シュヴァルツヴァルトに煙る雨




◆    ◆    ◆



 洋上であるからといって雨が塩辛いなどということは有り得ない。
 そんなことは子供でも知っている。海水のうち水分は蒸発して雨雲を作りやがて雨となってまた海へと還るが、塩分は蒸発せずに海に留まり続ける。それでも多少なりと塩気を感じるのはこの風のせいだろう。そして僅かな苦味を感じるのは、感傷がそうさせるためだ。まだたった十七年程度しか生きていない小娘だろうと、それと感傷とは関係が無い。自分は、人より幾分か濃い人生をおくっているのだろうなとはどれだけ控え目な性格でもさすがに自覚していた。
 雨が煙る。灰の雲は見るからに厚く、暫く止みそうにはない。
 学園艦の端にある展望室から海を眺め、西住みほは今さらながら陸と海では雨の匂いも違うのだな、と秋雨に益体もない想いを馳せていた。
 みほにとって、雨の匂いとは後悔と慚愧の匂いだ。
 戦車道第63回全国大会を終えて、匂いは大分薄まった。それでも完全に消えることはない。雨が降るたびに負念の残滓は鼻腔を侵し、胸を締め付け、見えない痕を疼かせる。
 目を閉じて、雨音に耳を澄ませてみる。展望室の屋根を打つ雫は無機質な音を奏でるばかりで落ち着かない。僅かに開けた窓から時折小さな飛沫が手や頬に跳ねるが、それらはもう秋も深まりつつあるのに温かかった。去年の、真夏の雨はあんなにも冷たかったというのに。
「……あ」
 手にした封筒に水が跳ねたのに気付き、みほは咄嗟に制服の袖で拭うと窓から距離を取った。別にこのくらいで中の手紙にまで水が染みるとも思えなかったが、無下に濡らすのは差出人に悪い気がする。
 それは、みほにとってまったく意外な手紙だった。意外だけれど、貰えたこと自体はとても嬉しかった。全国大会決勝後、一応わだかまりは溶けたとは思うがそれでもかつての関係が簡単に修復されたとは思えなかったから。だからこの手紙だけなら、こうも物憂げになりはしなかったはずだ。
 窓から離れ、壁に背を預けるとみほは封筒を裏返し差出人の名前を見た。
「逸見、エリカ。……逸見さん」
 黒森峰の、現副隊長。今どき電子メールではなく紙の封書なあたり、きっとこれを送るのに彼女なりの様々な葛藤があってこんな堅苦しい形になったのだろうなと思うと少し微笑ましかった。内容は黒森峰の近況を簡潔に報告し、他には決勝後にも言われた「来年は負けない」といった挑戦状的な旨が達筆とは言い難い字で書き記してあった。単にそれだけ。それだけの手紙。なのに嬉しいのは、僅かにでもあの頃に戻れたような気がしたからだった。
 黒森峰にいた頃、みほとエリカは別段仲が良いわけでもなかった。少なくとも、大洗の仲間達のように普段から一緒に行動し、共に笑い、共に泣くような、そんなごく一般的な友人関係でなかったのは確かだ。それでも同学年のチームメイトでみほが一番親しくしていたのは誰かと問われたら、彼女以外にはいなかった。そもそも当時のみほには戦車道を通じた友人といったものは存在しなかったのだから。
 以前はそうではなかった。小学生の頃なら決して多くはなかったものの、一緒にいてくれる、隣を歩いてくれる友達と呼べる相手はいた。けれど中、高の戦車道は、名門黒森峰は、西住の家に生まれ、天才と称された姉のまほとはまた異なる才気を示す期待の新星にそんな甘えを許さなかった。
 黒森峰の戦車道は西住流の薫陶を色濃く受けた、徹底した実力主義だ。能力さえ示せば学年に関係なく重用される。それでも高等部に進学したての一年生が十連覇を懸けた全国大会を前に副隊長に抜擢されたともなれば二年や三年は無論いい顔はしないし、同じ一年からも距離を置かれてしまうのは詮無い事だった。おかげで上級生達からは陰口も散々叩かれたものだ。中等部での戦績から、みんなみほに姉に次ぐだけの力があるとは知っていたはずなのに、むしろ知っているからこそそれは陰湿で悪辣だった。一年生にはみほの人柄を好む者は多かったものの、単なるチームメイト以上に踏み込んできてくれた者は一人もおらず、唯一例外と言って良かったのが次年度以降の副隊長と見なされていたエリカだった。


   ■■■


『副隊長』
 副隊長に任ぜられて以降、エリカはみほのことを名前ではなく常にそう呼んだ。
 別段嫌味に感じたことはない。ややキツい物言いが目立つエリカだったが、物怖じせずに接してきてくれるだけでもあの頃のみほには有り難かったし、そこに悪意などは感じなかったからだ。
 一度、あれは五月の、大会が始まる前に行われた模擬戦だったろうか。三年生が数人、みほの出した指示を正しく理解出来ず、難癖をつけてきた事があった。
 みほのやり方は西住流のそれとは異なる奇手、母に言わせれば邪道だ。黒森峰でたっぷり六年間西住流のやり方に浸ってきた三年生に“自分なりの”やり方を理解させるには、みほは少々口下手が過ぎたというのが原因だった。加えて、普段の大人しく控え目な様子とは打って変わり、努めて冷静に指示を出そうとするみほの姿がその三年生達の目には小馬鹿にされているよう映ったらしい。話はこじれる一方で、隊長であるまほを呼ぶしかないか、とみほが姉に通信しようとした寸前、エリカが割って入った。
『これは囮を用いた、所謂釣り野伏を副隊長なりにアレンジしたものですね』
 相変わらず突っ慳貪な態度ではあったものの、その後のエリカの説明は立案した本人であるみほをして非常にわかりやすいものだった。そうしてみほの作戦の有用性を理路整然と言い解くと、エリカは半ば強引に三年生達を納得させ、結果その日の模擬戦は難無く勝利をおさめる事が出来た。
 みほからエリカによく話しかけるようになったのは、その一件からだったと思う。
 もっとも、話す機会が増えた、と言ってもそれはあくまでチームメイトとして、戦車道に関する話題のみで他愛もない雑談などした記憶は無い。あくまで副隊長と、部下。その線引きが寂しくはあったけれど、かと言ってみほの方も親しげに下の名で呼ぶ事などはついぞ出来ず、何度も『エリカさん』と呼ぼうと試みつつも結局黒森峰を去るまで『逸見さん』のままだった。
 それでもみほはエリカを、エリカはみほを、互いに信頼し、またやり方こそ違えどよく理解し合っていた。
 エリカは門下生ではなかったものの、西住流に憧れ独学で修練を重ねてきたらしく、この頃はまだまほの稚拙な模倣に過ぎなかったがそれでも時折みほを唸らせるだけの片鱗を覗かせることがあった。
 まほの示す西住流の圧倒的な力による蹂躙征圧戦法はエリカが継承し、みほは類い希な作戦立案能力と卓越した戦術眼を武器に戦場を支配する。やがてまほが卒業し、二人が最上級生となった暁には今のまほとみほのコンビスタイルをみほが隊長、エリカが副隊長となって引き継ぐのだろうと他の一年生達も当然のようにそう考えていた。
 しかし、そうはならなかった。
 夏の雨。
 土の匂い。
 泥の味が口腔内に甦る。
 それはみほにとってもエリカにとっても、無論隊長のまほにも、まったく予期せぬ出来事だった。
 十連覇のかかった第62回戦車道全国大会の決勝で、フラッグ車の車長を任されたみほは大雨の中逃げるプラウダ高校のフラッグ車をあと一歩の所まで追い詰めていた。
 予期せぬ、とは言ったもののそれはあくまであの時あの場でのことで、今にして思えばプラウダの、当時二年生だった作戦立案者であるカチューシャは黒森峰の重戦車軍を雨で地盤の緩んだ崖上の細道へ誘い込むためにいくつもの布石を打ち、自分達はその罠にまんまとはまってしまっていたのだ。
 みほも多用する囮作戦。もっとよく考えればそのくらいわかったはずが、目前にぶら下がった勝利という甘い餌にまだ一年だったみほは不覚にも惑わされてしまっていた。
 雨音を掻き消して響いた砲撃音を、最初みほはただの苦し紛れの威嚇だろうと思った。雨による悪視界の中で、射程ギリギリの位置から細道を行軍している自分達を狙い撃てるだけの砲手がプラウダにいるという情報は事前に調査した限りでは得られなかったからだ。それさえも、ノンナという全国でもトップクラスの腕を持つ砲手の存在を決勝の土壇場まで秘匿し続けたカチューシャの妙策だった。
 着弾の衝撃が轟いた後、先行していたエリカのV号戦車がグラリと傾いたのを目にした瞬間みほはようやく己の過ちに気付いた。
「あっ――」
 通信手に命じて指示を飛ばすよりも先に、無情にも崖は崩れ、増水した川へとV号が滑り落ちていく。自分のせいで。自分がプラウダの策を読み切れなかったせいで。あの濁流に呑まれてしまえば乗員の命に関わる。
 そこから先のことを、実のところみほは朧気にしか覚えていない。考えてとった行動ではなく、ただそうしなければと内から湧き上がる衝動に突き動かされた結果だった。車長である自分が降車して救助に向かえばどうなるかなんて火を見るよりも明らかだったと言うのに。
 水没する戦車のハッチに必死で取り付き、無我夢中で開けながらみほは謝り続けていた。姉に。チームメイトに。エリカに。
 みほの迅速な救助のおかげでV号の乗員に大した怪我はなかった。
 斯くして、黒森峰の全国大会十連覇の夢は濁流に消えた。


   ■■■


 決勝敗退の責任をとる形で、みほは副隊長を辞した。より正確に言えば、母の指示で辞めさせられたに等しかった。
 みほ自身、勝つためなら仲間の犠牲すら顧みないという母の、西住流の在り方に従うのはもう限界にきていた。もしあの時、我を忘れて救助に向かわず冷静にエリカ達を見捨てていたらと思うとぞっとする。
 小学六年生の時、友達と一緒に初めて本格的に戦車道をやり始めた頃からずっと考えていたことだ。自分は、西住流ではこれ以上戦車道は出来ない。
 十連覇を台無しにした戦犯として、それからの半年はみほにとって針のムシロだった。学園艦のどこにいても後ろ指をさされ、侮蔑と嘲笑の的にされる。
 みほを庇ってくれる友達は、一人もいなかった。
 次第に授業以外の時間は部屋に引き籠もるようになり、三学期が終わる頃、みほは逃げるように黒森峰を後にした。姉にも、エリカや他のチームメイトにも、一言も告げずに。
 戦車道のない所へ行きたかった。自分の過去など誰も知らない、鉄とオイルの匂いとは無縁の世界で一からやり直したかった。雨の匂いを忘れたかった。
「……そのはず、だったのになぁ」
 結局、みほは過去からも戦車からも逃げ切れず、転校した先の大洗学園で戦車道のチームを率いる事となり――今年も黒森峰の優勝を阻んだ。元より優れた戦略・戦術家であったものが、一年前プラウダに不覚をとった経験を糧に成長した結果の勝利だったのは最早皮肉と言う他無い。
 大会を優勝した一方で、大洗で新しく得た友達は勝ち負けよりも大切なものがあることをみほに教えてくれた。友達と、仲間と共に歩んでいく、元来の西住流とは異なるみほの戦車道。それはきっと自分にとっては正しかったのだと確信しているし、母や姉が相手でも、胸を張ってそうだと言う事も出来る。
 だからこそ、エリカからの手紙とほぼ同時期に届いたもう一通のメールに心がざわめくのだ。
 差出人の名は赤星小梅。
 一年前、エリカと同じ戦車に乗っていた、みほの元チームメイト。
 エリカの手紙よりも長い文面のメールに書かれていた内容は、決勝前にも告げられた謝罪と、それに感謝をもう一度。そして……
「戻ってきてくれませんか、かぁ」
 雨はまだ止みそうにない。
 激しさを増しながら、降り続けている。





◆    ◆    ◆





 自分には才能が無い。そんな事は今さらだ。
 小雨がぱらつく中、傘もささずに高台から演習場の全景を見渡しつつ逸見エリカは愁眉をさらに顰めた。幼い頃から考え事をするといつもこうだ。ただでさえ切れ長のツリ目は周囲にキツい印象を与えてしまいがちなのに、この癖のせいで普段から意味も無く怒っているのと勘違いされてばかりいる。短気なのは事実だが、別にいつもいつも怒っているわけではないというのに。
 今だって天候について悩んでいただけだ。今日は大雨との予報だったので雨天練習のつもりでいたのだけれど、このままではもうじき止んでしまいそうだった。地面のぬかるみも思った程ではない。もっとも、足回りの弱い黒森峰の主力ドイツ重戦車にはこの程度でも充分悪所足り得るのだが、どうせならもっと最悪の条件下で練習を積みたかった。
 練習メニューを組むのは主に副隊長であるエリカの仕事だ。しかし、どうにもこの手の作業は苦手だった。副隊長に任ぜられたのは去年の全国大会後だからかれこれ一年もやっているはずなのに、いまいち上手くやれている気がしない。これが自分一人の練習だったならひたすら死に物狂いで突っ走ることが出来るのでよっぽど楽であるものを、そうもいかないのが実に難儀だった。
 エリカの前任の副隊長は、練習メニューを作るのがとても上手だった。チーム全体の長所を伸ばし、短所を一つずつ丁寧に塞いでいく。隊長の西住まほが絶対的な個の力でチームを牽引するのに対し、彼女はチーム全体を底上げするのに秀でていた。去年の黒森峰が歴代の黒森峰でも最強なのではないかとまことしやかに囁かれていたのは、そんな二人の歯車がガッチリと噛み合っていたためだ。
 その歯車が欠けてしまった原因は、自分にある。少なくともエリカ自身はそれを気に病んで、この一年懸命に副隊長を務めてきたつもりだった。とは言え才能の差は如何ともし難く……先日の大会、決勝ではそれを痛感させられたばかりだ。
 もっとも、才能の差以上に性質の違いというのもある。エリカはタイプとしてはまほと同タイプで、彼女の考えを汲みその作戦を忠実に遂行することは可能でも別の面から支えるという事が出来ない。
 小学生の頃、一学年上のまほが凛々しく戦車を駆る姿をテレビで見て以来、エリカはずっと彼女を目標にしてきた。黒森峰女学園に入学し、中等部で初めて戦車に触れてからもその想いは変わることなく現在に続いている。
 ズブの素人だったエリカの戦車道は、黒森峰女学園中等部機甲科の底辺である三軍から始まった。三軍は当然ながら一、二軍と比べて練習で使用出来る戦車数も少なく、専ら体力作りなどの地味な基礎ばかり積まされる。ミーハーな気分で名門黒森峰の機甲科を選択した生徒は大半がここで挫折し、次年度以降は別の学科へと移っていった。エリカと同学年で三軍からスタートした数百人のうち、今も機甲科に残っている生徒は十人にも満たない。
 西住流の試合映像やそれらを解説した書籍には必ず目を通して研究し、実践すべく血の滲むような特訓を繰り返して、二年に上がる頃にはエリカはどうにか二軍への昇格を許されていた。そこからさらに一年半、ようやく一軍へ上がれたのは三年も半ばを過ぎた頃だ。
 自主練も含めた練習量だけなら一軍にだって負けていない自信はあった。憧れのまほに追いつくため寝る間も惜しんであらゆるポジションを修練し、殊に砲手と装填手の腕に関しては二軍では比肩しうる相手がいないまでの領域に到達していたし、一軍でも自分はやっていけるはずだという自信もあった。
 大間違いだった。
 黒森峰女学園の、特に高等部は全国でも有数の戦車道の名門だけあり、中等部からそのままエスカレーターで進学する生徒の他にも中学生大会等で名を馳せた有力な生徒が外部から編入してくる例も多い。どの学校でもエースを張れるだけの実力者が集まり、競い、蹴落とし合う。中等部の一軍は、進学と同時にそんな戦車道の蠱毒壺へ放り込まれるのだ。並大抵の力と覚悟でやっていられるものではない。
 高等部でも振り落とされないよう、中等部一軍では二、三軍など比較にならない過酷な練習が待っていた。エリカがあれだけ磨いた装填速度も一軍では並程度に過ぎず、砲手としては下から数えた方が早いくらいだった。
 自信が剥がれ、零れ落ちていく。なけなしのプライドは砕け散り、黒森峰という巨大な戦車道の怪物に呑み込まれようとしていたエリカは、そこで一人の“本物”と出会った。
 話には聞いていた。西住まほには一つ下の、エリカと同い年の妹がいると。
 西住の家に生まれながら本格的に戦車道を始めたのは小学校六年からで、中等部に入学した当初こそは二軍スタートだったものの一学期半ばには早々に一軍へと昇格を果たした才能の塊。華々しすぎる姉の栄光に隠れながらも、聞こえてくる噂は彼女の傑出した能力をこれでもかと物語っていた。
 けれどそんなもの、所詮噂は噂、眉唾だ。自分の目で見るまでは決して信じまいぞと意味も無く対抗心を燃やしていたエリカは、しかし見てしまった。彼女の指示一つに、チームが魔術めいた動きで縦横無尽に戦場を駆け回るのを。
 彼女が指揮するチームは十対五でも負けなかった。二十対五ですら勝利をおさめた事もある。寡兵であることを逆手にとり、囮、誘導、待ち伏せを効果的に用い、時に信じられない奇策でもってフラッグ車にのみ狙いを定め、討ち取る。エリカの憧れるまほの戦術とはあまりに異なる、それが、西住みほだった。
 西住流の戦術とは即ち猪突猛進。しかしその猪はただの猪ではなく、野生によって鍛え抜かれ、徹底的に錬磨された猪だ。獲物の弱点を怜悧冷徹に見定め、その一点へ向けて猛進し鋭い牙を突き立てる、天下無双、疾風迅雷の鋼鉄の猪。
 一方みほの戦術は、そんな猪を十重二十重の罠でもって狩りたてる狩人のそれだった。しかもこの歴戦の狩人は、猪に対し無力な村人をも的確な指示でもって狩人に変えることが出来るのだ。
 模擬戦にてみほの指揮するチームと戦い、手も足も出ずに完敗した夜は悔しさのあまり眠れなかった。
 逆にみほの指揮するチームで戦い、彼女の策に従って完勝した夜は興奮のあまり眠れなかった。
 まほとは別の意味で、みほは鮮烈だった。ライバル意識もあったが、エリカは彼女の指揮下で戦うのは好きだった。自分の力を自分以上に引き出してくれる存在に、それまでと違う充足感を見出していた。
 自分には才能は無い。逸見エリカは、どれだけ憧れようとも西住まほにはなれない。それでも愚直に鍛え抜いたこの力をみほのような才気ある隊長の下で十全と振るう事が出来たなら、或いはまほと互角に戦うことだって不可能ではないかも知れない。そう考えると、ワクワクした。
 一軍の過酷さに折れかけていたエリカは、再び立ち上がった。
 自身の在り方に指標を見出したためか、中等部を卒業するまでの半年の間、エリカは目覚ましい成長を遂げた。高等部に進学して以降はみほに次ぐ実力者として、次代の副隊長候補とも見なされるようになった。
 中等部の頃と比べてみほと話す機会も自然と増えたが、エリカは必要な事以外ではあまり彼女には話しかけないようにしていた。昔から人付き合いはあまり得意ではなかったし、目つきや口調のせいなのか自分はみほに怖がられている気がしたからだ。その事自体は慣れてもいたし気に病む程のものでもなかったが、それが原因で指揮系統に乱れが生じては困る。
 思えば、それが誤りだった。
「もっと、話せばよかったのかしらね。……色々と」
 普通の女子高生同士のように。仲の良いチームメイトとして。友達として。親しげに雑談を交わし、休日は一緒に出かけるなどしていればよかったのだろうか。助けられた事に素直に感謝し、糾弾される彼女を壁となって庇えばよかったのだろうか。辛いこと、苦しいこと、悩みや愚痴を聞いてあげていれば、そうすれば、みほは黒森峰を去らずに済んだのだろうか。
 今となっては、わからない。わかっているのは、自分が何も出来なかったという事。何もしなかったという事。
 彼女との関係を友達と呼べるところまで踏み込めなかった理由には、嫉妬もあったのだろうなと思う。みほの力を認め、その下で戦う喜びを知ってなお、自分との才能の違いを妬んでいた。ちっぽけで、醜く、情けない感情が渦巻き、それらを必死に誤魔化そうと気丈ぶって、いつも仏頂面で、眉を顰めて。
 そんな自分が副隊長などしていたのでは、決勝で大洗女子に勝てなかったのも道理というものだ。エリカの力は、まほを支えるに足るものではなかった。まほの最強を支えるために必要だったのは、どうしようもなくみほだった。
 結局、逸見エリカは西住まほにも、西住みほにもなれなかった。
「……ふぅ」
 高台から降り、ガレージへと向かう。雨は殆ど止みかけていたが、空は曇天のまま晴れ間が覗く気配は無い。
 雨に濡れた色素の薄い髪がしっとりと頬や首筋に貼りつく。ずっと雨にあたっていたためか呼吸が重く、心なしか熱っぽい。だが、そう感じるだけでこの程度の雨で風邪をひいたりはしないだろう。両親が必要以上に丈夫に産んでくれたのか、生来病気には罹りにくいタチだ。もっと激しい雨に打たれても、濁流に呑み込まれた時でさえも、風邪はひかなかった。
 エリカが雨中での練習を重視するのも、あの日の後悔がそうさせるためだ。
 みほが、過剰なまでに仲間の身を案じる性質なのは知っていた。それは、エリカにとって不服な部分でもあった。別に仲間の安全など気にせず悪戯に危険な策を弄しろと言うのではない。みほの気遣いは度を超していて、自分達がまるで信頼されていないよう感じられたからだ。
 一度だけ、まほとその事について話をしたことがある。まほは、それはきっと自分のせいなのだろうと寂しげに笑っていた。
『みほは、私が出来ない事をやろうとしてくれているんだ。……いや、違うな。私にそうあって欲しいという、あれはあの子なりの抗議なのかも知れない』
 西住流にしかわからないのであろう、深い葛藤が垣間見えた気がした。
 ならばこそ余計に。十連覇を前に見捨てて欲しかったわけではない。エリカの後悔は“どうしてあの時自力で戦車から脱出できなかったのか”、その一点に尽きる。崖が崩れ、戦車が傾いた時点で取り乱したりせず冷静に退避を決断し、乗員と共に脱出を試みていればみほがフラッグ車から飛び出す寸前で待ったをかけられたかも知れない。しかし自分は恐怖のあまり錯乱し、慌てふためいて醜態を晒すばかりだった。みほが信じてくれていなかったのではなく、自分が信頼に足りうるだけの存在ではなかったというそれが悔しくて、今も大雨になるとがむしゃらに訓練を繰り返す。



 ガレージは無人だった。
 サンダースやプラウダには劣るものの、黒森峰の戦車保有台数も全国でトップクラスだ。ドイツ重戦車を主体に立ち並ぶ雄々しき鉄の塊群は壮観で、見上げていると今にも圧し潰されそうだった。
 黒い戦車の森の中をゆるりと進み、エリカは一台の戦車の前でふと立ち止まった。
 W号戦車J型。決勝でみほが乗っていた大洗のフラッグ車(当初そのシルエットからエリカはてっきりW号H型を新たに投入してきたのだろうと思っていたのだが、実際にはあくまで“H型仕様”のD型改であったらしい)を思い出し、苦笑に頬が弛む。
 かつては盛んだった時期もあったそうだが、二十年もの長きに渡り戦車道から遠ざかっていた学園で鉄屑同然と化していた戦車を引っ張り出し、予算など当然無い中生徒の力だけで全車稼動状態にまで持っていって優勝したというのだからたまったものではない。黒森峰の理事会もOG達もカンカンだ。サンダースやプラウダも散々絞られたのではないだろうか。
 戦車道というのは、とにかく金がかかる。潤沢な予算で高性能な戦車を揃え、設備等にも大金を投資し、その結果あり合わせの戦車ばかりで構成された素人だらけのポッと出弱小校に優勝を持っていかれたというのでは、生徒達や一般観客にとってそれがどれだけ名勝負だったとしても出資した側にとってはとんだ面汚しだろう。しかも、勝って当然の常勝黒森峰が天才と称された西住まほに率いられながら二年連続で優勝を逃し、その原因が形こそ違えど二度とも妹のみほにあるときている。西住流そのものへの風当たりも、おそらくはエリカが想像するより遙かに強いものであるはずだった。
 それでも、大会が終わって以降まほはどこか清々しい様子でいた。まほにとって、あの勝負の内容と結果は別段驚くような事ではなかったのかも知れない。彼女は自分をも倒しうる妹の実力を正確に把握していたのだろう。
 決勝が開始してからエリカは執拗にみほのW号を狙い続けた。フラッグ車なのだから当たり前ではあったが、仮にフラッグでなかったとしてもエリカはそうしたに違いなかった。たとえ妹が相手でも手を抜く西住まほではない。そんなまほの全力を打ち破れるとしたら、それはやはりみほ以外にありえないとエリカも知っていたからだ。
 戦車の性能も、乗員の練度も、黒森峰は全てにおいて大洗を凌駕し油断も慢心も無かった。比較するのも馬鹿馬鹿しい差があった。ならばもっと不確定な、単に運が良かっただけだろうか。
 遭遇直後、フラッグ車を狙って撃ったエリカのティーガーUの砲弾を咄嗟に間に入った三式中戦車が身代わりに受けたのは、狙ってそうしたのではなく初心者だった操縦手のミスだったと試合後に聞いている。そういった運をみほは味方につけていた。それは大きい。大きいが……全てではない。どれだけ運に恵まれようとも、地力が不足していれば勝利など掴めやしない。『運も実力のうち』という言葉があるが、降って湧いた運を生かせるかどうかは最終的に本人次第だ。
「残るは……」
 そうして最後に残った要素に、エリカは渋い顔をした。
「……チームワークが勝敗を分けた、とは思いたくないんだけどね」
 これが漫画なら、よくある展開だ。あらゆる面で主人公のチームを上回る強敵が、チームワークの穴を突かれて敗北する。王道展開というやつだろう。しかし黒森峰とて鍛えに鍛えた連携、チームワークは鉄壁だった。
「そう。チームワークじゃ、ない……あれは、そういうんじゃなかった」
 試合終盤、ポルシェティーガーを盾にみほがまほを一騎打ちへと誘い込んだのを目にした瞬間、エリカは自分でも思ってもみなかった激しい嫉妬の念に囚われた。目の前のポルシェティーガーは、みほに信頼されてこの場を任されたのだ。
 戦車喫茶で見かけた、みほと談笑していた女生徒達の顔が頭を過ぎった。戦車道の厳しさなど欠片も感じさせない、全員どこにでもいるごく普通の女子高生の空気を纏っているのが苛立たしかった。なのに、みほが大洗に転校して戦車道を再開してからまだほんの数ヶ月だろうに、ポルシェティーガーだけでなく他のどの戦車もみほから信頼され、仲間の身を何より案じるはずの彼女から危険なオーダーを出されても全員が見事にそれをやり遂げていた。あんなものは練習して得られるチームワークではない。
 エリカがかつて目指していた光景が、そこにはあった。
 一騎打ちに誘い込まれた程度で西住まほが敗れるわけがない、むしろ自分達の勝利は半ば確定したも同然だと黒森峰の多くの選手はあの時点でそう楽観していた。まほの敗北を予感し、がむしゃらに救援へ向かおうとしたのはエリカだけだった。
「負けたのも、当然ね」
 W号の前を離れ、ガレージ奧の休憩所にある自販機で缶コーヒーを買い、今度はケーニッヒスティーガーの異名で知られる愛車ティーガーUに背をもたれさせるとエリカは雨で冷えた身体へと熱いコーヒーを流し込んだ。
「……まずっ」
 行きつけの喫茶店で飲むコーヒーと異なり、ただ熱いだけでまったく美味くはない。苦味だけは、少しありがたかった。
 何故突然みほに手紙など書こうと思ったのか、エリカは自分でもよくわかってはいなかった。ある日、練習後にまほからある事を通達されて寮の自室に戻ると、無性に書きたくてたまらなくなったのだ。理由なんて無かったのかも知れない。それとも、みほと今さら話をしてみたくなっただけなのだろうか。
 話してみたところで、何か変わるとも限らない。
 あの空が晴れるだなんて、ありえないのに。
「……帰って、シャワーでも浴びよ」
 コーヒーを飲み終え、一頻り思索に耽ってから帰路に就いたエリカは途中にあるクズカゴと手の中の空き缶を交互に見やり、ふむ、と独りごちると鋭く目を細めた。
 そこでスッと一呼吸。
 クズカゴを敵チームのフラッグ車に――折角なので、因縁深いプラウダのT-34/85を脳裏に思い浮かべ――見立てる。大雨でぬかるんだ戦場を、ティーガーUではなく今や懐かしいV号戦車が照準を合わせつつ駆け抜けていく。
「距離、良し。……仰角、良し」
 車長となった今でも装填や砲撃の訓練は怠ってはいない。一年前と同じか、それ以上の自分を想像し、狙いは……定まった。
 心穏やかに、意識を目標に集中させ、無駄な力を抜き、
……Feuer!」
 バスケットの3Pシュートの要領で空き缶を放る。
 空き缶の砲弾は綺麗な放物線を描き、そのままT-34/85クズカゴへ向かって落下して、
「あっ」
 カコンッ、と。
 縁に当たって、弾かれた。
 カランコロンと床を転がる音がガレージに空しく響く。試合だったなら、今頃は反撃を喰らって白旗を揚げていた事だろう。
 遊びとは言え、なんて無様。
「やっぱり、才能が無いわよね」
 自嘲気味に呟いて、エリカは溜息混じりに缶を拾った。





◆    ◆    ◆





「反対反対絶対反対!」
「わたくしも反対です」
「反対だな」
「反対に決まってますよ!」
 四人が一斉に乗り出したせいで学食のテーブルが派手に揺れ、みほは思わず「あわわっ」と変な声を発しながらたぬきそばがこぼれないよう丼を手で押さえた。が、僅かに間に合わず手の甲に汁が飛び散る。
「熱っ」
「あっ、ご、ごめんねみぽりん」
 怒鳴った勢いが瞬時に萎み、すぐ隣にいた武部沙織は申し訳なさそうにハンカチを取り出すとみほの手を優しく拭った。それで落ち着いたのか、他の三人も浮かせた腰を下ろしそれぞれの昼食に視線を落とす。
「大丈夫だった? 熱くない?」
「うん、大丈夫。ありがとう、沙織さん」
 それ以降、誰も言葉が続かない。冷泉麻子の口数が少ないのは普段通りとして、いつも賑やかなチームのムードメーカー秋山優花里も何か言いかけては口を閉じておろおろと視線を彷徨わせている。唯一五十鈴華だけは、ただ黙っているのも間が持たないと思ったのか素早く箸を動かしてご飯とキャベツ大盛りのトンカツ定食を食べ続けていた。
 学食の窓から見える天気は今日も生憎の雨模様。先日と異なり、シトシトと降る雨は秋らしい冷たさで空気もやや肌寒い。学園艦の航路が秋霖前線とぶつかってしまったらしく、まだ暫くはこの小雨とのつき合いが続きそうだった。
「麺、伸びちゃうね」
「……うん」
 華に倣い、みほと沙織もそれぞれたぬきそばとカレーうどんを再び啜り始めた。沙織曰く、カレーうどんは今日のラッキーアイテムだそうで、これを食べれば運気上昇ステキな彼に出逢えるかも!? とのこと。
 汁物の中でも飛び散った際の汚れが目立つ度不動の一位を誇るカレーうどんを啜る女子はむしろ敬遠されそうな気もするが、今は誰もツッこむ気にもなれなかった。何しろみほから『黒森峰に帰ろうと思う』と告げられたのだ。皆心中穏やかでいられるわけがない。
「……やっぱり、あれでしょうか。大洗を優勝に導いた功績を認められて、原隊復帰を許されたみたいな感じなんでしょうか?」
 本日のBランチ、ドライカレーをしょぼしょぼと口に運びつつ、優花里は捨てられた子犬みたいな目をしてみほに問いかけた。
「え? あ、いや、そうじゃなくて、ただ――」
「勝手な話だな。自分達で切り捨てたのが使える駒だったとわかった途端に手の平を返すとは。これが名門のやり方というやつか」
 親子丼をパクつく麻子も、表情はいつも通りの能面ながらその声と言葉尻には憤懣やるかたないといった空気が感じられる。
「それは……戦車道をやるのなら環境としては黒森峰は理想的なのでしょうけれど、ですがそんな無情なところへみほさんを帰したくはありません」
 早々にトンカツ定食を平らげた華が、ごちそうさまでした、と手を合わせてからキッパリとそう言い切ってくれたのはみほとしては涙が出そうなくらい喜ばしい言葉ではあったが、さりとて四人の勘違いをこのままにしておくわけにもいかずみんなが再びヒートアップする前に両手を突き出して待ったをかけた。
「ちっ、違うよ! 帰る、って言っても近い内に連休とか利用してちょっと実家の方に顔を出してこようかな、って思っただけで。その時に、黒森峰の学園艦にも……寄ろう、かな、どうしようかなー、と」
「へ? そうなの? 転校するとかじゃなくて?」
「なんだ。ただの帰省、ということか」
 ホッとした途端に空腹を思い出したのか、沙織も麻子も、それに優花里も気を取り直すとランチの残りを急いで平らげ始めた。みほも少し伸びかけたたぬきの残りをズルズルと啜る。
「沙織さん、そんなに急ぐと汁飛んじゃうよ」
「へあ! やだもー!?」
 いつものノリが戻って来たのを感じて、みほは安堵に微笑んだ。連休中にササッと帰るだけのつもりだったのだから、わざわざ改まってみんなに言う必要も無かったのだ。けれど、黙って行くのは気が引けた。隠し事はしたくないし、今抱いているとある悩みに関しても友達である沙織達には聞いてもらいたい。
 全員が昼食を食べ終え、食後のお茶で一服ついたのを確認してから、みほは四人の顔を見回して大きく息を吸って吐き、切り出した。
「でもね、『黒森峰に戻ってきて欲しい』っていうメールを貰ったのは、本当なの」
 途端、再び四人の表情が硬化した。
「それ、誰から? お母さん? お姉さん? それとも……もしかしてあの時の」
 尋ねる沙織の声は怖々と慎重だった。
 両親や、姉のまほならばまだいい。だが黒森峰と言われると、まほの隣に並び立っていた一人の目つき鋭い少女のことも同時に思い出されてしまい、声が尻窄みに小さくなっていく。
 大会前の戦車喫茶での不意の邂逅以来、沙織達が黒森峰に良いイメージを持っていないのは勿論みほも知っていた。まほのとても妹に対するものとは思えない冷ややかな態度と、かつてのみほが知っていた彼女とはまるで異なる悪意剥き出しのエリカ。事情を知らない人間があれを見て好意的に受け取れる道理が無い。
 売り言葉に買い言葉、双方が険悪になっていくのをみほはもっと頑張って止めるべきだったのだ。止める事は出来たはずだったのに、気が動転してしまいそれどころではなかった。姉やエリカもそれは同様だったのではないかと思う。
 まほもエリカも、みほを見た瞬間明らかに動揺していた。驚き、言葉を無くし、しかし二人の表情に一瞬微かな安堵が浮かんでいたことに気付いてしまったみほは激しい後悔に苛まれた。何も言わずに黒森峰から逃げ出した自分を、二人が心配してくれていたのだと知ってしまったから。心を通わせられる仲間や友達などいないと思っていた黒森峰にも、みほの身を案じてくれる人はちゃんといたのだ。
 そんな黒森峰への想いが、みほの顔に一抹の影を落とす。
「ううん、お姉ちゃんじゃないし、その……逸見さんでも、ないよ。逸見さんからは、手紙は貰ったけど別にそんな話じゃなくて、ただの近況報告みたいなものだったし。別の、赤星さんっていうチームメイトだった人から、メールが来たの」
「赤星さん、って……確か、決勝の時にみぽりんに話しかけてきた」
「西住殿が去年の決勝で救助した人でしたよね」
 小梅については決勝の後に話したことがあったので、『それならみほに帰ってきて欲しいと連絡を寄越しても仕方ない』と全員納得したらしい。
「命の恩人ですものね。自分達を助けたせいでみほさんが転校してしまったのではないかとずっと気に病まれていたのでしょうし」
「戻ってきて欲しいと伝えるには、丁度良い機会だったというわけか」
 仮に自分が小梅と同じ立場だったらと考えて、四人とも押し黙ってしまった。今年の大洗も廃校を懸けての決死の勝負だったが、名門の意地と誇り、十連覇という偉業を背負った大一番にかかるプレッシャーは如何ほどのものか想像もつかない。しかも自身が原因でその大一番に敗北してしまったりなどしたら、果たして立ち直れるかどうか。挙げ句、助けてくれた恩人は全ての泥をかぶる形で追放同然に転校だなんてとても耐えられやしないだろう。
 中でも、華は戦車道と華道の違いこそあれ一つの流派を担う家元の娘としてみほの立場についても他三人より深く理解していた。黒森峰も大変だろうが、西住流はそれ以上に揺れているに違いない。母や姉の意思はどうあれ、みほを呼び戻して跡目を継がせろと言う声もおそらく少なくはあるまい。
「御家族の方からは、何も?」
「うん。……でも、赤星さんのメールでは、お姉ちゃん隊長を早めに引退するかも知れないって。もう三年生だし引退は当然なんだけど、次期隊長を誰にするかでちょっと揉めてるらしくて、それで私に……」
「黒森峰に復帰して、西住殿に隊長を引き継いで欲しい、というわけですか」
「でも副隊長の、えっと、逸見さんは? あの人が隊長になればいいんじゃ……」
 沙織の疑問に、みほは悲しげに首を横に振った。
「みんな、お姉ちゃんもそのつもりでいたんだけど、……逸見さん、辞退したんだって。自分は隊長の器じゃないからって言って」
 小梅のメールによれば、まほも、他のメンバーも考え直すよう随分と説得を繰り返したそうだ。しかしエリカの決意は堅く、副隊長の辞任を慰留するので精一杯だったと書いてあった。
 エリカに限った話でもないが、熊本出身者にはこうと決めたらテコでも動かない肥後もっこすな頑固さがある。まほの説得でも駄目な以上、余程の事がなければ考えを改めはすまい。
「じゃあ、やっぱり逸見さんもみぽりんに隊長になって欲しいって? 手紙にもそう書いてあったりしたの?」
「ううん、手紙には何も。……でも、急に手紙をくれたのはその辺が理由だったのかも知れない。だっていきなり、わたしに手紙だなんて……よっぽどだよ。逸見さんも、きっと凄く悩んだんだと思う。だからわたし、どうすればいいのか……」
 エリカもみほに戻って来て欲しいと願っているのか、それとも周囲の誰にも相談出来ずただ話を聞いてもらいたいだけだったのかはわからない。プライベートな話なんて、した事がなかったから。一年以上も一緒に戦ってきた、黒森峰では一番近い位置にいたはずの相手なのにわからないのは、とても悲しいことだった。
「西住殿は、どうしたいんですか? 黒森峰の皆さんに久しぶりに会ってみたい、とかそういうのは」
 会って話してみたい、という感情はある。でも、果たして何を話せばいいのだろうか。思い出話に花を咲かせようにも、所詮ただのチームメイトで、友達ですらなかった自分が。話したくとも、話す事なんてきっと何も無い。
「……わたしって、凄く薄情な人間なのかも」
 しんみり呟いたみほとしては非常に切実だったものの、
「ないわー」
「わたしもそれだけはないと思います」
 沙織も優花里もそれだけはありえない、と顔の前でブンブンと手を振って否定した。むしろ予想もしていなかったみほの言葉に心底呆れたといった様子だ。
「だいたい、薄情な人間だったら半分寝ながらフラフラ通学路を歩いている私をわざわざ助けて一緒に遅刻などしないだろう。沙織ですら半ば見捨ててたというのに。まったく酷い幼馴染みだな。薄情と言うなら沙織の方がよっぽど薄情だ」
「ちょっ、見捨てるまでにあたしいったい何回麻子の部屋まで起こしに行ったと思ってるのよ!? ……でも、フラフラ歩いてるこの子を助けちゃうのはやっぱりお人好しじゃないと無理なんじゃないかなぁ」
 冗談とも本気ともつかない言い草だったが、麻子にまで否定されてしまいみほは残る華へと視線を向けた。が、こちらも同意見であるらしい。
「見も知らぬ方が具合悪そうにしていたら、声をかけて救急車を呼ぶくらいはするとは思いますけれど、そのままつき合う、と言うのは薄情な方になかなか出来る事ではないのでは?」
 華からもニッコリと諭されてしまい、かといって素直に受け入れることも出来ずみほはわたわたとたじろぎながら、別に反論する必要も無いのに言い訳じみた言葉を手当たり次第に掘り出した。
「で、でも! ……黒森峰のチームメイトだって、ずっと長く一緒に頑張ってきたはずなのに、わたし、全然、仲良くなれなくて……」
「まー、そうだよね。自分からアクション起こすタイプじゃないのは確かだよね」
「沙織さんのように滅多矢鱈と行動力がある方もいれば、みほさんのように今一つ自分を出すのが得意ではない奥ゆかしい方だって大勢いますよ」
 奥ゆかしい、だなんて言われたのはみほは初めてだった。しかしただ単に受け身で引っ込み思案なだけなのを大仰に言いすぎではないだろうか。恥ずかしさのあまり頬が熱い。
「人間、合う合わないもあるしな。私も友達は少ない方だ。沙織みたいなお節介焼きが幼馴染みでなければ今頃友達なんて一人もいなかったかもしれない」
「はい! 自分も全然友達いませんでしたっ!」
 そこは自慢げに語るところではないだろうに、何故か優花里は『どうだ!』っとばかりに胸を張ってドヤ顔だった。
「それに、みほさんの場合は……西住流の家元の娘ということで、余計に戦車道をやっている人達からは距離をとられていたのではないでしょうか。わたくしも、似たような経験があるので少しはわかります」
「華さんも?」
 ええ、と首肯し、華は短く息を吐くと花を生ける己が右手に視線を落とした。それは彼女にとって、古傷のカサブタを撫でる行為と似ていた。今はもう痛みは無いが、ほんの僅かな痒み程度は残っている。『わたくしとしてはそのようなつもりは無かったのですが』と前置いて、華はゆっくり語り出した。
「あの頃のわたくしは、今以上に五十鈴流を継がなければと気を張って、常に肩に力を入れていました。自分ではそれは正当な努力のつもりでいたのですけれど、……周囲には『お高くとまっている』とでも言えばいいのでしょうか、そんな風にも見えていたそうです。周りの子達は次第にわたくしを避けるようになり、わたくしはそれが辛くて、やがて辛さを誤魔化そうと自分からも壁を作って……」
 それは、中等部の頃のみほとよく似ていた。みほの場合は西住流を継ごうというのではなく、姉の、まほの妹として恥じないだけの実績を示さなければという気負いだ。小学校ではそんなみほを受け止めてくれた友達がいたけれど、黒森峰の中等部には残念ながらいなかった。みほ自身、戦車道を志す者達の中では西住まほの妹であり西住流家元の娘であるという肩書きが持つ意味があまりに大きすぎて、引っ込み思案な性格以上に自分から見つけようという余裕をまるで持てなかったのだ。
 友達のいない、ただ鍛え、競うだけの戦車道はみほにとって苦痛でしかなかった。それでも続けていたのは、姉への憧れは本物だったから。それに大切な友達との、戦車道を続け、いつか自分だけの戦車道を見つけてまた会おうという約束があったからだ。
 そうして無理を続けた結果、みほは逃げ出してしまった。戦車からも、家族からも、仲間からも。
「でも、そんなわたくしに、声をかけてくれた奇特な方がいたんです」
 みほの辛そうな様子を察してか、華は穏やかに微笑むとそう言ってみほの手に自分の手を重ね置いた。
「大洗の中等部に進学して暫く経った頃だったでしょうか。その人、いきなりわたくしに……なんて声をかけてきたと思います?」
「え、えーっと……」
「『華道してると男の子にモテるって本当!?』と。……わたくし、思わず唖然としてしまって。ふ、ふふ。……麻子さんと同じで、家のことなどお構いなしに話しかけてきてくれた沙織さんにはこう見えて随分助けられたんですよ。わたくしが感じていた壁なんて、沙織さんにとってはヒョイッと問題無く跳び越えてしまえる程度のものでしかなかったんです」
 ああ、だからなのか、とみほは得心がいった。
 大洗で初めて出来た大切な友達、沙織と華。声をかけてくれたのも、二人の方からだった。しかし、沙織は生来自分からグイグイ近付いていって誰とでも仲良くなれる質なのだと思うが、華はそこまで積極的なタイプとも思えない。彼女自身の経験がああして沙織と一緒にみほへと声をかけさせたのだろう。
「沙織は華道なんて男にモテるために習ってれば便利かも、くらいにしか考えていないからな。家元の娘だとかそんな事は一切頭に無かったんだろう」
「そっ、そんなことないもん! 偏見よ偏見! ってかさっきからあたし引き合いに出されすぎじゃない!?」
 華も麻子も、そうやって引き合いに出すのは本心から沙織に感謝し、彼女の事が好きだからなのだというのが会話の端々から伝わってくる。みほもそうだ。あの時沙織と華が声をかけランチに誘ってくれたおかげで今がとても幸せで、だからこそ――楽しければ楽しいだけ、過去への慚愧が胸に鋭く爪を立てる。
 戦車喫茶でも、決勝開始前の挨拶でも、エリカにどれだけ悪し様に罵られ挑発されようとみほは当然のものとして受け止めた。心が痛んだ。彼女にそう言わせてしまっているのは、他でもない自分だ。かつての仲間を捨てて辿り着いた新天地で、新しい仲間と共にのうのうと戦車道を再開した自分は侮蔑されて当たり前だった。黒森峰を逃げ出した当時の内罰的になりすぎていたみほだったなら、そのまま一回戦でろくな采配も振るえずチームの足を引っ張り大洗を敗退させていたかも知れない。
 立ち直らせてくれたのは、沙織と華、優花里と麻子、生徒会の人達、歴女チームやバレー部チーム、風紀委員と自動車部、ゲーマーチーム、それに一年生達。他にも大勢の人に支えられて、みほは本当の意味で仲間の大切さを知る事が出来た。今年優勝出来たのはひとえにそのためだ。
 そうして迎えることが出来た今だから、今度こそ過去と正面から向き合わなければならないというのはわかっているのに踏ん切りがつかない。
「違う……やっぱりわたしは、華さんとは違うよ。わたしのせいで十連覇をダメにしちゃったのに、話もしないでそのまま、逃げ出して。……そしたら大洗で、みんなと仲良くなれたら今度は浮かれて、平気で黒森峰とも戦えちゃって……」
「カエサル殿が言ってましたよ」
 喋っているうちに一層ネガティブの深みにはまりつつあったみほを遮り、優花里は歴女チームのリーダーの名を出すと確信に満ちた顔で続けた。
「西住殿も知ってましたよね。カエサル殿、アンツィオ高校の副隊長のカルパッチョ殿とは幼馴染みで、親友同士だそうですけど、でも親友だからこそ戦うのが楽しかったって。また精一杯力を出し切って戦いたいって」
「わたくし達がしているのは戦争ではなく、武道です。……わたくしからみほさんにこのような話、釈迦に説法なようで恐縮しますが、以前の責任や、かつての仲間だからという理由で戦えなかったり、手を抜いてしまったりするのは、その道に反する行為だと思います。もしみほさんがそのような事をしていたら、お姉さんも、かつてのチームメイトの方々も、みほさんを決して認めてはくださらなかったのではないでしょうか」
 決勝の後、まほはみほの戦い方を、西住流ではなくみほの流儀だと認めてくれた。エリカも再戦を誓い、他の黒森峰の生徒達も負けた悔しさはあってもあくまで武道を嗜む者として笑顔だった。先程の発言は、そんな彼女達への侮辱に他ならないのだと言われているようで、みほはしゅんと肩を落とした。
 嫌な方へ、駄目な方へとすぐ考えすぎてしまうのは悪癖だといい加減自覚してはいるのだが、自覚したところでなかなか直せるものでもない。華と異なり、すぐ一つ上に優秀すぎる姉を持ち、周囲がそうする以上にみほ自身がずっと自分と姉を比較し続けてきたその延長線上に形成されてしまった厄介な人格だ。矯正は困難を極めるだろう。
「西住さんにとって黒森峰が本当に決別したい過去なら、私は帰らなくても構わないと思う。……だが」
 その先を口にせず、麻子は予め買っておいたものだろうデザートのプリンを取り出すとフタを開けて黙々と食べ始めた。
「けど、話す事なんて本当に……わたし……」
「別に、何だっていいんじゃない?」
 麻子のプリンと自分の身体をチラチラと見比べて、小さく嘆息した沙織は重たくなっていた場の空気を一発で換気させるかの如くケロリと言い放った。
「話す内容なんて、何でもいいじゃん。そりゃあ、みぽりんが向こうに戻って隊長になっちゃうのは嫌だけど、でもその辺どうするにしてもやっぱりまずは話してみるところからじゃないかな、黒森峰の人達と。コミュニケーションの基本はとにかく対話だよ、対話。だいたい、みぽりんってば、まだ自分は嫌われてたり恨まれてるって、そういうの前提で考えてるでしょ?」
「そ、そんなこと……」
 無い、などとは言えなかった。
 まほが認めてくれても、エリカが手紙をくれても、小梅が感謝してくれても、まだ心の奥底に自分は彼女達に恨まれているのではという負の想念がこびり付いている。どうしてそれを拭いきれないのか、どうしてこんなにも胸が痛むのか、どうしてあの日の雨の匂いと泥の味を忘れられないのか。
 再び鬱ぎ込みそうになるみほに、沙織は捲し立てた。
「話してみなきゃ、わかんないじゃんそんなの」
「沙織さん……」
「相手が自分のこと嫌ってるかどうかなんてさ。話してみなきゃわかるわけないよ。ううん、話してみたってすぐにはわかんない。だったら、何度だって話しかけてみればいいんだよ。ホントに嫌われてたら怒られたり無視されたりするかもだけど、そうじゃないなら、話せるよ。お姉さんとも、逸見さんとも。だって、だって一緒に、ずっと一緒にやってきたんでしょ?」

 ――戦車道――

 まったく無意識に、みほは今までに無くしっかりとした動作で頷いていた。
 黒森峰の戦車道が、西住流のやり方がずっと嫌だった。苦しかった。一年前の決勝でみんなの大願だった十連覇を台無しにしてしまった後悔は悪夢となって毎夜意識を苛んだ。
 けれど本当に、それだけだったのだろうか。
 厳格なまでに西住流を体現する姉を見るのは辛かったが、それでもみほはまほの事が好きだった。彼女の事が誇らしかった。彼女が隊長を務め、自分が副隊長として臨んだ戦いは心が躍った。
 決して友達と呼べる関係ではなかった。それでも、エリカが背中を守ってくれている時は安心出来た。自分か彼女のどちらかが隊長を継ぐのだとしても、いずれにせよずっと一緒に黒森峰で戦車道をやっていくのだろうとあの頃は疑いもせずそう考えていた。一回戦、二回戦、準決勝と勝ち進むたびに彼女が頬を綻ばせるのを見て、みほも隣で同じように安堵し勝利の喜びを分かち合う。そんな微妙な距離感が、心地良くもあった。
 色々なチームメイトがいた。みほに批判的な人もいれば、好意的な人もいた。
 仲間だった。今の、大洗の仲間達とは全然違う。違うけれど、彼女達だって、ずっと苦楽を共にしてきた仲間だった。そんな人達と戦った決勝戦で感じていたのは、負い目だけではない。
 大洗の仲間達と一緒に戦えるのと同じくらいに、かつての仲間を相手に全力を尽くすそれは、それはとても楽しくて……――



 誰かが窓を開けたのか、学食内に冷たい空気が流れ込んできた。秋雨の湿気を孕んではいるもののどうやら雨はあがったと見える。雨音はなく、外に出て行く生徒の姿もチラホラとあった。
 雨の匂いごと、肺いっぱいに空気を吸い込んで、吐き出す。
「沙織さんって」
「うん?」
 全身の空気が入れ替わり、まるで憑きものが落ちた顔で、みほは沙織に向き直って言った。
「凄いよね」
 それを聞いて沙織の目が当惑に見開かれる。
「凄いですよ」
「ああ、凄いぞ」
「凄い方ですよねー」
 しみじみと呟いたみほに続けて全員が同意などするものだから、沙織本人は「え? なに、どうしたの突然?」と首を傾げるばかりだった。
「誰と話す時でもまず物怖じというものをしませんし」
「そこが武部殿の美点でありますよ」
「鬱陶しいだけとも言うがな」
「鬱陶しいって何よ!?」
 賑やかなやり取り、穏やかな空気。
 雨が冷たさを増しても、温かい。
 これが、みほの現在だ。
「ありがとう、みんな」
 まだ少し怖い。本当に行っても大丈夫だろうかと、不安が消え去ったわけでもない。自分はどうしようもなく臆病で、でももうちょっとだけ落ち着いたら、きっと帰ってみよう。その前に、まずはメールと、手紙に返事を書かなければ。
 何をどう書けばいいのか悩ましくはあるものの、今思っていること、感じたこと、したいことを素直に書き綴ってみよう。小梅には謝罪もしなければ。
 晴れ間は覗いていない、ただ雨が上がっただけの外をのんびりと散歩でもしながら、みほはまず手紙の書き出しをどうするべきか考えることにした。





◆    ◆    ◆





「……字、汚いわね」
 朝食代わりの野菜ジュースの紙パックをストローで啜って、ポツリと一言。
 みほから届いた手紙――もう何度となく読み返し今では内容の大半を諳んじることさえ出来るそれ――を目の前に広げ、エリカは眉間に皺を寄せた。読むたび下手だ汚いだと独りごちてこんな顔をしている自分に呆れつつ、ルームライトに照らされた文面を一字一字じっくりと読み進めていく。
 几帳面な性格に反してみほの字は上手くない。自分の字も大概下手だとは思うが、みほの字はなお酷かった。よくよく思い返してみると、絵の方もかなり下手だった気がする。模擬戦前の作戦会議でホワイトボートに描かれた図形も妙に歪だった。みほ曰くの戦車も、エリカは最初『どうして副隊長は戦車道の模擬戦するのにマンモスなんて描いているのかしら?』と本気で悩んだほどだ。
 早朝、今日は先日よりも雨足が強い。外が薄暗いのはまだ陽が昇りきっていないから、というわけでもなく単に分厚い雲のせいだろう。雨粒が床や窓、屋根を叩く音が喧しかったが、エリカは構わず手紙に集中していた。
 一枚目には、『お便りありがとうございました。お元気ですか? 私は元気です』といった捻りも何も無い冒頭から最近の出来事やら大洗では現在こういう練習をしているけれど黒森峰はどうかといった事がとりとめもなく書き綴ってあった。元より話上手ではない彼女の事だから、こんな内容でも相当四苦八苦して言葉を選びながら時間をかけ書いたに違いない。
 顰めっ面の口端だけがやんわりと歪む。面倒臭い自分そのものの表情になっているだろうことは想像に難くない。嬉しいなら嬉しいでもっと素直に喜びを表現出来ればいいものを。
「本当に、面倒な女」
 こんな性分の自分が隊長だなんて、黒森峰に来年も無様に負けろと言っているようなものだ。器じゃない、柄じゃない、格じゃない。
 いっそ自分も、逃げ出してみようかと考えた事もあった。副隊長を辞し、一年前のみほのように黒森峰から逃げ出して、もしかしたらその先で、自分をもっと高め伸ばしてくれる存在に出会えるのではないかと、しかしそれは奇跡ですらない陳腐でくだらない妄想だ。
 ありえない。あろうはずがない。
 みほの出会いはみほだけのものなのだから。
「……はぁ」
 物思いに耽れば耽るほど溜息は重くなる。今にも自分の吐いた溜息によって魂まで圧し潰されてしまいそうだった。こんな枷を脚に嵌めていたのでは永遠にみほには勝てないのかも知れない。
 では勝てないから、負けるとわかっているから逃げたいのだろうか。
「違う、そうじゃない……そんなんじゃ」
 そこまで弱くはないつもりだった。ただ今の、彼女が大洗で得た強さが眩しくて、目が潰れそうなくらいで、それは自分が支えようと誓った頃の強さを遙かに超えていて、だから……虚しくなってしまったのかも知れない。
 窓の外は鬱蒼暗い黒林の雨が降り注ぎ、いよいよ止む気配は無かった。その光景を一瞥してから手紙の一枚目を捲り、エリカは二枚目に目を通した。
 何度読んでも手が震え、カサカサと手紙が音を立てた。
 途中までは一枚目とさして変わらない内容なのに、その最後、締めくくりに書かれた一文はあまりに大きく、そして鋭い棘だった。

『来年は、あなたの率いる黒森峰と戦いたいです』

 こんなもの、普通に考えるなら世辞か社交辞令だ。楽しみだなんて、とんでもない。あの西住まほすら打ち破ったみほに自分など到底敵しえないのは誰よりも理解している。
 なのに、胸が疼く。
 エリカの知っていたみほは、たとえ世辞でも自分から『戦いたい』だなんて滅多に口にする少女ではなかった。練習だから、試合だからとこなしはするものの、およそ好戦的とは言い難い性格だ。そんなみほから、戦いたいと告げられた。これすらも大洗の影響なのだろうか。
 手紙が届いてから毎日毎晩、頭の中でシミュレーションを繰り返してきた。エリカが知る限りのみほの戦略と戦術、用兵の全てを想定し、黒森峰が所有するあらゆる戦車と装備を駆使して大洗の打倒を練る。
 みほの奇才に生兵法の奇策で挑んだところで無駄だ。貫き通すべきは、まほに憧れ、黒森峰で叩き込まれた西住流。正式な門下にあらずともエリカにはそれしかない。ただ愚直に、ひたすらに、もっと強く、もっと迅く。最強にして最速の、王虎の牙を鮟鱇のブヨブヨとした軟体目掛けて突き立てる様をイメージし、何十回と試合った。
 しかし……勝てない。あと一歩のところで負け続けだ。
「隊長ならもっと迅い。それよりももっと電撃的に、あの子の策を上回る迅速さで体勢を整える間も与えず一気に叩かなければ……」
 地形や天候も、有利不利含めて様々な状況を考えに考え抜いて、今日も結局駄目かと諦めかけたその時、エリカはハッとなって顔を上げた。
「……雨」
 それもただの雨ではない、豪雨。
 忌まわしい敗北の雨。絶望の濁流。苦い泥。仮想する戦場はあの決勝の地。
 ぬかるんだ大地、脆い足場に黒森峰の主力重戦車は圧倒的に不利。みほも当然それを見越して攻めてくる。その思考の裏を掻く。寡兵で大軍を相手取るための陣地取りが異常に上手い彼女に偵察を兼ねたパンターで先攻をかけまずそれを妨害、敵戦力の攪乱と分断を図る。大洗の戦車は各国様々な戦車の混成部隊、悪天候下で敵の攻撃を避けながら行軍速度を合わせるのはいかにみほでも至難の業なはず。連携を封じて狙うはフラッグであるW号。逃走経路を予測し主力を配置。予め地形を頭に叩き込んでおけば、入り組んだ戦場で雨天時にW号が逃走に使えるルートくらいは自分にも読める。みほならば常識外の道とも呼べぬ道を抜けてくる可能性もあるが、仮にそうなったとしても孤立は免れまい。
 その場合大洗で注意すべきはまず八九式。火力が無い分その軽快な動きによりあらゆる局面で優秀な働きを見せ優勝に貢献した厄介な存在だが、黒森峰の装甲を破るのは不可能と考えていい。フラッグ車を守ろうと食い下がってくるであろうこいつを挑発に乗ることなく冷静に撃破するのが肝要。
 次に攻撃面で重要な位置を占めるV突。火力に乏しい大洗ではこいつの75mm砲が攻撃の軸として使われる事も多い。パンターの被害は覚悟しつつしかしそれでも黒森峰の主力装甲を撃ち抜くにはまだ弱い。こちらも対処を誤りさえしなければ始末するのは難しくはない。
 唯一火力と装甲で黒森峰に比肩するポルシェティーガーも、雨天ならば怖れる相手ではないしW号との分断はもっとも容易だろう。むしろ怖いのは遊撃役のヘッツァーだが、偵察部隊により位置を掴めさえすれば脅威度は格段に下がる。
 ルノーB1と三式中戦車は大会でも途中投入でさしたる活躍もなかったため実際のところどの程度やれるのかデータに乏しい。だが他の面々も戦車道においてはほぼゼロからのスタートだったというのだから、来年の大会までに大化けしている可能性もあるためこれらも全国レベルの腕を想定して考えてやる必要がある。性能そのものはこちらの主力には敵しえないが堅実さをとって戦力の分断後に各個撃破が望ましいだろう。
 そして最後に、圧倒的性能差をものともせず奇策によってエレファントとヤークトティーガーを見事撃破してみせたM3は、大会序盤から決勝にかけての伸び代が尋常ではない。やや安定性に欠ける傾向は見受けられるが、みほの薫陶をもっとも深く受けているのはおそらくこいつだ。上位入賞校のエースを相手にする気構えで、全力で圧し潰してやらなければならない。
 斯くして黒森峰が誇る機動力と砲力、装甲のバランスがとれた車輌をハンマーにして敵チームを追い込み、相手の攻撃は重装甲の鉄梃で受け止め、その間で磨り潰し、確実に戦力を削ぎ落とした後は遂にW号フラッグ車との決戦。
 個人的願望を述べるなら、一騎打ちで討ち果たしたくはある。しかしそれは勝利のためには不要なファクターだ。だれよりもまほを尊敬しているからこそ、同じ轍を踏むわけにはいかない。そこで個人の意地を優先するようではそれこそまほの後継として黒森峰の隊長を引き継げる器では――
「……っ」
 目覚まし時計のアラームが突然けたたましく鳴り響いたことでハッと我に返り、エリカは狼狽した。朝、雨音で早くに目が覚めてしまったためそのままアラームを止めるのを忘れてしまっていたのだと気付く。
 まただ。
 完全に没頭していた。ただの脳内シミュレーションに、夢中になって。
「馬っ鹿じゃないの? ……隊長は継がないって、私には無理だって、もう、そう決めたのに」
 後を継ぐ気は無かったのに。諦めたのに。なのに頭の中で、自分が指揮するチームがみほのチームと戦うのを想像するだけで我を忘れるくらいに楽しかった。なんて未練がましく惨めなのだろう。
 けれど、それでも。
 どんなに無様であろうとも。
「ああっ……もう、ほんとに……」
 戦いたい。
 もう一度、西住みほと、全力で。
 あんな手紙でわざわざ言われるまでもない、戦いたいのはむしろ自分の方だ。
 勝てないから戦わない? 冗談じゃない。
 勝てないなら勝つまでやるだけだ。何度でも、何度だって。
 それはきっと……
「……」
 手の中の、飲み終えた野菜ジュースのパックをジッと見やる。
 部屋の隅にあるクズカゴを大洗のフラッグ車――W号D型改H型仕様――に見立て、ケーニヒスティーガーの照準を合わせる。
「距離、良し。……仰角、良し」
 先程のシミュレーションの続きだ。孤立したW号に火線を集中させ、今まさにトドメの一撃の狙いが、定まった。
 心穏やかに、意識を目標に集中させ、無駄な力を抜き、全ての想いを込めて、
……Feuerッ!!」
 バスケットの3Pシュートの要領で紙パックを放る。
 紙パックの砲弾は綺麗な放物線を描き、そのままW号D型改H型仕様クズカゴへ向かって落下して……――


   ■■■


《それまで!》
 審判役の声が模擬戦の決着を告げる。
 雨に煙る演習場で、二輌のフラッグ車がどちらも白旗を揚げていた。
「……腕を上げたな、エリカ」
 ティーガーTのキューポラから濡れるのも構わず上半身を出したまほは、遂に自分を相打ちにまで追い込んだ副隊長に心から賛辞を送った。
 白旗も審判も引き分けと告げているが、まほには見えていた。ほんの一瞬、刹那の差だが、エリカのティーガーUの撃った砲弾の方が早かった。写真判定でならおそらくまほ側が敗北を宣告されていただろう。
 今日のエリカの采配は見事だった。まほも雨であることを考慮し十二分に対応したつもりが、エリカはそれ以上に雨天での策を練り上げてきたものらしい。
 雨が彼女にとってトラウマに近いものであるのは知っていた。それを乗り越え、さらには得手としてものにしたのならば心強いことこの上ない。これならばいずれ如何なる天候であっても自分と互角に、やがてはそれ以上に成長していってくれるだろう。何よりも、同世代に強力な好敵手がいてくれるのはエリカにとって幸いなはずだ。でなければいつまでもまほの後ろを追いかけるばかりて、そこで彼女の成長は止まってしまっていたかも知れない。それでは、駄目なのだ。
 エリカには、エリカだけの戦車道があるのだから。
 来年度の隊長をどうするか、今日まほはもう一度エリカと話してみようと思っている。彼女がなんと言おうとも、まほが安心して黒森峰を託せるのは一人しかいない。他のメンバーも、皆それを望んでいる。
 しかし生来説得といった駆け引きが苦手な自分に、果たしてあの頑固なエリカを言いくるめることが出来るだろうか、と顎に手を当てまほが懊悩していると、ティーガーUのキューポラから当のエリカが顔を出した。
「……ふっ、はは」
 見た瞬間、まほは思わず噴き出してしまった。
 悩む必要など無かった。何があったのかは知らないが、説得などしなくとも今のエリカの表情を見ればきっともう大丈夫だろう。卒業していく身としては、これでやっと肩の荷が下りた。
 が、それにしても。
「この大雨の中で、なんて晴れ晴れと笑っているんだ、あいつは」
 これまで見たこともないような晴れやかな笑みを浮かべ、エリカはまほに向き直ると何やら大声で捲し立てていた。雨音に掻き消され聞こえないが、何を言わんとしているかは一目瞭然だ。
 無論、返事は言うまでもない。
 成長は喜ばしいが調子に乗らせてしまうわけにもいかないだろう。彼女がその気になったのなら、教えておきたいことはまだ山程あるのだ。
 後進を信じ、後事を託す。それもまた、戦車道だ。
 沛然と降りしきる雨の中、車中からの『隊長、冷たいです!』という声に『ああ、すまない』と謝罪しつつ、まほはもう一度模擬戦をするため所定位置まで戻るよう各車に指示を飛ばすのだった。





〜end〜






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