episode-17
〜激震の冬木〜
Part 3 霧の中で光刃が天を貫く


◆    ◆    ◆






「……偉いッ!」
 突然、濃霧の中で大声を出しガッツポーズを取った楓に全員の視線が集中した。
 怪獣から逃走してる最中にいったい何をそんな大声で……と非難めいた視線だが、当の楓は気にするでもなく出会ったばかりの小さな少女、アルの頭をやや乱暴に撫で回していた。
「……あの、蒔ちゃん」
「なんだい由紀っち?」
 頬の端を微妙に引きつらせながら、由紀香が心底不思議そうな顔で楓へと問いかけた。
「……その、ごめんね。ちょっと横から話を聞いていただけだと、何がそんなに偉いのか、よくわからなかったから」
 イリヤも鐘も同意とばかりに楓の反応を窺っている。まったく、由紀香の言う通りだった。
 リズに抱えられながら、この決死の逃走劇の最中にも悲鳴一つあげることなくやけに大人しい少女に対し、楓は陸上で培われた体力の為せる技か走りながら様々なことを(ほとんど一方通行だったが)語りかけ、彼女なりにアルの緊張をほぐそうと張り切っていた。しかし先程の質問からどうしてそこまで感心するのか、流れが誰にも掴めなかったのだ。
「んー、そんな顔されてもなぁ。だって、アルちゃん」
「……?」
「アルちゃんは、友達に貸したものを返して貰いに行って、その帰り道だったんだろ?」
「……うん」
 小さくコクリ、と頷いた少女に、楓は再び激しく頭を上下させた。
「ほら偉いッ!」
 胸まで張って、宣う。
「……蒔の字、すまん私もワケわからん」
「……うん。私もわかんない」
 理論派の鐘とイリヤに楓の突発的発言の意図が理解出来ないのは今に始まった事ではないが、今回のこれは逃走中で脳に酸素が足りないせいなのか本当にまったく意味不明だ。貸したものを返して貰いに……まぁ、玩具なのか本なのか、ともあれよくありそうなことだ。それが五歳くらいの子が一人で、と言うのならなんとなく偉いというのもわかる気はするが、アルは見た目にイリヤより僅かに幼いか、ともすれば同じくらいの年齢だ。別に一人で出歩いただけで偉いと言えるような歳でもない。
 しかし、意外なところに理解者はいた。
「……リズも、アルは、偉いと思うよ?」
 イリヤと鐘が訝し気に振り向くと、リズはアルを抱えたままキョトンとしていた。むしろ理解出来ないと言っている方がわからないとでも言いたそうだ。
「貸したものを取り立てるのは、偉い。でないと、貸したまま、返ってこない」
「そうそう。リズさんはちゃんとわかってんねー」
「たわけ」
 鐘チョップ。
「あたぁっ!?」
 頭を押さえてうずくまり……そうになりながら速度はほとんど落とさず走り続ける楓もかなり大したものだ。
「借りたものは返すのが道理だ。取り立てるまで返さないような奴は論外なだけで自分から取り立てるのは偉くも何ともない」
 溜息混じりで疲れたように漏らす鐘に、
「……そう、なの?」
 アルは不思議そうに首を傾げていた。このまま幼気な少女が楓に毒されていくのはいかにも心苦しいためイリヤと由紀香が同時にコクコクと頷き肯定してみせる。
 が、さもおかしいとでも言いたげにしている者もいた。
「……でも、前にサクラが、リンにお金貸したら、なかなか返ってこないから、注意しろ、……って――」
「アルちゃん、この二人が言ってるのは特別駄目な場合の話だから信じちゃダメだからね?」
 リズのことは敢えてスルーし、イリヤは少しだけお姉さんぶってアルに優しく言い諭すと、鐘相手にまだブツクサ言っている楓へと視線を向けて苦笑した。先程から陰鬱となりがちな場の空気が楓のおかげでなんとか抑えられている。
 特に、由紀香は一見いつも通りなようで、その実神経を張りつめているのが傍目にも明らかだった。イリヤが気付いているのだから、鐘と楓がその事に気が付いていないはずがない。改めて、彼女達の友情というものを思い知らされる。
 と、その時。
「きゃっ!」
 雷音がさらに激しさを増し、由紀香が思わず耳を塞いでいた。
「ちっくしょー! 自衛隊は何やってんだ」
「ネットには特自も陸海空自も既に壊滅状態、といった内容がよく書き込まれていたな。真偽は不明だが」
 鐘の一言に、楓がゲェーッと顔を歪ませた。多少は事情を知っているイリヤは、大打撃を被ったとは言え壊滅まではいっていないことを知っているが、それを説明するわけにもいかない。
「……アルちゃん、怖い?」
 イリヤからの問いかけに、少女がフルフルと首を横に振る。見た目に反して気が強いらしい。むしろ自分の方が怖がっているのかも知れないと、イリヤは苦笑した。
「イリヤ」
「? どうしたの、リズ」
 リズが空を見上げていた。
 深く霧に覆われた空はほとんど何も見えない状態だったが、彼女は何かに気付いたようだ。黙って、スッと何か指差している。
「……戦ってる」
「え?」
 瞬間、何かが光って見えた。
 青白い光が霧の中、二条。そして雷音が響く。
「光と雷が、ぶつかってる」
「……何か見えたの?」
 他のみんなには聞こえないようにこっそりと耳打ちすると、リズはイリヤにしかわからないような小さな挙動でコクリと頷いた。
 果たして何が起こっているのか、イリヤも空を見上げる。視力を強化してみても大して効果がない。この霧は魔術的な効果を明らかに遮断している。
 息を呑むイリヤの隣で、アルも同じように空を見上げていた。
 愛犬の頭を優しく撫でながら、その顔には、微笑を浮かべて。





◆    ◆    ◆






 正直に言ってしまえば、凛には目の前で展開されている戦闘の内容がほとんど理解出来ていなかった。
「……はっ!」
「――ッ」
 言葉少なに、僅かな呼気が迸る。
 霧の中、響き渡る足音と震動は怪獣――セイバー曰く『ガイア側の神獣』――が接近するそれだろう。野次馬達はとうにこの場からは退避し、残っているのは苛烈な剣舞を繰り広げる騎士王と吸血鬼、そして凛の三人のみだった。
 怪獣の接近によるものか、霧はますます深く濃くなりつつある。打ち合い続ける二人の剣風が霧を吹き飛ばしていなければ、すぐ間近にいるはずの凛でさえ死闘を視認することは困難だったろう。
 セイバーの剣は聖杯戦争の頃から何一つ変わらない鋭さを放ち、それどころかむしろかつての動きを凌駕しているようにも思われる。疾風の如き踏み込みと烈火の如き打ち込みは、まさに騎士王の名に恥じぬ圧倒的な剣威だ。
 一方で、見た目にはただのヒラヒラとした日傘を振るいながら王者の剣を凌ぎ続けているリタの姿はどうしようもなく異様だった。動きづらそうな服装に、およそ武器とも呼べぬエモノ。状況が状況でなければ何の冗談かと一笑に伏したかったところだ。が、今凛を守ってくれているのは間違いなくその冗談なのだ。
「どう、なるのかしら」
 天敵たる吸血鬼が、守り手たる英霊から人類を守っているとはなんと皮肉な光景か。しかし凛は一瞬たりとも目を逸らせなかった。この一戦に賭かっているのが自分の命であるという以上に、二人の戦いは見る者を惹きつける。
 凛は自分の戦士としての力量についてはわきまえているつもりだ。このレベルでの戦いの見立てが出来るだろうとは思っていない。事実、満足に目で追うことすら出来ていないのだ。それでもどちらが優勢かを敢えて述べるとすれば、決して友人としての贔屓目は無しにセイバーの方だった。
 短期決戦の場合、瞬間的な攻撃能力に優れるセイバーは非常に有利となる。彼女の剣士としての腕前は決して技巧に優れたものではないが、それは大概の相手は力で押しきれるためだ。彼女の直線的な動きは単調であり、長期戦ともなれば相手に動きを読まれかねないが、そうなる前に斬り伏せてしまえるだけの力がある。
 一方で、リタの悪質な冗談紛いな剣は、読めない。凛だけでなく、おそらく対峙しているセイバーでさえも。
 セイバーのような剛剣とは異なるが、では技巧を凝らしたものかと言われれば、それも憚られる。技や力とはまた違った類の、果たしてどう呼ぶべきか凛には名案が浮かんではこなかった。しかし呼び方などはこの際どうでもいい事だ。重要なのは、セイバーとこうまで打ち合えるリタの確かな実力だった。
「流石は、伝説のアーサー王ですわね」
 日傘を器用に操って剛剣をいなしつつ、リタは愉しくてたまらないとでも言いたげに微笑んでいた。この死闘の唯一の観戦者である凛は知らなかったが、リタとセイバーが剣を交えるのは東京での遭遇戦に加えこれで二度目だ。
 二十七祖十五位、リタ・ロズィーアン。
 その格好や言動からは想像もつかないが、彼女の本性は剣士、生粋の戦闘者のそれである。強者との真剣勝負、互いの誇りと命を懸けた死闘を尊ぶ彼女にしてみれば、前回のセイバーとの初顔合わせは不本意極まりないものだった。
 伝説に名を残す英霊と死合うなど、吸血鬼の長い長い人生においてもあるかないかの一大イベントだ。本来なら邪魔者など交えずに、どちらかが潰えるまで心ゆくまで戦いの愉悦に身を任せたかったというのに……状況は、そんなリタの愉しみを許さなかった。
 今だって許してはいないのだ。怪獣の気配はほんのすぐそこまで近付いてきている。リタがすべきは凛を連れて一刻も早くこの場から離れ、コスモスを保護すること以外にない。
 それが、そのはずが――
「……いけませんわねぇ、本当に」
「ッ!?」
 突如、眼前で傘が開き視界を遮られたセイバーは飛びすさった。そのまま日傘は騎士王を馬鹿にするかのようにクルクルと回ったかと思うと、再び唐突に閉じて鋭い突きへと転じる。
「くっ!」
 聖剣がかろうじて突きを逸らし、そのままリタの胴を薙ごうとするも、そこには既に誰もいない。刹那、セイバーの視線が周囲を見渡し、その端にリタの爪先が映っていた。
「クスクス……ッ!」
 ゾッとする笑い声が、セイバーを下方から急襲する。
 開いた日傘から突きへの連携で相手の注意を逸らし、リタは低姿勢からの蹴り上げへと移行していた。迫る鋭利な靴先を避けきれないと見るや、セイバーは聖剣の柄でその一撃を受け、お返しとばかりに蹴りを見舞う。
「っと!」
 対してリタの反応は迅速だった。鋼の具足に覆われたローキックはまともにもらえば容易く骨を砕く。その一撃をほんの僅かな挙動、紙一重で回避しつつ、
「――なっ!?」
 驚きと戸惑いはセイバーのもの。
 自らが放った渾身のローキックをリタが避けたのは見た。が、見ることが出来たのはそこまでだった。
 フワリ、という音がまったく相応しい。リタのぞろっぺぇスカートが回避行動によって派手に捲れ、騎士王の視界を遮っていた。
 格闘戦の間合いにおいてこの視界妨害は厄介極まりない。やむをえず、セイバーはやや大振りに剣を振るって今度こそ距離をとった。それを残念そうに見やり、リタが口元に手をあて失笑する。
「予想外、とでも仰りたそうなお顔ですわね」
 ――予想外――確かに、セイバーにとっては予想外だった。先日のリタとの戦闘でこの女吸血鬼のおおよその力は読んだつもりでいたのだが、この戦術はとても読み切れたものではない。
「……戦場に、呆れた装いで来るものだと侮っていたが」
「フッフフ。伊達や酔狂だけでこのような格好をしているわけでもありませんのよ?」
「えっ、そうなの?」
「……そうなのですわよ」
 凛からのツッコミに一瞬間が空いたのはご愛敬。
 日傘、そしてドレスのフリル。
 まともに考えたなら戦闘の邪魔にしかならないそれを、リタは逆に己を有利に運ぶため使いこなしていた。
 回避にせよ、攻撃にせよ、防御にせよ、リタの豪奢な衣装はフワリフワリと小馬鹿なまでに視界を遮り、日傘の開閉も剣戟に通常ではありえない幅を与えている。次に相手がとるであろう行動をほぼ予知に近い形で予測することが可能なセイバーの直感でも、定石から外れに外れた動きまでは到底予測不可能だった。
 かといってリタが単なるトリッキーなタイプの剣士かと言えば、そんなわけでもないのだ。
「速く、鋭く、重い。良い剣です」
「日傘、ですけどね」
「……訂正します。良い日傘だ」
 セイバーは、リタの地力は自分と同程度と読んでいた。腕力と速度に関しては自分の方が上だが、リタにはトリッキーな動き以外にも端々に細やかさがある。自分の力量をよく心得た者の動きだ。聖杯戦争で対峙したアサシン、佐々木小次郎もそうだったが、この資質を持った剣士は間違いなく強い。あくまで慎重に、しかし大胆な動きさえこなせる怜悧さを備えている。
「本当に、困りましたわ。アーサー王、貴女、お強すぎる」
 一方で、リタは地力では自分よりセイバーが僅かに勝っていると踏んでいた。
 実際、リタにしてみればセイバーはやりにくい相手なのだ。なにせ魔術の類が効かないため、得意の爆破が威嚇程度にしか使えないときている。しかもこれだけ接近戦で噛み合う相手となるとその威嚇をしようにも隙がない。
 魔術と剣術を合わせた総合的な戦闘力ならリタはセイバーとほぼ互角、やもすれば上かも知れない。しかし剣のみとなると流石に分が悪過ぎた。目眩ましも、セイバーの並外れた直感力の前には長くはもつまい。さらに英霊である以上、セイバーには奥の手である宝具がまだ残っている。リタにも奥の手、固有結界があるが、攻撃能力的には魔術寄りなためセイバーにはまず通じないと見て良い。奥の手が奥の手にならないのなら、戦いが長引くほどに敗北は必至だ。
 戦力的な理由と、怪獣の接近。決着を急がなければ、リタはアッという間に手詰まりとなってしまう。凛の読みと異なり、長期戦になれば不利というのは両者同様だった。
 そのようなことわかっている。わかっていて、なお――
「組織には向かないタイプだと、小父様からもヴァン=フェム老からも再三言われ続けてきましたけれど……」
 ――リタは、端で見ていた凛が思わず喉の奥から短い悲鳴を漏らした程の、あまりに凄惨な笑みを浮かべていた。
「まともに“剣士”とやり合うのは、覚えている限りでは二百年ぶりなものですから」
 剣士の気概が、日傘を構えさせる。
「……嫌いではありませんよ、リタ・ロズィーアン」
 その気概に、セイバーも応じた。英霊としてではなく、あくまで騎士王として。
「なん、なのよ……二人とも」







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 大地の揺れが大きい。凛はもう立っているのもやっとだ。怪獣の咆哮が、霧の奥から全てを呑み込まんとばかりに響いてくる。そのような状況において剣を向け合う二者は馬鹿馬鹿しい。馬鹿馬鹿しいに決まっているのに、制止の言葉だけは出てこなかった。
 額に滲む汗を拭いもせずに、凛には黙って二人の対峙を見守ることしか出来なかった。どちらを応援することも出来ない。心情的には友人であるセイバーに偏っているが、現状自分の味方であり守り手は間違いなくリタだ。
 額から頬を伝い、顎先へと流れた汗の玉が――落ちる。
 その瞬間、凛の目前で両者はほぼ同時に地を蹴って飛び出していた。
「はぁああああああっ!」
 セイバーの渾身の一撃が上段から振り下ろされる。リタは下方からの斬り上げでそれを迎撃しつつ、勢いのままに回し蹴りを放った。桃色の花飾りをあしらわれた厚底靴は、蹴りの勢いによっては充分に人体を破壊可能な威力を秘めている。
「シィッ!」
 狙いは、セイバーの右手首。利き手を潰してしまえばどのような剣士であろうともそこで詰みだ。
 しかしセイバーは避けようともせず、むしろリタの蹴りへと自ら籠手を叩き付けていた。
「甘いッ!」
「!」
 蹴りの威力が最高点に到達する前に潰す。上手いが、言うほど簡単な事ではない。セイバーの桁外れの動体視力と反射をもってようやくなし得る妙技だ。
 籠手を使った裏拳で蹴りを弾かれ、体勢を崩したリタへとセイバーの振り幅の小さな斬撃が連続で叩き込まれていく。その連撃を、リタは崩れた体勢を敢えて直そうとはせずにそのまま大きく全身を倒すようにして回避すると、蹴り足が地面に接した瞬間今度は垂直に跳び上がっていた。
 目標を失ったセイバーの剣が空を斬るが、跳躍による回避は隙の大きい諸刃の剣だ。斬り上げで両断してくれようと聖剣を持つ手に力が込められ――
「く、ぬぅっ!?」
 意識を上方へ向けた瞬間、地面が爆ぜていた。
 爆破の魔術。当然、攻性魔術の爆破によってセイバーが直接ダメージを被ることはない。しかし爆ぜたのは足下、そのような状態で渾身の斬り上げなど放てるはずもない。
「絶対とも言える対魔力が仇となりましたわね」
 上空からの嘲るようなリタの声にセイバーは歯噛みした。魔術による攻撃に対して甘かった感は否めない。その後悔ごと切り払うかのように、セイバーは聖剣を振るった。
「こっの!」
 だが足腰に力の籠もらない斬撃などでリタを捉えきれるはずもなく、聖剣は日傘で軽くいなされた。そのまま宙空からの斬撃が二度、三度とセイバーを襲う。
「さぁ、どうしますの!?」
 されどセイバーもその程度で倒されるような腕ではない。
 必殺、とばかりに突き出された傘に、
「ッん!」
「あら」
 左腕を突き出していた。
 先程の蹴りを迎撃した時とは違い、籠手に覆われているとはいえ刺突を防ぎきれるはずもなく深々と日傘が左手の甲を貫く。その様を見てリタは感心したかのように呟いていた。
「流石ですわね、その思い切り――」
「ぬかせぇ!」
 セイバーの激昂が呟きを打ち消し、次の瞬間、リタは感嘆のあまり小柄な騎士王を抱き締めたい衝動に駆られた。
「つッ」
 凛は思わず顔を顰めていた。
 上等な手段だと、思う。しかしただ思い切りがいいだけでは咄嗟にこのような方法はとれまい。
「……ッ」
 痛みを堪えながら、セイバーは日傘に貫かれたままの左手を強引に下方へと振り下ろしていた。日傘をしっかと握り締めたリタを地面に叩き付けんばかりの勢いで。
「素晴らしい! 最高ですわよ、アーサー王!」
 反転、着地を試みようとしながらリタはセイバーを褒め称え――そのまま表情が強張る。
「もらったぁッ!」
 待ち構えていたのは、聖剣だった。
 無論、無茶な姿勢だ。満足に剣など振るえるはずもない。しかしただその場に構えただけでも、リタを両断するのにこの勢いさえあれば充分過ぎた。
「リタ・ロズィーアン!」
 絶叫する凛の眼前で血飛沫が舞う。
 その真紅すら呑み込んで、深まる霧は辺りを白く覆い尽くした。





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「えぇい、鬱陶しい!」
 激昂する茜がメーサーのトリガーを引くが、あまりの濃霧により出力が減退してしまっている。八〇、いや七〇%がせいぜいか。ともあれ眼下にいるはずの怪獣が致命傷を受けていないのは確かだった。まるで霧を触手が伝うかのように伸びてくる雷光が、現在茜達が搭乗している機体――ガルーダ――の翼をきわどく掠めていく。
 対特殊生物用高性能戦闘機、ガルーダ。
 スーパーX2の改修案と同時期に開発がスタートし、機敏性を重視した性能は最大飛行速度マッハ3を誇るが、その代わりに火力を犠牲にしてしまったことが仇となって実戦投入を見送られた機体である。それこそが、魔城以外で冬木を覆う謎の霧と雷を回避しつつ侵入出来るであろう唯一の手段だった。
 霧による冬木の遮断の報告があった直後に黒木は特自の戦闘機、及び戦闘車両を向かわせたが、結果は雷に遮られて侵入不可能。ならば無茶な突入を繰り返して闇雲に犠牲を払うような黒木ではなかった。必要なのは、雷を完全に防ぐことの出来る防御能力か、回避可能な速度だ。そう考え至りさえすれば、幸いにも浜松の空自基地に隣接する特自施設で見学者用の展示物となっていたガルーダを侵入に使用するよう黒木とヴァン=フェムが決断するまでは迅速を極めた。何しろ冬木にはこの戦いにおける最重要人物、コスモスがいる。敵の目的は不明だが、むしろ不明なだけに彼女達を確保されるのはまずい。
 冬木沈黙からほんの数時間。その数時間がどのように戦況を左右するかは、まだ誰にもわからない。
「未希さん、ヤツの位置は――」
「……変わって……ません。今と同じ位置です」
「後退も無し、って事ね」
 濃霧によって視界はゼロ、さらに付随する効果なのかレーダー関係もほとんどが不調ときている。未希のESP能力がなければ、とうの昔に雷撃に撃たれてガルーダも墜ちていたかも知れない。未希の同行に関しては出撃前に一悶着あったが、結果として彼女を連れてきたのは正解だったようだ。
「このっ!」
 急旋回し、再びメーサーを照射。メーサーと雷撃がぶつかり合って霧の中に青白い火花を散らす。火花に照らされ、一瞬怪獣の頭部が見えた。
 キリンのように白と黒が入り交じった体色、目と思しき部分からは代わりにアンテナのようなツノが生え、クルクルとまるで何処かと交信でもしているかのように廻っている。
 そしてその全身は激しく帯電し、雷光を放ち続けていた。
「ったく、ふざけたツラしてやがるくせに……なんて野郎だ」
 砲手は茜だが、操縦を担当してくれているのは結城ではなく権藤だった。後部座席には、未希だけでなく志貴とシオン、そして護衛のためにバルスキーが同乗している。
「すいません、権藤一佐、シオン・エルトナム。なんとか一時的に着陸する機会は稼ぐつもりですが……」
「別にお前さんが謝ることじゃないよ」
 殺気の籠もった視線は雷怪獣から逸らさず謝罪の意を述べる茜に権藤が「何言ってんだか」と手の平をひらひら振るう。それよりも、高出力メーサーキャノンが二門のみというガルーダの火力不足が単独で怪獣の相手をするにはやはり痛い。
「私達もリタのように単独降下出来れば良かったのですが……」
 真顔で述べたシオンに、それは絶対に無理だと志貴は心中でツッコミを入れた。バルスキーと、あるいは肉体が死徒化しつつあるシオンならエーテライトなどを駆使しつつ上手く単独降下も可能かも知れないが、少なくとも志貴とそして未希には絶対に無理だ。
「リタさんも、本当によくあんな無茶をするよ……」
「知り合ってから半年程経ちますが、彼女はいつもああです」
 どうにも無愛想なシオンの言葉に志貴は「うへぇ」っと眉をひそめた。未希の話では無事降下出来たらしいが、思いつきはしてもあんな真似、並の神経の持ち主ならとても実行出来まい。吸血鬼だとかどうだとかはこの際抜きだ。
「……でも、心配です」
「三枝さん?」
 呆れ顔の志貴や慣れたものと言いたげなシオンと異なり、未希はどうやら真面目に心配しているらしい。
「リタさんが降下した位置、色んな気配が混じり合ってて……多分あの波長は魔術師、それに女性の方がお二人だったと思うんですけど、すぐ側に凄く大きな力があったんです。それに……」
 言い淀み、未希は機体の直下へ視線を向けた。
「……それに、怪獣の気配もありました」
 ――怪獣――
 その一言に、全員が息を呑む。
 シオンは、キングジョーを通してゴジラと戦った。志貴も東京脱出の際に複数のレギオンと戦い撃破してきている。茜と権藤、そしてバルスキーは言わずもがなだ。怪獣の脅威を知らない者は、この機内にはいないのだ。
 無論、未希も。
 彼女の過去について志貴は何も聞いていない。そもそも顔を合わせてからまだ一時間と少しくらいしか経っていないのだが、こうしてESP能力によって怪獣を探知する時の苦渋に満ちた表情を見れば、なにがしかの因縁は容易に想像がつく。
 その因縁は、まず間違いなく不幸なものなのだろう。怪獣との幸福な因縁を持つ者を、少なくとも志貴は二〇年に満たない人生において一人として知らなかった。
「リタさんが降りた場所の近くに一体。この、雷を放つので二体。でも……多分、それだけじゃない」
「やれやれ、怪獣だらけってか。冬木市ってより怪獣都市だな」
 権藤の戯けにつきあって笑う者は一人もいない。微妙な空気が機内に充満する中、今までほとんど口を開くことの無かったバルスキーが野太い指を顎先にあて「ふむ」とごちながら意見を述べた。
「だがここでこいつを倒してしまえれば、少なくともあの厄介な雷の結界が消えてくれるはず。好機、と考えることも出来る」
 その通りだ。
 霧を発生させているのがこの怪獣なのか、それとも未希が感じている別の怪獣なのかはわからないが、雷に関してだけはまず間違いなくこいつの仕業のはずである。これが別のやつの仕業だったりすればそれこそ詐欺だろう。
「雷さえ消えてくれれば、特自や、我らヴァンデルシュターム財団も援軍を派遣することが可能だ。そうすれば怪獣の二体や三体程度なら……」
 撃破は可能、バルスキーはそう言いたかったのだろう。しかし安易に口にするには、彼は戦闘への造詣が深すぎた。
 成長途中にある小型や中型のギャオス、ORTの尖兵に過ぎないクリスタル・レギオンと“本物の怪獣”とでは、差がありすぎる。容易く撃破、殲滅など出来ようはずもないし、またその程度の怪獣を敵がわざわざ送り込んで来るとも考えられなかった。自軍への自負と敵に対する認識の板挟みに、楽観的な事だけ述べられるような器用さをバルスキーは持っていない。
「ま、正味のところ勝ち目は薄いんだ。着陸の時間だけ稼げりゃ充分よ。そう気負いなさんな、家城」
 権藤の言葉に志貴と未希は複雑に顔を歪めた。
 冬木突入の目的は怪獣の撃破ではない、コスモスの保護だ。言い換えれば、冬木を救うことは目的に含まれてはいないということになる。そんなことを考えながら、志貴はシオンの顔を脇目でちらと一瞥した。
 ナルバレックとリタの提案により、冬木突入後の白兵戦における小型、中型怪獣への対抗策として同行した志貴だったが、どうにもシオンとの間に隔意を感じていた。と言うより、一方的に避けられているような節がある。
 霧と雷に晒された冬木を眼下に見下ろしながら、シオンはまったく無表情だった。その錬金術師の顔の奥にどれだけ複雑な思考が内包されているか、全てを理解するなど不可能なことを志貴もそのくらいは充分にわかっている。ただ、自分に対する隔意だけがどうしてもわからなかった。
 久しぶりの再会からこの方、必要最低限以上にはほとんど会話がない。元々愛想のいいわけではないとは言え、シオンは別段他者とのコミュニケーションを軽んじる質でもないはずなのだが……
「さて、と。で、着陸後の事だが……シオン嬢ちゃん、お前さんが決めちまってくれ。俺は操縦に専念したいんでな」
 権藤に言われ、シオンは小さく頷くと後部座席に座っている全員を見回した――のだが、やはり自分に対してだけ妙に余所余所しいよう志貴には感じられる。そんな志貴の戸惑いにも似た懊悩を、シオンはわざと無視しているようだった。無視したまま、形のいい唇が言葉を紡いでいく。
「我々がすべき事ですが、知っての通りコスモスの保護、またはもし既に彼女達が敵の手に落ちていた場合はその奪還です。敵として想定される相手に関してですが……」
「英霊、もしくは敵方の二十七祖」
 力強く組まれたバルスキーの両腕がギシリと鈍い音を立てる。
「そうです。その場合、こちらの主力はバルスキー……貴方とリタにお願いするはずだったわけですが、リタは既に何者かと交戦中の可能性が高い。……彼女の性格から考えて、冬木の魔術師である遠坂、間桐両名を連れて即その場から離脱など……ありえないでしょうから」
「それに、勝っても負けても無傷とはいかぬだろうな」
 呆れ気味ではあったが、バルスキーの言葉には不思議と棘はなかった。彼自身は真面目で責任感の強い性格ながら、リタのような奔放な相手というのもそれはそれで嫌いではないらしい。
「まぁ、死にはしないだろう。彼女はああ見えて戦士としては一流だ。引き際も心得ぬような愚か者ではない」
 戦士としては一流、という部分には志貴も納得していた。が、引き際に関してだけは微妙に疑問が残る。リタの人となりを詳しく知っているわけでもないのだが、引くべき時にあっさり引く様がどうにも想像しづらいことこの上なかった。
 と、リタについて考えていた志貴のことが気に懸かったのか、バルスキーが言葉をかけた。
「そう不安そうな顔をするな、遠野志貴。君が考えているよりも、リタ・ロズィーアンという女性は遥かに有能だぞ」
「いや、その……不安、って事もないんですけど」
 正直、リタの安否が、と言うより真意が気になる。
 今回、志貴の同行を提案したのはリタなのだが、直死の魔眼は切り札になりうると言っても、志貴の能力上英霊や祖相手にはまず通用しないと見ていい。致命必滅の一撃と言えどもあたらなければ意味がなく、リィゾのように何らかの理由で線が視えない相手や英霊のように霊格の高すぎる存在にはやはり無力だ。リタがわざわざ同行を提案する程の理由が、他ならぬ志貴には思い当たらないのである。
 シオンならわかるのではないか、とも考えたが、こちらも話しかけようにも話しかけられず、結局そのへんの疑問は宙に浮いたままになっていた。
「何か、迷っているのか?」
「うーん、別に迷ってるわけでもないんです。ただ……」
 ゴーレムを相手に、くだけているとは言えつい敬語で話してしまう自分の性格では今のシオンから聞き出すのはどちらにせよ不可能な気がして志貴は軽く笑った。それを見てバルスキーの紅い目が「わからん」とでも言いたげに点滅する。
「よく、わからんが……もし問題が解決しないのであれば、早めに頭を切り換えた方がいい。降りれば、そこは戦場だ」
 厳しいが、なんとも人間らしい物言いだった。ヴァン=フェムは最新の人工知能だと言っていたが、実は中に人間か吸血鬼が入っているのではないかと疑いたくなる。
「もっとも、俺達のような者からしてみれば、自由に迷うことが出来るというのは人間の美徳だと認識しているがな」
「バルスキーさんは、迷ったりはしないんですか?」
 問うたのは、横で話を聞いていた未希だった。
「類似する思考状態に陥ることはある。が、どれだけ人間に近付いても我々は人造物だ。最終的には造物主の意向に従うという結果が待っている以上、その迷いは自由とは言えないだろう。……我らが造物主である魔城のヴァン=フェムは、自由に迷う我々を楽しみこそすれ押し止めたりはしないかも知れないが」
「……あー。確かに、反逆でもされたら物凄くおもしろがりそうな雰囲気ではありますね」
 志貴の言葉に、「だろう?」と言ってバルスキーは低く笑った。
 と、その時――
「和気藹々としているところ悪いが、このままじゃ埒があかないからな。一気に仕掛けるぞ」
 後部を振り返りもしない権藤の口調こそはいつものままながら、雰囲気には例えようのない緊張を孕んでいた。一方で茜は無言のまま、霧の向こうの怪獣を鋭く睨みつけている。
「家城、あのクルクルとムカつくアンテナ狙いだ。上手く――」
 急上昇、そして急旋回。雷撃を避けながら、ガルーダが怪獣目掛けて霧の中を驀進していく。
「――狙えやッ!」
「了解ッ!」
 二門の高出力メーサーキャノンのトリガーを、砲身が焼けつく限界ギリギリまで、むしろ限界を超えて引いて、引いて、引き続ける。
「うぁああああああああああッ!」
 茜の絶叫と呼応するかのように青白いメーサーのプラズマ光は霧を裂いて突き進み、炸裂、そして――爆発。
 目も眩むような光のうねりの中、雷鳴と怪獣の咆哮とが、不気味に響き渡っていた。





◆    ◆    ◆






 濛々たる霧の白。
 飛び散った鮮血の紅。
 口元を抑えながら、それでも凛は目だけは閉じなかった。目前の激突をしかと見つめ、呻きさえ漏れない喉にグッと力を込めた。
 深々と、斬り裂いている。
 騎士王の聖剣が、女吸血鬼の左腕を。
 肩から肘下までバックリ、まるで玉葱でも剥いたかのようにベロンと、痛々しくも滑稽にリタの腕は裂かれていた。
 では、地面を染めた鮮血は彼女だけのものか。
 ……そのようなはずもない。
 セイバーもまた、同様に左手を。自らリタの日傘トゥインクル・スターライトへと突き出した左手が、こちらは裂けるのではなく爆ぜていた。当然だろう。
 あの瞬間、二人の身体が交差する刹那、リタは日傘を開いていた。突き刺されたままの傘が開けばそこがどうなるかなど考えるまでもない。結果、セイバーの左手は爆ぜ、中指と薬指は千切れ飛んでいた。残る三指も皮と肉によりかろうじて繋がっているだけだ。
「……さて、と。おもしろくなってまいりましたわね」
「……ッ」
 さらに飛び散った鮮血に、凛の眉が顰められる。
 酷薄とした笑みを浮かべつつ、リタは捲れた自分の左腕をあろうことか千切り捨てていた。
 痛痒を感じていない者の顔ではない、呻きもせず、笑みもそのままだが、苦痛は眉間や口端を僅かに歪ませている。
 一方で、俯いているセイバーの表情は窺い知れない。ただ、静かに淡々と、言葉だけが紡がれていく。
「おもしろい、か。この戦いをも愉しめる……羨ましいとさえ思いますよ、リタ・ロズィーアン」
 紡ぎ出された内容に反して、上げられた顔は、凛然として爽やかだった。手首から先が用を為さなくなった左手を眼前に、聖剣を握り締めた右手はリタへと切っ先を向けて構え、自嘲気味な吐息を漏らす。そんなセイバーから凛が読みとった感情は、諦観だった。
「私は愉しめない。愉しめる、わけがない。……それが、少し、残念だ。貴女とは、もっと心ゆくまで死合いたかった」
 心底残念そうに――むしろ無念にさえ見えた顔には、決着をつけるべく既に壮絶な決意が浮かべられていた。
 騎士王の決着とは、即ち――
「……約束された……勝利の、剣……ッ」
 全てを呑み込む濃霧ですらその輝きを隠すことは出来ない、セイバーことアーサー王が持つ必殺の宝具。凛が苦しげに呟いたその名を聞いて、リタは口の端をさらに吊り上げた。
「なるほど。聖剣の真価はその鞘――わたくし達が生きるこちら側の世界の者なら誰もが知る事実ですが……かつて小父、白翼公トラフィム・オーテンロッゼが申しておりましたのよ。あの話には、大きな誤りがある、と」
 凄惨な笑みは愉悦に歪み、ぶら下げたままの左腕は無視して日傘を握った右腕のみがゆったりと宙に弧を描く。
「あのような言い方では、全てを斬り裂く聖剣の光刃を蔑ろにしている。保有者を不死身にするとも言われる鞘の効果は確かに驚くべきものだが、かといってその剣威は決して侮っていいものではない……。小父様の話をこの目、この身で確かめられる日が来ようとは……。フフ、愉しいですわ。愉しいですとも……アーサー王」
 クルクルと、クルクルと。
 開き、閉じ、傘が巡る。
 斬り裂かれ、引き千切られた左腕から溢れ出る血が自慢の衣装を赤く侵食していくその様は、まさに狂乱。
 やがて狂乱の淑女は恭しく頭を垂れ、獲物を狙う猛禽さながらの威圧感を滾らせながら――
「……ふぅ」
 溜息を、吐いた。
「……え?」
 事態を見守っていた凛にも、何が起こったのかわからなかった。リタは盛大な溜息の後、動かぬ腕に無理をさせて左の脇に日傘を挟み込むと、駆け出していた。
 セイバーに向かって――ではない。
「え? ……は、あー、え?」
 凛へ。スカートをはためかせながら、全力疾走。
「本当に、本当に残念ですわ。まったく、無粋極まる」
 そのまま右腕を伸ばし、戸惑う凛を引き寄せる。血の臭いのする豊満な胸に顔を埋める形となり、凛は余計に動転した。
「ちょ、ちょっと……何を――」
「舌、噛みますわよ」
 そして、跳躍。
 疑問も文句も許されず、凛は全身を霧と風が撫でていくのを感じていた。まるであの聖杯戦争の折、赤い弓兵に抱きかかえられ夜の町を疾駆した時のように。
 だが懐古の念は長くは続かなかった。
 何かが、霧を裂く。
 霧を裂き、空を押し潰し、風を巻き起こして――
 それは、凛の視界を埋め尽くしていた。
「……な、んなの、よ……こ、れ……?」
 全身の自由が利かない。気の利いた台詞も何も出てこない。ただ呆然と、そのあまりにも信じられない光景を、見ていることしか出来なかった。飛来するコンクリートの欠片、薙ぎ払われた木々、土砂、そしてそれらを引き起こした、巨大な異様。
 凛は見たのだ。見てしまったのだ。
 自分の身体の十倍はありそうな、甲殻を。蟹や蠍のものをさらに禍々しく変容させたような、無骨な鋏。
 鋏だけで凛の十倍。ではその鋏の主は果たして何者か。
 優秀な魔術師の脳は、一般人なら錯乱し喚き散らすであろう事態にあってもまだ冷静に判断しようとしていた。しかしそれにも限界はある。震える全身が限界を告げている。
「こい、つ……」
 弱い。
 人間なんて、たとえ稀代の天才魔術師だなどと呼ばれようともどんなに弱く、ちっぽけな存在なのか。
 感じているのは確かな恐怖。かつて伝説の英雄達を前にしても怯むことなく挑みかかっていった凛が、恐怖を感じていた。優れた認識力はその恐怖のためか、目の前のそいつを認めたがらない。
 ……認め、られるものか。
 ありえない。ありえるはずがない。
「そうよ……だって、こんな――」
 ――こんな巨大な生物が、存在していいはずがない。生物であっていいはずがない。だって、違いすぎる。
 スケールが違う。
 ステージが違う。
 全てが違う。
 あの夜セイバーの剣に抱いた畏敬は本物だった。バーサーカーに抱いた恐怖は本当だった。それでも、英霊のことはまだ英雄、かつて人間であった者だと認識していた。それは人間の延長線上にあった。人間が人間を畏れ、怖れる感情だった。
 だが、コイツは……なんだ?
 地鳴りがした。
 地鳴りではなくそれが鳴き声だと気付くのには数秒を要した。
「……う、あ、あぁ……っ」
 鋏が引き上げられていく。腕の長さが、尋常ではなかった。
「これはまた……おもしろい構造ですこと」
 霧の向こうから腕だけが伸びている、凛にはそう見えた。
 全容は掴めない。大きすぎて。霧の深さ以上に、その圧倒的な大きさに全体像を掴むことが出来ない。
 リタの胸の中で、凛は詠唱を聞いた気がした。華麗に歌うような詠唱は実にリタらしいものだったが、その直後に響いた無粋な爆音はまるで正反対だった。
 ダメージは……おそらく、皆無。
「当然のように、カマキラスやギャオスよりも頑丈ですわね」
 呆れたように呟いて、リタが疾走する。つい今の今までいた場所に、再び巨大な鋏が突き出されていた。
「……これ、が……怪獣、なの?」
「ええ、そうですわ。わたくし達がどのように足掻こうとも、まさに九牛の一毛。人間も、吸血鬼も、英霊も、あらゆる幻獣や魔獣をも圧倒しながらそれでも現実に肉の体を持って生きる、最凶の生物」
 説明しながら、さらに爆破。
 散発的に空間が弾けていくが、濃霧のためか狙いが定まらない。対して怪獣の攻撃はまるでこちらの動きを全て把握しているかのように正確無比だった。
「見えてるの、かしら?」
「さぁ、どうでしょう。彼らの身体構造はわたくし達の常識を容易く覆しますから……」
 血を流しすぎたためか、リタの顔はひどく青ざめていた。血は吸血鬼の命の源、いかに不死に近いと言っても流しすぎては当然死んでしまう。凛を抱えて疾駆する動きも、次第にぎこちないものへと変わっていた。
「リタ・ロズィーアン……あなた、大丈夫なの?」
「あまり大丈夫とも、言えませんわね」
 答えた瞬間、リタの身体が左に崩れた。
「なっ!? その脚……ッ!」
 今まで左腕にばかり気を取られていて気付かなかったが、リタのスカートは引き裂かれ、血に染まっていた。どうやら左脚がかなり深く傷つけられているらしい。
「……流石はアーサー王。魔術抜きで戦うには、いささか分が悪すぎましたわね」
 あの交差の瞬間、セイバーは勢いよく引き寄せたリタの身体を構えた聖剣に叩きつけ両断しようと試みたが、咄嗟に開かれた傘によって勢いを殺され左腕を斬り裂くにとどまった。果たしてその直後、左手を破壊された痛みと衝撃に耐えながら騎士王は振るっていたのだ。聖剣を、吸血鬼の脚を狙って。
「無茶よ、そんな脚で私を抱えて逃げるなんて……!」
「無茶でしょうねぇ。ですから先程からこうして倒そうと頑張ってみたのですけれど……それも、やっぱり無茶でしたわね」
 寂しげに微笑んで、リタは膝を突いた。右腕からも力が抜け、凛の身体を解放する。
「……お逃げなさい、リンさん」
「ちょ、ちょっと!」
「時間は、稼いでさしあげますから」
 死力を尽くせばそのくらいは可能だろう。撃破は不可能でも、全能力を解放すれば腕の一本や脚の一本くらいは吹き飛ばしてみせる、そのくらいの自負はある。
「わたくしの我が侭につき合わせてしまったお詫びですわ」
「そ、そんなこと……」
 無い、と言い切れぬ部分もあるが、しかし逃げる機会はあったのに逃げなかったのは凛自身の責任だ。
 見取れてしまったのだから。セイバーと、リタの戦いに。
「さぁ、お早く。わたくしの仲間達も冬木に来ておりますから、なんとか彼らと合流し、コスモスを連れて脱出してくださいな」
 頽れかけた左脚に力を入れ、リタは再び日傘を構えた。傷だらけの身体の何処にこれだけの量が残っていたのか、膨大な魔力が集束していく。
「アーサー王も、リンさんに手出しは無用ですわよ。もし手出ししたなら、爆風で月まで飛んでいただきます」
「……」
 セイバーは何も答えない。そもそも彼女のダメージとて軽いものではないのだ。爆ぜた左手からは血が流れ続けている。出血量だけ見れば、生身の人間なら間違いなくまずい量だろう。
 凛は、迷っていた。逃げるべきだ。そもそもリタに義理立てする必要なんて無い。彼女とはついさっき会ったばかりで、一応は味方だと言っても所詮は人間の魔術師と吸血鬼、彼女につき合って死んでやる必要性など皆無なのだから。
 こんなところで綺麗事を並べ立てても意味がない。魔術師として最善の行動をとる、自分なら、とれるはず。
 そう言い聞かせ、凛はゆっくりと――
「……リンさん?」
 両手を前に突き出していた。
 セイバー相手に宝石は使いきってしまった。残ってる魔力なんて絞り滓もいいところだ。けれど……
「逃げ切れる保証なんて、無いし。なら、怪獣相手に持てる力でとことん抵抗するのが、一番人間らしい行動じゃない?」
 震えていたと、思う。
 凛は確かに恐怖していた。怯えていた。だが、視線は霧の中の怪獣をしっかと捉え、睨め上げていた。
 リタは呆れただろうか。セイバーも。
 だが、それでもいい。
「所詮は九牛の一毛って言うなら、九匹全部引っこ抜いて丸裸にしてやればいいだけの事よ。そんでもって夜は焼き肉パーティー。最高じゃない。九匹なんて食べ放題だわ」
「あら、いいですわね焼き肉パーティー。わたくしもお相伴にあずかりしてよろしいかしら?」
「ええ、勿論」
 答えて、そう言えば吸血鬼はニンニクたっぷりの焼き肉なんて食べられるんだろうか、と凛は場違いに頭を捻った。衛宮邸では焼き肉の際は肉に士郎がわざわざ下味をつける。その味付けがまた絶妙で、いつもつい食べ過ぎてしまうのが悩みの種だった。
 ……セイバーも、殊更にたくさん食べたものだ。
「ふ、ふふ」
 感傷に浸る凛の目前には、巨大な鋏が迫りつつあった。
 リタの膨大な魔力と、凛の僅かな魔力が膨れ上った。爆破と魔弾、怪獣の巨容に対しあまりにも儚い抵抗が、炸裂する。
 痛みを、感じているのだろうか。
 凄まじい爆発だった。人間であればたとえどれだけ屈強な戦士であろうとも微塵に吹き飛ばされることは必定の、大爆発。
 しかし鳴き声はやまない。むしろ荒れ狂い、より一層大きな暴力となってそれは凛とリタの頭上に振り下ろされた。
「……はぁ」
 零れ出たのは諦めか、自嘲か。
 もはや、回避は不可能。爆煙と霧を割いて迫る鋏は爆発によって微かに焦げていたようだが、欠損は無い。それが自分達の限界かと思うと悔しさも込み上げたが、今となってはどうでもいいことだ。
 瞳を閉じるか閉じないか、少しだけ迷った。が、結局閉じないことにした。
 せめて睨み続けてやろう。人類の、抵抗の証として。





◆    ◆    ◆












◆    ◆    ◆






 死を覚悟した。
 死ぬことは確定事項だった。
 振り下ろされた巨大な甲殻、死の鋏によって凛の生命は断ち切られたはずだった。
 なのに――



「……エクス……カリバー……」
 閃光が、鋏と激突していた。
 光の刃と甲殻がぶつかり合い、火花を散らしている。
 凛はその光刃のもとを、剣の担い手を見た。そこでは右腕一本でエクスカリバーを振るうセイバーの姿があった。長大なレーザー光線のような剣で巨鋏を受け止め、歯を食いしばる友人の姿が。
「……げ、……い……」
「え?」
 セイバーが、何か言っている。
 左手からは相変わらず夥しい血を流したまま。だがその血は、どこか不自然だった。隣でリタが「そう、やはり」と呟くのが聞こえたが、凛にとって重要なのはセイバーの赤い血の流れに混じったドス黒く濁ったもの、まるでコールタールのような黒い何かだ。
 その何かに思い巡らす前に、セイバーがもう一度、今度ははっきりと聞こえるように叫んでいた。
「逃げなさいッ! 早く! ――……ッ!」
 端正な騎士王の顔が苦痛に歪む。その苦痛を力尽くでねじ伏せるかのように、セイバーは吼えた。
「……リンッ!!」
 大切な、友人の名前を。





◆    ◆    ◆






「あの……光……」
 天高く伸びる、濃霧の中にもはっきりと見える一筋の光に少年は目を見開いていた。見間違うはずがない、神々しい光だ。
「……ッ! セイバー!」
「あ、おい! 衛宮!?」
 突然走り出した衛宮士郎に、美綴綾子は驚いて声をかけた。だが彼は止まらない。まるでブレーキの壊れた機関車のように、視界最悪な道を天へ伸びる光目指して真っ直ぐ駆け抜けていく。
 綾子がこの円蔵山の麓にあるシェルターで士郎と会ったのは、まったくの偶然だった。数日前からいなくなってしまった二人の家人を捜して彼が冬木中を奔走していたのは知っていたが、原因不明の濃霧と、そしてまるで鳴き声のような地鳴り、怪獣を見たという証言まで飛び出してパニックに陥った付近住民を誘導するための役を士郎は買って出て、綾子もそれを手伝っていたのだ。
 この付近にいた人々は士郎達のおかげでほとんどシェルターに入り終えたはずだ。しかし、どうするか……
「あーっ、ったく、もう!」
 やや乱暴に頭を掻き、綾子は士郎が走っていった方へと同じく駆け出していた。
「お、おい美綴、何処へ行くのだ!? それに衛宮はどうした?」
 同じく円蔵山の中腹にある柳洞寺からこのシェルターへと避難してきていた柳洞一成が、いなくなった士郎とその後を追おうとする綾子に声をかける。既に霧のために一成の顔は見えなくなっていたが、綾子は速度は緩めずに振り返り、答えた。
「ごめん、柳洞! 衛宮を連れ戻してくる!」
 そして出来る限り足下に注意しながら、駆ける。
 光が伸びているのは、丁度山の反対側付近からのようだ。
「……まったく、何だってのよ」
 悪態を吐きながら、綾子の姿は霧の中へと溶け消えていった。








〜to be Continued〜






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