episode-17
〜激震の冬木〜
Part 2 霧の中に雷鳴が轟く


◆    ◆    ◆






 もはや言葉を発する気力が尽きかけている。
 そもそも、これ以上言葉は何の意味も持たない。
 理解しつつも凛は何事かをセイバーへと投げかけようとした。漫画や小説ならそこで自分達との友情を思い出し、せめてこの場は見逃してくれるような展開こそがセオリーなのだろうが……正直、望めまい。運命はお約束を嫌う。最悪の事態に最悪の展開が最悪の進行速度で突き進んでいく。……現実なんてそんなものだ。
 ならば――魔術でもって目の前の友人を打倒出来ないのなら、遠坂凛という小娘に出来ることと言えば小賢しい知恵を弄してなんとか相手を出し抜くことくらいだ。しかしその知恵も枯渇しかけている。手が思い浮かばない。絶望的に、逃げられない。
 数メートル先も見えないような悪視界の中、風王結界を解いたのかはっきりと見える剣の輝きに凛は嘆息した。あれの切れ味は知っているが、実際に斬られたらどんな感じがするのだろう。
 ……伝説の聖剣に斬られる、と言うのも非常に貴重な体験かも知れない。
 そんなくだらないことを考えていると、聖剣を構えたセイバーの表情が、霧の向こうで自嘲気味に歪んだ気がした。
「人さらい……そのように卑下されようとも何も言い返せない。それは認めましょう」
 霧の中で聖剣が揺らめく。
 相も変わらず美しい剣だ。見惚れてしまう。けれど今はその美しさこそが脅威だった。
「……が、それも詮無きこと」
「……詮無い、の一言で友人に斬り殺されるなんて真っ平ごめんなんだけど」
 ようやく出たのは結局ただの悪態だった。その悪態を敢えて無視しているのか、それとも歯牙にもかけていないのか。
「コスモスの居場所を吐かない、と言うのであれば」
 殺気が、頬を撫でる。
「どちらか一人残しさえすれば、問題はない」
 これが本当に自分達の知るセイバーなのかと、理解は出来ても認めたくはなかった。単なる脅しではあるまい。隣に立つ桜の顔は殺気にあてられたのか真っ青だ。
 無理もない。凛とて、今にも倒れそうなのを気力で踏み止まっているのだ。考えが浮かぶまで虚勢を張り続け、言葉巧みに時間を稼ぐしかない。何か、何か手はないか……
 聖杯戦争が終わって半年、たった半年でこんなにも人間の勘は鈍るのだろうか。あの戦いの時の自分であったならば、もっといくらでも小狡い手が思い浮かんだだろうに。それが凛には悔やまれてならなかった。或いは、士郎の馬鹿正直さに毒されすぎたのかも知れない。
「さぁ、どうしますかメイガス」
 最後通告のつもりか。
 もはやその手が一閃すれば、凛か桜、どちらかの首は呆気なく宙を舞うだろう。伝説の騎士王の斬撃を防ぐすべなんてない、死は死として容赦なくこの身にふりかかる。
 ならばせめて、と。
「ほぅ」
 凛は、桜の前へと一歩進み出た。
「姉さ――ッ」
「はぁ。ま、こうするっきゃないわよね」
 諦めたように。
 しかしポケットに突っ込んだままの手は悪足掻きさえ諦めたわけではなかった。こうなったら最後に一斉射を仕掛けてやる。効かなくたって構うものか。死して宝石だけ残しても無意味な以上、使い切って果ててやる。
 それに――
「愚かな。その手にした宝石が神話級の魔力を秘めてでもいない限り私の防御を貫くことなど出来はしない」
「ふん、どうかしら。慢心してると足もとすくわれるわよ? どっかの金ピカみたいに」
 貫くことが目的ではない。冬木を管理する魔術師として出来れば避けたかったが、全力で宝石の魔力を爆発させれば異常事態を家の中で見守っている近隣住民が飛び出してくるはずだ。神秘に関わる者達にとってその秘匿は最重要事項。セイバーとて事を大事にしたくはないはず。
「我が対魔の力、知らぬ貴女ではないはずだ……――リン」
 馬鹿馬鹿しいとでも言いたげに、そう吐き捨てたセイバーを凛は一瞬ポカンとなって見つめた。
 ――なんだ――
「……やっぱりあなた、セイバーだったんじゃない」
 呟きと、苦笑。
 そして爆ぜる、魔力は最大。
 後ろからも慣れた魔力の高まりを感じる。桜も合わせてくれたのだろう。姉妹万歳だ。
 派手さを演出するために敢えて集束させず、拡散気味に放った宝石魔弾が凄まじい爆音をあげる。霧中で響く雷よりもはるかに高く喧しいそれが、セイバーを中心に広まっていき――



「なんだ、ガス管でも破裂したのか?」
 霧なのか煙なのか、濛々と視界を遮るその向こうから人の声がする。近隣住民、野次馬根性の強い者が早々に様子を見に来たのだろう。それはそうだ。時間にしてまだ数分と経っていないが、凄まじい爆発だった。
「……はぁ、はぁ」
 手持ちの宝石は全て使い切ってしまった。
 肩で息をしながら、凛は桜を振り返る。妹も同じように疲弊していた。ありったけ、まさしく渾身。現代の魔術師がなし得る最高峰の破壊力だったと凛は確信していた。
 五大元素使いの姉と、虚数使いの妹。在りうるものと在らざるものが混ざり合い、相乗された魔力の塊はそれこそ神話級の一撃に限りなく近いだけの威力だったはずだ。相手がたとえ英霊であろうとも、命中すれば討ち滅ぼせる程の。事実、凛の一撃は聖杯戦争時にアインツベルンの森でバーサーカーを一度殺すことに成功している。そこに桜の影魔弾をも加えたのだから、或いは、これで――
「――流石です。リン、サクラ」
 やはり無理だったかと、凛は相手の姿を確認し、瞑目した。
 煙が晴れ、霧だけが残されていく奇妙な光景。そこに、依然としてその姿はあった。
 騎士王の銀の鎧。光り輝く聖剣。
「他の英霊であったならば、今の一撃に耐えきれたかどうか。しかし私の対魔力は……残念ながら桁が違う」
 知っていた。伝説の竜との混血児。絶大な魔力を誇ると同時にその対魔の力もまた超絶。そんな事は知っていて、しかしそうする他に手がなかった。
「おーい、誰かいるのか?」
「大丈夫かー!?」
 野次馬が増えてきている。これ以上この場で人目につくことはセイバーも、それに彼女の背後にいる者も望まないはず。後は自分達がどう言い逃れるかだが、命を拾えただけ儲けものだ。
「ふ、ふっふふ。ちょっとばかり、派手にやりすぎちゃったわね」
 目を細め、凛は不敵に言い放った。
 膝がカクカクと笑っている。予想以上に消耗が激しい。桜は無言でいるが、精神的な消耗は自分以上だろう。彼女の魔術は精神を負の方向へと引っ張る。それに、耐えねばならない。
「……リン」
 セイバーが身構えるのが見えた。
 早く立ち去ってくれと凛は必死に念じていた。もう限界だ。すぐにでも座り込み――いや、大の字にでもなってしまいたい。常に優雅たれという家訓も今はどうでもいい。
「おいあんたら、大丈夫か!? さっきスゲェ音がしたけど……」
 数人、男性らしき影がセイバーの背後に見えた。あの派手な爆音からすれば、実際に近隣の家から出てきた数は百をゆうに超えているだろう。
 この場はしのげた。しかし問題は今後だ。
 行方不明のセイバーとライダーは敵に回り、冬木は霧に包まれ外界と遮断されている。果たしてどう動き、何をすべきか……

 ――事ここに至ってそんな事を考えていた自分は、やはり浅はかだったのだろう。

 後悔を抱くまでに要した時間はほんの数秒だった。
「……あ」
 聖剣が、一閃されていた。
「うわぁーーーっ!」
「キャーーーッ!?」
 人々の悲鳴が木霊する。
 誰か斬られたのか、と思ったがどうやらそうではないらしい。思いきり振り上げられた剣が断ち割っていたのは、地面だった。アスファルトを大きなクレヴァスが走り、様子を見に来た野次馬と自分達とを完全に分断してしまっている。
「愚かな。ここ一番でミスをするのは相変わらずということですか」
 群衆に見られることなどお構いなしに、セイバーは、再び剣を凛に突きつけていた。
「な、何考えてるのよ!? こんな大勢がいる前で聖剣を思いっきり振り回すだなんて、仮にも英霊が――」
 ――神秘の秘匿を蔑ろにするなんて、と。そう続けようとして凛はようやく己の過ちに気がついた。
 秘匿とは、誰に対してするのだ?
 魔術師はその力を秘匿するもの。それがあまりにも当たり前の、凛にとっての常識過ぎていて今回の事態にあっても疑おうとすらしなかった。それこそが自分が混乱していた証拠だろう。まともに、冷静になって考えてみれば秘匿なんて如何に無意味な行為なのか、わからないはずはなかったのに。
 聖杯戦争を勝ち抜く、ただその事を念頭に置いて己を磨き続けてきたこれが代償か。神秘の秘匿をあまりにも重く捉えすぎていた。そのルールは絶対なんだと、思い込んでいた。
 違う。
 そんな事は、ありえない。ありえなかったのだ。
「人類の黄昏にあって、この剣を振るうことの何を躊躇うというのか。知りなさい。理解するのですリン、サクラ」
 人々の喧噪を意に介さず、セイバーが告げた言葉に凛はただ静かに頭を垂れるしかなかった。
「……ヒトは、滅ぶのです。もはや何もかもが手遅れ。あらゆる抑止が、たとえアラヤであろうともこの破滅は止められない。なら滅びるのがむしろ……」
 霧に反射した聖剣の光に照らされ、セイバーが今どのような表情をしているのかはわからなかった。が、その言葉が、声が意味するところの感情は、おそらく――
「や、やめてください、セイバーさん!」
 消耗しきった体をおして、桜が凛の前へと身を乗り出す。それでもセイバーに躊躇する気配は見られなかった。ほんの少し剣を前に突き入れただけで桜の白い肌は鮮血に染まるだろう。
「桜、退いて」
「嫌です!」
「……私は、どちらでも構いませんよ」
 無慈悲に、事も無げにセイバーが言う。もう自分達の言葉が彼女に届くことはないのかと、凛は寂しさに目を細めた。
 ――親友になれたと、思っていたのだけれど。
「セイバーさん、剣を収めてください!」
 それでも桜は諦めるつもりはないのか、セイバーに呼び掛け続けていた。何も反応はない。きっと、もう彼女が迷う事なんて無いのだと心のどこかで悟っていながらも、諦めきれない。諦めるわけにはいかない。今、諦めたら――
「だって、だってわかってるんですか!? セイバーさんが姉さんを傷つけるだなんて、そんな事、もし先輩が知ったらどんなに……どんなに悲しむか――ッ」
 桜の、言う通りだろう。
 セイバーが凛を……凛ではなく、桜でも、傷つけるようなことがあれば彼がどれだけ心を痛めるか。心を痛め、責任を感じた彼がどのような行動をとるか、彼を知る者にわからぬはずがない。
 だからだろうか。セイバーの剣に翳りが生じたように見えたのは。
「セイバーさん、戻ってきてください! 先輩、今も必死に探してます。セイバーさんとライダーがいなくなってからほとんど寝ないで町中を駆け回ってるんです。だから……だから!」
 もし今のセイバーの心を動かせるとしたら、それは士郎だけだ。
 これが最後の賭け、残された唯一の鎹だった。
「……」
 無言のまま、セイバーは微かに溜息を吐いた。
 剣を収めて欲しい。士郎のためにも。セイバー自身のためにも。
「……未練、でしょうか」
 ポツリ、とセイバーが呟いた。
 何が未練なのか、しかし本心では彼女も剣を収めたいのだと、二人はそう信じたかった。たとえ、依然として目の前に剣が突きつけられたままだとしても。
「けれど、やはり私はこの剣を収めるわけにはいかないのです。それに私が退いたところで……」
 そこまで言ってセイバーは言葉を区切った。
 周囲は相変わらず騒がしい。爆発音の直後、突然道路が真っ二つに裂けたのだから当然だろう。しかもこの異常濃霧、中で何が起こっているのかはほとんどわからないときている。
 セイバーが好んで一般人を傷つけるとは凛も桜も思っていない。が、このままクレヴァスを超えて野次馬達が近付いてきたなら、今の彼女はそれらを排除するに違いない。
 その時だった。
「……あ、あれ?」
 桜が首を傾げ、周囲を見回した。凛も同じように辺りを見回す。
「……なに、今、音? ……地震?」
 地面が揺れたような気がした。同時に、深い霧の向こうから何かを引き裂くような音も。周囲の喧噪も次第にそちらに注意が向きつつあるようだ。
「おい、今何か聞こえなかったか!?」
「なんだ、ありゃ……鳴き声か?」
 ざわめきと、そして再び鳴動。
 おそらくは柳洞寺のある円蔵山の辺りからだ。セイバーと鳴動する山とを交互に見ながら、凛はなんとしても肉体と頭脳の立て直しを計ろうと奮起した。
 セイバーの視線が、そんな友人を哀しく射抜く。
「先程の爆発に反応したようですね。脅威を感じたのだとすれば、貴女達二人の力は本当に大したものです」
「脅威を、感じる?」
 まるでこの揺れも音も何者かの仕業であるかのような口振りだ。いや、事実その通りなのだろう。もう疑いようがないくらいに、音は生物の鳴き声として耳の中に響いてきている。
「……さぁ、もう時間がない。いい加減にコスモスの居場所を教えてもらえませんか? なり損ないとは言えアレらも月や地球の最強種を目指して創られたモノ、暴れ出したなら手がつけられない」
「なり損ないの、最強種?」
 果たしてどういう意味なのか、考えようにもそれは徐々にこちらに近付いてきている。鳴き声と、そしてこれは足音だ。
「有り体に言えば、怪獣という奴です。いや……ガイア側の神獣とでも言えばいいのか」
 霧がついに目の前にいるセイバーをすら視認困難なくらいに深まってきた。この霧もその怪獣の仕業なのだとすれば、冬木を丸ごと覆うだけの規模だ。容易なことではない。
 戸惑う凛と桜の姿は、もはやセイバーの視力でもってしてもはっきりとは見えない。出来れば、このような恐怖を彼女達に与えたくはなかった。それどころか彼女達と敵するなどしたくなかったと、そう考えることが出来る程度には意志も記憶も持たされている。
 ……おそらく、わざとだ。理由は、別にこれと言って無いに違いない。あるとすれば、
「どちらにせよ、冬木はもうお終いです。今の我が主……黒の姫君に、目をつけられてしまったのですから」
 姫君が浮かべていた、微笑。
 可愛らしい少女の顔に浮かんでいたのは、名だたる英雄達の背筋をも凍らせる、あまりにも酷薄とした微笑みだった。
 あの微笑が理由だったのだとすれば――セイバーは憎々しげに口元を歪ませ、瞳を閉じようとした。
 だが、出来ないのだ。
 目を逸らせない。逸らすことは許されていない。それが彼女と結ばされた契約だから。
 悔しさに身を震わすことも出来ないまま、セイバーは掛け替えのない二人の友に剣を向ける己が身を呪った。





◆    ◆    ◆






「イリヤ、向こうもダメ。行けない」
「そう……こっちもダメみたい。八方塞がりだわ」
 冬木大橋の近く。濃密な霧の中でイリヤとそのメイド、リーゼリットことリズは少々ウンザリとしながら俯いた。もっとも、リズはイリヤを真似て僅かに頭を垂れた程度なので実際にウンザリしているのかどうかはよくはわからない。
「……シロウ、何処行ったんだろ」
 冬木市に生じた異変――謎の霧について調べるために、凛、桜、そしてイリヤとリズが衛宮邸を飛び出してから一時間と少しが経過している。イリヤは調査の他に、まずは朝からセイバーとライダーを捜索するために家を出たままになっている士郎のことを捜すつもりでいたのだが、一向に見つからない。そうこうする内に冬木大橋のところまで来てしまい、こうなったら新都側も見回るか……と思ったところで障害にぶつかってしまった。
 霧の中、雷が鳴り響いているのだ。
 新都との交通を遮断しているのかとも思ったが、特に大橋をピンポイントで雷が塞いでいるわけではないらしい。生身で渡るのは困難でも、何者かはわからないがこの規模から考えるに本気で遮断するつもりならもっと激しい稲妻を流せるはずだ。むしろ大橋上よりも、川と、そこから海上にかけて凄まじい放電による結界が形成されているようだった。
「海上封鎖……が目的なのかな。リズ、どう思う?」
「わからない。イリヤがそう思うなら、そうかも知れない」
 リズがどう答えるかなんてわかっていたけれど、取り敢えずイリヤは問うてみた。彼女との会話は好きだ。ホムンクルスとしては欠陥品、自我が希薄と言われるリズだが、イリヤはそんなことはないと思っている。素っ気ない彼女の受け答えがイリヤは好きだ。
「……でも」
 そんなリズが珍しく言葉を続けた。
「どうしたの?」
「何か、いる」
 その言葉から感情を推し量ることは出来ない。……が、それはあくまで通常の人間ならばの話だ。アインツベルンが作り生み出したホムンクルス、リーゼリット。その存在の全てはイリヤのためにある。イリヤの魔術礼装にして、その一部、まさしく一心同体とも言える間柄であるが故に、イリヤはリズの感情を読みとっていた。自我が希薄な分、彼女の直感力は時にイリヤをすら上回ることがある。
 そのリズが、霧の中に何かを感じていた。
 いかなるモノであるかはわからない。ひどく大きな、何か。
 気色ばみ、イリヤは魔力を込めて霧の中を覗き見ようと試みた。だが見えない。微かな影すら見えやしない。
 嫌な霧だ。
 これがただの霧だというなら、世の影に潜む魔術や幻想の類など全て妄想だと言って吐き捨ててもかまうまい。魔力は感じないが、魔力を遮断する霧。
 イリヤはもう一度その中を覗こうと集中し――
「うぅぅぅりゃああああああっ!」
「わっぷ!?」
 突如反対側から猛ダッシュしてきた黒い何かに抱きつかれた。
「ダーメダメ! 何処にもいないや。まいったね」
「ちょ、カエデ!?」
 まるで猫科動物のようにしなやかな肉体は健康的な小麦色。ニヤニヤしながらイリヤの銀髪に頬摺りしているのは蒔寺楓。士郎と凛の同級生にして友人だ。
「あー、イリヤっちはフカフカと柔らかくて気持ちいーなー」
「な、なんでアナタがここに……」
 この異常事態、ほとんどの住民が建物内に閉じこもっている中、どうして彼女がここにいるのかと尋ねようとしたイリヤに、
「ん? だってセイバーさんとライダーさん、まだ家に帰ってないんじゃないの?」
 楓は違うのかとでも言いたげに首を捻った。
 ……確かに、昨日衛宮邸を訪ねてきた楓と、彼女といつも行動をともにしている氷室鐘と三枝由紀香――通称三人娘――に士郎や凛の不在の理由を尋ねられ、『セイバーとライダーが出かけたまま戻らないから心配して捜しに行った』と告げたのはイリヤだし、『それじゃ手伝う』と言ってくれた三人娘だったが、まさか今日もこうして捜してくれていたとは考えてもみなかった。
「さっき衛宮ん家に行ってみたら誰もいないみたいだったからさ、もしかするとまだ二人とも帰ってきてないのかなぁと思ってあたしらも引き続き捜索に協力しようと思ったまでよ。オォッと、礼はいらねーぜお嬢ちゃん?」
 相変わらずテンションが高い。冬木の虎と呼ばれた藤村大河の後継者と目されているのは伊達ではないようだ。
「こんにちは、カエデ」
「ちっすリズさん。相変わらずパイオツカイデーね」
「うん。カイデー」
 一体二人のどの部分が共鳴したのかはサッパリわからないが、リズと楓は変に仲が良い。初対面で突如乳を揉むという大暴挙をしでかした楓に、顔色一つ変えず逆に揉み返したリズのことをこの黒豹はいたく気に入ったらしい。本人曰く強敵と書いて“とも”なのだとか。それを聞いたリズも『ともだ』としきりに頷いていた。
「……あれ? あたしらって事は……」
「おー。他の二人も勿論いるぜ。だってあたしら絶対運命共同体ソウルシスターだしってイテッ!」
「馬鹿者。誰がソウルシスターだ」
 楓の後頭部に手刀を喰らわしつつ現れたのは、大人びた顔つきに眼鏡が似合う氷室鐘。
「わ、わたしは別にソウルシスターでも良いよ、蒔ちゃん」
 気恥ずかしそうに現れたのは、ほんわかとした雰囲気で場の空気を和ませる癒し系の三枝由紀香。
 誰が呼んだか穂群原三人娘全員集合に、イリヤは果たしてどうするべきかと頭を悩ませた。
「イリヤ」
「?」
「嬉しいなら、喜べばいいよ」
「うん、そりゃまぁ嬉しいけどね」
 士郎も凛も魔術師という裏の面を持っていることもあってか、深い付き合いのある友人というのは少ない。となると、士郎達を介さない人付き合いなどほぼ皆無と言えるイリヤにとっても必然的に交流相手は少なく限られてくる。そんな中、裏の事情に関しては全く知らされていないとは言え、衛宮家関係者とこまめに交流を持ち、しょっちゅう遊びにも訪れるこの三人は今やイリヤにとっても友人と呼べるような関係にあった。その三人が、謎の濃霧という異常事態中であるにもかかわらずセイバーとライダーの事を当たり前のように気にかけてくれていたのが、イリヤはとても嬉しかった。
 が、そうとばかりも言っていられない。彼女達の義理堅さと友情を喜ぶ反面、“何か”が起こった場合の対処には非常に困ったことになった。
 霧の中にいる正体不明の存在が自分達に害をなす相手であった場合、イリヤとリズで果たして彼女達を守りきれるかどうか。
「……ふむ。イリヤスフィール嬢」
 そんなイリヤの迷いを感じ取ったのだろう。
「余計なお節介だったろうか」
 静かに、控え目に鐘が問うた。楓や由紀香が小さな女の子を扱うかのような態度でイリヤに接するのに対し、鐘はまるで同輩であるかのように接してくれる。眼鏡の奥の理知的な瞳がイリヤをどのように捉えているのか……もしかすると、何事かを察してくれているのかも知れない。
「……あ。わたし達……来ない方が良かったの、かな?」
 一方で、こちらは裏表もなく心底申し訳なさそうに由紀香が肩を落とす。彼女には悪いと思うが、ここは心を鬼にして早く帰るよう促した方が良さそうだ。
 そう判断し、イリヤが口を開こうとした瞬間――
「おわっ!」
「きゃッ!」
「ッ!?」
 不意に霧の中から轟音が響き渡り、三人娘はそれぞれ驚いて身を竦めた。イリヤも身構え、リズだけが微動だにせず佇んでいる。
「……強くなってる」
「うひゃ〜、驚いたぁ。なんかさっきからゴロゴロいってたけど、この霧に雷ってなにげに危なくね?」
 劣悪な視界に強まっていく雷。怖いモノ知らずな楓と言えどもこの事態を単純に楽観視出来る程の脳天気ではない。震える由紀香の肩を抱きながら、鐘も頷く。イリヤも、顔には出さないが彼女達と同意見だった。
 雷以上に、嫌な予感が強まっている。
「……イリヤスフィール嬢、これ以上屋外にいるのはまずい。雷がやむまでひとまず何処かに――」
「――くる」
 鐘の言葉を掻き消したのは、囁くようなリズの呟きではない。
 そしてそれは雷音ですらなかった。
 金切り声――とでも言えばいいだろうか。
 耳に、脳に直接響くかのような不快な音。窓ガラスを引っ掻いた時に出るあの音が近いかも知れない。嫌悪感とともに、おぞましさが全身を包み込んでいく。
「……え……え?」
 呆けたように、由紀香が頭上を見上げていた。楓も、鐘も、同様に頭上を――言葉が、出ない。
 相も変わらぬ悪視界、濃霧の中だというのに。なのに、そこにはハッキリとそいつがいるのがわかった。巨大な、とても巨大な息遣いが感じられる。破滅の息吹だ。
 イリヤはリズに抱き締められていた。逃げなければならない。逃げなければ、逃げなければ、逃げなければ……死んでしまう。

 あの巨大な影に――大怪獣に、殺される。

 金切り声が再び大気を震わせ、何事かと様子を見に来たのだろう。今まで人影なんてほとんど無かったのに、霧の中にポツリポツリと影と、話し合う声が聞こえ始めている。すぐにでも、パニックに変わるだろう、声が。
「あ、あはは。……嘘だろ」
 こんな時、人間は笑えるんだなと、引きつった唇を振るわせながら楓はくだらないことを考えていた。混乱している暇など無いとわかっているのに、顔だけでなく膝まで笑っている。
 そんな中、リズを除けば最初に我に返ったのは鐘だ。
「おい、逃げるぞ!」
 今にもその場にへたり込みそうな由紀香の手を引き、楓とイリヤの肩を叩く。
「うん、逃げよう」
 イリヤの小さな身体はリズによって抱きかかえられ、三度目の金切り声が鳴り響くと同時に五人はその場から全力で逃げ出していた。と同時に様子を見に来た人々も悲鳴をあげながら散り散りに逃げ出していく。果たしてあの濃霧の中にどれだけの人がいたものか、逃げまどう人の波はすぐさま膨大な量になっていた。



 四度目は、雷音を伴って響き渡っていた。
 逃げる悲鳴と、撃たれた断末魔。肉が焼け焦げる臭い。
 パニックが加速していく。それでも手近なシェルターへ向けてそれなりにまとまって逃げているのは、十年前の教訓が生きているからだ。怪獣災害に遭った事のある町の住民は、例外なく避難の仕方というものを叩き込まれてしまっている。
 だから――
 霧の中、巨大な影が雷光を迸らせながら身をくねらせる姿に、冬木の人々は怯えながら懸命に逃げた。家の中に閉じこもっていた人々も合流し、人波はさらに膨れ上がっていく。
「ど、どど、どうなってんだよ!? アレなんだ? ギャオス!?」
「……いや、違うな。影しか見ていないとは言え、新聞で見たギャオスとは明らかに形状が異なっていた。飛行型怪獣ではなくもっとオーソドックスな陸上型だろう。二足歩行、鳴き声はおそらくあの金切り声のようなもの、この霧と雷はヤツが発生させている可能性もある。尻尾と、あとはツノもあったように思う」
 こんな時でも冷静なのだな、とイリヤはリズの腕の中で妙に感心しながら楓に対して一方的に捲し立てている鐘を覗き見たが、饒舌さと今一つ精彩を欠いた瞳から察するにどうやら彼女は彼女で混乱しているらしい。
「オーソドックスだかなんだか知らねーけど、じゃあ何? もしかしてアレってゴジラ? マジ?」
 怪獣と言われて真っ先に思い浮かぶのはゴジラ――平均的な日本人としての思考だろうし、日本人ではないイリヤでもやはり怪獣の象徴として思い浮かんだのはゴジラだった。
 混乱を避けるために報道規制は敷かれているが、ゴジラが復活したことをイリヤはハッキリと知っているし、三人娘も東京の壊滅とゴジラの復活についてはとても規制しきれない噂によって聞き知っている。そもそも日本の首都が壊滅したというのにそんな情報を完全に隠し通せるはずがないし、ゴジラに関しても日本という国が彼の怪獣王に抱く感情を思えばやはり隠すのには無理がある。
「ゴジラかどうかは知らん。十年前も私は直接ゴジラを見たわけではないしな。シェルターの中で嵐が過ぎ去るのを震えながら待っていただけだ」
「そりゃあたしも直接見ちゃいないけどさぁ」
 十年前。
 その言葉にイリヤは顔を顰めていた。
 父切嗣が参加した前回の聖杯戦争、その大まかな顛末については知っているし、セイバーから当時の出来事について直接聞いてもいる。が、やはりイリヤはゴジラを知らない。『この世全ての悪』が世に災いを、破壊と簒奪を為すにもっとも適した存在としてこの土地へ呼び寄せた漆黒の破壊神については、凛とともに協力依頼を受けてなお一般的な情報以上のことはほとんどわからないのが実情だった。とは言えゴジラに関する研究自体が行き詰まっているのだから、それも仕方ないと言えばそうなのだが。
 そんな中で、鐘に手を引かれながら由紀香が震える瞳で巨大な影を見上げていた。
「……違うよ、鐘ちゃん、蒔ちゃん。あれは、ゴジラじゃないよ」
「へ?」
「そうなのか?」
 コクリと頷いた由紀香の言葉は、怯えながらもハッキリとしていた。
「わたし、十年前に、見たから。……ゴジラ」
 それを聞いて、リズ以外の三人は息を呑んだ。
 少女の言葉にはある種の重みがあった。それは真実という名の重さだ。真実を背負う者のみが紡ぎ出すことの出来る言葉だったからこそ、楓も鐘も、そしてイリヤも影はゴジラではなく全く別の怪獣――もしくはそれに類する何か――なのだと判断した。よくよく考えてみれば、確かにかつてゴジラに電流作戦を仕掛けた際、ヤツが帯電体質であるらしいことは判明しているが、このように常から電撃を攻撃手段として使用するなんて話は聞いたことがない。
「十年前のこと……まだ、覚えてるから」
「ユキカ……」
 雷撃が霧の中を走り、そこかしこから悲鳴と怒号が聞こえる。次の瞬間には自分達が黒こげになるのではないかという恐怖に縛られながら、人々が走る。
 その光景が、由紀香の記憶を呼び覚ます。
「あの日ね、わたし、新都に住んでた親戚のお家に遊びに行ってたの……」
 逃げながら、ポツリ、ポツリと……忘れられないそれをゆっくりと辿りながら由紀香は言葉を続けていった。
「わたしより一つ年上の従姉がいて……わたしは弟ばっかりでお姉ちゃんとかお兄ちゃんはいなかったから、その子のことをお姉ちゃんって呼んで、本当のお姉ちゃんみたいみたいに思ってて……それに、おじさんもおばさんもとても優しい人で……深山町と新都は近かったし、よく遊びに行ってたの……」
 もし深山町側にいたなら、鐘や楓同様由紀香もゴジラを直接目にすることはなかっただろう。十年前、ゴジラは新都側には甚大な被害をもたらしたが、反して深山町側はほとんど被害を受けていない。住民のほとんどもシェルターに避難し、無事だった。
「いつもと同じように、お姉ちゃんと遊んで、おばさんの作ってくれたご飯……わたし達が大好きだったハンバーグを食べて……なのに、急に凄い地響きがして――」
 弾かれるようにして、由紀香がビクリッと肩を強張らせていた。
「外に出てみたら、他の家からもたくさん人が出てきてて、最初はガス爆発でもあったんじゃないかって……でも、ガス爆発のわけがなかったの。だって、あんなに……あんなに大きな火と爆発がガス爆発のわけなかったんだよ――ッ」
「由紀香、もういい」
 頭を抱えるようにしてはたと足を止めてしまった由紀香を、鐘は優しく抱き締め、静かにだが力強くその手を引いた。僅かにでも立ち止まっている時間が惜しかった。
 本当はその場に座り込んでしまいたいくらい、由紀香は怖いのだろう。それでも、一見か弱そうな彼女の芯の強さを鐘はよく理解している。もしかしたら、そこにはかつてゴジラを前にしながら生き延びた体験も根差しているのかも知れない。
 鐘とは反対の手を今度は楓がしっかと掴み、由紀香は二人の親友に引かれて再び走り出した。多少混乱しているようだが、この調子なら逃げるのは充分に可能だろう。リズに抱っこされた状態で三人娘の状態をそれぞれ確認したイリヤは安堵の溜息を漏らし、後方に目をやった。
 金切り声も雷もやんでいないが、別に逃げる人々を追ってくるつもりはないらしい。怪獣の影も気配も徐々に遠ざかっていく。
「……リンとサクラ、家に帰ってるといいんだけど」
 士郎の名を出さなかったのはまず間違いなく彼は帰宅していないだろうと踏んだからだ。この騒ぎはすぐに町中に伝搬するだろう。となればあの正義の味方が逃げる人々を放って家に帰るなんてありえない。
 それに、コスモス達のことも気懸かりだ。セラがついてくれているから余程のことがない限り大丈夫だと思いたいが、この事態は既に余程のレベルを超えている。
 と、イリヤが小さい身体には見合わぬ物思いに耽っていたところ、今度はリズが急に立ち止まった。
「きゃっ! ……ちょ、リズどうしたの?」
「――イリヤ、あそこ、見て」
 片腕でイリヤを抱え、もう片方の手でリズが指差した先に一人の女の子が立っていた。親とはぐれたのかその場から動こうともせずにジッと怪獣が現れた方を見つめている。
「あっちゃー、逃げ遅れかな? 危ないなぁ」
「うむ。ひとまず我々が保護した方が良さそうだな」
 由紀香の手を引きながら、楓と鐘は躊躇無く女の子のもとへと駆け寄っていく。
「リズ!」
「うん。助けよう」
 少し遅れてリズも駆け出す。おそらくは飼い犬なのだろう。主人を守ろうとしているのか、白い仔犬がしきりに女の子の足に頭を擦りつけているのが印象的だった。





◆    ◆    ◆






 前門のセイバー、後門の怪獣。
 進退窮まった事態に凛は毒突きたくもなったが、やめた。そんなことしても何の意味もない。むしろ毒突く暇があるならセイバーの言葉の意味でも反芻し咀嚼した方がよっぽど有意義というものだ。
 もう自分達の手に負える状況ではない。ならいっそコスモスの居場所を教えてしまうか、とも思ったが、それは問題外だ。短い付き合いとは言えコスモス達には大空洞を浄化してもらった恩がある。彼女達についているセラの身も危険に晒すことになるだろう。それに何より、自分らしくない。
「……姉さん」
 近付く巨大な足音に、桜は身を強張らせていた。
 怪獣が出たことを外部が察知していれば、特自が動いてくれている可能性もあるが、しかしこの霧と雷による結界がそれらを考慮に入れたものだとすれば、並の兵器では突破は困難なはず。何よりギャオスの襲来とORTによる東京壊滅、ゴジラの復活など立て続けに起こった怪獣災害によって特自は疲弊しきっている。
 異常を察知したコスモスがモスラを呼んだとしても、彼の大蛾も東京脱出の際に積年の宿敵であるバトラから受けた傷を癒すために近海の孤島で静養中だ。そんな状態で雷の巣を抜ける事が出来ても戦力としてはあてに出来ない。
 残るは話に聞いたヴァン=フェムの魔城だが……そもそも、凛にはどうしてもわからないことがあった。
 何故、冬木なのだ。
 黒の姫君――アルトルージュ・ブリュンスタッドという吸血姫の名前は凛も知っていた。協力依頼を受けた時にも、敵対勢力の首魁であるとして説明を受けている。
 闇の世界を白翼公と二分する実力者。彼女が何らかの力で怪獣やセイバー達を支配しているのだとして、冬木を狙うその価値は果たして何処にある?
 今や聖杯のない、この冬木に。
「セイバー」
「なんです?」
「訊きたいことがあるんだけど……訊いたら教えてくれる?」
「……言ったでしょう。もう、時間がない」
 当然か。
 尋ねて素直に教えてもらえるなら誰も困りはしない。
「やはり、斬らねばなりませんか」
 ギリッと、歯軋りが聞こえた気がした。やはりこれはセイバー個人の本意ではないのだろうと、せめてそう信じたかった。
「……桜」
「?」
「逃げなさい。全力で」
 桜とは違い、凛の魔弾は宝石の力を解き放つもの。疲労が少ない自分の方がたとえほんの数秒でも長く持ち堪えられるはずだとウダウダ考え、凛は笑った。
 今さら誰に言い訳じみたことを。
 単に、妹を守りたいだけの姉の我が侭だ。
「姉さん! 何言って――」
「あー、もううっさい! いいから逃げなさいって――ッ」
 反論する桜に怒鳴り散らしながら、凛は魔力を込めた両拳を構えセイバーに躍りかかろうとし、
「……なんだ?」
 当のセイバーが何事か上空を見上げていた。二人も釣られて顔を上げたが、霧が濃すぎてやはり何も見えない。と言うより、今の今まで何も見えなかった。何も無いはずだった。
「な、に?」
 不意に何かが横切ったかのように見えた。そして次の瞬間凄まじい突風が吹き荒れ、一時的に霧が、ほんの僅かにだが散る。
「おい、なんだ今の?」
「飛行機か?」
 怪獣のものだろう鳴き声と足音にざわついていた群衆も、同じように空を見上げている。
「何よ……何なの?」
「姉さん、あれ……」
 桜が指差す先。まさかギャオスかと――そう懸念した凛の不安を打ち壊すかのように、
「え?」
「何か、降ってくる……」
 何かが凄まじい速度で落下してくる。
 それは、その小さな米粒のような影は次第に大きくなり、ようやく人間らしい何かだと判断出来た瞬間……
「……は?」
 バッ、と。
 最初、凛も桜もパラシュートでも開いたのかと思った。それにしては地上に近付きすぎていたが、だって、まさか――
「……傘、ですよね、あれ」
「……ええ。傘ね」
 弾丸のように落下してきた人影が、地上スレスレで傘を開くだなんてそんな漫画じみた展開、場にそぐわな過ぎる。しかしどんなに場にそぐわなくてもその光景は事実だった。セイバーの目は険しさを帯び、幾分か落下速度の鈍った影を睨め上げている。
「どうやら、縁があるようだ」
 まさか知り合いなのかと……凛は問おうとしたが、遅かった。
 ただの傘でないのは明白だったが、それでも殺し切れていない勢いとともにその人物は豪快に大地へと降り立っていた。

「そうですわね。出来ることなら、腐れ縁になる前に今日この場で断ち切ってしまいたいものですけれど」

 奇蹟のような降下劇などなんでもないかのように。
 控え目に考えて、美人――だが化け物だ。
 ピンクの日傘に、やたらとフリルのついたゴチャゴチャなドレスを纏ったありえないファッションセンスの、女。
 女は周囲を見渡すと、ふむ、と頷き、改めて凛と桜に向き直った。そうして再び何度か頷くと、姉妹の首から下、腰から上……要するに胸の辺りをひとしきり見比べてからビシッと凛を指差し、
「貴女がトオサカリンさんですわね?」
「今どこ見て判断したのよ!?」
 ……一気に、場の空気が変わった。
「いえ。見たところお二人とも魔術師のようですし、フユキの魔術師で女性がお二人、さらに予め拝見していた身体データから判断したのですけれど……」
 間違っていない。間違っていないが、納得出来るはずもない。
「ね、姉さん落ち着いて!」
 今にも降ってきた女に殴りかかろうとする姉を抑え付けながら、桜は何とか現状を把握しようと試みた。
 口振りとは裏腹に剣呑な態度でセイバーと向き合う女は果たして何者なのか。……魔術師か代行者か、別系統の退魔師なのか。それとも……悪鬼か吸血鬼の類か。
 セイバーの視線もまた険しい。自分達に向けるそれとはまったく別種の、強敵に向ける類のものだ。
「ではリンさん、それに……マトウサクラさん、ですわね? 少々お時間いただけますか? 今――」
 優雅な物腰で、日傘が閉じられる。
「今、そこの英霊をやっつけますので」
 対して、低く聖剣を構え、騎士王の脚が地を踏み締める。
 聖剣と日傘。
 鋼とフリル。
 銀とピンク。
 馬鹿みたいな光景なのに、両者に冗談の気配はない。
「では今日は決着をつけましょう。……リタ・ロズィーアン」
「最初からそのつもりですわ、アーサー王。……時間がありませんものね。そちらも、ご存じでしょうけれど」



「いいんですか?」
「……いい、と言うよりそうするしかないじゃない」
 桜の質問に、凛は腕を組んで渋面を作った。いいも何も無い。群衆の戸惑う声すらどうでもよくなってきた。
 唐突に次ぐ唐突。ともあれリタ・ロズィーアンの名前には聞き覚えがある。取り敢えず、人類側のはずだ。仕方なしに、凛はひとまずこのド派手な吸血鬼に場を任せることにした。
「桜……あんたは行きなさい。柳洞寺は危なそうだから、取り敢えず衛宮邸まで行って士郎やイリヤと合流するのよ」
「でもそれじゃ、姉さんはどうするんです?」
 渋い顔のまま、凛は顎をしゃくった。
「放っておくわけにもいかないわよ」
 どちらの力が上なのか……見定めないことには不用意に動けない。もしリタがセイバー以上だった場合、セイバーをそのまま殺させるわけにもいかないだろう。
「危なくなったらすぐ逃げる。だから……いいわね?」
 なら自分が残る、と。喉まで出かかった言葉を呑み込んで、桜はゆっくりと頷いた。さっきの疲労は自分の方が深い。いざという時に凛なら逃げ切れても、自分は無理だろう。
「……はい。でも、本当に危なくなったら……」
「わかってるわよ。じゃ、急いで」
 それ以上ごねても仕方ないとわかっているから、桜はもう一度だけ姉とセイバー、そしてリタを見ると、駆け出していた。
 散った霧が元に戻り、さらに巨大な足音も近づき続けている。遠雷も激しさを増しつつあった。
 そんな中、リタとセイバーはまるでこの邂逅を楽しむかのように、疾風の如く同時に動いていた。





◆    ◆    ◆






「どうする? こっちのシェルターはもういっぱいだって」
「まいったな……次のは……」
 逃げ惑う人波の中、二件目のシェルターも満員だったことを仲間達に告げ、楓はウンザリと宙を仰ぎ見た。
「イリヤちゃん、リズさん、まだ走れる?」
「うん。わたしはまだ大丈夫」
「わたしも、大丈夫」
 答えたリズの腕の中には、イリヤの代わりにさっき助けた女の子と仔犬が抱きかかえられていた。年齢などは聞いていないが、見た目にはイリヤよりも少しばかり下に見える。
 元々そうなのか、それとも恐怖のためなのか、随分と静かな子のようだ。ただ、騒いで暴れたりしないのはありがたかった。
「あー、もう! こうなったら行くっきゃないか!」
「蒔、あまり張り切るな。いざという時にへたばられてはかなわん」
「あーあー、わかってるって」
 そうして再び人々の流れの中を、イリヤの速度に合わせて六人と一匹は進み始めた。次に近いシェルターは深山町のほぼ中心部だ。この調子なら、十分くらいで着けるだろう。
 と、そこでイリヤはリズに抱かれている女の子が自分をジッと見ていることに気がついた。
 不思議だ。
 どことなく、自分と似ているようにも感じる。特に顔立ちが似ているとかではなく、強いて言うならその瞳が、まるで吸い込まれそうな程に深い漆黒の瞳が、そう感じさせる。
「……あ、そう言えば」
 そこで、イリヤはようやくあることに気がついた。
 どうして今の今まで忘れていたのだか。まぁ、それだけこちらもいっぱいいっぱいだったという事だろう。
 少女の名を、まだ聞いていなかった。
「あなた、お名前はなんて言うの?」
「……なま、え?」
 イリヤの質問を聞き返し、少女はニッコリと笑った。その笑顔を見た瞬間、心臓がバクンと跳ねた。
 なんて――本当に、なんて邪気のない笑顔なのだろう。
 邪気が、と言うより彼女には色がない。
 真っ白い肌に、真っ黒なワンピース。そして髪と瞳の色も――
「あ、あれ?」
 一瞬。ほんの刹那、少女の髪が真白く、瞳は紅玉に見えた。そんなはずがないと、イリヤは軽く目を擦ってみる。
「……どう、したの?」
「う、ううん! なんでもないよ。なんでも」
 やっぱり、髪も瞳も黒い。
 見間違いだ。見間違いに決まっている。
 なんだろう。少し、頭痛がした。
「……おねえちゃん、大丈夫?」
「大丈夫だよ。うん、大丈夫……」
 心配そうに尋ねてくる女の子にそう返し、イリヤは頭痛を追い出そうと軽く頭を振ってみた。そう、大丈夫だ、本当に。
 女の子はそれでも暫く不安げにイリヤを覗き見ていたが、やがて安心したのかもう一度無邪気な笑みを浮かべると、
「……ル」
 小さく、呟いていた。
「え?」
 思わず聞き返したイリヤに、女の子は今度は少しだけ大きな、透き通るような声で、再び告げた。

「……わたしの、名前。……アル、よ」





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〜to be Continued〜






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