interlude-03
〜水底で見上げる天〜


◆    ◆    ◆






 これ程までの戦慄、と言う感情を覚えたのは果たしていつ以来だったか。
「くぅっ!」
 太平洋ど真ん中上空を高速飛行する軍用ジェット機から飛び降りる……例え吸血種であろうとどう考えても自殺行為としかとれない行為を、しかしスミレは一瞬の迷いすらなく平然とやってのけた。他の乗員――防衛軍兵士達――には悪いが、助けている余裕など無い。否、おそらくは、既に彼らは死んでいる。自分が壁を突き破って脱出した次の瞬間には、機体は“ヤツ”の毒牙にかかっていた。
 真下へ向かって垂直に落下していく機体からは、しかし煙など上がっていない。攻撃を受けたのとは明らかに何かが違っていた。そう、あれは攻撃などではなかった。遭遇に気付いた瞬間感じ取ったあの何とも言えない怖気によって、スミレはまるで深海から一息で引き上げられたかのように、一気に酔いを醒まされていた。
 気持ちが、悪い。
「――っ――」
 スミレがその主棲場たる海へと水柱を立てて着水するのとほぼ同時に、ジェット機も数百メートル先の海上へと激突していた。水柱など立てず、「ゴトリッ」という重たげな音を立てて。
 思わず首を傾げる。明らかに異質な音だ。ここは太平洋、周囲四方見渡せど視認可能な範囲に陸地など無いし、そもそも島か浅瀬だったとしても、高々度から落下した飛行機がゴトリッなどという音を立て爆散もせずに落地出来るはずがない。はずが無いというのに……現実はそうなっていた。ジェット機はその機体を、中身まで全て硬質な物質へと変容させ、同じく変容させられた海へと落地したのだ。キラキラと、陽光を浴びて透き通るように輝くそれは海が光を反射しているわけではない、宝石の輝きだった。
 ほんの一泳ぎで、スミレの体はその“宝石島”へと辿り着く。海に浮かぶ、直径二百メートル程の美しい大地に。
「……これ、水晶……?」
 それは、水晶だった。方々に伸びる六角体結晶柱と、それらが連なり、重なり合って形成されるクラスタ。海に浮かぶ、水晶の塊。
「痛っ!」
 試しに放った拳が想像以上の硬さに弾かれる。現実の水晶の果たして何倍の硬度かはわからなかったが、しかし見た目には水晶としか呼びようが無い。
 痛いくらい頭が冴え渡っている。アルコールを摂取したくてたまらないのに、スミレの本能とも言えるそれを理性ではなく肉体が拒否していた。
 今、酩酊すれば命はない。
 酒と水がなければ生きられないと言って憚らないスミレが、しかし酒を摂取したが最後死ぬしかないとは一体どのような冗談か。
 冴え渡る頭脳が数十年分の働きでもって今後の戦闘を予測し、その推移を量り、あらゆる勝敗のパターンを描き出し、練り上げ……だが、その中に明確な勝利の映像が一つとして浮かばない。逃げるか、死ぬか。水中では無敵と称された自分に、この海の真ん中で与えられた選択肢がその二つだけとは――
「何よ……何だってーのよ!」
 水晶の大地に、水魔が降り立つ。海に囲まれた此処ならば、水はすぐ側に幾らでもある。この海水全てがスミレの味方だ、戦い様は幾らでもあるはずなのだ。
 なのに……
「この、アタシがぁッ!」
 ライバルにして親友、リタ・ロズィーアンと殺し合った時よりも。
「海の、真ん中で……!」
 黒の姫君の派閥との争いに巻き込まれ、黒騎士と相対した時よりも。
「酒も、抜けきってるのに!」
 どこまでも青いあの南海でエビラと戦った時よりも。
「どうして、こんな――ッ!」
 師でもある白翼公トラフィム・オーテンロッゼの本気を目にした時よりも。

 ――震えている。

 恐怖している。
 スミレ・ウォーター・ボトルともあろう者が、戦慄を覚えずにはいられない。目前に佇む、赤眼の異形に。
 大きさは、十メートルもあろうか。反対側が透けて見える程のガラス細工のような身体を支えるのは、鋭くもか細い八本の脚。腕と思われる部位はなく、一見蜘蛛のように見えるフォルムはしかし鋭角な甲殻類のようでもあり、その頭部らしき部位の中央では赤い単眼が不気味な光を放っている。
 ただそこにいるだけで、何という威圧感。こいつがそうだと言うのなら、なるほど、噂に違わぬ最悪の相手だ。
「喰らえッ! 化け物ぉッ!!」
 水魔の口から吐き出された呪詛とともに、その水魔を遙かに超える化け物に向かって巨大な水の刃が襲い掛かる。超高圧で撃ち出された水刃は、ダイヤモンドですら両断出来る自信がある、この世のあらゆる物質を切り裂ける死徒スミレの本気の一撃だ。相手が超硬度の水晶を操ろうとも、この刃を防ぐなど不可能。水晶の盾ごと切り裂かれて哀れな断面を晒すのみ。
 その、はずが……
「ッ!!」
 スミレは本能的に飛び退いていた。一気に水晶の島を離れ、海上まで。さらに手足を思い切りかき動かして距離を取る。遠くへ、もっと遠くへ――!
「プハッ」
 頭だけ海上に出して充分すぎる間合いを取ったスミレは、次の瞬間充分どころかその距離がかろうじて己の身を救ったことを実感した。
 ほんの目と鼻の先、三メートルあるかないかの場所まで、島が拡張されている。島ごと動いたのではない、膨れ上がったのだ。スミレが攻撃し、飛び退いてここまで下がった数秒の間に。それを証拠に、先程までは直径二百メートル程だったはずの島が、今はどう見ても二百五十メートルはある。
「これが……侵食固有結界?」
 俄には信じがたいことだったが、水刃は“ヤツ”の手前に転がっていた。形無い水の塊であったはずのそれが、“この島になった”であろう海水や、ジェット機と同じように、水晶へと変質させられて。
 島の中央から動こうともしない、“ヤツ”の無機質な赤い眼がスミレではなくその後方に広がる海原を射抜く。スミレのことなど、眼中にないと言った風体で。
 プライドを傷つけられたとか、そんな生易しいことを言っていられる状況ではなかった。敵が、読めない。まったく、一欠片も、窺い知れない。
「……ORT」
 忌まわしい名を憎々しげに吐き捨て、スミレは周囲の海水へと念を送り込んだ。酔いは完全に醒めている。空想を具現化することでこの海を支配し、世界の摂理をもねじ曲げるだけの力が自分にはある。それでも――
「やぁーねぇ、ホント……勘弁して欲しいわ」
 後方へ移動しながら、スミレは水弾を放った。様子見、とは言え命中すれば確実に相手の身体を粉々に破壊出来るだけの威力はある。だが、それらはいずれも先程の水刃と同じ運命を辿った。水晶島もさらにその大きさを増す。
「ヤツを中心に、球状に展開してるわけね……取り敢えず、指向性はない」
 しかしそれが故に厄介だ。海中の様子を探りながら、スミレは冷静に敵の異能を分析した。この数発のやりとりで判ったが、あの能力――情報通りならおそらくは侵食固有結界『水晶渓谷』――には同時攻撃は通用しない。ジェット機の惨状を鑑みれば上方からの攻撃も無駄、さらに水晶島は下方にも広がっているとくれば、あれは球状に展開していると見てまず間違いないだろう。周辺空間全てに作用する以上、こちらは常に距離を取りつつ攻撃する必要があるため時間差で攻めるのも難しく、一度の発動による現界範囲が見極められればいいのだが、それがスミレの射程より広ければ対処のしようがない。
「あ〜……ったく、どうしたもんかしらねぇ」
 苦笑いを浮かべるスミレが見やる中、ORTはゆっくりと動き出した。スミレへ向かってではなく、西へ向けて。まるで動く芸術品だ。あの禍々しい赤眼さえなければ美術館に飾り置かれてあってもなんら違和感がないと思う。
「……ん〜?」
 と、その時。まるで眼中に無いとばかりに動く水晶の蜘蛛に、スミレはふと疑問を抱いた。眼中に、無い? ジェット機は接近しただけで仕掛けてきたくせに、戦闘能力ではそれを上回るはずのスミレには、こちらから攻撃しない限り反応する様子がない。それは、一体、何故か。
「……ま、そのくらいはね」
 海水に力が宿る。
 逃げるにしても、せめてそのくらいの謎は解いておきたい。プライドのために命を捨てる程殊勝ではないし、責任なんて言葉は正直ウザッたいだけだが、ライバルと師の手前、メンツというものは流石にある。
 命じられ、引き受けたのは聖堂教会の代行者部隊を壊滅させた敵の調査。ならば見極めてやる。この、化け物の能力を、性質を。
「さぁ〜て。アタシが描く世界を侵食出来るもんなら……やってみれってぇのよ!」
 世界が、変わる。
 水魔の世界が水晶島を砕かんと迫る中、赤眼がその輝きを増したかに見えた。





◆    ◆    ◆






「心配かね?」
「あ……いえ、そんな事はありませんわ」
 フランスでリタを拾ってから二時間。けして広くはないブリッジの中を行ったり来たりし続ける彼女に、ヴァン=フェムは落ち着きたまえ、と前置いてからそう問いかけた。
「わたくしが、あの酔いどれを心配なんてありえませんわよ」
 問われ即座に平静さを取り戻すのは流石と言えなくもないが、既に二千年以上を生きているヴァン=フェムの目から見れば、リタもスミレもまだまだ若い。若いが故の感情の動きが、しかし彼女らの激しさもあと数百年もすればなりを潜めるのかと思うと寂しくもある。
「あの酔いどれを倒すのは、わたくしですから」
「面白味に欠ける台詞だな。まだ若いのだから、そのような使い古された台詞ではなくもっと斬新な言い回しは浮かばないものかね?」
 だからこうして年甲斐なくからかってみたくもなるのだ。
 こうなってはいかなる時でも我が道を突き進むリタとは言え、相手が悪い。むっつりと座席に座り直すと、可愛らしい縁飾りのついたブックカバーで覆った文庫本を黙って熟読し始めた。
「フフ。優しいのね、リタ・ロズィーアンも、ヴァン=フェムも」
 そんな吸血鬼達のやりとりを心底愉快だとばかりにナルバレックは手を叩く。
「うちの部下達なんかよりよっぽど温かみがあるわ」
「立ち方の差、ではないかな。教義や信仰を礎とする君達と、勝手気ままに、己が興味関心、好悪で行動する我々とではそもそもの在りようが異なる」
「なるほど、仰る通りね」
 納得、とばかりにクスクスと笑う。かたやヴァン=フェムもこの数時間ばかりの道中で彼女の人となりというものを改めて実感していた。確かに、あのメレムが手こずるわけだ。トラフィムと真っ向から張り合う知力、胆力と言い、この女はあらゆる意味でずば抜けている。ヴァン=フェムが普段相手取っている世界経済の暗部に巣くう輩の中にもここまでの人材はそうはいまい。
(いやはや……怖い女だ)
 ナルバレックは教会の異端だ。だが、異端であるが故に怖ろしい。教義や信仰を盾に綺麗事を並べ立て、その実保身や権力欲しか頭にない司祭共とはものが違う。勝手気ままに、己が興味関心、好悪で動く……何のことはない、彼女はよっぽどこちら側の人間なのだ。唯一違いがあるとすれば、それでも彼女は神の従であるという点か。
「信仰を尊ぶのもいいけれど、みんな画一的なそれに縛られ過ぎだわ。私は部下達にはまず自分の中の信仰を尊べと常から呼び掛けているのだけれど」
「聡明な意見だ。もっとも、それも疎まれる一因ではあろうがね。枢機卿達には大分煙たがられていると聞いたが……」
 教会の中には埋葬機関の存在に懐疑的、否定的な勢力も少なくはない。特に現枢機卿の過半数はかなり大々的にその意を表していると聞く。しかし、それも無理からぬ事だろう。
「関係ないわね。連中がやっているのは宗教でも信仰でもないわ、政治よ」
 彼女は強すぎる。しかもただの猪武者ではない、目の前で微笑む梟雄は知略においても教会の有象無象共を遥かに凌駕している。それは、やもすれば教会という組織そのものを喰らい尽くせるだけの力だ。
「私は私の中の神とその言葉を信じている。だから神の御心のままに力を振るうのよ、全力でね」
 それは、寒気がする程に力強い言葉だった。
「やれやれ。君の神の敵には、なりたくないものだな」
 顎髭を撫でながら、ヴァン=フェムはそう言って喉の奥を鳴らした。或いはもう千年も昔であったならば、文庫本を持つ手を震わせているリタのように闘争本能を刺激されたかも知れない。
「さて。日本まではあと三時間程だ。今のうちに食事か、もしくは寝ておいた方がいいと思うが、どうするかね? リタ、ナルバレック」
「そうね、それでは何か御馳走になろうかしら」
「わたくしもお腹が空きましたわ、ヴァン=フェム老」
 少し皺が出来てしまった文庫を直しながら、リタもそう希望する。
「ふむ。では大した物はないが何か作ってくるとしよう」
「そうね、それではお願……」
 そこでナルバレックは、彼女にしては珍しく固まっていた。ヴァン=フェムは気にもとめずブリッジを退出し、リタはクスクスと笑っている。
「趣味、ですのよ。ヴァン=フェム老の」
「……料理が?」
 信じられないのも無理はない。リタも初めて聞いた時は耳を疑ったし、実際に出来たものを口にするまで信じられなかった。
「現実とは往々にして信じがたい事ばかり。トラフィム小父様がテレビゲームをなさるのも、ヴァン=フェム老の料理の腕前が五ツ星レストランのシェフ並なのも、どんなに否定しようとも事実なのですもの」
「……目眩がするわね」
「本人達が楽しんでいるのですからいいじゃありませんの。楽しめなくなったら、わたくし達には滅びしか残されていないのですし」
 大きく息を吐いて、ナルバレックは席に腰掛けた。
「白翼公もヴァン=フェムも、多趣味らしいとは聞いていたけれど」
 ブリッジを見渡し、もう一度息を吐く。
 最新の科学、最高の魔術、あらゆる技術が詰め込まれた第七魔城『大鉄塊』ガロ。この巨大な鉄の塊を自在に操る世界最高位の人形師にして、経済界の魔王とも呼ばれるヴァンデルシュタームの趣味がエコロジーやら手料理やら。
「……ちなみにリタ・ロズィーアン。貴女、料理は?」
「好きですわよ。いただくのは」
 まったく、悪びれもせず言ってのける。
 いっそ清々しいその態度に、ナルバレックは自分も少しくらい料理を覚えた方がいいような言いしれぬ気持ちに襲われたのだった。





◆    ◆    ◆






「ふぎゃーーーーーーっ!!」
 ベッドから飛び起きるなり、スミレは絶叫していた。
 侵食される世界。水晶と化す海。爛々と光る赤眼。雷光を迸らせる結晶柱……
 完全敗北。言い訳のしようもない、為す術無く敗れ去った――
「気がついたみたいですね」
「うぇ?」
 敗れ去った――というのに、どうやらまだ自分は天国にも地獄にも落ちてはいないらしい。もしそうなら、死人に気がついたもへったくれもあるまい。気がつくことが出来る以上、それは死んでいないと言うことだ。
「……助かった……? 助けてくれたのは、アンタ?」
 ベッドの脇に立つ女と、自分が寝かされている部屋、その全てに瞬時に視線を行き渡らせる。別にそうしようと思ってやったわけではない、酒が抜けているせいで感覚が鋭敏になっているだけだ。
 しかし……どうにも、理解しかねる。女の格好もそうだが、部屋の様子もあまりにも奇妙だ。少なくとも、スミレは現在このような文化スタイルをとっている国や土地を知らない。
「え、と。取り敢えず、お礼を言う前に一つ訊いていい?」
「なんですか?」
「……アンタ、もしかすると、アレ? 宇宙の人?」
 眉を顰め、なかなかに真剣な面持ちでそう訊ねたスミレを一瞬気が抜けたように見つめた後、女は思いきり破顔し、笑い出した。



「何もそこまで笑わなくてもいいと思うわけよ。だってそう見えちゃったんだし」
 ようやく笑い止んだ女にそう言ってブーたれつつ、スミレは頭を掻きながら、
「それはそうと、助けてくれて、アリガト。何をどうやったのかはわかんないけど、あのままだったらアタシは今頃さぞや綺麗な水晶細工になってたわ」
 そう言って軽く頭を下げた。他人に礼を言ったのなど数百年ぶりではないだろうか。酔ったままだったなら本気で謝り方を思い出せなかった可能性がある。
 しかし、それはそうと……
「でもホントに宇宙の人じゃないの?」
 改めて、女の格好を頭のてっぺんからつま先までじっくりと見やる。
 見たところ、二十代半ばと言ったところだろうか。顔立ちはアジア人種のそれだが、どの国とも微妙に異なっている……と言うより、様々な国の人種の特徴を雑多に混ぜたかのような、しかし姿形、肌の色は人類と何ら変わらない。ただ、その全身を包んでいるものがひたすらに奇異だった。
 まず、身体にピッタリとフィットしたスーツは丁度真ん中を境目にして左右が赤と青に塗り分けられており、その上に純白のマントを纏った装束は衣類に頓着しないスミレの目から見てもおかしいという他無い。スミレが知りうる限りの人類の歴史上、このような衣装を着る文化圏は無かったはずだ。宇宙人か、と言う質問は、何も全て冗談だったわけでもない。
「ええ、れっきとしたこの星の“人間”ですよ」
 しかし女は笑ってそう答えると、コップに水を注いでスミレへと差し出した。そのコップや水差しの形状もやはり奇妙で、変に拗くれたような、それこそリタあたりの突飛な感覚なら芸術として捉えるのかも知れないが、とは言えスミレには単に持ちづらいだけのものだった。
「……う〜、正直、水よかお酒の方が嬉しかったんだけど、まぁ我が侭は言えないわよねぇ……」
 ぶつくさと言いながら、スミレはコップの水に僅かな念を通し中身を酒へと変えた。どうにも能力で作った酒は味気なくていけないが、これ以上頭を冴え渡らせておくのは身体に毒だ。さっさと酔っぱらってしまうに限る。
「ふぅ〜……吸血鬼が生き返るとはおかしな話だけど、生き返るわぁ」
 それでもあるのとないのとでは大違いだ。精神の劣化を終始酔っぱらうことで防いでいるという無茶苦茶な不死者であるスミレにとって、酔いが醒めて何にでも知恵が働く状態というのは危険極まりないのである。
 女の正体、どうやってORTから自分を救い出したのか、此処は何処なのか、何故言葉が通じるのか……山のように浮かんでいたそれらの問題が、波にさらわれる砂のようにサラサラと意識の海へと拡散し、徐々に小さくなっていく。
「……」
「ありゃ、どったの?」
 そんな光景を暫し茫然と見つめていた女を見て、スミレは不思議そうに首を傾げた。コップ一杯とは言え既にいつものスミレ・ウォーター・ボトルである。こうなってしまうと常人の感覚では少しばかりついていくのが難しい。
「あ〜、あ〜あ〜、そっかぁ。自己紹介がまだらったわよね」
 女の手から水差しを引ったくり、中の水全てを酒へと変えてラッパ呑みしつつスミレはベッドから降り、のらりくらりと姿勢を正した。
「アタシは、スミレ・ウォーター・ボトル。ちょ〜っとばかし用があってあるヤツに突っかけたんらけど、見ての通り、ボロ負けしちゃった。てへへ」
 言葉からも表情からも、感情は読みとれない。ただ心地よさげにニンマリと微笑むと、スミレはベッドの上で胡座を組んだ。
 ややあって、今まで圧倒されていた女の方もようやくこの珍妙な酔っぱらいの性格を掴みかけてきたらしい。自分もコップを手に取ると一杯飲んで一息つく。そうして姿勢を正すと、毅然とした態度で自らの名を告げた。
「私の名前はアネット。このムー帝国の住民です」
 地上の者にこう名乗るのは、いつものことだが気が重い。大概の相手はまず信じようとしないか、もしくは気狂いのようにこちらを見る。あの視線ばかりはいつになっても慣れるものではない。今回も、おそらくは似たような反応だろう。そう思い、アネットが顔を上げると……
「ふ〜ん。それじゃ自己紹介も済んだことだし、ほら、アンタも呑みなさいよ」
「……え?」
 その予想外の返答に大いに戸惑い、アネットの顔が不自然に歪んだ。
「あによ、おかしな顔しちゃって。ほらほら、呑みなさいよ〜。ってか、呑め」
 目の据わったスミレが、酒瓶と化してしまった水差しをドッカとベッドに置き、酒臭い息でコップを差し出してくる。
「あ、あの……」
「あん?」
「……驚かないんですか?」
「あにを?」
 ――ムー帝国――
 一万二千年前に海中に没したとされる幻の大陸。そこで栄えた伝説の帝国の名を真剣に切り出された上でのこの反応は、アネットには初めてのことだった。
「それよりも、アンタ。え〜と、アネット」
「あ、はい」
 こちらを疑うどころか、まったく関係ない部分で不機嫌そうな表情を全開にしつつスミレは再びコップを空にする。
「喋り方が、堅苦しい。敬語ウザイ。タメ口でいいわよタメで。あと、呑め」
 駄目さ大爆発だった。
「は、はい……じゃなくて、ええ」
 仕方なく、アネットの手が怖ず怖ずと差し出される。
 それに満足したのか、スミレはアネットのコップになみなみと酒を注ぐと、続いて自分のコップにも手酌で注ぐ。その姿を見る限り、アネットには彼女という人物が計りかねた。果たして、託すに足るだけの相手なのか、否か……
「そうそう。大体、敬語で呑むなんて酒を一番不味く呑む方法らってのよ。あー、あと、お代わり」
 それでも計らなければなるまい。そのために助けたのだ、危険を承知で、あの化け物と交戦してまで。
 空になった水差しを受け取って部屋を出た後、アネットは果たしてただの水を持ってくればいいのか、それとも酒を用意すればいいのか思案しつつ、廊下を歩く足を速めた。





◆    ◆    ◆






 アネットから海上で助けた女が目覚めたという報告を受け、アブトゥーは窓の向こうに広がる暗い海の底を眺めた。
 果てしない暗黒と静寂の他には何も無い世界。かつてノンマルトと呼ばれた地球の支配者の中でも最大の大国であったはずのムー帝国が、今やこの水底で少数がひっそりと隠れ住むのみ。そう思えば、地上の者を……現在地球上で栄華を築いている者を助けるなど忌々しいことこの上なくはあったが、その話はもう何度もアネットと繰り返し、結果として自分が折れたのだ。
 アネットと赤青左右が入れ違っただけの同じデザインの衣装に覆われた身体を掻き抱くように両腕を回し、アブトゥーは切れ長の目をそっと閉じた。
 自然のものではない、作られた空気が微風となり、長い金髪をそっと揺らす。
「……マンダ」
 ゆっくりと顔を上げ、目を開く。
 視線の先、天井に描かれているのは、巨大な龍の威容。
 気丈なはずの表情は、しかしまるで縋るようにそれを見つめ続けた。





◆    ◆    ◆






「あら、地震?」
 この一帯では滅多にない強い揺れに、アネットは眉を顰めた。
 最近は揺れも多いし、原因もわかっているとは言え、何故だろう。今日の揺れは妙に心がざわめく。それはかつてノンマルトに備わっていた、地上の人間が持たざる異能が何かを告げているのか……
「あっ……」
 さらにもう一度、通路が傾いたのかと錯覚してしまうくらい強い揺れに、慌てて壁にもたれかかる。せっかく用意した酒を落として割ってしまうわけにもいかず、胸に抱きかかえながらアネットは揺れがおさまるのを待った。どうせ長くてもほんの数十秒もすればおさまると、そう言い聞かせて。そう、これはただの地震だ。手に入れた情報からも、今日がその日のわけがない。
 すぐにおさまる。すぐ……もうすぐに……
「……マンダ」
 掠れた声でそう呟きながら、アネットは祈るように天を仰いだ。
 本当の天には程遠い、薄暗い天井を。











〜to be Continued〜






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