episode-17
〜激震の冬木〜
Part 1 霧の中を走る



◆    ◆    ◆





 剣士の瞳は驚愕に見開かれていた。
 あまりにも突然。油断していたわけではない、ただ、自分も、そして相手も全身全霊をもって両者決着をつけんとこの戦いに挑み、そして剣士の剣がついに難敵を捉え――敵同士であっても互いを認め合う二人の死闘はそこで終わるはずだったのだ。
 なのに、だと言うのに……
「……お、おのれぇ……キ、サマッ!」
 つい今の今まで自分と激闘を繰り広げていた相手――この、たった二週間足らずの“戦争”において数度にわたり刃を交えたまさに好敵手と呼ぶに相応しい男――が、真っ赤な血と怨嗟の声を吐き出しつつ、唐突に現れた黄金の騎士を睨め上げていた。
 腹から生えた三本の槍と剣に支えられることでかろうじて立っていると言っても過言ではない『征服王』とも呼ばれた男の顔は、憎悪によって歪みに歪んでいる。
「ゴブッ……なんたる無粋ッ。これが、キサマの、王の矜持か!」
 征服王は剣士のことを認めていた。その腕、気概、信念に彩られた瞳の全てを認め、かつて世界に覇を称えんとした自分と剣を交えるに相応しく、またその結果どちらが勝利するとも恨み言を吐くつもりなど無かった。これ程の相手なら、仕方があるまいと――最強であることと不敗であることに拘り、生涯決して屈することなく、エジプトを征服し、ペルシャを滅ぼし、ソグディアナを手中におさめた王であったが、しかし同時に戦士としての高潔さも備えていたのが征服王という男だった。その高潔さが根底にあったればこそ、彼は王でありながら常に戦士として前戦に立ち続けたのだ。
 故に、剣士――騎士王――と認め合うことは出来ても、この黄金の英雄王を認めることはついぞ出来なかった。
 王であった。
 間違いなく王ではあったが、自分とは決して相容れない存在。マスター同士が同盟関係にあったとは言え、騎士王との決着の後には最後の勝者を決めるべくこの英雄王を見事打ち破って見せようと、その心算であったのだが……
「王の矜持? 莫迦を言え。よいか? 我が、我こそが最古にして唯一絶対の王だ。なぁ征服王よ……その我に王の矜持を説くなど烏滸がましいにも程があろう」
「ぐぶォオッ!」
 さらに数本。
 虚空より現出した剣が征服王の肉体を貫き、えぐる。
「き、貴様ァッ!」
 好敵手と認めた相手を嬲られ、激昂した剣士は思わず黄金の騎士へと飛びかかっていた。
 が、
「おまえはそこでもう少し待っていろ」
「クッ!」
 無数の武器が雨霰の魔弾と化して行く手を阻む。相対したのはこれで二度目だが、剣士には相手の正体が皆目見当もつかない。剣士が英雄王の真名を知ることになるのは、十年も後の話だ。
「我は最初から貴様の事など見てはおらぬ。我が欲しいのは騎士王よ、おまえだ。おまえこそ、我に相応しい」
「ぐぉおおおおおおおおっ!」
 征服王は無惨にもまるで標本のように地面へと縫いつけられていた。最後の力を振り絞り、宝具による逆転をはかるため必死に意識を集中させようようと試みたが、剣士によってつけられた傷がやはり深い。英雄王につけられた数多の傷よりも、よっぽど。
「ク、クククク、クハーーーハッハッハ!」
 それがおかしくて、征服王は笑った。
 笑いながら確信していた。英雄王は、剣士には――美しき騎士王には勝てない。必ず、敗北を喫するだろうと。王としてではなく、その戦士としての在り方故に英雄王は騎士王に勝てる道理がない。
「ふん、気でも触れたか。しかしその様……仮にも王であるのに哀れよな。どれ、ひと思いにとどめを刺してくれ――」
 言いかけた英雄王の頬が、僅かに斬り裂かれていた。見れば、六メートルはある長大な槍が征服王の右手から伸びている。
「フ、クックク。ゴ、ゴボッ、ゴブッ! あ、哀れなのはどちらだ、カビの生えた英雄王殿。いや、慢心王とでも呼べばいいかな?」
 征服王は再び盛大に笑った。血泡が口内で弾けゴブゴブと汚い音をたてたがかまうものか。笑いたい時にはこうして笑うものだ。あの頃も、全世界を手中におさめんと駆け抜けたあの頃もそうだった。一つの勝利をおさめるたびにこうして高らかに笑ったものだ。
 片や、今の今まで笑みを浮かべていた英雄王からは全ての表情が失われ、その目が怜悧に細められていた。
「――死ね」
 ただ一言、そう命じただけで数十、数百もの魔弾が征服王へと襲い掛かる。そして剣士は見た。
 笑いながら、縫い止められていた手足で強引に立ち上がり、針鼠と化していく征服王の姿を。あらゆる束縛から身を守る、立ち塞がる運命の悉くを自らの手で切り拓いてきた征服王の宝具『切り拓かれし運命(ゴルディオン・ノット)』と言えどもこうして剣や槍によって直接縫いつけられた状態までは無効化出来ない。だからこれは、意地だ。英雄王に鼻で笑われた偉大なる征服王の矜持が、彼を奮い立たせていた。
「イスカンダル!」
 剣士の叫びに征服王イスカンダルは僅かに振り向き、その顔には微笑さえ浮かべていた。彼女につけられた傷の熱さに比べれば、全身を隙間無く貫いた数多の宝具など物の数でもない。
 二週間足らずの生だったが、戦士としては満足のいく戦いを演じられたと思う。騎士王はまったく見事な敵だった。
 心残りなのは、やはり聖杯に届かなかったことか。これは素直にすまなかったと思う。マスター――遠坂時臣に。
 時臣は、良い男だった。マスターとして、魔術師として、とても優秀な男だった。ただ、父親としてだけは……不器用で、おそらくその点でどうしようもなく自分達は似ていたのではないかと征服王は思う。魔術師として優秀であるが故に父として子のために生きられなかった時臣と、偉大なる王であるが故に子のために生きられなかった自分と。そんなマスターとサーヴァントだったから、せめて聖杯に手を届かせてやりたかったのだが、ままならないものだ。
(せめて生き延びよ、我がマスター。生きて、娘のもとへ帰ってやるがいい)
 サーヴァントとして魔術師遠坂時臣に召喚され、第四回聖杯戦争をその名に恥じることなく雄々しく戦った征服王イスカンダルは最期にそう念じ、英雄王の恐るべき魔弾の前にもついぞ膝を折ることなく笑いながら消えていった。
 それとほぼ時を同じくして、マスター遠坂時臣が魔術の弟子であり同盟関係にあった言峰綺礼の手によって半ば騙し討ちに近い形で倒され、最期まで不器用に愛する娘達の名を呟きながら、無念の内に果てていったことなど知る由もなく。



「ふん。余興の分際で、存外にしぶとかったわ。……まぁ、いい。騎士王よ、今からが本番だ。我がおまえを屈服させ、この聖杯戦争という茶番劇はフィナーレとなろう」
 今の今までイスカンダルが仁王立ちしていた場所を無造作に踏みにじり、地面に突き立っていた宝具を引き抜くと、黄金の騎士はさもおかしそうに口の端を吊り上げていた。
「……アーチャー、貴様……貴様、だけはっ!」
 憤怒の形相で剣士が剣を――もっとも、彼女の剣は不可視なのだが――構える。
「ほぉ、いいぞ。我の力を目にした上でその気概、それでこそ手に入れ甲斐がある。間違いなく、おまえは聖杯以上の至宝だ」
「ぬかせぇっ!」
 疾風の如くに駆け抜ける剣士と、魔弾でもって迎え撃つ黄金の騎士。ぶつかり合う幾つもの金属音、刃の輝きが宵闇の中に明滅する。黄金の騎士――アーチャーにはまだ余裕があるようだったが、勢いは明らかに剣士の方に分があった。気迫が戦力の差を埋めていたと言っていい。
「ふ、ふはは! おもしろい! おもしろいぞ! ……だが、騎士王よ。今にもっとおもしろいことになる」
「なにを――」
 魔弾を連続で弾き、ついに懐にまで肉迫したその時、剣士はゾクリとまるで背筋が凍るような悪寒に襲われた。かつて、生前も命の危機を感じるような戦いは幾度もあったが、このようなことは初めてだ。言葉に言い表すことが出来ない。目の前の魔弾の射手は確かに口と態度だけではない、並の英霊とは格の違う相手のようだが、この怖気はまったく別のところからきている。
「まったく、茶番もいいところよな。まさか聖杯が、あのようなものであったとは……」
 訝しむ剣士の様相を愉しむかのように、アーチャーは殊更意味ありげに含んだ物言いをした。
「しかしこれもまた一興よ。地獄の業火が我らの戦いにさらなる彩りを添えてくれよう」
「ッ!?」
 魔弾の数と勢いが、増す。
 イスカンダルは彼を慢心王などと称したが、慢心するだけの能力があることは認めざるをえなかった。数百の魔弾、その一撃一撃がまさしく必殺、致命の威力をもっているのは一目瞭然だ。
 どういなし、どう斬り込むか。
 攻略法自体はイスカンダル相手と大差ない。懐にさえ飛び込んでしまえれば、自分の剣技なら妥当は可能だと剣士は判断していたし、その自信もあった。
 呼吸を整える。
 迫りくる魔弾――その一つ一つを正確に見極め、紙一重に体をずらすか手にした不可視の剣で弾きながら、静かに飛び込む瞬間を待った。
「どうした。避けるばかりが能ではあるまい?」
 挑発に傾ける耳やない。チャンスは、おそらく一度きりだ。相手にはまだつけいる隙がある。自分を格下と見て、渾身の撃は放っていない。だが一度……一撃を外してしまえば相手の慢心は今度こそ消え去るだろう。
「さぁどうした剣の騎士よ。最優たるその力、見せてみるがいい」
 余裕は崩れない。だが、まだだ。このままでは、勝機を掴む前にやがてジリ貧で――
 そこまで考え、なおも続く剣林槍雨を前に剣士はフッと顔を綻ばせると構えを緩めた。待ちに徹してどうなるものでもない。強敵を撃破するために打ち込む楔の一刀なれば、後手狙いであっても攻めの姿勢で向かうのが性分というものだ。
「先程から黙って聞いていれば、よくもまぁ動く口だ。てっきりアーチャーかと思っていたが……いや、どうも間違っていたようだ。汝は弓ではなく道化のサーヴァントか?」
 先程とは逆の、剣士からの明確な挑発。黄金の騎士が呆気に取られたような顔をする。そして――
「……フ、フフ、フハハハハハハ! よくぞ吼えた! それでこそ我が見初めた女よ! では、これならどうだ!?」
 爆発的に膨れ上がる魔力。
 これまでとは違う、数段上とみえる武器が次々と宙に現出していく。まともに受ければ数合で打ち負け、イスカンダルと同様に針鼠と化すだろう。だが、そこに最大の勝機がある。
「――征け」
 これまでで最大級の威力を秘めた一斉射が襲い来る。最大級だからこそ――アーチャーが見せた余裕もまたこれまでにない最大のものへと膨れ上がっていた。
 外すわけのない斉射。反撃などありえない必殺。
 全弾が剣士の小さな身体へと吸い込まれていくのを眺めながら、黄金の騎士は嗤う。五体満足のまま手に入れたかったとも思うが、手足の一本か二本は仕方があるまい。そこまでしなければ屈服させられない女だからこそ価値があるのだ。勝利の愉悦を感じながらアーチャーは自らの放った剣林槍雨の征く先に、
「ッ!?」
 我が目を、疑った。
 剣壁、槍襖の中央を閃光が疾っていた。
「うぉおおおおおおおおおおおっ!」
 猛りながら、閃光が疾駆する。
 何本かに体のあちこちを貫かれながら、剣士はただその一点のみに狙いを定めて駆けていた。鮮血にまみれた相貌はしかし気高く美しく、光の刃となってアーチャーの懐へと飛び込む。
 不可能なはずだった。どれだけの戦士であろうとも騎士英雄豪傑であろうとも、あの剣林槍雨を抜けるなど到底出来まいと……しかし見誤っていた。
 少女の如き外見に惑わされたか? 違う、そうではない。単純に彼女の力を量りかねていた事実にアーチャーの顔が紅潮する。
「お、のれぇ騎士王ッ!」
 しかし怨嗟の声がどのように響き渡ろうが、もはやこの閃光をかわしようも受けようも無い。

 ――勝った!! ――

 剣士はそう確信していた。認め合った好敵手を辱められた復讐を果たすとともに、聖杯を奪い合う戦争にも決着がつく。自分を除けばこのアーチャーが最後のサーヴァントだ。ならばこの一手、聖杯への王手に等しい。
 長かったのか、短かったのか。そもそも時間の感覚に置き換えるのが馬鹿馬鹿しいが、それでも聖杯に到達出来たという想い、深い達成感が全身を包んでいくのを感じる。
 ――ああ、これでようやく、自分は――
 幕引きの一撃。今、万感の想いを込めて……
 ……なのに、その瞬間――
「なっ」
 世界が、揺れていた。
 剣を振り下ろそうとしていた剣士を襲ったのは、凄まじい轟音と激しい震動だった。
「ハ、ハハ! 惜しかったな」
 アーチャーが飛びすさる。
「……始まったぞ。どうやらこの二週間で聖杯め、充分に“力”を得たようだな。クク……言峰め、ルール違反もいいところだろうに」
「アーチャー、どういう事だ!?」
 聖杯の名を出されては剣士も黙っていられない。震動によって崩れた体勢を立て直し、言意を問う。するとアーチャーは全ての武器をしまい、まるで戦いはもう終わりだとでも言うかのように剣士が立つのとは正反対の方角を見やった。
「どうもこうもない。この地の聖杯はまったく忌々しくも愉快なものであったという事よ。……さぁ、来るぞ騎士王」
「来る、だと……ッ!」
 重圧が剣士のか細い身体から自由を奪った。
 あまりにも重い。あまりにも昏い。あまりにも……怖ろしい。
「ふ、ふふふ、ふはは……よもや、よもやこのような……何たる事よ。破壊と簒奪、なんと怖ろしいモノを呼ぶ……いや、怖ろしいのはあのようなモノが存在しうるこの時代か!」
 アーチャーも気圧されているのがわかる。
 剣士は、無駄とわかりつつも身構えた。目の前の男も、征服王イスカンダルもその威圧感たるや常軌を逸していたが、今感じているこれはまるで次元が違う。まるで小波が大波に呑まれ砕けて消えるかのように、自分達英霊が放つ闘気などこの場から失せてしまっていた。
「世界の全てを手にした我さえも震えさせるか、破壊神め……!」



 海があったはずの、方角だった。
 間違えたわけではない。ただ、そう、理解するのに時間がかかりすぎただけだ。
 海から、山が出現したことに。
 黒い山が地鳴りを発する。耳を劈くような……魂をも凍り付かせ、砕け散らすかのような圧倒的な音、音、音――!
「このような光景、我も見たことがない! あらゆる神話を覗き見ても、ヒトが生まれてよりこの方このような獣が果たして現世に存在しえたか!?」
 心底愉快そうに、アーチャーが嗤う。
 ――竜か、とも思った。
 剣士は竜の血をひくとされる者、竜の強大さはそれこそ骨身に染みて理解しているつもりだ。が、目の前の黒い山は、伝説に名を残すあらゆる古竜を凌駕しているに違いないと、自然そう感じさせられていた。
 漆黒の魔獣が再び咆哮する。
 途端、青白い閃光が奔ったかと思うと市街地から爆音が響き、大きな火の手が上がっていた。
「……なんだ、コレは?」
 呆けたように、剣士は呟いていた。
 街が燃える。この二週間、自分が駆け回ってきた街が、爆炎に呑み込まれ、見る影もなく焼失していく。
「今頃は貴様のマスターも全てに気付いていよう。よもや言峰が負けるとも思わぬが……あちらとこちら、先に幕が引かれるのは果たしてどちらであろうな」
 アーチャーの周囲に再び数多の宝具が浮かぶ。
 先程の手はもう二度と通じまい。相手の警戒もだが、それ以上に自身がよく理解している。あの一度きりの特攻がしくじったことと、漆黒の破壊神の威容を前にしては放とうにも二度と放てる一撃ではない。しかし、それでも気力の全てが萎えきったわけではなかった。聖杯までもう少しで手が届くのだ。ならば貪欲になりもする。
 必死に思考を切り換え、剣士は黒い山を睨め上げた。
「答えろアーチャー! あの、あの化け物は何だ!? 貴様のマスターが聖杯を使って召喚したとでも言うのか!?」
「召喚? ……おもしろいことを言う。しかし言い得て妙ではある。少なくとも、アレは創造されたものではないからな。アレをよく見るが良い。たとえ聖杯が万能の釜と呼ばれようとも、世界の全てを焼き尽くせるだけの一個の生物を、果たして産み出せるか? もっとも、この地の聖杯が万能の釜かどうかはさておき……、クック。“あの聖杯”は呼んだだけ、それを召喚と呼ぶならばそれもよかろう。破壊と簒奪を行うにもっとも適した存在を呼んだに過ぎぬ……」
「……何を、言っている――」
「それよりも、あやつを見ていると血が騒がぬか?」
 アーチャーの表情が不敵に歪む。
「竜殺しを始め、怪物を討ち倒すは英雄の本懐。我とお前とであの化け物を屠るもまた一興ではないか?」
 本気とも冗談ともつかない言葉だったが、おそらく、剣士が一言やると答えればそのまま宝具の矛先を変えるくらいはするだろう。まったく、戯れているとしか言い様がない。
「世迷い言も大概にしろ、アーチャー。聖杯を手に入れるためなら私はアレを倒すだろう。だが物事には順序というものがある。あんなものの相手をするよりも、この場でまず討つべきは貴様だ」
 構えた剣が風を纏い、その風を裂いて眩いばかりの光が放たれる。講ずるべき手段も弄するべき策もない以上、もはやこの身一つ、一振りの剣に頼るのみだ。
「よくも言う。呆れかえるほどに見事よ。ならばいくぞ剣の騎士! 今度こそ我が軍門にくだるがいい、――セイバーッ!」
「アーチャーーーーーッ!!」
 剣士――セイバーが地を蹴って、疾駆する。
 炎に蹂躙される街を背景に、二人の王は互いの全てを懸けて勝敗を決するべく激突していた。
 この地、冬木で繰り広げられ続ける戦争――手に入れた者のあらゆる願いを叶えるとされる伝説の聖杯を奪い合う、始まりより数えて四度目のそれに、終止符を打つために。





◆    ◆    ◆





 ――そして、十年――





◆    ◆    ◆





 息苦しさに目の前が霞む。
 動悸が激しい。肉体はこんなにも酸素と水分、何よりも休息を必要としているのに、走る速度を落とすわけにはいかなかった。
 だから、走った。全力で。
「……ッふ、ハァ……ね、姉さん……」
 やはりこちらも息も絶え絶えに、後ろから呼び掛けてくる声に振り返ると、そこでは妹が大きな胸をリズミカルに上下させていた。何と言うか、この期に及んでムッとくる。
「……ッ……喋ってると、余計、苦しいわよ……」
 少しばかり語気荒く言い捨てて、凛はさらに速度を上げた。とは言え速度を上げても元から無いのでは妹――桜のように上下に激しく揺れるはずもない。
 汗で額に張り付いた前髪を手の甲で力任せに払い、凛はつい先日もこうやって全力疾走をしていたことを思い出していた。大空洞を抜けるために、二人のコスモスを抱えて。それでなくとも協会からゴジラ撃滅作戦への協力を頼まれてよりこの方多忙を極め、走り回ってばかりだったのが今回のこれは極めつけだ。
 何せ、すぐ数メートル先が見えない。
 もう歩き慣れた道。衛宮邸から柳洞寺へと続く道なのに、まるで知らない場所のようだ。異世界に紛れ込んだかのような感覚に、幼い頃読んだ童話を思い出す。あの頃の自分は、当たり前に不思議の国のアリスが好きだった。まだ父が生きていて、桜とも――魔術師の家系であることを除けば――普通のどこにでもいる姉妹だった頃の話だ。二人で絵本を取り合って、喧嘩して、泣きつかれて眠ってしまったなんて事もあった。
 しかしこの懐古は決して甘いだけのものではない。優しい心持ちで過去を偲ぶには、状況はあまりにも過酷だった。
 視界を埋め尽くした濃霧を掻き分けるように、思いっきり両腕を前後交互に振る。が、それでどうにかなってくれる霧ではない。まるで全身にまとわりつくかのように、濃度を増しつつある。



 冬木市全体をこの謎の霧が覆い始めたのは、つい三、四時間程も前のことだった。



 よく晴れた日の午前、衛宮邸の自分にあてがわれた部屋で協会へ提出する報告書をまとめていた凛がふと外を見ると、白い霧が立ち込め始めるところだった。その霧自体にはなんの魔力も感じなかったが、しかしただの霧だとは思えなかった。聖杯戦争を戦い抜いた者の勘が、そう告げていたと言って良い。
 そしてそれは事実として間違っていなかった。霧が出始めてから、多少の誤差はあってもほぼ一時間以内にあらゆる通信手段は使用不能となっていた。魔力を纏わない霧でありながら、魔術的通信手段すらも遮断するそれを前に凛とイリヤ、そして桜は頭を悩ませ、二手に分かれて町を見回ることにしたのが一時間前のこと。
 士郎にはその事については何も話していない。それ以前に、彼はセイバーとライダーを探して今日も朝早くから家を出ている。
 凛と桜、イリヤと彼女のメイドであるリーゼリットの二組が見て回ったところ、どうやら通信が遮断されただけではなく霧を抜けて外に出ることも、外から内に入ることも出来ないらしい。らしい、というのは出ようとして霧の奥へと向かった者が誰一人戻らなかったためだ。
 さらにこの霧は冬木市の周辺を隈無く覆っており、穴と思われる部分も見あたらない。
 そして、今から約二十分前。
 霧に覆われた町を見回り、その途中、凛と桜はそこで思いがけない人物と再会することとなったのだ。
 ――およそ考え得る、最悪のカタチで。



「……ッ! 桜、ストップ!」
 不意に、凛はまさしく本能的な危機感によって立ち止まっていた。数歩遅れて桜も急ブレーキをかけたが、目前に立ち込めるのは相変わらず白い濃霧だ。どうして姉が止めたのか桜は暫し訝しみ、そしてハッとなる。
 白い霧の合間合間に、時折何かが光っていた。さらに耳を澄ませばどことなく聞き覚えのある物騒な音が濃霧の中から断続的に鳴り響いている。
「姉さん、これ……雷?」
「そうみたいね。……霧と同じ、魔術的な気配は感じないけど」
 外界との出入りを遮断しているのはこれか、と凛は舌打ちした。自然現象として片付けるにはあまりにも不自然。自分達を追って背後から迫る人物のことを考慮しても、これは何かしら人為的なものが働いているに違いはない。
 そしてそれを裏付けるかのように、怜悧な声が二人へと投げかけられた。
「……賢明ですね。その先は、雷の巣だ」
 今来た方角へと向き直る。
 聖杯戦争の後、使ってしまった宝石の代わりにと用意しておいた急増の宝石をありったけ使ったというのに、やはりこの程度の時間を稼ぐのが精々だったかと凛は再び舌打ちした。このままでは今日だけで舌を打ちすぎて伸びてしまいそうだ。もっとも、たとえ僅かな時間でも稼げただけで驚異的な事ではあるのだが。
 普通の魔術師なら、例え技量自体が凛より勝っていたとしても逃げるという行為そのものが不可能だったろう。ただ、凛も、そして桜も知っていた。この相手の能力を。正面から対峙することの愚を。だから逃走もかろうじて可能だった。
 ……しかしそれ以上に、逃げたのは、会わせたくは――会わせるわけにはいかなかったからだ。
「よくも逃げたものと言いたいですが、ここまでですメイガス」
 ふと、凛は場違いな懐かしさを覚えた。
 以前に彼女と対峙した時も、このように呼ばれたものだ。
 メイガス。
 もうずっと、目の前の彼女からは「リン」としか呼ばれていなかったと言うのに、なんて懐かしい響きなのか。
 東京を脱出したシオン達からの連絡で、彼女が敵に回ったらしいことは知っていた。その事を士郎に告げようにも告げられぬまま数日が過ぎ、もしもの時は自分が決着をつけようと覚悟したつもりが、いざこうして向き合ってみると全ての感情が揺らぐ。
「ええ、わたしもそう思うわ」
 無駄とわかりつつもポケットの宝石へと手を添える。
 それにしても――思う。平和な日常を謳歌する彼女も可愛らしいが、やはり彼女は剣なのだ、と。嵐のような剣気を発する彼女の美しさは筆舌にし難い。まさに鬼気迫るものがある。
「さぁ、教えなさい」
 温度のない言葉とともに、莫大な剣気と風を纏い、凛の胸先へと見えない刃――インビジブル・エア――が突きつけられた。
「コスモスは、どこです?」
 姉の窮地に思わず桜が身を乗り出そうとしたが、凛は静かに片手のみを上げてそれを制すると、不敵に口の端を歪めた。
「ふんっ。いくらなんでも舐めすぎじゃない? 言うわけないじゃないの。それよりも……偉大なる騎士王様は一体いつから人さらいになり下がったのか教えて欲しいわね」
 表情に変化はなくとも、剣先が僅かに揺れたのを凛は確かに見た。そこに希望があるのだと思いたかったが――今の文句に想像以上に力を使ってしまったのか、喉がカラカラに渇いて潤そうにも唾の一滴も出ない。
「……ねえ、セイバー」
 絞り出すような凛の問いかけに、セイバーはやはりその顔色を変えることなく、冷たい剣のような輝きを瞳に宿したままだった。








〜to be Continued〜






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