episode-00
〜巨獣咆吼〜


◆    ◆    ◆





 それは、あまりにも非現実的な光景だった。
 立ち込めた濃霧、鬱蒼としげった森林、四方を山々に囲まれたまさしく秘境と呼ぶべき地に、轟音が鳴り響く。だがたとえどんなに非現実的な光景であろうと、確かに鳴り響く地響きの音が、全ては現実であることを如実に物語っている。
 だが……それでも疑ってしまう事に罪はあるまい。果たして本当にこのような現実がありえようか。
 湖から、巨大な水飛沫があがる。揺れる大地は、立っていることすら困難で、しかし一度座り込んでしまったなら再び立ち上がることはおそらく不可能だろう。その瞬間、気力ごと意識を持っていかれても不思議ではない。

 荒ぶる二体の、巨躯。

 それぞれ70〜80メートルはあろう。
 片方は、頭部や背に無数の鋭い角を生やした……トカゲと呼ぶべきか、それとも龍とでも呼べばいいのか……巨大な、爬虫類だった。
 対するは、巨大な人――否、猿であった。しかし、生身の大猿ではない。その巨躯を覆うのは鉄の皮。下に潜む筋肉は機械。全身を鉄で作られた、見た目には滑稽にすら映るブリキの巨猿。
 そんな二体が、殴り合っている。
 ただひたすらに、お互いを殴り、蹴り、掴みかかり、締め上げる。
 秘境が見せた幻ではないのかと、そう思わずにはいられない摩訶不思議な光景。湖を一望出来る高台に、その光景を静かに見つめている一団があった。



「……ふむ。予想外に頑丈ですな」
 久我峰斗波は、目前で繰り広げられている一見原始的な死闘を極力冷めた眼差しで観戦していた。彼が連れてきた者達――筋骨隆々とした、ひらたく言えばボディーガード達――のほとんどが驚き、怯え、腰を抜かしている中、それでも冷静さを保っていられる胆力は見事なものだ。もっとも、そうでなければ日本財界における一大勢力、遠野グループの屋台骨を支えるなど出来ようはずもなかった。
 この男の仏のような笑顔に騙されたが最後、骨の髄までしゃぶり尽くされるなんてことは関係者ならば誰もが知りうるところだ。表情などいくら伺い見ても意味がない。“久我峰斗波は腹で考える”と噂される由縁である。彼と話すなら、首から上はただの飾りだと早々に割り切ってしまった方がよい。
 それに、元々現代社会から見れば自分とて充分に摩訶不思議な血筋の者である。言うなればあの巨獣達と同じ側の存在なのだ。なればこそ、恐れおののくわけにはいかなかった。少なくとも、そんな様を見せるわけには。
 だが、そんな久我峰からしてみても、重く、硬く、鈍い鉄色の巨塊が肉を殴る音は、聞いていてとても気持ちのいいものでない事は確かだ。
 本当の意味で顔色一つ変えていないのは、この場には一人だけであろう。
「確かに……アレは単純に外皮が硬いというわけでは無さそうだ。むしろ、驚異的な柔軟さが衝撃を吸収してしまっているように見える。……ゴリアテでは相性が悪かったか」
 形良く切りそろえられた顎髭を弄りつつ、初老の紳士はさして困ってもいなさそうに『さて、困ったな』などと口にした。
 鋼鉄の巨猿――ゴリアテ――は、彼の所有するゴーレムの中でも特にパワーに秀でた一体だ。
“日本のチベット”とも呼ばれる東北の奥地、北上川源流に潜むと言われる原始の巨獣、バラノポーダ――通称バラン――を捕獲するため、パワー重視のゴリアテを持ってきたのが裏目に出た。バランはゴリアテのパンチを幾ら喰らっても一向に弱る気配がない。足場が悪いことが影響しているとしても、この耐久力は尋常ではなかった。
「流石は古来より神として崇め奉られてきた存在だけはある。所詮は獣だろうとタカをくくっていたが……ク、クク……いやはや、大したものだ」
「そう仰るわりに余裕ですな、ヴァンデルシュターム卿。私から見ては、卿の方が余程に流石ですよ」
 ヴァンデルシュターム……世界経済を裏で牛耳るとも言われるヴァンデルシュターム財団の会長……この大物中の大物に話しかけるに際しては、久我峰と言えどもある種の緊張を伴う。彼の機嫌を損ねたならば、遠野グループなど一夜にして消えて無くなるだろう事を、この腹で考える男はよく理解していた。
 古き血に連なる者とは言え、その血は既に薄れ久我峰自身はあくまで凡庸な人間である。異能の力も異形も持たぬ身では、ヴァンデルシュタームを名乗る彼の人の思惑をそうそう窺い知ることすら出来ないのも道理だ。
「そう畏まることはないがね、ミスター・クガミネ。それに、ヴァン=フェムでも構わぬよ? 日本の発音だとその方が多少は言いやすかろう」
 そう。
 彼のもう一つ名はヴァン=フェム。“魔城”のヴァン=フェム。世界最高位の人形師であるとされる男。
 魔術でもって無機物に仮初めの生命を吹き込み、自在に操る魔技の持ち主。
 そして……死徒――吸血鬼――の祖、二十七が一柱。古き者達の中においてなお最古である者の一人。
「では、ヴァン=フェム卿と。……しかしこのままではまずいのではありませんかな? 卿のゴーレムの力は存じ上げておりますが……」
 先程からゴリアテは劣勢だ。左腕の拳は殴りすぎて歪んでしまっている。関節部分への負担ももはや限界に近いだろう。このまま戦い続けていては消耗していくだけなのは目に見えている。
「不安なのも無理はないが……まぁ見ていなさい。我が最強のゴーレム魔城、その四番目、伊達ではない」
 喉の奥を鳴らし、低い笑いを漏らすと、ヴァン=フェムは自らのゴーレムへと向けてゆっくりと右手を翳した。
 途端、ゴリアテの長い腕がそれまでのパンチの動きではなく,、見た目とは裏腹な柔軟な動きでもってバランの身体を抱きしめるかのように絡みつき、渾身の力でもって締め上げる。
 それを見て、ヴァン=フェムは満足そうに笑みを浮かべた。
「ゴリアテの腕力ならば、氷山だろうと高層ビルだろうと瞬時に圧壊出来る。……あまり傷をつけたくはなかったのだが、仕方あるまい」
 バランの肉体が如何に強靱であろうとも、しかし所詮は生身だ。ゴリアテは魔城のヴァン=フェムが持てる人形師としての、魔術師としての総力を注ぎ込み、さらにはそれに比肩すると言っても過言ではない現代科学の粋を凝らして完成されている。その時代における最高峰の技術を常に惜しみなく振るうのが、ヴァン=フェムの主義であった。かつて憎き白騎士に落とされた第五魔城マトリの二倍近い巨体、パワーなどの性能は軽く五倍はあろう。負ける道理など無い。
 だが……
「……だが……素晴らしいな……」
「……ヴァン=フェム卿?」
 ヴァン=フェムは、そう言って感嘆の息を漏らした。
「いや……バランだよ。君達はあれを……そう、“バラダギサンジン”……だったかな? 神と呼ばれ、千を超える年月を生きながら……しかしそれでもあれは生身だ。幻想の中の生き物ではない」
 瞳に畏敬の念を宿すヴァン=フェムを、久我峰はこれまたなんと表現してよいかわからない不思議な感覚で見つめていた。表では世界経済を動かし、裏では吸血鬼達の祖として畏れられる男が、こんなにも純粋な瞳を出来る事が信じられない。目の前で暴れる大怪獣の存在以上に。
「あれは幻想に成り果てる必要がない。世界の摂理も、人間の信仰も意に介さず、あれはただただありのままに永遠なのだ。それが一体どれだけ素晴らしいことか……」
 ヴァン=フェムにバランこと“婆羅陀巍山神”を教えたのは、他でもない、久我峰だった。遠野家とは、遠野の鬼を祖に持つと言われる一族である。かつてその鬼達が奉じていたとされるのが、東北は北上川源流に住まうとされる伝説の龍神“婆羅陀巍山神”であった。
 世界各地で怪獣と呼ばれる巨大生物が確認されている事は周知であるし、日本とて何度も怪獣の襲撃には遭っている。それでもそんなものが存在しているかどうかなど当初は久我峰も半信半疑であった。だが、数年前、偶然見つけた遠野家に伝わる文献を紐解いていくうちに、あまりにも詳細に記された婆羅陀巍山神の記録にひどく興味をそそられたのである。
 そうして調査を進めるうちに、久我峰は『婆羅陀巍山神は実在する』という結論に至った。さらには、それとほぼ同時期にヴァンデルシュターム財団の会長が巨大生物を密かに調べている事を知り、接触をこころみたのだ。
 財界の魔王と呼ばれるヴァンデルシュタームが人間ではない、吸血鬼であることは、同様に裏と表の顔を持つ者達にとっては別段驚くようなことでもないのだ。そして、吸血鬼が多種多様な手段を用いて永遠を手に入れようとしていることも、久我峰は無論知っていた。遠野本家や他の分家筋に対しては、裏の世界にはとんと無知、興味の欠片も持っていないように普段見せていながら、しかし現当主である遠野秋葉よりもよほどこちらの世界に通じている……それが久我峰斗波である。成り上がるためならば手段など選ばない。裏と表、その全てを利用して望むものを手に入れる……それこそが彼の理念。故に、バランの存在は僥倖であったのだ。
 だが、ヴァン=フェムは久我峰のそのような思惑とはかけ離れた視線をバランに向けていた。






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 バランは激怒していた。
 自らの眠りを理不尽に妨げた鉄の大猿への怒りは、簡単にはおさまりそうにない。破壊し、蹂躙し尽くさなければ、再び静かに湖底で眠りにつくことは出来ないだろう。
 そう、まったく理不尽極まりない始まりであった。
 自分はただこの地で静かに暮らしていただけだ。最後の仲間が死に絶えてから既に何百年、いや何千年経ったものか、人ならぬ彼には知り得るはずのないことであったが、それまでも、それからも、自分はこの霧深い秘境の湖底でずっと平和に生きてきたのだ。たった一匹の孤独で。
 だと言うのに、今バランの身体を締め上げている闖入者は、突然湖に爆雷を放り込んだかと思うと、驚いて浮上したバランにいきなり殴りかかってきた。斯様な不条理、到底看過出来るものではない。
 縄張りを侵した者には等しく死でもって制裁を与える……それがこの地に住まう人間達とバランとの間に存在していた唯一のルールであった。
 相手が鉄の大猿とは言え、そのルールに変わりはない。
 バランは吼えた。
 吼えながら、自らを締め上げる鋼鉄の腕から逃れようと全力で藻掻いた。その抵抗に、ゴリアテの関節は軋み、悲鳴をあげる。
 さらに、咆吼。
 許すべからざる敵対者に、威嚇ではなく死の宣告を咆吼し、ついにバランを締め上げていたゴリアテの力が弛んだ。その隙に、両腕を広げる。
 そこには、飛膜があった。
 そして、バランは湖から勢いよく飛び上がった。





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「……なっ!」
 久我峰の顔が、この日始めて驚愕に歪んだ。
 強風が霧を吹き飛ばし、一時的に視界が開ける。
「そんな……馬鹿な……」
 今の今まで腰から下を湖に沈めてゴリアテに抱きつかれ、締め上げられていたバランの姿が、消えていた。思わず隣を見れば、ヴァン=フェムの両眼も見開かれている。
 その場にいた全員が、何が起こったのか理解出来なかった。だが、理解する必要はなかったのだ。何故なら、次の瞬間、バランは再び視界の中に戻ってきたのだから。
 そう……遥か、上空から。



 これまでにない凄まじい轟音が響いた。
 水柱が、最大で数千メートルの高さにまで達する。
 その中心では、倒れ伏したゴリアテの背中を踏み付け、バランが勝利の雄叫びをあげていた。
 バラノポーダの両腕から両脚の間には、ムササビのような飛膜がある。信じられないことに、バランは80メートルの巨体を驚異的な跳躍力で舞い上がらせると、上空から滑空してゴリアテへと体当たりを仕掛けたのだ。
 頭上からの強襲に、ゴリアテの背中は大きく凹み、ひしゃげていた。体重三万トン以上のバランが、空中から勢いよく滑空し体当たりを仕掛けたのである。粉々にならなかったのはそれこそ流石は音に聞こえたヴァン=フェム自慢の魔城と言ったところか。
 しかし、かろうじて原形はとどめていると言っても、衝撃で右腕は千切れ飛び、下半身ももはや用を為さなくなっている。
 それでもバランはゴリアテを許すつもりはないようだった。残された左腕を掴み取ると、無慈悲にそれを捻り取ろうと力を込める。
「ヴァ、ヴァン=フェム卿!」
 久我峰がどんなに騒ぎ立てようとも、もはやこの戦況を覆す手段は無いはずであった。決着はついたのだ。ヴァン=フェムの第四魔城・ゴリアテは、大怪獣バランに破れ去った。
(じょ、冗談ではありませんよ!?)
 久我峰の焦りは頂点に達しようとしていた。これでは何のためにヴァン=フェムにくみしたのか、まったく意味がないではないか。遠野本家に黙ってバランに手を出したことも含め、犯したリスクは数え切れない。その結果がこの体たらくでは……
 ゴリアテの左腕を引き抜こうとしながら、バランは変わらず吼え続けていた。もし仮に今回のことが原因でバランが山を降りでもしたら、最悪だ。遠野家の現当主である秋葉だけならまだしも、他の分家全てを敵に回しては久我峰と言えども分が悪すぎる。遠野の血を引く家にとって、“婆羅陀巍山神”は不可侵の存在と古来より言い伝えられてきたのだ。頭にカビが生えた連中のこと、婆羅陀巍山神が原始恐竜バラノポーダが生き残り、原因は不明ながらも巨大化した生物だったと説明しても聞きやしないだろう。禁を破った久我峰を全員で吊し上げ、その力を削ごうとするに違いない。
「卿! 何か、何か手段はないのですか……?」
 しかも西洋の魔……吸血鬼と手を組んだことがバレたなら……今までにかかったあらゆる手間が全て徒労と消え、さらには現在の力を失うなど、到底耐えられるものではない。
 だが、そんな久我峰を嘲笑うかのようにヴァン=フェムは、ニヤリ、と口の端を歪めた。
「なに、まだ手段はある。ゴリアテはただのパワーだけのゴーレムではないのだと言うことを、今から証明しよう」
 よく見れば、先程ヴァン=フェムが翳した右手はまだそのままであった。
 その手が、ゆっくりと握り締められていく。
「直視しなければ大丈夫だとは思うが……念のためコレを渡しておこう。ボディーガードの諸君は目を閉じていたまえ」
 そう言って、ヴァン=フェムは左手で久我峰へとサングラスを差し出した。
「……これは……?」
「3秒後に仕掛ける。それまでにかけた方がよい」





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 バランは勝利を確信していた。いや、むしろ既に勝利していた。
 今彼が行っているのは、戦いではない。勝者の特権、完全なる蹂躙だ。怒りの感情の赴くままに、全てを破壊し尽くさんと暴力を振るう。
 そこには油断を通り越し、愉悦があった。
 勝者なのだ、自分は。永きに渡って守られてきたルールを犯した無法者を倒し、ならば勝利に酔うのは当然のことと言えた。
 だから、避けられなかった。
 その、まやかしの光を。





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「あ、あの光は……!?」
 サングラス越しにも強力な閃光が、久我峰の目を焼いた。突如、ゴリアテの頭頂部に備え付けられたパーツが禍々しい光を放ち始めたのだ。
 目眩まし……しかしこの期に及んでただの目眩ましに何の意味があろう。それに目眩ましにしては色が妙だ。
 その事を久我峰が問おうとするより前に、ヴァン=フェムはいつも通りの余裕綽々とした口調で説明を始めた。
「催眠生物ライトだ。幾重にも幻惑呪詛を織り込んだ一品でね……ゴリアテの切り札だ。どんな怪獣だろうと、これならひとたまりも……」
 生体部品が放つ生物的な発光現象に幻惑呪術の信号パターンを付加した自慢の一品である。ひとたまりもないだろうと、そう、そのはずであったのだ。
 だがヴァン=フェムの言葉は、何か硬いものを噛み砕くかのような音によって遮られた。久我峰も茫然とその光景を見つめている。
「ラ……ライトに……噛み付きおった……」
 ゴリアテの催眠生物ライトは、バランの頬まで裂けた巨大な口によって無惨にも噛み砕かれてしまっていた。奇妙なことに、バランは噛み砕いたそれを懸命に飲み込もうとしている。
「馬鹿な……催眠が効かなかったのだとでも……」
 今度こそ、本当に驚愕であった。ヴァン=フェムともあろう者が、言葉に詰まってしまうほどに。
 とは言え、それ以上バランに動く気配はなかった。最後の力を振り絞ってライトを破壊したのか? だが、そうも見えない。バランの巨体はフラフラと二、三歩前進と後退を繰り返すと、そのまま湖に、糸の切れたまさに人形のように倒れ込んでいった。



「……事実はどうあれ、あの催眠ライトに抵抗するとは……ますます素晴らしい」
 砕け散ったゴーレムの欠片には見向きもせずに、ヴァン=フェムは倒れ伏したバランの巨体を飽くことなく見つめていた。
 ゴリアテは、もはや修復は不可能だろう。
 七つの魔城を操るヴァン=フェム。第五魔城マトリに続き、第四の魔城ゴリアテすら失ってなお、彼の顔には満足げな笑みが浮かんでいる。
 その笑顔は、まさしく死人の笑みと呼ぶに相応しいものであり……
 その笑顔を眺める久我峰の顔は恐怖に歪みつつも、しかしこの好機をどのように生かすか既に思考はその事に傾いていた。
「これで……また一つ到達への階段をあがることが出来た。ミスター・クガミネ、貴男のおかげだ」
「……ほ、ほっほっほ。いえいえ、協力出来たことを、嬉しく思いますよ」
 表情は、関係がない。
 何故なら……
「して……今後は、どのように動くおつもりですかな?」
 久我峰斗波は、腹で考える男なのだから。










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 そして、二年の時が流れる。





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〜to be Continued〜






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