◆    ◆    ◆

 

 

 

 剣を振るう。

 幾十、幾百、幾千、幾万と。

 軌跡は風を断つ鋭さで夜闇に疾る。

 愚直に振るわれる刃金。それが一日ともなれば、刀は腕を鉛の重さに変えもしよう。

 だが、一生を賭してその業物を振るうなら。

 ……それは、夜天を別つ神威にさえも届くと、かたく信じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夜話、無銘

                            

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 どうかなさいましたか、僧は辻で立ち止まる男に声をかけた。男は肩をすくめてこたえる。いやなに、ほんの瑣事だ。……御坊、ここに地蔵があるだろう。

 ありますね、と僧は首肯する。して、それがなにか?

 この地蔵堂、私が小人の時分からここにあったのだがな、戦を越えたせいか、ちかごろとみに傷みがはげしいように思えたのだ。男は何の気なしに地蔵の頭を撫でながら、つぶやくように言う。――いったい、こやつはどれだけの間、この辻で私のようなものを見送ったのだろうかと、つとな。

 それは永くでありましょう、■■どの。僧はしたり顔で言った。その塞の神はこの村落ができるよりはるか前からそこにあったと憶えがあります。あるいは、八百万の神代からいたのやもしれませぬな。

 ――む、それは神道であろう、御坊。地蔵菩薩は御仏のたぐいではないのか? 学がないからといって莫迦にしてくれるな、と男はやや笑いながら文句を言う。

 いえいえ、と僧も笑った。道祖の神としての地蔵菩薩とは、要は漢の国から渡っていらして、こちらの信仰と結びついたものです。かように、わが国の仏門とは間口の広いものでして。それにですな、このお地蔵は仏というよりは国津神のおもむきが強いものなのですよ。その証拠にほら、おひとりでいらっしゃるでしょう?

 ふむ、と男は頷いた。たしかに――辻にある地蔵は六つ並んだものが多いな。いずれ由来のあることか。

 ええ、と僧も頷き返す。六つとは六道をあらわすものでして、六人の地蔵像はおのおのの道で人に代わり苦しみを受けてくれるものなのだそうです。

 ほう、流石は菩薩だな。慈悲深いことだ。ならば――と、男は立ち上がり、地蔵を見下ろしてごちた。六道にあてるなら、この地蔵はいずれの道を見る菩薩なのか、と。

 さしづめ修羅道でしょう、と僧は笑って半畳を入れる。■■どのにみそめられるくらいですからな。

 いやはや、と男は苦笑した。存外、それは正鵠かも知れぬ。

 そしてふと思いつき、黙し、供えもない地蔵に語りかけた。――それほど永くひとりとは、さぞ心許ないものではないのか――答えは無論ない。口をきく地蔵など狐狸の化生でしかありえないのだから当然だ。

 だがその場をあとにし、数歩行ったところで、男はいいえ、という女の声を聴いたように思った。眉をひそめ、僧にたずねる。声色をつかったか、御坊。

 いいえ、と僧は答えた。――ははあ、どうやら気に入られたようですな。

 菩薩に気に入られるなどと、ぞっとせん話だ、と男は憮然として言う。

 

 ――はたしてその春、男は死病にかかられた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                    

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 再びこの夜に立って、幾日が過ぎたか。アサシンのサーヴァント、佐々木小次郎は憂いにも似た吐息を冬夜にこぼして、その夜も山門にて街を臨んでいる。

 宵闇はどこまでも静かに、しみわたるように寂寞としてゆるがない。だがそれとは対照的に、境内には鼻をつき胸をつかえさせるような、果実にも似た甘い腐乱の匂いがたちこめている。

 キャスターがその魔術でもって集めた人の糧。それこそが異臭の原因である。

 

「……ふむ」

 

 それは罪業だろう。だがしかし、それがすべて、愛しい男とともにあるための一念に依るものだと考えれば、アサシンは苦笑と、若干の羨望を禁じえない。もとより道義などとは外れた亡霊の身であればこそ、人の想念というものが存外にしぶとく、そして時折にまばゆいほどに美しいものだと知っている。

 他の全てを切り捨てるまでの想い。それが、魔女をかくも美しい聖女へと変えるのだ。

 彼にとってはそれが剣だった。しかしはたしてそれは、今のキャスターがかくあるように星美のごとくきらめくものであっただろうか?

 く、とアサシンは笑う。何を愚かな。身に移る美しさなど己にあろうはずもない。華美を好み、伊達を気取るが、しかし、彼が何より魅せられたのは剣なのだ。

 ならば、私という存在の美醜は、すべてこの一刀の内にあるということだ。

 魔境を絶つようにして、斬撃を虚空に放つ。

 長刀の描く軌跡は真実流麗。たんに美しさを競うならば、それが刹那においてのみ輝くものだろうと比肩するものなどない。それは、幾たびもの死を吸った魔剣だからこそたどりつく境地である。

 だが、それは一個の輪で完結した美しさに過ぎない。それでは足りぬと、神域に届く剣を持った無銘の侍はわずかに無念を遺して死んだのだ。

 ゆえに、アサシンが求めるのは立ち合いなのである。死力を尽くし、己の全てを賭けた果し合い……それこそが、無様にも未練となって彼をこの世によみがえらせたのだ。

 そして、実のところその望みは半ばまで達せられている。

 ランサー、バーサーカー、セイバー、ライダー。いずれとも決着にまではたどりつかなかったが、それでも一度は嘆いた己を拾い上げるほどには満たされている。

 そう。ならば遠からず消える身を費やすのならば誰がいいか。アサシンは眼下に遠く広がる街を身ながら、思索にふける。

 まず思いついたのはセイバーだった。剣使いのサーヴァント。純粋な剣技で語るならば、アサシンに届く敵は彼女をおいて他にはあるまい。斃せぬもの、命を賭けずに戦えぬもの、あるいは剣を交える間もなくアサシンを殺せるものはいる。

 だが、わずかに残る想いを遂げられる相手は、あの可憐な騎士でしかありえない。

 

「願わくば、今一度心ゆくまで剣を合わせたいものだが」

 

 呟きは嘆息にも似ていた。キャスターはセイバーを殺すつもりはなく、あくまで手駒に引き入れる心算らしい。セイバーは剛直このうえない強さをほこる反面、搦め手に弱い。キャスターが本気で手を詰めだしたならば、八割方その篭絡はなされるだろう。それが、残念といえば残念だった。

 人外の業を競うこの戦争も既に終結に近づきつつある。アサシンを山門にくくったサーヴァントであるキャスターは、今はいない。主の護りをアサシンに任せ、何処かへとめぐらせた糸を回収しに行った。

 既にライダー、アーチャー、バーサーカーは消え、杳として姿を見せぬランサーとそのマスターを除けば敵はセイバーを残すのみだ。そしてセイバーを排除するか、あるいは目論見どおり自陣に引き入れることがかなったならば、戦争は終着をみることになる。アサシンの未練は果たされぬまま。

 ふん、と鼻を鳴らして、アサシンはその未熟を切り捨てる。いいだろうキャスター。女狐の本懐、遂げたならばその時は心底より祝福しようぞ。

 と、

 

「む」

 

 まったくの不意に羽織が引かれたのをおぼえて、アサシンはかるく眼をみはりながら足下を見た。危急ではないと彼の六感は告げていたし、だからこそ気付かなかったのだろうが、しかし……何の気配もなくここまでの接近を許すなど、たとえどのような難敵を相手にしても許さぬというのに――

 はたして、そこにいたのはひとりの童女だった。髪はかむろのように切り揃え、白い面貌に映える朱の着物に黝い帯を締めた、アサシンの腰にも足りぬ背丈の娘。それが、迷子のような風情でアサシンの陣羽織を手に引いている。 

 迷子。

 なるほどそれは正鵠よな、とアサシンはごちて苦笑した。無論この場所この時刻にただの迷子などあるわけがない。そもそも童女の姿格好はアサシンに負けず劣らずの時代錯誤の風体だ。これが、ただの子供であろうはずがない。

 となると――

 

「……魑魅(すだま)のたぐいか、娘」

 

 その問いに、きょとんとした様子で童女は首を傾げる。と、耳にかかった黒髪がさらりと揺れて、そのこぶりな耳朶をさらした。それを目にして、アサシンはふむ、と頷いた。姿かたちは人間のものだが、しかし、仕草は人というよりも警戒を知らぬ野生の獣に近い。だとすると、やはりこの童女は正純の人間霊というわけではないのだろう。

 

「さて。狐狸狗神の化生にしてはかわいげが過ぎるな。娘よ、おまえは何者だ?」

 

 興が乗ったのか、アサシンは長刀を肩にかついだまま童女に向き直り訊ねる。だが、童女は依然として黙したままである。

 

「未練ならば奥にゆけ。験力や功徳のほどなど私は知らぬが、ここは一応坊主どもの住処のようだ。いずれおまえの声を聴ける僧もいよう」

 

 それきりアサシンも口をつぐんで、答えぬままつぶらな黒瞳でこちらを見上げてくるばかりの童女を見据えた。

 幽冥の境に身を置き、また与えられた魔力も底をつきいつ消えるとも知れぬ存在なればこそなのか、サーヴァントとして現界して爾来、寺院という場所柄なのか、アサシンは時たまこうしたモノを眼に視ることがあった。もっともそれも人魂程度のもので、サーヴァントの能力にさえ制限を掛ける結界の内にある柳洞寺においては、そも生半な悪霊の属など這入ることさえかなわない。ゆえに必然、目にする霊魂など人畜無害のものにかぎる。

 だが眼前、唖然としてアサシンを見上げる童女は、そうした人魂のたぐいとは趣がちがっているように、アサシンには視えた。なにがと言い当てることは出来ないが、なにかがちがうのだ。言葉を解さない様子であるということもそうだが、その存在があまりにも自然すぎる。かれと同じく地縛された霊ならば、生前の妄念がどこかしら歪みとなって格好に影響をおよぼす。だが……アサシンの羽織から手を離そうとしない童女は、まるで風景の一部であるかのように土地に、ひいては世界に溶け込んで見分けがつかない。

 そこにいて、そこにいない。それを亡霊という。

 ならば。

 どこかにいて、どこにもいないものを称する言葉はなんなのか。

 と。

 童女はいつの間にかアサシンの視界から消えている。

 

「―――む」

 

 思わず視線を這わせれば、その紅い姿はすぐに目についた。童女はからころと下駄を鳴らして、門前の広場をくるくると揺れて歩いている。不規則に惑うように、ふらふらとふわふわと、風に翻弄される花弁のように歩を進める。その向かう先に、ちいさな地蔵堂があった。古めかしくくたびれた格子に編まれたその祠には、風雨と歳月に削られ、もはや顔かたちさえもうしなった地蔵がまつられているのを、アサシンは見知っている。

 そしていま、なぜかその堂の中に、主たる地蔵は不在だった。

 

「………は。なんと」

 

 ふたたび眼をみはるアサシンも知らぬげに、童女は踊る。漆に塗られた下駄は、拍子木のようにかんかんと高く小さく石畳を踏み鳴らす。

 地蔵舞。狂言の一が、アサシンのカラの脳髄に思い浮かんだ。

 

「地蔵会などとうに過ぎたというのに、魑魅どころか菩薩の仲間とはな。……いや」

 

 悠然と舞う童女に歩み寄る。長刀を手に、切っ先は地に向いて――

 ――ぴくりと。何かを感知したように、白刃が揺れた。同時に、童女がてんかんでも起こしたような唐突さでびくりとふるえ、動きを止める。

 

「――――」

 

 やれやれとアサシンは嘆息し、童女から視線を離して背後、蜿蜒とくだる石段を臨む。

 ……なにか、いる。アサシンを幾たびとなく救ってきた天性の直感が、剣の騎士を、そして狂戦士をも上回る危険の来訪を告げていた。

 じっと目を凝らし、階下にうずまく金色の気配に焦点を合わせる。

 己の存在を隠そうともしない不遜の具現が、その長い階段をはさみ、その紅い瞳でまっすぐとアサシンの存在を射抜いていた。

 

「………ほう」

 

 漏れ出す呟きは感歎のそれだ。

 気配はサーヴァントのものではない。だが――それは、あまりにも明快な死だった。吹き上げるのは殺気ではなくただ濃厚このうえない威圧。何人もその前において膝を屈せぬことは許さぬという傲岸の極みにあるような意思と、それを可能にするだけの才気、命数。

 

「――今度は半神か。さても見事な王相よ。きざはしに足を掛けただけでも存在が知れる」

 

 うそぶいて、童女を背負うように立つ。相対するはまばゆいばかりにほとばしる金色の魂。世界を統べるほどの器を与えられた存在と、仕官など望みえなかった浪人が対峙することこそ笑止だろう。あの騎士王をも凌駕する王気に出会うとは、とアサシンは苦笑する。世界とは存外狭い。いや、図抜けて広いというべきか。……だが惜しいかな、今アサシンに死を運ぼうとしている存在は、比類なき強大であれ断じて剣士などではない。

 そう、あれは……、一騎というよりも一軍と称すべきものだろう。

 

「……ふむ」

 

 立ち合いが望みだった。生あるうちに果たせなかった望みといえば、それだけだ。決して多くを望んだ生涯ではなかったというのに、神仏は修羅に堕した剣士が神域に届くことをきらった。そして死んだ。無名のまま、寺など名ばかりのあばら家しかなかった山の天辺で、病に敵に、殺された。

 そうして何の因果なのか、はるか数百年を経てこの地に呼び出された。それも佐々木小次郎などという架空の剣士の名を背負い、暗殺者などという偽りの役割を与えられ、門番を演じきることを強要されて。もっとも、それも悪くはないと思い直したのも事実ではあるが。

 ならば仕方はあるまい、とアサシンは不敵に笑う。私の役目は門番。獄門の鎖し手だ。……ならば、相手が天魔であろうと覇王であろうと――生きては通さず、生きては返さん。

 迷いはなく、惜しむものもない。現界の刻限はじき満ちて、またしても無為に露と消えるよりはとアサシンは偽りの役割を演じきることを選んだ。

 さて、とアサシンは呟き、何も知らず、吹き付けた気配にあてられ凍りついたままの童女を見やる。もとより、生まれてこの方活きた味など噛んだことはない。畢竟花と散り、鳥に運ばれ風に乗って月へ逝くことにさほどのちがいはないのだ。ならば――

 

「――っふ」

 

 アサシンが手にした長刀を振るうのと、ぎん、と澄んだ高音が場に響いたのは同時だった。飛来した長槍を、アサシンの剣が弾いたのだ。だが、宙を舞った槍はいかないわれに基づくものなのか、再度翻ってアサシンの胸元を狙う。ならばとそれを地に叩き落し石畳に突き立てて、死地に立つ剣士はかたわらの童女に笑いかけた。

 

「――これでも仏閣の宿を借りた身だ。菩薩を道連れにするわけにもいくまい」

 

 それに、と付け加える。

 

「塞の神を背中に背負うのだ。――そら、私が門番なら、そなたは神通無比の加護であろう?」

 

 そうしてアサシンは、からと嗤った。同時に、剣戟が響き始める。一方的な投射をひたすらに防ぎつづける、死を先延ばしにするだけの防戦が始まる。

 だが退かず、顧みない。

 銀条は夜を貫いて奔り、門前に構える剣士を狙い打つ。それは悠然と階段を上がる金色の男が一段を踏むたびに数を増し、勢いを増してゆく。剣士の背中には中空に火花が散るたびに晧々と照らされる影があった。だがその姿はいくら目を凝らしても何にも見えず、あるいは何にでも見えた。刻一刻と姿を変える、その影は朱の着物をまとった童女のようにも見え、顔の輪郭さえ風雨と歳月に磨耗した地蔵菩薩の像にも見え、そしてあるいは門よりも巨大な磐石、千曳の岩のようにも視える。ならばその目前にて不退転の覚悟で長刀を振るう剣士は、さながら黄泉比良坂を塞ぐ磐石の前にて杖をつき、閉塞をのたまったフナトノカミ――岐神か。

 

「――もっとも、あれは逃げ帰る折の逸話であったか」

 

 そうだ、と侍は冷涼に笑う。私はそのような上等なモノではない。

 ゆえに退かず、顧みない。

 ――この身はアサシンのサーヴァント、佐々木小次郎。偽りの剣雄。所詮はまがいものの亡霊よ。

 だがしかし、いまこのとき、この夜に、無名の剣士は無名のまま、人類最古の英雄王に対峙する。

 負け戦、いいだろう、ならばそれを愉しもうぞ、心逝くまで、華と散るまで、全霊を賭して、傾いて魅せよう。

 

 ――月も夜も。我が一刀の内なれば――

 

 剣を振るう。

 そのたびに華が散る。

 光り、きらめき、爆ぜて伸び、閃いて消える。

 命のように、その花は夜に狂い咲く。

 

 ――いずくか、罷り通ることかなわん。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                    

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 なぜわたしを運ぶのですか、と娘は男に訊ねた。重いでしょう、お辛いでしょう。ならば朽ちさせてください、あの場所で。わたしはあすこでわたしのまま、人を見送らねばならないのです。かなしげに、はかなげに、娘は言う。

 だが娘の声は男には届かない。それも道理だ。娘は塵界にありながら、それでいて人の域に住まうものではない。ごくまれに、人の身でありながら娘の声を聴くことがかなう者もあったが、娘を背負って路を歩いてゆく雅な侍は、そのたぐいではないようだった。

 ゆえに男は何も言わず、知らず、飄然と歩く。痩身に娘を背負って。伊達姿を背負ったものに付着した土が汚すこともいとわず、背にある長刀を穢すことも気にせず、歩みを進める。娘がもといた辻をはるかあとにして、村を抜け、はずれにある小山へ向かう。

 そうして、木切れの敷き詰められた長い階段を前にして、男はさてと息をつく。病身にこれはさすがに重荷か。常々長い長いと思ってはいたが、今日は一際よ。

 ならば置いていってください、と娘はなげく。無論声は届かず、男は階段を上り始めた。数十段をゆくうちに歩みは重くなり、風雅な男の息はみだれ、長髪にも汗がにじみだす。似合わない、と娘は思った。このような姿は、この侍にはまるでふさわしくない。

 だがそれでも、男はきざはしを上りつづけるのだ。

 そうして終に階段を昇りきったところで、男はようやく娘を背から降ろし、自力では動けぬ娘を動かして、その視界に下界がおさまるよう位置をととのえる。そこには先客なのか、娘とは微妙にことなる風体のものが五つほどあった。そしてその五つの合間に、不自然な間隙がある。そこが自分の席なのか、と娘はぼんやり思った。そしてそのとおり、娘は六つめの地蔵としてそこに置かれ――

 ……つかぬま、娘は嘆くことを忘れて、その景色に魅入った。

 そこは、高みだった。

 遠景に、娘が見守りつづけた辻が見える。そこをゆく旅人が視える。村にある人の日々が見える。各々の道程をあるくあらゆる人々が視える。夏日、鳶は笛のように高く鳴き、若葉は萌えて風に揺れ風流をうたう。

 命が芽吹くその世界で、娘と、かたわらにある男だけ、あせた存在だった。かたや遅れ、かたや先んじすぎたという違いはあったが、しかし、たしかに、ふたつは同属だったのだ。

 

 ――そうして、男は剣を振る。飽きもせず、死に肩を叩かれてなお、剣を振るう。

 散る花を斬り、飛ぶ鳥を斬り、往く風を斬り、浮く月を斬る。

 その剣は真実華美流麗であり、美しすぎたがために、男は死に魅入られたのかもしれない。

 だがそのようなことは瑣末とばかりに、男は剣を振るうのだ。

 ――先が見えたところで止めるというなら、はなから刀などとりはせぬ。

 血を吐いてなお冷涼と笑い、色をなくしてなお静謐と笑う。

 

 その様を、それはあきることなく眺める。

 名もない剣士の末期を、己と敵の血に濡れ妖しくかがやく一刀を、いつまでもいつまでも見つづける。

 その石像にやどった魑魅は、神でも――ましてや仏でもなかったが、しかし。

 心も、言葉さえ通わずとも、その剣に、魂を斬られたのだ。

 

 だからじっと。今また死出にむかう剣士の背中をみつめる。

 

 百の死を運ぶ刃金の驟雨をただの一刀で切り伏せる、その亡霊の背中を、ただ、じっと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                    

 

 

 

 

 

 

 

 

 苛立ちを隠さない声が響く。

 

「――退けよ亡霊。残り滓の分際もわきまえず、誰を見下ろしている?」

 

 死にかげる声は、しかしこの期に及んでも涼やかに答えた。

 

「あいにくと私は門番でな。ここを通るものがあれば生きては通さんし、生きては返さん。――そう、決めている」

 

 は、と金色の男は嗤う。

 

「よく言った雑種。――ならば、その鉄棒で(オレ)の剣をすべて防ぐとでもいうつもりか?」

 

 群青の侍は答えず、ただ笑うだけだ。そして、それが癇に障ったのか。

 

「―――せいぜい愉しませろ」

 

 宣告は死を伝えるそれと同義だ。彼我をわかつ距離は既に数十段。侍の得物がいかに長大だろうと届くものではなく、しかし金色の王は容易くアサシンを殺しうる。

 だが構わない。死がたちはだかるというのなら、斬り捨てよう。人と逢えば人を斬り、神と逢えば神を斬る。それが、アサシンが信じ、己を費やした剣だ。出来ないとは思わない。

 一段、金色の男がさらに踏み出す。

 飛来した剣は総計二十三。いずれもアサシンが振るう業物ですらはるか及ばぬ伝説の原型である。掠るだけでも標的を絶命させる、心を砕く幻惑を招く、必ず心臓を狙う、契約を無に帰す、魔力を喰らう、雷霆を発して四肢を麻痺させる――そのどれもが必死の矢として、アサシンを狙う。それを防ぐ。ことごとく弾き、流す。刃筋を精確無比に合わせ、まともに受ければ一瞬にして刀身もろとも砕け散る圧力をしのぎ切る。

 

「は―――」

 

 次は三十五。振るわれる刀身はもはや残像に近い。アサシン自身も己の剣を捉えているわけではない。ただ目につく死線を次々と斬っているだけだ。それでも矢は増え続ける。斬れば斬るほどに、アサシンは追い込まれていく。だが仕方などあるまい、と先鋭化し、余分が抜け落ちていく思考の中で最後に思う。斬る。私に出来るのはそれだけなのだから。

 そして撃ち落し叩き切り受け流し躱し切り、金色の王は指呼の間合いに既にいる。

 

「―――く」

 

 あと五段。五段でアサシンの得物の間合いに入る。そして敵も、それは知っている。知っていてなお、歩みは止まらない。なるほど、と思う。それが貴様の矜持か。美事だ英雄王。

 ――だが。私にも意地はある。

 そして五十。魔弾の群が、アサシンの痩躯を釘付けにせんとして、かつてない勢力で奔る。

 墜とす。墜とし落として剣を振るう。翻らせて返らせる。ばさりと長髪が切り裂かれ解けて地に落ちる。知ったことかと刀を振るう。間隙に刀身を滑り込ませて円らに軌道を疾らせ、古今の名剣宝刀を無名の剣ひとつで煙に巻くことのなんと愉しいことか。ほう、と振るいながら、アサシンは驚く。その唇には笑みが浮かんでいる。同時に三つが私の限界と思ったが、捨てたものではない、まだゆける。四つ、五つ、六つ、七つ、世界を屈折させる。まだだ、まだまだ。道理などねじ伏せる、法則など切り捨てよう。燕など小物に過ぎぬ、私は斬るぞ、人も鬼も修羅も斬るぞ、

 

 ――この剣は、神さえ斬るぞ。

 

 そしてあと一段。

 そこで、金色の男はぱちんと指を鳴らす。

 雨が止む。

 

「存外愉しめたぞ雑種。――誉めてつかわす」

 

 だが、と瞋恚に燃える眼差しで、アサシンを射抜く。

 

「その笑いが気に入らん。―――疾く死ね」

 

 そうか、とアサシンはあくまで笑う。髪はほどけ、衣服は切り刻まれ、ところどころを真紅に染めて、しかし、その足は最初の位置から微動だにはしていない。

 だから、嗤うのだ。

 

「――断る。貴様こそあと一段だ。そのそっ首、地蔵の供物にでもしてやろう」

 

 死の弾丸は百を超えた。もはや隙間はなく、手にある長刀も毀れ、限界を迎えている。

 空隙などない剣の弾幕はさながら豪雨か。それならば躱しきれぬと思ったか。

 ――だが雨滴など、いくらでも斬り尽くそうぞ。

 剣士が打ち鳴らす、最後の剣戟が始まる。

 打ち合わせた最初の一合で、長刀は半ばから圧し折れた。だが惑わない。得物の長短など気にはしない。斬る。要はそれに足りればいい。だから振るうのだ、剣が折れようと砕けようと、五体が刺されようと貫かれようと、心は折れず砕けず、刺すことも貫くこともかなわない。

 剣とは、つまり道であり、背負うものなのだから、鉄棒のひとつ折れたところで、剣士になんの毀損がある?

 私はここにいる、と剣士は笑う。声にならぬ声で、高らかに謳いあげる。今宵、私は活きている。一張羅は血の泥にまみれ、恃みと掲げた剣は折れ、しかし、魔王を前に菩薩を背にして、生きている。

 生きている。

 アサシンのサーヴァント、佐々木小次郎、無名の剣士、どれでもいい、だが私≠ヘたしかに、ここにいる。

 頭骨を削る槍を首を捻って躱す。耳が削げた。左肩を射貫かれる。手の感覚が失せた。足の甲を剣が貫く。石畳に躯が縫い付けられる。丁度いいと笑う。これならば倒れまい。笑いながら右手一つで剣を振るう。腿を、脛を、腹を背を、首を次々と射抜かれる。傷口から魔力が、命が零落してゆく。存在は秒刻みで希薄になってゆく。

 死ぬ。

 恐ろしくはない、ただ口惜しい。今少し、と思う。この感覚を今少し味わっていたい。

 

 そうして、その一念で、百の死線をことごとく斬って捨てた。

 

 満身創痍のアサシンに対して、ついに階段を上りきった金髪の男はまるで無傷だ。そこは既にアサシンの結界だが、しかし、剣を提げた右手はぴくりとも動かない。そもそも、刀身など小太刀と見紛わんばかりに縮んでいる。

 しかし、間合いにいるのだ、なのになぜ剣は届かない?

 未熟なのだ、私が。そう認める。

 体は動かない。

 ゆえに、両の眼で英雄王を涼しげに眺める。

 

「――どうした。私はまだ生きているぞ?」

「――――」

 

 アサシンの声に応えることもなく、男は剣を持った片腕を上げ、さらされた白い頸めがけて振り下ろす。

 その軌跡を、アサシンは視る。遅い、と思う。その一太刀に、自分ならば九太刀は浴びせられるだろう。

 ――だが、その剣が私を殺すのだ、甘んじて受け入れよう。

 

 そう決めた刹那、アサシンの背後から何かが飛び出した。

 

「なに――?」

 

 きん、と高音が響き、続いてどすん、と重い音が響く。金色の男は訝り、落ちたそれを見やった。

 

「石像……だと?」

 

 そう。

 切り落とされたのは、アサシンの首ではなく、地蔵の首だった。

 なんのまやかしなのか、地蔵はアサシンを助け、その身を代わりに兇刃へと差し出したのだ。

 時間が停まる。アサシンは息を詰めて、足下に転がる、顔かたちなど消え失せた古石を見つめる。

 

 

――六人の地蔵像はおのおのの道で人に代わり苦しみを受けてくれる――

 

 

「――――」

 

 それは、いつ聴いた話だったか。考える間もなく、アサシンは動いていた。かつての素早さなどありえず、射貫かれた体で、唯一動く右手に折れた刀を提げ、鈍重に、しかしたしかに、動いていた。

 

「……ほう?」

 

 面白げな男の声など聴こえない。アサシンの、剣士の立つ境地は無念無想のそれだ。そこに在り、そこに居ない。ゆえに何人もかれを侵すことはできず、その剣は、決して曲がらない。

 ぱちんと指が鳴らされる。虚空に浮かんだ武器の装填は計三十。半死人を仕留めるには過ぎた振る舞いだろう。

 だが。剣士を止めるにはあまりにも不足といえた。

 奔る銀条は血塗れの侍を目掛け、しかしどれひとつとして中ることなく通り過ぎてゆく。男は訝り、放つ数を増やすが、アサシンには無為としか思えない。中る気がしない。身を風水とするならば、流れ矢のごときに傷付けられる道理はない。そう、信じることもなく知っていた。

 迫る。

 そこで勝ち気が出たためか、集中は途切れ身は剣に貫かれる。五臓六腑はことごとく破裂して、なかばにして切り裂かれた喉から血の塊が次から次へと溢れ出す。

 ひゅうひゅうと、漏れ出す呼気は笛の音にも似て、言葉など紡ぐことさえ出来ない。

 止まる。

 次はない、と金色の男が言う。その声も幻聴じみて遠い。さて鼓膜がいかれたか、とアサシンは嘆いた。眼もよく見えぬ。これでは花も鳥も月さえも、愛でることはかなわぬ。

 

「だが、それもいい」

 

 声は出ない。言葉を発することが出来ないのだからそれは当然だ。それでも紡ぐ。片手で剣を構える。

 振りかぶる。

 

「秘剣―――」

 

 神を、斬る。

 

「―――燕返し」

 

 

 私は、ここに生きた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                               

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 はたして、門番の剣は英雄王の首を斬ることはかなわなかった。しかし弾幕として放った数十の宝具は蒼天に走る霹靂のごとく流れを断ち切られ、ついには王の首に一筋の朱を引いたのだ。剣士の刀がもとの長さを保っていたなら、あるいは――

 否。

 剣士は負けた。全身を剣に貫かれ、あげく王の逆鱗に触れて刎する末期をむかえた。それだけが事実であり、結果だろう。

 鐘が鳴る。

 人知れず門を守った侍を悼むように、低く重く、夜に染みてゆく。

 

 孤高の剣士がいた。

 剣士は多くを望まず、しかし孤高であったがゆえに、ついにはその望みが果たされることはかなわず、黄泉から還ってなお、その最期は恵まれたものではなかっただろう。

 その死は、誰の目にも看取られない。

 ゆえに最期の最後、剣士が常のように微笑んでいたか否かは群雲にかげる月さえあずかり知らぬことだ。

 

 

 

 

 そして、山門にしつらえられていた地蔵堂の中から像が消えていたのもまた、神仏をおいてほかにあずかり知るものの居ない、その夜の不思議のひとかけである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                             

 

 

 

 

 

 

 

 








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