それはとても綺麗なものだった。
 尊い想いだった。
 切なる願いだった。

 だから誰も憎めない。
 だから誰も恨めない。

 たとえこの身を、魂を形作る全てが闇色の呪詛であったとしても、どうして悪意でもってあらゆる愛しきものを憎恨で染め抜かねばならぬのか。
 ああ、しかし悲しい程にそれが求め望まれし存在。

 求め望みしその心は、清廉にして潔白。
 なれど求め望まれたものは穢れし極黒。

 それを自ら理解するが故に混沌。
 清らかなる汚濁は蝕みて浄化する。美しき醜悪。醜き美徳。相対し、矛盾し、されど共に相生内包されなければ赦されぬ哀れ。

 涙が頬を伝う。
 苦痛によるものか、快楽によるものか。
 だが真実はただただ悲哀。同情に非ず。憐憫に非ず。
 その雫は穢れなき純心によるもの。

 慟哭は何処へ向かい果つるのか。
 悲泣は何処へ流れる落ちるのか。

 安らぎを求めることすら罪業であっても、されどこの魂に赦しを。
 そう願う己の心が、さらなる辛苦となりてこの身を蝕もうとも、その程度の痛痒、如何ほどのものか。
 祈ろうせめて。願おうせめて。
 万感の想いと共に、少女の頬を再び涙が伝った。





















Turning Fate/The end for beginning



episode-10
〜そして、始まる〜


◆    ◆    ◆





 目も眩む程の光の中で、しかし不思議なことに瞳には相手の挙動の全てが映る。
 聖剣の一振りと、長刀の魔技。雌雄を決すべく放たれたそれは同時。
 単純な威力は聖剣が遙かに上。全てを斬り裂く光の刃に断てぬもの無し。
 しかし、速度、遣い手の技量は圧倒的に勝る魔剣。その刀身は一にして三。二の太刀でも三の太刀でもなく、いずれもが一の太刀。
 その生涯を剣に捧げた魔剣の遣い手は、己の究極に一抹の不安すら抱いてはいない。この剣、負けるはず無し。
 三本の同一同時存在は、本来なら相手を囲うように放たれる檻だ。だが、正面から全力で斬りかかってくる相手に対し本来の用途は不要。
 聖剣の破壊力、それを実際に目にしたわけではないが、この触れただけで魂まで蒸発しそうな闘気―― 一刀で受けきるは不可能と見た。
 三本の内、二本を使って聖剣を受けきる。魔力など通わぬ鋼鉄とは言え、振り切られる前であれば聖剣の実体を捉えきれるはず。衛宮士郎の魔術が如何なるものなのかはわからないが、この身に宿る知識に依るならば、この世界変容は固有結界と呼ばれる禁忌の大魔術なのだろう。その結果、彼の手に握られた聖剣が果たしてどれだけの強度を有することになったのか……しかし二刀を全く同じ箇所に叩き込めばその刀身を受ける、否、断つ自信はある。ならば速度に勝る自分の有利は揺らがない。
 勝てる。
 否、勝つ。
 全てを懸けて戦うべき相手は、全てを懸けて挑み来る者。そう誓ってきた。そう願ってきた。だからこれは至上の歓喜。これほどの果たし合いで掴み取る勝利だからこそ意味がある。価値がある。
 なるほど、衛宮士郎は英雄達と比べればその実力は何ともちっぽけだ。だがその心根の何処に劣る部分があろう。
 この戦いの最中、徐々に自分に近付いてくる彼の成長のなんと素晴らしかったことか。打ち上がったばかりの剣は、闘争に研ぎ澄まされることでその斬れ味を増し続けていった。
 満たされぬ飢餓が、ようやく満たされる時が来たことをアサシンは確信していた。
 いざ、放とう。我が究極を全霊をもって。
 巌流、それは夢か幻か。強者を求める人の思念が生み出した淡い幻想、しかしそんなことは今や何の関係もない。
 これは夢でも幻でもない、現の刃。剣霊の辿り着いた境地。
 その技の名は――



    ひ  け  ん
「――“秘剣”――」



 アサシンの刃が士郎の周囲に巻いていた風を斬り裂く。
 不可避の必殺剣。奪命を義務づけられたその魔技に対し、不思議と恐怖はなかった。いや、不思議でも何でもないのか。何故なら、手にはしっかりと彼女が握られているのだから。
 最強だ。
 今、自分が全力で振り抜こうとしているこの聖剣は、間違いなく最強だ。
 それは事実。曲げようのない真実。疑う余地などありはしない。この剣に敗北はありえない。その勝利は誰かが約束してくれたものではない。ただ彼女に誓った絶対なる勝利。
 この想いに、一片の迷い無し。
 さぁ、放とう。最強のその一撃を。



         エ   ク   ス
「――“彼の人に誓いし”――」



 黄金の丘に、風が舞う。
 凛は見た。
 イリヤは見た。
 丘の上に立つ、剣と剣。その魂の鬩ぎ合いを。一瞬の永遠、刹那の永劫を。
 輝きの中を、三本の軌跡が奔る。人智を超え、魔法にまで達した驚愕の秘剣が閃き、内の二本が光すらも断ちながら士郎の身体――いや、彼が手にした聖剣へと迫る。そうして残る一振りが狙うは、まさしく士郎の首。
 それでも士郎は揺らがない。ただ振るう。小手先の技術、それどころか回避や防御まで不要とばかりに愚直な――生き様。



    つ ば め が え し
「――“燕返し”――!!」

   カ   リ   バ   ー              
「――“勝利の剣”――――!!」



 光が弾ける。
 黄金の奔流が爆散していく。
 その荒れ狂う闘気の烈風に耐えきれなくなったのか、世界が悲鳴を上げている。
 決着は、ついたはず。舞い上がった砂埃に覆われて見えないが、今の瞬間、間違いなくどちらかは果てた。
 次第に視界が晴れていく。勝利したのは、どちらの剣か。
 凛とイリヤが見守る先、丘の上には……まだ、二人の影がしっかと立っていた。





◆    ◆    ◆






 固有結界“単一剣製”が、音もなく元の世界へと還元していく。
 風が吹いた、かと思えば、そこはもう大空洞の広間。淀んだ空気が立ち込める地の底の世界。
「いやはや。この薄暗い穴蔵があの眩い世界に変容するとは、まさしく奇跡よな」
 されど侍が纏う空気は清流。その顔に浮かぶ笑みは変わらず優美。
 アサシンは立っていた。悠然と、いつものように。
 その全身が鮮血にまみれようとも、彼の風雅は崩れない。
「……アサ、シン……」
 向かい合う士郎も満身創痍。その手には既に聖剣はなく、貴聖石が鈍い光を放つばかりだ。
 凛とイリヤが駆け寄り、両側からその身体を支える。それでも士郎の視線はアサシンへと向けられたままだった。
「そんな目はするな、衛宮よ。おまえの剣は真実見事だったのだ。ならば誇れ。胸を張れ。でなくば敗けた私の立つ瀬がないではないか。ん?」
 その言葉に、士郎が僅かに俯く。
「でも……あんたがあの蟲爺の走狗と化してまで果たしたかったのは、本物との心ゆくまでの勝負だったんだろう? なのに……俺の魔術は、所詮は本物を真似ただけの紛い物だ――」
「……くっくっく。何を言うかと思えば。真贋を問うなら、そもそも私自身が紛い物。佐々木小次郎という架空の剣豪の殻を被った名も無き剣霊よ。それに、おまえの技ははけして紛い物などではなかった。斬られた本人が言っているのだから、間違いはない」
 アサシンの右腕は、何故繋がっているのか不思議なくらい、あと少し力をかければ間違いなく千切れ落ちるような状態だった。それでも手の中には随分と短くなってしまった愛刀がしっかりと握られている。
「でも……この貴聖石が無ければそれすらも出来なかったのに……」
「おまえは魔術師で、私は剣士だ。ならばその石は卑怯でも何でもあるまい? おまえも私も、ただ一つの想いを胸に戦った。事の真贋を決めるのは、即ちそこだ。……違うか?」
 そう言ったアサシンの目は、それ以上何も言うなと静かに告げていた。
 なるほど。確かに贋物同士の他愛もない戯れ事だったのかも知れない。だが戦った二人にとって、この死闘は紛れもなく真実。見守り続けた凛とイリヤにもその事はよくわかっている。
「……それにしても、よもや三本全てを砕かれるとは。読み違えたわ」



 光の中で、アサシンの剣は確実に聖剣を捉えていた。
 初撃、最も短い円を描いて放たれた一本目が聖剣に砕かれるであろうことは予測済み。投影された紛い物であろうとも、世界を変容させてまで放たれた一撃、容易く受けられようとは思っていない。一本目を捨てて二本目で聖剣を断てればそれでいい。
 手応えはあった。一本目は確実に聖剣の刀身に致命的なダメージを与えて砕け散った。そこと寸分違わぬ箇所に打ち込んでやれば、勝敗は決する。
 そして、二本目。聖剣を断つに充分な威力を秘めたそれが、初撃と全く同じ箇所へと振るわれる。
 その時点で、アサシンは勝利を確信していた。残る三本目は確実に衛宮士郎の首をはね飛ばす。バーサーカーの肉体ならば兎も角、生身の人間の首をはねるなど何ら難しいことはない。
 ――と。剣と剣が触れ合った瞬間、剣士の研ぎ澄まされた超感覚はその違和感に戸惑いを覚え、そして驚愕した。
 おかしい。
 そんなはずはない。
 確かに与えた、与えたのだ。
 初撃は、確実に聖剣の刀身に致命的なダメージを与えてから砕け散った。
 だと言うのに、触れあった瞬間感じた聖剣の強度は紛れもなく初撃の際のそれと同じ、なんらダメージを負っていない荘厳たる金色の剣。
 馬鹿な――
 同時。連続攻撃どころではない、その差は刹那よりも短いもの。連続投影? 刀身の自己修復? そんな間など、無い。与えてやしない。
 しかし現実に聖剣は完調。そして完璧な状態であるのなら、アサシンの一撃はその一撃の前に砕け散る運命。
 砕け散る二本目の物干し竿。
 必勝の二撃目は、かくして初撃と運命を共にした。
 そして、三本目。衛宮士郎の命脈を絶つべく一際大きく振るってしまった致命の斬撃は、今さらその軌道を変更することなど出来ないまさに渾身の一刀。
 届くか?
 果たして聖剣が振り下ろされるよりも前に、目前の少年の首をはねる事が……
 考えるだけ、無駄なこと。わかっている。他の誰でもない、己の剣。その速度の限界など、とうに見極めている。だが、それでも……諦めることは全力で挑んできた彼の者への最大の侮辱。
 ならば振り抜こう。たとえ途中で砕かれようとも、この身が両断されようとも、せめてこの一撃は、最後まで――



「固有結界……“単一剣製”と言ったか。まさしく最強の剣よ。まさか、あの世界そのものが一振りの剣であったとはな」
 そう言って、かんらかんらと笑う侍。口からこぼれ出る血などまるで意に介さぬかのように。
 アサシンのその言葉に、凛はようやく得心がいったかのように呟いた。
「そう、か。あの世界、固有結界“単一剣製”は、セイバーという唯一にして最強の一振りを想う心象……だから、あの中で投影された聖剣はけして砕けない……」
 そんな凛の言葉に、しかし士郎は何も答えられない。本人でさえあの魔術の本質を明確に掴んではいなかったのだから、当然のことだ。ただ、心の赴くままに使っただけなのだから、理屈など解してはいない。
「でも、シロウ、本当に全然不安なんて無かったの?」
 聖剣を、セイバーを信じるが故にけして砕けることのない剣の世界。しかしそれは言うほど簡単なものではないはずだ。ほんの僅かな、針で空けた穴のような疑念や不安があろうものなら、その時点で剣も世界も粉々に吹き飛んでいたのだろうから。
 だがそんなイリヤの言葉に、士郎は静かに首を横に振った。
「……不安なんて、あるわけないさ」
 そう、あるはずがない。だから迷うことなく全力で振り抜いた、それだけのこと。
 と、安堵したのか不意に士郎の全身から力が抜ける。
「きゃっ! ……ちょ、士郎?」
「わ、悪い……もう大丈夫だ」
 しかしどんなに強がって四肢に力を込めようとも、士郎の身体は既に立ち上がれない程に消耗しきっていた。これはもはや彼お得意の意地や根性を用いてもどうにかなるレベルではない。
「俺は大丈夫だから、急がないと……」
「……シロウ」
 なおも無理して立とうとする士郎の目を、イリヤの紅眼が射抜く。
「ッ! イリ……ヤ……?」
 抵抗は一瞬。途端、その頭がカクンと垂れる。
「魔眼、使ったの?」
「うん。このくらいなら、今のわたしでもなんとかなるもの」
 昨夜、必死に開いた魔術回路でなんとか行使することが可能になった幾つかの魔術。効果はいまだ微弱でも、疲れ切った士郎相手なら充分だった。
「ふ……大したものだ」
 そこまで言って、アサシンの身体がようやく蹌踉めく。この出血と損傷は、亡霊と言っても肉体がある以上は致命傷だ。
「……アサシン」
「さぁ、行け。この先に、魔術師殿と娘はいる」
 それでも侍の言葉には淀みがない。苦痛を誰かに晒すなど、そのような風流に欠ける行為は死んでも御免こうむるとでも言いたげに、アサシンは涼しげに微笑んだ。
 士郎は決着をつけた。ならば、ここから先は正真正銘遠坂とアインツベルン、そしてマキリの問題。
「シロウ、待っててね」
 近くの、なるべく平らな地面に士郎を横たえ、凛が聖石を用いて結界を張る。桜の時の教訓をもとに、遮断力だけは強力なものを張ったので、使い魔程度なら手出しは出来ないはずだ。
 これでいい。後は、行くだけ。
 ……その前に、
「わたし達の邪魔は、しなくていいの?」
 無言で立つアサシンに、凛が問うた。
 既に死に体とは言え、アサシンの力ならそれでも女二人を殺すことくらい造作もないはず。だが――
「ふふ。わかりきったことを、聞くものではないな」
 元より殺気など微塵も感じさせずに剣を振るうアサシンではあったが、今の彼に戦意がないことなど誰の目にも明らかであった。
「そうね、悪かったわ」
 そう答える顔には、やや意地の悪い、しかしどこか親しみの籠もった笑みが浮かんでいる。
「……やれやれ。私も、おぬし達や衛宮のような者に召喚されていればな。この俗世をもっと楽しめたやも知れぬと言うのに……まったくままならぬものよ」
 涼しげではない、満ち足りた顔でアサシンは笑って言った。胸の空くような、心底気持ちのいい笑顔だった。
「じゃあね、アサシン」
「……バイバイ」
 敵であった男に告げる、簡単な別れの言葉。
 そうして後、少女達の足音が次第に遠ざかっていく。
「……かなわぬ、なぁ」
 侍は天井を見上げ、そう呟いた。





◆    ◆    ◆





「……」
 走りながら振り向いた視線の先には、既にアサシンの姿は見えない。
 イリヤは、あの流麗な侍が嫌いではなかった。自分以外にバーサーカーのことを気にかけてくれていた数少ない人物。出来ればもう少し話をしてみたかった気もする。しかし今はそのような感傷に浸っている暇はない。
 桜を救い出し、臓硯と決着をつける。
 それは御三家の一角、アインツベルンの者としての使命感などではない。大切な人達を守るための、イリヤスフィールの戦いだ。
「イリヤ、大丈夫?」
「ん、ダイジョーブよ。これでも半年間タイガと暮らしてたんだからね。駆けっこなんて……日常茶飯事、よ」
 本当は既に脇腹が痛い。まだ先は長いというのに、体力のない小さな身体が恨めしい。
 かつての自分なら、このような疲労を強いてまで肉体や精神に負荷をかけるなど馬鹿馬鹿しいとしか思わなかっただろう。けれども、今は違う。
 士郎は想いを貫いた。
 凛も想いを貫こうとしている。
 なら、自分がどうすべきかなんて簡単だ。
「……わたし、は……シロウの……妹で、お姉ちゃんなんだから……!」
 空気の淀みが増してくる。目的地は、近い。
 かつて我が身を蝕んだユスティーツァの記憶が告げる、大聖杯の在りか。
 クローンである自分のオリジナルが眠る場所。冬の聖女の墓所。
 通路の幅が徐々に広まってくる。
 先行する凛が不意に立ち止まった。胃液が逆流しそうになる程の障気が吹き抜けていくのがわかる。
「此処が……聖杯システムの中枢」
 続いてイリヤも立ち止まる。
 そこは、まるで祭壇だった。
 揺れる炎は天井を焦がし、邪悪な儀式を紅く照らす。
 無数の人々の願望を呑み込み、この世界と根源とを繋ぐ大魔法陣、天の杯。
 冬木の聖杯戦争、その始まりの地。
 偉大なる大魔術師達が遺した遺産。そのためにかつては命を懸けて戦ったというのに、二人の心には何の感動もなかった。今のこの場所は、禍々しい悪念に充ち満ちている。
「カッカッカ。よもやここまで辿り着くとは……思いもよらなんだぞ、遠坂の娘、そしてアインツベルンの器よ」
 小山のように盛り上がった、巨石の上。腐蟲の翁はそこに立ち、心底愉快そうに二人を見下ろしていた。
「はッ! 蟲で見張ってたくせに、よく言うわね白々しい。それとも痴呆で脳味噌飛んじゃった? いい老人ホームでも紹介しましょうか間桐臓硯老?」
 重苦しい障気を消し飛ばすかのように、凛の毒舌が大空洞内に響き渡る。
「ふむ。あの剣霊を超えてきただけのことはあるの。まったく、昨夜も思ったが本当に桜の姉とは思えぬ胆力、心力よ……ぬぅ!」
 その言葉を遮って、凛の魔弾が臓硯の足下を射抜いた。教会で洗礼を受けた聖石の力を借りた魔弾、中れば臓硯の腐り果てた魂ごと消し飛ばす。
「言ったでしょう、間桐臓硯」
 掲げたその右手には、聖石が四つ。
「アンタのような下衆が、桜の……可愛い妹の名前を口にするなって」
 これだけの魔力があれば、凛が繰り出せる最大威力の魔弾も撃つ事が出来る。さらにポケットにはまだ聖石数個と結構な数の魔晶石がストックされており、老人の醜悪な矮躯など微塵も残さず滅却することが可能だろう。
 だと言うのに、老人はその余裕を崩さない。凛の魔弾を防ぎきるなど、いかに間桐臓硯でもそう容易くできるはずはないと言うのに。
 最強の手駒たるアサシンを失い、一体この余裕は何処からくるのか。
「……しかし、もう少し注意深く周囲に気を配った方がよいぞ」
「!?」
 瞬間、身の毛もよだつ数の蟲が、岩陰、天井からドッと湧き出し二人に殺到する。そのいずれもが50cmくらいはありそうな、ムカデやサソリに似た醜悪な毒蟲。
「老人からの忠告じゃ。前ばかり見ていると、こうなる。もっとも、今さら後悔しても遅いがのぉ……ふぇっふぇっふぇ……」
 次から次へと湧いて出る、蟲の波。臓硯自らが侵入者撃退用に作り上げた傑作、その殺傷能力は折紙付きだ。
 毒液を撒き散らし、生きた人間、特に若い娘の肉を好む食人蟲に不意打ちで集られては、どんな優れた魔術師でも十秒と経たずに骨しか残らない。
「存外に呆気なかったな。ふぇっふぇっふぇ……ふ、ふぇ?」
 臓硯の笑いが、止まる。
「やっぱり相当重症ね、あんたの痴呆」
 毒蟲の群れは、一匹たりとも凛とイリヤの身体には触れてすらいなかった。
「わたし如き小娘の障壁に気付かないだなんて、明らかにボケよ」
 ポケットに突っ込んだままの左手は、そのまま聖石へと添えられて障壁を展開している。
「普段はケチだなんだと言われてるわたしだけど、今回ばかりはこれっぽっちも出し惜しむ気はないの」
 アベレージ・ワン――五大元素を使い、聖杯戦争を勝ち抜くために攻性魔術と防御魔術をその並はずれた才能を基に鍛え上げてきた半生。一度に行使できる魔力の絶対量は五百年を生き抜いてきた魔術翁にすら劣らない。
「こ、小娘風情が! 図に乗りおって!」
 臓硯の指令を受け、さらなる数の蟲が殺到する。が――
「……無駄よ」
 魔晶石、二つ使用。広域衝撃波と化した魔力が周囲の蟲を薙ぎ払う。
 確かに魔術師としての総合力で言えば、凛は臓硯にはかなわない。しかし老人の魔術はあくまで戦闘のためのそれではなく、生き長らえるために特化したもの。正面から戦って凛が劣る要素は、無い。
「アサシンをあてにしすぎたわね。使い魔を使役することで実力を発揮するのが間桐の魔術。でも、こんな蟲程度じゃわたしは殺せないわよ?」
「ぐ、ぬぅ」
 己の圧倒的不利を悟ったのか、臓硯が踵を返す。
 蟲を蹴散らしながら、凛とイリヤもその後を追った。





◆    ◆    ◆





 巨石の上に刻まれた、巨大な魔法陣。
 人間サイズの蟷螂のような蟲を五匹程前方に配置し、歯噛みする臓硯。その後方で胎動するものは、果たして如何なる邪悪なのか。
「ク、クカカ。どちらにしろ、もう間もなく全ては完了する」
 その表情に、もはや余裕はない。そして、その矮躯のさらに後ろには……
「……桜!」
「……姉、さん……」
 全身を黒く細い鎖で幾重にも縛られ、桜はいた。
 顔面は蒼白。滴る汗でその足下には水溜まりが出来ている。苦痛に喘ぐ妹の姿に、凛は思わず激しそうになるのを堪え、臓硯を睨み据えた。
 桜の身体からは、溢れんばかりの魔力が感じられる。そこに漂う悪意の正体を、凛は知らない。イリヤは知る。
“この世全ての悪”として望まれた存在。極黒、復讐者アンリ・マユ。
「桜の身体も、意識も、呑み込まれて聖杯は完成する。その肉体も、魂も永遠のものとなりて、ワシが貰い受ける……悲願の成就は近いのじゃ。邪魔は、させぬ!」
 臓硯の言葉とともに、大蟷螂の鋭い鎌が風を切って迫る。
「無駄だって、言ってるでしょうが!」
 そんな攻撃をものともせずに、凛の魔弾は蟲の身体を容易く貫いた。その途端、大蟷螂の躯が無数の小さな羽蟲となって凛とイリヤに迫る。
「邪魔はさせぬ! させぬとも! ワシは、ワシは求め続けたのだ。同胞達の死を乗り越え、この二百年、暗い穴蔵の中でこの時を待ち続けたのだ! ワシは永遠を手に入れる。必ず、必ずだ!」
 狂っている。
 この老魔術師は、間違いなく狂っている。
 哄笑し、蟲を操る臓硯の姿のなんと醜いことか。その様、ただひたすらに哀れ。
 滅ぼさなければならない、この害蟲を。それは自分の務め、冬木の管理者であり、自らの意志で魔術師として生きることを誓った遠坂凛の責務。
「……桜」
「……?」
 障壁で羽蟲を防ぎながら、姉は妹の目をジッと見据え、ただ一言。
「助けは……いる?」
 そう、尋ねた。
 助けが必要なら、手は差し出す。今度こそ、全力で妹のことを救ってみせる。手を伸ばされたなら、掴んで絶対にはなさない。
 だから――『助けは、必要か?』と、凛はそう尋ねているのだ。
「……ぐ、んあ……!」
 ずっと、ずっと見ていた。貰ったリボンは宝物。想い出は闇を照らす光。かけられた言葉は宝石よりも価値がある。
 助けて欲しかった。伸ばした手を掴んで欲しかった。暗い穴蔵から引き上げてくれる日を夢見てきた。
 でも――
「……大、丈夫……です……」
 必要ない。
 その目。その想い。十一年の時を経て繋がった姉妹の絆、それだけで充分。
 負けない。負けてなんていられない。
 ようやく手に入れた、取り戻した、始まったばかりの姉妹なのだから。
 今の自分には、帰るべき場所がある。待ってくれている人達がいる。
 だから、負けるはずがない。一人でだって、絶対に大丈夫。
「……わかった」
 妹の答えに、姉はいつもの強気な笑みで応えた。
 桜は間桐桜としての戦いを。ならば、自分も遠坂凛としての戦いを。
「イリヤ、全力でいくわ。伏せてた方がいいわよ」
 言い終わるよりも前に、魔力の高まりを感じてイリヤが小さな身体を丸める。
 視界を覆い尽くさんとする羽蟲どもへ向け、出し惜しみのない広域魔力照射。持ってきた魔晶石と聖石は、この戦いで全て使い切る。そして、間桐臓硯という腐り果てた魔術師を、魔術師のルールに則って、殺し尽くす。
「弟子と妹に、後れなんてとってられないのよ!」
 荒れ狂う暴風の魔術に、加え放つ氷の礫。切り裂く氷風が蟲を散らし、臓硯の肉体をも微塵にせんと迫る。
「ぐぅうあぁ小娘がぁ! そうまでして、そうまでしてワシの邪魔をしたいのかァ!!」
 臓硯の張った強固な障壁が、しかし凛の聖石と魔晶石の魔力を上乗せした全力の前には破れ去るのは時間の問題。
 死ぬ。死んでしまう。
 甘く見すぎていた。遠坂の跡取りといえども所詮は小娘とタカをくくっていた。だがこの娘は侮れない。この仮初めの肉体は容易く滅ぼされる。そうなっては、本体に意識を移し替えるのに時間がかかってしまう。間桐臓硯の意識は、今はこの肉体を操ることに専従しているのだ。時間を、時間を稼がなければ。本体へと意識を帰し、いやその前に桜とアンリ・マユとの融合を――
「桜ぁッ!!」
「ひぃぐあァあッ!!!」
 伸ばした右腕から放たれる、強制の魔術。桜の意識抵抗を奪い、一刻も早く同化を促しその魂と肉体を奪わなければ、臓硯に勝利はない。
 元より戒めや強制は間桐――マキリが最も得意とするところ。
 桜の身体には、聖杯の、根源から溢れる魔力が満ちている。その力さえ手に入れれば、小娘が何人いようと敵ではない。
「臓硯!!」
 間に合うか? 凛はさらに魔晶石を上乗せした。自分が一度に行使できる、本当に限界ギリギリ、いや微妙にその限界を超えた量の魔力で臓硯を、臓硯を――
「……か、勝ったぞ!」
 だが、臓硯が桜の意識を刈り取る方が若干早い。このままでは、負ける――
「……やれやれ。まったく雅に欠ける御老だ」
「……え?」
「……な!」
 その一瞬、時が止まった。
 驚愕と驚愕。疑問と疑問。
 揺らめく炎と吹き荒れる魔力の光を弾く、魔剣の閃き。
 五尺余の長刀は、折れ、一尺にも満たない長さとなりながらも、老人の枯れ木のような右腕を斬り飛ばしていた。





◆    ◆    ◆





「うぅぎゃああああああああ!!」
 臓硯の絶叫が響き渡る。しかし、斬り飛ばされた右腕の断面からは血の一滴も流れ出ない。カサカサに渇いた、それは本当に枯れ木のようで……
「おぉのれアサシン! う、裏切るかぁ!?」
 投げかけられる怨嗟の声に、しかし侍は顔色一つ変えず、
「遠坂凛、その御老の右腕、急ぎ消し飛ばせ!」
 そう言を飛ばした。
「なぁ!?」
 不覚。なんたる不覚。
 監視用に放った蟲から届けられる映像。士郎に敗北し、霧のように消えたその姿を見たことでアサシンは死んだものと、少なくとももはや限界する力は失ったものとばかりに思い込んでいた。右腕の令呪もどうせすぐに、彼と現世との繋がりが絶たれれば即座に消え去るだろうと……それが、まさか。
「こ、こうなったら令呪で――!」
 臓硯の肉体は無数の蟲が構成する虚ろ。たとえ斬り飛ばされても令呪を行使することぐらいは可能だ。
 ならば、令呪に命じて邪魔者共の始末を、そしてその後で自害させれば……
「させるかぁ!」
 だが、それよりも一足早く、凛の魔弾が臓硯の右腕ごと令呪を完全に消し飛ばす。
 マスターとの繋がりを失い、アサシンの身体がグラリ、と傾く。
「き、きき、貴様ら、貴様らぁ!!」
 万策の尽きた臓硯が、これ以上ない程の憎しみと怒りを込めた視線で凛とアサシンを射抜く。しかしそれに何の意味があろう。
「……チェックメイトよ、間桐臓硯」
 残る全ての聖石、その数は三つ。洗礼を受けた対霊魔力を練り上げ、一時的な聖魔術として行使する。
 外さない。必殺、必中、必滅の一撃を。

     狙え     一斉射撃
「Fixierung,EileSalve――――!!」

 魂すらも無に帰す浄化と破壊の一撃が、間桐臓硯の身体を貫き、剔り、粉々に吹き飛ばし……そして消滅させる。
 断末魔の悲鳴すら許さない。大地に還ることすら許さない。
 殺し尽くす。滅ぼし尽くす。その邪悪な魂、欠片も残さない。
 そうして聖なる魔力がおさまった頃。間桐臓硯は、間桐臓硯だったものは、消えていた。塵も、影も残さずに。
「桜!」
 だがそんなことはもはやどうでもいい。
 凛はぐったりと項垂れる桜のもとへと駆け寄り、彼女の身体を戒める黒い鎖を魔術でもって断ち切った。途端、その身体が姉の胸へと倒れ込む。
「桜、桜!」
 呼吸は……荒いが、ある。心臓も早鐘のように鳴っている。
 問題なのは、その意識が果たして桜のままなのかどうかということ。それ次第では、凛は彼女を手にかけなければならないかも知れない。
 桜の目が、うっすらと開かれる。
 凛は、祈りを込めて妹の目覚めを見守った。
「……」
「……桜、なの?」
 ぼんやりと、虚空を見つめる暗い瞳。それが、次第に光を取り戻し、泣き出しそうな凛の顔を見やる。そして、その唇が弱々しく開き、
「……姉さんも、泣くことって、あるんですね」
 そんなことを言って、ニコリ、と歪められた。
「……バカ。そりゃ、わたしだって泣くことくらい、あるわよ」
 桜を抱きとめていた腕に、力がこもる。それまで力無く垂れ下がっていた桜の腕も、凛を抱き返した。
「……ただいま、姉さん」
「……おかえり、桜」
 互いの身体にしがみつくように抱き合いながら、姉妹は喜びの涙を流した。



「ふ、ふ……美しい花には、やはり笑顔が似合う」
 アサシンの身体は、既に消えかかっていた。その腕も、脚も、雅な陣羽織も、あらゆるものが薄れ消え去ろうとしている。
 全ては幻であったかのように、夢であったかのように。
「……アサシン」
 消えゆく侍の前に、いつの間にかイリヤが立っていた。
「イリヤスフィールか。……一つ、頼みがある」
「なに?」
「衛宮士郎に、伝えて欲しいことがあるのだ」
 そう言って、アサシンは今にも倒れそうな全身を奮い立たせ、いつもの悠然としたたたずまいに居直ると、
「……柳洞、無明……」
 自らの、本当の名前を告げた。
「柳洞無明。私の名だ。それを、衛宮へ伝えて欲しい」
 自分の名前など、忘れかけていた。英霊、佐々木小次郎として召喚された際に流れ込んできた知識の波に流され、柳洞無明は本当に無名となりかけていた。
 思い出せたのは、士郎のおかげだ。一人の人間、衛宮士郎との戦いのおかげで、自分もまた一人の人間、柳洞無明であったことをはっきりと思い出せた。
「リュウドウ、ムミョウ……わかった、絶対に伝える」
 イリヤの返事に、無明は満足げに頷く。
 その真名は、佐々木小次郎に非ず。
 侍の身体が、まるで初めからそこには何もなかったかのようにかき消える。しかしそれは夢でも幻でもない。流麗にして風雅な現実。
 男の名は無明。
 無明であり、無名でもある。
 その生涯は、まさしく剣に捧げたもの。
「ありがとう、ムミョウ」
 人々が知らずとも、紛れもなく英雄。
 英霊、柳洞無明。
 イリヤは、その名前をけして忘れぬよう、心に刻みつけた。



「サクラ!」
 凛に肩を借りて、よろよろと立ち上がった桜に、イリヤの小さな身体があくまで負担にならないよう、軽く抱きつく。
「イリヤちゃんも……ありがとう。ごめんね」
「謝ることないよ。それに、もしさらわれたのがわたしだったら、サクラも助けに来てくれたでしょ?」
 イリヤの言葉に、一度は引っ込んだ涙がもう一度溢れ出す。
 自分達は、同じく聖杯の器として用意された人形だった。でも、違う。
 蹌踉めきそうになる桜の身体を、イリヤも一緒になって支える。誰一人欠けることなく、これはまさしく完全勝利と呼べるだろう。帰ったら、ひとまずはお風呂に入ってその後ゆっくりと身体を休め、御馳走を作ってお祝いしたい。士郎も、きっと賛成してくれるはずだ。
 ……けれども、帰る前にまだやらなければならないことが残されている。
 その始末をつけなければ、まだ、帰れない。
 凛の顔が、魔術師としてのものに変わる。
「……桜、聖杯は、どうなっているの?」
 桜の意志は、彼女のままだった。では、彼女の中にとどめられた根源から招き寄せられたものと、亡霊達の魂は果たしてどうなったのか?
 姉ではなく、魔術師としての質問に、桜はしっかりと頭を上げて、
「聖杯は、完全ではないけれどまだわたしと繋がってます。聖杯のなかに潜んでいた……アンリ・マユの魂と一緒に」
 はっきりと、その事実を告げた。





◆    ◆    ◆





「アンリ……マユ?」
「姉さんは、あの聖杯が無害な願望器なんかじゃなくて、破壊と簒奪をもって願いをかなえようとする呪いの毒壺であったことは、知ってますね?」
 それは、士郎から聞かされた。
 しかし、どうにも腑に落ちないことがあった。イリヤの話では、聖杯システムとは根源から召喚された英霊の魂をとどめ、解放することであらゆることを可能にする根源への道を開くものだと聞いている。英霊の魂は、無色なものであるとも。
 ならば、何故聖杯は呪いの毒壺としか呼べないような願いのかなえ方しかできないのか。根源に至れば全ての望みをかなえることが出来るのだとするならば、もっと平和的な、無害な願望器として使えるのではないのか、と。
「でも、それは初めからそうだったんじゃない。本来無色であった聖杯は、ある英霊をその中に取り込んでしまったことで、極黒に染まってしまったんです」
「それが、アンリ・マユ?」
「そうです。この世に生きる全ての人々が善であるようにと、あらゆる罪悪と罪業を押しつけられ、背負わされて殺された、哀しい反英雄。その存在そのものが悪であるようにと願われ、望まれた彼の魂を取り込んだ時、聖杯は一瞬で呪いの毒壺と成り果ててしまった……」
 無色であったがゆえに、そこに混ざった黒い汚濁はあっさりと全てを黒く塗り替えてしまった。
 聖杯は元々願望機。人々の願望を叶えると同時に、それ自体が願望の投影でもある。故に、アンリ・マユの存在を形作る願望の内容を受け、望まれるままの聖杯となった。
「わたしは、聖杯になって、アンリ・マユと意識を共有してその事実を知りました。そして、その苦悩も……」
「……苦悩?」
「確かに、アンリ・マユは悪であるようにと望まれました。でも、その内容がどうあれ、人が何かを願う心自体は善でも悪でもない、それこそ無色の、とても純粋で切なる想いなんです。この世界に現界し、意識を持つたびに……アンリ・マユは誰よりもその事実にさらされ、突き付けられることになった」
 聖杯であるが故に。
 全ての人々の純粋にして無垢なる心を受け取らなければならないが故に。
 それはとても綺麗なものだった。
 尊い想いだった。
 切なる願いだった。
「意識のない状態であれば関係が無くても、一度意識を持ってしまえば、その悪意は揺らいでしまう。人間の最も美しいところと汚いところをその魂に宿して、悩み、苦しんで……」
 だから誰も憎めない。
 だから誰も恨めない。
 誰もが憎み合わないように誰かを憎め。
 誰も何も恨まないために誰かを恨め。
 その矛盾を、しかし魂は悪であることを前提に存在を許され、溢れる汚濁は熱い泥となりて我が身を包み込む。
「それでも、彼は存在自体が邪悪。どんなに心を痛めようとしても、その結果は必ず破壊と簒奪、災いとしてこの世界に降りかかってしまう」
 桜の頬を、涙が伝う。
 その涙は、同情でもなければ憐憫でもない。ただ、ただ悲しい。
 たとえこの身を、魂を形作る全てが闇色の呪詛であったとしても、どうして悪意でもってあらゆる愛しきものを憎恨で染め抜かねばならぬのか。
 ああ、しかし悲しい程にそれが求め望まれし存在。
「……そんな彼に、ようやく救いの光がもたらされました」
「救いの、光?」
「セイバーさんの、聖剣です。あの剣は、鞘は所有者を不死身に、剣はあらゆる邪悪を斬り裂く聖なる刃です。だから、溢れ出し現界したアンリ・マユを聖杯ごと斬り裂くことが出来た。それも、二度も」
 その度に、完全ではないにしろ悪意は弱まっていった。
 この世全ての悪といえども、一つの魂。けして無限ではなく有限の悪。消し去ることは、充分に可能なものだったのだ。
 そして、三度の限界の時。愛憎渦巻くその意識に、桜は強く同調した。
 彼は、自分と同じだった。愛すべき存在を、憎めばいいのに、恨めばいいのに、そうすれば楽になれると知っているのに、それでもその温かさに触れてしまったが故に求めずにはいられなかった、かつての自分。
 桜の意識が強く同調しつつも、奪われ、消されずに済んだのは、ひとえにそのおかげだった。深く知る心情、意識であったがために、呑み込まれずに済んだのだ。
「……これから、彼の魂を根源へと帰します」
 根源にあると言われる彼の本体は、何一つ救われていない、この世全ての悪のままだ。だが、それでもほんの一欠片の、人の温かさに触れた魂の一部を帰してやることで、何かが変わるかも知れない。
 桜は、そう思いたかった。
「イリヤちゃん、手伝ってくれる?」
「もちろん」
 ふらつく身体を姉と友人に支えられて、大聖杯へと近付く。
 根源から招き寄せられた英霊に必要なものと、アンリ・マユの魂。それを帰すだけなら孔もそう大きくは広がらず、すぐに閉じてしまうだろう。
 これで、ようやく長かった夜も終わる。
 イリヤが、ユスティーツァの記憶をなぞり呪文を唱えようとする。その呪文を桜がさらになぞることで、全ては完了だ。

『……それは、ちと困るのぅ』

「!?」
 突如響いたその声は、けして聞こえてはならないもの。死んだはずの、その魂すら消し飛んで滅んだはずの老魔術師の声。
「臓硯!?」
『カッカッカ!』
 笑い声と共に、桜の身体がビクン、と波打つ。
「まさか、桜の身体に……」
 フラフラだった桜の身体が、糸が半分くらい切れた操り人形のようにヘタリ、ヘタリと後退っていく。驚愕し、おののいている瞳は桜の意志の光を宿したままだが、その声帯を振るわせて喋っているのは、紛れもなく腐蟲の翁。
「なんて、しぶとい……」
 そう言って、ポケットに手を伸ばしてみて凛は全ての聖石と魔晶石を使い切ってしまっていたことを思い出し、唇を噛んだ。
 身体に残った魔力だけで、果たして勝てるだろうか? 桜の身体は魔力に満ちている。衝撃波の一つでも放たれれば、自分達はお終いだ。
『その通り! ワシの本体は、桜の心臓に巣くった魔力も持たぬ一匹の小さな蟲よ。神経に擬態し、ずっと潜み続けてきたのじゃ。流石のおぬし達も気付かなかっ……ガ、ゲ?』
 勝ち誇っていた魔術師の声が、苦悶のものへと変わる。
「な、なに? どうしたの!?」
 凛にも何がどうなったのかわからない。それは桜も同じようだ。
 ただ、イリヤだけが静かにその右腕を桜へと差し出していた。
「まだ、何かあるんじゃないかとは思ってたわ、マキリゾウケン」
 それは、何とも微弱な束縛結界。魔眼と共に、今のイリヤが使うことの出来る数少ない拙い魔術。蟲一匹の動きを止めるのが精々の頼りないことこの上ない結界ではあったが、それでも今の臓硯を相手にするには充分すぎた。
『グ……ガ、ゲ……ギ、ブ……ィウ……』
「リン、今よ」
 イリヤの言葉に、茫然としていた凛が我にかえる。
 なるほど。動きさえ止まっていれば、あとはもうこの半年の間に散々やって慣れた作業。今の魔力でも、簡単に事は済む。
「桜、痛みをイメージして。ちょっとの間だけだから、我慢してね」
 そう言って、桜の左胸へと右手を差し込む。
「ッ!」
 突然のことに、桜の口から声にならない悲鳴が漏れた。目の前で、姉の手が自分の胸と同化している。
「……すぐ、終わるわ」
 温かな、妹の内部。意識を集中し、心臓に巣くう悪性の腫瘍……醜悪な蟲をイメージする。本来肉体を構成すべきパーツとは全く別の、害悪にしかならないそれを摘み、引っ張り出す。
 引き抜かれた凛の手には、小さな、本当に小さな蟲が摘まれていた。
「はじめまして、間桐臓硯。その哀れな姿が、本当のあんただったのね」
 なんて、醜く、そして脆弱な。ほんの少し力を込めれば、それだけで潰れてしまうそんな姿になってまで永遠を求め、果たして何がしたかったのか。
『イ、ヤダ……シヌノハ、シヌノハイヤダ』
 その声が、凛に邪霊を滅却する時のイメージを彷彿とさせた。
 この男は、とっくの昔に死んでいたのだ。きっと、人が生きていくために必要なあらゆるものを何処かに置き忘れて、その抜け殻だけが永遠を求め続けていた。
『タスケテ……タスケテクレ……ゆすてぃーつぁ!』
 イリヤは、その言葉に顔を歪めた。
 マキリ臓硯。彼は偉大な魔術師だった。世界救済を理想とし、それを実現するために永遠を求めた素晴らしい人物だった。その記憶が次々と浮かび上がっては、消えていく。
 そう、それはユスティーツァの記憶。イリヤスフィールの記憶ではない。
「わたしは、イリヤスフィール。ゾウケン、あなたを救うことなんて、出来ないわ」
 イリヤの言葉が聞こえているのかいないのか、蟲は喚き続けている。
 これ以上は、見るに、聞くに堪えない。
「……さようなら、間桐臓硯」
 凛の指先に、力とほんの僅かな魔力が込められる。
『ブギュッ!』
 その汚い音が、五百年を生きた大魔術師の、本当に最後だった。





◆    ◆    ◆





 終わってみれば、根源へ魂を帰すのは存外に簡単なことだった。
 大聖杯の中にあったアンリ・マユは、その全てが孔の向こうへと消えていった。
 桜は、孔が開き、閉じていくのを最後までジッと見つめていた。
「……これで、本当に終わったわね」
 ウーン、と伸びをし、凛の足が出口へと向かう。
「姉さん?」
「どうしたの、桜? 帰るわよ」
 その凛のあまりに自然な態度に、むしろ桜の方が戸惑ってしまった。
「帰る、ってそんな……大聖杯をこのまま放っておくんですか!?」
 桜は、てっきり大聖杯を破壊してから帰るのだろうと思っていた。なのに、凛もイリヤも別にそれがどうかしたのかと言わんばかりに桜を見ている。
「これを放っておいたら、また聖杯戦争が……それも次はあと半年足らずで起こってしまうんですよ?」
 一人で興奮気味の桜の肩に手を回し、凛はあくまの笑みを浮かべて、
「ま、あんたとしては壊しちゃった方がね、いいかもね」
 なんて言った。
 その脇では、イリヤも口に手をあてて笑いを堪えている。その顔はやはりあくまのものだ。
「え、一体それって……」
「前に言ったでしょう? 今のわたしには、一つだけ聖杯に願いがあるのよ」
 二人のあくまは、クックッと笑いながら桜の背を押した。
 そう、一つだけ願いがある。
 勝ち逃げを許したままでは、遠坂凛の名折れだ。かつては自分の想いに戸惑う少女を後押しした凛だったが、今度こそ条件は五分。正々堂々正面から戦わなければ気が済まない。
「勝負は半年後に、ね」
 そこまで聞いて、ようやく桜も合点がいったらしい。見る見るうちにその顔に笑みが浮かび、三人目のあくまが降臨する。
「そう、ですね。わたしも勝負してみたいです。それに……」
 それに、もう一人、再び会って話したい相手がいる。彼女には、本当に申し訳ないことをしてしまったと思うから。
「さ、早く帰りましょう。士郎のことも拾っていかなくちゃね」
「……って、せ、先輩も来てたんですか!?」
「……あ」
 そう言えば、すっかり忘れるところだったが彼は詳しい事情を何一つ知らないのだった。いったい桜のことをどう説明したものだろう。
「リン、わたしお腹空いたー」
 そんなこと、考えるだけ無駄だとばかりにイリヤはさっさと出口へと向かっていく。
「……ま、なるようになるわね」
 もう頭なんて使いたくもない。それに士郎を誤魔化すのなんて簡単なことだ。空腹なのは自分も同じだし、さっさと帰りたい。
「な、ちょっと待ってくださいよ姉さん、イリヤちゃん!」



 一つの事件が終わりを告げても、休んでいる暇はない。新しい日々の中を、立ち止まることなく歩み続ける。
 でも、取り敢えず帰ったらご飯を食べて、お風呂に入ろう。少女達にとっては、それだとて戦いであるのだから。
 そして、始まる新しい日々と戦いを前に、少女達は可愛らしくあくびを漏らすのであった。





〜There is no end in the story,and the next fate starts〜






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