エリニュスの砲火(前編)




◆    ◆    ◆





 人類が『道』という概念についてその利便性を考慮し、獣道や踏み分け道などと呼ばれる自然発生的なものから次第に整地して現在で言う道路上のものを作るようになったのは、農耕による定住化、つまりは集落に住まうようになってからだと言われている。
 要するに、狩猟採取を生業とし、非定住生活をおくっていた頃にはわざわざそんなものを整えてやる必要は無かったのだ。一つ所に留まって集団で生活するようになった上で、そのコミュニティ同士による交易などが行われるようになると、安全且つ最短最速で移動可能な経路がどうしても要り用となって、人類は『道』を世界中のありとあらゆるところにまで拡げ、繋いでいった。
 そんな『道』の歴史は、しかし数十年前突如として終わりを告げた。
 正確には、無理矢理に終わらせられたのだ。
 極東の果て、日本という島国はかつてその狭い国土のあらゆるところに舗装された道路が縦横無尽と走っていたものだったが、今ではその残骸とでも呼ぶべき悪路が残るのみで、文明的な道路などというものは殆ど残っていない。そもそも集落――都市と都市とを陸路で繋ぐ意味が、殆ど喪失されていた。
 故に……『車』を使用しての移動はそれなりの困難を伴い、また運転にも相応の技術を必要とする。だと言うのに、そのジープはおよそ華麗なドラテクとは無縁の猛スピードで道路の残骸の上を爆走していた。
「うむむむむ……」
「……ねぇ、ちょっと」
「はっ、話しかけないでくださいジーナさん!」
「……わかったわ」
 真っ正面しか見据えずにアクセルほぼ踏みっぱなしの運転手を一瞥し、ジーナ・ディキンソンはやはり自分が運転役を務めた方が良かったかと重苦しい溜息を吐いた。如何なる場所、如何なる状況にも即時対応を旨とする彼女達《ゴッドイーター》には、当然ながら種々様々に高度な技術と応用力、つまりはサバイバリティが要求される。今では扱う者も、何より扱える場所も激減してしまった自動四輪車の運転技術なども、その中の一つだ。
 よっぽど才能が無い場合を除き、それが例え十代前半の若者であっても《ゴッドイーター》であるなら車の運転くらいは出来て当然……なのだが。
「あわわわわわっ……ジ、ジーナさん」
「……どうかしたの、カノン?」
 現在ハンドルを握り締め、悪路相手に悪戦苦闘しながら悪質運転の限りを尽くしている台場カノンは、残念ながらそのよっぽどの程近くに分類されるらしかった。
「予め言っておきます!」
「だから、なんなの?」
「……ごめんなさぁーーーーーい!!」
 猛スピードで悪路を爆走していたジープがコンクリート片に乗り上げるとどうなるか……考えるまでもなく、決まっている。
「わわっキャーーーーーーッ!?」
「……っと」
 フワリッと腰が浮き上がり、カノンとジーナはほんの僅かな間無重力を体験する羽目になった。勢いからすればスピン後に派手に転倒でもしそうなものだったが、そうならなかったのはカノンの悪運によるものか。
 ともあれ落地による衝撃で舌を噛まないよう注意しながら、それでも速度を落とすことなくジープは爆走を続けた。
「やっぱり私が運転した方が良かったんじゃない?」
「だ、だだ、だってジーナさん昨日も任務があって寝不足だって言うから!」
 しくじったな、とジーナは今さらのように後悔していた。
 昨日は大型アラガミ『ウロヴォロス』の討伐任務に手こずったせいで帰りが遅れ、その後に苦戦を反省しつつ新型バレットの調整についつい没頭してしまったため確かに寝たのは朝方で今も瞼が重いのだが……
「……それでも運転くらいは、私がやるべきだったわ」
「酷いですよーっ」
 そも、本来なら《ゴッドイーター》である二人が任務先に赴くに際し、普段ならきちんと送迎役がつくはずなのだ。しかしここ数日妙に活発なアラガミの出現に、《ゴッドイーター》のみならずそういったサポート面も手が足らず、今回も急を要するミッションという事で仕方なく二人は運転手の手が空くのも待たずに飛び出してきた、というわけだった。
「でも、その分戦闘の方はお願いしますね。私の方は本来の衛生任務で忙しくなると思うので……」
 ミッション内容は、想定外のアラガミの強襲により苦戦している第五部隊の援護と救出。
 当初、小型アラガミであるオウガテイルが数体発生しただけという至極簡単と思われた討伐任務に、フェンリル極東支部――通称『アナグラ』――は先日大幅なメンバー入れ替えがあったばかりで新人中心の第五部隊を実戦訓練とばかりに割り当てたのだが、それがいけなかった。オウガテイルを難無く撃破し、帰還しようとしていたところの油断を突かれたのだろう。新たなアラガミ数体の出現による救援要請の後、第五部隊との通信は途絶してしまった。
 通信の内容からどうも襲ってきたのはヴァジュラ種と、他にもあまり見慣れないアラガミが混ざっていたらしいのだが、いくら新人中心とは言えベテランも当然引率として同行しているため、まさか全滅はあるまいとの判断からアナグラは待機していたカノンとジーナに救援ミッションを依頼した、というわけだ。
 実際《ゴッドイーター》の生存能力は凄まじく、かくいうカノンも第一種接触禁忌に認定されるアラガミ『ツクヨミ』に襲われ、執拗な追跡に遭いながら辛くも生還したという経験がある。
「第五部隊の人達、あまり怪我してないといいんですけど……」
「怪我人が少なくても衛生任務に従事してていいわよ。あなたに前衛に出られると狙いがつけにくいから」
「ちょっ!? また酷いこと言われちゃいましたよ!?」
 別にジーナに悪気はない。カノンをなるべく前衛に立たせるな、というのはアナグラの《ゴッドイーター》であるなら誰もが留意していることだ。
 なにせ彼女、衛生兵で且つ使用神機は遠距離砲戦に特化したブラスト型であるにも関わらず、戦闘中になるとまるで二重人格者のように豹変。狂戦士となって吶喊した挙げ句に敵味方構わず弾尽きるまで撃ち続けるという極東最大の危険人物なのだ。その誤射率は全世界の《ゴッドイーター》達の中でも圧倒的大差でトップに君臨し続け、頑なに同行を拒否する者も多い。
 ジーナを始め彼女の扱いに慣れている第一、第二、第三部隊の面々も『カノンを前衛に立たせるな!』というのは半ば不文律のようなものだった。……もっとも、どんなに気をつけていてもいつの間にか敵の懐に立っていたりするのだが。
「もうそろそろ着きますね」
「さすがに飛ばしてきただけあって速かったわね」
「はい。ここからはもう直線なんで……かっ飛ばすぞオラぁアアアッ!!」
 どうやら戦闘中だけでなく、ハンドルを持たせても注意しなければならないらしい。
 同僚の豹変に辟易しつつ、ジーナはまた宙に浮いたりしないよう座席にしっかりとしがみついていた。





◆    ◆    ◆





 その廃墟を最初に『贖罪の街』と呼び始めたのは、果たして誰だったのか。
 かつては人々が行き交い、喧噪が絶えなかったであろう都市の残骸。平和だった頃の面影はとうに消え去り、中心部に建つ教会には救いの主ではなく、無慈悲に人を喰らう荒ぶる神が闊歩している。
「……第五部隊からの通信が途絶えたのは、この辺りですね」
 酷い惨状だった。
 到着した途端、二人は周囲に充満するあまりに酸鼻な臭気と、辺り一面に転がるオウガテイルらしき死骸に眉を顰めた。
 傷痕を見るに、これらは神機によるもの……第五部隊の成果だろう。
「オウガテイルだけでも結構な数ね。数体、っていう最初の報告から間違ってたんじゃないの?」
 訝しみつつ、ジーナは愛用の狙撃型神機『スワロウ』を構え、油断無く周囲を見回した。今のところ、人の気配もアラガミの気配も無い。
 戦場を移したのか、それとも撤退に成功したのか。或いは……
「もう少し、探してみましょう。まだ近くにいるかも知れません」
 見るからに重そうな320式キャノンを軽々と担ぎ、カノンはそう言って歩き出した。一応本職は衛生兵であるし、第五部隊の事が気になるのだろう。
 そもそも第五部隊のメンバーが大幅に入れ替わったのも、今から二ヶ月程前に新型アラガミ『ヴィーナス』と交戦した結果、メンバーの半数が死亡、残りも重傷を負わされたためだ。結局そのヴィーナスは極東のエース部隊である第一部隊が死闘の果てに討伐に成功したのだが、第五部隊は早急な再編を余儀なくされた。
 そうして焦った結果がこれでは、あまりにお粗末というものだ。
 あくまでそれらはフェンリル本部からのお達しによるもので、支部長代理のペイラー榊や教官である雨宮姉弟の手落ちとはあまり考えたくはなかったが、あまりこういった事が続くとカノンやジーナら現場の人間は不安を余儀なくされてしまう。
「そう言えば、第五部隊に新しく配属された子達も新型なんでしたっけ?」
「らしいわね。うちのエース二人もだけど、世界中のどこの支部でも新型が戦果を上げてるみたいだし、本部としてはもう全《ゴッドイーター》を旧型から新型に入れ替えたいのかも知れないわね」
「うぅ……そしたら私達、クビって事ですか?」
「まぁ、そうなるわね」
「どうしよう……お父さんのお給料だけじゃ私の家生活苦しいんですよ。妹もまだまだ育ち盛りだし……」
 そう言ってガクリと肩を落とすカノンを見て、ジーナは苦笑した。カノンのように、家族の生活を支えるため《ゴッドイーター》をやっている人間も少なくはない。独り身のジーナには、時にそれが眩しく感じられる時もある。
「……大丈夫よ。この先、いつかはそうなるかも知れないけど、すぐに総入れ替えが出来る程の余裕は本部にだって無いはずだし」
「そ、そうですよね? ……はぁ。良かった……のかなぁ」
 そんな風にぼやきながら、不意にカノンが足を止めた。
 ジーナも同様、スワロウを構え直し、五感を研ぎ澄ます。
「……ジーナさん」
「ええ、……近いわね」
 アラガミの気配だ。
 それも酷く獰猛で、興奮しているのがわかる。
 新型が持つとされる感応現象とは異なるが、旧型《ゴッドイーター》であっても近くにアラガミがいると肉体に投与されたオラクル細胞のせいなのかその存在を感じとり、肌が粟立つのだ。
 動悸が激しくなる。
 鼓動が早鐘を打ち、汗が頬を伝った。
「そこの、カドの先……ですね」
「……ええ」
 曲がり角に近付くにつれ、クチャクチャと何かを咀嚼するかのような音が聞こえてきた。その音を、二人は嫌気が差すくらいよく知っている。
 アラガミが獲物を捕喰している音だ。
 皮を破り、肉を噛み、骨を砕き、血を啜る。
 それが意味するところを想像し、ギリッと歯噛みしながら二人は曲がり角の直前に位置取り、頭半分だけ出して目標を確認した。
 相手はヴァジュラが一匹。こちらに背を向け、一心不乱に餌を喰らっている。
 おそらくは第五部隊がつけたのだろう。全身に大小様々な傷を負い、出血もまだ止まっていないようだった。その回復のため捕喰に集中しているに違いない。
「……ッ!」
 ヴァジュラの喰らっている獲物が、一部だけ見えた。
 あまりに勢いよく喰いつかれたためか、跳ね上がった……腕。
 見間違いようもなくそれは人間の右腕で、手首には《ゴッドイーター》の証であるハーネス――神機と使い手を繋ぎ、認証させる腕輪――が嵌められていた。
「一撃で、頭を潰すわ。……ミスしたら、あなたが吹き飛ばしてやって」
「……はい。わかりました」
 怒りや憎しみ、悲しみ……そういった仄暗い感情のうねりを瞬時に封じ込め、二人はベテランの《ゴッドイーター》の貌でヴァジュラの背を見据え、狙いを定めた。
 狙撃手としてのジーナの腕は極東でもトップクラス、しかも相手が此方に気付いていないともなればこの距離で外すわけがない。
 スッと呼気を整え、ジーナの意識が深く、鋭く、精確に、ヴァジュラの武骨な後頭部へと集束していく。
 獲物を貪り、満悦とその獅子頭が持ち上げられた瞬間、
「……!」
 ジーナの指がスワロウの引鉄を引き、狙撃用のレーザーバレットがヴァジュラの後頭部から前頭にかけて貫通、僅かに遅れて血と脳漿が飛散する。
 その一撃でケリはついた。
 断末魔の咆吼すらあげず、獅子神がグラリと傾く。
 次の瞬間ヴァジュラの巨体は糸の切れた操り人形のようにその場に崩れ落ち、頭部の穴からは血の噴水があがり赤いシャワーを降らせていた。
「……ふぅ」
 スワロウを肩に担ぎ、一息吐きながらジーナは腰を下ろした。
「これで終わり、ね。……生存者がいるかどうか、確認しましょう」
「……はい」
 せめて生き残りがいると信じたい。
 第五部隊とは特に顔を合わせる機会もなく、新しく配属された新人達についてもわからないが、それでも同じ支部に属してアラガミの脅威と戦う仲間だ。この黄昏の世界で、いつ死ぬともわからない状況に身を置いている者同士だからこそ、こんな時にはせめて祈り縋りたくなる。
 ともあれ、カノンはまずヴァジュラに喰われていた仲間と思わしき者の亡骸を確認、回収してやろうと歩を進めようとして、……それに気付いた。
「あれ、これ……」
「どうしたの、カノン」
 急に立ち止まり、建物の壁面や地面と睨めっこを始めたカノンにジーナが小首を傾げた。
「ジーナさん、見て下さい。これ、この跡……新しいものだと思うんですけど」
 それは、とてつもなく鋭利な刃物で切断されたらしい跡だった。そんなものが壁やら地面やらに幾つも刻まれ、よく見れば血痕もそこかしこに見られる。さらに、ジーナはその切断跡と血痕のすぐ側に落ちているものに気付いた。
「これ、神機の欠片?」
 アラガミと真っ向斬り結ぶ事が可能な神機まで、同じように綺麗な切断面を晒してしまっている。こんな芸当はいくらヴァジュラの牙や爪でも出来っこない。
「ヴァジュラじゃない……もっと別の何かに第五部隊は襲われて……――」
「ジーナさん、危ないっ!!」
「ッ!?」
 カノンが声をかけるのがあとほんのコンマ数秒遅れていれば、ジーナの身体も両断されていたに違いない。ビルの影から凄まじい勢いで跳躍してきた影が、たった今までジーナのいた場所に刃を突き立てていた。
 ジーナの長い髪が数本、パラパラと宙を流れる。それを挟み対峙したアラガミは、二人共データでは知っていても実際には初めてまみえる相手だった。
「……ジーナさん、こいつ」
「ええ、第一部隊の交戦記録にあったわね。……推定ハンニバル派生種、主な武器は両腕のブレードと、氷雪の吐息。……氷の、竜帝……」
「……《カリギュラ》……!」
 二人が咄嗟に左右へ回避したのは、《ゴッドイーター》としての経験と、何より直感に依るところが大きかった。
「速い!?」
 ブレードを展開しての予備動作から突進までのラグが殆ど無い。
 高速で突っ込んできたカリギュラのブレードに浅く腕を裂かれながら、カノンは激情し320式キャノンをその深蒼の竜躯へ向けた。
「コイツッ! 穴だらけにしてやるッ!!」
 逡巡無く爆破系のバレットを、エネルギーが切れるまで全弾叩き込む。普段はその迷いの無い凶悪な戦法が度重なる誤射を生むのだが、今回に関しては最良の選択だったと言えるだろう。
 左右両方の獲物を同時に斬り捨てようと広く両腕を展開していたためガラ空きだったカリギュラの脇腹が、カノンの砲撃によって盛大に爆ぜた。
 竜帝の悲痛な叫びが轟き、爆炎の中がむしゃらにブレードが振り回される。
 その隙にジーナは距離をとってスワロウを構え、カノンは消費したエネルギーを回復すべくオラクル細胞を携帯型のアンプルで補給した。
 とは言え二対一の不利はまだまだ覆らない。フェンリル全支部を見渡しても現状最強部隊とまで言われる第一部隊でさえも、このカリギュラを討伐する上で二人の重傷者を出したのだ。特に藤木コウタなどは《ゴッドイーター》の治癒力を持ってしても全治に三週間かかる程の傷を負ったというのだから、一瞬たりとも気の抜ける相手ではなかった。
「はんっ! ブチ殺がしてその薄汚いコアまで粉々にしなきゃわかんない? アンタみたいなクソアラガミにはねぇ、この世に生きてていい場所なんて無いんだ! ほらほら、とっととゲロ臭い臓物ブチまけちゃいなよ!!」
 口汚く罵りながら、カノンは果敢にカリギュラの懐へ飛び込むと今度は至近距離から頭部目掛けて放射系のバレットを叩き込んだ。第一部隊の報告通りなら、カリギュラの弱点は雷だ。320式キャノンの砲身が激しく放電し、雲霞状の雷撃がその凶暴な顔面を焼き焦がす。
 激痛のあまり跳ね上がったカリギュラの頭部を、今度は雷のレーザーバレットがスパークしながら撃ち抜いた。
「……あまり舐めないで欲しいわね、《ゴッドイーター》を……ッ!」
 さすがに一撃で頭部粉砕とまではいかなかったまでも、ツノを砕かれ側頭部を焼かれたカリギュラはさらに猛り狂った。たった二人の矮小な獲物に好き放題され、竜帝の怒りは頂点に達したようだ。
 その間にもカノンとジーナはカリギュラの隙や弱点を突くべく、その全身を隈無くつぶさに観察していた。よく見れば今二人がつけたもの以外にも身体の各所に真新しい傷があるのは第五部隊がつけたものか。特に先程カノンの腕を裂いた左腕のブレードは先端の部分が欠けていた。そのダメージが無ければ、今頃カノンの右腕は無かったかも知れない。
「……チッ。……どんどんイクよ、冷凍豚野郎!!」
 凄絶な斬撃を紙一重で躱しつつ、カノンの砲撃がカリギュラの左ブレードをさらに短く粉砕する。誤射の女王とは呼ばれているが、偏食因子への適合率自体は極東支部内でも一、二位を争うのがカノンだ。上手くはまればその戦闘力はベテラン勢の中でも上位に食い込む。
「とっとと、砕けて、ミンチになるんだよこのドサンピンがぁあ!!」
「……毎度の事ながら、よくもまぁ罵倒がああもポンポンと口をついて出るわね」
 呆れるべきか感心すべきか悩みつつ、狙撃を続けるジーナへ向けて竜帝が大きく口を開いた。
「……ヤバ」
 冷気の塊が巨大な弾丸となり、回避したジーナの横をスレスレに飛んでいく。
「身体が冷え切ってしまう前に、何とかしたいものね」
 ウンザリと呟きながら、ジーナはすぐさまスワロウの照準を合わせるとトリガーを引き絞った。



 満身創痍とは、まさに今の状態を指す言葉だろう。
「はぁ……はぁ……ち、畜生……あの、ドグサレ野郎……っ」
「……何とか、死なずに済んだわね」
 ギリギリと歯軋りし地面を蹴りつけているカノンも、愛銃にもたれ掛かって一息吐いているジーナも、身体中裂傷と凍傷まみれだった。カリギュラに第五部隊との連戦による消耗が無ければ今頃は二人とも間違いなく喰われていただろう。
 ともあれ、カリギュラが後先を考えずに特攻してくるのではなくこちらを手強しと見たのか撤退してくれたのは素直に有り難かった。第五部隊の仇を討ってやれなかったのは無念でも、こちらまで死んでしまってはどうしようもない。
「つ、次に遭ったら、絶対……ブッ殺ブチまけてやる……クソが……」
「いい加減に落ち着きなさい。私達も、もう限界よ」
「……は、はい……ふぅ」
 今の状態でまた別のアラガミに遭遇でもしたら、相手がただのオウガテイルでも危険極まりない。生存者の探索は残念ながら改めて別の部隊を編成して貰うしかないだろう。
 錠剤を飲み、最低限の体力を回復させてからジーナがジープの停車地点まで戻ろうとすると、カノンがちょっとだけ待って欲しいと言ってきた。
「どうしたの?」
「いえ、……探索は無理でも、せめてあの人の遺体だけでも、と思って」
 ヴァジュラに喰われていた犠牲者の事を思い出し、ジーナは自らの情の薄さに嘆息した。彼らの健闘があったからこそ生き残れたようなものなのに、まったく酷いものだと我ながら呆れてしまう。
「……あんたは、本当に優しいわね」
「そんな事無いです。……でも、ただの偽善だとしても……私……」
 亡骸の殆どはヴァジュラの死骸の下敷きになってしまっていた。
 唯一飛び出していた腕から察するに、まだ若い女……少女のようだ。
 おそらくは新たに配属された新人だろう。それが、ヴァジュラはまだしもカリギュラのような化物と遭遇してしまったのは不運としか言いようがない。
「ヴァジュラ、どかさなくちゃ」
「私も手伝うよ」
 疲労の極みにある身体で、それでも二人は死んでしまった顔も知らない仲間のために全力を振り絞った。《ゴッドイーター》の身体能力が無ければ1mmたりとも動かすことなど出来なかったろうヴァジュラの巨体が僅かに浮き上がり、圧し潰されてしまった可哀想な亡骸が徐々に露わとなっていく。
「うん……しょっ、……うーーー、っとぉ!」
「……ふぅ。やっとどかせたわ」
 思った通り、亡骸の状態は酷いものだった。
 カリギュラに両断された後にヴァジュラに捕食されたのか、胴体部分で身体は分かたれ、下半身はほぼ完全に喰われてしまっていた。僅かに左足の膝下部分だけが原形をとどめており、惨状には不釣り合いな可愛らしいソックスが見える。
「……ジーナさん」
「……ああ」
 せめて残っている部分だけでも持ち帰り、弔ってやろう。
 そう考え、二人は犠牲者の遺体を拾い集め始めた。
 無心に、無言のまま、仲間だったはずのものを拾う。上半身と右腕、千切れた左手、散乱している髪は見つかったものの、首から上が見あたらない。
「頭は……喰われたのかも知れない」
「……です、ね。じゃあ、このくらいで――」
 今度こそ撤退しようと踵を返した拍子に、カノンはやや離れた所に転がっていた頭部らしきものを発見した。あれもカリギュラに斬り飛ばされたのか、それともヴァジュラの爪牙によって千切れ飛んでしまったのか。
 どちらでもいい。せめて仲間の顔を見て、その顔を覚えて、弔ってやろう。
 カノンはゆっくりと首に向かって歩を進めた。犠牲者を憐れみ、悔やむよう表情を曇らせたまま、一歩、一歩近付いていき――不意に、足が止まった。
「……カノン?」
 ジーナが異常に気付いた時、カノンは全身を激しく震わせ、ガチガチと歯を鳴らし恐慌をきたしていた。何事か呟いているが、うまく聞き取れない。
「カノン……何が……――カノン!」
 いくらなんでも様子が尋常ではない。
 駆け寄ったジーナが、膝を折って崩れ落ちるカノンを寸でのところで抱きとめる。
「どうしたの? いったい、なにが……」
「なん、で……なんで……なんで……なんでなんでなんで……」
 譫言のように呟きながら、カノンはただ一点――犠牲者の首を、見つめていた。
 顎から下が潰れてしまっているが、幼くも可愛いらしい容貌の持ち主であったことがわかる。が、それ以上にジーナもその顔には見覚えがあった。
 無理もない。
 似ているからだ。あまりにも。
 おそらくもう何年かすれば、今自分の腕の中で愕然と震えている女性と瓜二つに成長していたであろう、少女。
「どうして……この子が……」
 カノンの目は、もう焦点が合っていなかった。
 喉を震わせ、頬を引き攣らせ、しゃくり上げるように、名を呼ぶ。
「……コト……ミ……なんで……」
 それは彼女が守ろうとしていた者の名。
 台場カノンが《ゴッドイーター》として命を賭して戦い続けてきた理由、原動力の一つ。心から愛する家族の……妹の――
「なんでよぉおおおおおおおおおおっ!!」
 あまりにも悲痛な叫びに、ジーナは黙って目を背けるしか、出来なかった。






◆    ◆    ◆





 台場コトミは、《ゴッドイーター》として活躍する姉をとても尊敬していたのだという。何かあればすぐに姉の事を誇らしげに語り、姉のようになりたいと度々口にしていたのだと、葬儀の席でカノンは妹の友人達から聞かされた。
 妹のコトミが《ゴッドイーター》を目指して、その養成機関である狼谷学園に入学したことは無論カノンも知っていた。しかしそれはあくまで候補生であって、実戦に出るのはまだまだ先のことだろうと、そう思っていたのだ。
 だから知らなかった。
 姉を目指し、学園でも好成績を叩き出し、期待の新人としてコトミが第五部隊に配属になっていた事も。姉を驚かせたくてコトミ自身がその事を黙っていてくれるよう父と母にも口止めしていた事も。
 カノンは、知らなかった。



 コトミの死から、台場家の歯車は狂い出した。
 父も母も娘達に似て心根の優しい人達だったが、反面、脆すぎた。
 滅びゆく世界にあってただ娘達が無事であってくれればと願い、二人が《ゴッドイーター》になる時も眉を顰めていた二人が、愛娘の無残な死に耐えられるわけが無かったのだ。
 母は床に伏せり、父は酒を飲んで荒れるようになった。
 明るく笑いの絶えなかった家には重苦しい闇が立ち籠め、妹の名を呼ぶ母の嗚咽と、フェンリルを罵倒する父の怒声ばかりが響くようになった。そんな家に帰るのが辛くて、カノンも次第に実家への足が遠のいていった。
 またこの頃、カノンは衛生兵から狙撃兵へと兵種を変更した。
 戦闘でも今まで以上に積極的に前衛に出るようになり、一部の同僚からは煙たがられはしたものの、アラガミ討伐数は着実に伸びていった。
 どんな強力なアラガミが相手であろうとも、臆することなく飛び込み、傷だらけになりながら零距離からのブラストで破砕する。
 コトミの死から、二年。
 身体からアラガミの血の匂いがとれなくなった頃、カノンはいつしかエースと呼ばれる実力を手に入れ、引き替えに、かつての柔らかな笑顔は失われていた。





◆    ◆    ◆





 肝要なのはタイミングだ。
 振り下ろされるアラガミの腕を寸前で躱すのも、それと同時に回り込んで懐へ飛び込むのも、相手の土手っ腹に銃口を突きつけるのも、そして……引鉄を引くのも。
「……ーッ」
 ヴァジュラの豪腕によって生じた突風が頬を撫でていく、ヒリつくような感覚。並大抵の人間であれば恐怖と危機感に身を硬直させるか、パニックに陥る。それが熟練の《ゴッドイーター》であっても僅かに動きが鈍るところを、カノンは一切の迷い無くやり過ごし、無情に引鉄を引いた。何度も何度も繰り返しアラガミの爪牙に引き裂かれ、血塗れになりながら覚えた呼吸と挙動は今や神業の域に達しようとしている。
 自らの攻撃を避けられたこと、その隙に腹の下に潜り込まれたこと、己の肉体が血と骨と内臓を空中高く飛散させながら二つに分かたれたことを、果たしてヴァジュラは理解していただろうか。
 320式キャノンをさらに改良し、『真』の名を冠されたブラスト型神機の破壊力はあまりにも絶大だった。
 ドチャリ、と血溜まりの中にヴァジュラの巨体が沈み込む。まだかろうじて生きているようではあったが、命の灯が消え去るのは時間の問題だろう。
 その凶険な顔面に、ヴァジュラの返り血で全身を赤く染め上げたままのカノンは顔色一つ変えることなく銃口を押し当てた。が、カノンが引鉄を引くよりも先にレーザーがヴァジュラの脳天を貫通し、トドメを刺す。
「……ジーナさん」
「あんたに最後までやらせると、素材として使える部分も粉々にされるからね」
「そっちは?」
「コンゴウは問題無くしとめたわ。後は、荷電型のシユウを一匹ね。……新人クン達、ちゃんと隠れてるかしら?」
 今回のミッション内容はヴァジュラとコンゴウ、それに荷電型シユウ各一匹ずつの討伐。本音を言えば、カノンとしてはジーナと二人で挑みたかったのだが、アナグラの方から『実戦経験を積ませるためにも』と半ば無理矢理に新兵を二人ねじ込まれ、結局は四人で任務にあたっていた。
 しかしいざ出撃してみると、新人二人の動きは本当に正規の訓練を終えてきたのか疑いたくなるくらい杜撰で、このままでは足を引っ張られた挙げ句に無駄な犠牲を増やすだけだと判断したジーナによって戦闘終了まで隠れているようキツく言い渡されたのだった。
「……大丈夫、ですよ。そんな、自殺志願者でもない限り……一度実戦を思い知れば、あんな腕で戦場に出ようなんて……思わないでしょう?」
「ならいいんだけど……プライド高そうな子達だったから、ちょっと不安で――」
 ジーナがそう零した、まさに瞬間だった。
「うっぅあわぁああああああああああああッ!!」
 廃墟の向こう側から聞こえてきた悲鳴は間違いなく新兵のものだ。
「ッ!? 言わんこっちゃない!」
 それぞれ愛用の神機を構え、カノンとジーナは悲鳴が聞こえた方角へ向かい走り出した。その間にもさらに悲鳴と銃声、剣戟の音が響く。
 走りにくい廃墟を駆け抜け、崩れたビルの影を出る。
 そこに、二人と一匹が、いた。
「ち、畜生ッ、畜生!!」
「……たっ、……たすけ……たすけ、て……」
 新兵のうち一人はまだ剣を手にアラガミと対峙しているが、腰が引けている。あれでは話にならない。もう一人は既にやられたらしく、腹部から夥しい血を流して横たわっていた。腹を裂かれた……のでは、なかった。よく見れば脇腹をゴッソリと剔り取られてしまっている。内臓の大半を失ってしまっていては、いくら《ゴッドイーター》でも致命傷だった。
「こ、この、来るんじゃ、来るんじゃねぇえっ!!」
 相手は任務内容にあった通り、荷電型のシユウ。全身を帯電させながらゆっくりと目標に躙り寄る翼手は鮮血に染まり、カチカチと牙を鳴らしながら頭を揺らす様は脆弱な獲物を嘲笑っているかのようだ。
 すぐさまジーナがスワロウ極を構えたが、振り上げられたシユウの大きな翼が邪魔になって頭部を狙えない。一撃で葬るのは、困難だった。
「チッ、このままじゃ……」
 そこへ、カノンが無言のまま大口径の砲身をシユウに向けた。
 目標へは真っ直ぐ。撃てば、外さない。
 ただし、その中間には傷つき倒れている新兵がいた。カノンの砲撃で今シユウを撃てば、間違いなく巻き込むことになる。
 致命傷を負っていても、彼はまだ生きていた。その命はあと数秒か、それとも数分もつか否かであっても、確かに生きていた。歳の頃は十代も半ば、今は素人同然の足手纏いであっても先があったかも知れない、少年。
 それでも、カノンは躊躇しなかった。
 いつものように、ただ、アラガミ目掛けて引鉄を引く。
 射線上に転がる仲間への感傷を捨て去り、冷然と。
 カノンが引鉄を引いたのと殆ど同時に、少年の痙攣が止んだのがジーナにはわかった。今、死んだ。彼は、彼だったものになった。それは既にアラガミによって破壊された、かつて人であったものに過ぎない。倒された《ゴッドイーター》など、この廃墟に朽ちている残骸も同然だ。
 それを飲み込み、カノンの放ったエネルギーの塊がシユウへブチ当たる。
「ひっ、ひひぃいいいいいっ!?」
 盛大に爆ぜたシユウの血を頭から浴び、命辛々助かった新人は震えながら失禁していた。軽い錯乱状態にあるようだ。もしかすると自分が命を拾ったことにも気付いていないのかも知れない。
 巻き込まれた新人の遺体は酷いものだった。身体の表面もさることながら、剔り取られた脇腹の部分から体内を焼かれ、所々が火膨れたり、炭化してしまっている。遺族にはなるべく見せたくはない有様だった。
「……任務、完了です」
 顔色一つ変えずに吐き捨て、カノンは踵を返した。かつての、戦闘の度に好戦的な性格へ豹変していた頃とは別人なようだ。今でも困難なミッションの最中には時折往時の貌を覗かせることもあるが、基本的には、これが今の台場カノンだった。
「これより帰投します」
「……あの子、どうするのよ?」
 錯乱し、今は放心状態にある生き残った新人を指してジーナが問うた。対して、カノンは振り返りもしない。
「……この程度の事で使い物にならなくなるなら、今日この場で殉職してしまった方が、きっと彼のためです。自力で帰投できないようなら置いて行きましょう」
 敢えて聞こえるような声量で、突き放すような物言いをする。そんなカノンの後に、ジーナは黙って付き従った。
 やがて二人の背中が廃ビルの影に消えようとした頃、ようやくフラつきながらも立ち上がった新兵は、仲間の成れの果てから目を背けながら、ゆっくりと、しかし自分の足で帰投した。





◆    ◆    ◆





「では、既に手遅れだった……そう言うんだな?」
「はい。提出した報告書の通りです。彼は致命傷を負っており、あの時点で助かる見込みはありませんでした」
 教官である雨宮ツバキからの詰問に、カノンは視線を逸らすことなく泰然と答えた。ただ事実だけを述べたまで――やけに醒めた表情は言葉よりも雄弁にそう物語っている。
「……元衛生兵の見立てならば、おそらく正しいのだろうな」
 溜息混じりに言いつつ、ツバキは顔を顰めて舌打ちした。
「だがもしかしたら、……そう、万が一にもだが、手当てすれば助かった可能性もある。《ゴッドイーター》の生命力とはそれ程驚異的なものだ」
「可能性を無視した点に関しては、抗弁する気はありません。ただ、私はもっとも効率のいい方法でアラガミを殲滅したまでです」
 それ以上は、ツバキも何も言うつもりはないようだった。そもそもツバキとて、万が一の可能性に賭けて他の者の命を危険に晒せとは教官という役職上決して言えないし、また言ってもいけないのだと自覚している。ただ、それでも今のカノンにはそう言わずにはいられなかったのだ。
 暫しお互いに無言の時が過ぎ去った後、退室の許可を貰い、カノンは一言『失礼します』と言って部屋を出た。



 カノンが退室した後、ツバキは眉間に寄った皺を指で押さえ付けながら、もう一度カノンとジーナ、それに生き残った新兵が提出した報告書を見た。
 ジーナからの報告内容はほぼカノンと同じ、もはや手遅れだった新兵がアラガミとの射線上にいたためやむなく発砲した、とある。カノンからの報告に付け加える点があるとすれば、『まだ生き残っていた者を救うためだった』という但し書きがあるくらいだ。おそらくそれが真実なのだろう。
 一方、命を救われた新兵の側からは、射線上に横たわっていた同僚がまだ生きていることを知りながら冷酷に引鉄を引いたカノンについて、報告と言うよりももはや罵詈雑言に近い言葉が並べ立ててあった。
「『味方殺し』のカノン……か」
 初出撃で、しかも目の前で同僚を惨殺されたため気が昂ぶってもいるのだろうが、決して言い訳をしようとしないカノンの――まるでかつてのソーマ・シックザールのような――態度にも問題がある。
「……まさか、あのカノンがこんな風になってしまうとはな」
 二年前の第五部隊全滅の件は、あきらかにフェンリル側のミスだった。あの頃の極東地区は異常とも言えるくらいアラガミが発生しており、誤情報は確かに散見していたが、それでもカリギュラやヴィーナスと言った当時新たに確認されたばかりだった強力な新型アラガミに関してはもっと厳重に対処しておくべきだったのだ。エース揃いの第一部隊に引っ張られる形で次々と強力な《ゴッドイーター》が育っていった慢心も、そこにはあったのかも知れなかった。
 現在、アナグラにはあの頃第一線で活躍していた者はカノンとジーナくらいしか残されてはいない。殆どの者は他の支部に転属したか、或いは引退したか。ツバキの弟であるリンドウも教官としての腕を買われ、妻子共々今は遠くアメリカにいる。フェンリル本部の意向で次々と新型《ゴッドイーター》が配属されていく中、有能な教官やベテランは引く手数多なのだ。
 もし彼らがこの極東支部に残っていてくれたなら、カノンもあそこまで変わり果てはしなかったかも知れない――そんな風に考えてしまう自分は、教官失格なのだろうなとツバキは自嘲した。
 現在のアナグラでカノンとジーナに掛かる負担は非常に大きい。難度の高い任務であっても問答無用で投入される練度の低い新型達を引率し、彼らを鍛え、育てながら生存させるのがどれほどの困難か。教官として出来ることなら自分が戦場について行ってやりたいくらいだ。
 今回のような自身が手を汚さなければならない状況下で、カノンはジーナに任せるような真似はせず自分で引鉄を引けてしまう。それ故の『味方殺し』の悪名が、ツバキにはやりきれなかった。
「それでも、ジーナがいてくれている分だけまだ救いはあるか」
 戦場で、私生活で、それとなくジーナがカノンを気遣ってくれているうちは、まだ大丈夫だろう。だがもし、それさえ失ってしまった時には……
「……自分を見失ってくれるなよ、カノン」
 報告書とは別の、カノンの名が記された書類に視線を落としつつ、ツバキは祈ることしかできない己を呪った。





◆    ◆    ◆





「おい、あれ『味方殺し』の……」
「……ああ。場所変えようぜ」
 食道で簡素な昼食をとりながら、耳に入ってくるそんな言葉も今ではもう慣れたものだった。カノン本人もさして気にしてはいないのだろう。誤射の一つで大騒ぎしていた二年前の彼女がなんとも懐かしい。
 美味くもない、ただ黒くて苦いだけの食後のコーヒーを啜りながら、そんな風に過去を懐かしむ自分にジーナは苦笑した。
 まだ二年。
 それとも、もう二年か。
 今のカノンの誤射率は限り無く低い。命中精度そのものが劇的に変化、向上したわけではなく、零距離からの射撃という危険極まりない戦法を覚えたがためだ。なのに『味方殺し』などという不名誉且つ物騒極まりないあだ名がついて回るのは、今回のような内容の任務が後を絶たないからだった。
 出現する個体数はやや減少傾向にありながら、その強さ自体は強力に進化し続けるアラガミに対し、フェンリル本部が無作為に新型《ゴッドイーター》を投入してきた事へのツケ払いのようなものだ。
 練度は低いくせにプライドだけは一人前な新型達の多くは、戦場で己の分をわきまえるという事を知らない。時に類い希な才能を持ってそのまま成長し続けていく者もいるが、そんなのは極々少数、一握りの者だけだ。
 戦功をあげようと無茶な特攻をした挙げ句、初めて感じる実戦の空気やアラガミへの恐怖に呑まれて何も出来ずに死んでいく……。今回の新兵もまさにそれだった。せめて物陰に隠れながらこちらの戦いを見るなり、最初はそんな程度で充分だったのだ。コンゴウもヴァジュラも、ましてや荷電型のシユウなど、新人には荷が勝ちすぎている。それではカノンがどんなに彼女なりに味方を巻き込まないよう己が身を危険に晒そうとも、結局無意味だった。
「新人にはオウガテイルあたりの小型討伐任務から……それも出来ればベテランを護衛につけて、なんて……今じゃ無理、か」
「そんな余裕、どこの支部にだって無いですよ。《ゴッドイーター》の死亡率、特に初実戦での数値なんて上がり続けてるのに、本部はそれも隠してる。……アリサちゃんや“彼”みたいな英雄が、そうそう現れるはずもないのに」
 アリサ・イリーニチナ・アミエーラと、かつて第一部隊のリーダーを勤め上げ『最強の《ゴッドイーター》』とまで呼ばれた青年も、今は極東にはおらず世界各地の支部を転々としている。
 彼らのような存在はまさに奇蹟だったのだ。現在のフェンリル本部はその奇蹟に縋り、暴走しているとしかジーナにもカノンにも思えなかった。
(ただゆっくりと、滅ぶのを待つだけ……ね。……シックザール支部長のアーク計画、私は誇大妄想狂の戯れ言だって鼻で笑ってたけど、今にして思えばあれはあれで有りだったのかも知れないわね)
 選ばれた千人だけを地球から脱出させ、人類を存続させようと試みたヨハネス・フォン・シックザールのアーク計画。あの当時、カノンがその計画に乗るべきかどうか随分と悩んでいたのをジーナは知っていた。計画に乗れば、少なくとも彼女とその家族は生き延びることが出来るのに、地球に残される多くの人々を見捨てることも出来ない。
 結局計画は頓挫したものの、もしも成功していたなら、そしてカノンが方舟に乗ることを選択していたなら――彼女の妹は、死なずに済んだかも知れないのだ。
 コトミの死後、一度だけそれらしい事をカノンが口にしたのを聞いた。今さらどうしようもない後悔。思い詰めても、計画を阻止した第一部隊の面々を逆恨みすることにしか繋がらない苦悩。誰かを恨み憎むことも、現実から逃げ出すことも出来ず、ただひたすらアラガミを狩る事でしか生きられないのが今のカノンだった。彼女に生きる目標があるとすれば、それはいまだに討伐報告の無いあのカリギュラくらいのものだろう。
(せめて、仇くらいは討たせてあげたいのだけど)
 自分達は二年前よりも力をつけた。その自信はある。ツーマンセルでハンニバルを狩る事が出来るのは、現アナグラでは自分達くらいのものだ。が、しかし、それでも果たしてカリギュラを狩れるものかどうか。
「ジーナさん」
「……ん」
 考え事をしているうちに自分もカノンもコーヒーを飲み終えていたらしい。
 席を立ち、ジーナはすっかり能面が板についてしまった歳下の友人に何かしてやれることはないか考え、物憂げに天井を見上げた。





◆    ◆    ◆





〜つづく〜






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