episode-16
〜怪獣無法列島〜
Part 4 仮面舞踏会



◆    ◆    ◆





「君達は、“仮面ライダー”と言う名を、聞いたことがあるだろう?」
 ヴァン=フェムから投げかけられた言葉に、志貴と秋葉、そして翡翠は一瞬呆気に取られ、互いの顔を見合わせた後に確認するように頷くと、一様に老吸血鬼へ向き直った。
「そりゃ、知ってますけど」
「ふむ。まぁ当然だな。世界的に有名な話だ」
 志貴は当然ながら、そういった一般社会的な世情、都市伝説のような話に疎い秋葉や翡翠でもその名を知らないわけがない。世代的には直撃はしていないが、それでも三人が子供の頃は書店に特集本が並び、ゴールデンタイムに特番が組まれたこともある。つい先日も随分と久しぶりに特集が組まれ、やたらと濃くて暑苦しい男を隊長とした探検隊やらがライダーの実在を証明するために何故か秘境探検に出かけていたはずだ。
「今から三十年以上も昔、世界征服を狙う悪の組織に敢然と立ち向かい、これを討ち滅ぼした正義の味方。仮面のヒーロー」
 語るヴァン=フェムの貌は実に愉しそうだ。
「……悪の組織、ショッカーですね」
 子供の頃――と言っても、無論遠野に引き取られてから、さらにこの手の話に触れる機会が増えたのは必然として有馬家へと養子に出されてからだが、志貴もライダーごっこくらいしたことはある。
 悪の組織、ショッカーによって改造された一号ライダーは、数々の必殺技を駆使して迫り来る怪人達を倒していくのだ。
「そして、ゲルショッカー、デストロン、GOD……」
 秋葉も、志貴とシキ、二人の兄につきあわされてライダーごっこをやったクチだ。翡翠も同様である。
 七十年代初頭、世界は非常に不安定だった。“悪の組織”と呼ばれるような組織、結社が跋扈し、それらによるテロ活動に世界中が震え上がっていたのも事実だ。
 仮面ライダーとは、そんな折りに流れ始めた噂話だった。

 曰く――悪の組織は人間を改造し化け物にしている。
 曰く――改造されながらも逃れ組織に復讐を誓った男がいる。
 曰く――謎の化け物に人々が襲われていると、仮面の男が嵐のように現れ、化け物を倒すと名も告げずに去っていく……

 まったく不思議なことに、この噂は世界規模で見れば多少の時差はあったが、ほとんど同時期に流れ始めた。
「……ゲドン、ガランダー帝国、ブラックサタン、デルザー軍団」
 翡翠はかつてテレビや雑誌で取り扱われていた怪人のものらしい不鮮明な写真を思い出していた。どれも被写体がブレていたり、距離がありすぎてただの奇怪な影としてしか写っていなかったり、ヤラセの心霊写真やUMAのそれと何も変わらないものばかりだった。それらと戦っていたとされるのが、仮面ライダーだ。
 彼らの戦いは、復讐からやがて正義へと変わっていく。
 仮面ライダー達は世界中を舞台に様々な悪と戦い、これを打ち倒し続けた……と、そういう話になっている。だが無論そのような悪の組織が実在したなどと報道されたことはなく、目撃者もそう自称する者は多かったが所詮は個人のレベルにおさまると結局は流行の都市伝説として片付けられてしまった。
「そう。そしてネオショッカー、ドグマ、ジンドグマ、バダン。誰もが知っている話だ。誰もが知っているヒーローだ」
「でも、噂は噂じゃ――」
「シキ君」
 ヴァン=フェムの目が鋭い光を放つ。
「ライダーの話以上に君達は知っているはずではないかね? たかが噂が持つ力を嫌と言うほど。『所詮は噂』『だが本当かも知れない』……多くの人々が疑い、信じ、そうすることでどれだけの力を生じさせるかを」
 その言葉に三人は息を呑んだ。確かに、そうだ。あの暑い一夏の出来事を思い出せば、噂が持つ力は決して軽視していいものではない。
「信じるその想いは力になるなどと……フッフ。まるで流行歌の一節のようだが、多くの伝説も伝承もまた元を辿ればそれは今の都市伝説と同じようなものであったのではなかったか。私やトラフィムは、数千年に渡りその経緯を目の当たりにしてきた」
 強力な戦士の、強大な魔術師の風聞が人から人へと伝わっていくうちにやがて多量の思念を帯びて力となり、その概念が戦士や魔術師を英雄とも呼ばれる存在へと昇華していく歴史を直接目にしてきたヴァン=フェムだからこそ、言葉に真実の重みがあった。そもそも彼やトラフィムからして吸血鬼という存在の概念作りに少なからず協力してきたと言えなくもない最古参の死徒だ。
「英雄を作るのは、英雄を求め信じる人の心だ。なればこそ、私はアレにライダーの名を与えたのだよ」
 現代の英雄幻想。
 人類の存亡を懸けた戦いに挑む拠り所になればと――それがよもや敵として伝説の英霊が現れるとはあまりの皮肉にヴァン=フェムも渋面を作るより他になかったが、今ではむしろ打倒英霊へ向けてより強力なライダーシステム完成に懐かしい熱意を注いでいる。
「……それに、あながちただの噂とも言い切れぬしな」
「は?」
「いや、なに。餅は餅屋とでも言おうか……先程名を挙げた悪の組織、幾つかとは接触したこともあるのだよ。そう、あれは――」
 そう言って喉の奥を鳴らし、ヴァン=フェムは話を続けようとしたのだが、それは突然の訪問者によって遮られた。
「ヴァン=フェム卿!」
 まるで扉をぶち破るかのような勢いで部屋に飛び込んできたのは、他でもないシオンだった。何か余程のことでもあったのだろう。彼女にしては珍しく、肩で息をしている。
 一瞬、志貴はシオンと目が合った。しかしシオンはスッと視線を逸らすと、ヴァン=フェムへと向き直った。
 嫌な予感がする。布団から起こした上半身を緊張で硬くし、秋葉はシオンを見つめ、彼女の言葉を待った。





◆    ◆    ◆






 ――Standing by――

 有彦達が見ている前で、さつきの全身は光の奔流に包み込まれていた。電子的なプラズマ光に混じった魔力の波動はななこも今までに感じたことのない類のものだ。
 光はさつきの腰に巻かれたベルトから流れ出ていた。ベルトにはヴァンデルシュタームとスマートブレイン、桐原コンツェルンの三企業を意味するVSKのロゴが刻まれており、このベルトがライダーシステムの根幹を成していると言って良い。

 ――装着者“ユミヅカ・サツキ”ヲ確認――

 さつきの脳内に機械的な音声が響く。

 ――Complete。変身ヲ、承認スル――

 音声の主は“ネビュラ”と呼ばれる変身認証システム。このネビュラへとアクセスし、装着者であることを確認、承認されることによって装着者の身体にはフォトンストリームと呼ばれる光のラインが走り、スーツの骨格部分が形成される。アクセスの手段は装着者が個別に設定可能で、例えば何かしらの音声でも、極端な話、手をかざすだけでもアクセスは出来る。さつきの取った変身ポーズも彼女が自分で設定したアクセス法で、渡されたベルトがライダーシステムと呼ばれる装置だと聞い時にならばこれしかないと即座に設定したのだ。
(だって、“仮面ライダー”だもんね)
 考えるまでもない、もっとも印象深い仮面ライダーの変身ポーズ。子供の頃にさつきも憧れた、正義のヒーロー。
 人類の平和を守る仮面ライダーの存在を、子供の時分にさつきは信じていた。弱きを助け強きを挫く仮面をつけた英雄の存在を。憧れて、憧れて、その想いの欠片は今でもしっかりと胸に息づいている。たとえ、人ならぬ身に成り果ててしまった今であっても。
 フォトンストリームがさつきの身体を走り終え、形成されたラインへと特殊金属ソルメタル製装甲の転送が始まった。装甲はさつき達の部隊本隊が使用しているトレーラーの中に用意されており、変身が承認されると転送される仕組みとなっている。
 黒の強化スーツは少女の全身を包み、ネビュラはその凶暴な獣性を発現させるべく単純にして明快な指令を囁いた。即ち……

 ――“ユミヅカ・サツキ”、怪獣ヲ、殺セ――





◆    ◆    ◆












◆    ◆    ◆






 破壊衝動が、突き抜けていく。
 力の発露には志向性が必要だ。特にさつきのような成り立てでありながら上位にも食い込めるポテンシャル、天性付きの吸血鬼はそう意識せねば容易に暴走してしまう危険性を孕んでいる。ネビュラはその制御システムでもあった。
 守るために、殺戮せよ。
 さつきは己が内部に生じた目的に従い、速やかに手と足とを動かしていた。



「弓塚ッ!」
 有彦の叫びが廃墟に木霊する。
 幾体ものクリスタル・レギオンがさつきに迫っていた。大きさも数も大したことはないが、それでもさつきのような女の子が一人でどうこう出来る相手ではない。ならばやはりと有彦が飛び出そうとした瞬間、
「――ッ!」
 水晶が弾け飛んでいた。
 破片が陽光を反射して煌めき、その中心には今まさにその破壊をやってのけたのであろう影が静かに佇んでいる。少し猫背気味に大地を踏み締めるその姿に、有彦は瞠目していた。
 ゼクト・ギアを装着した者達と似ている。が、それ以上にそのシルエットはある一つの名を連想させるものだった。顔の真ん中でギョロリと光る単眼は異質でも、その影はまさしく――
「……おい、嘘だろ? あれって、まさか……」
 本で読んだ。テレビで見た。人づてに聞いた。
 悪を蹴散らす正義の嵐。
 その身は既に人ならずとも、人間のために戦い続ける……仮面の、英雄――ヒーロー――
 まさしく――仮面ライダー。
「うわぁぁぁぁあああああああっ!」
 さつき……なのであろう、ライダーが吼えた。吼えながら、握り締めた両拳で思いっきり地面を叩き付ける。
「うおっ!」
「きゃっ」
 突然の衝撃でよろける身体を支え合いながら、有彦達は眼前の光景を食い入るように見つめていた。と言うより、目が離せない。
「やぁあっ!」
 地面に走った衝撃で動きを止められたレギオンが一体、さつきに捕まっていた。巨牛のようなその躯を軽々と持ち上げ、さらにもう一体のレギオンへと投げつける。
「……信じられねぇ」
 有彦がそう漏らしたのも無理はなかった。
 黒いボディに金のライン。あくまで女性的な細身のシルエットからは想像もつかない、圧倒的な暴力。戦い方も何もあったものではない。ただ力の限りレギオンを破壊していく、戦闘ではなく蹂躙だ。
 さつきの戦闘法は、まったく無茶苦茶だった。
 元よりただの女子高生なのだ。格闘技を学ぶでも、武を修めるでもない一般人のさつきが、定石に則った戦い方など出来ようはずもない。少女にあるのは吸血鬼として得た尋常ならざる馬鹿げた肉体能力だけだった。
 だがその馬鹿げた肉体能力が曲者なのだ。
 例えば、シオンはさつきが持つ潜在的な能力を理屈と直感の双方から非常に高く評価していた。吸血鬼の肉体能力――確かにそれは驚異的ではあるけれども、言い換えればさつきにはそれしかないのである。それしかない身にあって、彼女はあの暑い夏、シオンや秋葉、それどころか戦闘者として一流のシエルとまである程度渡り合ってみせたのだ。それがどれだけの事か。
「やああああっ!」
 突き出した手が、水晶によって形成された装甲をブチ割る。予備動作も大きく、フェイントなど欠片も混じらないひたすらに一本気な力のみを頼りにした攻撃が、次々と敵を破砕していく。
「つあっ!」
 簡潔に、凄まじい向上を見せたのは筋力だった。
 魔力は並よりも幾分か下。魔術師、錬金術師としての素養はシオンのような者の目から見れば皆無に等しい。吸血鬼と化した弓塚さつきが手に入れた能力と言えば、腕力にせよ脚力にせよ馬鹿馬鹿しいまでの筋力と、そしてもう“一つの異能”だけだった。
 そう、馬鹿馬鹿しいのだ。
 吸血鬼化した者は人間時とは比較にならない筋力や魔力を得る。が、それにしたところで限界はあるし、血を吸った吸血鬼の能力や、人間だった頃の能力、下地にも大きく左右される。
 ただの女子高生が運良く吸血鬼に成り果てたからと言って、普通ならそこまで。シエルのような一流の異端殺しにかかればまさしく瞬殺、一山幾らの雑兵が増えたに過ぎないはずが、しかしさつきは異常だった。異常過ぎた。
 脚力も、腕力も、“それら”を倒すために鍛え抜かれ、また研鑽を積んだシエルをして反応しきれない、対応しきれない超常。シオンの計算を上回り、秋葉を超える腕力でもって悪夢の夜すら戦い抜いたさつきは、断じて“ただの”吸血鬼などではなかった。
 もしトラフィムやヴァン=フェムが直接彼女のその所業を目にしていたなら、スミレを思い出していたかも知れない。兎角、吸血鬼として再生するのも一つの才覚であるなら、その中にあって規格外としての能力を得る者もまた才覚を持って存在する。
 天才吸血鬼。さつきは、まさにそれだった。初代ロア――ミハイル・ロア・バルダムヨォンにさえ匹敵するポテンシャルはあらゆる吸血種の中にあって最高峰とも言えよう。
 だが天才であっても、いかんせん技術も経験もない。さらに物理的な攻撃力は過剰なまでに備えているが、防御力に関しては人間としての肉体をベースにそのまま使い続けている以上、一定までいけばそこで頭打ちだ。槍で突かれれば穴が空くし、剣で斬られれば骨肉は断たれる。心臓を抉られ、首を飛ばされればアウトだ。不死性で言えばさつきはさして高くはない。
 ライダーシステムは、そんな彼女の弱点を補える。
「弓塚、避けろっ!」
 有彦の叫びに、さつきは一体のクリスタルレギオンが背後から鎌のような前脚を振り下ろそうとしていることに気がついた。しかし避けない。避けずに、手の甲で鎌を真っ向から受け止める。
「なっ!?」
 刃が立たない、とはまさにこの事だろう。
 手の甲や肘、膝、そして頭部や胸部に使用されているのは硬度を優先させたソルメタル228。小型のレギオンやギャオスの攻撃程度なら充分に耐えられるよう設計されている。
 そして全身を覆うアンダースーツ部分、柔軟性を重視したソルメタル315がまるで布のように伸縮し、フォトンブラッドが身体能力にさらなる向上をもたらす。生身の人間や、それどころか並の吸血鬼ならば肉体が崩壊しかねない高出力は実験用の試作ギアだからこそ詰め込まれた圧倒的な力だ。
 ぐっと屈み込んだ状態から、さつきは跳んだ。大鎌を弾かれる形となったレギオンは体勢を崩し、獲物の姿を追いかけんと首らしき部分を忙しなく動かす。しかしそれはすぐさま徒労と終わった。
「えぇーーーーいっ!」
 上空で反転したさつきの身体が、まるで流星のようにレギオンの身体へと突き刺さる。突き刺さって、貫き、さつきの小柄な身体はレギオンの胴体部に大穴を空け、数瞬の後に水晶は粉々に弾け飛んだ。さつきが着地した地点は衝撃で小さなクレーターと化している。
 舞い散る水晶の中、フォトンの残像を纏ってさつきは立ち上がった。今倒したレギオンがどうやら一番のデカブツだったようだ。他は小さいのが煩わしく動いているだけ、二、三分もあれば充分にケリがつくだろう。
「……うっ、失敗かぁ」
 だがさつきには今の一撃はどうも満足がいかないものだったらしい。呟いてから不満げに残りのレギオンを見渡し、やれやれとでも言いたげに気怠く手首のスナップをきかせると、さつきは再び宙空へと跳んでいた。



「あれが……本当に弓塚……あのさっちんなのかよ」
 信じられないとばかりに有彦は呆然と呟いていた。あの不思議な、まるで仮面ライダーのようなスーツが漫画などでよく見る強化服のようなものなのだとしても、有彦が知っている弓塚さつきという少女からは想像もつかない暴力性だ。
 パンチもキックも威力は凄まじいが、今一つ様になっていない。どうにもフニャっとした印象の拭えないものではあったが、それだけに奇妙な戦いであった。さつきの腕が、脚が振るわれるたびに、有彦は自分が喧嘩などで相手を殴りつけた時の感覚と重ね合わせ、違和感に眉を顰めた。
 なんて正直な攻撃なのだろう。
 自分達のような学生、素人の喧嘩とてそれは正直だが、正道も非道もなくただ相手をぶちのめすための衝動に呑まれていくあの感覚とさつきの“コレ”は、決定的に異なっている。
 無様なのに、どこか格好良かった。
「凄いね、あんたの友達」
 なのに一子ときたら、そんな目の前の戦闘を見てもほとんど動じていないのか、呑気に一服していた。紫煙を燻らせながら、その胆力に驚嘆しているらしいななこへと「吸う?」と言って煙草を一本差し出している。当然ななこが吸うはずもなく、ブンブンと首と蹄を横に振っていた。
「……凄いのは君のお姉さんもだな」
「……俺もそう思う」
 運転手――影山と言っただろうか――に小声で話しかけられ、有彦はしみじみと答えていた。我が姉ながらとんでもない肝の据わり方だと思う。さつきよりもこっちが変身した方が有彦的にはよっぽど納得がいくというものだ。
「なぁ、えっと……影山さんよぅ」
「ん?」
「弓塚のこと……訊いていいかい?」
 さつきが何も話してくれないことにはまだ正直苛ついていた。しかしどうして苛ついているのかを冷静に考えてみれば、それは友達甲斐が無いというか、一抹の寂しさからだ。込み入った事情があるのだとしても少しくらい話してくれてもいいではないかと思うと、やはりどうにも割り切れないのだ。
 有彦が半端な好奇心から勘繰っているのではない事は影山にもわかった。わかったが、こればかりは一般人である有彦に話すわけにはいかない。何より、さつき自身が望んでいない以上影山が話して有彦が納得したとしても、今度はさつきが納得すまい。二人の関係はむしろ悪化するだろう。組織人である影山は円滑な、調和のとれた人間関係を何よりも尊ぶ。だから、
「すまない。何も、話せないんだ」
 そうとしか答えられなかった。
「そっか」
 つい不貞不貞しい返事をしてしまってから、こういうところは自分もつくづくガキなんだろうなと有彦は思った。けれど、仕方がないではないか。実際に目にしていなかったのであればいくらでも素知らぬフリは出来た。有彦は自分をそれなりにリアリストであると認識している。目にしていない事であれば自分の中でいくらでも誤魔化しをきかせることが出来る自信があった。
 だが見てしまったのだ。
 この超常の戦いを見てなお自分を誤魔化し続けられるほどに器用ではないし、薄情でもない。それでも誤魔化すことでさつきが救われるのだとしたら、誤魔化すしか無いのだろうか。釈然としない、胸の内に渦巻く靄を必死に掻き消しつつ有彦は拳を握り締めた。
 ……けれど、
「でもよ」
 ただ一つだけ。どうしても訊いておきたい、訊いておかなければならないことがあった。こればかりは、譲れない。
「弓塚は、味方……なんだよな?」
 人類の――正義の――弓塚さつきは、味方なのか。
 仮面をつけ、凶悪な化け物達をそれ以上の凶悪さをもって駆逐する少女は果たして善なのか悪なのか。善悪でのみ物事を量ることの愚など承知しつつも、さつきの友人として、そしてあの姿から仮面ライダーを連想した有彦としてはこの質問は必然と言えた。むしろ現在のこの異常事態であったればこそ単一にして絶対の正義を信じたいと思うのは人として正常な性ではあるまいか。
 メットをかぶった影山の表情は有彦にはわからない。
 が、影山は静かに答えようとして――
「危ないっ!」
「おぉっ!?」
 ななこに、有彦と一緒に突き飛ばされていた。
 突然のことに反応する暇すらない。影山と有彦が立っていた場所に小さな何かが鋭く突き刺さる。
「な、なんだ!? レギオンか!?」
 尻餅をつきながらマシンガンブレードを振り回し、影山は周囲を見渡した。有彦もつられて視線を巡らすが、辺りはどこまでいっても廃墟ばかりだ。地面に突き刺さったのは、どうやら黒塗りの短剣らしい。それが五本。飛んできた方向には何もいない。
「ち、ちちち、違います! レ、レギオンどころじゃないですよ!」
 影山とも有彦とも違う、短剣が飛んできたのとも違うまったく異なる方を睨みながら、ななこは震える声で叫ぶと一子の手を引いて自分の背後へと移動させた。
 一子の表情にも剣呑な色が浮かぶ。
「おいななこ……レギオンどころじゃねぇって、何が……」
「すす、凄い霊格ですよ……これ、わたしの霊格にも匹敵します」
 ななこの真剣な物言いに有彦は首を傾げると、眉を顰め、たっぷり三秒間唸った挙げ句に、
「……それはつまり大したことのないオバケって事か?」
 などと宣った。
「なにとんでもなく失礼なこと言ってるんですか! ってゆーか、これこの相手、亡霊じゃなくてこれは……この感覚、それでわたしの霊格に匹敵ってどういうことかわかってて言ってるんですか!?」
 無論、有彦にも一子にわかるわけがない。影山も基本的な魔術理論は学ばされたが、首都警が相手をするのは基本的に生身の、肉の身体を持ったテロリストや化け物だ。霊だの魔だのを請け負っているのは魔戒騎士や退魔師なので、霊格なんて話を持ってこられても正直わけがわからない。
「あーっ! もう! とにかくすんごく危ないんですよ!」
 ななここと第七聖典は千年単位の概念武装。その原型となったのも高位幻獣である一角獣の霊だ。人間の少女と一角獣の霊とを重ね合わせ、さらに千年の時を経たななこに匹敵する霊格などなまなかな相手ではありえない。それこそ祖と呼ばれるような高位の吸血種か、はたまた幻獣の類か。
 それらで無いというなら、可能性はまず一つしかない。
「……これ、多分――」
 言いかけて、ななこがハッと口を噤む。
 有彦も一子も、そして影山も、ななこが見つめているその一点を凝視していた。
 倒壊しかけたビルとビルに挟まれ影になった空間。輝き透き通る水晶地獄に生じた闇の中に、それは浮かんでいた。
 白い、髑髏。
 いわゆるシャレコウベと呼ばれるもの。
 人間の頭部から皮も肉も綺麗に削ぎ落とした骸骨が闇の中に浮かんでいる。なるほど、ななこよりもよっぽどオバケだと有彦は納得し、立ち上がって身構えた。
 おぞましい。骸骨からは敵意のようなものは感じられない。だからこそおぞましかった。
「おい、テメェ」
 闇に浮かぶ髑髏を睨み付けつつ、有彦は口を開いた。
 嫌な汗が全身から噴き出している。鼻の下から滲み出た汗が口内に入って塩っ辛い。不味い。マズイ。
「テメェ、なんだ?」
 有彦の質問に、無論髑髏は何も答えなかった。微動だにせず闇の中に浮き続けている。
 自分は、死んだのではないか。既に死んでいるのではないか。見ているだけでそんな錯覚さえ覚えてしまう髑髏は、水晶の化け物群よりもよっぽど怖ろしい。有彦の全てが慄然としている。
「乾くん!」
 そこに、最後のレギオンを砕いたらしいさつきが凄まじい速度で飛び込んできた。魔術師としての素養に恵まれなくても、このただならぬ霊圧を感じないほどさつきも鈍くはない。敵意も殺意も無く、気配さえ感じさせなくとも霊圧だけは誤魔化しきれていなかった。
 と、その時、髑髏が震えた。
 グッ、グッ、グッ、と、震え、しゃがれた声が辺りに響く。
「……まだ、感覚に慣れぬせいか。とは言え存在を気取られてしまうとは、私も未熟だな」
 地の底から響いてくるような、掛け値無しに不気味なそれは声ではなく音だった。と言うよりも、これを声だと認めたくない。この音は決して生者が発していいものではない。地獄の餓鬼どもでさえこれよりはまともな声を発するのではないかと思えてしまう、そんな音だった。
「……どれ。これならば――」
 思わず有彦は目を擦り上げた。
 髑髏はいる。目の前の闇に、ポッカリと浮かび続けている。なのに視覚以外の全ての感覚から髑髏の存在は消え失せていた。
「う、嘘」
 ななこも驚愕を隠せずにいる。仮面の下の表情はわからないが、さつきも同じようだった。
 なんたる虚ろか。
 そこに何も無い。闇ですらない虚ろだ。
 だがこの虚ろは怖ろしいことに形を成している。
「ッ!」
 突然、さつきの拳が空を裂き、幾つかの飛来物を砕き落とした。先程地面に突き刺さったものと同じ短剣だ。
「おっと。いや、すまん。つい癖で投げてしまった。許されよ」
 喋り始めるとこの虚ろは意外なことに饒舌なようだった。何やら話すことを楽しんでいるフシもある。
「ク、クク。今日は、今日くらいは正面から堂々といこうと思っていたのだが、やはり長年の慣習というものは抜けきらないようだ」
 音もなく、髑髏が滑る。
「“殺す”という任務に“自分”というものを出してみようかと思ったのだが、存外に難しいな」
 言ってから、髑髏は何がそんなに可笑しいのか嗤っていた。
「お前、何者だ!?」
 影山がマシンガンブレードの銃口を向け激昂するが、髑髏は彼には何ら興味がないのかさつきだけを見つめている。少なくとも、見つめているように有彦には感じられた。
 だが、
「クソッ! 名を名乗れ!」
 さらに怒鳴った影山の言葉に、僅かにだが髑髏が震えた気がした。一瞬だけ、虚ろに気配が戻る。
「名……名か。いや、失礼をした。そう言えば、名乗っていなかった。これは、失礼をした。礼を欠いていたようだ。うむ。本来の私は礼儀正しかったはずなのだよ。だから、名乗らねば。君達に名乗りたい。とても名乗りたい」
 カタカタと髑髏は震えた。震えながら、黒いモミジが白い髑髏を覆う。どうやらそれは手で顔を覆ったらしかった。
「……だが、すまん。本当にすまない。許して欲しい」
 影の中から影が這い出してくる。痩せた黒い身体はまさしく悪鬼のそれに思われた。まるでムクロだ。悪鬼が幽鬼のように滑らかに躍り出てくる。スキップでも踏みそうな軽快な足取りで。
「私には、名前が無いのだ。悲しいが、どんなに名乗りたくとも名前が無いのだよ。許して欲しい」
 もっとも奇怪なのは、何やら布に包まれているらしい右腕だった。腰に布を巻いただけ、黒塗りの身体には他に白い髑髏面だけを着けた男が、しかし右腕を布でグルグル巻きにしている。
「けれど、けれどもだ。喜ばしいことに、とても喜ばしいことに、もうすぐ、もうすぐ手に入るのだ」
 一方的に捲し立て、髑髏が天を仰ぐ。天を仰ぎながら、左手が動いていた。正確には、動き終わった後に有彦はそれに気がついた。さつきの手が、再び短剣を払い落とす。
「クク、度々すまない。外道の業ゆえな。正々堂々と戦いたいのだが、気がつくとこうだ。だがそれも汚れる名すら無いからだと、そう思わないか? 思うだろう?」
 思うだろう、と言われても、髑髏が何を言いたいのかなどさつきや有彦達にはほとんどわからない。熱っぽい訴えだというのに、声自体は感情の籠もらない、淡々としてどこか退廃的な響きを含むものだった。
「名前。私だけの名前が、欲しい。欲しくてたまらない。だからこんなにも喜ばしいのだ」
 髑髏は嬉しそうに両腕を広げた。正直、様になっていない。あまりにも不似合いなポーズは滑稽ですらある。これでは髑髏面もまるで道化の仮面だ。
「姫君は言ったぞ。あの黒い姫君は、言ってくれた。この私に名前をやる、と。私の名を私だけのものにしてくれると。何たる歓喜だろう! ならば、そのために私は働かなければならない」
「……姫君? 働く?」
「働く。暗殺者が働くと言えば、それは殺しだ。私に与えられた任務はこの地より逃げ出そうとする者の妨害……と言うよりも、逃がそうとする者を殺すことだ」
 そう、暗殺者。暗殺者の仕事が殺し以外に何があるものか。髑髏は左手に愛用の短剣を構え、さつきの全身を値踏みするように見回した。が、いかんせん全身を隈無くライダー・ギアによって覆われている少女の身体能力など読みようがない。見定めるのはギアの特性、主に装甲の如何だ。
「えっと、その……」
 さつきが、拳を構える。髑髏の発言のほとんどは理解不能だったけれど、わかったこともある。
「あなたが誰なのかなんてわからないけど、わたし、戦うから」
 敵ならば。
 地面に落ちた短剣が、自分や有彦達を狙ったものである以上。この地から自分達を逃がさないと言うのであれば。
「誰かわからない、か。そうだ、私はまだ私ではない。だが名乗る名前もない私をそれでも呼ぶのなら、私はハサン・サッバーハ。いずれすぐにただ一人のハサンとなるだろう。だが今は唯一でも無二でもないハサンという群れの単なる一個体が――貴様の敵だ」
 道化の動きが、変わる。
 滑らかさはそのまま、まず速度が変わっていた。気配はもはや完全に消え失せ、饒舌だった口が嘘のように、静かに闇に溶け込んでいく。そうして白い髑髏面までが闇に没していく寸前に、さつきが仕掛けた。弾丸のように突っ込み、
「行っくよーッ!」
 掛け声は呑気ながらも空間ごと叩き潰すかのような勢いで上段から拳を打ち下ろす。鉄槌のように振るわれた腕はスーツに覆われてなおか細い剛腕。
 けれど打ち下ろされたそこは既に蛻の殻。
「あ、あれ?」
 ハサンの髑髏面はどこにもいない。バランスを崩したさつきへ向かってまったく出鱈目な方向から短剣が飛来する。しかし方向は出鱈目でも狙いは正確無比。分厚い装甲部分ではなく関節目掛け、一斉にではなく断続的に、不可避のタイミングを緻密に計りきった投擲術。生涯を通して磨き続けた殺しの業に間違いはない。
 故に間違っているのは、さつきの能力だった。
「えぇーーーーい!」
「!?」
 ただ手足を振り回しているだけ。そうとしか見えないのに、なのにそれがハサンの短剣を余すことなく撃墜していく。先程までの遊び半分の投擲ではない、本気で放ったものを、だ。
 戦い方は無茶苦茶だが、地力は自分より上……ハサンは即座にそう判断した。これが己の力に誇りを持つ英雄豪傑なら、強化服を着込んだ吸血鬼とは言え相手はただの小娘と侮り、驕りもしただろう。だが、ハサンは違う。
 ハサン・サッバーハ。教義のためなら親だろうと子だろうと殺すと伝えられている、生粋の暗殺者。その伝説が故に、彼の身は決して英雄に非ず。英雄の誇りなど知り得ない。相手を侮ることも、自らの力を驕る事も知らない。知っているのは自分の限界、重要なのは相手の見極め。こと冷静さにおいてハサンに並ぶ“英霊”はありえないだろう。

 そう――“英霊”――



「や、やっぱり! あいつ英霊ですよ!」
 さつきとハサンが静かな戦いを繰り広げている一方で、ななこは自分の想像は間違っていなかったのだと喚き、慌てていた。「これは大変な事態ですよぅ〜」と漏らしている。
「はぁ? 英霊……って、なんだ? お前と同じようなやつか?」
「分類的にはわたしみたいな精霊に近いと言えなくもないんですけど……英霊っていうのは読んで字の如し、英雄の霊のことです。え、と。わかりやすく言っちゃえば生前に英雄と呼ばれるような功績を残した人間が死後なるものだって考えてください」
 わかったようなわからないような……しかし横を見ると一子も影山も今のななこの説明は理解出来ているようなので、取り敢えず有彦も頷いておいた。
「あいつは……英霊と言うより亡霊に近いみたいですけどそれでも危険極まりない相手なんですよ……」
 霊格が同等であっても、ななこはあくまで道具だ。使い手がいなければ無用の長物もいいところで、こうして危険性を訴えることくらいしか出来ない。
「でも、なんでそんな英雄のオバケ様が俺達を殺しに来てんだ?」
「うー……な、なんででしょう?」
 有彦のもっともな質問に、ななこも首を傾げる。
 英霊は人間の守護者だ。確かにハサンは反英雄――悪行をもって善を明確にする――で、正英雄とは真逆の存在と言えるが、それでも英霊ともあろう存在が何故にこの人類の窮地にあってわざわざ人間の邪魔をしに現れたのか。
 と、そこで二人に割って入ったのは影山だった。
「理由はわからないが、英霊は人類の敵に回ったらしい。既に何件か、明確な敵対行動の報告がきている」
「かー! ったく、英雄様なら人間を救ってみせろってんだ!」
 有彦が大声で悪態をつくが、それでノコノコ出てくるハサンではあるまい。
 一方、青ざめた顔で戦いを見つめるななこを横目に、一子は険のある顔で煙を吐くと、携帯灰皿にまだ長さの残る煙草を乱暴に押しつけた。
「あの髑髏、ハサン・サッバーハって名乗ったね」
「え? あ、は、はい。ハサン・サッバーハはイスラムのイスマイル派という宗派の中でも過激派の頭首で、彼らの派閥は――」
「暗殺教団」
「ふぇ?」
 蘊蓄に割り込んだのをポカンと見つめるななこをよそに、一子は語り始めた。
「アサシン教、またはそのままハサン教なんて呼ばれ方もしている。現在のイラン北部、アラムートを拠点として活動した過激派だとあのマルコ・ポーロなんかも書き残してる。麻薬漬けにした信徒を使い、自分達と敵対する宗派の頭首などを中心に延々と暗殺を続けたとされる外道……だろ?」
「そ、そうです! ……ふぇー、一子さんよく知ってますねぇ」
「昔仕事で少し調べたことがあるんだよ」
 仕事、と言うが有彦が知る限り一子は一年ごとに職種を変えているし、そもそも何の仕事をしていたのか、またしているのかを弟の有彦にさえ一度として明かしたことがない。ジャーナリストか、それとも歴史書の編纂でもやっていたのだろうか。もっとも尋ねたところで答えてくれる一子ではないのだが。
「あたしは精霊だとか英霊だとか、化け物のことも弟の女友達が仮面かぶって化け物と戦ってるのもワケわかんないけどさ。でも、アイツは……あの髑髏野郎はやばいんじゃないかい?」
 何も事情を知らない者の直感で呟いて、一子はさつきを見た。ハサンは何処へ潜んでいるものか、相変わらず姿は見えない。ただ散発的に短剣がさつき目掛けて飛来している。
「イヤな戦い方だ……ゾッとする」
 姿も見せずに、それを卑怯だから嫌だとか言っているわけではない。戦いに関して一子は素人もいいところだが、そんな素人の目にも明らかに二人には差がある。
 攻撃力も、防御力も、おそらくは速度でだって勝っているのはさつきではないかと思う。でなければハサンももう少し遊ぶはずだ。あの髑髏面は、姿を現した当初は高揚し、冷静さを欠いていたようにも見えた。なのに今、こんなにも冷たく的確にさつきを攻めているのは、彼女の力を認めたからだろう。
 相手の能力を認めた上で、瞬時に己を押し殺し、切り替え、卑怯と罵られても仕方ないような戦法さえ平気でとることが出来る。いかに地力で勝ろうとも、さつきのような少女がそんな相手に勝てるとは到底思えなかった。
「チッ! 影山さん、俺達、何か出来ねぇのか?」
「さっきからハサンの位置を探ろうとしてるんだが……無理だ。何処にいるのかサッパリわからない」
 無論、有彦や影山が手を出せるような次元ではない。
「ななこ、お前は見えねぇか?」
「うー……無理ですよぅ。かといって気配も完全に遮断されてるし」
「ったく、役に立たねぇ精霊様だな……」
「んなっ!? 酷すぎますよ!」
 この期に及んでギャーギャー騒ぐ有彦とななこは放っておいて、一子は再びマルボロライトを一本取り出すと慣れた手つきで先端に火を灯し、じっくりと腰を据えて戦闘を見つめた。
 視力にはそれなりに自信がある。有彦も悪くはないはずだし、影山とて特殊部隊所属なのだからその辺も鍛えてあるだろう。ななこは……正直よくわからないが、通常の人間よりかは上なのでないかと思う。
 なのに見えない。髑髏面――ハサンの動きを、実際に戦っているさつきも含めて全員が視認出来ないなど、果たして本当に有り得るのだろうか? 有り得るとしたら、それはどれほどの速度だ?
「やあぁあッ!」
 再び飛んできた短剣をさつきが撃墜する。そうやって物影からまるでスナイパーのように投擲したかと思えば、
「ッ! もおーっ!」
 まったく別位置の、やはり物影からさらに投擲される。
 不意に、一子はもう一度さつきとハサンがやり合っている一帯をグルリと簡単にだが見回してみた。ここからでは確認出来ない場所もあるが、これは、おそらく……
「……なぁ、有彦。ななちゃん、それに影山さんも」
「あ?」
「ふぇ?」
「?」
 銜え煙草の口が、ニヤリと歪む。
「あたしに考えがあるんだ。ちょっと、耳貸してくれないか?」
 煙が愉しそうに揺らいでいた。





◆    ◆    ◆






 自分を狙って飛来する短剣を果たしてどのくらい叩き落としただろうか。少なくとも、三十は撃墜したはずだ。
 人間だった頃よりも遥かに発達した視覚、聴覚、さらにギアに内蔵されている各種センサーをフル稼動させ、さつきはハサンの動きを捉えようとしていた。だがわからない。そこまでしても聞こえてくるのは短剣が空を裂く音くらいで、その瞬間そちらを向いても既に投擲主の姿は影も形もない。
 物影を利用し、視界から微妙に外れた位置を高速で移動しているのかとも思ったが、果たしてそんな単純な事だろうか? 第一人間が移動するには窮屈な箇所も周囲には多分にある。
 どうしよう。
 さつきは考えた。こんな時、シオンならどうするだろう。シエルなら、秋葉なら、アルクェイドならどうするだろう。
 そして、志貴ならどうするだろう。
 遠野志貴。
 圧倒的な異能を持ちつつも、彼の肉体能力はあくまで人間のそれ。シエルのように鍛え抜かれているのとも、アルクェイドのような超越種とも、それどころか自分のような吸血鬼とも異なる普通の人間。
 そんな普通の人間が、アルクェイドを救った。シエルを救った。秋葉を、シオンを救い――さつきの事も、救ってくれた。
 さつきにとってのヒーローは――幼い頃に仮面ライダーや、テレビの向こうの正義の味方達に抱いていた憧れは、今やその対象を志貴へと移していた。忘れもしない中学二年の時、体育倉庫に閉じ込められていたところを助けられて以来、志貴はずっとさつきのヒーローだった。
「あぅっ!」
 飛んできた短剣に思考を中断される。
 向かって右側、崩れた塀と電柱によって生じた物影からの投擲。無論、ハサンは既にそこにはいない。確かに影にはなっているが、あの髑髏面が全身を隠すにはそこは狭すぎる。
 どこだ? どこからくる? どこから狙っている?
 折れそうになる心を奮い立たせ、さつきは何度目になるか、周囲を隙間無く見回した。



 必死に自分を探しているさつきを眺めながら、ハサンは残った短剣の数を確認し、決着をつけるための準備を始めた。少女は投擲では倒せない。今少し接近し、自分の持つ必殺の宝具の射程内に捉え一撃で完殺する必要がある。ハサンの宝具は直接攻撃用にしては長い射程を誇っているが、それでも十メートルは離れているこの距離では届かない。
 さつきが装着しているスーツの呪的防御、耐魔兵装がどれだけのものかは知らないが、自分の宝具は単純な耐魔では防ぎきれず、防ぎきれるだけの特殊兵装をそうそう簡単に作れるはずもない。出来れば通用するか否かを一度試してから本番……と洒落込みたいところだが、宝具の射程内に入ればさつきの身体能力なら容易くハサンを捕らえ、粉砕可能だろう。よって二度目は無い。
 宝具の通用如何を除けば、勝利への布石は完璧だった。散発的な短剣投擲によって遠距離攻撃手段はそれしかないと思い込ませ、さらに自分を見つけられない焦燥からさつきは心身ともに疲れ切っている。単純な手だが、戦士ではない少女の心はいかにもこのような戦闘には向いていない。そのため単純であればあるほど効果がある事を考慮出来ないハサンではなかった。事実、さつきは単純すぎる自分の移動法も見破ってはいない。
 さらに、
(……その上で)
 少女の仲間、三人の人間を、狙う。
 残る短剣は六本。うち三本を人間達へ投げつけ、さつきの注意がそちらに逸れた隙を突く。暗殺者の仕事に慎重すぎると言うことはない。二重三重、そこまでして自分の奥の手である宝具から相手の意識を逸らして、ようやく必殺。
 ザバーニーヤ。
 ハサン・サッバーハ達が持つ宝具は、いずれもこの名を冠する。しかし効果は全て異なり、このハサンのザバーニーヤ――妄想心音――は標的と反響し合う鏡像を作りだし、その心臓をえぐることで相手の耐魔力などを無視して死に至らしめることが出来る単純にして凶悪な呪いの手だ。
 ゆっくりと短剣を構え、ハサンは仮面の下でほくそ笑んだ。仮面同士の戦いも、短かったがこれで終幕だ。
 強い相手だった。敬意を表すべきだろう。
 勝利へのシナリオを完成させるべく、ハサンは有彦達三人へと視線を移した。移して――
「!?」
 予想外の光景に、投げるのを躊躇した。
 影山がマシンガンブレードを構えている。いや、構えているのはいい。見えない敵を警戒するのは当然で、むしろ構えていない方がおかしいだろう。
 だが、
「弓塚、飛べぇッ!」
「え? えぇ!?」
 マズルフラッシュ。さつきが咄嗟に上空へ飛び上がり、影山がありったけの弾丸をさっきまでさつきがいた周辺へとばらまく。
 とは言えハサンの居場所がわかったわけではないのか、出鱈目だ。何も狙ってはいない。
(笑止! このような手でいぶりだそうと言うのか!?)
 ハサンは思わず失笑しそうになるのを堪えた。
 なるほど。魔術処理、もしくは洗礼がなされた弾丸なら、英霊よりも亡霊に近い自分のような低級には充分にダメージを与えられる。あの弾丸が直撃したなら自分は倒されてしまうかも知れないが、それで無闇に飛び出す愚を犯すようなハサンだと連中は思っているのだろうか?
(舐めているにも程がある)
 人間達を攻撃するのはさつきの注意を向けるのが目的、別にこの一投で殺すつもりもなかったのだが、気が変わった。どちらにせよ自分が殺すか、レギオン共にやられてORTの養分と化すかの違いしかないのだ。この程度の策で自分をどうにかしようなどと、その暗愚、死をもって正してやろう。
 大量の埃やコンクリート片が舞う中、ハサンは正確に有彦達の急所へと狙いを定めた。砂漠の砂嵐の中でも標的を外さない腕に加えて自分には風除けの加護もある。
 風除けはハサンが知る唯一の魔術であり、嵐と、風に舞う障害物とを除けてくれる呪いだ。よってハサンにとってこの程度の粉塵は意味を為さない。砂漠を旅する者に必須のこの術は、無論瞬間的に発動する類のものではなく常時発動だ。使用に必要な魔力もよっぽどでなければ気付かれないくらい微量。物影から物影へと、改造された肉体を駆使し、まるで蜘蛛のような、人に非ざる動きでもって高速移動していたハサンが埃一つたてなかったのもこの術に依るものだった。
 一緒にいる精霊は無視しても構うまい。見たところ道具憑きの類か……単体では脅威は無いだろう。
(ではさらばだ、愚か者共め)
 ハサンが軽く手を振ると、暴風――ジン――を除けるための呪いによって前方の視界が開ける。その開けた視界の先に――
「ッ!?」
 ――こちらを向く、銃口があった。





◆    ◆    ◆






「埃?」
「そう、埃」
 考えがあると言った一子は、そう言って地面を軽く叩いた。軽く砂埃がたつ。続けて擦ってみると、やはり埃が巻きあがった。
「建物は崩れるわ道路は割れるわで、凄い埃と塵だ」
「そりゃスゲェけどよ……それがなんだって――」
「有彦、あんたここで全力疾走とかしたらどうなると思う?」
 どうにも意図は読めないが、姉がこんな物言いをする時は何かしら意味がある。有彦は僅かに逡巡すると、
「まぁ、埃がひどいわな」
 そう答えた。当たり前だ。その当たり前すぎる返答に満足げに頷くと、一子はさつきが立っている辺りを顎でしゃくってみせた。
「武術の達人がさ、音も立てずに高速移動ってのは昔見たことがあるよ。でもこの辺りを埃一つあげずに高速移動……しかもゴチャゴチャして窮屈な物影をだなんて、信じられるかい?」
 何度となく一子は考え直してみたが、どれだけ速度があろうとも残像さえ残さず移動なんてのはおかしすぎる。見える場所を移動しているのなら影くらい見えるはずだ。姿を消す術のようなものがあるとも考えられたが、それならわざわざあのような黒尽くめの出で立ちでいる必要がないはずである。それらを統合すると、ハサンが移動しているのはやはり物影ということになる。
 しかし普通に考えれば辺りは人間が移動するには窮屈な箇所も多い。だがハサンの化け物じみた肉体を思い出し、一子はまるで蜘蛛か蜥蜴、もしくはサーカスの曲芸のように小さな隙間をくぐりながら移動しているのではないかと考えてみた。
 完全に姿も気配も消せるのならもっと早くに後ろからバッサリとやれていたはず。なら、やはり影から影へと移動してタイミングを伺っているのだ。
 そこで最後に立ち塞がった疑問が、埃だった。
「影から影へと高速で移動してるんだとして、それにしては土煙をあげるどころか埃一つ無く綺麗すぎる」
 音を消し、気配を消し、蜘蛛か蜥蜴のように這いずり、高速で移動しながらしかし埃さえ巻き起こさない。ならば消しているのは姿ではなく、移動の痕跡ではないのか。
「それで、だ。……影山さん、なるたけ広範囲に弾をばらまいてみてくれないか?」
 マシンガンの掃射で生じる粉塵。もし、その中に綺麗な空間が生じるようなことがあれば――そこに、ハサンはいる。





◆    ◆    ◆






「うぉぉおおおおおおお!」
 影山が叫びながらさらにマシンガンブレードを撃ちまくる。弾丸の雨霰によってハサンの潜んでいた物影は粉砕され、流石の暗殺者も飛び出していた。
「今だ弓塚ぁッ!」
「あ……うんっ!」
 こうなっては姿を隠す暇もない。
「こぉっ!?」
 さつきの脚が宙を蹴り、ハサン目掛けて急降下してくる。迎撃は到底間に合うものではない、ならば回避に専念するだけだ。ハサンは飛び退ろうとして、
「逃がすか!」
 影山のマシンガンがそれを妨害する。
「キッ、邪魔をッ!」
「うぁっ!」
 投擲。短剣が影山の肩と太股に突き刺さり、倒れ伏す。だがハサンがさつきを回避するには、手遅れだった。
「やあああああああああっ!」
「ぐ、ぶうぅっ」
 頭から突っ込んできたさつきの拳がハサンの土手っ腹にめり込む。めり込んだ状態で、
「ごぼァっ!?」
 さつきは拳を開き、捻った。気が狂いそうになるほどの激痛がハサンを襲う。さつきはハサンの腹に指を食い込ませ、肉を直接掴んだ状態で暗殺者の細い身体を高々と持ち上げると、思いきり地面へ叩き付けていた。
「……ッ! ……ッ、ッッ!」
 悲鳴にすらならぬ呻きがハサンの口から漏れる。トドメとばかりにさつきは両腕を振り上げたが、ハサンはなりふり構わずその異様に長い手足を振り回した。
「ふっく、ク、クカァーッッ!」
 切り札である右腕をまるで鈍器のように叩き付けようとする。それが正しい用法であるかのように、しかし実際に当てはしない、右腕の価値を悟らせないのが肝要。
 がむしゃらな動きにさつきが怯んだ隙に、ハサンは左手で彼女の頭部を鷲掴みにした。細身ながらハサンは見た目以上の筋力の持ち主だ。このままさつきのお株を奪うかのように投げつけ、一旦距離を取る。距離を取ってザバーニーヤを放つタイミングを計る。
「がァッ!」
 渾身の力を込め、髑髏が吼えた。遠心力を利用し、長い手を振り子のようにしてさつきを頭上に掲げ、そのまま地面へと――
「弓塚ァッ!」
「ぐ、がッ?」
 叩き付ける寸前、痩躯を襲ったのは無数の弾丸。
「おぉりゃああああああ!」
「あ、有彦さん無茶はダメですよぉ!?」
 傷つき倒れた影山のマシンガンブレードを腕にはめ、有彦が猛然とトリガーを引き続けている。銃を撃つなんて無論初めてだ。エアガンでサバゲーみたいなことはしたことがある……が、所詮その程度。夜店の射的で狙った景品を取れた事も何度あったか。
 なのに有彦はぶっ放していた。
 さつきの身体が高々と持ち上げられていたのはありがたかった。銃口を気持ち下に向け、ハサンの足下を狙い撃てばさつきを誤射してしまう可能性は極端に減る。さらにこのマシンガンブレード、反動が少ないので素人でもわりと扱いやすい。
「こ、のッ!」
 髑髏面がワナワナと震える。弾丸は数発が足下を掠めたくらいでダメージなど皆無。だが、掲げられたさつきが逆襲に転じるにはそれでも充分すぎた。
「ギ、ギギ、グググガァッ!?」
 自分の頭をアイアンクローで締め付けていたハサンの腕を、今度はさつきが握り締めていた。握り潰さんばかりに、ライダー・ギアによって強化された吸血鬼の筋力が英霊の細腕を締め上げる。
 力が弛み、さつきはハサンの拘束から逃れると、その左腕を掴んだままジャイアントスイングのように凄まじい勢いで振り回した。
「うぅぅ……」
「ガ、ガ、ガ……ッ」
「うあぁぁぁああああああッ!」
 まるで竜巻のように。しかしこの暴風はいかな風除けの加護でも除けきれない。
 さつきが手を放す。
 ハサンの身体はハンマー投げのように宙を舞い、
「ゴガッ!」
 二十メートル近くも離れた瓦礫に激突して沈黙した。
「……た、倒したのか?」
 残弾ゼロのマシンガンブレードを外し、有彦が呟く。隣のななこへと向き直ってみたが、彼女は難しい顔をしたまま、地面に横たわるハサンを見ていた。
「おい、弓塚――」
「乾くん」
 ゆっくりとハサンへ近付きながら、さつきは振り返りもせずに有彦を呼んだ。ダメージ自体は少なそうだが、蓄積した疲労は相当なものなのだろう。足取りは重い。
「……ありがとう。おかげで、助かっちゃった」
「お、おう」
 そのまま、ハサンまで五メートルくらいの位置で立ち止まり、スッと腰を落とす。凶暴な力を、溜め込むかのように。
「少し、離れててね。お願い。もうちょっとだけ、待ってて」
 離れなければならないと、有彦は思った。ななこと一緒に、無言のまま後退る。
 有彦達が離れてくれたのを確認すると、さつきはベルトのバックルを右手の人差し指で軽く押した。

 ――Exceed charge――

 フォトンストリームが全身を流れ、やがてさつきの右足へと膨大な量のエネルギーが収束していく。
 さつきは仮面ライダーの雄姿を思い描き、グッと両拳を握った。

 ――“ユミヅカ・サツキ”、英霊ヲ、殺セ――

 ネビュラが殺意に訴えかける。しかしさつきはそれに対しゆっくりと心中で首を横に振った。必要なのは、殺意ではない。
 出来る。
 自分には……今の自分になら、出来るはず。
 そう信じて、後ろにいる有彦やななこ達、そして次にさつきは大好きな青年の顔を思い浮かべていた。
 大好きな、本当に大好きなさつきのヒーロー。彼は何度もさつきを助けてくれたから――だから、今度は……



 勝機到来。
 ボロボロの身体を横たえたまま、ハサンは髑髏の仮面の下でほくそ笑んでいた。何か大技を放つつもりなのだろう、五メートルくらい離れた位置で仮面ライダーは静止していた。
 射程内だ。完璧に、ザバーニーヤの。
 ハサンの微弱な魔力が右腕へと収束していく。微弱ながらもそのあまりに禍々しい魔力は死の呪いそのもの。悪魔の右腕が布を引き千切り、その鎌首をもたげる。
 先手必勝。ハサンは素早く起き上がると、今の今まで布の中に折り畳まれていた長大な右腕を展開していた。
 死神の、否、悪魔の翼が羽ばたくかのように。
 届く。完全に届く。届いたが最後、さつきの心臓はえぐり出され、握り潰される。
 奇腕が伸ばされる。
 仮面ライダーはまだ動かない。倒したと思っていた敵の復活と、怪異な攻撃に動転したのだろうか? ……どうでもいい。もはやこの距離、このタイミングでハサンの妄想心音は回避不可能。
「殺ったぞ!」
 今、まさにザバーニーヤがさつきの胸へと達さんとしたその時、
「……な、なんだ?」
 ハサンはとても美しい光景を見た気がした。
 温かな日射しの下で、草は生い茂り、花は咲き乱れるあまりにも美しい世界。砂の世界で穴蔵に籠もり、汚く卑しい仕事に従事していた自分とはかけ離れた、楽園。
 一瞬の出来事だった。
 楽園に風が吹いたような気がした。
 その風に、必殺のザバーニーヤは全ての力を奪われた。



「キ、キキ、ギ、ギゴギョオォゥゥオオオオオオオッ!」
 生物として有り得ない叫びが髑髏から止め処なく漏れ出す。
 さつきへと伸ばされた奇腕はまるで枯れ枝のように地面に落ち、ハサンが藻掻くたびにカサカサと寒々しい音をたてた。
 暗殺者の全身から、生気が、力が抜け落ちていく。
 渇き、ひび割れた大地。
 枯れた草木、吹き荒ぶ風に舞う枯葉。
 荒涼とした世界。生命の息吹を感じさせない、枯れ、乾ききった、永遠に満たされることのない絶望の地平。
「な、なん、だ……なんなのだ、この、セカイは……?」
 全身から急速に魔力を奪われ、痩躯をさらに細くしたハサンは残る力を振り絞って立ち上がりさつきを睨み据えた。
 大地に落ちた右腕を持ち上げる余力はもう無い。そもそもあれは悪魔の右腕、呪われた魔力の塊だ。あらゆる魔力を枯渇させるこの世界においては致命的だった。
 そう、枯渇。
「……枯渇、庭園」
 弓塚さつきの満たされない想いが、化け物へと成り果ててしまった絶望が、哀惜が、慟哭が生み出した心象。……その、世界。
「固有結界……って言うんだよね。シオンに教えてもらったけど」
「こ、固有結界、だと?」
 完全な想定外。少女の化け物としての力、異能はハサンの読みをさらに数段上回っていた。
「射程も短いし、持続時間も短いから……ほんとに、奥の手」
 吸血鬼としての驚異的な肉体スペック。
 二十七祖、ヴァン=フェムより与えられたライダー・ギア。
 そして固有結界『枯渇庭園』。
「……キ、キキ……キキキキキ……」
 ハサンは嗤った。蟲の羽音のように喧しく、生命の息吹を感じさせない世界の真ん中で、嗤うしかなかった。
 さつきが、跳ぶ。
 右足に収束したエネルギーはほとんど物理的なもの、通常なら英霊を倒しきることは不可能だが、今のハサンは霊的存在としては絞り滓も同然だ。残っているのは黒い姫君との契約の際に用いられた彼女の血の縛り。偽りの肉体のみ。
「ライダーーーーーッ」
 さつきの身体が空中でクルリと前転する。
 左足を引き、右足を突き出した跳び蹴りの体勢。
 単純な攻撃だ。なんとも単純な攻撃だ。ハサンは必死に回避を試みた。避けきれずとも、致命傷だけは――
 世界が白く染まる。
 固有結界『枯渇庭園』は短時間しか持続出来ないというさつきの言葉通りに早くも消え去ろうとしていた。
 変わりゆく世界の狭間を、引き絞られた大弓から放たれた矢のようにさつきの身体が突き進んでいく。
「キィィーーーーーーック!!」



「……すっげ」
 有彦達の見ている先で、さつきの放った跳び蹴り――彼女曰くのライダーキックは着弾地点にあった瓦礫やら何やらを滅茶苦茶に粉砕していた。レギオンに喰らわせた攻撃よりも数段上の破壊力。こんなものまともに命中したなら助かるはずもない。
 宙を舞う瓦礫に小さな白い面が混じっているのを有彦は見た。
 髑髏の面だ。
「今度こそやった、のか?」
「ど、どうでしょう?」
 辺りは先程マシンガンで巻き上げた粉塵の比ではない。これはもう爆心地とでも言った方が近いかもしれなかった。
 土煙の向こうに、佇むさつきの背中が見えた。まだライダー・ギアは纏ったまま、油断無く爆心地の中心を睨んでいる。
 そこに、
「ギ、ギギギ」
 ハサンはまだ、生きていた。
「なんつーしつこい野郎だ」
 呆れたように有彦が呟く。だがハサンは左半身を砕かれ、右腕も半ばから千切れ、まさに息も絶え絶えの満身創痍。生きているとは言ってももはや死に体同然だ。
「ギギ……決して、侮ったつもりは……無かった……驕ったつもりも、無かった……」
 麻薬――ハシシ――を吸いながら、暗殺者は呼気荒く言葉を紡いだ。肘のあたりで千切れた悪魔の右腕を使って、必死に仮面のない素顔を隠そうとしながら。
「……キサマの力を、見誤った……我が、不覚……」
 薬の効果で無理矢理に痛みを消し、ハサンは立ち上がった。治癒能力すらない半端者、名のある英霊達と比べなんと無様なことか。だがだからこそここで誇りを抱いて死ぬこともない。
「……仮面の、キサマ。名は、何と言う?」
 用を為さなくなった左足は無視し、右足一本で後方、廃屋の上へと飛びながらハサンはさつきへと問うた。逃げようとする彼を、さつきは追撃するつもりはないようだった。実際には、彼女も余力は無い。マシンガンブレードを振り回して「俺がトドメを!」と騒いでいる有彦はななこに羽交い締めにされている。
 必死に顔を――鼻も唇も、皮さえも削ぎ落とした顔を――隠そうとしているハサンを真っ向から睨め上げ、さつきは答えた。
「弓塚、さつき。……仮面ライダー、だよ」
 少しだけ、力強く。誇らしげに。
「……仮面ライダー……サツキ……次は、殺す」
 少女の眩しさから目を背けるかのように、ハサンは闇に消えた。
 暗殺者が消えた廃墟を見つめるさつきの変身が解除されていく。そこにいたのはやっぱりどこからどう見ても弓塚さつきで、有彦は妙に安心して胸を撫で下ろしていた。
「仮面ライダーつっても、さっちんはさっちんだよな」
「? どうしたんですか有彦さん。珍しく真面目な顔して」
「うっせぇダメオバケ。てめぇ今回何の役にも立ってねぇじゃねぇか」
 痛いところを突かれ、ななこはあらぬ方向を向いて口笛を吹き始めた。が、ほとんど笛になっていない。空気の漏れる音がスピースピーと漏れるばかりだ。
「……吹けねぇなら無理すんなよ」
「……はい、すみません」
 などといつも通りのやり取りをしていると、影山を抱き起こした一子が二人と、そしてさつきを呼んでいた。いつまでもこんな所にとどまってはいられない。大至急本隊と合流し、この魔都から抜け出さなければまたレギオンや英霊に襲われる可能性もある。
 不意に、一子のもとへと行こうとしたさつきの視界の端に白い髑髏の仮面が映った。地面に転がるそれと、自分の腰に巻かれたベルトを一瞬見比べ、そしてさつきは駆け出していた。





◆    ◆    ◆







「む、どうしたのだシオン。君らしくもない。それにアキハ君は病み上がりの身だぞ?」
「そ、それは……すいませんでした、秋葉。それに……」
 再び志貴とシオンの視線が交差する。久しぶりの再会だった。積もる話は幾らでもある。互いに聞きたいこと、言いたいこと、考えたらきりがない。が、しかし、
「……久しぶりですね、志貴。元気そうで、何より」
「ああ、そっちこそな、シオン」
 そうとだけ言い交わして、シオンはヴァン=フェムへと向き直っていた。今は、再会を喜び合う場面ではない。元より暫くは彼と会うつもりはなかったのだ。この再会は予定外のこと。
 秋葉と翡翠は複雑な顔をしていたが、優先すべき事象を違えてしまうようでは錬金術師の名折れだ。志貴の前で無様を晒したくないと言う気持ちも、シオン自身は認めたくはなかったが少なからずある。この人類存亡の危急において、自分が何を為すべきか。シオンは正しく理解しているつもりだった。
「それで、何があったのかね?」
 シオンの言動から、余程のことであることは察するに難くない。
 ヴァン=フェムからの問いにシオンは軽く頷き、室内にいる全員の顔を見回した。この報告を受けた時、まるで冷水を頭からかけられたかのような思いがした。自分達は後手に回りすぎている。全ては、手遅れかも知れない。それでも、諦めるなんてしたくなはい。出来るはずもない。
 俯きかけていた顔を上げ、シオンはあくまで冷静に、つい今し方報告のあった事を読み上げた。先程までとは打って変わった渋面で、ヴァン=フェムはその内容に聞き入る。
「先程、冬木市から未確認の大型怪獣出現の報告があり、その直後、通信が完全に途絶えました」
 アイアンロックスの巨体が、揺れる。いや、揺れているのは自分達の心なのかも知れない。

 ――寒気を感じるのは鋼鉄の魔城内にいるからなのだ――

 シオンは、何度となく自分にそう言い聞かせていた。








〜to be Continued〜






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