episode-17
〜激震の冬木〜
Part 5 そして……霧の中の出会い


◆    ◆    ◆






「ガルーダ、帰ったか」
 結城の見つめる先、ガルーダは左翼にダメージを負いつつも神戸空港に臨時設置された冬木対策本部に帰投した。飛行能力の具合から見るにダメージは意外に軽微と判断出来るが、暫くは飛べまい。となると、ガルーダ以外に空路で霧を抜けられる機体は現在特自にも空自にも存在しない。ヴァンデルシュターム側も魔城以外に突破出来る機体は無いとなれば、さてどうしたものかと結城は顎に手をやった。
 ただ、ガルーダ下部に設置された脱出艇が見あたらないということは突入斑を降ろすという目的は無事に達せられたようだ。
「中は一体どうなってやがるんだかなぁ」
 現在、兵庫県は冬木市を中心にその1/4程が濃霧に覆われ遮断されてしまっている。突入に成功したガルーダとも今の今まで通信は出来ず、中を見てきた権藤と茜に直接聞くしかない。
「結城少佐!」
 着陸したガルーダから降りた茜は、結城の姿を認めるなり足早に駆け寄ってきた。
「家城茜三尉、只今帰投しました」
「おーう。ご苦労さん……って、おい家城」
「権藤一佐なら降りました」
 幾分か顔を顰め、茜は結城が問うより先に答えていた。
「おいおい、降りましたって……」
「手が足りなくなるといかんからと言って、メーサーガン片手に嬉々として降りていきました」
 その時の光景が目に浮かび、結城は大仰に溜息を吐いた。
「ったく。いや、あの人らしいがよぅ」
 本来なら自分が操縦を担当するはずだったのに、出撃の直前に無理矢理権藤が割り込んできた時点でこうなるだろうなと予測はついていたので、結城は溜息一つでその事に関してはもう何も言わないことに決めた。
 むしろ予定されていた突入斑の編成に不安があった結城としてはこの権藤の勝手は納得がいく。リタは得体が知れないし、シオンの有能さは認めるがそれでも年若い彼女には経験不足は否めず、それに錬金術の計算とやらに頼りすぎるあまり融通の利かない一面も見受けられる。何が起こっているのかわからない冬木内部に乗り込むにあたって、権藤の経験とやり口は必要不可欠なはずだ。
「ガルーダの修理が完了次第、私も再出撃するつもりです」
「落ち着け。その前に中で何があったか報告だ」
 はやる茜をなだめすかし、結城はひょいと片手をあげると彼女を伴って司令本部となっている管制塔へ向かい始めた。
「翼がやられてるって事は、怪獣か何かとはやりあったんだな?」
「はい」
「どんな奴だ?」
「二足歩行で尾の長い、雷を操るヤツでした。大きさは一〇〇メートルクラス、雷の発生源はまず間違いなくそいつです」
 茜の言葉に結城は冬木のある方角を眺めつつ難しい顔をして何度か頷いた。取り敢えずそれだけであの雷雲のような濃霧を発生させている原因の一端は掴めた。そこで次の質問に移る。
「雷の、ってこたぁまだ他にもいたわけか」
「はい」
 肯定し、茜はふと足を止め振り返っていた。
 独断専行したリタのこともあったし、未希が怪獣だけでなく英霊やそれに相当する気配を感じたと言うので脱出艇をその付近へと降下させたのだが、本当にそれでよかったのだろうか。
 バルスキーの戦闘力に関しては資料に目を通した限りでは問題ない。リタは裏の世界にその名を轟かせる大物吸血鬼だ。シオンにも半吸血鬼としての身体能力と錬金術師の豊富な知識、卓越した計算力がある。権藤に関しては今更言うまでもない。
 が、未希と志貴は特殊な能力者とは言え一般人だ。
 霧の中、茜はガルーダのコクピットからしか冬木を見ていないが、あの町に充満しているある種の“気”は尋常ではなかった。権藤ほどではないが茜も幾度と無く怪獣と戦い続けた歴戦の特自隊員である。異常や危険に対する察知能力には相応に長けている。そんな茜の感覚がひどく単純に告げていた。今のあの町は、危うすぎる。
「霧は別怪獣の能力による模様です。三枝さんの話では、他にもまだそれらしい気配がする、と」
「怪獣だらけ、ってことか」
 兵庫県、冬木市。
 表向きはなんて事のない一都市が、実際には魔術協会と聖堂教会が深く関与する一大魔術儀式、“聖杯戦争”の舞台であったという報告書には二人ともとうに目を通していた。
 政府や、高野山を始めとする日本の退魔機関は長らくこの儀式について頭を悩ませ、故あらば即介入出来るよう目を光らせていたらしいが、今から十年前に行われた第四次聖杯戦争において参加していたマスターの一人が聖杯を破壊したためもはや五度目は起こらないものと楽観視されていた。しかしそれを隠れ蓑に仕掛け人たるアインツベルンや魔術協会は裏で着々と準備を進め、日本側が気づいた時には第五次聖杯戦争は勃発。前回のようにゴジラを呼ばれでもしたらかなわないと強制介入を試みようとするも、その前に結局当事者達の手によって今度は大元である大聖杯ごと破壊され完全に儀式は途絶えた……というのが報告書に記されていた大まかな内容だった。とは言えその冬木に起こった異常事態となれば、とてもではないが軽視出来ようはずもない。
 しかも東京が壊滅し、大阪に臨時政府を設置しようとした矢先にこれである。隣県の兵庫が斯様な事態に陥ってはとても大阪に臨時政府どころの話ではなく、日本政府は未だ混乱の極みにあった。
 特自は特殊生物への対策を最優先するという原則に基づきまだ自由に行動出来ている方だが、陸海空自はどう動かすべきか判然とせずギャオスやレギオンと消耗戦を続けるばかりだ。こうして冬木に動員されている特自の戦力にしてみても、本音を言えば黒木は動かしたくは無かったろう。黒木の目的はあくまでゴジラの殲滅にある。現実問題としてもゴジラはただの一頭で容易にミリタリーバランスを崩しうるのだから、対ゴジラ戦力は常に充実させておきたいところだった。そのゴジラの現在位置は未希の能力を持ってさえ掴みきれてはいないが、近い内に必ず現れるだろうと彼女は予言している。
 まったく、問題ばかりが山積みだった。
「こちとらどこもかしこも戦力不足だってーのに、いやはや敵さんは大したもんだな、おい」
「言ってる場合じゃありませんよ」
「そりゃそうだが」
 こうしている間にも世界中がギャオスの脅威に曝されているのだ。特に発展途上国の惨状は目を覆わんばかりだった。
 自国の防衛のために撤退したアメリカでも日本をどうするかはかなり意見が割れているらしく、絶え間なく現れ続けるギャオス相手に北は兎も角南まではカバーしきれていないのが現状であり、『日本に介入しない』のではなく『出来ない』と言った方が正しいかも知れないくらいだった。しかもあの国は東洋や欧州各国のような歴史深い退魔組織を有していないため、もし英霊など霊的戦力が本格的に出張ってきたなら対応は事実上不可能ときている。
 戦力が充分な国など、何処にも無いのだ。
「それでもこれだけの戦力を集められたんだから、ヴァンデルシュターム様々ってか」
 現在神戸空港には東京を包囲している以外のほぼ全ての特自残存戦力と、ヴァン=フェムが派遣した戦闘機兵軍団及び重機甲兵軍団が集結していた。
「……に、しても」
 東京奪還が不可能な以上、ここで兵庫をとられでもすれば東西を押さえられた日本は壊滅を待つしかなくなる。トラフィムやヴァン=フェムからすれば、日本という国はゴジラやORTという強大な相手を攻めるための橋頭堡のようなもの――よって今失うわけにはいかないのだろうというのが結城の読みだった。吸血鬼などという連中と手を組むことには今なお抵抗のある結城だったが、その辺を信頼出来ないわけではない。むしろ信頼出来ないのは、吸血鬼よりも目の前にズラッと整列した機械の群れだ。
「戦闘機兵に重機甲兵、それとガンヘッド大隊……ねぇ」
「まだ不満なんですか?」
「自分で動かせない兵器ってのはどうにもな」
 パイロットという職業柄か、結城はヴァン=フェムの自律型ロボット(実際にはゴーレムだが)に対して懐疑的だった。しかもこのガンヘッドとやらは最新の推論型コンピューターを搭載した、防衛軍や米軍でさえ実戦配備されていない可変型機動兵器ときている。眉唾もいいところだ。
「戦力不足よりかよっぽどマシだが」
「あれで気のいい連中ですよ?」
「まぁ、なぁ」
 その辺は認めていなくもない。
 憮然と応え、結城は準備に大わらわの機兵達を見やった。視線の先では重機甲兵軍団の豪将メガドロンが部下や特自の隊員と何やら打ち合わせをしている。現在、単体で二十七祖や英霊クラスの相手と渡り合える戦闘力を持つ両軍団長は不在なため、軍団の指揮は副官である豪将達が取り仕切っていた。
 重機甲兵軍団豪将メガドロンと戦闘機兵軍団豪将ガルドス、そして軍団員達。結城も軍議に際し何度となく話したが、とても人工知能とは思えない個性的な面々だった。
 しかし、やはり根底に不満が、しこりが残っている。
「ウジウジ考えたところで、意味なんざ無いか」
「ですね。何より結城少佐らしくない」
「おいおい、これでも権藤一佐よりは色々と小面倒くさいことでも考えてるつもりだぞ?」
「後で伝えておきます」
「げっ」
 そうこうしているうちに管制塔が近づいてきた。中では作戦指揮を執る立花泰三特将補を始め、特自を代表する面々が茜の報告を待ちかねているはずだ。
「……権藤一佐達が、うまいこと雷を発してる奴だけでも倒してくれれば楽なんだがな」
 結城の漏らした呟きに、茜は顔を曇らせた。
 怪獣の力を誰よりもよく知るが故に。そして結城もそれは同様なのだと理解しているがために。
 権藤の経験と、シオンの叡知。リタ、バルスキーの戦闘力と、志貴と未希の異能。それでもまだ足りない。雷を放つ怪獣と実際にガルーダで交戦した茜にはわかっていた。
 あれはただの怪獣ではない。
 せめて、せめてあと僅かでいい。援軍が送れたならば―― 一刻も早くガルーダを修理、再出撃を具申しよう――そう考えて、茜は結城と並んで管制塔に入ろうとした、その時だった。
「きゃーーーーーーーーっ!? ちょ、乾くん乾くん! ブレ、ブレブレブレーキィ!?」
「……は?」
 凄まじい勢いで、一台のサイドカーがこちらに突っ込んでくるのが見えた。隊員や機兵達も突然のことにどうしたものかと顔を見合わせている。
「有彦さぁぁぁぁ〜〜〜んちゃんと前見ひひぇーーーっ!?」
「っせぇ黙ってろっ!」
 運転している青年は、危なっかしいことにサイドシートの方を向きながら怒鳴り散らしている。見たところ首都警ケルベロス部隊のゼクトギアとよく似たスーツを着ているようだが、色が黒ではなく白、それに幾らか軽装なようだ。
 サイドシートには……奇妙にも女の声は二人分聞こえたはずなのに、髪を両サイドで結んだ、所謂ツインテールにした少女しか乗っていない。と言うよりあのシートにはたとえ小柄な女性であっても二人乗るのは無理がある。
「おいおい、何だあいつら?」
「敵、ではないようですが」
 サイドカーそのものには茜は見覚えがあった。確か、メレムの上司であるナルバレックという女性の愛車だったはずだ。伊豆であの駄目ピーターパンからそう紹介されている。
「ひぃああああああああ!?」
「うっきゃぁぁぁあああああ!?」
「おぉりゃああああああああ!!」
 女二人の悲鳴と男一人の雄叫びが神戸空港に響き渡った。
 サイドカーにはあり得ない無茶苦茶なアクセルターン。タイヤが路面を擦る耳障りな音、嫌な臭いが鼻をつく。
 かくしてとんでもないターンの果てに……
「……と、停まっ……た」
「……は、はらほろひれはれ〜〜……」
 ツインテールの少女は青い顔でグッタリとシートに背をもたれさせ、彼女が腕に抱えた大型のケースからはどういう原理なのか同様に疲れ切った声が漏れだしていた。
「家城」
「はい」
「どうする?」
「返答に困ることを訊かないでください」
 ゼクトギア――らしきものを着けていると言っても二人(三人?)の正体は不明だ。ここは正しく職務質問でもするべきだとは思うのだが、目の前でワーワーやってる姿を見ているとつい毒気を抜かれてしまう。
「ど、どど、どうしてあんな無茶な運転するのかなぁ!?」
「うるせぇ! こんな化け物みたいなマシン、手に余るに決まってるだろ! ってか弓塚、お前ライダーのくせになんでバイクくらい乗れねーんだよ!? 詐欺だろ!」
「だ、だってわたし免許なんて持ってないもの!」
「ふぇぇぇ……み、耳元で怒鳴らないでくださいよぅ。頭がガンガンしちゃいまふぅ〜」
 恨めしく声を漏らし続けるケースの何処が耳で頭なのか、傍で見ている茜と結城にはさっぱりだった。
「だいたい乾くんは前から――!」
「乗れないくせにバイクに乗りたいなんてお前は――!」
「あー、お取り込み中のとこ悪いんだが」
 いつ終わるとも知れぬ言い争いに、結城は頭を掻きつつさも面倒くさそうに割って入った。
「兄ちゃん、お前さん見たところ首都警の関係者みたいだが、一体何の用だ? 一応、関係者以外はここは立ち入り禁止なんだが」
 まるでヤクザのような結城の迫力に気圧されたのか、ギアの青年はメットの上からでもわかるくらい狼狽えていた。
「え? あ、いや、そのー、俺は……」
 しどろもどろと言い淀む青年の隣では、少女がやはり青くなってガクガクと震えている。
「結城少佐、凄みすぎです」
「ん? ああ、悪いな兄ちゃん」
 口では謝りつつもやはり目が笑っていない。ゼクトギアを装着していることから仮にも公安所属だろうと踏んでの結城の威圧的な態度だったが、反応を見る限りどうも素人臭いのが気になった。
 では本当に何者なのか、訝しむ茜に、
「アッカネちゃーん!」
「うわぁっ!?」
 後ろから、突然小柄な何者かが抱きついてきた。
 確かめずとも誰かは丸わかりだ。見た目は少女と見まごうほどの愛らしい少年ながら、その実四桁の時を生きる吸血鬼。
「メレムッ!」
「わおっ」
 振り落とそうと勢いよく身体を捻るも、寸前でメレムは茜の背から飛び降りていた。
「このセクハラ吸血鬼!」
「やだなぁ、ただのスキンシップだよ」
 そんな怒声も何するものぞ。飄々と笑みを浮かべ、慇懃無礼に頭を垂れる様は道化の面目躍如といったところか。
「だいたい、貴方伊豆で防衛戦に参加してたんじゃ……」
「いやぁ、アカネちゃんに逢いたくてねぇ。ナルバレックとヴァンの爺様に任せてきちゃったよ。てへっ」
 舌出しウインクが胡散臭いことこの上ない。
「と、冗談はさておき。そこの子達は大丈夫、安心していいよ。ここに来た用件はボクと同じだから」
「用件だぁ?」
 相も変わらずヤクザ調な結城に、サイドカーの二人はコクコクと頷いてみせた。心なしかケースも揺れているように見える。
「そ。あともう一人……いや、二人かな? 援軍に来たんだ」
 チラとメレムが横目で示した先では、黒コートの青年が気さくな笑みを浮かべて壁により掛かっていた。その首には不思議な光沢を放つネックレスがかかっている。
「でも援軍なんて、予定にはなかったでしょ」
「こっちも立て込んでるんだよ。欧州で色々あって」
 メレムにしては珍しい、心底ウンザリとした様子だった。
「どうもアルトルージュ・ブリュンスタッドが姿を消したらしくてね。あっちは大騒ぎだよ」
 その名前には茜も聞き覚えがあった。魔の世界に関する知識にさして明るくない茜でも、流石に白翼公と肩を並べる大物中の大物としてアルトルージュの名前は記憶している。
「ああ、貴方達のお姫様ね」
「冗談じゃない! やめてよもう、あんな紛い物」
 不本意極まりないとばかりに抗議の声をあげ、メレムは偉そうに胸を張るとふふんと鼻を鳴らした。
「ボクが好きなのは真なる美しさをたたえた秘宝なんだよ。白の姫君や、それにアカネちゃんとかさ。あんな贋物を姫様呼ばわりなんて、温厚なボクならまだしも、知り合いの鳥頭に聞かれでもしたらクチバシで突きまくられた挙げ句に頭燃やされちゃうよ」
「……それは、嫌ね」
 そんな殺され方だけは何としてもご免こうむりたい。
「兎にも角にも、欧州は消えたアルトルージュの行方って事で、この国が怪しいと睨んでるのさ。そこにこの異常じゃない? 東京か冬木か、さしあたって二択ってわけ」
「こっちはただでさえ大変なのに、貴方達の問題まで持ち込んでもらいたくはないわね」
「そう言わないでよ、アカネちゃんのためにサイドファントムの他にもナルバレックから凄い秘密兵器を預かってきたんだからさ」
 アカネちゃんのためにも、の部分はスルーし、茜は重要と思える方にだけ問いを向けた。
「秘密兵器?」
「怪獣に効くかは試したこと無いからわかんないけど、まぁ効くんじゃないかなぁ。どうだろ?」
「どうだろって……そんな不確かなのに、秘密兵器なの?」
「そう言わないでよ。一応、一対一では負け知らずの、聖堂教会における対死徒用最終抹殺兵器なんだから」
 呆れ顔の茜にさも愉快そうに告げると、メレムは法衣の裾から一冊の何やらおどろおどろしい装丁の本を取りだした。どす黒い革張りに、灰色がかった髑髏の紋様、そして臓物を模したと思われる装飾はまるで脈打っているかのごとく生々しい。表紙には、濁った血の朱のような何語とも知れぬ奇怪な文字が綴られていた。
「兵器って呼ぶのも失礼な気はするけどね。これでもボクのお仲間なんだしさ」
 そう言うと、メレムは高々と本を掲げ、礼をとった。
「死徒二十七祖二十四位、『屈折』エル・ナハト。彼の臓腑にしてその端末、胃界教典と呼ばれる最悪のアーティファクトさ」





◆    ◆    ◆






 片腕を斬り飛ばされてなお、ライダーの動きはシオン、バルスキー、そして志貴の三人を翻弄していた。
 元よりアイマスク――ブレーカー・ゴルゴーン――によって自らの強力な魔眼を封印しているライダーにとって濃霧の中という悪視界は動きを遮る枷足り得ない。その点でこの戦闘におけるアドバンテージはまだ彼女にあった。
「ヒュッ!」
 呼気と、ダガーが空気を裂く音が重なる。
 槍の如き鋭い一撃がまず狙ったのは、志貴だった。
 バルスキーの分厚い装甲、半吸血鬼であるシオンの身体能力と比べ、志貴のあらゆる能力はライダーからすればか弱すぎる。どうしてこの場に彼のような人間がいるのか戸惑いを覚えるほどに。
 ……だが、一方でもっとも侮れないのも彼だった。
 失われた右腕からはいまだ鮮血と、そして契約の黒い血が流れ続けている。
 あの一瞬、彼の短刀は自分の腕をスッとなぞっただけだった。少なくともライダーはそう認識していた。なのに右腕は斬り飛ばされていた。冗談のように、至極あっさりと。
 伝説の蛇怪メドゥーサと言えど、その身を魔獣化していなければ皮膚に特別な硬さなど無い。ただの短刀でも魔力がかかっているアイテムならば傷つけることくらいは可能だろう。それでもあの感覚は、異常だった。
(そう、あれは……)
 斬られたと、認識することが出来なかった。
 腕が無くなって初めて、「ああ、自分は斬られたのか」と自覚出来たあまりにも奇異な感覚。本当に、あれは斬ったのか? 自分は、斬られたのだろうか?
 斬った斬られたという些末な問題ではなく、もっと別の何かではないのかという疑いが胸中に渦巻く。舐めてはかかれない。この青年には、実力以上の何かがある。
 黒い血が『殺せ!』と頻りに訴えてくるのがわかった。頭に痛みが走り、残った手足が殺意の衝動に突き動かされていく。
 殺さなければ、なるまい。
 今の自分――メドゥーサは、アルトルージュ・ブリュンスタッドの忠実なる僕なのだから。
「死んで――」
 槍が蛇に。
「――もらいますよ!」
 穂先は牙となって、狙うは志貴の心臓。



「くっ!?」
 突如直線から蛇行へと変じた鎖の動きに、志貴は回避のための反応が遅れた。敵は動作の全てが素早すぎる。バルスキーのレベルでも完全に捉えきれない相手を前に、志貴はただ無力だった。
 無理に身体を捻り、初撃は何とか避ける。が――
「つぁっ」
 突如、激しい頭痛に襲われ志貴は片膝を突いた。やはり英霊を相手に直死の魔眼は脳への負荷が大きすぎたようだ。さらには先日の乱用も効いているのだろう。ナルバレックから貰った霊薬で痛み自体は引いていたのだが、所詮は気休めだ。
 当初の打ち合わせ通りにバルスキー、シオンとの同時奇襲攻撃でケリをつけてしまえなかったのが痛い。並の敵だったなら腕一本とれただけでも良しともするが、しかし今回ばかりは相手も状況も悪すぎた。腕の一本では足り無すぎる。
 もしこの戦いが志貴とライダー、一対一だったならば遭遇した時点で志貴は心臓を貫かれていただろう。
「志貴、迂闊です!」
 シオンの放ったエーテライトが銀鎖へと絡みつき、絶命必至だった志貴をまさしく紙一重で救う。
「あ、ありがとう、シオン」
「礼なら後で聞きます!」
 激昂し、エーテライトを鎖から解いてたぐり寄せるシオンにも余裕はない。絡め取ったまま力勝負に出られたら勝ち目はないのだ。一瞬の判断ミスが勝敗を分ける。
 シオンが牽制してくれている間に志貴は眼鏡をかけ直し、ひとまず鎖の射程外へと身を退いた。それを逃がさぬとばかりに追おうとするライダーの前に立ち塞がったのはバルスキーの巨体だ。
「ムンッ!」
 額から放たれた光線が霧を薙ぐも、それはライダーの髪を僅かに焦がすにとどまった。
「ええい、何という素早さだ!」
 吐き捨てつつ、今度はバルスキーの指先に内蔵された小型ミサイルランチャーが火を噴いた。しかしライダーは鎖を巧みに操って全てを漏れなく撃墜していく。
「甘い」
 最後の一発を撃墜したライダーは霧と爆煙を隠れ蓑にして再び志貴へと狙いを定め、跳躍した。そこにすかさずエーテライトが伸びる。左手からはエーテライト、右手にはバレルレプリカ。バルスキーの攻撃を回避し、志貴に躍りかかろうとしていたライダーはシオンの側からは隙だらけだった。
「見え透いた手をっ!」
 予測通りの動きにエーテライトが満足げにしなった。エーテライトで動きを封じ、至近距離からバレルレプリカを叩き込む。如何に英霊でもこの距離からの直撃には耐えられまい。それに、万一討ち漏らしてもその後にはバルスキーの豪腕が待ちかまえている。
 九割九分九厘、勝利。シオンの手が詰みのためにエーテライトを繰る。決着を疑う余地など、無い。
 だが、それはライダーも同じだった。
「だから」
「ッ!?」
 ライダーの長い髪が勢いよくかき上げられ、シオンは真っ正面から彼女を見た。視られた。
 アイマスクは、いつの間にか取り外されていた。水晶のような眼球の中、四角い瞳孔が煌めいている。
「甘いと言っているのです――!」
「く、ぁ……!」
 網膜を形成するエーテル、そこから放たれる圧倒的な魔力にシオンは身震いすら許されなかった。と言うより、瞬時に硬化した肉体は身震いしたくとも不可能だった。
「シオン!?」
「シオン・エルトナム!」
 志貴とバルスキーに呼ばれ、シオンは振り返ろうとして……出来なかった。せめて自分にかけられた術の正体を伝えようと藻掻くも既に声帯がやられている。唇も動かない。
 ゴトリ、と重たげな音を立てて、シオンの身体が地面に倒れ伏していく。
「シオーーーーーン!!」
 駆け寄った志貴がシオンの身体を抱き起こす。そこを狙ったライダーの攻撃はバルスキーによって防がれていた。
「遠野志貴、シオン・エルトナムは!?」
「わ、わからない。けど、これ……」
 硬く、冷たくなった友人の肉体に志貴は動揺を隠せなかった。金縛りの類ではない。全身から色素が抜け落ち、完全に硬化してしまっている。
 アルクェイドと出逢ってこの方、志貴も様々な魔術、霊的な現象を目にしてきたつもりだったが、こればかりは初めてだ。しかし知らないわけではない。古来より伝説や物語において人間をこの状態に変化させる異能は連綿と語り継がれている。
「石、に」
 シオンは、石と化していた。
 厳密には石と言ってよいものか。とは言えそれ以外に言い様がないのも確かだ。
 石化の魔術。魔術への造詣がさして深くはない志貴でも、これまでの経験上それがどれだけ希有なものかは漠然と理解出来た。
 対象を瞬時に石化させる能力。先程、相手はシオンに対して何をした? 手をかざした? 呪文を唱えた? ――違う。
 視ただけだ。
 視ただけで、石化させたのだ。
 そこでようやく志貴は思い出していた。あの時、白騎士が彼女を何と呼んでいたか。その名はあまりにも有名すぎる神話の蛇怪ではなかったか。両の眼に宿る強力過ぎる魔力、それはまさしく自分と同じ異能――
「魔眼!」
 英霊メドゥーサの、石化の魔眼。
 気づき、顔を上げた志貴が見たのは霧の向こうで交差する影。一旦後方へ退こうとするライダーをバルスキーが追うような形で戦闘は継続していた。
 バルスキーに背を向けながら、ライダーは器用に鎖を操って迎撃しようと試みている。まったく、巧妙に。
「はっ!」
 そうして、長い髪が舞った。まるで強風に煽られでもしたかのように、広く、その中に爛々とした一対の輝きを宿して。
「バルスキー! そいつの眼を見ちゃ駄目だ!」
「ぐぬぅっ!?」
 志貴の絶叫とバルスキーの呻き声は、ほとんど同時だった。巨体がまるで重しでも乗せられたかのように傾き、ライダーの攻撃をまともに喰らう。
「魔眼、と気付きましたか。しかし、少し遅かったようですね」
 感心したかのように言いながら、ライダーは二撃、三撃と動きの鈍ったバルスキーのボディに攻撃を喰らわせ続けた。
「やはりロボット……いや、ゴーレムだからでしょうか、効きが薄いようですね。むしろ、正しい生命でない貴方にこうして魔力が通ることに驚くべきかも知れませんが」
「ぐ、き、貴様ッ」
「とは言ってもその様子ではもうまともに動くことは出来ないでしょう。これで――」
 ライダーの爪先がバルスキーの顎を蹴り上げた。
「ぐ、ガッ!」
「王手です」
「バルスキーーーッ!」
 霧の向こうで、立ち上がろうと藻掻く鋼鉄の身体をライダーの攻撃が打ちのめしていく。いくらバルスキーの装甲が厚くてもこのままでは致命的な損傷を被るまで時間の問題だ。
 しかし、どうすればいい?
 志貴は必死に打開策を考えた。この距離なら濃霧によって直接目を合わせずに済むが、もうあとほんの少しでも近づけば完全に視界に収まる。相手を直接見ずに、心の眼で戦うなんてスキルを志貴は備えていないし、直死の魔眼を使わず勝てるのかと言われればそもそも否だ。
「こんな事なら……アルクェイドやシエル先輩にもっと色んな魔眼について詳しく聞いておくんだった」
 後悔先に立たず。アルクェイドやシエルなら石化の魔眼などについても詳しく知っていたろうが、今、志貴の側にはそのどちらもいない。権藤は未希を護衛しつつ後方で待機しているため、シオンとバルスキーがやられた以上、志貴は孤立無援だった。
「残るは、貴方だけです。……久しぶりですね」
 不意に声をかけられ、志貴は霧中を睨んだ。
「……ああ、そうだな。東京以来だ」
 正直、意外だった。相手は英霊である。ただの人間に過ぎない志貴の事などそれこそ歯牙にもかけまいと思っていたのに、どうやらあの一瞬の邂逅を覚えていてくれたらしい。
「あんたに、アルクェイドを攫われて、以来だ」
 途端、志貴の中で抑え込んでいた負の感情が膨れ上がった。
 努めて冷静に――そう心がけていたつもりだった。シオンからもリタからもナルバレックからも忠告されたし、自身もそう心得ている。遠野志貴が“遠野志貴のまま”その異能を生かすためには、小賢しく、そして冷静であることが絶対に必要不可欠であるのだと。
 なのに去来するのは恋人への想い。アルクェイドとの出逢いが、共に過ごした日々が、交わした言葉が、繋いだ手と手の温度が、志貴を突き動かした。
 賢しくなどいられない。冷静でなんていられない。
 奪われたのだから。奪った相手が、すぐ目の前にいるのだから。
 想いの奔流が濁流に転じる。殺意の衝動がすぐ喉元までこみ上げてきていた。目の前に立つ英霊という名の化物を『殺せ』と囁く声が、耳鳴りのように奈落の底から響いてくる。
 眼鏡に手がかかる。
 頭痛は止んでいた。
 ほんの一瞬、刹那の交差に挑もうとする己の中の殺人貴を抑え込むことが出来ない。
 石化の魔眼か、直死の魔眼か。どちらかが、果てるまで。
 ――さぁ、殺し合おう――
 石化したシオンをゆっくりと横たえ、志貴は霧中を睨み、
「……?」
 違和感に気がついた。
 霧に浮かぶシルエットが微かに震えていた。失われた片腕のダメージによるものではなく、明らかに動揺によって。
「あな、たは……本当に、そうやって……立ち上がるのですね」
 自分に向けて発せられたものではない。ライダーの声に、志貴は今更のように後ろを顧みた。
 目と目が合ったのは、ほんの一瞬だった。
 自分と全く違うタイプの人間であると、その一瞬で理解した。考え方も感じ方も、そしてどう動き、どう生きていくかもおそらくは真逆に近い、真逆だからこそ理解出来る、彼方の者がそこに居た。
「君、は」
 まだ逃げていなかったのかなどとは、愚問だろう。
 志貴の声など果たして聞こえてはいないのか。
 遙か彼方の、決して相容れぬだろう存在であるはずなのに、瞳に宿る光だけが気になった。だから志貴はその一挙手一投足から目を離せなかった。眼鏡を外すのも忘れ、ただ黙って彼が――衛宮士郎が動き出すのを眺めていた。
 重い足取りで、士郎はゆっくりと歩み出していた。殺気とも怒気ともつかぬ感情をまとい、両の手に無骨な片刃の短剣を携えて。
 ライダーはそんな彼の姿が見えて――否、見ているのだろうか。
「何度でも。何度膝を折ろうとも、貴方は立ち上がってしまう」
 心の膝だけは決して折らずに。
 やがて士郎は志貴と並んだ。そして、追い越していく。
「……シロウ」
 悲壮な呼びかけだった。
「……ライダー」
 双方が、共に。
 志貴は彼らの事情は知らない。ただ、望まぬ戦いに臨もうとしているのだけは理解出来た。自分にも同じような経験がある。ここから先は本来彼ら二人だけの戦いであるべきだった。
 だが――
「待ってくれ」
「……アンタは」
 ようやく志貴の存在に気がついたのか、士郎は訝しげに見やった。友好さの欠片もない、尖った感情。相容れないと直感したのはどうやらこちらも同様らしい。
 意に介さず、志貴は数歩踏み出し、再び二人は並んだ。
「彼女には、聞かなくちゃいけないことがあるんだ」
 因縁なら自分も充分にある。愛する女を目の前で奪われたのだ。黙って譲るわけにはいかなかった。
 志貴も士郎も互いを見ようとはせず、ただライダーにだけ視線を向けていた。見て何になろう。事情を話し合ってどんな意味があるというのだろう。
 無い。意味なんて何も無い。それがわかっているから、二人はお互いを見ようとはしなかった。口をきこうとはしなかった。
「衛宮! ライダーさん!」
 後方から、綾子の声が虚しく響く。もはやこの場にいる誰をも押し止めることの出来ない制止は、悲劇の幕開けだった。



 まず駆け抜けたのは士郎。
 右手に干将、左手に莫耶。まったく彼らしい、無骨で真っ直ぐな打ち込みは一切の加減無しにライダーに迫った。手心を加えられる相手でないことを、士郎は知っている。今でこそ家族も同然のつきあいながら、半年前の聖杯戦争ではまさしく敵であったのだ。己の力がライダーと比べどれだけ非力か、いや、そもそも衛宮士郎という魔術使いがどれだけ脆弱な存在なのか、あの頃とは比較にならないくらい理解している。
 殺気をまとい、全力に限界以上を相乗し、それでもライダーは遥か高みにある。だが、止めなければなるまい。止めて、今何が起こっているのかを彼女に問いたださなければ、士郎は頭がおかしくなりそうだった。
 凛や桜が自分に隠れて何かしていることには気付いていた。
 セイバーとライダーが寝込んだのにも、何やら尋常でない理由があるだろうとは思っていた。
 二人の看病をしながら、テレビをつけるとそこに映っているのは世界各地で頻発するギャオスの襲来事件。
 言い様のない焦燥感を抱きながら、それでも士郎にはどうすることも出来なかった。聖杯戦争を生き抜いたと言っても、結局自分は無力なのだと、ブラウン管の向こうで起こっている現実としての悲劇に痛いくらい拳を握りしめていた。
 ――正義の味方――という言葉が虚しく木霊する。
 どうしようもなく無力な自分に出来ることは何だろう。熱にうなされるセイバーの細い手をとって、士郎は考えた。何度も何度も。
 そうして導き出された結論は、やはり『守る』ということだった。
 聖杯戦争を通じて突きつけられた自分の歪み。その上で、愛した少女と、友人と、家族を守ろうと誓った。だからあの二週間を戦い抜くことが出来たのだと、士郎はそう確信している。
 ならば今の自分がなすべきは、やはりセイバーや凛、桜、イリヤ達を守ることなのだろうと、世界を覆う暗雲を前に心痛めながら士郎は自分を納得させた。
 その、直後だ。セイバーとライダーが、姿を消したのは。
「りゃあっ!」
 左から真横に薙ぐ斬撃と、右は正面への突き。
 剣製に特化しながらも剣才は並以下、しかしながら地道に鍛錬を続けた結果である士郎の剣は、同じく高校生ならそれがたとえ剣道の全国大会上位入賞者であっても回避は困難だったろう。速く、鋭い、良い連撃だった。
 だが相手は高校生どころかオリンピック選手ですら足元にも及ばない身体能力を有した英霊だ。
「フッ」
 鼻で笑い、ライダーは軽いステップで士郎渾身の斬撃を避けた。両眼は……固く閉じられている。如何なる真意か、魔眼であっさりと決着をつけるつもりはないようだった。
「ちぃっ」
 舌打ちしつつ、しかし避けられるのは当然士郎も予測の内だ。そもそも中れば御の字な相手である。息も整えようとはせず、士郎は続けてライダーが避けた先へと腕を振るった。
 今度は右上方から、干将を袈裟懸けに。それを左に避けたライダーに向け、莫耶のやや大振りな一撃。が、そちらはダガーによって容易く受け止められてしまう。
「……強く、なりましたね」
「くっ!」
 馬鹿にされているのかと士郎は顔を紅潮させた。
「半年前とは、比較にならない」
 莫耶で押し切ろうと力を込めるも、ライダーはビクともしない。
「心配していたのですよ。……貴方のことですから、身内相手とあからさまな手加減を加えようだなんて、思い上がった真似をするのではないかと」
「な、に……をッ!?」
 ライダーがダガーを振り上げ、弾き飛ばされた士郎は堪えようとするもかなわず蹈鞴を踏んだ。
「その闘気も殺気も、上出来。気合いだけなら及第点です」
「巫山戯るなぁっ!」
 立て直し、突進。何処までも自分を嘲ろうとするつもりかと士郎は怒りのままに両腕に力を込め、
「やぁッ!」
 干将と莫耶を投擲した。
「!?」
 流石のライダーもこれにはたじろいだのか、隻腕の動きに戸惑いが混ざる。跳んで避けるか、鎖と刃で叩き落とすか。
 果たしてライダーが選んだのは後者だった。
「この程度……!」
 大きくうねる鎖が干将を弾き、空を裂くダガーが莫耶を砕く。
 しかしそれだけでは終わらない。
「うおぉおおおおおおおおおっ!!」
 二弾投擲に続く士郎本人による三撃目。その手に投影された武器はまごう事無く聖剣、エクスカリバー。聖杯戦争から半年、もっとも多く投影の修練を重ねた剣だった。大切な人達を守るために磨き抜いた剣が、守るべき対象の一人であるライダーに向けて振るわれる。果たしてその矛盾への心の迷いがさせたのか、それとも投擲から再投影に次いで速度を落とすことなく特攻を仕掛けたためか、姿勢に僅かな甘さがあった。ライダーの体術ならば、士郎の手首を蹴り上げるなりして充分に対応が可能な隙だ。
 ――そう。
 相手が、士郎一人だった場合は。
「せやぁっ!」
 頭上、霧をまとって迫る一つの影。譲らないと言いながら、突っ込む士郎をそのままに必殺のタイミングだけを見計らっていた殺人貴の刃がライダーを狙う。
 殺しはしない。訊くべき事がある以上、残る左腕と、必要ならば両眼両脚を全て切り裂いて志貴はライダーの動きを止めるつもりで襲いかかった。
「猪口才なっ!」
 この期に及んでライダーは志貴の事も魔眼で仕留める気はないのか、目を閉じたまま頭上へとその長い右脚を大きく旋回させた。ブーツの先は鋭利な刃物のように落下中の志貴に襲いかかる。空中では体を入れ替えることもままならない。故に、志貴は絶体絶命かと思われた。
 が、そこで戦況はさらに二転三転する。
「ヒュッ!」
 口から漏れ出る鋭い呼気。
 眼鏡を外し、神話の蛇怪の死を視通しながら志貴の短刀は一閃されていた。
 切り裂いたのは、蹴り上げられた右脚だった。
「く、あぁ……ッ」
 ライダーの漏らす低い怨嗟。元より志貴が狙っていたのはライダーの反撃だったのだ。自分の魔眼――直死の性質をおそらくライダーは彼女の左腕を奪った一撃から漠然と理解、そして警戒しているだろうと予測し、突進する士郎よりも自分を優先して迎撃するだろうという志貴の読みは的中した。
 右脚の臑から下の部分を失ったライダーは思わずバランスを崩し、そこに今度は士郎の聖剣が勢いよく振り下ろされるが、こちらは身を捻ることで微かに腹部を裂かれたにとどまった。
「そう、ですか。貴方の眼も……」
 右腕、右脚を失い、さらに腹部からも夥しい血を流しながらライダーは志貴と士郎から距離をとり、艶美な唇を皮肉げに歪めた。
 生身の人間ならとうに死んでいる、重傷だ。なのに英霊たる身は揺らぎもせずに、構えを解こうともしない。されど勝敗は誰の目にも明らかだった。いかなライダーと言えど、もはや満足に動けまい。注意すべきは魔眼だが、理由はともあれ彼女がそれを使おうとしないだろう事はもう士郎にはわかっていた。……わかってしまった。
「ライダー」
 わかってしまえば――もう。
 満身創痍のライダーに向かい士郎は一歩踏み出すと、辛苦を隠しもしない渋面で告げた。
「……もう、いいだろう」
「もう、いいだろう、とは?」
 気丈なライダーの答えに、士郎の闘気も殺気も、まるで周囲の霧に融けていくかのように散っていった。むしろ彼の性格を知るものならば、身内であるライダーを相手にここまでよくやったと評するだろう。そこまで必死だったのだ。
 そして最大の勝因は、別にある。
「理由はわからないけど、ライダーが本気を出していたら俺なんてとっくに死んでる。眼だって、閉じたままじゃないか」
 士郎が手心を加えるのではないかと嘲りながら、その実明らかに彼女は手を抜いていた。魔眼の件もそうだが、片腕を失っていたとは言えライダーの身体能力は士郎のそれを単純に数倍は上回る。まともに打ち合うことすら不可能なはずなのだ。なのに、士郎は終始圧倒されていたもののライダーと斬り結べていた。それが手加減でなくて何だというのだ。
 ライダーは答えない。
 傷口から止め処なく赤い血を流しながら――
「……ん?」
 視界が悪いせいで見間違えたのかと士郎は何度か目を擦りあげた。何も変わらない。ライダーの鮮血に混じり、血液とは見間違えようのないドス黒い“何か”があった。
 ライダーの本質が人外だからか? とも考えたが、聖杯戦争時に見た彼女の血は人間と何ら変わらない色をしていたはずだ。
 ヘモグロビンの中に流れるコールタール。
 その奇異を士郎が尋ねようとした時だった。
「ぐ、うっ、くぅ……ッ!」
 くぐもった声と共に、ライダーの長い髪が怪しく波打った。
「ライダー?」
 ズシャリ、と切断された右脚の断面が地面を滑る。ズルリ、ズルリと引きずるようにライダーは後ずさり、
「ぐ、あぁあああ……あぅぅあぁっあっ、あーーーーっ!」
 血が、舞った。
「!?」
 不気味な魔力が渦巻き、士郎は尻餅を突きそうになるのをかろうじて堪えた。
 赤と黒がライダーを中心に螺旋を描いている。その中心で、ライダーは右手で必死に眼を押さえていた。
「こいつ――!」
 今まで士郎とライダーのやりとりを見守っていた志貴が、咄嗟に跳んでいた。電柱を蹴り、三角跳びの要領で再び頭上からライダーを狙う。対魔の血族としての勘が告げていた。放っておくにはあまりにも危険すぎる。
 神話の蛇怪、メドゥーサの本性。これがそうだとすれば志貴がかつて戦ってきた二十七祖、ネロ・カオスやワラキアにも匹敵、否、凌駕する途方もない化物だ。
「クソッ!」
 連れ去られたアルクェイドの事もあるし、彼女の安否や居場所を訊き出すまでは殺したくはない。だがそうも言っていられない程の警鐘が頭の中で喧しく鳴り響いていた。
 両眼が蒼い輝きを放つ。
 一度は鎮まった七夜の血がざわめいていた。狙うはライダーの身体のほぼ中心部、志貴のみが視る事の出来る赤い点だ。
 突けば、死ぬ。それは伝説に名を刻む化物であろうと例外ではない。死神の蒼眼の前に万物は死を免れること能わず、等しく死を享受する以外にない。
 穿つ。
 死の点を。
 先程士郎が放っていた殺気などまるでささやかな涼風であったかのように、志貴は死の旋風と化してライダーを強襲した。



 金属と金属が打ち合う乾いた音色が周囲に響き渡る。
 歯噛みしたのは遠野志貴だったか、それとも七夜志貴だったのか、当人にも判断しかねる。
「……アンタ……ッ」
 憤怒の声と共に自分を睨め上げる視線を、志貴は真っ向から冷ややかに見つめ返した。
「殺す、つもりで――!」
 再び投影した干将と莫耶を交差させ、士郎は志貴の一撃を受け止めていた。言うまでもなくライダーを狙った一撃だ。殺すつもりもクソもなく、現在この世界に現界している英霊メドゥーサという存在を完全に討ち滅ぼすために放った一撃である。
 無言のまま志貴は地面に降り立った。その眼はもう士郎を見てはいなかった。大蛇の群れのようにのたうつライダーの髪を、脈動する蛇怪の中心を視据えている。
「――ああ、殺すさ」
 相手は想像を絶する化物だ。ライダーの血が脈打つのと同様に、志貴の中でも退魔の血が激しく脈打っている。先程までとは違いライダーの死を視ても眼があまり痛まないのは、彼女が英霊よりも怪物としての本性に近づいているがためだろうか。その存在が魔であれば、魔を殺すのが自分の血に課せられた使命である。直死の魔眼もそれを知っているとでも言うのか、果たして歪な線と点はライダーの身体と髪を縦横無尽に走っていた。
「散れ」
 殺害衝動を抑えきれない。
 短刀が、滑らかに宙を疾る。
「やめろぉっ!」
 あわやその一撃を防いだのはまたしても士郎だった。
「……邪魔、するつもりか?」
「邪魔も、何も――」
「君だって、さっきまで殺そうとしてたろう?」
 言われ、士郎は言葉に詰まった。
 確かに湧き上がる殺意を隠そうともせず、闘気も殺気も全開でライダーに挑んだ。そうしなければ到底彼女に敵しえないからとは言え、殺すつもりで振るった攻撃は言い訳のしようもない。しかし、それでも自分の攻撃でライダーが死ぬはずがないという確信めいたものも心のどこかで同時に抱いていた。
 絶対に殺せない相手に殺す気で挑みかかった……言葉にすればどうしようもない茶番だ。そんな自分の殺気と、蒼い眼の青年の殺気とでは意味も質も違いすぎる。
「退いてくれないか?」
 さしたる凄味もない、ただ道端で歩くのに邪魔だから声をかけでもしたかのような物言いにむしろ怖気がたった。つい武器を降ろし、道を空けたくなる。
 けれど、退くわけにはいかなかった。
「……嫌だ」
 ライダーが本当に自分達を殺すつもりであったのなら、綾子を傷つけでもしていたなら、或いは退いていたかも知れない。だがライダーは苦しんでいる。手心を加え、結局は士郎のことも綾子のことも傷つけてはいない。魔眼をかけられた青年の連れには気の毒だが、しかしそれも殺したのではなくあくまで石化だ。解呪が不可能ではない以上、ライダーの真意はやはり別のところにあるのではないかと、考えれば考えるほどに士郎はそう信じたくなった。
 自分勝手に極まるが、士郎の意志は決まっていた。
「彼女は、ライダーは……」
「……」
「俺の、家族だから」
 士郎の答えに志貴はつまらなそうに鼻を鳴らすと、
「そうか」
 一言漏らし、跳んでいた。
「くっ!」
 干将と莫耶が虚しく空を切る。志貴の速度に反応しきれない。
「させるかぁっ!」
 それでも士郎は無心に刃を振るった。荒れ狂うライダーを守るように、せめてもの壁になれればと。
 ライダー目掛けて急降下する志貴へと、士郎の剣が伸びる。
 が、
「なっ!?」
 剣が打ち合った衝撃すらなく、干将も莫耶も粉々に砕け散っていた。慌ててもう一度投影するも、やはり志貴の短刀が一閃しただけで呆気なく砕け散ってしまう。
「無駄だよ」
「何がッ――」
「精巧な作りだけど、死が、視えやすい」
 三度目、粉砕。
 もはや通用しないのは明白だった。それでも士郎は退こうとはしない。さっきまで戦っていた、それでも家族である相手を守るために、守るための刃を剣製し続けた。
「家族、か」
 四度目も、一合ともたない。当然だ。志貴が斬っているのは士郎が剣製した刃が内包する“死”そのものなのだ。ならば打ち合える道理が無い。
 志貴の斬撃は、一撃ごとにその怜悧さ、正確さを増していっているかのように思われた。自分とはあらゆる点で性質が異なる攻撃に、士郎はあのアサシンのサーヴァント、佐々木小次郎のことが頭を過ぎっていた。あらゆる攻撃が相手の命を狙う必殺であるという、ひりつくような緊張感に、冷や汗すら出ない。
「大切な人を守るために――その意気は、買うよ。理解も出来る」
「こ、の……! このぉっ!!」
 そして五度目。砕け、霧散する刃を凝視しながら、士郎は悔しげに唇を震わせた。
 志貴の蒼眼は氷のように冷たく士郎を見下ろし、やがてそこに悲哀を帯びたかと思うと――激昂していた。
「でも、俺は守るべき人を守りきれなかった。……そして、奪ったのはそこにいる、君の家族だ!」



「……シ、ロ……ウ……」
 懸命に投影を繰り返して志貴の攻撃から自分を守ろうとする士郎の姿を、ライダーは視覚以外のあらゆる感覚で感じ取っていた。眼は、開けられない。正しくは、開けたくない。
 士郎のことを愚かしいと思う。
 自分に向けてあのような殺気を放てるようになっただけ成長したかとも思ったが、すぐさま手の平を返したかのようにこれだ。間違いなく愚者の類だろう。しかし殺意を纏っていた時よりも、愚者として無様に剣を振るう方が彼らしかった。
 喜ばしくも、哀しい。そんな彼を、自分は殺したい。
 自分の中を熱い何かがうねっているのがわかった。
 その熱い何かの正体は知っている。ドロリとした粘着質の、ドス黒いもの。それがライダーから全てを奪い、囁きかけていた。
 そして今、そいつは嬉々として嗤っている。
 ――両眼を開けろ――
 ――獣性に身を委ねろ――
 ――怪物と化し、全ての敵を引き裂き殺せ――!
 抗おうにも、抗えば抗うほどに力を放出したライダーの肉体と精神は怪物へと近づいていく。蛇怪ゴルゴーンが鎌首をもたげ、既に変質は始まろうとしていた。
 そうなれば全ては終わりだ。自分は死ぬまで破壊を繰り返す理性無き魔獣と成り果てるだろう。
「ふ、ぐぅ……くっ、あ、あぁ……ッ」
 殺したい。
 まずは自分から右腕と右脚を奪った青年を、捻り潰し、手足をねじ切って、滴る血でこの渇きを潤したい。
 殺したい。
 自分を守ろうとしている哀れな少年を、その腹を裂き、臓腑を引きずり出して、思う様咀嚼したい。
 殺したい。
 常識外の戦闘を目にし怯える少女を、気が狂うまで犯し尽くし、首を噛み千切って、全身でその鮮血を浴びたい。
「ぐ、ごぉ、ふ……ふ、ぅう、ふふ……ふ、くふふ……」
 甘美だ。
 妄想しただけで甘美極まる。現実にそれらを実行したならば、その陶酔感たるや言語を絶しよう。怪物は血を求めていた。鮮烈な死のイメージを実行すべく、ズルリ、ズルリと蛇の腹が地面を擦るかのような音を立てて、長い髪が周囲を這い回る。
 殺す。
 士郎も、綾子も、蒼眼の死神も。
 凛も、イリヤも、そして――
「……サク……ラァ……」
 ――桜、も。
 殺したくて、血を啜りたくて、臓腑を引きずり出し、骨を砕いて腑分けしたくて、考えるだけで素晴らしい陶酔感が溢れ、心安らかに黒い濁流が全てを呑み込んでいく。気持ちよすぎて、吐き気がする。
 甘美な快楽と、それに抗おうとする理性が、身を縛る。
 助けを乞うように伸ばした手は大蛇の顎となって、獲物を捕らえ牙を鳴らしていた。



「きゃああああああっ!」
 六度目の投影を試みようとしていた士郎は、突如聞こえた悲鳴に後ろを振り返っていた。
 依然としてライダーは不気味な魔力を発しながら懸命に両眼を押さえつけている。その、一方で、
「美綴ッ!?」
 蛇のようにのたうつ髪が綾子を捕らえ、締め上げていた。
「……わかったろう」
 志貴の声が地の底から響く。
「彼女は、魔物だ」
「そんな、ことは」
 無い、と言いきれない。何が起こっているのかもはや士郎の理解の範疇を遙かに超えていた。
 殺そうとした。守ろうとした。そして……ライダーは、今、綾子を締め上げている。綾子は信じられないとでも言いたげに、恐怖におののきながらか細い悲鳴を漏らし続けていた。気丈な彼女が、まるで小さな少女のように。
「ライダーッ!」
 祈りにも似た叫びだった。
 理由があるはずなのだ。戦ってみて、絶対にそうだと確信を持てた。だから守らなくてはと矛先を変えて、なのに――
「……シロウ」
 蛇が、名を呼んだ。
 口が三日月のように歪み、赤い舌がチロチロと覗く。
 呆然と立ちつくす士郎の脇を、志貴が抜けた。短刀を振りかざしライダーの死点目掛けて一直線に駆ける。
「やめ――!」
 止めようとして、士郎はつんのめった。足首に何かが絡みついている。それは蛇と化したライダーの長い髪だった。
「どうして!?」
 死ぬ気なのか、と。士郎はライダーを見た。
 ライダーは髪を振り乱して志貴を攪乱していた。わからない。どういうつもりなのかが、どうしても。
「ふ、ふっふふ……あはっ」
 享楽の笑みが漏れる。ただ、士郎には、まるでライダーが、哭いているかのように聞こえた。



 邪魔な髪を切り払いながら、志貴はライダーを殺すべくひたすらに点を目指していた。地面と壁、電柱などを利用して多角的に、相手の裏をかいて攻めたてる。
 志貴にだってもうわかっていた。
 ライダーは、英霊メドゥーサは苦しんでいる。おそらくは七夜に呑み込まれようとしている、今の自分のように。
 だから殺してやるのも同じ苦しみに喘ぐ自分の役目だろうと思う反面、さっきまで剣を交えていた赤毛の少年の言葉が胸を過ぎりもするのだ。呆れるくらい自分勝手で、矛盾した言動だった。最初に感じた通り自分とはまったく正反対だ。
 ……或いは、正反対だからこうも気に懸かるのか。
「くっ!」
 髪が鎖のようにしなり、襲いかかってくる。一房を切り取ろうにもまるで無意味だった。大元を絶たなければ無限に伸び、増殖し続けるだろう。
 髪と異なり、身体の方はまだ必死に自身を抑え付けているよう見受けられるのがまた奇妙だった。
(いったい、どうしたいんだ?)
 悩んでいる余裕など無いのに、つい短刀の切っ先が緩む。
 石となったシオン、身体の自由を奪われたバルスキー、そして目の前で攫われたアルクェイドの事を思えば、彼女を殺す理由は充分すぎるくらいにある。
 なのに、
(やめてくれッ!)
 眼を押さえる彼女に、共感してしまう。らしくもない割り切れなさがあった。あれさえなければとっくに点を突いていただろうに。
「……どう、したのです?」
 棒読みのように、ライダーは志貴へ問うた。
「どうした、って……」
「殺、せるでしょう? ……貴方の、眼なら」
 腕が震えている。魔眼を閉じていられるのももはや限界が近いのだろう。彼女は、本当に魔物になろうとしているのだ。
 ままよ、と志貴は突っ込み、短刀を振るおうとした。しかし未だ迷いがあることを悟ったのか、ライダーは呻くように、呟いた。
「……首を、落としなさい」
「なにを……」
「いいから……私の、首を、落としなさい……ッ! う、く、くく、で、でなければ……石化した、仲間は……元、には……――!」
 ライダーの身体があり得ない角度に仰け反る。人間としての形態とて保てなくなりつつあるのか、そして左腕が、覆っていた顔面からゆっくりと離れていく。
 志貴の意識は今やすっかり遠野志貴に戻りつつあった。
 だから……駆けるのではなく、ゆっくりと、ライダーに近づいた。
「……ぐ、ぁ、ぁあ、あ、あ」
 ライダーは嫌々するように頭を振っていた。首を差し出そうとする意思と、怪物としての意思がぶつかり合っているかのようだった。
 髪の動きが鈍い。避ける気もない志貴の身体を捉えきれないのではなく、捉えるつもりが無いのだろう。捕らえられたままの綾子も、ぐったりとしてはいるが既に締め付けられてはいないようだった。
 志貴達を殺すことも石化することも困難と悟った怪物は、逃げだそうとした。だが、動けない。
「……遠野、志貴……!」
 残った片脚を、いつの間にここまで這い寄ってきたのか、倒れ伏したままのバルスキーが残る力を振り絞って拘束していた。
「あ、ああ……」
 徐々にライダーの両眼が開かれていく。
 既に志貴は息がかかるくらい近くにいた。その手が、短刀を持つのとは逆の手がゆっくりとライダーの顔にかかる。
「……感謝、します」
 志貴の眼鏡――魔眼殺しが、ライダーにかけられていた。
 ライダーは微笑んでいた。
 美しい女性だな、と。短刀を振るいながら、志貴は初めてそう心から思っていた。





◆    ◆    ◆






 ライダーの首を抱きかかえ、士郎は嗚咽していた。
 結局、何だったのだろう。どうして自分は守ると決めたはずのライダーと戦い、そして守ろうとし、でも守りきれずに、こうして彼女の首を抱いて泣いているのだろう。
 わかっている。
 彼女は、自分の意思の及ばない“何か”に操られていたのだ。そうしてその“何か”から逃れることも出来ず、死を望んだ。
 彼を恨むのは、だから筋違いなのだ。
 けれど無理そうだった。士郎は、自分たちを見下ろす青年のことを憎まずにいられそうにはなかった。
 志貴は何も言わなかった。詫びの言葉すら、一言も。
 ただ黙って嗚咽する士郎を見つめていた。
 アルクェイドの事は何一つわからず終いだ。それは素直に悔しいけれど、優しい微笑みを浮かべて首を落とされたライダーの事を思えば仕方がなかったのだろうと思う。
 彼女も、ぎりぎりだったのだから。
「……衛宮」
 ふらつきながら、綾子は士郎へと歩み寄っていった。
 名前を呼んだ後に、どう続けていいかわからなかった。安らかなライダーの顔は、それが首だけなのだという事を除けば眠っているようにしか見えなかったが、どんなに綺麗でもそれはまごうことなく死だった。これまでに親戚や知人の死に立ち会ったことは何度かあったが、“戦場の死”を見るのは、無論初めてだった。
 ……何が、武道家だろう。
 武芸百般だの、今の綾子にはあまりに虚しい響きだった。無力感すら浮かんでこない。ただ悲しくて、情けなかった。
 知らず、涙が零れていた。苦手にしていたとは言え、綾子にとってライダーはやはり友人だったのだ。
 士郎と綾子は静かに嗚咽を漏らし、だから、最初その声が誰のものなのかまったく理解出来なかった。
「二人とも、そう泣かないでください」
 幻聴、かと思った。
 士郎は顔を上げ、まず綾子と顔を見合わせた。次いで志貴の反応を見たが、彼も信じられないと言いたげに首を横に振るばかりであった。
 そして……視線を、自分が抱えたライダーの首へと戻した。
 志貴によってかけられた眼鏡の奥で、ついさっきまで穏やかに閉じられていたはずの眼が、開いていた。
「声帯が真っ二つになってますね……話しづらいですが、あまり贅沢も言っていられませんか」
 夢、でも見ているのだろうか。
 綾子は……狐につままれでもしたかのような顔をしていた。
「すみませんが、アヤコ」
 実際に声をかけられても、果たしてどう反応したものか。むしろそんな反応を愉しんでいるかのように、士郎に抱えられたままのライダーの首は言葉を続けた。

「手鏡でもあれば、貸していただけませんか? この眼を、封印し直さなければならないので」








〜to be Continued〜






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