interlude-04
〜白翼は舞う〜
Part 2 槍と翼と


◆    ◆    ◆






 エンハウンスの瞳は憎悪と怨念で溶け出しそうだった。
 完璧なタイミングだったはずだ。ソードオフショットガンに射程はないに等しいが、その分発射の瞬間に散弾が傘状に拡がり飛ぶ。エンハウンスと小次郎の距離はたった2メートル、完全に射程内だったのだ。それなのに、
「……く、ふぅ」
 陣羽織の左袖を血で染めながらも、佐々木小次郎は愛用の長刀をエンハウンスへと突き付けていた。決して苦悶の表情など浮かべることなく、優美さながらの佇まいで。
「ど、どうやって避けた?」
「……ふっ。避けきれなんだがな」
 聖葬砲典が放たれた瞬間、小次郎は咄嗟に右へと跳んでいた。しかしそれだけで間に合うはずもなく、小次郎がとったのはもはやがむしゃらと言ってよい行動だった。突きには不向きな物干し竿を伸ばし、聖葬砲典の銃身に引っ掛けたのだ。結果、ほんの少しだけ発射が左に逸れた。だがそのズレが無かったなら、左腕だけでなく全身が蜂の巣だっただろう。
「銃使いと戦ったのは初めてだが、肝を冷やしたぞ。これでは戦場で剣が不用となるも道理よな」
 傷は浅くない。この程度なら“死ぬ”ような事はないだろうが、現界し続けているには少々苦しい。一度霊体に戻り回復につとめる必要がある。
「ク、ク、ク、クソ、クソクソ……」
 エンハウンスは憎悪に歪んだ瞳で小次郎を睨み付けた。だが僅かにでも長刀が閃けば、片刃の首は地に落ちる。絶望的状況とはまさにこのことだ。
 死は怖ろしい。
 不死の化け物と化した我が身を愁い、復讐に身を焦がしはしても目前に迫った死への恐怖を拭い去るのは無理だった。
「アヴェンジャー、アヴェンジャー……答えろ、アヴェンジャー……」
 ガタガタと震えながらエンハウンスは復讐の魔剣を呼んだ。何度も、何度も縋るように呼び掛けて、なのに魔剣は応えてくれない。
 それでも唱えた。呪詛のように、怨嗟の声で魔剣を呼ぶ。
 聖葬砲典がエンハウンスの吸血鬼としての肉体を蝕むのに対し、魔剣アヴェンジャーは人間の精神を蝕む。左手は爛れ、精神は捻れ狂いながら、吐いた息を吸うのも忘れてエンハウンスは望んだ。復讐のための力を一心不乱に求め、訴えた。
「……む」
 薄気味の悪い相手だ。強さを求めるあまりに精神を病んだ相手とは小次郎も生前に何度か立ち合った覚えがあるが、この吸血鬼はそれにしても異様だ。
「……オレは」
 憎悪が辺りを這い回る。もはや小次郎の前にいるのは吸血鬼でも人間でもない何かだった。いわば黒い汚泥の塊だ。
 汚泥がズルリと流れ、中から鬱怏とした顔が覗いていた。
 アヴェンジャーがようやく囁く。
 囁く言葉は常に決まっていた。アヴェンジャーが使い手に囁くのは甘美な復讐への誘いだ。ひたすらにその念に身を委ねることで、肉体は限界を超えて躍動する。精神は思考を止め、全ての敵を葬り去ることだけを欲するようになる。
「こやつ、外れたかッ!?」
「オレはまだ復讐を果たしちゃいねぇえッ!!」
 小次郎が斬りつけたのと、復讐鬼が吼えたのは同時だった。
 物干し竿に胸を深々と裂かれながらも、血に飢えたアヴェンジャーが小次郎目掛けて振るわれる。狙いは左。傷ついた左腕は天才剣士の致命的な死角となっている。
「オレは、オレは、オレはぁッ!」
 そしてエンハウンスの左手が上がる。小次郎にとって剣は大して驚異ではない。危険なのは聖葬砲典だ。
 だから撃たない。
「クッ!」
「けぇイッ!」
 聖葬砲典を牽制に、アヴェンジャーを叩き付ける。
 復讐鬼の剣に芸術的な美しさなど不要。こうやって何度も何度も振り回し、叩き付け、その果てに相手の命を絶てるのならそれでいいのだ。勝ち方に拘るつもりは毛頭無い。そもそもアヴェンジャーに蝕まれた精神はとうにそういった思考を停止している。かろうじて働くのは勝ち方ではなく殺し方だ。
「ヒハッハッフゥハアァッ!」
 肺がもう空だ。半分人間の肉体は厄介なことに酸素をとても欲しがっている。けれどエンハウンスのブレーキは完全に壊れていた。酸素以上に相手の血を欲していた。
「化け物退治はッ! 初めて、だな!」
 物干し竿で器用にアヴェンジャーを受け流していても、小次郎も限界が近い。早急に仕掛ける必要があった。一撃で確実にこの化け物を倒しうる秘奥、佐々木小次郎の名を被る者が放てる、英霊の宝具をも凌駕しうる究極の技。
「つあぁっ!」
「ヒッ!?」
 強引にアヴェンジャーを跳ね上げる。
 距離は空いた。だがエンハウンスは即座に飛び込んでくるだろう。勝負はまさに、その一瞬。
「ハァフアァアアアッ!!」
 小次郎の読み通りに、エンハウンスはすぐさま体を前に、跳ね上げられたアヴェンジャーを振り下ろしてきた。
 集中する。
 首を飛ばせば化け物退治は完了だ。吸血種の中には心臓をえぐろうが頭を潰そうが死なない奴もいるらしいが、エンハウンスが肉体的には人間に近いことは小次郎も見抜いていた。
 振り下ろされるアヴェンジャーは問題ない。問題なのは左の聖葬砲典だ。
(やはりそうきたか!)
 物干し竿の間合いと聖葬砲典の間合いはほぼ等距離だ。秘剣を放つために距離を空ければ、こうなるのはわかっていた。
 だからここからはどちらが速いか。単純な速さ比べだ。
「――秘剣」
「フ、ヘッ!」
 長刀と銃身がそれぞれ上がる。
 どちらが速いともない。もう相手の速度を気にしている余裕はなかった。己の速さを突き詰めることでしか、勝利はありえない。
 エンハウンスの指が引き金にかかり、肉が溶け――
 小次郎の長刀がついに秘奥を放つための位置につき――

 ――しかし、どちらも放たれることはなかった。

「なぁにぃッ!?」
「これは!」
 城が大きく揺れ、二人は体勢を崩していた。踏ん張りがきかない、標的を定められない。それに何より、上の階から伝わってくる強大な力がぶつかり合うの気配に二人は手を止めてしまった。
「……は、あぁ」
 アヴェンジャーの囁き声が消える。
 一気に息を吸い込んだせいでエンハウンスは勢いよく仰け反っていた。それでも牽制だけは肉体が忘れてくれなかったようだ。ふらつく聖葬砲典がむしろどうくるか読み切れず、小次郎も距離をとらざるをえなかった。
 荒い呼吸だけが耳に響く。
「……く、くく」
 小次郎の肩が震えた。
「化け物退治、ならずか」
 物干し竿を構え直しながら、しかし小次郎にもうこれ以上戦う気はなかった。と言うより、正直動けない。胸から夥しい血を流しているエンハウンスも限界だろう。必死に呼吸を整えているようだが、あのねっとりとまとわりつくような負の念が消えている。
 元より相手を倒すことが目的ではない以上、早々に舞台から退場するのはつまらない。
「……まったく、おもしろくなってきた」
 呟いて、侍はもう一度肩を震わせた。





◆    ◆    ◆






 ひりつくような緊張感。まるで自分の肉体が陽炎と化してしまったかのような感覚に、クー・フーリンは舌なめずりした。これから強者中の強者と生命のやり取りをするというのに、笑わずにはいられない。積もりに積もった鬱屈が、今、至上の歓喜によって洗い流されようとしていた。
 求め続けた死闘がすぐ目の前にある。かつて戦ったどのような相手とも異なる圧倒的な力の塊、白翼公トラフィム・オーテンロッゼを前にしては、ありふれた英雄による化け物退治のサーガがなんとも陳腐に思えてしまう。
 当たり前だ。
 伝説の中にのみ存在するものとは違う。クー・フーリンが目の当たりにしているのは、数多の神話が生まれた古の時代を経て今なお生き続けている出鱈目な相手なのだ。
 そも、クー・フーリンはトラフィムを知っていた。生前、まだ英雄などと呼ばれていなかった昔、彼が師と仰ぎ慕う女性が語った恐るべき魔王の話。夜の世界を席巻する数多の吸血種の中で最強と謳われた男。もっとも、その頃はまだ“白翼公”とは呼ばれていなかったはずだが。
「……ク、クックック」
 白い翼などどこにも見えない。だが、それがどうした。
 魔槍の狙いは心の臓。その他、あらゆる人体の急所を高速かつ正確に貫く技の前に、白い翼があろうとなかろうと関係ない。
「愉しそうだな、クー・フーリン」
「ああ、愉しいさ」
 これで愉しくないはずがあるものか。
 クー・フーリンが今の主に命じられた内容は至極簡単だった。
 ――白翼公の居城へ行け――
 それだけである。
 倒せ、とも、様子を見てこい、とも言われていない。黒い少女からは、『行け』とだけ命じられた。
 ただそこにいるだけでこちらの臓腑を根刮ぎ握り潰すかのような圧迫感を醸す、不気味な少女だった。幼い瞳に宿る光はただ無垢と呼ぶにはあまりにも禍々しすぎて、喚び出された歴戦の英霊達が皆身震いしていた程だ。
 人は正体のわからないもの、底の見えないものに本能的な嫌悪感や恐怖心を抱く。あの少女はその場にいながら、しかしいなかった。見えているのに見えない、そもそも見えている部分など氷山の一角でさえ無いのかも知れない。
 別の世界から這い出てきた者。
 まるで生きた奈落だ。アレと比べれば、純粋に強者として立つトラフィムには親しみすら覚える。
 だから、愉しいのだ。



「ふむ」
 クー・フーリンから叩き付けられる心地よい殺気を浴びながら、トラフィムは拳を何度か握り直した。鍛錬を怠ったことはないが、実戦は久しぶりだ。肉体の隅々にまで気を張り巡らせ、魔力を練る。
 手を抜ける相手でないのは明白だった。
 伝説の魔槍ゲイボルク……恐るべき宝具だが、真に怖ろしいのは魔槍ではなくその使い手である。槍の穂先をまるで地面に突き立てるかのように低く構え、鎧の上からでもわかる猛獣のようにしなやかな肉体はひとたび地を蹴れば弾丸よりも速くトラフィムの急所を刺し貫くだろう。
「流石は英霊、と言ったところか」
 僅かに視線をずらし、後ろに控えたシエルとバゼットを見る。まだショックから立ち直れていないのだろう、シエルに支えられながら、バゼットは呆けたようにクー・フーリンを見つめ続けていた。その姿がまるで親に見捨てられた幼子のように映り、トラフィムの表情が曇る。トラフィムも、それにヴァン=フェムも認めるだけの強さを持つバゼットの儚さが、蓋をしていた記憶に触れていた。
 だが、感傷に浸っていられる状況でもない。
「ガッシュ」
 部下を呼んだ声は、平生のトラフィムのままだった。
「……お呼びですか?」
 冷たい、無機質な声が聞こえる。途端、シエル達の後ろに一人の――いや、一体の黒い機兵が現れていた。
 ガードノイド・ガッシュ。ヴァン=フェムが誇る守護機兵軍団の長で、トラフィムの身辺警護を任されており、その戦闘力はバルスキーやドランガーと同等の実力者だ。
「シエルとバゼットを守れ。加減が利かぬだろうからな、どこにどうとばっちりがいくかわからん。ブーバ、シーマ、お前達も巻き添えなど喰らってくれるなよ?」
 トラフィムの二人の副官、ブーバとシーマからは返答はない。気配を消し、息を潜めて主命を待っているのだろう。
「自分の身くらい、守れますよ」
 一応、シエルはそう言っておいた。誇りの問題だとかそんな大それた理由はなく、本当に一応だ。とは言え実際には敵対している間柄であるのだから、決して無意味なわけでもない。少なくとも守られる側の心理的には。
 シエルとて埋葬機関の第七位、己が身一つ守れないような女ではないが、何せあの白翼公トラフィムと伝説の英雄クー・フーリンの戦いだ。自分だけならまだしも、今こうして肩を貸しているバゼットまで守り通せる自信はない。
 いっそ『そうですね、私一人ではバゼットの面倒までは見切れませんからお願いします』とでも言えばバゼットも発憤してくれるかとも思ったが、やめた。そこまで嫌な女を演じる必要もあるまい。
「……」
 シエル達を一瞥して後、特に何を言うでもなくガッシュは二人の前に立った。この城に滞在している間、シエルは何度か彼と鉢合わせたことがあるが、言葉を交わした記憶はとんと無い。ヴァン=フェムも特に寡黙な性格を設定したつもりはないらしいのだが、ガッシュは必要最低限しか会話をしようとしないのだ。護衛という役柄上、彼自身が望んでそうしているフシがある。
「さて、それでは始めるか」
 ガッシュが守りについたことを確認すると、両拳を胸の高さに構え、トラフィムはスッと目を細めた。構えと言っても拳だけだ。全体的に見ればあまりにも無造作にして無防備、戦意も感じられない凪いだ海のような状態だった。
 なのに――
「……へっ」
 クー・フーリンの頬を、汗が伝った。
 目の前にいるのは老人だ。朽ち木のような肉体はゲイボルクによる必殺の刺突など放たずとも、ただ何も考えず振るっただけで容易くへし折れてしまうに違いない。しかし、そうはならないだろう確信もまたあった。
 研ぎ澄まされたクー・フーリンの感覚は、告げていた。
 室内に風が吹いている。微風だ。とても静かな、波一つたてられない、枯葉一つ散らせない微風が肌にあたっている。
 なんたる前兆。この静けさは、嵐の前に過ぎない。トラフィムという名の特大のハリケーンがひとたび牙を剥けば、吹き荒れる暴風によってあらゆるものは根刮ぎ消し飛ばされてしまうだろう。
 故に、喜悦。
「こうなりゃ、仕事なんざ抜きだな。大将……」
 猛犬の両眼がカッと見開かれた。
 朱い魔槍から濃密な死の気配が流れた。槍がこれまでに呑み込んできたあらゆる生命が、囁いている。呑み込めと。数千年を生き抜いた恐るべき吸血鬼の王をも呑み込んで、魔槍の伝説にさらなる朱き彩りを添えよと。
 蒼が、消えた。
 微風が、裂けた。



 見守っていたシエルには、蒼い影が『動いた』と察知するのが精一杯だった。シエルですらそうとしか認識出来ないそれはまさに閃光。速いと形容することすら馬鹿馬鹿しい絶望的なまでの速度が白翼公へ襲い掛かっていた。
「ハアァアッ!」
 今さらのような掛け声に、シエルはトラフィムがどうなったのかを確認しようと視線を巡らす。が、巡らす必要など無かった。トラフィムは動いていない。一歩も動いていない。拳を構え、何をするでもなくその場に棒立ちしたままだった。
 ――まさか、既に心の臓を抉られたのか?
 一瞬そうも考えたが、それにしては血の一滴も飛び散っていないのが不自然だ。
 混乱気味な頭を無理矢理に落ち着かせる。冷静にさえなれば捉えきれない事もないはずだ。比喩抜きに光の速さだとか言うならば兎も角、いかに英霊だろうともベースが人間な以上そこに限界はあるのだと言い聞かせる。
 朱い槍の軌跡を追う。
 クー・フーリンとトラフィムは、槍の間合いピッタリの距離に立って睨み合っていた。そう、傍目にはただ睨み合っているだけに見えるのだが、実際には槍を繰るクー・フーリンの腕のみが凄まじい速度で動き続けている。魔槍はトラフィムの頭を、肩を、腰を、紙一重で掠めながら、今のところ直撃は無い。
 様子見のつもりだろうか。敢えて外し、白翼公の出方を見計らっているのかも知れないとシエルは考え、しかし違っていた。そうではない。クー・フーリンの貌は様子見をしている者の貌ではなかった。猛犬は本気だ。少なくとも、手は抜いていない。
 では、何故トラフィムに一撃たりとも命中していないのか――
「……風?」
 不意に、シエルは自分の前髪が微かに揺れていることに気がついた。頬にも感じるこれは、室内だというのに紛れもなく風。徐々に強くなりつつ、風が舞っている。自然の風とは異なり、魔力を帯びた風の発生源は、トラフィムだ。
「まさかっ!?」
 魔力感知に全神経を集中すると、そこでようやく視えた。
 あまりに自然すぎて気がつかなかった風の正体。詠唱はシングルアクション、発動はほんの一瞬の、風の魔弾。
 渦を巻く風の塊がクー・フーリンが槍を繰り出そうとするたびに彼の身体を流し、攻撃を逸らしているのだ。風属性の魔術を扱える者にとっては基本中の基本、初歩魔術のそれは並の使い手が放ったところで彼の英雄の対魔力を上回り動きを阻害することなど出来はしないだろう。大きさは拳大の風の弾丸一つ一つにどれだけの威力が秘められているのか、シエルは息を呑んだ。
「どうした、クー・フーリン? よもやこんな程度ではあるまい」
 そう言ったトラフィムが、初めて拳を動かした。
 右ストレート。
 クー・フーリンの突きと比べれば緩慢とさえ思える拳は、暴風を巻き起こしつつ不可視の牙となって猛犬に襲い掛かる。
「チィッ!」
 されど猛犬の鋭さも折り紙付きだ。槍を引き、横っ飛びに避ける一連の動作は風よりも速い。
 トラフィムの放った風の拳が壁に穴を穿ち、広間が震える。思わず蹌踉けたシエルだったが、視線は二人を捉えたままだ。なにせまばたきしている間にも決着がつきかねない攻防である、一瞬たりとも目を逸らせない。
 避けた先の床を蹴って、クー・フーリンが再びトラフィムを急襲する。すると、トラフィムは左の拳を振るうわけでもなく無造作にクー・フーリンへと突き出し、ニヤリと笑みを浮かべた。途端、小型の竜巻のようなものが三つ、拳の先から巻き起こったかと思うと空中のクー・フーリンへ向かって三方から囲うように襲い掛かる。
「ハッハーッ! 流石だ、大将!」
 クランの猛犬もまた笑っていた。笑いながら槍を天井へ突き刺し、それを支点にして身体を反転、竜巻を回避しつつ今度は天井を蹴って急降下する。
「流石なのは貴様だよクー・フーリン」
 そこに至ってようやくトラフィムの下半身が動いた。右に半歩、弾丸と化したクー・フーリンの着弾点を見切っての微動。そうして槍が床に突き刺さるのと同時に風を纏った腕が蒼い弾丸を捕らえていた。
「うおぉぉっ!?」
 白い腕が弧を描き、蒼い槍兵が回転する。トラフィムの佇まいにはおよそ似つかわしくない強引な投げだったが、槍一本でしか床と繋がっていなかったクー・フーリンは重心もクソもなく宙を舞った。そこでさらに追い打ちとばかりに無数の魔弾が放たれる。竜巻のような派手さはないが、その分威力を凝縮させたそれは命中すれば標的を瞬時に引き裂きボロ雑巾と化すだろう。
 決着かと思われた。これで決着がつかない方がどうかしている。
 なのに、それでも二人は笑っていた。
 この程度で終わるわけがないと、確信した笑みだった。
 クー・フーリンの指が滑らかにルーンを描く。描いた先は自らの右腕。槍を持ったままの右腕に魔力の光が灯り、それは瞬時に槍全体へと浸透した。
 ゲイボルクが振るわれる。刻んだルーンはごく簡単な対魔の紋様。元より神秘の塊たる魔槍にその効果が上乗せされたのなら、たとえトラフィムの魔弾と言えども防ぐのは不可能ではない。
 ゲイボルクと接触し、斬り裂かれた魔弾から凝縮されていた風が一気に溢れ出る。その奔流は残った魔弾の軌道をずらし、クー・フーリンの肉体をも巻き込んで広間中に吹き荒れた。
「……ふむ」
 強風の中、トラフィムは姿勢を正すと、クー・フーリンを投げた拍子に捲れてしまった袖を直した。
「まったく、本当によくもやるものだよ」
 巧みな体捌きによって着地し、再び槍を構えた英雄に対して素直な賛辞をおくる。
「アンタもな」
 クー・フーリンも嬉々として言い返す。
 そんな二人の様子を驚くよりも呆れながらシエルは見やっていた。今の攻防でも互いにダメージを受けた様子は無い。あまりにも馬鹿げている。自分なら、今の戦闘をどうこなしただろうか。トラフィムとクー・フーリン、それぞれに自分を当て嵌めてシエルは簡単にシミュレーションしてみた。
 ……結果は、惨々たるものだった。最低でも、片腕くらいは失っていただろう。
 どちらも奥の手のようなものは使っていない。ただの槍兵と魔術師の戦闘だ。だと言うのに、単純にあらゆる動作の域が高すぎる。
 と、その時。
「……ふぅ」
「あん……?」
 溜息と同時にトラフィムが構えを解いた。クー・フーリンが不可解そうに眉を顰める。シエルも理解しかねた。
 左手を腰にあて、右手で顎を撫でる。まったくの自然体、隙こそ無いものの仕掛けられたら対応に苦しむのは明白だ。
 そんな状態で、トラフィムはぞんざいに口を開いた。
「それで、どうなのだクー・フーリン」
「……何がだ?」
「惚けるな」
 表情は穏やかながら、言葉は鋭い。トラフィムの意図を察したのか、クー・フーリンの貌に険しさが浮かんだ。
「襲撃そのものがメッセージとはな。ほとほと趣味が悪い」
 白翼公の呟きには微かな寂寥が混じっている。しかしその正体を探るよりも先に、吸血鬼の王は次の言葉を紡いでいた。
「何故、英霊が星側に付いた?」
 返事は無い。構えた槍の先端すら完全に静止している。
「答える気はないか」
 今度はクー・フーリンが寂寥を纏う番だった。本意なのか不本意なのかも読みとれない。ただ吐き捨てるように、
「……オレ達はこうして向かい合ってる。それで充分……ってわけにゃ……いかねえか」
 そう言って、瞑目した。



 沈黙が広間を支配する中、シエルはバゼットの様子を窺った。俯いたままだが、支えた身体には力が甦りつつあるよう感じられた。先程からクー・フーリンが話すたびに少しずつ反応がある。二人の間にどのようなことがあったのか、シエルが知っているのは所詮は報告書に記された事実だけだ。真実は、何も知らない。
 だからシエルは思った。
 バゼットがこうして傷つくのも、自分が何も知らないのも、人類が滅ぼされようとしているのも、埋葬機関の一員である自分が吸血鬼と協力していることも、全てが――
「理不尽だと……」
 そう、理不尽だ。良いことも悪いことも、今のが自分の言葉でなかったことも含めて。
 シエルが視線を移すのと同時に、バゼットの顔がゆっくりと上がった。発言者へと向かって。
 言ったのはこの場で最大の理不尽、クー・フーリンだった。
「なぁ、理不尽だと思うかい? 吸血鬼の大将」
 ふと、シエルはクー・フーリンがトラフィム以外を見ていない事に気がついた。問いかける彼自身が理不尽に喘いでいるよう感じられる。だからこれは見ていないのではなく、見ようとしていないのか。それとも、見たくないのかも知れない。
「……シエル」
 バゼットの身体に、力が戻っていた。
 吹っ切った、のかどうかは……さして重要ではあるまい。少なくとも何かしら整理がついたから一人で立ったのだと、シエルは判断した。強い女とは、そういうものだ。
 二人、数歩前に出る。
 ガッシュが手で制しようとしたが、黒い機兵は逡巡して後その手を下ろした。ヴァン=フェムのゴーレムはこういう時にありがたい。
 バゼットはもはやクー・フーリンに声をかけようとは思わなかった。トラフィムと対峙している男は伝説の英雄であり、自分が半年前に契約したランサーではないのだ。
 だから立ち上がった。
 鋼の左腕を、いつでも振るえるように。
 だが、それよりもまずトラフィムだった。
「そうだな、理不尽だ。伝説の英雄達が人類に刃を向けるなど、これはもはや理不尽に過ぎる悲劇だろう」
 そう、悲劇。人類の理想に編まれた存在が、伝説の彼方から滅びをもたらすためにやってくるなどと。
「……ま、そうだろうな」
 トラフィムの返答にクー・フーリンは苦い顔をすると、自嘲気味に口許を歪めて槍の穂先を僅かに下げた。
「だがよ、戦いってやつぁえてして理不尽なもんだ。理不尽じゃない戦いなんざ、少なくともオレは知らねぇ」
 戦いの記憶が巡る。
 息子を殺し、親友を殺し……愛した者の命ばかりを奪って――
「オレの生涯は、理不尽な戦いの連続だった」
 それは、誓いを逆手に自らの魔槍で胸を貫かれるまで――
 しかしなればこそ、理不尽な戦いに翻弄された身であればこそ戦いに何かを見出さなければ生きられないのも事実だった。
 悔いはある。だがそれは闘争そのものへの悔いではない。
 戦いから逃れられない。逃れるつもりもない。
「アンタは、違うのか?」
 愚問。
 一目見た時からわかっていた。戦う者の運命を無駄に嘆くような相手ではないと。
「……フ、ク、ククク」
 喉の奥を豪快に鳴らし、トラフィムは構えをとった。今度は拳だけではない、膝を軽く曲げ、左を前に半身をとり、強敵を親しげに睨み据える。吹く風は障壁となって立ち塞がった。
「いや、まったくその通りだクー・フーリン。そうだな、これは戦いだ。我々と、こともあろうにこの星との戦いだ。ならば理不尽もなまなかな理不尽であるはずがなかった。最大級の理不尽を、最悪のケースの積み重ねこそを想定するべきであった」
 風が、不快な音をたてる。
「そうか、なら――」
 槍が、不気味に輝く。
 シエルもバゼットも思わず身構えていた。ガッシュも防御のための姿勢をとる。クー・フーリンの後方では、ヘラクレスも同様に次に起こるであろう特大の衝突へと備えていた。
 吹き荒ぶ風の中、全ては整った。後は放つだけだ。
「――この理不尽、受けてみるか、白翼公」
 それは因果すらねじ曲げる理不尽の塊。狙った相手の心臓に対し、これから貫くのではなく既に貫いているという結果を先に生じさせる呪いの魔槍ゲイボルク。
 立ち塞がるのがいかなる相手であろうとも完全なる必殺をこそ宿命づけられた槍が、今、不死を謳われた吸血鬼の王へと向けられ、待っていた。解き放たれるのを、静かに、禍しく。
 そして、クランの猛犬は、

     ゲ  イ
「――刺し穿つ――」

 獲物へ向かって、

     ボ ル ク
「――死棘の槍――ッ!!」

 跳躍していた。



 朱い牙を突き立てんと、蒼い獣が宙を駆ける。目指すは最古の吸血鬼、白翼公の心臓。
 この一撃にミスはありえない。必ず貫く、心臓を。それこそが魔槍にかけられた呪い、畏怖すべき戦慄の概念。
 対するはまるで台風。豪風が城全体を揺らす。
 トラフィム・オーテンロッゼ。幾星霜の永きを生き、その身はもはや一つの神秘。ゲイボルクが必殺の概念なら、こちらは死なずの概念。まさしく生と死の激突だった。
 障壁が薄紙のように貫かれる。
 刹那の世界で交差する槍と腕。
 まず動いたのは、前方へと突き出されていたトラフィムの左腕だった。魔槍を絡め取らんと動く様はまるで蛇のように、しかし槍の軌道は異常だった。いや、歪と呼んだ方が正しい。
 直線でなく、稲妻のような軌跡を描いて、トラフィムの左腕を避けながら胸へ向かって進み続ける。心臓を貫くという結末は既に確定しているのだ。それを妨げることは不可能。妨げるにはゲイボルクを超える概念で打ち消すしかない。
 だからそれは、数千年を生きた生き汚さの塊だった。
 下方から伸びた魔槍に、振り下ろされた左腕が触れる。
 だが触れただけ。触れただけだ。軌道を変えるには至らない。変えるにはさらに強く、押しつける必要がある。
「ぬぅぅぅっ!」
 白翼公の左腕は、捻れながらゲイボルクを下へ下へと押し込んだ。押し込んだつもりで、しかし無数の棘が左腕をズタズタに削り取っている。いまだ軌道は変わらず、左腕は砕け散っていた。砕け散った左腕は鉄の輝きを見せ――
「なッ!?」
 クー・フーリンの顔が、驚愕に歪む。
 トラフィムの左腕の中から、肉でも血でも骨でもなく、無数の糸が露出しゲイボルクを絡め取っていた。
「義、手……」
 生きてきたのだ。
 数千年を、数え切れない理不尽な戦いをくぐり抜けて。
 最古の吸血鬼と言ってもトラフィムは特別不死性が高いわけではない。復元能力も並の吸血鬼と同程度だ。固有結界も使えず、その身を混沌や現象に変えるなどの特異能力もなく、それでも生きてきたのだ。腹を裂かれ、脚を貫かれ、腕を砕かれてなお、白翼公は生きてきたのだ。
「読み違えたか、クー・フーリンッ!」
 魔風と化した右腕が、英雄を抉らんと迫る。
 だが、それでも魔槍に込められた呪いは強力だった。ヴァン=フェム特製の鋼糸がプツプツと、まるで麺か何かのように呆気なく千切られていく。
「読み違えたのはアンタだ、大将!」
 ゲイボルクの軌道が修正される。真っ直ぐに、心臓目掛けて。
 その軌道上に、今度はクー・フーリンの心臓に向けて放たれていたトラフィムの右腕があった。
 拳と槍がぶつかり合う。
 いくら風を纏おうとも拳と魔槍では勝負になる道理がない。
 槍が拳に突き刺さる。突き刺さり、無数の棘が内部から腕を粉砕していく。
「――馬鹿なッ!」
 ありえない二度目の驚愕。
 クー・フーリンの目に映るのは再びの鉄の輝き。
「右腕も、義手だとッ?」
 千年近くも前、それはトラフィムにとって最も忌まわしき記憶。
 自らの両腕と、それにも勝るものを一度に失ったあまりに苦々しい記憶が弾けて、白翼公は咆哮した。
 中指と薬指は既に吹き飛んでいた。その状態で拳を開け、残った三指でゲイボルクを握り締める。
 どうくる?
 両腕を失い、満身創痍で、しかもゲイボルクはまだ完全には止まっていない。鋼鉄の右腕に囚われながら、それでも心臓目掛けて侵攻を続けようとする。
 その侵攻を遮ったのは、はためく巨大な翼だった。
「……白……翼……ッ!」
 左腕の付け根から、揺らめく白い翼が立ち上っている。
 が、違う。翼ではない。
 魔力だ。乳白色の、朝靄のような魔力が翼のようにはためいているのだ。腕という調節弁を失い、本来ならそこで操作されるはずだった魔力が溢れ、翼を形作っているのだ。
「これが、白翼か!」
 そう、これこそがトラフィム・オーテンロッゼが白翼公と呼ばれるようになった由縁。失われた両腕の代わりに手に入れた、虚しくも雄々しい二つ名だった。
 無茶苦茶だ。
 何もせずただ立っているだけだと言うのに、魔力を持たぬ者にも視認可能な膨大すぎる魔力は残酷なまでに美しく、荘厳なまでに圧倒的。ひとたび羽ばたけば魔風によってあらゆるものは灰燼と帰し、敵する者は肉の一片、血の一滴すら残りはしないだろう。
 この力で、生き抜いてきたのだ。
「……クッ、クク」
 酷薄とした笑みがトラフィムの顔に浮かぶ。
「……フ、ハハッ!」
 クー・フーリンも心底愉しいとばかりに笑う。
 次の瞬間、一際強い風が舞った気がした。そして……
 両者は、弾け飛んでいた。





◆    ◆    ◆






「……戦闘の継続は、不可能だな」
 風によって全身を切り刻まれたクー・フーリンを支え、ヘラクレスはそう言って相手方の様子を窺った。アイルランドの光の皇子は、両脚はおかしな方向に折れ曲がり、槍を持つ右腕も捻れている。さらに、左目が潰れていた。
「……こちらも、あまり無理はしたくないな」
 ガッシュの手を借りて立ち上がったトラフィムが妙に晴れやかな様子で答えた。が、こちらも晴れやかなのは表情だけだ。両腕は付け根の部分に僅かに残った程度、左胸には血の花が鮮やかに咲いている。
 ゲイボルクは、届いていた。
 だが、死んでいない。トラフィムは、生きている。
 寸でのところ、まさしく紙一重で心臓は無事だった。数千年を生き抜いた事実と天運、両腕を失う程の全力がかろうじてゲイボルクの因果に打ち勝ったのだ。
「おいおい、オレはまだやれるぜ?」
「……独りでは立てもせずに、大人しくしていろ」
 まだやる気の同僚を、ヘラクレスが呆れたように見やる。
 階下では小次郎がエンハウンスとつい今し方まで死闘を続けていたようだが、今は双方動きを止めている。おそらく、トラフィムとクー・フーリンの激突に注意を逸らされ中断したのだろう。
 丁度良い、退き時だ。
 目的は充分に果たした。英霊が星側に付いたという事実を知らしめ、しかも白翼公にここまでのダメージを与えたのだから。
「ったく、しょうがねぇな……大将、また今度だ。それまでその心臓、綺麗に磨いて……おいて、くれ……よ……?」
 ついに現界し続ける力すら失ったのか、クー・フーリンの身体がぼやけていく。強敵に感謝するかのように血に濡れた顔を喜悦で溢れさせ……しかし最後の瞬間、彼の視線はトラフィムの隣へと向けられた気がした。
 バゼットが、息を呑む。
 だがそれだけだ。視線の意味を確認するよりも先にクー・フーリンは消えていた。遠くない未来、再びまみえるであろうことを予感させながら。
「やれやれ……クー・フーリンめ。二度と戦いたくない相手だが、そうも言っておれぬか」
 そう漏らしたトラフィムに、厳つい顔を綻ばせてヘラクレスは重々しく背を向けた。広間の入り口へ歩いていく巨躯に、一瞬だけ姿の見えないシーマとブーバ、そしてガッシュの殺気が集中したが、トラフィムが無言で制していた。戦えば犠牲が大きすぎる。
「懸命な判断だ」
 扉に手がかかる。
「……白翼公」
 そこで振り返りもせずにヘラクレスは言った。
「もう、これ以上は戦うべきではない」
 安い脅しではない。ギリシャ最大の英雄が本心から告げたであろう警告だった。それがわかるから、誰もが無言だった。ただ一人、トラフィムを除いては。
「そうもいくまい。むざむざ滅ぼされてやる程、我々は潔くはない」
「気持ちはわかる。が、それでもだ」
 扉を開け、巨漢は身を屈めるようにしてそこをくぐる。
「……貴様達は、頑張りすぎてしまった」
「……」
 扉が閉められていく。
「ヘラクレス」
 無駄とわかっていても、トラフィムは呼び止めていた。一つだけ、どうしても聞いておきたいことがあったのだ。それで判断するつもりだ。英霊に、どう対処するかを。
 少しだけ迷ったようだが、ヘラクレスは閉めかけた扉をそのままに立ち止まっていた。
「英霊は、どうして敵に回った?」
 生命のやり取りまでして、今さら馬鹿馬鹿しい質問だ。シエルとバゼットもトラフィムが何故そんな事をわざわざ尋ねたのか、わからないと言った顔をしている。
 背を向けたまま、ヘラクレスはフッと息を吐き、
「我らは、英霊だ。人間を守るために、我々は、在る」
 言い残し、扉が閉まる。結局、最後まで振り返ることなく、偉大なる英雄は去っていった。





◆    ◆    ◆






「……英霊は、人間を守るために在る、か」
 滅茶苦茶になった広間にて、シーマが持ってきた替えの義手をはめつつトラフィムは難しい顔で呟いた。なお、バゼットとブーバは今回の被害状況を確認するために城の中央管理室へ、ガッシュは戦闘で傷ついたエンハウンスを回収しに行っている。
「どういう意味でしょうか」
 シエルの問いに答えられる者は、この場にはいなかった。
 ヘラクレスはつまらない冗談や皮肉を口にするタイプには見えなかった。見た目のままに彼の人格を信じるならば、英霊は人間を守る者という言葉は真実ということになる。
 しかして真実だとすれば、わからない。
 ヘラクレスにもクー・フーリンにも、アルトルージュによって無理矢理召喚され操られているような様子はなかった。元々使い魔の召喚及び使役で彼女の力は群を抜いているが、それにしたところで高位の英霊複数を強制的に従えるのは困難だろう。おそらく、真っ当な召喚と契約によって両者の主従関係は成立しているはずだ。
「……む」
 はめ終わった義手を動かしながら、トラフィムは戦闘で傷ついた広間を見渡した。今さらながらに英霊の力には恐れ入る。アレと互角にやり合えるとしたら、自分を含めこちらの陣営には数える程しかいない。副官二人やシエル、バゼットでは正直荷が重いだろう。ヴァン=フェムの四軍団長でも一対一では勝ち目は薄い。こうなってくるとますますスミレがやられたのは痛かった。
 アルトルージュがどれだけの英霊を従えているのか知らないが、守りに入れば敗北は必至だ。
「こちらから、早急に攻める必要があるか」
 全戦力でもって、黒の姫君の宮を攻める。ヴァンデルシュターム財団が防衛軍や兵器メーカーと協力して開発中だった新型の強化装備もそろそろ完成する頃だ。アルトルージュの陣営がどれだけ精鋭揃いでも、軍団戦ならこちらに分がある。一人の強敵を倒すのに百で足りなければ千をぶつけてやればいい。そこまでの犠牲を払ってでもこの一戦にだけは負けるわけにはいかないのだから。
 ORTの動向も気になるが、ギャオス含めそちらは防衛軍に暫く頑張ってもらうしかあるまい。そのためにも明日のゴジラ撃滅作戦は必ず成功してもらう必要がある。
 現在最終調整中の改良型第三魔城を起動させ、強化装備で身を固めたトラフィム配下の吸血鬼軍団、ヴァン=フェムの機兵軍団、ナルバレック率いる代行者騎士団全てを投入し決戦を挑む。一刻も早く、出来る限りの早さで。
 勝算は、ある。首魁、アルトルージュ・ブリュンスタッドさえ討てば英霊達は消えるはずだ。なればこそ、自分が確実に彼女を討つ。
 討たなければならなかった。それは、間違いなくトラフィムの役目なのだから。白翼の羽ばたきでもって黒い少女を倒すことは、他の誰にも任せられない。
 腕が完全に馴染む。
 相変わらず、いい仕事だ。千年近く前からこの両腕のことでは盟友に世話になりっぱなしだった。その千年分の借りを、返そう。

 ――だが、白翼公の算段は次の瞬間には根底から瓦解することになる。

「地震?」
 不意に城が揺れた気がして、シエルは天井のシャンデリアを見上げた。特に動いてはいないようだが、まだ微弱な揺れを感じる。超常の戦闘を目の当たりにしたことでまだ感覚が少しブレている、そのせいで誤認したのかとも思ったが、どうやらそうではない。改めて全身を研ぎ澄ませてみた。
「……揺れている」
 やはり揺れている。
「ただの地震ではないようだが」
 シーマも同じように感じているらしい。互いに不思議そうな顔を見せ合うと、二人は他に何か揺れているものはないかざっと視線を巡らせた。が、広間にはシャンデリアくらいしか揺れを確認出来るようなものがない。
 気持ちが悪い。
 喩えるなら乗り物に酔った時のような、加えて風邪のひき始めじみた悪寒がする。胃がムカムカしていた。こう、内臓を直接揺さぶられているみたいだ。
「シーマ、顔色が悪いですよ」
「貴女こそ」
 今や二人は確信していた。
 ただの地震ではない。揺れているのには違いないが、地震ではなかった。もっと広義で、あまりにも馬鹿げた規模で、言うなれば震え、軋んでいるのはこの世界そのものだとか、そんなナンセンスな答えにしか行き着くことが出来なかった。
 次第にそれが収まっていく。
 正しくは、収まったのではなくその異常が世界に染み渡ったとでも言うべきか。要するに、おかしいのだ。
 そしておかしいついでに、シエルは信じがたいものを見た。
「白翼公?」
 動揺しているのだと気付くまで数秒を要した。
 元より吸血鬼、決して血色がいいわけではない。それでも、今のトラフィムの蒼白さは筆舌にし難かった。まるで死霊だ。
「……馬鹿な」
 トラフィムには揺れの正体がわかっていた。わかってしまった。
 目覚めたのだ。地球そのものを怯えさせる存在が。
 早過ぎる。そいつが目を覚ますのは、日本時間で明日、およそ一日後の予定だったはずだ。火山に眠るそいつを敢えて目覚めさせ、出てきたところを一気に叩く予定が早まった報告など受けてはいない。計算外の事態に直面するなど彼の人生においては数え切れない程あった。だが今回のこれは、二千年を超える人生においてしかしどのような困難とも比較にならない。
「何故、だ?」
 トラフィムの問いに答えてくれたのは、扉を蹴破んばかりの勢いで飛び込んできたバゼットだった。
「は、白翼公!」
 ショックからは取り敢えず立ち直ったようだが、代わりにひどく血相を変えている。……それも、当然か。
 動揺を抑え、トラフィムは続くバゼットの言葉を待った。乱れた呼吸を整えようともせずに、バゼットは早口で捲し立てる。
「日本で、ヤツが……ゴジラが、復活しました!」
 シエルが、シーマが、驚愕に凍り付く。
 やはり、とトラフィムは肩を落とした。
 当たり前だ。それを聞いても冷静でいろだなんて、無理だ。到底不可能なことだ。あまりにも最悪な状況下で、最悪な報せだった。
 しかも最悪はそれだけではなかったのだ。
「さらに、東京はギャオスとORTの襲撃を受け通信は途絶。ゴジラが、東京がどうなったのかは……不明です。大鉄塊とも、ギャオスと交戦して以降は通信が繋がらないらしく……」
 絶句。
「……なんと、いう……」
 トラフィムは今度こそ完全に言葉を失っていた。既に全てが後手だったと……あらゆることが遅かったと言うのだろうか。
 諦観が首をもたげる。今膝を屈したが最後、二度と再び立ち上がることは不可能だろう。わかっていても、膝が揺れた。それ程の衝撃だったのだ。
 鉄の信念でさえ砕けるだろう。黄金の誓いでさえ褪せてしまう。
 母なる星を敵に回し、偉大な英霊達を敵に回し、我が子をまでも敵に回して、これがヒトの道なのかと。絶望のみに彩られた滅びへの階段を進む以外、何も無いのかと――

 ――だが――

「……シーマ」
「は、はい」
 トラフィムは、立っていた。
「通信が回復するまで何度でも試すよう伝えろ。ヴァンがギャオス如きに後れをとるとは思わん。妨害されているにしても、あらゆる回線と通信手段を試し続けるのだ」
 鉄で砕けるなら、鋼鉄で覆えばよい。
 黄金が色褪せたなら、真白く塗り替えてしまえ。
 白翼公は膝の屈し方など知らない。
 生に縋って生きてきた。
 絶望など知っている。それでも生きてきたのだ。
「どうした、早くせぬか」
「り、了解しました!」
 シーマが広間を飛び出していく。
 シエルもバゼットも、呆気にとられてトラフィムを見つめていた。
 二人とも絶望を知っている。どうしようもない敗北の苦味を知っている。知っているから、驚異だった。
 諦めの悪さも度を超せば情けないだけだ。だが、トラフィムは情けなくはなかった。この吸血鬼の王がどうやって数千年もの永きに渡り精神を摩耗させることなく生き抜いてきたのかを、二人は垣間見た気がした。
 ならば――
 バゼットは右手でピアスに触れると、その場にしゃがみ込んだ。
「バゼット?」
 シエルが不思議そうに見下ろすと、どうやらバゼットは床にルーンを書き込んでいるようだった。自らを中心に、四ヶ所。ルーン魔術に関しては専門外なのでシエルにはそれがどのような意味を持っているのかわからなかったが、トラフィムにはわかったようだ。
「ほぉ。“四枝の浅瀬――アトゴウラ――”か。だが、それは一騎打ちに用いるものではなかったかな?」
 その陣を布いた戦士に敗走は許されず、その陣を見た戦士に退却は許されない。何故そんなものを今この場に刻んだのか、尋ねられるよりも先に、立ち上がって衣を正すと、バゼットは、
「ええ。まぁ、勝手な誓いです。次に会った時、クー・フーリンは私が必ず倒します」
 事も無げにそう言い放った。
 いっそ清々しくも見える顔は決して捨て鉢になったのではない。確固たる決意をもった者の顔だ。だから、シエルもトラフィムも何も言えなかった。いいのかとも、大丈夫かとも言えるわけがない。
 勝ち目のない戦いなのは、みんな同じだ。
 しかしバゼットはそう考えてはいないようだった。
「そんな顔をしないでください二人とも。何も勝算がまったく無いわけでもありませんから」
 言いながら今度は左手の甲に違うルーンを刻み、バゼットは小さく二度「テュール」と呟いた。
 勝って、みせるとも。ここで膝を突き、逃げ出すようではまた逆戻りだ。同じ所をグルグル回り続けて、自分に幻滅し続ける人生など真っ平ごめんだった。
 クー・フーリンがどうして敵方に回っているのか、それが彼の本意なのか不本意なのかもわからない。だが例え不本意だとしてもそれを理由に無様を晒す男か?
 ――否。
 ならバゼットも無様は晒せない。今日の醜態は次で取り返してみせる。彼と自分を繋ぐ絆のためにも、戦って、勝つ。
「バゼット」
「白翼公?」
 唐突に、トラフィムがバゼットの目の前に両手を差し出していた。
「私の手にも刻んで貰えるかね? テュールのルーンを」
 それは勝利をもたらす戦神のルーン。己の武器に刻み、その刃が相手の血で濡れることで効果を発揮すると言われるまじないだ。
 軽く頷くと、バゼットはトラフィムの両手の甲にルーンを刻み、さっきと同じように二度テュールの名を唱えた。
「……私にも、お願い出来ますか?」
「ええ、もちろん」
 断るはずがない。
 シエルの黒鍵にも勝利を呼ぶルーンが刻まれる。
 数あるルーンの中でも初歩中の初歩、シエルでも知っている簡単な占い程度のものだ。実際には気休め程度にしかなるまい。けれども、今はその気休めが何より心強かった。心身を鼓舞し奮い立たせるには、何も強力なものばかりが必要なのではない。
「これで負けられぬな」
「負けませんよ。保証します」
「信じます、その言葉」
 言い交わして、三人は歩き出した。誰が何を言うでもなく、ただそれぞれに為すべき事を為すために。シエルとバゼットは自分達にあてがわれた部屋に戻り出立の準備を、トラフィムは部下達に指令を与えに、広間を出て別れる。
 日本がどうなったのか、アルトルージュがどう出るつもりか。加えて英霊の、ORTの動き……問題は山積みだが、山積みだからこそこんなところにとどまってはいられない。
 戦うしかないのだ。戦って、勝って、全てはヒトがこの星で生きていくために。



 誰もいなくなった広間の床に、仄かな光が灯っていた。
 四枝の浅瀬――アトゴウラ――
 退路などとうに無い。敗走は全ての終わりを意味している。故に誓いの光は消えることなく灯り続けた。
 人類の未来を照らすには、あまりにも儚すぎる光だった。






〜to be Continued〜






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