interlude-01
〜南洋酔蝦 一の巻〜


◆    ◆    ◆






 ――人魚、というものが実在するのなら、それは彼女のことかも知れない。



 伝承に曰く、吸血鬼とは流水を越えられない存在なのだというが、そんな事はない。まったくの大嘘である。船であろうと飛行機であろうと、もしくは泳いでだろうと川を渡ることは出来るし、海を越えて遥か彼方の大陸に行くことも出来る。流水を渡れないなどと言うのは、ニンニクに弱いだとか、その手のよくあるデマの一つというわけだ。
 だが……弱くないからと言って特別強いわけでもない。
 吸血鬼の多くは元人間である。元人間である以上、当然の事ながら基本活動範囲は陸上という事になる。どんなに強靱な肉体を持ち得ようとも水中での動作は制限されるし、深海の水圧にも耐えられない。
 さて。
 その女吸血鬼は、ことのほか海が好きだった。
 惚れ惚れするくらい長く艶やかな髪と、切れ長で、少し垂れ気味の目をした彼女は、青い海原を眺めるのも好きなら泳ぐのも好きで、それこそ人魚なるものが実在するなら人魚になってみたいものだと本気で考えていた(人魚のような水妖、海魔は存在していたが、それらは実に醜悪な、多くはまるで深海魚のような外見をしていたため彼女はそんなものを人魚とは頑として認めなかった)。
 彼女もまた、人間から吸血鬼に成ったものである。
 しかし人間だった頃の彼女は別段優れた魔術師でもなければ、錬金術師だったわけでもない。特技……と呼んでいいのかどうか、まぁ体質的にやたら酒に強かったくらいしかこれといって特徴もなく、それでいて魂のポテンシャルだけがやたらと高かったらしい。
 ある日、真祖に種別されるとある吸血鬼に襲われた結果、彼女は高位の吸血鬼として再誕した。
 だからといって別に人間を憎む理由もなければ、血よりも酒の方がよっぽど好きだった彼女は、主であるはずの真祖やその他周囲のことなど全くお構いなしに何百年もただひたすら放蕩生活を続けた。……それだけだというのに、いつの間にやら二十七の死徒の祖、その二十一番目として数えられている事に気付いたのはいつのことだったか。
 まったく今でもどうして自分が選ばれたのかがわからない。
 彼女はただ海を眺めながら酒を呑み、苦情を言い立てる主は実力でもって沈黙させ、時折ワケもわからぬまま襲い掛かってくる無礼な吸血種や化け物、魔術師達を返り討ちにしてきただけだというのに。
 前述したが、彼女は別に魔術師だったわけではない。だが、吸血鬼として再誕した自分に、何か、こう、魔術的な……むしろそれを遥かに凌駕する能力が備わっていることには気付いていた。
 そこで彼女の酔った頭は閃いたのである。

 この能力をうまいこと使って、自分は人魚になれないだろうか?

 吸血鬼と成ってから数百年。ようやく目的らしい目的を持ち得た彼女は、取り敢えず自分と同じ二十七祖で、最古の死徒の一人と言われる白翼公、トラフィム・オーテンロッゼを頼ってみることにした。理由は彼が生前優れた魔術師であったらしいという話を聞いたから。それ以外には打算的なものなど何も無い。
 突然居城を訪れた酔っぱらいの美女にトラフィムは最初こそ面食らったが、彼女が持参した銘酒を二人で酌み交わしつつ語られたその実に夢のあるロマンチックな目的に興味を示し、また、何やら感心すらしていた様子であった。こうして、彼女はかの白翼公に師事することとなり、少しずつ魔術や神秘を学びつつ、さらに百年ほどの月日を重ねることになった。勿論、その間もほとんどずっと酔っぱらっていた。
 やがて百と数十年が経過した頃、彼女はようやく自らを半永久的に水中で活動できる肉体へ変容させる術を編み出したのである。
 だが、それにも一つ重大な欠点があった。
 水中に適した肉体へと変容するため、逆に陸上での活動、空気中での行動時間が著しく限定されてしまうのだ。これは大問題である。何故なら、水中にいる限りは酒が呑めなくなってしまうからだ。今までの人生の大半をともにしてきた酒が、しかしまったく逆転してしまうのは死刑宣告に等しい。
 彼女は悩んだ。
 酔った頭を最大限にフル活用し、それで足りなければ泣く泣く酔いを醒ましてまで解決法を模索した。何しろ数百年間ほとんどずっと酔っぱらっているため、たまに酔いを醒ますとその反動でとんでもなく頭の回転が速くなる事にはもう随分と前に気がついていた。その結果、彼女はついにさらなる肉体改造法を考えつくに至る。
 これで完璧だ。もう水中から出る必要もなくなる。
 彼女は笑った。数日ぶりの酒を浴びるように呑みながら、大声で笑い続けた。何事かと訪ねてきたトラフィムにとびっきりの銘酒を振る舞い、これが地上で呑む最後の酒、そして地上であげる最後の笑い声だと言って破顔した。
 そして、彼女はついにその住処を地上から水中へと移したのである。
 彼女が考えついた方法、それは、水中にて体内に取り入れた水分をアルコールへ変換するという、まったく馬鹿げた方法だった。これにはあまりの馬鹿さ加減にトラフィムだけでなく他の祖達も呆気に取られ、次の瞬間には笑い転げたという。
 だが、散々笑い転げて、その結果彼女に深く興味を抱いた者もいた。
 二十七祖が十五位を継承したばかりの二代目、芸術家を自称するキチガイ令嬢リタ・ロズィーアン嬢である。
 リタは彼女を訪ね、取り敢えず喧嘩を売ってみた。彼女が寝ている水中へと、突然魔力付与した爆雷を一抱えも投下したのだ。
 無論、彼女は怒った。こうなったらもうキチガイ令嬢と酔いどれ水魔の全面戦争だ。二人は持てる力の全てを結集して、戦い続けた。
 一週間後……これ以上は流石に放っておく訳にもいかないと止めに入った白翼公の目の前には、全身をズタズタにされ立つこともままならなくなったリタ嬢と、同じく全身ボロぞうきんのようになって泳ぐことすらままならなくなった彼女がいた。そこで、二人は改めて互いの顔を見て直感したのだという。
 ――ああ、こいつとはいつまでも一緒に馬鹿をやれそうだ――と。

 かくして、彼女とリタとの関係は“殺し合うほど仲の良い親友”として魔の世界に知れ渡り、また、この時の縁が元でリタも白翼公トラフィム・オーテンロッゼに与することとなったのである。
 二十七祖が二十一位にして、白翼公トラフィム・オーテンロッゼの直弟子。さらには、芸術家リタ・ロズィーアンの親友。
 ……通称、酔いどれ水魔。
 彼女の名を、“スミレ・ウォーター・ボトル”と言う。





◆    ◆    ◆






 海は自分のフィールドである。
 空を自在に飛ぶ死徒は数多けれど、水中を自在に動き回れる死徒は自分をおいて他に聞いたことがない。領土欲など持っていないが、全ての水中は自分の庭みたいなものだと考えると、スミレはそれだけで酔いが三割増した気になってくるのだ。酒と水のみを愛するかのような彼女であっても、そのくらいの独占欲は持ち合わせている。
 そのせいか、いい感じに酔いが回っている時などは水中を拠点としている幻獣達と喧嘩になることもしばしばだった。だが、スミレは相手がスキュラだろうとクラーケンだろうと喧嘩に負けたことはない。
 リタなどは『きっと単純な分だけ強いんですわ。なにしろ酒水のみあれば事足りるというおポンチ頭ですもの』と言って鼻で笑っていたが、まぁあながち間違いではないのでスミレは特に何も言い返さなかった。
 しかし……
 その酔いが、今にも醒めそうになる緊張感にスミレは立たされて……否、浮かされていた。自らのフィールドにあってなおこのような不安、果たして感じたのはいつ以来のことだったか。
 海中をたゆたう長い髪が察知するのは、巨大な、素早い移動物体。
 リタと、シエル、バゼットの三人を護衛してこのインファント島まで行くようトラフィムに言いつけられた時から、何かしらこのような事態になるだろう事は想定していた。今頃は、リタも相応の事態に立たされそれを愉しんでいるはずだ。あのキチガイなら笑って窮地を受け入れるだろう。だが自分は違う。
 面倒だ。ひどく面倒だ。
 戦うこと自体は別に好きでも嫌いでもない、むしろ憂さを晴らしたい時などは好んで闘争の愉悦に身を投じることもあるが、基本的にスミレは自分をトラフィムの派閥にあってもっとも穏健な祖であると考えている。常に経済戦争に身を置いている魔城殿や、陰険で鬱々とした片刃の復讐者、そして親友でもあるあの三流芸術娘と比べたら、自分などはただ酒を飲み、水にたゆたっていればそれでいいのだから平穏極まりないことだ。
 よって避けられる闘争であれば避けたかったが……どうやらそうもいかないらしい。三人を此処まで乗せてきたヴァン=フェム謹製の潜水戦艦“ブラック・シャーク”から、出来るだけ相手を引き離すよう誘導する。この艦が破壊でもされた日には、自分一人なら兎も角三人を連れ帰る手段がない。その名の通り、獰猛な人食い鮫を連想させる特異なフォルムを尻目に、水魔の身体が徐々に速度を増しつつ海中を魚雷のように突き進んでいく様はまさしく人魚の幻想であった。
 そして、人魚が、数キロ離れた地点で気怠そうに振り返る。
(……ん……ふ、ぁ……この辺一帯のヌシ……かなぁ……?)
 いかにもやる気の無さそうな半眼が見つめる先で、そいつは巨大な鋏を打ち鳴らし、テリトリーを犯した人魚を威圧していた。
 遠近法を無視した馬鹿げた巨体は、五十メートル程もあるだろう。第一、左手の鋏のサイズからしてスミレの数倍はあるし、右に至っては十倍近くはありそうだ。
(……えぇ……っとぉ……こいつぅ、あんて名前らったかしらねぇ……)
 確か、リタが見せびらかしに来た巨大生物研究報告書とやらに掲載されていた覚えがある。だがどうにも名前が思い出せない。物凄く単純な名前だったと思うのだが、スミレが思い出せたのは『……あ、そーら! こいつ、確かバナナの皮で作った汁が嫌いらったんらっけ……?』という、今この時においては全く何の役にも立たない記憶だけであった。
(……んーと……んーとぉ……)
 後一歩で思い出せそうだ。なのに思い出せない。まるで小魚の骨が喉に引っかかったような筆舌にしがたい気持ち悪さに、スミレは酔った頭を抱えて懸命に考えた。記憶の引き出しを片っ端から開け……どうして酒の銘柄はおろか産地まで全部即座に思い出せるのにそれ以外のことはこうも出てきにくいのか。答えは簡単、自分の中でそれが占めるウェイトに差がありすぎるためだ。
 しかし、小魚。海産物は悪くない。凄く近い。答えはあと一歩先だ。
 そう、もうすぐ……もうすぐ答えが導き出される。だと言うのに……
(ああん! もぉ、あんで邪魔すんのよぉ! アンタの名前でしょーがぁ!)
 巨大な鋏が左右から交互に連続して繰り出される。水中だというのが信じられない速度だ。二振りの大剣と、全身を赤い甲冑で包んだこの南海の騎士は、どうやら予想以上の強敵であるらしい。
 鋏が振り回されるたびに生じる爆流をいなしつつ、スミレは頭を振って髪を後方へ流すと、もう一度正面から南海の騎士を見つめた。
(……ふ〜ん……強いわねぇ、アナタ……)
 スミレのそんな意志を読みとったのだろうか。左右の鋏を身体の全面で交差させ、騎士がまるで構えを取るかのような体勢で静止する。
(ん〜、フッフーン……悪くない……アナタ、悪くないワ……)
 酩酊状態から、次第に覚醒状態へと近付いていくのがわかる。
 酔った状態では勝利するどころか抗しうることすら出来ないだろうというのが、海水を通してビンビンに伝わってきた。深度三百メートルの寒気が、スミレの全身、その均整のとれたプロポーションをヒンヤリと撫でまわす。冷たい愛撫に気泡の出ない吐息を漏らし、闘争本能を解放していく。
 何があろうとも我欲に忠実、己が道を貫くが故の強さは、黒き姫の近衛である黒白の騎士達が持つ忠誠が故の力に比肩、それどころか勝るとも噂される程。多くの死徒の中にあって実力では最強ではないかと言われる者の一人、スミレ・ウォーター・ボトル。その常にだらしなく弛みきった四肢に、渾身の力が込められる。
(……あっ……思いだした!)
 いざ立ち向かわんとしたまさにその時、スミレはようやく自分の正面で二刀を構えた騎士の名を思い出した。
 そう。それは極東の島国でシュリンプを意味する言葉。外見のそのままに名付けられた、実に安直な響き。
(……いくわよぉ……エビラ……ッ!)
 そして、陽も差し込まぬ寒涼たる深海に、滾るような戦の衝撃が響き渡った。




◆    ◆    ◆












◆    ◆    ◆







 怪獣が誕生する要因は、基本的には二つに大別されると言われている。
 一つは、原始の巨獣がそのままに生き延びたもの。人類が記録するサイズにおさまっているものもいれば、際限なく成長を続けた結果なのか信じられない大きさに達しているものもいる。ヴァン=フェムが捕獲したバランなどはこちら側だ。
 そして……もう一つ。化学薬品や放射能、宇宙から降り注ぐ正体不明の宇宙線などによって、偶然と偶然が重なり合った挙げ句の反応なのか、本来無害であったはずの生物がまったくの別次元へと押し上げられてしまったものがいる。えてして厄介なのはこちらに多く、突如として変容を遂げた己に対する哀惜が、または混乱がそうさせるのか、はたまた精神にすら影響をもたらされたのか、やたらと好戦的な生物へと変貌を遂げる場合が多い。
 エビラの双剣をかわしながら、スミレはこの深海の騎士が前者と後者、どちらに属するものなのかを醒めた頭で冷静に解析してみた。
 フジツボなどの付着具合から見て、この甲羅は大分古い。随分と年月を重ねたものであろう事が、発せられる霊格からもわかる。その分厚さは、甲羅と言うよりも重装甲と呼ぶのが相応しいだろう。“ブラック・シャーク”に積んである魚雷でも、おそらく傷一つまともにつけられまい。
 こいつは、前者だ。
 太古の昔……もしかするとそれはスミレがこの世に生を受けたその時よりもさらにずっとずっと古い時代から、騎士はこの海を護り続けてきたのかも知れない。その誇りが彼の剣に鋭さを与えているのだとすれば、なるほど。この強さも道理だ。
 冷静になればなるほど、スミレは頭を抱えることになった。
 エビラの重装甲は極悪なまでに厄介だ。まず、これだけは言えるが自分の物理攻撃力であの鎧を貫けるかと問われれば、否に決まっている。不可能だ。魚雷ですら傷一つつかないだろう甲殻を、いかに吸血鬼の身体能力であっても易々とぶち抜けるはずがない。砕け散るのはこちらの細腕だ。
 ならば残されているのは魔術やら特殊能力……それも自分が持てる最大戦力を遺憾なく発揮して撃滅するという方法なワケだが、例えば固有結界に捉えるにはエビラは少々大きすぎる。あの高速で移動する巨体を固有結界内に閉じ込めるのは幾らなんでも不可能だ。かといって、先程から散発的に繰り出している水弾や水刃で倒せるほど甘い相手ならこうして酔いを醒ます必要など無い。
 名前を思い出すのと同時に思い出したことだが、以前確認されたエビラは南海の孤島レッチ島を中心に猛威を奮い、島民達の七割を二日で殺傷せしめたばかりか討伐に向かった防衛軍艦隊のうち戦艦六隻、空母二隻を撃破するという輝かしい戦績を残し、最期には防衛軍の新造戦艦α号と道連れとなって海の藻屑と消えたのだという。実に馬鹿げた戦力だ。
 目の前のこいつがそのエビラと同種のエビか、それとも別種のエビなのかはエビなど酒のツマミ程度にしか認識していないスミレには与り知らぬところであったが、この速度、斬撃の正確性、装甲の厚さからして能力的に遥かに劣るということはまずありえまい。となれば、戦艦空母併せて八隻を凌駕する戦力とスミレ一人で立ち向かわなければならないことになる。
 美貌の人魚は思わず呆れた。
 まるで勝負にならない。数値の上では自分に勝ち目など欠片もないではないか。これではリタなんかよりもよっぽど自分の方が気狂いなのではないかとも思えてくる。
(……クスッ……)
 そこまで考えて、しかしスミレは嗤った。
 絶望的な戦力差に、弛む頬を抑えきれない。
 何故、リタと親友たりえたか。それは自分の中にもあの芸術家と同種の気概が存在しているからに他ならない。性情、その本質は過激にして苛烈。美酒に酔うほどに戦に酔う、きっとその本性がこのか細き身にこれだけの力を与えたもうた。
 海中を荒れ狂う渦が、スミレの身体を揉みくちゃにしようと四方八方から竜巻のように襲い来るが、しかし人魚は動かない。必殺の双剣のみをその視界に捉え、全身に力を行き渡らせる。
 小細工が通用しないのなら、もはや何もかも無用。唯一この敵を打倒しうるその方法のみを行使することに意識を傾ける。
 そう、死徒の中でも、自分だけに許されたその力でもって。
(悪いのはアナタの領海を侵したアタシ達かも知れないけど……)
 謝るなんて、しない。相手がそれを聞き入れてもくれなければ、自己擁護をする必要すらない状況にあっては謝罪が一体何の意味を為すのか。今この時に至っては自分を納得させる必要さえもないというのに。闘争を選んだ。選んだ以上は、全力で相手を叩き潰すだけだ。
 ならば酔いしれよう、赤き双剣の重騎士よ。ともに水底をたゆたう者同士、この海を互いの血で染め抜き、戦いの愉悦を抱いたまま奈落へと下ろう。
(さぁーて……勝負……っ!)
 こちらの本気が伝わったのだろうか。エビラの速度が、上がった。それを見て、人魚は口の端を吊り上げながら、思い描いた。自己の意志と世界とを直結させて念じ、変貌させるために。即ち――
 空想よ、具現化せよ――と。











〜to be Continued〜






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