episode-02
〜南海にて(前編)〜


◆    ◆    ◆





 降り注ぐ日差しに、翳した手が焼けるように暑い。
 汗を拭いたいのだが、手持ちのタオルは既にどれも汗を吸いすぎて饐えたような臭いを放っている。こんなタオルで拭ったら……なんて、考えたくもない。
「……嫌になりますね」
 これまで様々な国へ赴き、幾多の過酷な環境を経験してきた。単純に暑さを比べるならこの南海の孤島より暑い国は幾つもあったが、この手の肌にまとわりつくようなねっとりとした暑さを経験したのはシエルも初めてのことだった。
 鬱蒼と茂った熱帯樹林が作る日陰は意外と小さく、こうして歩いている分には何の役にも立ちはしない。上空から島を映した写真では、それこそ樹林の緑と崖の岩肌しか見えなかったというのに、反則もいいところだ。
「この程度で……弱音を吐くとは……なんとも、情け、ない……ですね……代行者……」
 前方を歩いていた人物が、そんなシエルを振り返って口の端を吊り上げた。鼻で笑うといった行為が、その中性的な美貌には憎らしい程によく似合う。とは言え、付き合いは短いが彼女が単なる嫌味でこのような台詞を吐く人物とも思えないので、おそらくはシエルを鼓舞しているつもりなのだろう。しかし……
「……貴女こそ、息も絶え絶えじゃありませんか……顔色が悪いですよ? ミス・マクレミッツ……」
「ふ……ふ……そんな、ことはありません。私なら、まだ、まだ……平気ですよ……」
 そう言って強がって見せるも、リュックの他に“個人的な”荷物をかけた右肩は力無く落ち込んでしまっている。荷物の中身は企業秘密だそうだが、そこから発せられている魔力は尋常ではない。シエルの見立てでは相当の“もの”が仕込まれているはずだ。しかしどんな秘密兵器であろうとも今はただの重たくて邪魔な荷物である。
 いつもは例え真夏であろうともフォーマルなスーツ姿を信条としているバゼット・フラガ・マクレミッツであったが、流石に今この劣悪な環境下にあってそれは自殺行為だと判断したらしい。どうせ女だけの強行軍だ、信条よりも無事に生き抜く道を選択したバゼットは、普段の彼女なら絶対にしないであろうスーツのボタンを全て外し、ネクタイを取ってさらにYシャツのボタンを三つ目まで開け放った状態で、時折手団扇をパタパタさせ胸元を扇いでいた。ちなみにシエルはいつもの代行者スタイルだが、生地は極薄のものに下に着込んでいるのもTシャツに短パンというあまり彼女らしくないラフなものだったりする。
 もう既に、背負っているリュックが重たいのか、自分の身体を重たく感じているのかもわからない。ただ一刻も早く目的地へと辿り着くために、何も考えず亡者のように行進するだけだ。
 しかし、そんな疲労困憊の二人を、呆れかえったとばかりに冷ややかな視線で見つめる者が、いた。
「あらあら、無様ですわねお二人とも。そのように無粋な衣装に身を包んだだけでは飽きたらず……その滝のような汗! こっちまで臭ってきますわよ?」
「うるさいですよリタ・ロズィーアン! 話しかけないでください!」
「そうです、黙っていて貰いましょう! その格好を見ているだけで暑苦しい!」
「クスクス……不便ですわね、人間の身体は」
 芸術家を自称する吸血淑女は、わざわざしなまで作って汗一つかかないその美貌をこれでもかというくらい二人にアピールすると、クルクルと日傘を回して見せた。
 リタ・ロズィーアン――死徒二十七祖十五位である彼女の噂は聞いていたが、よもやここまで奇天烈な人物だとはシエルもバゼットも思ってもみなかった。シエルの同僚であるこれもまた祖の一席、メレム・ソロモンが今回の任務を言い渡された際に『嫌だ! ボクはリタとスミレにだけは会いたくないんだ!』と駄々をこね、無理矢理シエルを身代わりに立てて姿を眩ました理由がよくわかる。
「あまりノンビリしていますと、陽が暮れてしまいますわよ?」
 優雅な足取りが、シエルとバゼットに並ぶ。ピンと伸ばされたリタの身長は、長身のバゼットよりもさらに頭一つ分高い。180cmをゆうに超えている。無邪気に微笑む顔も絶世の美女という表現が嫌なくらい当てはまるもので、あの白翼公が男性吸血鬼の典型であるなら、リタは妖艶な、まさしく女吸血鬼のイメージそのものであると言えた。
 ……だが……
「……くっ! 本当に……なんて暑苦しい!」
「……まったく、です! 息が……詰まる!」
 その服装は吸血鬼らしさとは完全に無縁。それどころかお世辞にも趣味がいいとは言い難いものだった。と言うより、悪趣味極まる。神経を疑いかねないセンスの悪さだ。
「嫌ですわね、芸術を解さない下々の方々は」
 そう言って腰に手を回し、クルリと回ると、ピンクやら赤のレースがヒラヒラ風に舞った。……二重三重に。
 彼女が纏っているのは、全体を何重ものフリルやレースでデコレートされた、ロリータファッション……と言う言葉で片付けるのも些か困難な、壮絶に過度な装飾を施された悪質極まりないものだった。南国の猛暑をそんな“ぞろっぺぇ”ことこの上ない格好で悠々と歩いているのだから、まったくこのリタという吸血鬼は信じられない。
「トラフィム小父様もヴァン=フェム卿もよく似合っているよと褒めてくださいましたのに……貴女方とあの酔いどれ水羊羹ぐらいなものですわ、そんなことを言うのは」
 聖堂教会最大の敵の一人でもある白翼公とその盟友に、しかしシエルは心底同情した。これを褒めるなど、それこそ並大抵の心力では無理だ。吸血鬼の王と財界の魔王、やはり伊達ではない。
 この島まで自分達を送り届けてくれた、リタに曰くの酔いどれ水羊羹――スミレ・ウォーターボトル――の方が個人としてはまだ随分と与しやすい相手だったと思えてしまうのだから、相当重傷だろう。
 二人の憎悪どころか殺意すら籠もった視線をものともせずに、リタはさっさと歩みを進めていく。
「さぁ、きりきりお歩きなさいな。急ぎますのでしょう?」
 ――その一言で、シエルの中の何かが音を立ててキレた。
 ――バゼットの中でも、何かが勢いよく弾けた。
「……ぬぅおおおおおおおおおお!」
「……ふぬぅあああああああああ!」
「あら。お二人とも、まだ元気じゃありませんか。クスクス……」
 真っ白い世界を、シエルとバゼットは力の限りに突き進んでいった。





◆    ◆    ◆






 ――インファント島と呼ばれる島がある。
 インドネシア諸島の一島で、全面を切り立った崖に覆われているため海からの上陸は事実上不可能に近く、かといって島の内部は熱帯樹林と岩山や崖だらけで飛行機やヘリでの上陸も難しい、人跡未踏の地である。住民も確認されていない。
 そのインファント島で、先月の台風によるものか、島を覆う崖の一角が崩れ、何やら遺跡のようなものが顔を出したとの情報が少しだけインドネシア諸島の新聞を賑わせたが、数日後にはそんなことはほとんど忘れ去られていた。
 代わりに、欧州を拠点に世界経済を裏から支配しているとも言われるヴァンデルシュターム財団が、無人島を幾つかレジャー開発するために買い取ったらしいと言う噂がまことしやかに囁かれた。環境保護を強く訴える財団がレジャー開発などまったく珍しいと人々は疑問に思いもしたが、その噂もいつの間にか消えてしまう。まるで、煙のように。



 そして、現在。
 島には、三人の女性が遺跡調査のために訪れていた。

 聖堂教会が誇る異端殲滅のエキスパート、数々の強力且つ凶悪な吸血種を討ち滅ぼしてきた埋葬機関の第七位、シエル。
 魔術協会に所属し、封印指定を受けた魔術師の捕縛を始めとした荒事専門家、戦闘力では同協会トップクラスとも言われる女傑、バゼット・フラガ・マクレミッツ。
 そして……死徒二十七祖が十五位、リタ・ロズィーアン。

 本来なら啀み合い、憎しみ合い、殺し合うだけの三者が何故こうしてチームを組んで南海の孤島にて発見された古代遺跡の調査などに出向いているのか、それには当然ながら深い理由がある。
 まず、最初に遺跡に興味を持ったのは白翼公トラフィム・オーテンロッゼとヴァンデルシュターム――魔城のヴァン=フェム――の二人であった。
 二人は魔術師が奥義を究めて吸血鬼と成った祖であるが、共に魔術だけでなくその他様々な学問に通じている。特に考古学はトラフィムの専門分野であり、白翼公は現在彼が敵視している真祖の本当の成り立ちを始め、この星の歴史そのものを解き明かそうと千年以上も研究を続けてきた。
 ――真祖には、まだ自分達が知らない隠された真実がある――
 トラフィムはそう確信している。おそらくこの世界に真実を知る者がいるとすればそれはあの宝石の翁くらいのものではないだろうか。真祖の生き残りであるアルクェイド・ブリュンスタッドですら自身が持つ本当の意味とそして価値は知らないのではとトラフィムは考えている。
 白翼公がどうしてそこまで真祖という存在に固執するのか、彼の下についているリタも知らない。彼女の親友である水魔スミレも無論存ぜぬ事だ。わかっているのは、彼は真祖という存在に並ならぬ拘りを持っていること、そして真実を調べていく内にどうしても滅ぼさなければならない理由にぶち当たったらしいと言うことだけである。少なくとも個人的なつまらない妄執では無いだろう。そんなことのために本来なら同格であるはずの祖を使うほど矮小な人物なら、リタもスミレも彼を慕いつき従ったりなどはしない。
 自らを俗物と嘲る白翼公は、しかし従うに足る人物には違いないのだ。得体の知れない黒の姫君を主と仰ぎ、白騎士と黒騎士のように盲目的に忠誠を誓うなどリタにはまっぴらごめんであった。
 そのトラフィムがリタに『教会と協会の代表と協力し、インファント島の遺跡を調査に行って貰いたい』との命をくだしたからには、余程の理由があるからと見てまず間違いない。送迎をただの船ではなく二十七祖のスミレに命じた事からも重要性がありありと伝わってくる。
 しかしそんなリタとは違って、納得がいかなかったのはシエルとバゼットの二人だった。それぞれ上司から(シエルは本来命を受けたメレムから無理矢理バトンタッチされたのだが)唐突にインドネシアへ行けと言い渡され、任務内容もチームメンバーも満足に知らされないまま集合場所に行ってみれば、待っていたのはなんと二十七祖が二人である。しかも、遺跡調査など専門外もいいところだ。
 どちらの組織も文句など聞き入れやしないことは、二人ともよくわかっている。わかっているが……だからといって言わずにいられるはずもななかった。
 万年酔っぱらいのスミレと、芸術家気取りのキチガイ令嬢リタに囲まれ、二人はグチグチと愚痴を漏らしながらインファント島へ上陸し、そして今に至るのだった。





◆    ◆    ◆






「せやぁっ!」
 黒鍵が閃き、目標に突き刺さると同時に呪刻された刀身が火葬の効果を発揮して燃え上がる。
「はっ!」
 ルーンが刻まれた手足が振るわれ、まとわりついてくる敵を次々に打ちのめしていく。
「オホホ……」
 日傘がクルクルと回り――
 ――回るだけで、特に何も起こらない。
「リタ! 傍観していないで貴女も戦ったらどうですか!?」
「代行者、よそ見をしている場合ではありませんよ! こいつら、次から次から……」
 現在位置は島のほぼ中央部。
 あれから――積み重なる不条理とリタの言動、脳を焼く暑さとに腹を立て、残された体力もろくに顧みずに無理矢理突き進んだ挙げ句ついに限界を超えてしまったシエルとバゼットは、力尽きて地面に突っ伏してしまった。もう動けない、一歩も進めやしない……そう呻く二人をリタが『仕方ありませんわねぇ』と嘲笑していた時、“奴ら”は密林から突如として現れたのだ。
「マクレミッツ、後ろです!」
 シエルの黒鍵が、バゼットの背後から忍び寄っていた“奴ら”を串刺しにして焼き尽くした。目配せで礼を言い、バゼットの手刀が数本の“奴ら”を根元から断ち切る。
 三人を取り囲む“奴ら”は、植物だった。昆布のように平べったく、俊敏な動きで巻き付こうと四方八方から襲い掛かってくる。
「くっ! 何なんです、こいつらは!?」
「……スフラン、ですわね」
「スフラン!?」
 バゼットの叫びに、リタは手近な木の根の埃を払い、ハンカチを敷いてその上に腰掛けると澄まし顔で答えた。
「初めて確認されたのは日本近海の多々良島。ジョンスン島でも変種が確認されていますわね。主に南太平洋の島々に生息している、吸血植物ですわ」
 悠々朗々と説明するリタには、しかしスフラン達はまったく襲い掛かろうとしない。近くから生えているものも何故か素通りである。試しに指で摘んでみてもリタに興味を示した様子はなかった。
「どうやら吸血種の血液には興味がないと見えますわね。それとも、お二人の汗の臭いにでも惹き付けられているのかしら? 良かったですわね、おモテになって」
「ムキーーーーッ!」
 必死に迎撃をこころみる二人を嘲笑しながら、しかしリタは油断無く周囲の様子へと気を配っていた。
 南海の孤島に生息する猛獣や毒虫、さらにこうした怪植物などの資料にはあらかた目を通してきたが、スフランが生息していたとされる島々にはある一つの共通点が見受けられたのである。スフランが発生、成長可能な環境とは非常に特殊で異常な状態なのだ。
 専門書は『確証はない』とまとめていたが、しかしスフランだけでなく原生植物や昆虫類など随所に見られる奇怪な生態系からするに偶然ではあるまい。……間違いなく、いる。
 リタは、舌なめずりしながら“そいつ”の襲撃を待った。





◆    ◆    ◆












◆    ◆    ◆






「……ハァ、ハァ……まったく、なんて島ですか、ここは……」
「……もう、打ち止めですね……あらかた、始末したはず……」
 二十分近い戦闘の果てに、ようやくスフランはいなくなったようだった。辺りには引き千切られ、焼け焦げて灰になった怪奇植物が累々と横たわっている。
「はいはい、お疲れさまですわ」
 全然労っていない顔でパチパチとわざとらしく二人の健闘を讃え、リタは水筒を差し出した。
「少しスフランに吸われました? お二人とも、カラッカラに干涸らびてますわよ?」
「ええ、ええ、いいダイエットになりましたとも!」
「そうですね、まったくそうだ!」
 オホホと笑うリタから水筒を引ったくるように受け取ると、憤慨しながらシエルとバゼットは今度こそゆっくり休もうとスフランの残骸が転がっていない場所に腰を下ろそうとして――
「お二人とも! 本命が来ましたわよ!」
 それまでの惚けた表情を一変させたリタの言葉に、咄嗟に左右に飛んでいた。途端、頭上の枝が弾け飛び、風切り音から連続する轟音と共に大地が割れて濛々と土煙が上がる。
 先程まで二人が腰を下ろそうとしていた地点に、巨大な“それ”は突き刺さっていた。
 振り下ろされたのは、巨大なカマ。
 ノコギリのような刃は、しかし鉄色の光を放つのではなく、生物的な、薄気味の悪い生命力で溢れている。
 禍々しい緑。
 大きい。信じられないくらいに。
 その武器は長身のバゼット、リタを遥かに凌ぎ、裂けた大地からゆっくりと引き抜かれていく。
「……相手がスフラン程度の怪植物だけなら、わたくしや貴女方をわざわざこの島へ差し向けたりは、しませんわね」
 高く繁った熱帯樹のさらに上。天をつくほどの巨容を見上げ、リタはその端正な顔を『やっぱり……』とでも言いたげに歪ませた。白翼公め、おそらくは知っていたはずだ。スフランが生息していることも、そしてスフランが生息している環境にはまず必ずこいつら特殊巨大生物――怪獣――が生息していることも。
 知っていて教えなかったのは、彼の茶目っ気や悪戯心もあろうが、それ以上にリタ・ロズィーアンという吸血鬼の性情をよく知り得ているが故であろう。
 温厚な令嬢の顔に潜む闘争心。肉の快楽と戦闘の愉悦に酔いしれながら、永き時を生きる吸血鬼。
 ここ数十年、とんと戦う娯楽に飢えていたが……おもしろい。日傘が折り畳まれ、令嬢の顔に凄惨な笑みが浮かぶ。久々に、思う存分殺戮者としての腕を振るえる事に、リタは身震いした。



「……こ、こいつは……」
 シエルも、こいつのことは知っていた。以前に目を通した巨大生物研究報告書で、写真も見たことがある。その隣で息を飲んでいるバゼットも同様だった。二人は戦闘を生業とするプロフェッショナルだ。しかし、その戦闘対象となるのはそれぞれ吸血鬼や魔術師がほとんどである。怪獣の相手をさせられるなんて事はまったく想定しておらず、そんな事は各国の軍隊や地球防衛軍の仕事だとばかりに考えていた。だから怪獣の資料なんてものはおざなりに目を通すだけで、現にスフランなどその存在すら知らなかったのだ。
 だが、この特徴的なフォルムは流し読んだ程度でもそう簡単に忘れられるものではない。大抵の人間は、一目見たら生涯忘れることはないのではないだろうか。その最大の理由は、まったくありふれた生物をそのまま大きくしたかのような外見だからだ。
 唯一の違いは、自分達がよく知っているその“昆虫”は両腕ともカマだが、目の前に立つこいつは片腕がカマで、もう片方の腕が槍の穂先のような形状をしているくらいか。
 全長30mはあろうかという、巨大な、カマキリ。カマの大きさだけでも5m以上はあるだろうか。まるで巨人の国に迷い込んでしまったかのような感覚に目眩を覚える。

「――カマ……キラス……ッ!」

 その名を呼んだバゼットの呟きは、頭上から勢いよく振り下ろされるカマの音によって掻き消された。
「なっ!?」
 信じられない速度と間合いの広さだ。そもそも人間であれば5mを超えるサイズの武器など振り回せない、吸血種であってもそんな馬鹿げたものを扱いやしない。使い手のサイズに倍する武器などそれこそ手に余るからだ。例え筋力強化や重力制御を用いて振り回すことが出来たとしても、攻撃方法が限られすぎてそれでは決して実戦に耐えうるものではない。怪獣という規格外の生命だから繰り出せる、これまでにバゼットが経験してきたあらゆる戦いの常識、セオリーを根底から覆す絶対的な破壊の一撃。
「くうっ!」
 かろうじて回避に成功したはいいが、どうしても動作が大きくなってしまい体勢を整え直すのに手間取ってしまう。
 バゼットはただ純粋に圧倒されていた。神話の世界、怪物殺しの英雄譚が思い出される。神話の時代を生きた英雄達は誰しもがこのような恐怖とも呼べない感情を味わったのだろうか。
 ルーンのピアスを指で弾き、バゼットは自分が幼い頃から憧れてやまない大英雄の顔を思い浮かべた。
 共に戦うはずであったのに、結局一度として轡を並べることなく別れてしまった男。不貞不貞しい自信に満ちたその表情は、どのような化け物を前にしようとも決して揺らぐことなど無かったろう。彼ならこの巨大な死神の鎌にも笑いながら挑みかかっていったはずだ。
 ――共に戦えなかったのならば、せめて彼に恥じないだけの戦いをして見せるのが、生き延びた自分に出来る唯一のことか――
「来ますわよッ!」
 余計な考え事をしている暇など無い。リタから投げかけられた声にバゼットは力一杯大地を蹴った。何本もの木々を一度に薙ぎ払い、三人の身体を断ち切らんと振るわれる残忍な刃を人間の規格を超えた超人的な肉体が迅速に避ける。
 宙へと飛んだバゼットは、前屈みに鎌を振り下ろしたカマキラスの眼を正面に捉えていた。表情のない、不気味な眼だ。この巨大昆虫が何を見て、何を考えているのかなど人の身であってはまったく読めない。知る術がない。
 大地が揺れ、森が震える。
 代行者、魔術師、そして吸血鬼と――巨大な怪獣。
 通常の人間がけして立ち入ることの許されない死闘が、かくして幕を開けた。











〜to be Continued〜






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