらも失敗作と呼ばれた母。 その柔らかく温かい腕に抱かれる感情が“好き”と呼ばれるものであることを知った時、母はもういなかった。 『アレも失敗作ではあったが、よくよく生き長らえたものだ』 葬儀、と呼んでいいものだったのだろうか。 母に別れを告げる儀式。誰一人として涙を流すこともなく、悔やみの言葉も聞こえなかった。ただ、真白き母を入れた黒い棺を、ジッと見つめていた。 『だが、イリヤスフィール。お前を産んでくれたことにだけは、感謝しよう』 感謝? 一千年の悲願成就、それ以外念頭にない練鉄の魔導アインツベルンを統べる翁が、感謝などという言葉を口にするとは。滅多に、いや、おそらくは誰も聞いたこともなければ、これから先聞くこともないだろう言葉を、自分はどういった顔で聞いていたのか……今となっては思い出すことは出来ない。あの頃の記憶は、ひどく歪で曖昧だ。 そして、数年。 システム・天の杯。ユスティーツァクローンとしての意識に本来そうあるべきであった幼さは浸食され、少女には少女としての純粋さは許されなかった。 錬鉄の魔導が生んだ、氷雪の少女。その身は肉ではない、鉄だ。アインツベルンは温かく柔らかな肉を造ることは出来ない。鉄の城から生み出されるのは、鈍色の冷たい鉄塊のみ。その頃には、母の記憶は失われかけていた。 そのまま、道具としてのみ機能していられれば果たして楽であったのかも知れない。なのに、錬鉄の翁は無情にもそれを告げた。 『お前の父、エミヤキリツグは生きている』、と。 父。知識でしか知らない単語。己にもそう呼べる存在がいたのだと、いて当たり前のはずのそれを認識するのに数日を要した。 抱かれた記憶もない。名を呼ばれた覚えもない。なのに、父。 『覚えていないのも無理はないな。あの男が出て行ってから随分と経つ』 そう言われて、摩耗されきった微かな記憶を辿る。散々弄り回された脳裏に薄ぼんやりと浮かぶ顔が、父のものであるという自信が持てない。そもそも、その記憶がイリヤスフィールのものであるのかユスティーツァのものであるのかがわからない。 頑ななまでに他者を受け入れようとしないアインツベルンが、悲願成就を懸けてその永き血筋に招き入れた異邦者。錬鉄の一族に新たに加わった彼もまた、鋼鉄の意志を持つ男だったのだという。 アインツベルンは、最強の魔術師であった彼に、最良のサーヴァントを用意した。 クラス・セイバー。その真名をアルトリア。 聖剣の担い手。悲劇の騎士王。 彼らは圧倒的な強さで聖杯戦争を勝ち進んだ。立ち塞がる者を打破し、逃げようとする者に容赦せず、冷酷さでもってこれらを殲滅した。 それは、一欠片の情も通わぬ主従の日々だったのだという。少なくとも、話に聞く限りでは父であった男は非情な者であり、一般的にそう呼ばれる存在とはかけ離れた人物であったようだ。 僅か二週間ばかりの戦争。鋼鉄の精神は他のあらゆる俗欲共を凌駕し、聖杯に王手をかけ、そして……それを破壊した。 他者を受け入れた屈辱。それを上回る裏切られた怨嗟。だが、それとても長き探究の前には些末事に過ぎない。アインツベルンは常に先を見る。過去の妄執に囚われながらも、その眸は常に遙かな到達点を夢想し続ける魔導の血。 『お前を捨てた父に、復讐したくはないか?』 だから、その翁の言葉が、少女を聖杯戦争へ駆り立てるための方便であることは明白だった。老人は復讐など考えてはいない。彼にとって、キリツグのことなどもはや眼中にはないのだ。優先すべきは、常に聖杯。第三へと至る道のみ。 それら全てを理解しながらも、 『復讐……したい』 イリヤはそう答えた。 有益か無益かを考える以前に、復讐心というものが果たしてどういった感情なのかを少女は知らない。真実は、ただの好奇心。生まれてからおそらくは初めて抱いた他者への興味。自分を捨てた父に会ってみたい、それだけだった。 靄のような記憶と、伝聞でカタチ作られた曖昧な父の肖像。 そして、父だけでなく、血の繋がらない兄弟がいることも彼女は教えられた。 兄なのか、弟なのかもわからない。そもそも、イリヤは自分の正確な年齢を知らない。と言うより、覚えていない。肉体からは既に成長という機能を奪われ、積み上げられてきた冬の聖女の記憶は、年月の感覚をも著しく浸食している。 ならば、気丈で理知的な姉として接してみるか。無邪気で幼気な妹として接してみるのもおもしろいかも知れない。 人の何たるかなど知らない。 父とその息子は、それを教えてくれるのだろうか? 再び時は流れ。 バーサーカーとの契約は、肉体に辛苦を与えるだけのものだった。 大聖杯を介さない、無理矢理の英霊召喚。膨大な魔力を全てその使役へと回せる回路、イリヤの肉体であっても、その負荷は相当なものであった。 憎しみ、蔑むという感情を知ったのは、その時。 自分に苦痛を与える存在を疎み、侮蔑した。愚鈍な従者を虐げ、嘲笑う。失われていたはずの自我が、歪に取り戻されていく感覚。 混乱をきたす。 自分は誰? イリヤスフィール。 イリヤスフィールとは誰? ユスティーツァクローン。 冬の聖女はその名に見合わぬ温かく優しい女性であったとか。ならば、自分も優しい存在であるのだろうか? それがわからない。聖女の記憶に意識を浸食されながらも、果たして自分がどういった存在であるのか、その答えは日をおうごとに遠ざかっていく。 ユスティーツァ・リズライヒ・フォン・アインツベルンであったならば、自分に傅く大英雄を斯様にぞんざいには扱わないのだろう。与えられたメイド達に無邪気に接するなどということもあり得まい。 模索する。 どれがイリヤスフィール? どうあるべきがイリヤスフィール? ただの道具であったならば……他者に対する興味など抱きさえしなければ、自己に対する興味もまた抱かずにすんだのだろうに。 イリヤは欲していた。見つからない自分を。故にバーサーカーと心を繋げたのかも知れない。 それはいつのことだったか。理性と共に自己を失った大英雄は、何処か自分と似ている事にふと気が付いた。道具として召喚、必要な力のみを与えられ、不要とされるものを全て奪われた伝説の男。彼を憎むことで取り戻されつつあった自我が、しかし彼を求めている。 冬の森で狂戦士の巨大な力に守られた時、イリヤはそれを確信した。 だから、か。 バーサーカーが自分を守り、強くあってくれるのならば、自分もまた望まれた聖杯としての役割を全うしよう。 そう、それこそがきっとイリヤスフィールなのだから。 父ではなく、鉄の城と狂戦士が教えてくれた在り方を、父とその息子に見せてやろう。 父の死を、その息子を名乗る少年の口から聞かされた時、自分の中で何かが崩れたような気がした。その時になって、ようやく靄がかかったようだった父の顔が思い出されていくこの皮肉。 少年の名はエミヤシロウ。血の繋がりは無いというのに、何処か思い出したばかりの父に似ているその優しい面差しを、殺したいとも、自分だけのものにしたいとも思った。 そして、セイバー。 彼女もまた、似ていた。 父に似た二人が、父の実の娘である自分の前に立つ。おもしろい。ならば思い知らせてやろう、自分とバーサーカーの力を。 バーサーカーは強い。当たり前だ。ただ強くあるために全てを失ったのだから。そんな彼が、マスターとして、聖杯としてのみ望まれ生み出された自分と組んでいるのだから、負けるはずがない。 バーサーカーの剛腕が振るわれる度に、セイバーの命が削られていく。 他愛もない。そんな様では、自分に教えられることなど何一つありはすまい。嬲り殺しにしてやる。切り刻んで、その身体をバーサーカーに犯し尽くさせてやる。 『セイバー!』 『!?』 その時、セイバーを庇って身を投げ出した士郎の姿が、酷く不快だった。 切嗣に似た少年が、切嗣に似た少女を身を挺して助ける。 何故? 自分は捨てられたのに。実の娘である自分は捨てられたのに、どうして彼らは、父と似ている彼らはお互いを捨てようとしない? その身を血に染めてまで、いったい何を望み、求めているというのか。 気持ちが悪い。 元より噛み合わない肉体と精神、自我と記憶がギリギリと嫌な音を立てる。 父は自分を捨てた。父に似ている少年は父に似ている少女を捨てない。それが果たしてどういうことなのか…… 結局、イリヤは彼らを見逃した。 もっと知りたいと思った。兄であり、弟である彼のことを。 姉のように導き、妹のように甘えながら、イリヤは士郎に接した。ただ、そうあろうと、思うがまま、あるがままに彼に接してみようと思った。 理知的な姉、無邪気な妹、そのどちらもがイリヤスフィール。 鋭利な殺意、仄かな慕情、そのどちらもがイリヤスフィール。 崩れ去りながら構築され、築き上げながら瓦解していくたくさんの自分。しかし、そのどれもが本来の自分の姿であると言うことを士郎は理解してくれただろうか? 彼を殺したいと思いながらも、どうして欲し求めるのか。自分は矛盾だらけで、途方もなく歪な存在だ。やはり、道具は自我など持つべきではなかった。忘我の大英雄の主たる自分もまた、自己などと言うものを持たず目的完遂のための道具としてのみ動くべきであったのかも知れない。 ああ、それでも――士郎の手も、言葉も、笑顔も温かい。 そう感じる感情こそが、きっと“好き”と呼ばれるものなのだろうと知った時、久しく忘れていた母の笑顔を思い出していた。 最強たるバーサーカー。十二の試練にも耐えうるまさしく不死身の肉体が、光り輝く刃に斬り裂かれ、灰となっていく。歪な主を愚直に護り、滅び行くその瞳はあるはずのない理性の火を灯していた。 彼の自我などとうに失われていたはずなのに。 自分は、憎まれて当然の存在だったというのに。 それでも、大英雄は口の端を僅かに歪め、微笑んでいた。今にして思えば、少女に向けられたその顔は、『彼らなら、大丈夫だろう』と、そう告げていたのかも知れない。 常に案じてくれていた。その巨躯で、言葉を発することもかなわぬ身で彼は守り続けていてくれたのだ。 改めてそう思った瞬間、涙が溢れた。 次の瞬間にも、自分はセイバーに斬られ死ぬのだろう。だが、せめてそれまでの数瞬の間だけでも、彼のために泣きたかった。ギチギチと音を立て、噛み合わずにいた全ての歯車が、その時だけは綺麗に噛み合っていた。 士郎は自分を殺さなかった。 見極めたいと思った。 父と同じ理想を追い求めているのだという衛宮士郎を。彼を見極めることで、曖昧な父の肖像が完成するのではないかとも思えた。 それに何よりも、自分は彼のことを慕っている。セイバーのことも、凛のことも好きなようだ。 マスターという役目から解き放たれた自分に、残されているのは器としての役目のみ。その役目を果たすために、人としての機能は次々と失われていっているのに、彼らと共にいる自分が今までで最も人間らしい気がした。 残された時間は少ない。聖杯になろうとなるまいと、自分に待っているのは確実な終焉だ。 父が暮らした家を見る。 父が見ていた風景を見る。 父が逝った縁側で、空を見上げた。何処までも透き通るように蒼いその空は、鉄の城の窓から見る灰色の空と繋がっているなんて、嘘みたいだった。 そして、結局イリヤは士郎に救われた。 聖杯は破壊された。金色の英雄王も、父を死に追いやった神父も倒れ、冬木市は表向き平穏を取り戻した。士郎が愛した騎士王も、消えた。 彼の心の痛みがわかる。かつての自分にはけしてわからなかったであろうものが、今ならばわかる。マスターでもなければ、聖杯でもユスティーツァでもない。今の自分は、ただのイリヤスフィール。 記憶の中の父の肖像が、完成していた。 聖杯戦争が終わり、しばらく経った晩冬の夜。 セイバーに別れを告げ、遙か遠き夜空を見つめる士郎の姿こそが、きっと自分が追い求め続け、欲し望んでいた父の姿であった。 強くなんてない。ただ、それでも進むしかない、そんな生き方しか出来ない正義の味方。 ああ、だからこんなにも嬉しく、そして哀しいのか。 彼らの理想に、生は苦痛しか与えてはくれない。生きること自体が既に絶望、故に彼らは尊かった。 イリヤスフィールに最後に足りなかったもの、生への渇望はこうして得られた。 彼らのように、全ての人々を守りたいなどとは思わない。 ただ、士郎の心を守りたいと思った。自分が生き長らえることで、彼の心を守り続けよう、ただのイリヤを愛してくれる全ての人達の心を守り続けよう。 『リン、頼みがあるの』 『……なに?』 『わたしを、生き延びさせて』 難しい、とも、痛みも苦しみも尋常ではない、とも言われた。 それでもイリヤは延命を望んだ。 守るために生きよう。何故なら、自分はバーサーカーのマスターで、衛宮切嗣の娘で、衛宮士郎の姉であり妹であるのだから。 彼らに出来たことが出来ない道理はない。 それまで自分を蝕んできたユスティーツァの記憶が、ただの軌跡と化していく。 そう、自分はただのイリヤスフィール。 人の何たるかなど知らない。 全ての答えなどいまだ出てはいない。でも、答えの片鱗は得た。 鉄色の冬が、ようやく明けた気がした。
|
〜end〜 |