episode-05
〜シオンの血〜


◆    ◆    ◆





「お久しぶりですね、シオン・エルトナム・アトラシア」
 テラスから星を眺めていたシオンは、自分を呼ぶ懐かしい声に振り返り、軽く会釈した。こうして言葉を交わし、互いの顔を見るのも一年ぶりと言ったところだろうか。勿論、あの国、あの町で別れて以来だ。
「他人行儀ですね、シオンで構いませんよ。それに、今の私はアトラシアの名は捨てたも同然です、シエル」
「そうでしたね。リタから聞いた時も驚きましたが、まさか白翼公の下に身を寄せているとは……もっとも、そのおかげでこうして再会出来たのですから、人の縁とは不思議なものです」
 インファント島で負った傷がまだ癒えていないのだろう。シエルは全身痛々しい包帯だらけ、特にギプスに覆われた右腕は首から吊してある。
 二人の交流は特に深いものではない。それどころか一度は刃を交えた関係でさえあったが、しかし共通の悩みを抱える者として、和解を果たした後は比較的良好な関係を築いていた。教会やアトラスの方針はさておき、シエル個人としては吸血鬼化治療というシオンの研究に興味を抱いているし、また応援したいという気持ちもある。望まずして吸血の鬼と化し、両の腕を赤く染める苦しみを誰よりも深く知るが故の、それは当然の感情だった。
「それで、傷の方は……」
「戻ってすぐに魔術治療も施しましたから、見た目程に重くはありませんよ。五体満足だっただけでも儲けものと考えるべきでしょうしね、この場合は」
 そう言ったシエルの様相から、怪獣と戦うことがどれだけの困難であるかは容易に読みとれた。シエルとて、代行者として数限りない化け物と戦いこれを打倒してきた、人間という枠内で考えれば間違いなくトップクラスの実力を有する戦士である。戦闘力のみを見れば二十七祖に比肩するという話もまんざら嘘ではない。だが、そんな彼女を含め、さらには同等かそれ以上の実力を持つ者三人がかりでさえ、サイズとしては小型に分類される怪獣一匹に圧倒されたのだ。水中戦では無敵と称されたスミレも、50mのエビラを相手に「純粋な戦闘なら到底かなわなかった」と述懐している。ならばそれ以上の大怪獣を前にした時、人間も吸血鬼も等しく無力だと言うことだ。
 自分が現在研究している存在の怖ろしさを改めて実感して、シオンはゾッとした。
 怪獣の驚異的な力と生命の謎を解き明かし、果たしてそれを自分達は御しうるのか。吸血鬼化を防げたとしても、もしやすればそれはもっと危険な、吸血鬼以上の“なにか”に成り果ててしまうだけではないのかという不安が、ここに至ってシオンを苛む。
「シオン……どうかしましたか?」
「いえ、なんでもありません。なんでも……」
 トラフィムがコスモスを客間に招き入れて、かれこれ二時間程も経つ。人払いをしたのは、トラフィムではなくヴァン=フェムだった。しぶるリタやスミレを宥め賺し、シオン、シエル、バゼットを連れて客間を辞した彼は、今は再び自分の研究棟に籠もっている。白神もおそらくは一緒だろう。
 聞かれたくない話なのか。それとも、聞かせたくない話なのか。
「まぁ、気になるのも当然ですね」
「シエル……貴女は、道中コスモスから何か聞いたりはしなかったのですか?」
 シオンの質問に、シエルは軽く首を横に振った。
「いえ。世間話程度ならしましたが、それ以上のことは何も。まさか祖が二人もいる中で暗示など使えませんし、それに彼女達には簡単な暗示程度じゃ通用しないと思いますから」
 半分嘘、半分本当、と言ったところか。協力して任務にあたっていたとは言え、仮にも敵対する組織に所属している身、一つでも多くの情報を得ようと試みるのは当然のことで、それをわざわざ非難するようなシオンでもない。シエルの有能さからすればその気になれば祖を出し抜くくらいの事は出来るだろうし、おそらくは今述べた他にも幾つかの手段を講じてみたのだろう。しかしその結果、特に有益な情報は手に入らなかったものとシオンは判断した。
 シオンが知る限り、シエルという人物は“裏”の人間としては存外に嘘が下手である。素人相手ならば兎も角、少なくとも交渉事には向いていない。詐欺師になるのはまず無理だろう。だからシエルは大概“真実を幾分か含んだ嘘”を吐くことで相手を攪乱しようとするのだが、それにしては今回のこれは覆い隠したい事象に対して真実部分も嘘部分もお粗末すぎる。
 それとも……
 開かれた分割思考のうちの一つが、一番簡単で、しかも納得のいく解答に辿り着いたのはその時だった。
「私にもエーテライトのようなものでもあれば良かったんですが……精神操作系の術ももう少し学んでおいた方がいいかも知れませんねぇ……はぁ」
 心底からの疲れを感じさせる溜息と、言葉。……何のことはない。嘘だの真実だのではなく、単なる社交辞令程度の謙遜だったのかも知れない。
 どうやら裏を読もう裏を読もうと必死になりすぎていたようだ。これがおそらくはトラフィムやヴァン=フェムの言う自分の素直すぎる点なのであろうなと苦笑しつつ、シオンは改めて旧知の友人との会話を楽しむことにした。シエルが何か隠していたとしても、その情報が自分にとって必要なものならいつか耳に入るだろう。そのために現在トラフィムはコスモスと会見しているのだから。
「素養は充分なのだし、貴女なら学べば高レベルの暗示でもすぐにマスターできるのではありませんか?」
「それがなかなかどうして、一般人の記憶操作くらいなら簡単なんですが、それ以上のものともなるとどうにも。……諜報要員としては完全に役立たずの烙印を押されているものですから」
 確かに魔術師としての素養がどれだけあろうとも、術者本人の精神構造が相手を騙し欺くことに特化していなければ高度な精神操作系の術は扱いづらい。最高位の暗示や催眠を使用した際の反動などは、ものによっては術者本人の精神に破綻をきたす程とも聞く。結局のところ、根が正直者に分類されるシエルには向いていないと言うことだろう。シエルの嘘で騙せる相手と言ったら、せいぜいがあの眼鏡をかけた朴念仁くらいだ。
 二人共通の知己でもっともその手の術に向いている人物と言えば……今頃はいつもの割烹着姿で自前の菜園の世話に汗を流している頃だろうか。
「おかげで上司からはお小言ばかりで……」
「小言、ですか」
 なんとなく愚痴モードに突入しそうな雰囲気に一瞬腰を引きかけたシオンだったが、いつの間にかその肩はシエルの鍛え抜かれたしなやかな左手でガッチリとロックされていた。
「聞いてくださいます?」
 目が笑っていない。
「……まぁ、吝かではありません」
 もはや、逃げられまい。友人づきあいというのも、難儀なものだ。
「実は私の上司は、こう、一言では説明しづらいのですが、それでも敢えて一言で語ろうとするならば“外道”とか“人非人”とか、所謂そういった類の人間放射性廃棄物むしろ燃やし尽くしたいけど不燃ゴミ、萌えないゴミ、工業コンビナートに隣接した海底に沈殿するヘドロのような人物でして……」
「それはまた、大層な方のようですね」
 取り敢えず、適当に相槌を打つ。仮にも聖職者が、しかも埋葬機関の上司であればその人物もまた聖職者のはずだろうになんとまぁ悪し様な。埋葬機関第一位、ある意味、噂通りと言ったところだろうか。
 そう、まったく、噂通りで……
「本名不詳は兎も角、年齢も相手によってホイホイ変えては『あら。年齢詐称はむしろ貴女の得意技ではなかったかしら?』だなんて嘯くんですよ? そりゃ私も確かに年齢詐称はしましたけどほんの数年、それに誰からも疑いをもたれなかったと言うことはまだまだ現役のジョシコーセーとして通用するということじゃありませんか。断っておきますが、外見や年齢に関しては暗示の類は一切使ってません。あくまで在学している事にシールドを張っていただけで……それをあのぶぶ漬け女、言うに事欠いて『でも、ジョシコーセーは犯罪じゃないかしらね、シエル。貴女のセーラー服やスクール水着姿なんてただのコスプレよ? 夜のお仕事に手を出して埋葬機関の名を貶めることだけはやめてちょうだいね』だなんてムキィーーーーッ!! あの行かず後家、私の若さに嫉妬してるに違いないんですよ! って言うかそもそもなんで日本の学校の制服とか水着とかに詳しいんですか!? 自分は薄暗い地下に籠もってメレムくらいしか男に縁がないものだから……」
「メレムくらいは酷いなぁ」
「あんな年寄り臭い自称ピーターパンはくらいで充分です。ええ、充分ですとも。今回だって本当なら休暇中だった私に無理矢理この仕事を押しつけて……そりゃ南の島に行きたいとは言いましたけど誰も女四人で怪獣と戦うために行きたいだなんて一ッ言も言ってません言うものですか言うわけあるか! 私、私は……遠野君と南の島でバカンスを楽しみたかっただけなのに……」
「そう、それは大変だったわね」
「大変ですよ当たり前じゃないですか! それもこれもメレムのアホジャリと、執務机に座りっぱなしなせいでみんなには隠してるけど実は痔病持ちのあのお嬢様ぶった若作りの陰険年増のせいで――……せいで……」
 そこまで一気に怒濤の如く吐き出して、シエルはシオンが今にも泣き出しそうな顔で自分を見つめていることにようやく気がついた。そして、シオンの後ろにいつの間にか見覚えのある二人の人物が立っている事にも。
「まぁ君の気持ちもわかるけどね。でも、陰口は感心しないなぁ」
「そうね。言いたいことがあるならハッキリキッパリ堂々と言って貰いたいわ。何事もなぁなぁの内に終わらせてしまうのは私の主義にも反するし、組織の円滑な運営にも支障をきたしかねないものね」
 陸に打ち上げられた魚のように口をパクパクさせながら、シエルは此処にいるはずのない二人を交互に指差し、その姿は見ていて本当に可哀想になるくらい動揺しているのがわかった。
 こんなにも誰かに同情したのは、シオンには初めてのことだったかも知れない。
「島で起こったことに関する報告は目にしたわ。もっとも、何故か私の優秀な部下からではなくリタ・ロズィーアン嬢からの御手紙だったのだけれどね」
「は、や、そ、それは、単に距離が……」
「距離? おかしいわね。私のとてもとても優秀な部下には、魔術の効果範囲や継続距離を言い訳にして連絡を怠るような能無しはいないはずなのだけれど。みんな気迫と根性と信念でもってあらゆる困難を打開してくれると信じているし、それどころかその信頼を裏切っておきながら上司の陰口にだけは余念がないような無能は一人もいないわ」
「そ、んな、気迫と根性と信念って……無茶な精神論で……」
「無茶? 無茶な精神論? 精神を大きな拠り所とする魔術と秘蹟を行使し異端を封殺すべき代行者たる身でありながら、精神論を無茶と? 自己の無能ぶりを棚に上げて人間の精神が内包する無限の可能性全てを否定するだなんて随分と偉くなったものね、シエル。嘆かわしいわ……私の部下ともあろう者がこのような体たらく。カスね」
 蔑み見下す視線の刃は、氷と揶揄するのも生温い、まるで絶対零度の鎌鼬のようだ。斬られた瞬間、そこから全身が砕けて綺麗な綺麗な白い粉塵と化してしまいそうな……恐怖を通り越し、痛みすら伴わない、そんな致命傷だ。凡俗ならば気圧されて無様に尻餅をついた挙げ句に全身の穴という穴から色んな液をだだ漏れにして遠いところへ旅立ってしまうところだろう。
「な、んで……そもそも、此処に……」
「本当はもっと早く来たかったのだけれど、お土産を用意するのに手間取ってしまったのよ」
 有無など言わせない。発する言葉の全てに力が宿っている。
 しかし、それにしても……
「さぁ、カスのシエル。島であったこと、その後に起きたこと、知り得たこと、包み隠さず聞かせて貰おうかしら?」
 ――なんて、人を罵倒するのが似合う女性なのだろう――
 シオンは今までこんなにも残忍冷酷かつ嬉しそうに人を罵倒する人物を見たことがない。何かあればすぐに難癖をつけてくるアトラスの老人達も、彼女と比べたら穏健極まりない好々爺の群れだ。
 ふと、その隣に立つ少年と目があった。少年は、一言ではとても言い表せないような深い深い瞳を見せ、軽く息を吐いた。それだけで、シオンには彼が普段感じている苦痛や懊悩がしみじみとよくわかった。ああ、エーテライトなど使わずとも視線だけで人は人をこうも深く理解しえるものなのだと、シオンはこの時初めて知った。もっとも、少年は厳密には人ではないのだったが。
「そ、それでは私はこれで……」
 必死に口をパクパクさせて助けを求める友人を見捨てるのは気が引けたが、それでもこの場の息苦しさは罪悪感に勝る。心の中で何度も何度もシエルに詫びつつ、シオンはテラスから離れようとして……
「あら、折角だし、貴女もご一緒にどうかしら? シオン・エルトナムよね、貴女。聞いて損のある話ではないと思うわ」
 手を、掴まれた。
 先程肩を掴んだシエルよりも、数段上の握力で。これはもう、絶対に逃げられまい。シエルも少年も、目で諦めろと告げている。
「で、ですが、部外者の私が埋葬機関の……」
「気にしなくていいわ」
「しかし、一応機密では……」
「気にしなくていいわ」
 勝てない。むしろ勝負以前の問題だ。
 脱力によって肩と首はスルスルと下がり、自然、そのまま頭を垂れる形となる。それが、結局は承諾となった。
「そう言えば、自己紹介がまだだったわね」
 聞かなくても知っている。“こちら側”に身を置いている者で、彼女のことを知らない者などいるものか。
 眉目秀麗にして残虐非道、この十年余りのうちに二十七祖三体を打倒した埋葬機関始まって以来の怪物。
「ナルバレックよ。それと、こっちがメレム・ソロモン。よろしく、シオン・エルトナム」





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 沈痛な面持ちのまま、トラフィムはしばし言葉を失っていた。
 今コスモスから聞かされた話は、八割方彼の推測通りだった。だが、それでもやはり明確な真実として聞かされるのとは重みが違う。しかしそんな重圧の中であってもけして呑み込まれることなく、己を見失わないのがトラフィムである。だからこそコスモスは彼に全てを明かしたのだ。
 二人のコスモスが持つ並外れた超能力――テレパシー――は、トラフィム・オーテンロッゼと会見した際に彼の人の底知れぬ深淵を覗き込み、真実を託すに足る人物との判断を下した。
 まずは世界各国の現代表達に自分達のメッセージを伝えることも考えたが、国家を背景に持つ者達ではこの問題を到底扱いきれない。知れば知る程に現在の地球はかつてのノンマルトのような単一国家ではないのだ。国同士の政治的、思想的な相違とそれによる不和、対立。終わらぬ議論は致命的な失策を誘い、一瞬の躊躇が明暗を分ける事態においてなお利権ばかりを追究し互いの主張を振りかざすだけの者達に真実を伝えたところで如何ほどの意味を持ち得よう。“決戦”が現実となっても、まだ彼らに頼れるかどうかは疑問だった。
 国家存亡の危機などという生易しい問題ではないのだ。まずはそのような荒唐無稽、希有壮大な話をリアルとして受け取ってくれる人物の協力を仰ぐ必要があり、幸運にも自分達と最初に接触を持ってくれたのはそれらの条件にあてはまる人物の使いだった。だから、彼女達は最初の賭けには勝ったと言っていい。しかしまるで問題がないわけでもなかった。
「……驚いたが、大方はやはり予想した通りか。お二人には、改めて感謝を。ノンマルト……あれほどの文明を成し得た種が何故滅びなければならなかったのか、それもほとんど痕跡も残さずに……いや、あれは滅亡よりも消滅と言った方が正しい。その長年の疑問に、ようやく終止符を打てた」
「いいえ。それよりも、感謝するのは私達の方です。突然の来訪に加えてこのような話、信じていただけただけでも」
「ノンマルト滅亡の謎に関しては長年追い続けた蓄積もある。それと照らし合わせれば、貴女方の言葉は充分に信に足るものだ」
 そう述べるトラフィムの心は、既にコスモスの異能ですら覗けぬ闇色のカーテンで覆われていた。初見の際に敢えて覗かせたのは、信頼を得るための無防備だとわかってはいたが、今こうして必要以上に強固にカバーして見せているのも、その事で逆に布告しているようなものだった。彼自身の、望みを。
「しかし、無情なものだ。非戦文明……その名の通り恒久平和を実現した種ですら一切の加減無くただ滅びよ、とは。貴女方から見れば、今の人類などいつ滅ぼされても文句も言えない愚者の群れでしょう。科学のみどれだけ発達させても、それを扱う人の心にはなんら成長などというものはない。我々のように、仮初めの不死を得たとしてもそれは変わらない。無限の時の流れが人にもたらすのはけして無限の叡智ではない。吸血鬼だろうと変わらない、人という器に収まるものには必ず限界がある。だが、それでも平和を求めあぐねた結果すらそのように無惨なものであるというのは……納得しろと言う方が無理だ」
「一つの種がどれだけ平和であろうとも関係ないのです。ノンマルトは確かに平和でした。平和すぎたのでしょう。ですが平穏と安寧を貪りすぎたが故の滅びだったのだとすれば、それはあまりにも哀しすぎる」
 そこで、三人はほぼ同時に虚空を仰ぎ見た。
 互いの思惑の差違など、とうに理解している。だが、今ここで選択する答えは少なくとも同一のものであった。
「先程も述べましたが、方法は二つあります」
 視線は宙に向けたまま、二人のコスモスは一つの言葉を紡いでいく。詠い、踊るように。トラフィムは、黙してそれに聞き入る。
「一つは、徹底抗戦。ですが、これはとても困難です」
 困難、と言うよりも、不可能に近いのだろう。人類の科学力など、ノンマルトのそれと比べては数百年の後れがある。魔術にしてもそれは同様で、しかしそのノンマルトですら滅びた、否、滅ぼされたのだ。勝ち目があるとは思えない。
 ならば自然、結論はもう一つの方法とならざるをえない。
「もう一つは……人類滅亡の最大の要因を取り除くこと」
 トラフィムの眉が、僅かに動いた。
 それ一つで人類の滅亡となりえるだけの要因を、愚かしくも人類は産み出してしまった。そのようなものと正面切って戦うことは、徹底抗戦と同様の困難なのかも知れない。だが、それでもどちらかを選べと言われたなら、まずはこちらを選ぶ。トラフィムにはそれだけの理由もあった。故に、躊躇などない。あらゆるしがらみを、余分な贅肉を考慮し、それでも迷い無く決断を下せる。
「しかし、まったく皮肉なものだ。人であることを捨てながら、しかし人としての決断を迫られるのだから。……結局は――」
「――魂までは、変えられない」
 最後まで言いきられることの無かった言葉を続け、コスモスは自分達の人選が間違ってはいなかったことを確信した。
「プロトタイプは所詮プロトタイプ。成りきれなかった以上、成りきれなかった者なりの生き様を貫くしかない。それだけの話だと思えば、所詮は矮小な者のちっぽけな抗いに過ぎぬ。吸血鬼の王だなどと何とも薄ら寒い、名ばかりの化け物の統治者として、コスモス、貴女方の言葉を信じ、共に戦うことをここに誓おう」
 宣言と同時に、トラフィムは客間の壁にかけられた巨大な世界地図を見やった。そこに描かれた世界は、かつて彼女達の祖先が暮らした時代とは大分地形が異なる。失われた大陸、引き裂かれた大地、そして――新たに生まれた島々。
 三者の視線が交わる先にあるのは、地図の端。東端の、ちっぽけな島国。
「現在、“ヤツ”はあの極東の島国に眠っている」

 これは、トラフィムにとってまたとないチャンスなのだ。

「位置は、ここ。この縮尺では小さすぎて見づらいが、『オオシマ』と呼ばれる島の火山。そこに、“ヤツ”は封印された」
 コスモスの言う、“吸血鬼も含む人類存亡の危機”とやらに対し、徹底して抗うだけの意志はある。そのために“ヤツ”を倒さなければならないのなら、無論、何としても倒してみせよう。
 だが、それは同時にトラフィムが欲してやまなかったものを遂に手に入れることが出来ることを指してもいた。
「マグマという地球最大級のエネルギーに晒されながらも、“ヤツ”は生きている。ただ眠っているだけだ」
 故に、“ヤツ”が眠っている内は、手出しが出来なかった。
 マグマの中で惰眠を貪る“ヤツ”を確実に倒せる手段など無いし、仮に倒せたとしてもトラフィムが求めるものを入手することは出来ない。それでは無意味なのだ。
 だから――
「……“ヤツ”を討ち滅ぼすのであれば、目覚めさせるしかない」
 その言葉に、コスモスが思わず顔を伏せた。“ヤツ”の目覚め、それがあの島国にとってどれほどの災厄となって降りかかるか、想像しただけで罪悪の念に押し潰されそうになる。そうしなければ人類が滅ぶとわかってはいても、容易く切って捨てられる犠牲ではなかった。
 トラフィムの胸にも、多少去来するものはある。もっとも、犠牲となる人々への罪悪感などではない。白神源壱郎に関することだ。見も知らぬ犠牲を顧みるような博愛精神など持ち合わせていないし、大仰に振る舞う偽善的行為とも無縁だが、その才能を見込み、肩入れした人物との約定を違えてしまうことには僅かな抵抗があった。だが、それも詮無きことだ。
「人間達へは、私とヴァン=フェムとで働き掛けよう。真実を明かすかどうかはさておき、ギャオスの件もある。何より“ヤツ”が目覚めてしまったなら、防衛軍や各国の軍隊はどうとでも動かせる。そこに我々の魔術的な戦力と、貴女方の言う“守護神”の力とが加われば……勝てよう。相手が、いかに“ヤツ”であろうとも」
 そう言って、トラフィムは勢いよく立ち上がった。
 その顔に浮かぶ野太い笑みは、勝利への確信? それともこれから始まる闘争への愉悦か、はたまた望みの成就へ王手をかけた事によるものか。
 彼の笑みは、コスモスには頼り甲斐があるとも見える。しかし一抹の不安も同時に拭いきれない。彼は強者だ。絶対的な。だからこそ託したと言うのに、それは安心とはかけ離れた感覚だった。
「布石は既に打ってある。我々は最大戦力で“ヤツ”とあたればいいだけだ。気懸かりなのはギャオスの動向だが……今はまだサンプルが少なすぎて研究もままならぬし、致し方あるま――」
「サンプルなら、持ってきてあげたわよ」
 不意に、客間の入り口からかけられた言葉がトラフィムの言を遮った。





◆    ◆    ◆






 いつの間にか開け放たれた扉。そこにはシオンとシエル、そして二人の来訪者が立ち、トラフィムへと視線を向けていた。特に中心に立つ女性が纏う存在感は、白翼公に勝るとも劣らない。
「フッ……思ったよりも、遅かったではないか。久しいな、ナルバレック」
「お土産の用意に手間取ったのよ。流石に丸ごとは持って来れなかったけれど、サンプルとしては充分すぎる量のはずよ、白翼公。既に魔城殿の研究棟へと送り届けておいたわ」
 ニコリ、と気持ちの良い面相で言い放つ。絶対的に相容れない、最大の怨敵同士であるはずの二人の再会は、険悪さの欠片もない存外にアッサリとしたものだった。流石に今この状況にあってはくだらない小競り合いをする暇もないと言うことか。むしろ周囲ばかりが緊張する中、ナルバレックからトラフィムへと、拳程の大きさの包みが一つ、勢いよく投げつけられた。
「ほぅ……これは……」
「爪の先。それだけでも、わかるでしょう?」
 受け取った包みから発せられるのは、微かな腐臭と、珍しい波動を持った残留魔力。なるほど。実に自然で、あまりにも自然すぎて禍々しい。
 トラフィムから向けられた視線に静かに頷き、コスモスは肯定の意を示した。
「間違いありません。ノンマルトを滅ぼしたものと、同一のものです」
 その言葉に、シオンとシエルの顔が強張る。メレムの表情に変化はなかったが、元より動揺を他人に悟らせるような道化ではなかった。ただ、トラフィムとナルバレックだけが笑みを浮かべ、地図に記されたその国を見据えている。
 敵はあまりにも強大。どれだけの犠牲を払うことになるかも未知数。
 それでも――
「シオン、選択の時だ。先日の件、忘れてはいまい?」

 ――決心は、ついている。

「我々が戦うべき相手は、あまりにも強大だ。だが、それでも行ってくれるかね?」
 ナルバレックとシエルの話を聞いた時点で、赴く覚悟は決めていた。
 懐かしい、あの国へ。災厄をもたらすために再訪しようとする自分を、彼はどう思うだろう? 詰られ、罵られるだろうか? だが、それでもいい。
 今の自分に出来ることを――シオン・エルトナムに出来ることを成す。
 そのために……
「……行きましょう。もう一度、あの国……日本へ……!」
 眼差しは、あくまで力強く。
 目的はこの地球最大、最強の生命の殲滅。
 母なる大地にすら見捨てられ、あまつさえ敵として認識された自分達に出来る、最後の抵抗。
「日本では、魔術協会からの協力者がサポートにあたる手筈となっている。若いが相当な腕利きだそうだ。力になってくれるだろう。それと、同行者もつける」
「同行者?」
 トラフィムとヴァン=フェムは、決戦の準備のために今ここを離れるわけにはいかないはずだ。リタもスミレもまだ完調ではない。となれば、誰が……
「まずは、こちらのお二人。コスモス」
 二人の小美人が、微笑をたたえながら軽く会釈する様に柄にもなくドギマギしつつ、どうやら同行者は彼女達だけではないらしい事から、シオンは続く名前が誰のものであるかを待つ。
 しかして、その名前は彼女にとっては予想外の人物のものだった。
「そして……ドクターシラガミにも行って貰うつもりだ」
「なっ!? しかし、博士は……!」
 博士が“ヤツ”に対してどのような感情を抱いているか、それを理解してなお白翼公の言葉は力強かった。
「必要だからだ。博士の力が」
「……わかりました」
 反論は、意味を為すまい。理屈ではわかってしまう以上、シオンもこのことに関してはそれ以上何も言うつもりはなかった。
 トラフィムの手が、シオンの肩に軽く置かれる。彼なりの激励と言ったところか。相手が相手とは言え、重責への信頼は心強い。
「じゃあうちからは、メレム、貴方に行って貰うわ」
「はいはい、わかってるよ。まぁ、うまくすれば姫君にも会えるしね。それじゃシオン・エルトナム、道中よろしく」
 姫君と口にした時の心底嬉しそうな笑顔と、この人懐っこい無邪気な容姿からは想像もつかないが、この少年も二十七祖。パートナーとしては、これ以上頼りになる相手もいまい。
 ただ――
(……シエル?)
 ただ、一瞬。ほんの一瞬だけ、シエルが気になる表情をメレムへと向けていたのを、シオンは見逃さなかった。
 それは本当に刹那のことで、既に彼女はいつも通りの彼女へと戻ってしまっている。それを聞くべきか聞かざるべきか、逡巡するだけの間は与えられなかった。
「詳しい作戦内容はおって通達するが、概要だけ伝えておこう。シオン、君にはまず日本の『フユキ』と言う土地へ向かって貰いたい」
「『フユキ』?」
 聞いたことのない地名だ。てっきり、日本に着いたらすぐさま大島へ向かわされるものと思っていたのだが……
「『フユキ』は、とある事情から聖堂教会と魔術協会の影響力が強いのだよ。日本での活動は『フユキ』を拠点とするつもりだ。そこで現地の協力者と落ち合い、まずは下地を整えて貰う必要がある。面倒な作業になるとは思うが、君ならば心配はあるまい」
 次第に、日本が近付いてくる感覚。それは奇妙な高揚感となってシオンの全身を駆け抜け、支配した。滾る血は果たして人のものか、吸血鬼のものか。それはねっとりとまとわりつく粘着質を伴って、ただ、熱を伝える。
 始まるのだ。再び、あの暑い夏が。
「目標は、極東。日本の大島、三原山火口内に眠っている」
 十年。それは長かったのか、短かったのか。
 だが仮初めの平和を享受していられる時間は終わりを迎えようとしていた。
 敵は人に非ず。吸血鬼に非ず。それどころかたった一個の生命が、しかしこの地球を滅ぼす要因になりうると認識された、古今未曾有の超生物。
 客間に居並ぶ全員の顔を見渡し、トラフィムが静かに告げる。
 倒すべき“敵”の名を。



「我らが倒すべき敵は、怪獣王……――ゴジラ――ッ!」





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 怪獣王、ゴジラ。
 その名が持つ力強い響きを胸中で何度も反芻しながら、シオンは記憶の中にあるあの国を見つめ続けていた。忘れられない町並を。忘れられない空を。そして、忘れられない人々を。
 その光景が瞬時に朱に染まるイメージを懸命に振り払い、あらん限りの力で拳を握る。血が滲み、流れ、床を汚す程に。
 シオンの流した一滴の血。それが、人類史上世界が迎えたもっとも過酷な一ヶ月、その一番最初に流された血であった。











〜to be Continued〜






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