episode-16
〜怪獣無法列島〜
Part 1 闇に生まれ、闇に忍び……


◆    ◆    ◆






 まったくなんて不幸だと、乾有彦は己が身を嘆いた。
 ただがむしゃらに駆け抜ける。崩壊した町を。つい数日前までいつも通りに機能していたはずの、しかし今や完全に廃墟とした自分の住む町を全力で疾走する。それでも水晶に覆われていないだけまだマシなのだが、情報を入手しようにも手段がないため有彦は都心部で何が起こっているかまでは知らない。
「……クソッタレ!」
 この大通りも、いつもは人に溢れかえっていたのに。道路に染みた血の痕と、充満する生臭さに顔を顰めながら毒づく。
「ど、どうするんですか有彦さぁーん!?」
「俺に聞くな!」
 小脇に抱えた馬鹿でかい荷物、その中から聞こえてくる舌っ足らずな声に怒鳴り返し、有彦はビルとビルの間、普通に歩いていたのでは誰もそこが道だとは気付かないくらい細い小道へと急カーブして突っ込んだ。
「ふみゅぅ!?」
 遠心力のままにケースがグルンと回り、中身が悲鳴を漏らすがそんなのは無視だ。悲鳴をあげたいのは、有彦も同じなのだから。それでも黙っていられるのは男としてのちっぽけなプライドのためだ。このケースの中身に弱さを晒すのは死んでも御免だった。
 この小道なら、追っ手も容易には入り込めないはずだ。連中のサイズではどう足掻いても身体がつかえる。
 追っ手の特徴的な足音が聞こえないことを確認してから、有彦は振り返った。そうしながらも走る速度は落とさない。
 僅かながらの安堵。
 良かった。追っ手の姿は見えない。
「どうしたんですか有彦さん?」
 有彦の安堵が伝わったのか、ケースが怖ず怖ずと尋ねてきた。
「……なんでもねぇよ。おら、急ぐぞ。シェルターまでもうすぐだ」
 本当はいつも通りのもっと軽い調子で答えたかったのに、思ったよりも声が重い、言葉の端々に剣呑さが漂う。それが癪で、有彦は走る速度をさらに上げた。ケースの扱いも乱暴になる。
「ひゃあっ!? あ、有彦さ〜ん、もう少し静かにぷっ!」
 舌を噛んだらしい。今は本体状態のまま実体化はしていないはずなのに、器用なものだ。
「ったく、これで霊験あらたかなオバケ様だって言うんだからなぁ」
「オビャケじゃないれふよ!」
「うっせ。お前なんてオバケで充分だ」
 言うなり、有彦は思いきりケースを振り回した。その顔にはいつもの彼らしい薄ら笑いが浮かんでいる。不本意だ、不本意極まりないが、崩壊した町の中でケースの中身との会話だけが有彦を有彦でいさせてくれる。姉の一子でさえどこか余裕を無くし、見知った人々も鬱々と不幸を嘆くかやり場のない憤りを互いにぶつけ合う、たった数日のしかし殺伐とした空気が和らいでいく。わざわざシェルターを抜け出して取りに戻った甲斐もあるというものだ。
「よーし、あとはここを突っ切ればシェルターだ。行くぞ、ななこ!」
「りゃ、りゃかりゃもうしゅこしらけしじゅかにぺっ!?」
 ケースの中身がまた舌を噛む。が、無論このケースに人間の女の子が入っているわけではない。ケースの中には、本来の持ち主から『絶対に見ないでくださいね?』と釘を刺されているため好奇心旺盛な有彦も数回しか見たことはないが、とてつもなくゴツイ鉄塊、標的に杭を打ち込むパイルバンカーと呼ばれる武装――もっとも、有彦は単なる工事道具か何かで、高校時代の先輩に非常によく似た持ち主氏の仕事道具だと考えている――が収納されていた。卒業後の彼女の職業は不明だが、きっと土方なのだろう。『急な仕事で少し遠くまで行かなければならないので預かっていてください』と頼まれたのだが、今頃は遠方でせっせとトンネル工事でもしているのかも知れない。
 ななこは、そのゴツイ鉄塊“第七聖典”とやらに宿った“精霊”らしい。もっとも有彦は精霊なぞと言われてもピンとこないので単にオバケの一種だと認識しているのだが。
 ……と、まぁ、よってからにこのケース、非常に重い。本来は六十キロもある。持ち主氏が有彦に預ける際に貼り付けておいた軽量化の護符のおかげで十キロくらいまで減じているが、抱えて全力疾走は流石に酷だ。
 何故、崩壊した三咲町を有彦がななこを抱えて走っているのか、その理由は数日前まで遡る。





◆    ◆    ◆






 数日前、ギャオスによる東京襲撃時、有彦は近所の酒屋でバイトの真っ最中だった。高校卒業後、進学の意思のない有彦はフリーターとして週に三日か四日働きながらプラプラと日々を気ままに過ごしていたのだが、持ち主氏が遠出する際などにこうしてななこを預かると食費がグンと跳ね上がるためそうも言ってられない。
 ビールケースをトラックの荷台に積み上げて、ご町内に配達して回る肉体労働。そうして得た給金は無情にもニンジンへと変わっていく不条理に噎び泣きながらせっせと働いていた時に、それは来た。
 空を暗闇に、大地を血で染め抜いたギャオスの群れ。
 腰を抜かし動けなくなってしまった酒屋の主人と奥さんをトラックの助手席に無理矢理詰め込み、有彦はシェルターへ向かった。怪獣襲来時の対応は頭にも身体にも染みついている。かつて怪獣災害によって家族を失った者なら、それは当然のことだった。

 乾有彦は、怪獣災害の被害者だ。

 その怪獣は、確かテレスドンという名だったか。
 もっとも命名されたのは退治された後だったので、倒壊したマンションから救出された安堵感と、両親と祖母を一度に失った喪失感に精神を磨り減らせていた有彦はその頃の記憶があやふやで、後になって調べ直したこともないため自信はなかった。
 突如地中から現れた怪獣によって、乾家の日常は完膚無きまでに破壊された。乾家だけではない、同じマンションで暮らしていた全ての人々が多くのものを失い……大した怪我もなく助かった有彦は並外れて運が良かったのだろう。
 自分でも不思議なのだが、怪獣に対し過剰な憎しみを覚えたりはしなかった。それは有彦の姉の一子も同じらしく、二人は三咲町に移り住むとまるで怪獣の被害になど遭ったことがないかのように平然と暮らし始めた。おそらく、有彦の友人のほとんどはそんな彼の過去を知らないはずだ。と言うより、知っているのは一人だけかも知れない。他には特に話した覚えはなかった。
 結局、自然災害と一緒なのだ。
 海の中から、地の底から、突然現れる大怪獣に、どんな予防策がとれるというのか。
 我ながらかわいげのない達観だが、そう至る以外に無かったのだと有彦は今は思っている。嘆き悲しみ、憎悪に身を窶していたならまるで違う人生を歩んでいただろう。
 ゴジラの襲撃もギャオスの襲撃も、だからそれ自体は仕方がない。核実験が、環境破壊が、全ては人類の愚かさが招いたことだとかそんなこともどうでもいい。問題なのは、災害下にあって自分がどれだけのことが出来るか、誰を助けることが出来るのか――有彦はその事だけを考え、普段は不良としてのらりくらりと輪からはみ出しつつ生きながらも、怪獣災害への対策、避難訓練などは至極真面目にこなしてきた。別に正義の味方を気取るつもりはない、博愛主義で誰彼構わず命を懸けて助けるつもりもない。見知った顔が、気に入った相手が、友人が、姉が窮地にあれば助ける。ただ自分のために、そうしたいからそうする……単純な話だ。
 酒場の主人達が助かったのは、そんな有彦のおかげだった。シェルターに辿り着くなり二人は滝のような涙を流しながら有彦に感謝し、同じように手際よく避難していた一子にからかわれて頬を掻きながら、有彦が重大な忘れ物に気付いたのはその時だ。
 別段自室に大切なものなど置いていない有彦にとって唯一の例外とも言える物。それは果たして物と括るべきかヒトとして扱うべきか、ともあれ親しい先輩に“そっくりな”人物から預けられたものが、当然ながら家に置きっぱなしになっていた。
 有彦が即座に取りに戻ろうとしたのは言うまでもない。だが、シェルターから飛び出そうとしたところを一子に殴り飛ばされた。
 数年ぶりの、姉の本気だった。
 その時その場でそれ以上の無茶は出来なかった。姉が本気で自分を殴るのがどういう事かを理解できない有彦ではない。そして、だからと言ってななこを諦めるのもまた有彦ではなかった。それに、ななこのことだけではない。シェルターの何処を探しても親友とその恋人、家族達の顔が見えなかったのだ。
 確かに向こうさんの家は富豪、自家用のシェルターくらい持っていそうなものだが、連絡が取れない現状では不安も募る。楽観的に考えておきたかったが、確か親友は恋人が病気やらでここ暫くは看病につきっきりだったはずだ。なら、屋敷に戻るよりもこのシェルターの方が近いのではないか?
 ……様々な思惑を抱き、注意深く有彦は姉の隙を窺った。が、一子も弟がどういう人間かは熟知しているため、なかなか目を離してくれない。
 ななこの事を単なる有彦の彼女か女友達程度にしか認識していない一子にななこがどんな存在かを説明しようかとも思ったが、まさかオバケを助けに戻ると言うわけにもいかず、結局一子の目を盗んで抜け出すまでに三日もかかってしまった。
 シェルターから抜け出した有彦は、まず辺りを覆い尽くした臭気に鼻を塞いだ。胸糞の悪い臭いだった。
 幸いと言っていいものか、ギャオスが綺麗に平らげてしまったらしくグロテスクな死体とのご対面こそ無かったが、ほんの三日前に凄惨な食事場となった町は赤黒いペンキをぶちまけたかのように、冗談のような色彩を放っていた。
 倒壊した建物も、まだ無事な建物も、生命の名残を感じさせてくれるのは悪臭と血の色のみ。
 これが、怪獣なのだ。
 人類の文明を、叡知を歯牙にもかけず、死と破壊をふりまく恐怖と絶望の対象。自分から家族を奪った存在。
 有彦は走り出した。
 鼻を摘んで、なるたけ口だけで呼吸しようと心懸けながら、十年以上を過ごした町を、よく見知っているはずなのに見覚えのない道を自宅へ向かって駆け抜けた。
 つくづく悪運だけは大したもので、有彦はギャオスと遭遇することなく自宅へと辿り着くことが出来た。
 拍子抜けするくらい無事な家を見ていると、全て夢だったのではないかとさえ思えてしまう。つい玄関で靴を脱ぎそうになったところで我に返り、有彦は二階の自室へと駆け上がった。
『あ、ありひこひゃ〜ん!』
 ……途端、ななこに泣きつかれたのは言うまでもない。





◆    ◆    ◆






 狭い小路を抜け、シェルターの入り口までもう百メートルも無い。
「おっしゃー! 畜生めぇ!」
 心残りは、ななこを抱えて家を出た途端にまるで水晶で出来たような化け物と遭遇し、そのまま全速力で逃げてきたため親友の安否を確かめられなかったことだが、こればかりはもう彼の悪運の強さを信じるしかあるまい。
「……はぁ。しかし気が重いぜ」
「どうしたんですか?」
「いや、また一子にぶっ飛ばされるかと思うと」
 姉の性格上、ななこを連れ帰ればその事をまず誉め、しかる後に有彦の横っ面を思いっきり引っぱたくだろう。光景が目に浮かぶどころか頬に痛みまで感じてくる。
 だのに、
「有彦さん、また一子さんに怒られるような事したんですか!?」
 心底驚いたと言った感じでケースから非難めいた声があがる。
「誰のせいだ、誰の!」
「ふぇ?」
 どうやら本気でわかってないらしい。
 思わず溜息を吐きながら、有彦はシェルターの入り口を見やり、
「……あ?」
 その、異常に気がついた。
 怪獣の襲撃によって幾度となく甚大な被害を受け続けてきたこの国、殊に首都圏には各所に避難用のシェルターが設置されている。怪獣災害用なだけあって、その頑強さは折り紙付きだ。入り口部のシャッターは例えアフリカ象の群れが突っ込んでも来ても大丈夫だと、特自と、そして建設を担当した桐原コンツェルンの広報はテレビに新聞にと自信満々で発言を繰り返していた。
 その、シャッターが――
「お、おい……なんだよ、これ」
 ひしゃげていた。
 滑稽なくらい、まるで粘土をこねでもしたかのように、グニャリと。
 当然それは粘土などではない。粘土どころか鋼鉄よりも遥かに高い強度を誇った特殊鋼だったはずだ。
「有彦さん? どうしたんですか、有彦さん!?」
 ななこの声が右から左へと抜けていく。
 ひしゃげたシャッターの向こうから、幾つもの赤い光が爛々と有彦へ注がれていた。
 それらは、歪な水晶の彫刻に見えた。そもこの彫刻は何を題材にして作られたのかがわからない。形状は雑多、百あれば百の異なる形状が存在しているとしか思えない。
 ななこを持ち出して後、有彦を追いかけ回したヤツは巨大なゴキブリのようなカタチをしていた。他にも魚に手足の生えたようなヤツや、トカゲの出来損ないのようなヤツ、タコやイカのようなヤツまでいた。そして今目の前にいるのは、犬のようなカタチをしている。
 水晶の犬は、目と思しきものが一つしかなかった。頭部らしき部分の丁度真ん中に、紅玉が輝いていた。
 ギャオスと共に町を蹂躙した、化け物。
「テ、メェ……テメェが……」
「……有彦、さん?」
 ギショギショと奇妙な音をたてながら、水晶の犬はひしゃげたシャッターをさらに大きく広げてシェルターから這い出てきた。その後ろからも翼のない鷲のようなヤツ、ムカデのようなヤツが、形状に規則性はないのにやたら息の合った動きで湧いてくる。
「テメェらが……やったのか」
 ケースの中で、ななこは有彦の感情が高ぶっていくのを、いつもは何があってもお気楽に、その容姿に見合わぬまるで凪いだ海のように落ち着いた心が灼熱のマグマと化していくのを感じ取っていた。あまりにも純粋な怒りの波動に、息苦しくなる。対象の転生を否定し、魂を打ち砕く滅殺兵器としての部分が刺激され、額にあるはずのないツノが震え出す。
 止めなければならない。
 有彦は、運動能力は同年代の平均値より多少高いかも知れないがその程度ではどうしようもない、ただの人間だ。十九歳の、少年と言うには大きく、大人と言うにはまだ少し幼い男がただ怒りに任せて突っ込んだところで、周囲に漂う不気味な気配をどうこう出来る道理がない。
 ななこ――第七聖典の守護精霊たる少女は、精霊であるが故に本能的な部分で理解していた。ケースの中からでも、“それら”がなんであるのか、なんのために生み出されたものであるのか。自分達を取り囲む、自分以上の滅殺兵器群を。
「有彦さん、逃げてください! 有彦さん!」
 悲痛な叫びとは裏腹、ななこの精神は仮のマスターである有彦の怒りと憎しみに引っ張られつつあった。そも、ユニコーンとは温厚なイメージがあるが、本来清らかな乙女以外には獰猛さを顕わにする幻獣だ。人間部分が必死に堪えようとしても、ユニコーンの闘争本能が敵の殲滅を訴えかける。結果、有彦の負の感情に揺り起こされたユニコーンの戦意が、今度は有彦へと影響していった。
「有彦さんっ!」
 有彦の手が、ケースの留め具にかかる。
 ゆっくりと蓋が開いていくのが、ななこには恐怖だった。
 聖堂教会が所有する対魔武装の中でも上位に位置する第七聖典は、転生を否定する凶悪な呪詛によって使用者の魂すら霧散してしまいかねない。そのためマスターは制御用の呪印を身体に刻み込むのだが、有彦は無論そんなもの刻んではいない。もし彼がこのまま怒りに任せてななこを使おうものなら、敵を倒す前に彼自身の魂が完全にこの世界から消滅してしまう。
「ダメです!」
 幽体としての姿を現し、ななこは有彦の前に立ち塞がった。
 とは言えユニコーン部分の力が強くなりすぎて、姿がはっきりと定まらない。それこそオバケのように、今のななこはただ少女のシルエットがそこにあるくらいがせいぜいだった。
「……どけよ、ななこ」
「どきません! 有彦さん、死んじゃいますよ!?」
 ケースがアスファルトへと落ち、乾いた音が響く。
 取り出された第七聖典には、軽量化以外にも誤って有彦が使用してしまわないように封印の護符が何枚か貼ってあったが、それもユニコーンの怒りの前には効果は望めそうにない。既に一部は暴走する魔力によって焼け焦げ、燃え滓が宙を舞っている。
 半分透けているななこの向こうに、五体あまりの化け物――クリスタル・レギオン――を、有彦は第七聖典を抱えて睨み据えていた。軽量化の効果も薄まってきたのか、徐々に重量を増しつつあるそれは既にまともに構えることすら出来ないらしい。
「……おい、ななこ」
「な、なんですか?」
 これが最後通告なのか、しかしななこは退くつもりはない。どうやったら有彦を止められるか、手段は何一つ思い浮かばないが是が非でもやるしかない。
 そんな悲壮な覚悟を決めたななこに、有彦は――
「……これ、どうやって使うんだ?」
 ――あまりの重さに膝を震わせながら、安全装置がかかったままのトリガーを懸命にガシャガシャ引いていた。



「だから無理なんですよぉっ!」
「うるせぇ! さっさと使い方教えやがれ!」
 教えろと言われて教えるわけがない。
 まったくそうだったのだ。護符による封印を高まった魔力で無理矢理に解除したにしても、現在の第七聖典はシエルの無茶苦茶な改造で物理兵器としての側面も強く持っているのだ。魔力の上昇では物理的な安全装置までは解除できるはずもない。しかもシエルの考え無しの改造の結果、構造がやたら複雑なため素人には安全装置の位置は一見わからないよう出来ているときている。
「クソッタレ! 使えねぇならこのままコイツでぶん殴ってやる!」
「ややややめてくださいよぉ! あいつら凄く硬そうじゃないですかコブが出来ちゃいますよぉ!?」
「四の五の言うな! ってかオメェ重いんだよ!」
「ひどっ!? 重いのはわたしじゃ無くて第七聖典ですよ!」
「コレだってお前なんだろうが!」
 馬鹿馬鹿しく言い争いながらも有彦は本気で殴りかかるつもりのようだ。四十キロ程に達した第七聖典を抱え上げ、全力で振りかぶろうと狙いを定める。
 相手が人間か、もしくは知性のある化け物なら二人の漫才もどきに呆れ戸惑ったかも知れない。しかしクリスタル・レギオンにはそのような雑事に惑わされるような知性は欠片も無かった。
 相変わらず薄気味の悪い音を立てながら、有彦目指してゆっくりと前進してくる。
 ゴクリ、と有彦は息を呑んだ。
 かなうわけなどない。殴りかかった次の瞬間にはおそらく自分は肉片だ。が、今まで散々好きなように生きてきて、ここでそれを曲げるのは格好が悪すぎる。らしくない言い方をすれば、美学に反する。そういうのは、別に断固として嫌だとか大袈裟なことではなく、なんとなく嫌で、そのなんとなくが有彦にとっては重大なことだった。
 安否の知れない親友、シェルターに逃れていた見知った顔達、バイト先の酒屋の夫婦に、姉の一子。
 なら逃げ出すのは、やはり違うだろう。
「うぉおおおらあぁああああああっ!」
 吼えながら、有彦は第七聖典を振り回した。
「有彦さん、ダメェーッ!」
 しがみついて止めようとしたななこの身体は虚しく有彦を透過させた。第七聖典の強度、クリスタル・レギオンの硬度、そして有彦の腕力を考慮すれば、殴った瞬間へし折れるのは有彦の腕だ。その後は水晶の腕で貫かれ、叩き潰され、有彦は死ぬ。
 ななこは馬の蹄に酷似した手を伸ばした。
 何も掴めない、不便な手だ。有彦のシャツの裾を握り締めて、彼の特攻を止めたいのに、出来やしない。
 突っ込んできた有彦へ、正面にいた犬型クリスタル・レギオンの前脚らしき部位が振り下ろされる。
 一矢報いることさえかなわないタイミングだった。
 何も出来ず、ただ無為に、乾有彦が死んでいく。
 ななこは絶叫した。



 ――ならば、その牙は無垢なる叫びが呼んだものか。



「……あ、ああ」
 ななこの目の前で、有彦へと迫っていた水晶の塊は三枚に下ろされていた。透き通った切断面が銀の輝きを透かし、この世のものとは思えない美しさを見せている。
 驚いたのは、有彦も同じだ。
 突如疾風の如く現れた影はまさしく獣。犬型のクリスタル・レギオンに対し、新たな獣は水晶ではなく銀の輝きを放っていた。
 犬ではない。獅子とも異なる。その姿、雄々しき姿は――
「おお、かみ?」
 全身銀色の、狼。
 獣の四肢ではなく、ヒトの身体を備えた人身狼頭の騎士だった。
 何故、騎士だと思ったのか。
 ……理屈ではないのだ。理屈ではなく、その姿に有彦は騎士というおよそ現代日本とは程遠い単語を思い浮かべた。
 両の手に一対の牙を携えた、銀狼の騎士。
「ったく、相変わらず硬いな、こいつらは」
 まだ若い男の声は、狼の口から。
『ぼやかないの、ゼロ。ほら、まだ四体も残ってるわ』
 悩ましげな女性の声は、銀の鎧から。
『この程度の連中に手こずってるようだと鋼牙に笑われるわよ?』
「そいつは勘弁だな」
 再び、疾風の如く銀狼が駆ける。
「お、おい、こいつは……」
 前脚を叩き斬られた犬型はいまだ健在だ。すっかり勢いを無くしてしまった第七聖典をもう一度振りかぶろうとしながら、有彦は銀騎士に声をかけた。が、銀騎士は振り返りもせずに、
「もう終わってるよ」
 とだけ言って、ムカデ型に斬りかかっていく。
「終わってるって、どういう――」
 有彦が言い終えるよりも先に、犬型の首がズレた。
 いや、首だけではなかった。胴が、脚が、尾が、次々と滑り、綺麗な断面を晒していく。傍目には何とも滑稽な光景だ。
「有彦さん」
「……お、おう」
 いつの間にか、ななこが隣に立っていた。
「お知り合いですか?」
「……んなワケねー」
 第七聖典が地面へと落ちる。
 ななこが、「あ痛ッ!」と小さく悲鳴をあげた。



「りゃあっ!」
 二刃一閃。
 ムカデの夥しい脚が斬り飛ばされ、続いて頭部がズリ落ちる。
 銀狼の騎士――涼邑零は、舞うように双刀を翻らせた。
 本来は魔界から這い出てくる“ホラー”と呼ばれる類の妖魔を狩るための武器、銀狼剣。その切れ味は相手がクリスタル・レギオンであってもものともしない。
 狼頭は零の表情を語らない。が、銀の鎧に覆われた下で彼は涼しげに笑みすら浮かべていた。目の前にいるのは三メートルから五メートルの小者ばかり、苦戦などしようはずもない。
 クリスタル・レギオンは十メートルを超えたくらいから戦闘力が大幅に変わってくる。こいつら“生まれたて”は、相応の装備さえあれば速度も硬度も一般の兵士で充分に対応可能だ。
 もしこれが十メートル以上のサイズだったなら、今零が助けた男女はとうに殺され、水晶に喰われていただろう。
「それにしても、女の子の方は珍しいな。人間じゃないようだけど」
『むしろ私達に近いわね。道具に宿った魂……もっとも、ホラーなんかじゃなくて人間と、他に何かが混じってるようだけれど』
 相棒の魔導具シルヴァの言葉にふむ、と頷くと零は横合いから放たれた槍型の水晶突起を蹴り上げて軌道を反らし、その主へと銀狼剣を突き立てた。
「まぁいいか。見たところ退魔士や戦士の類じゃなくて素人みたいだし、避難し損ねただけだろ。“彼女”にでも頼んで合流地点まで送らせればいいさ」
『そうね』
 現状、この東京ではシェルターに避難したまま身動きの取れなくなっている住民達を救助するために、自分のような魔戒騎士を含め裏の首都治安維持組織が幾つか活動している。精霊付きの武装を携えた男なら、そのいずれかに所属している者かとも思ったがどうやらそういうわけではないらしい。一般人の中にも極希に先祖伝来の魔具を所有している者がいる場合もある、おそらくはそういった手合いなのだろう。
『でも、いいの? ゼロ』
「何が?」
『彼女、この町の人とは顔をあわせたくないって言ってなかった?』
 そう言えばそんな事を言っていた気もする。“彼女”はこの町出身の善意の協力者だが、その辺にはこみ入った事情もあるのだろう。“彼女”が何者かを考えれば、無理もない。
「じゃあ仕方がない。紅牙さん達に頼むか……」
『そうも言ってられないみたいよ』
 溜息混じりにシルヴァが呟く。
「……やれやれ」
 振り向いて、零も肩を落とした。
 見ればそこには十五メートルはあろうかというクリスタル・レギオンの姿。髑髏のような頭部に、猿のような長い手足、蝙蝠の翼を背に生やした様は悪魔そのものだ。
「ホラーみたいなヤツだな」
『形状的にはそんな感じね。こっちの方が慣れてる分やりやすいんじゃない?』
「そーいう問題か?」
 軽口をたたき合いながら、零は悪魔型へ向かって跳躍した。
「雑魚は紅牙さん達に任せるしかないな」
『あの女、また文句言うわよ? プライド高いんだから』
 言われるまでもない。
 とは言え零だって嫌味のつもりで紅牙達に雑魚の相手をさせているわけではないのだ。単に諜報活動が本分の彼女達では中型から大型の敵の相手は困難なだけで、そのくらいわかっているはずなのにどうも使いパシリにされている気がするのが癪に障るらしい。
「ゼロ殿、遅くなりました!」
 噂をすれば何とやら。
 漆黒の仮面で顔を隠し、軽装の鎧を纏った女が小型のレギオンに無数の手裏剣を撃ち込みながら参上した。身のこなしと言い技量と言い、一流のものだ。さらにその後ろから、女に率いられる形で忍装束に身を包んだ男達が現れた。
 公安直下で諜報活動に従事している雇われ者の忍者集団、妖魔一族の頭領“蝶忍”紅牙とその部下“星忍”烈牙、そして下忍のカラス天狗達だ。
 紅牙が手裏剣で撃ち抜いたレギオンには烈牙とカラス天狗が殺到して瞬く間に微塵切りにする。今やこの五人しかいないと言われる妖魔一族だが、いずれもなかなかの手練れ揃いだった。
 標的の完全な沈黙を確認し、紅牙を守るように烈牙とカラス天狗が前衛につく。彼らの視線は、案の定悪魔型に向けられていた。
「遅れた分の借りはそこのデカブツを倒して――」
「あー、紅牙さん達はそこの人達を守ってあげてくれる? コイツは俺が相手するからさ」
 零の言葉を聞いて紅牙は言葉に詰まると、あからさまに不満げながら「わかりました」と告げて有彦達の護衛に回った。
 正直、零は彼女達に会うまで忍者というのは人間的な感情とは無縁のプロフェッショナル集団だとばかりに思っていた。だが、現在世界中で活動している忍者達はわりとそうでもないらしい。
「気持ちはわからなくもないけど、手裏剣や忍刀でコイツの相手は無理があるものなぁ」
『少しでもいいとこ見せて、往時の力を取り戻したいのよ』
「数年前まではもっと凄い組織だったんだろ?」
『らしいわね。もっともその頃はテロ集団もどきだったそうだけど』
 妖魔一族は前頭領、即ち紅牙の実父が結成した組織だが、野心家だった前頭領は野望の果てに死亡、遺された紅牙達は公安の狗となって細々と命脈を保っているのが現状だ。もっとも、父の野望が失敗した時を見越して紅牙は公安との間に予めパイプを繋いでいたらしい。その辺の抜け目の無さこそが忍者なのだろう。
「さて、あっちはいいとして、問題はこのデカブツだ」
『ゼロ、もう時間がないわよ』
 シルヴァに言われ、零は残り時間を確認した。
 魔界より出し凶悪な魔物ホラーを狩る魔戒騎士。彼らは生身の状態でも卓越した戦闘力を誇る超一流の戦士だが、魔の力を借りた鎧を召喚、装着することでさらに強力な力を発揮することが出来る。しかし現世においてはその使用可能時間は著しく限られており、僅か99.9秒しか纏う事は出来ず、限界時間を超えると装着者が鎧に取り込まれてしまう諸刃の剣だった。
 そして今、零に残された時間は、十一秒。
 たった十一秒の間に十五メートルもの巨体を持つレギオンを討ち取らなければならない。鎧を解除した状態では、このサイズの敵を相手するのは流石に無理がある。
「一撃で首を落とす」
『それしかないわね』
 悪魔型の長い右腕が勢いよく振り下ろされた。まともに喰らえばいかにソウルメタル製の鎧と言えども耐えられないだろうそれを横っ飛びに避けて、零は指目掛けて思いきり斬りつける。
 人差し指を斬り飛ばされ、悪魔型が痛みのためか、それとも怒りのためか、声にならない絶叫をあげた。
『今よ!』
「わかってるって!」
 荒れ狂う悪魔型の右腕に乗り、そのまま巨体を頭部目掛けて駆け上っていく。その疾駆する様はまさに狼のそれだった。
 が、レギオンも黙ってみているほど愚かではない。大男、総身に知恵が回りかね、とは言うが、知恵が足らずともがむしゃらに手足を振り回すことは出来る。
「うおっ!?」
『気をつけて!』
 上腕部まで駆け上がったところで思わず振り落とされそうになったのを、鋭く突き出たツノのような部位にしがみついて堪え、再び今度は肩まで一気に走り抜ける。
 残り時間、五秒。
 ここでミスは許されない。
「うぉおおおおおおおっ!!」
 銀狼の咆哮に呼応するように、双剣から炎が迸った。途端、炎は零の全身を包み込み、銀狼の瞳が怪しく光る。
 無論、ただの魔術や妖術による火焔であるはずがない。これこそは魔界の炎、魔導火。魔導力の修行に耐え抜いた魔戒騎士が扱うことによりあらゆる邪悪を焼き尽くす炎が揺らめく中で、零は二刀の双剣の柄を合わせ、一刀に繋げた。
 レギオンの左腕が、右肩の異物を叩き落とそうと迫る。が、遅い。その程度の速度では零を捉えきることは出来ない。
 左腕を避けつつ、零は剣を思いきり振りかぶり――
「りゃああああああっ!!」
 投げつけた。
 炎の軌跡を描きながら、双身刀と化した銀狼剣――銀牙銀狼剣は悪魔型の野太い首目掛けて一直線に突き進んでいく。
 眼前に迫った死の焔を見つめる悪魔型レギオンは、最期までその水晶で出来た表情を変えることなど無く……
「ジャスト」
 零の言葉も聞こえていたのかいないのか、ともあれ首を落とされ、尻餅でもつくかのように倒れ込んでいた。





◆    ◆    ◆






「……なん……だったんだ、ありゃ?」
「さ、さぁ……?」
 有彦の問いに、ななこは答えを持っていなかった。
 おそらくはこの国の退魔の剣士、だとは思うが、あれだけの巨大な化け物を相手に驚くべき手際の良さだ。少なくとも白兵戦の能力だけを見れば明らかに自分の主人より上だろう。
 この極東の島国は非常に霊的に優れ、そのため古来から魔物の襲来が絶えず退魔の者も必然として高い技量を持つようになったと聞いてはいたが、改めて目にすればこれは予想以上だ。
 しかしそれ以上に驚いたのは……
「君達、怪我はなかった?」
 銀狼の鎧の下から出てきたのが、有彦と大して年も変わらないだろう青年な事だった。
「あ、ああ。オレは大丈夫だ、けど」
「そっちのお嬢さんは?」
「わ、わたしも大丈夫、です」
 二人の無事を確認すると、零は「さて」と呟いてから、首にかかった奇抜なデザインのネックレス――シルヴァと何事か話し始めた。聞こえてくる内容から察するに、どうやら自分達を逃がすために護衛を呼ぶつもりらしい。
 ななこは改めて零の事を観察してみた。
 整った顔立ちの美青年なのだが、ななこが抱いた第一印象は『どことなく有彦さんと似てる』だった。別に軽薄そうな笑みが似ていたとかそんな単純なことではなく、ノリの軽そうな佇まいの奥に潜むある種の冷たさのようなものが似ていると感じたのかも知れない。それは決して人情味に薄いとかではなく、達観した人生観がもたらす一つの悲しい冷静さだ。
「あー……君達、このシェルターに避難してた人だよね?」
「……ッ。そう、だけどよ」
 有彦の声に剣呑さが混じる。
 ひしゃげたシャッター、シェルターの中から這い出してきたクリスタル・レギオン。もはや絶望的だろう。ななこも、彼にかけるべき言葉が見つからない。
「そっか。じゃあ良かった。ここの人達、今俺の仲間が護衛して移動中だからさ、そっちに合流してもらえるかな? ああ、勿論案内兼護衛はつけるよ。俺達はもう少し、まだ逃げ遅れてる人がいないかこの辺探すから」
 さて。この零の言葉を聞いた時の有彦の顔を何と表現すればよいものか。ななこもそうだが、喜ぶとか驚くとか、どうにも丁度よくあてはまる言葉が見あたらない。
「じゃ、じゃあここにいた奴らはみんな」
「無事だよ」
 へなへなと、有彦がその場に座り込む。それはそうだろう。たった一人の家族が、無事だったのだから。再会した途端一子には全力でぶん殴られるだろうが、そんな事今の有彦は考えてもいまい。
 と、その時、零の首にかけられたシルヴァが何かに気付いたらしいことが似たような存在であるななこにはわかった。
『ゼロ、“彼女”達が来たみたいよ?』
 シルヴァの言葉に、零は通りの方へ顔を向けた。ななこも釣られてそちらを見ると、何やら武装した一団がこちらへ向かって走ってくるのが見えた。その先頭には、二人が言うところの“彼女”であろう少女の姿が確認できる。
「じゃあ後は任せて、俺達は行くか」
 それにしても、武装した一団に一人だけ、あれはななこの主人や有彦が通っていた学校の制服ではなかっただろうか? そんなものを着た少女が混じっているのはどうにも異様だった。
「じゃあ、俺達は行くから」
「は、はい。ありがとうございました!」
 深々と頭を下げて、ななこは零とシルヴァに感謝の意を示した。安堵のあまりに呆けている有彦にも「それじゃ」と軽く別れを告げ、一人と一つは足早に去っていく。
 零達が見えなくなった頃、少女と武装集団はななこと有彦のもとへと辿り着いていた。武装した連中は全身を黒いスーツで包み、胸部などにはやはり黒のボディアーマーを装着している。特徴的なのは右腕に装備した大きなアタッチメントだった。先端には重火器らしきマズルと、近接戦闘用であろうブレードがついている。全体的なシルエットはなんとなく蟻っぽく見えなくもない。
「ふぅ。涼邑さん達、もう行っちゃったんだ」
 零達が去った方向を見つめ、少女はやや呆れたように言っって、それからななこと有彦を見――
「本当、せっかちなんだから。あ、逃げ遅れた人ってあなた達のことだ、よ……ね……」
 ――言葉に、詰まった。
 そのおかしな空気に反応したのか、有彦も顔を上げ少女を見る。
 そして有彦も、言葉に詰まっていた。
「……? どうかしたんですか?」
 ななこが不思議そうに二人の顔を交互に見る。有彦も少女もまばたきもせずに目を見開き、口も半開きのままだった。
 何秒くらいその状態が続いただろう。
 少女の口が、ゆっくりと、動き出す。
 有彦の口も、ゆっくりと、言葉を紡ぎ出していた。
「……乾君……?」
「……弓、塚……?」
 乾有彦と弓塚さつき、約二年ぶりの、再会だった。








〜to be Continued〜






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