episode-17
〜激震の冬木〜
Part 4 霧の中は血の匂いに満ちている


◆    ◆    ◆






 閃光はまだ天へと伸びていた。
 真っ直ぐに、白い霧の中を光持つものはまるでそれしか存在していないかのように、どこまでも。
 エクスカリバー。
 勝利を約束された一条の閃光を見るのは半年ぶりだが、その輝きには相変わらず僅かな翳りさえない。
「セイバー……セイバー……ッ!」
 民家、塀、電柱、ガードレール、石ころ……。障害物の群れにぶつかり、時に跳ね飛ばしながら士郎はがむしゃらに走った。日本の、さらには世界の危機的状況下にあって行方を眩ました恋人の安否がようやく知れようと言うのだから、無理もない。
「ああ、もう! 見てらんないねぇ」
 その後ろをこれまた全速力で追いかけ――しかしこちらは士郎が激突した障害物を器用に避ける程度の余裕は持ちつつ――ながら、綾子はやれやれとばかりにぼやいた。
 理由はわからないが、士郎はあの天へと伸びる光の下にセイバーがいることを確信しているらしい。視界最悪な濃霧の中、それだけが本当に異質に、明確に見える光線。だが、近付くたびに光が僅かに揺れているのがわかってきた。
「なんだい、あれ?」
 どうやら固定された照射台のようなものが光源というわけではないようで、考えても綾子には光の正体は見当がつかなかった。
「誰かが照明持って振り回してるようには見えないし……」
 それは、強いて言うなら――
「……何かと、押し合ってる?」
 ように見えてしまう。そう考えてしまうと、もうそれ以外には見えないくらいに。
 馬鹿げている。光が何かと押し合うなど、それはいったいどれだけ高密度な粒子塊だというのだろう。少なくとも綾子が知る限りの知識で人類はライトセイバーやビームサーベルのような光学兵器を完成させてはいないはずだ。
 ニュースでレーザー兵器の開発云々は何度か見かけた覚えがあるが、その中で日本では対怪獣に重きを置いた上で生物に効果的なメーサー兵器開発が主とされてきたため、他国と比べてレーザー兵器の技術は幾分か劣っていると言っていた気もする。学校にはその手の軍事兵器ネタに詳しい者も何人かいたはずだけれど、いずれも例外なく男子、それも綾子とは縁の薄い類の人物ばかりであったため多少の興味はあっても彼らに話を聞くような機会はなかったのが今少しだけ悔やまれた。
「あーっ、考えてたって仕方ないか!」
 クシャリ、とやや乱暴に前髪をかき上げて、綾子は士郎と併走すべく一気に速度を上げた。仮にも弓道部の元部長、それどころか武芸百般を志す穂群原きっての女傑である。本気を出せば士郎に追いつくことくらいどうとでもなる。
「おい衛宮!」
 相変わらず障害物に激突しながら進む士郎の肩に手を伸ばし、綾子は事情を問いただそうと試みた。が、士郎は止まらない。
「セイバーッ!」
 肩を掴んだ友人の手を振り解き、士郎はなおも前進しようとする。力尽くとなると綾子も士郎には敵わない。柔を用いてスッ転ばしてやろうかとも思ったが、それは流石に気がひけた。
「衛宮、ちょっと落ち着きなって!」
 そうこうするうちに、光が徐々に傾いていくのが見えた。揺れながら、見えない力に押しきられるかのように。
 再び綾子が掴んだ士郎の肩は激しく震えていた。顔なんて見なくてもその焦りは文字通り手に取るようにわかった。直情の赴くままに走るだけの理由が、士郎には見えているのだ。
 止められない。その理由が見えていない自分には、この友人を止めることは出来ないのだと綾子は悟った。悟り、力が弛む。
 拘束から解放され、士郎が一歩踏み出す。そのまま、勢い込んで再びがむしゃらに走り出そうとするのを遮ったのは、今度は綾子ではなかった。
「今、あなたをあちらへ行かせるわけにはいきませんね」
 ピタリ、と踏み出したままの士郎の足が止まっていた。
 聞き覚えのある声が、霧の中でまるでエコーがかかったかのようにそこかしこに反響し合う。そのせいで声の主の位置が判別できない。例え方向がわかったとしても姿を視認するのはまず不可能だろうと、わかっていても綾子は周囲を見回した。
「今の声って」
 聞き間違いかとも思ったが、女性にしてはやや低めのこの落ち着き払った声、それに日本人のものと微妙に異なる日本語の発音はそうそう忘れられるものでもない。だが、彼女はもう一人の異国の少女と共に居候先から忽然と姿を消したのではなかったか。
 注意深く綾子は五感、中でも今の状況でもっともあてになるであろう聴覚を研ぎ澄まさせた。僅かな音をも聞き漏らさぬよう両の耳に神経を集中させる。
 世に達人と言われる人々のように瑣末な音から相手との距離を測り暗所であってもまるで見えているかのように振る舞う――そのようなスキルは、いくらこの年齢にしては希有な技量を持つ綾子と言えども有していない。とは言え、音というファクターがどれだけ重要な位置を占めるかは知っているつもりだ。常から矢羽根が空を裂く音を注意深く聴いている事もあり、耳には相応の自信があった。
 遠雷が、もうずっと長いこと鳴り続けている。地鳴りもだ。しかし今はそれら全ては雑音に過ぎない。それらとは全く別種の、足音でも呼吸音でも何でもいい、聞き分けることが出来れば――
「――ッ!」
 瞬間、綾子はそれを聞いた。
 金属が弾かれ合うような耳障りな音。遠雷や地鳴りに比べればまったくの微音ではあったが、確かに霧中に響いたのだ。ジャラリと硬質なものが打ち合う音と、次いで礫が空を裂くかのような鋭い音。
 覚えのある音だ。以前薙刀を学んでいた頃、直心影流薙刀術の演舞を見学した際に併伝されている“それ”も綾子は目にしていた。だからこそ音で判別出来たと言えよう。そして、それがどのように襲い来るかも。
「鎖だっ!」
 綾子が叫んだのと士郎が飛び退いたのは果たしてどちらが早かったか。
 ともあれ、つい今し方まで士郎が立っていたはずの場所には鋭く細い穴が穿たれていた。まるで槍による刺突だが、その実は異なる。銀の鎖と、その先端についた釘のような短剣による一撃はまさしくそう――鎖鎌のそれに似ていた。
 鎖鎌に関して綾子は実際に修得しているわけではない。直心影流薙刀術に併伝される直猶心流鎖鎌術の演舞を一通り見ただけだが、その要求される技術難度の高さから自分にはまだ早いと考え、もっと高みに達した際に学ぼうと決めてある。
「くっ!」
 飛び退き、身を屈めた士郎が今度は横っ飛びに避ける。そこに再び疾る銀鎖の閃光。
「凄い……」
 思わず綾子はそう漏らさずにいられなかった。
 鎖鎌という武器について、綾子も実際に演舞を目にするまではやたら長い鎖とその先についた分銅や鎌をブンブン振り回して攻撃するものだと思っていたが、実際にはまるで違う。流派にもよるが、例えば直猶心流では鎖は短く、分銅も無駄に振り回したりはせずに動きは楕円から直線を描く。今目の当たりにしている銀鎖による攻撃も、先端の短剣も相まってまさに長槍による刺突そのものだ。
 しかしこれだけの長さの鎖を直線の動きでかつ連続投擲するなど、それは果たしてどのような技術なのか。霧で視界が塞がれているとは言え使い手の姿が影さえ見えないのだから、どんなに少なく見積もっても鎖の長さは4〜5メートルからはあるはずだ。だと言うのに投擲から自らの手元に手繰り寄せ、再投擲するまでのラグが怖ろしく短い。鎖は獲物に襲い掛かる毒蛇のように俊敏に、正確に士郎を狙い定めていた。濃霧をものともせずに、まるで向こうからは全て見えているのではないかと疑いたくなる。
 ……と、そこで綾子は不意に我に返った。
「これ……なんなんだ?」
 技術に驚嘆している場合などではない。そもそも、目の前のこれはなんだ? まるで理解不能な光景だ。
 理解不能と言えばそもそも今日の、そしてここ最近のこの国、さらには世界の至る所で起きているらしい出来事のほとんどが綾子の理解の範疇外だったが、目前で展開されているこれはどうしようもないくらいに現実である。
 人づてに聞いた、テレビ越しに見た、新聞を読んだ――いずれにも該当しない。己の目が、耳が、夢でも幻でもなく確かな現実であることをさも当然のように告げてくる。
 現実が、津波のように牙を剥く。
「衛宮!」
 非現実的な現実は何も霧中に煌めく銀鎖だけではない。綾子がよく知るはずの友人もまた、常軌を逸していた。
「つッ!」
 士郎の手にした剣が短剣を弾く。
 両刃の西洋剣。日本刀の銘にならばそれなりに造詣の深い綾子だったが、こちらはさっぱりだった。ショートソードとロングソードの定義の違いすらよくわからない。と言うより、そもそもこの疑問は剣の種類云々以前のものだ。
 士郎は、どこからあのような剣を取り出したのだろう。
 彼は何も持っていなかった。そしてあのような剣が道端に落ちているはずもない。ではあの剣は、どこから顕れたのか。
 思考に深く靄がかかる。霧よりも濃い。
 ――途端、震えが来た。
「……あっ」
 両腕で必死に身体を抱きしめても止まらない。理解出来ないものへの恐怖が今さらのように湧き上がってくる。
(なに? 本当に、なんなのこれ?)
 戦いだ。
 本物の、実戦だ。
 武を志す綾子にはわかる。わかってしまう。士郎へと迫る銀鎖の撃が決して冗談などではない、殺気の籠もったもの、正真正銘の実戦であることが。
 逃げるか?
 逃げるべきだ。当たり前ではないか。逃げずに踏み止まってどんな意味があるというのだろう。士郎を引っ張って無理にでも逃げるべきなのだ。士郎を引っ張る事すら、不要かも知れない。生物としての本能は美綴綾子という生命を生き延びさせるために一刻も早い退避を促している。
 士郎は剣を手になんとか短剣を弾き続けているが、無理だ。弓の腕には目を見張るものがあっても、士郎には全くと言っていいくらい剣才がない。それでもかろうじて防いでいられるのは以前に槍の使い手と相対したことでもあるのか、ともあれ傍目にも危うげな士郎の技量であの鋭い連続攻撃を防ぎ続けるには限度がある。
 士郎は気付いているのかいないのか、そもそも相手の腕から鑑みるに攻撃がやけに単調すぎるのだ。罠、と見るのが妥当だろう。
「くっ、うぅ〜」
 唸った。唸って、綾子は戦い続ける士郎を囮に自分一人逃げ延びようとする生存本能をグッと呑み込んだ。理由は……難しく考えるのは今はそれこそ不要だ。見捨てたら寝覚めが悪い、くらいで充分なはずである。武道家としての最後の矜持だと、格好をつけてみるのもいいかも知れない。
 何としてでも士郎と一緒に、脱兎の如くに逃げる。そう心中で定め、綾子はいまだ震える脚で一歩踏み出そうとし……結局はまたも躊躇する羽目に陥った。
 どこに?
 どうやって?
 それがわからない。
「〜……っ」
 痛いくらい歯を食いしばった。武芸百般に精通し武道家を志すなどと息巻いてみたところで、いざこのような事態に直面してみればなんたる脆さなのか。己の惰弱さに唾を吐きかけたくもなったが、今の綾子にはそれすら出来そうにはなかった。食いしばりすぎて血の味がする奥歯の辺りをかち鳴らし、綾子は叫んだ。
「衛宮ぁッ!」
 言葉には出さずとも、逃げろ、と。
 相手がまだ本領を発揮する前に、どんなに無様でもいいから生き延びることを選ぶべきだと、武士道精神などそっちのけで素直にそう思った。むしろ本能が叫びとなったと言っていい。それに、士郎が逃げてくれたなら自分も逃げることが出来る。逃げる先なんてどこでもいい、方法だってどうとでもなる。兎に角、士郎が逃げる意志さえ見せてくれれば――
「申し訳ありませんが、行かせるわけにも、逃がすわけにもいかないのですよ……アヤコ」
「!?」
 懐かしいと言うには早すぎる、独特の発音で名を呼ばれ綾子は唇を震わせた。
 同時に、士郎の構えた剣に鎖が巻き付いていた。例え槍のような鋭さを持つ刺突であっても実際には鎖であることに違いはない。そして鎖である以上、その撃は直線のみにはおさまらないのだ。
「うわっ」
 つんのめりそうになりながらもかろうじて踏み止まった士郎は既に息を切らせていた。先程まで怒濤のような連続攻撃を捌き続けていたのだから無理もない。
 そうして士郎の動きを封じながら、声の主はゆっくりと霧の中からその姿を現した。
「シロウと彼女を会わせると、都合が悪いものですから」
 黒い、女。
 最近ではもうほとんど見かけなくなった、身体にピタリとフィットした黒のボディーコンシャス――所謂、ボディコン――に身を包み、不気味なアイマスクで眼を覆い隠してはいるが、綾子は彼女のことをよく知っていた。どうにも原因不明な苦手意識もあったとは言え、友人と呼んで差し支えない関係だったはずだ。
「……ライダー」
「……ライダーさん」
 士郎と綾子、二人の呻くような声で呼ばれた女は、なんら表情を変えることなくさらに一歩距離を詰めた。
 下着にまで染み込んだ湿り気が霧の水分かそれとも汗によるためのものなのか、綾子にはわからなかった。





◆    ◆    ◆






 真っ赤な血と、そこに混ざるドス黒い液体。
「ぐ、ぐぐぐっ――」
 感覚など無いだろう。力なんて入るわけがない。使い物にならない爆ぜた左手をそれでも聖剣の柄に添えて、セイバーは迸る閃光の刃で巨大な鋏を受け止めていた。
 だが、受け止める、という表現には語弊があるかも知れない。
「う、あぁあああああっ!」
 セイバーの両足はアスファルトを割り、その場に沈み込みつつあった。あまりにも、あまりにも大きさが違いすぎるのだ。おそらく相手の怪獣は攻撃でも何でもなく、ただ無造作に鋏を伸ばしただけなのではないかと凛にはそう感じられた。
 セイバーの強さはよく知っている。あの矮躯に、とてつもない力が秘められているのを凛は何度も目にしてきた。それでもこの馬鹿馬鹿しいまでのサイズの違いを前にしては、セイバーが強いか弱いかなどどうでもよくなってくる。
 何も出来ず呆然と佇んでいた凛に、セイバーの檄が飛んだ。
「……に、げろと……言ったでしょう!? う、ぐぅぅ……なにを、しているので、す……早く……リタ……ロズィーアン! リ、ンを――」
 既にその身体は腰まで沈み込もうとしていた。どうするべきか、凛にはわからなかった。動揺している、かつてない程に。
 凛は、傍らのリタを見た。
 セイバーとの戦いによるダメージで彼女も大きく疲弊していた。単純な傷の深さはセイバー以上だ。それでも、彼女なら凛を連れてこの場から離脱するくらいはやってのけよう。リタの実力から鑑みるに、そのくらいの余力は残してあるだろうと思う。
 そして、凛の考えなどお見通しとばかりに、リタも凛を見ていた。
「さぁ、どうしますの?」
 心底からの、まったくの軽口と言った風だった。
 この決断が持つ意味がどうしようもなく重大である事を、凛は理解していた。そこには自身の生命、セイバーの生命、リタの生命、枝葉のように別れた先には他にも様々な結果が懸かっている。
 深く考えなければならない。考えに考えに考え抜いて、納得のいく答えを、求める全てを得られなくとも最善に近い答えを導き出さなければならない。そのプレッシャーが、凛を押し潰しそうになった。
「……か――ッ」
 開いた口から呼気ともつかぬ何かが吐き出される。
 計算高く、非情に徹しろと何度も自分に言い聞かせる。懊悩に次ぐ懊悩。臓腑を引きちぎられ、磨り潰されるかのような感覚は果たしてどのくらい続いただろうか。
 途方もなく長かったようにも、刹那の短さだったようにも、しかしその感覚について自己が納得するより先に、凛は拳を握っていた。握った拳の中の運命を、リタに託した。
「――セイバーを」
「彼女を?」
「セイバーを、助けて」
「承知しましたわ」
 拍子抜けするくらい答えは迅速。そして簡潔。
 斬り裂かれた脚に力を込め、リタは飛んでいた。飛びながら、詠うようにその一節を口し、日傘を振るう。
「――Dying into a dance,――!」
 途端、凄まじい爆音と共に巨鋏が弾かれた。
「広域……爆破」
 セイバーとの戦闘において、得手とする爆破の魔術が攻撃に使えないため牽制に用いる以外ではほぼ手にした日傘でのみ戦っていたリタの、詠唱込みの魔術。その威力に凛は改めて目を見開いていた。単純な威力だけならば自分が最高級の宝石を用いて使用する魔弾と同等といったところか。
 しかし、この場合は特性がものを言う。
「――An agony of trance,――!」
 再び大爆発。
「巧い……!」
 先程は下から打ち上げるかのように爆発させたのが、今度は上方から……セイバーから離れた地点へと叩き付けていた。
 威力は同じでも、凛の魔弾ではこの芸当は不可能だったろう。
 凛の魔弾は基本的にその名の通り弾丸、もしくは矢のような形状でもって放たれる。爆破させる事も可能だが、ここまで器用に使いこなすことは出来ないし、範囲的にも小規模高威力なものになってしまう。
 一方リタの爆破は、広範囲を爆ぜさせ凄まじい衝撃と爆風を生じさせるものだった。これは、巨大な相手を弾くという意味合いにおいては非常に有効な手だ。
「アーサー王やカマキラスの相手をするよりは、楽ですわね」
 霧の中の怪獣はカマキラスよりも数段巨大なようだが、そのせいか幸いなことに動きは素早くないようだった。カマキラスと戦った時はその巨体に見合わぬ俊敏さ故に爆破の狙いを定めるのに苦労した。しかしこのくらいの速度の相手になら、呪文を詠唱し充分に威力を錬った爆破を喰らわせることが出来る。
「さて、アーサー王」
 腰まで地面に沈んでしまったセイバーのすぐ隣にフワリと着地し、リタは意地悪く笑みを浮かべた。
「大分流れ出たようですけれど、少しはスッキリしまして?」
「……長くは、もちそうにありませんが」
 セイバーの視線が、忌々しげに己の左手を見やる。そこからはいまだ鮮血と黒い液体が流れ続けていた。
「構いませんわ。“アルトルージュの黒い血”がもたらす強制力にそうやって抗えるだけでも大したものですもの。けれど、逃げ切るまではどうか耐えてくださるようお願いします。正直、貴女とやり合えるだけの余力は残っていないものですから」
 地面から這い出しつつ、セイバーが辛そうに頷く。
 リタは、黒い姫君の異能に抗って動く騎士王の姿に本日何度目かの感動を覚えた。実経験の伴わない知識ではあったが、尊敬する白翼公と吸血鬼社会の勢力を二分する童女が用いた契約の呪刻である。血と共に大量に流れ出たとは言え、完全に流しきることは不可能なはずだ。それに耐え、友人を救うために宝具を使用したセイバーは間違いなく伝説に聞こえた以上の英雄だった。
「リタ・ロズィーアン」
「なんですの?」
 聖剣を地面に突き立て、セイバーは苦痛に顔を引きつらせながら言葉を吐いた。
「今なら、私を倒せます」
「馬鹿仰有い」
 意地の悪い笑みを崩すことなくリタはそう答えていた。
「……倒さぬ理由など無いでしょう? 私は結局はこの黒い血には抗えない。それに人類抹殺の命は、くだされている」
 聞いているのかいないのか、リタは無言で振り返ると霧の向こうに映った凛らしき影に向かって軽く手を振った。
 馬鹿にされているのだろうか、とセイバーは頭を捻ったが、すぐさま全精神力を抵抗に注ぐ。余計なことを考えていては、即座にリタの首を刎ね飛ばしてしまいそうだ。
「貴女と楽しいひとときを過ごしてしまったせいで、リンさんに些か迷惑をかけてしまいましたので。願い事の一つや二つはかなえてさし上げないと、心苦しいですもの」
 背後で怪獣の咆哮が大気を震わせた。自分の鋏を弾いた敵に対し怒っているのかも知れない。
「それに、あのおデカブツ……えー、と――」
「サドラ」
 セイバーに名を教えられ、リタはポンッと手を打とうとしたが、残念ながら今の左手の状態では出来そうになかった。
 剣を引き抜き、片手で前方に突き出すように構えながらセイバーは説明を続ける。
「奴は『霧幻地竜』サドラ。能力は魔力や電波をある程度遮断、減衰させる特殊濃霧の散布。そして伸縮自在の腕とその先にある重層ベローズピンチと呼ばれる屈強な鋏です」
「なるほど。で、当然自分はその中で敵の位置を自由に察知出来る、と。地味ですけれど厄介な能力ですわね」
「はい。濃霧の範囲は最大で……そうですね。この国で言うなら一つか二つの県を覆ってしまうことが可能です。もっとも、そこまで広げてしまうと効果は大分薄まるはずですが」
 そこまで聞いてリタはふむ、と頷くと優雅な仕草で日傘をさした。
「リタ・ロズィーアン?」
 意図を計りかねるセイバーをよそに、そのままクルクルと日傘を回しながらリタはのんびりと歩き出していた。霧の向こうでは凛が何事か喚き散らしていたが、次いで響き渡ったサドラの咆哮によって掻き消されてしまった。
 瞬間、霧の中から巨大な鋏が猛然と突き進んできた。同時に待ち構えていたかのようにリタの口が呪文を詠唱する。
「――An agony of flame――!」
 吹き荒れる爆風。伸びた腕を弾かれ、鋏は見当違いの地面をえぐっていた。それを見て再びリタが納得したかのように頷く。
「ダメージらしいダメージは無し。少しばかり威力が減衰させられているとは言え、今の爆破でダメとなると……はてさて」
 ブツクサと呟き、リタは凛のもとへと殊更優雅に跳躍した。脚のダメージは決して軽いわけではないが、ロズィーアンの名が、それ以上にリタの矜持が無様を許さない。
「けれど、腕を伸ばすという無茶苦茶をやっているだけあって、攻撃そのものには驚く程重みがありませんわね」
「きゃっ」
 呟きながら目の前に降り立ったリタに凛は小さく叫びを漏らすと、続いて一体どうするつもりなのかを問おうとした。が、そうするより先にもう一人、小柄な体格が着地する。
「セイバーッ!?」
「事情は後で説明します」
 名前の後に続く言葉をあっさりと制され、凛はグッと押し黙るしかなかった。ここで感情のままに喚き散らす質ではない。
 ただ、一つだけ確認しておかなければならない事があった。セイバーもそれがわかったのか、静かに視線を合わせる。
「セイバー」
「はい」
「あなた敵なの?」
 今さらのような質問。
 あれだけやり合って、剣を突きつけられて、本当に殺されるかと思って、その上で凛はもう一度念を押すように尋ねた。映画などでならたっぷりと間を持たせ、含んで尋ねるシーンだったろうに、思いの外早口での質問になってしまったのが妙に残念だったが、演出不足はこの際仕方がない。そんな暇、無いのだから。
 訊いた凛がそうなら、答えたセイバーも実にあっさりしていた。
「敵です」
 その返答に凛の顔が喩えようもなく複雑な表情を作る。僅かに俯き唇を噛みながら、ただスッキリとはしていた。自分と友人の立場が曖昧なままではなく、はっきりと明確になったのだから。
「……わかったわ」
 顔を上げ、友人の顔をもう一度真っ直ぐに見据えた凛の眼に最早迷いはなかった。と、ゆっくり見つめ合ってる暇もなく、その間にリタが割り込んでくる。
「はいはい。それではよろしいですかしら」
「いいわよ」
「構いません」
「……何が、とか何を、とか一応訊いて貰いたいのですけれど」
 真剣な面持ちの二人とは対照的に、やれやれと言いたげなリタは閉じた日傘でサドラがいるであろう方角を指した。
「敵だろうと味方だろうと、取り敢えずまだ大丈夫ですわね? アーサー王。不意打ちは勘弁ですわよ」
 事情を呑み込めていない凛を余所に、セイバーが僅かな所作で肯定の意を示す。
「結構。なら……今度こそ逃げますわよ、リンさん」
「ならって、なんかよくわからないんだけど」
「説明なら後でタップリねっとりディープにしてあげますわ。兎に角、眉目秀麗にして古今無双たるわたくしも流石にボロボロのけちょんけちょん。そもそも万全の状態であってもこんな相手のテリトリーど真ん中でしかも怪獣になんて勝てるわけありませんもの。ですから焼き肉パーティーはやっぱり延期にして今は逃げると言っているのです。おわかり?」
 ズイッと詰め寄られ、凛は不承不承頷いた。どうやらリタはリタで逃げる事には不本意であるようだ。まぁ、出会って間もないとは言えこれまでに把握した彼女の性質からすれば、勝てないからと言って素直に退くのを良しとする性格でないのは明白だった。
 そんなリタが逃げをうつしかない状況なのだと現状を改めて認識し、凛は全身に力を行き渡らせるべく呼吸を整えた。護身用にかつて言峰綺礼から習った空手の呼吸法もどきだったが、時折こうして役に立ってくれるのでありがたい。
「じゃあさっさと逃げるとして、何処に逃げるの?」
「わたくしとしましては一緒に来た方達と合流したいのですけれど、この霧のせいでこちらから探知するのはちょっと難しいですわね」
「こちらからは難しい、って事はじゃあ向こうからは見つけてもらえるって事?」
「ええ。向こうには優秀なESP能力者がいらっしゃいますから」
 元々リタがピンポイントで降下出来たのは未希の超能力のおかげであるし、魔力を遮断、減衰出来る霧といっても超能力までは範疇外のものらしい。
 そこまで話したところで、再び霧の向こうから凄まじい勢いで重層ベローズピンチが繰り出されてきた。
「ひっ、キャーーーッ!?」
「落ち着いて話も出来ませんわねっ!」
 凛を小脇に抱え、リタが跳ぶ。セイバーも反対側へ跳んで事なきをえたが、巨鋏は今の今まで三人がいた場所を深々と突き刺さっていた。
「反則気味に正確ですわね……さしあたって落ち着ける場所までこのまま退きますわ。アーサー王、貴女は――」
「私はここに残ります」
 重層ベローズピンチの刺突によって舞い上がった土砂と土煙、さらに濃霧によってセイバーの姿は凛とリタの側からは見えない。しかしはっきりと聞こえた声からは不退転の覚悟が察せられた。
 リタに抱えられたまま、凛は何かに耐えるように無言を貫いていた。セイバーを明確に敵と認識した以上、先程のようにリタに助力を請うわけにはいかない。個人として友人を信じてはいる、やむにやまれぬ事情があって敵対しているのだろうと確信しているが、むしろそうであるが故に凛は黙るしかなかったのだ。
「まったく、見事。気付いてまして、リンさん?」
「……え?」
「彼女……さっきわたくし達と話している間にも、そうですわね。少なくとも七回、剣を振るう衝動を堪えてましたわ」
 リタの言葉に凛は思わず身震いしていた。もしセイバーがその衝動に負けていたなら、今頃は二人とも両断されていたはずだ。
 その時、土煙を裂いて一筋の閃光が地面に突き刺さったままのサドラの腕の上を駆け抜けていくのが見えた。閃光の正体が誰で、何をするつもりなのか、一目瞭然だ。
「まさに英雄本色……。最後まで見届けられないのが、残念ではありますけれど」
 抱えられたままの凛にもリタの身体に力が籠もるのがわかった。全力でこの場から離脱する心算だろう。
 駆け抜ける閃光があっと言う間に見えなくなっていく。まるで流星のような煌めきを凛は見つめ続け――
「なっ」
 ――その流星を、突如もう一筋の閃光が撃ち抜いていた。



 乾いた拍手の音が周囲に響き渡った。
 淡々と――パチ、パチ、パチと聞こえる、それは拍手だ。
「本当に見事だったよ。英雄とはまさにかくあるべき、か」
 リタの身体が一瞬弛緩し、しかし次の瞬間感情の高ぶりとともにさらなる力が籠もる。拍手の音に混じって凛の耳に聞こえたのは、それまでのリタらしからぬ歯軋りだった。
「数日ぶりだ。また会ったな、リタ」
 拍手の主は白いスーツに身を包んだ、白髪の優男だった。いったいいつの間にこんな近くに現れたのか。つい先程までは気配も魔力も感じなかったというのに、一度その存在を知覚してしまえばリタやセイバーと同等の存在感を全身から醸し出している。
 拍手を打つその右手には一丁の拳銃が握られていた。銃器には詳しくない凛だったが、その銃の形状には見覚えがあった。中世を舞台にした海賊映画などによく出てくる、確かフリントロック式短銃と呼ばれるものだったはずだ。そして霧のせいでわかりにくいが、銃口からは煙があがっている。
 凛は直感で理解した。
 あれが、セイバーを撃った閃光の正体だ。
「……不意打ちとは、実に貴方らしいですわね。……フィナ」
「おっと、そう怒るな。綺麗な顔が素晴らしく台無しだ」
 凛を下ろし、日傘を構えようとするリタを制しながら、フィナは銃を胸先にかざしてまるで自慢するかのように見せびらかした。
「魔銃ジョーガン。見た目の海賊らしさが俺のコレクションの中でもお気に入りの一品でね。目標の能力によって撃った弾丸の速度が変わるという珍しい特性をもっているんだが、流石はアーサー王だ。俺が言うのもなんだがあんなに速いのは初めてだったよ」
 クックッと笑いながら、フィナは胸元にジョーガンをしまい込んだ。一々気障というか、芝居がかっているのが鼻につく。この手の男は凛の嫌いなタイプだ。
 だが、続くフィナの言葉に凛は僅かながら安堵した。
「ただ残念なことに威力が低いんだ、ジョーガンは。だから安心していいよ、そちらの可愛いお嬢さん。アーサー王は無事さ」
 そう言うと同時に、フィナは指をパチンと鳴らした。すると霧の中からゆっくりと“それ”は現れた。
「……船?」
 呆然とする凛の頭上、霧の中をボロボロの、まさに幽霊船と呼ぶに相応しい帆船が飛んでいるのが見えた。空飛ぶ幽霊船だなんて今時馬鹿馬鹿しいにも程があると思いつつ、しかし視線を逸らすことは出来なかった。何故なら、
「セイバーッ!?」
 幽霊船から吊された錨の先。そこにはまるで磔にされているかのようなボロボロのセイバーの姿があったからだ。気を失っているのかピクリとも反応はない。
「この通り、きちんと回収済みだよ。彼女にはまだまだ役に立って貰わなければならない」
 何がそんなに可笑しいのか、フィナは変わらずクックッと喉を鳴らし続けている。その様に、凛は純然たる殺意を抱いた。リタも同様らしく、隙あらば日傘を白騎士に突き立てんばかりの気色だ。
 ――が、そうはならなかった。
「ああ、素晴らしいなぁ。リタ、君にはやはりその雄々しく猛る様が一番よく似合う。綺麗に澄まし顔で淑女ぶる君などまったくつまらない。魅力がない」
「ほざきなさいなこの末生り瓢箪。貴方がそう言い続ける以上、わたくしは貴方の望むようなわたくしに成ることは有り得ない。今すぐにでもその薄ら白い素っ首叩き落として――」
「ストップ」
 笑い続けるフィナの手には、いつの間にか一振りの細身の剣が握られていた。禍々しい気配からするにいずれ名のある魔剣の類だろう。そうして白騎士が剣を天高くかざし示した先では、
「魅力的なのはいいが、無謀と履き違えるなよリタ。十五位たるロズィーアンの名が泣く」
 幽霊船の大砲が、全てこちらに向けられていた。
「先日とは逆になったな。確かに俺は弱いが、それでも今の君なら五秒で粉微塵に出来る」
 白騎士の誇る幽霊船団の固有結界『パレード』、その旗艦であるザイダベック号の砲撃はかつてヴァン=フェムの第五魔城マトリ陥落の際に決定的なダメージを与えた程の破壊力を有している。
 凛を連れた状態でザイダベック号の砲撃をかわしつつ、さらにフィナと戦って打倒するなど今のリタには到底不可能だ。
「……フィナ」
「なんだい?」
「貴方に討たれる――まったくわたくしが考え得る限り最悪で最低の死に様ですわ。酔いどれが聞いたら何と言うか」
「聞くことはあるまいよ。彼女は死んだのだから。ORTによって」
 大仰なフィナの物言いに対し、今度はリタが笑う番だった。
「馬鹿なことを。そう簡単に死ぬはずありませんわよ、彼女が」
 一頻り笑った後、これ以上語るべき言葉はないとばかりにリタは日傘を構え直した。凛も残った魔力を集中させる。
 目の前に白騎士、フィナ=ヴラド・スヴェルテン。
 頭上に幽霊船、ザイダベック号。
 そしてその後ろには霧幻地竜、サドラ。
 絶望も極めつけだ。セイバーとの遭遇をおよそ最悪の事態と認識していたほんの少し前の自分が、凛はやけに懐かしかった。何のことはない、まだまだ最悪は奥深かったということだ。
「本当に素晴らしい。そちらのお嬢さんも、人間――いや、女にしておくのが勿体ない。ク、クックク」
 目を細め、フィナは満足そうに言い放つと、
「……どういう、つもりですの?」
 踵を返していた。
 ザイダベックも霧の中へとゆっくり後退していく。
「いや、なに。我が君はどうやらもう少し君達と遊びたいらしくてな。このアーサー王はそのための大切な玩具なのでこうして返してもらいに来たんだ。今日の俺の役割は、それだけだよ」
 怒りと疲弊のために思考能力が衰えかけていた二人には、白騎士の言っていることがどうにも理解しがたかった。
 それすらも愉快なのか、フィナが今までにも増して盛大に笑う。
「ではまた会おう、勇ましい女達。女でなければ愛していたよ」
 去り際の言葉は、凛には本当に理解不能だった。
「……アイツ、もしかして、その……ホモ?」
「ホモと言うよりキチガイのド変態ですわね」
 その場に腰を下ろしそうになるのをかろうじて堪え、二人は顔を見合わせた。サドラも引き返し始めたのか、地響きのような足音が次第に遠ざかっていく。どうやら助かったらしい。
 だが何一つ終わったようには思えなかった。
 認識の甘さもさることながら、事態の複雑さは凛の想像を遙かに超えている。今まで漠然としか理解できていなかった人類存亡の危機という言葉が、やけに鮮明に頭に浮かんでいた。
 訊きたい事、知るべき事、やりたい事、なすべき事、兎にも角にもありすぎてどこから手をつけていいのかわからない。わからないので取り敢えず凛は、
「……行く?」
 ボソッと尋ねた。
「……行きましょうか」
 吐き出すようにリタは答え、そして二人は足取り重く歩きだした。
 霧の中を、存外に暢気な歩調で。





◆    ◆    ◆






 始めから、勝てる道理がなかったのだ。
「……ぎ、ぐ」
 鎖で強かに腹を打ち据えられた士郎は、自分の吐いた吐瀉物にまみれその場に丸くなって悶絶していた。一方、綾子は鎖によって雁字搦めに縛られ、身動きがとれないでいる。
 それでも二人とも、視線は自分を打ちのめした者、拘束した者へと向けられていた。どうして彼女がこのような真似に及んだのか理解できないまま、そうするしか出来なかったのだ。
「どうやら、あちらでの戦いは終わったようですね」
 アイマスクを着けたままの眼で、ライダーは先程までエクスカリバーの閃光が発せられていた方角を一瞥すると、再び士郎と綾子に向き直った。
「手荒な真似をしてしまいました、シロウ、アヤコ」
 言っている内容はともあれ、少なくとも謝罪しているようには見えなかった。ライダーもそれは承知の上だろう。無表情のまま淡々と言葉を紡いでいく。
「アーサー王は抵抗力が強すぎてまだ黒い血が馴染んでいないものですから、シロウと逢わせるわけにはいかなかったのです」
 理解出来ない内容に、士郎は何か話そうとし、
「……ひぅッ、げぇ……く、ぁ――ッ」
 無理だった。口からは苦しげな呼気と胃液が吐き出されるだけで言葉になってくれない。代わりに綾子が憮然と口を開いた。
「ライダーさん、あのさ」
「なんです?」
「……何がどうなってるのか、全然わかんないんだけど」
 皮肉気な綾子に対し、ライダーはわざとらしく顎に細く長い指をあてると、微かに首を傾げた。
「まぁ、そうでしょうね」
「説明はしてくれないわけ?」
「言ってもわからないでしょうから」
 悪気はないのだろう。おそらく、それが事実なのだ。だから綾子はライダーの物言いに腹を立てるようなことはなかった。ただ、友人だと思っていた相手からの仕打ちに少しだけ悲しくなった。
「それと、別に殺せとは命じられていませんから、私としてはこのまま立ち去るのも吝かではありません。ですが――」
 アイマスクの向こうの眼が、真っ直ぐに士郎を見下ろす。
「シロウは、許してくれそうにありませんか」
 もはや胃液すら出なくなったのか、細かな唾を断続的に吐きながら士郎はライダーを睨め上げていた。単純な憎悪や怒りではあるまいが、今の彼にはいつも以上に余裕がない。あのお人好しが殺気混じりに友人を睨んでいる光景に、綾子は心が痛んだ。
 士郎は必死に呼吸を整えようとしていた。整い次第、ライダーに躍りかかるつもりだろう。勝てるわけが、無いのに。
「……せめて、私の手で……そう思ってしまうのは、私もまだ黒い血が馴染んでいないせいかも知れませんね」
 逆手に持った短剣を構え、ライダーがゆっくりと歩き出す。その顔に浮かんでいたのは、感情を無くしたかのように振る舞っていた彼女が今日初めて見せた悲哀を帯びた表情だった。
 ――このままじゃ、衛宮が殺される――
 そう思った途端に綾子は必死に身をよじっていた。
「無駄です、アヤコ」
「わかってるわよ!」
 だからといって素直に転がってなどいられるものか。
 動かない両手両足に力を込め、それでもどうにもならないと綾子は今度はゴロゴロと横転し始めた。鎖が肉に食い込んでそこかしこが痛い。
「……アヤコ」
「呆れたように見るくらいなら解けってんだ!」
 結局、その程度の抵抗が武芸百般を目指した美綴綾子の限界だった。悔しくて泣きたくなるのを懸命に堪える。
 一歩一歩、ライダーが士郎へと近付いていく。
 まだ脚に力が入らないのか、士郎はフラフラと立ち上がろうとしては膝を突いていた。結局、それが衛宮士郎なのだ。心の膝だけは決して折ろうとはしない。
「……と、う……投、影……開始ッ」
 手の中に剣が顕れる。綾子は、何故だかもうその事を不思議だと思わなくなっていた。剣を手に、片膝をついて立ち上がろうとする士郎の姿があまりにも自然だったから。
「シロウ、あなたは……本当に――」
 口籠もり、ライダーの手が高々と上げられる。それが振り下ろされた時が即ち士郎の最期だ。
 訪れる最期の一瞬を前に綾子はもう一度身をよじった。
 士郎は剣を握る手を見やってグッと力を込めた。
 しかしどちらも無駄だった。ただ、それでも綾子は目を閉じようとだけは思わなかった。たとえ何があろうとも目だけは瞑るまいと、最期の瞬間まで背けまいとした。
 そして綾子は見た。
 ライダーの口元に、笑みが浮かんだのを。その笑みの意味を考えるより先に、鉄と鉄が弾き合う硬質な音が周囲に響いていた。



 霧の中から突如現れたその影は、太い腕でライダーの一撃を受け止めていた。しかし刺さってはいない。刃が立っていないのだ。
「……ロボット?」
 綾子にはそうとしか見えなかった。
 黒と黄色のストライプ模様の体に、鉄色の頭部。二メートルはあるだろう巨体は明らかに人間とは異なっている。
「むぅんっ!」
 剛腕が振るわれ、ライダーが後方へと飛びすさった。
「あっ」
 綾子の拘束が解かれ、鎖が持ち主の手元へと引き戻されていく。どうやら綾子を縛っておく余裕はないものと判断したようだ。
 着地すると同時にまるで舞うように鎖を繰ってライダーの猛攻がロボットを襲う。士郎と相対していた時とはまるで違う、槍と鞭、点と線の雨霰だ。
「ぐぅ、ちょこまかと……ッ」
 素早さに翻弄されたのか、ロボットがたじろいだ。頑強なボディでライダーの攻撃を受けきっているが、なかなか反撃の糸口を掴めずにいるようだ。
「ぬぉおおおおおっ!」
 巨体が猛然と突進し、まるでマタドールのようにライダーがそれを避ける。しかしその直後、アイマスクによってわかりづらい表情が明らかに硬くなった。
「ッ!?」
 パスッパスッという乾いた音とともにライダーの足下に幾つかの小さな穴が穿たれた。
「バルスキーッ!」
「かたじけない!」
 霧の中からもう一人、綾子や士郎と同い年くらいの少女が躍り出す。その手には無骨な拳銃が握られていた。
 銃撃によって足を止められたライダーの身体をロボット――バルスキーの拳が捉え、軽々と吹き飛ばされていく。が、どうやら直前に自分から後方へと跳んでいたらしく、さしてダメージはないようだ。空中で巧みに鎖を操り、即座に反撃に移る。
 その鎖が、空中で奇妙な動きを見せた。
「これはっ!?」
 驚愕はライダーのもの。まるで何かに絡め取られたかのように鎖は勢いを失い、そのまま地面へと落下していく。
「上出来だ、シオン・エルトナム!」
 どうやらバルスキーにシオンと呼ばれた少女が何事か仕掛けたらしい。綾子がそちらに視線を向けると、いつの間にか銃は仕舞われその手は何かを操るような動きを見せていた。
 鎖を手放すか否か、ライダーは一瞬迷いを見せた。その隙にバルスキーが懐へと飛び込み、巨体に見合わぬ素早いジャブのような拳を叩き込んでいく。
「ぐっ」
 ライダーが呻き、何とか距離を取ろうとするがバルスキーはそれを許さない。彼の剛腕はライダーが手放し損ねていた鎖を掴むと、そのまま彼女の身体を手繰り寄せて羽交い締めにした。
「今だ、遠野志貴!」
 そして霧の中から現れる三人目。





◆    ◆    ◆












◆    ◆    ◆






 綾子には、その青年が殺意の塊のように感じられた。
 バルスキーの腕の中で藻掻くライダーへと、青年が手にしたナイフが一閃される。本当に、ただそのまま振るっただけの何ともあっさりとした一振りだった。依然として霧のために視界は悪いが、綾子にはとても相手に致命傷を与えられるような攻撃には見えなかった。なのに――
「ひぇっ!?」
 思わずそんな声が漏れる。
 まるで大根でも切ったかのように、ライダーの右腕が「ポーン」とかそんな漫画みたいな擬音が似合いそうな感じで宙を舞っていた。あまりにも軽々しい光景に、斬り飛ばされたのだと認識するまで数秒を要した。
 やがて、思い出したかのように切断面から血が流れ出す。片腕を失ったことで拘束ヶ所が減じたためか、ライダーはバルスキーによる羽交い締めから脱出していた。
 流れ続ける真っ赤な鮮血の中に黒い液体が混ざっているのを、綾子は呆けたように見つめ続けていた。








〜to be Continued〜






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