episode-17
〜激震の冬木〜
Part 6 霧の中へ ―冬木GO! GO! GO! ―


◆    ◆    ◆






 鬱蒼と茂った深い森の中、静かに佇むアインツベルン城の一室で、セラは窓の外を落ち着きなく何度も見てはその度に眉を顰めていた。彼女らしくもなく部屋の中を右往左往忙しなく歩き回り、かと思えば溜息を漏らし、そしてまた窓の外に目をやる。
 気になっているのは当然、彼女がそのホムンクルスとしての全存在でもって仕えるべき主、イリヤスフィール・フォン・アインツベルンと、彼女に護衛としてついていった同僚のリズの事である。
 ……一応、その他にも衛宮家を始めとし交友のある人々のことも気に懸けてはいたが、やはりイリヤと、そしてリズが占める割合というのはその他とは比較にならないくらい大きい。
 別にセラが薄情なわけでなく、それは忠義であり、また常に模範的な侍従であろうとする彼女は頑なに認めようとしないが、家族、肉親に対する情愛が重きを占めるという、要するに一般的な感覚がもたらす結果だった。
 市街地から遠く離れたアインツベルン城も例外なく雷を伴う濃霧によって覆われていた。森にかけられた結界は多少なりと抵抗したようだが、この霧自体は魔術で生み出されたものでもないためさして効果はなかったようだ。どちらかと言えばこの霧は自然現象である。アインツベルンの森の結界が如何に高性能でも、自然現象としての霧や雷を打ち消せるわけではない。
「……お嬢様」
 本当ならすぐにでも城を出てイリヤ達を探しに行きたい。しかし今のセラにはそのイリヤからの厳命がある。
「セラさん、すみません」
「私達のために……」
 傍ら、テーブルの上から聞こえてきた申し訳なさそうな声に、セラは即座に何でもないかのよう表情を取り繕った。
「本当なら、イリヤさんとリズさんを」
「すぐにでも探しに行きたいでしょうに」
「いいえ。私はお嬢様からお二方をお守りするよう厳命を下されております。どうか、お気になさらぬよう」
 主の心配をするのも侍従なら、主命を全うするのもまた侍従たる者の務めである。イリヤからコスモスの護衛と世話を任された以上、自分はこの小さな二人をあらゆる害威から守り通さなければならない。なのに心配を懸けてしまったのは失態だった。
「ですが……」
「セラさん……」
「お二方は人類の命運を懸けた此度の戦いにおける最重要人物であるとお嬢様とトオサカ様から聞き及んでおります。その警護を任されたのは身に余る栄誉。ですから……」
 もうそれ以上は言わないて欲しいと、セラのそんな意思を汲んだのかコスモス達は静かに目を閉じると頭を下げた。
 栄誉に感じているのは本当だ。セラ個人としてはホムンクルスという出自のためか『人類の未来のために』などという大層な感覚は稀薄だったが、それがイリヤを守ることにも直結している以上は重要であることに違いはない。人類の存亡を懸けた戦いの重要性自体を理解していないわけではないので、大役をイリヤや凛から任されたという使命感は非常に強かった。
 だから、ジレンマなのだ。
 イリヤに信頼されているのは嬉しいし誇らしい。自分が直接戦闘に不向きで、尚かつこのアインツベルン城及び森の結界による防衛能力を最大限に生かせるだけの魔術スキルを有していることも理解している。要するに適材適所、リズがイリヤに随伴し、セラが城でコスモスを守るのは当然の配置だ。なのにセラ自身がイリヤに随伴したかったというのはただの我が儘に過ぎない。
 どうも日本に来てから、もしかすると自分は存外に我が儘なのではないかとセラは時折考えることがあった。イリヤや自分達を取り巻く環境の変化ということもあろうが、主であるイリヤへの独占欲という不敬な感情が胸を掠めることが多々ある。今回のこれにしても、そうだ。
 声を漏らさぬようセラはそっと溜息を吐くと、思い切ってカーテンを閉めた。外など眺めていても、見えるのは霧と雷だけだ。
「お茶のおかわりを用意してまいります」
 何もせずにじっとしているというのが、やはり良くない。
 取り敢えず身体を動かしていよう――セラはそう考えると、コスモスにスッと一礼をして部屋から出ていった。



 セラの退室後、コスモスは互いの顔を見合わせ静かに祈りを捧げるように瞑目した。
 セラには言えなかったが、二人の能力はイリヤとリズの無事を察知していた。この霧は魔力や電波を遮断するようだが、超能力までは流石に範疇外らしくモスラとの交信も可能だ。
 しかし、二人は確かに無事なのだがそのすぐ近くに言い様のない不吉な影を感じたのだ。コスモスはセラにその事を告げることが出来ず終いでいた。
 不吉ではあるのだが、今のところ影はイリヤ達に対し特に害意は抱いていないようにも思われる。コスモスのESP能力は極めて特殊且つ強力ではあるけれどそれでも万能ではない。影の正体や真意までは残念ながら探りようがなかった。
 現在、冬木の中には数体の怪獣が潜み、霧を放ち、雷を操り、この町を外界と遮断してしまっている。近海の無人島でひっそりと傷を癒しているモスラも今の状態ではあの雷霧を突破は出来まい。バトラによってつけられた傷はそれ程までに深いものだった。よって今希望と呼べるのは、イリヤや凛達冬木の魔術師と、そしてついさっき感知したリタを始めとした僅かな援軍のみだ。
 彼らに、託すしかない。
 戦う力を持たない自分達に出来ることは、こうして祈りを捧げ、彼らの無事と勝利を願うのみ。
 コスモスはどちらからともなく頷きあうと、歌い始めた。
 尊きモスラへ、正義のモスラへ。
 彼らを、守りたまえと。



Mahal Mahal Mothra
Mahal Mahal Mothra
Tama Tama Mothra
Tama Tama Mothra
Laban Guerra Labanan
Laban Laban Guerra Labanan
Laban Laban Guerra Labanan
Magutan gol Magutan gol
Magutan gol Magutan gol
Bigai! mahal Bigai! Mahal
Ipang anak Manga anak
Ipang anak manga anak
Mahal Mahal Mahal……



 ティーセットを手に部屋に戻ってきたセラは、コスモスの透き通るかのように清らかな歌声に知らず耳を傾けていた。ヨーロッパや日本の歌曲とはまるで異なる、不思議な、けれど温かい響きに心が癒されていくのを感じる。
 ――イリヤとリズが帰ってきたら、もう一度コスモスに頼んで歌ってもらおう。この歌は、あの二人にも聴かせたい――
 待つことの辛さ、願うだけしか出来ない歯痒さを胸に、セラは普段通り手際よく紅茶をいれ始めた。
 霧がたちこめようとも、雷が轟こうとも、祈る心を遮る壁にはなりえない。だから、祈りはきっと届く。
 ダージリンの香りに満足げに頷くと、セラはコスモスのために用意された小さなカップを歌い続ける二人のもとへ邪魔にならぬようそっと差し出したのだった。





◆    ◆    ◆






「しっかし、本当に大丈夫なのか?」
「何がッスか?」
 マニュアル片手にサイドファントムに跨り、メカニック達と共に最終チェックを行いながら有彦は結城の質問にさて何のことやらと怪訝な顔で聞き返した。
「何が、っておめぇ。本当にこいつであの霧を超えられるのかって事だよ、坊主」
「持ち主の話とこのマニュアルによれば、最高時速は九〇〇キロまで出るらしいッスけどね。……乗り手が耐えられないだけで」
 鍛え抜かれた埋葬機関首領ナルバレックと言えども生身でそんな速度に耐えられるはずもなく、実際に最高時速を出したことはないらしい。もっとも、耐えられないのは通常のゼクトギアの防御力を向上させた試作品であるゼクトギア・ネオを装備している有彦も同様だ。一応七〇〇までは耐えられる、と妙に自信満々な影山からの御墨付きだったが、伊豆から神戸に来るまでのいわば試運転でも直線で三〇〇までは出してない。大体にして耐えられるのはきちんと訓練を積んだ人間が対象であり、有彦は所詮は一般人なのだから影山の言う一応が当てはまるとはとても思えなかった。
「でもま、仕方ないッスよ。相棒がバイク乗れねーんですから」
 言って、有彦はさつきの居る方を見た。さつきは現在はメレム、そして東京で一度は有彦の命を救った魔戒騎士・涼邑零と冬木突入後の事について話し合っているようだった。その辺り、小難しい話になるだろうので有彦は混ざるつもりはなくこっちに退散してきたのだ。そもそも魔戒騎士だの吸血鬼だの、有彦から見ればまったく漫画の中の存在である。話していても実感が湧かない。
 今回の事件の概要は聞かされたけれども、有彦は未だにさつき本人からこの二年間どうしていたのか、何故仮面ライダーなんてやっているのかなどの事情を聞いてはいない。好奇心はあったがどうにも歯切れの悪いさつきを見ているとやはり質問する気にはなれないのだ。親友である遠野志貴が怪獣やら吸血鬼やらの闘争渦巻く冬木に突入した件に関しても、況や、である。
 東京で零やさつきに救われ、共に伊豆まで退避して、そこでさつきと彼女の上司らしい人物との会話をたまたま立ち聞きしてみたら志貴の名前が聞こえてきて――
 その後はもう、我ながら大して事情も聞かずによくもまぁ首を突っ込んだものだと思う。さつきと話していた相手、ヴァン=フェムに頼み込んで自分も突入斑に加えてもらい(ちなみにさつきとななこは猛反対したが姉の一子はまったく反対しなかった)、ゼクトギア・ネオとメーサーガンを始めとする各種装備を預かって、バイクを運転出来ない仮面ライダー弓塚さつきの代理ライダーとしてサイドファントムを駆りここまでやって来た、というわけだ。
 結城もさつき達を一瞥すると再び有彦に向き直った。
「なぁる。バイクに乗れねぇ仮面ライダーか」
「どんなギャグだよって話っしょ?」
 なんて嘯きつつ、ギャグなのはむしろ自分の方だろうなと有彦は苦笑した。事情も知らない、訊く気もない、それなのにこうして命まで懸けてる自分はギャグ以外の何物でもないだろう。
 けれど、有彦の理屈としてはそれも仕方がないのだ。
 理由は知らないが志貴は既に冬木に突入しており、さつきもあの不気味な雷霧に突っ込むのだと言う。なら、黙って放っておく事なんて出来るはずがない。
 吹っ切れたように笑う有彦を見て、結城は何事か納得したかのように溜息を吐いた。
「結城さん?」
「……やれやれ。お前さんがビクビクと脅えたツラしてたら俺が代わりにそいつに乗って突っ込むつもりだったんだが、その様子じゃ大丈夫みたいだな」
「いや、怖いッスけどねぶっちゃけ」
「ぬかせよ。そんな風に言ってられるうちは大丈夫だ」
 結城に肩を叩かれ、有彦はどうにもむず痒そうにすると再び計器類に目をやった。突入に成功したらマシンの面倒を見るのは当然有彦ということになる。機械をいじくるのは嫌いではなかったが、こちらも所詮は素人だ。マニュアル片手にやりながら覚えるしかない。
「本当は、お前ら若造共にこんなこたぁさせたくないんだがな」
 自嘲気味に呟いた結城の顔を、有彦は見ないようにした。結城も見られたいとは思わないだろう。
「ま、しゃーないッスよ」
 そう、仕方がない。
「なんせダチ二人のためッスから」
 だから、やる価値があるのだ。



 話し合う、と言っても特にコレと言った指標がないのが問題だ。
 結局、中の様子、特に地上がどうなっているのか判然としない以上は突入後は臨機応変にこなしていくしかない。
「なるようになるしかないよね〜」
 気の抜けるようなメレムの声に、零は特にどうと言うこともなく「そうだね」と同意し、さつきだけがゲンナリと顔を顰めた。
 何とも無計画極まりない。計画の立てようがないのはわかるがもう少し何とかならないものなのだろうか。
 東京を脱出し伊豆下田の特自臨時基地に到着後、志貴が空路による冬木への突入斑に編入され下田を出立したことを聞かされたさつきは、自ら援軍として志願した。そんなさつきなだけに、この適当ぶりにはどうにも納得がいかない。
 主に陸路を用いた第二次突入斑は、さつきと有彦、そしてななこによるサイドファントム組と、非常に困難な試練を乗り越えた魔戒騎士のみが召還出来ると言われる魔戒馬を駆る零。そして自らの四肢を形成する怪獣のうち、高速飛行に優れる左足の円盤獣シルバーブルーメを用いてメレムが低空からさつき達を援護しつつ雷霧に挑む手筈となっている。
 戦力的には、ハサンを撃退したことでライダーシステムが英霊にも通用することを証明してみせたさつき、さつきを上回る戦闘能力を有する零、四肢の怪獣を用いて対怪獣戦もこなせるメレムと、平均的な英霊と怪獣がそれぞれ数体程度なら何とかなってしまうもので、まさに文句の付け所が無い。
 無い、のに……
「ん? どうしたのサツキちゃん。溜息なんて吐いてると幸せが逃げてっちゃうよ?」
「そうそう。ただでさえ幸薄そうな気配を全身から滲ませてるんだから、気をつけないと」
『ゼロ、はっきり言い過ぎよ。せめてキャラ付けが不幸そうと……』
 どうして、この人達はこんなに呑気なのだろう。あの霧の中には得体の知れない怪獣や強力な英霊達がどれだけ待ちかまえているかも知れないというのに。
 さつきは、正直不安で仕方がなかった。そも、ハサンに勝てたのだって有彦や一子達がいてくれたからだ。彼らの機転が無ければ自分一人ではとても勝てなかったろうと思う。
 ポテンシャルは二十七祖級でも、感覚的にはさつきはまだまだ平凡な少女に毛が生えた程度のものだ。メレムや零のように振る舞うなんて土台無理な話であったし、有彦のように大概の状況に対し出鱈目な順応力を発揮するタチでもない。よってこの溜息もさつき的には致し方ないものだった。
 ……が。
「言われてみれば幸薄そうだよね。ツインテールだし」
「でも海でなら強そうじゃない? ツインテールだし」
『強いかどうかは兎も角、美味しそうね。ツインテールだもの』
 少女の懊悩など知ったことかとばかりに相も変わらず好き放題の言いたい放題。
 この髪型はパッと見ツインテールだけど実はそうじゃないと反論する気も起こらず、さつきは黙って頭を垂れた。
「あれ、サツキちゃん、どうしたの?」
「何だか落ち込んでるように見えるね」
『女の子はね、色々と大変なのよ』
 もう溜息すら出ない。
 腰に巻かれたベルトを確認するかのように撫で、さつきはトボトボと有彦達がいる方へ歩き出した。これ以上彼らの話を聞いていると色々な意味で凹みそうだ。
 腹を括るしかあるまい。
 吸血鬼として生きると決めたあの日のように、今の自分は、そう。仮面ライダーとして戦う――人類の未来のために。そして、あの日の体育倉庫で自分を助けてくれたヒーローのために、今度は自分が彼のヒーローになろう。
 さつきの貌が決意に引き締まる。見た目は十代の少女であろうとも、その血は吸血の化物であろうとも、今の彼女は紛れもなくヒーローとしての片鱗を覗かせていた。





◆    ◆    ◆






 その銀は、この世のものとも思えぬ荘厳な輝きに包まれていた。古より邪悪なる者、ホラーを狩り続ける魔戒騎士の中においてもここまでの輝きを放てる者はそうはいまい。
 たった99.9秒しかこの現世に顕現出来ない銀色の狼は、その名を銀牙騎士・絶狼という。
 絶狼――ゼロと化した零は、口元を獰猛に歪ませ獣の笑みを形作った。両の手に携えた一対の両刃曲刀は銀狼剣。涼邑零の養父にして師である魔戒騎士、道寺から譲り受けた形見の品だ。
 その銀狼剣が、高らかに打ち鳴らされる。
「時間がないから、急がないとね」
 途端、轟音。周囲に濃厚な魔力が染み渡ると共に、蹄の音と嘶きが響き、そこにはゼロに勝るとも劣らぬ銀の輝きを纏った巨馬が虚空を割って現出していた。
 ホラーを百体浄化させた魔戒騎士に与えられる試練、即ち己の影との戦いを乗り越えた者のみに与えられる魔戒馬・銀牙が勇壮に首を振るい、刃の如き角が煌めいて空を斬る。
「へぇ〜、あれが魔戒馬かぁ。ボクも初めて見たけど、凄いね。思わず欲しくなっちゃうよ」
 素直に感心し、メレムは左足の無い身体を喜びに奮わせた。秘宝コレクターとしての性とでも言おうか、特にこの美しくも荒々しい魔戒馬を駆ることの出来る魔戒騎士は長い歴史を顧みても決して多くはなく、現役ではゼロと、彼が友と呼ぶ黄金騎士の二人のみという稀少さだ。メレムが感激するのも無理からぬ事だった。
 しかし、今メレムの頭上にフワフワと浮いている物体も漂わす神秘性では魔戒馬に劣らぬものがある。
 フォーデーモン・ザ・グレートビースト――四肢を持たぬ代わりに四体の魔獣を己が手足として使役すると言われる死徒二十七祖が二十位、メレム・ソロモンの左足の魔獣シルバーブルーメ。その形状は『円盤獣』という二つ名の通り、まさに空飛ぶ円盤そのものだった。ただしこの円盤は生きている。透き通る全身を微かに脈動させながら妖しげな光を放ち、波間を漂う海月のように揺らめいていた。
 そんな魔戒馬と円盤に比すれば、有彦とさつきが乗るサイドファントムなどは至極まともな乗り物に思えてくる。最高時速九〇〇キロの化物マシンであろうと、少なくとも見た目にはただの珍しい形状のサイドカーだ。
「じゃあ、行くぜ」
 ゼクトギア・ネオのメットをかぶりペダルに足を添えた有彦の言葉に、さつきは仮面に覆われた頭をコクリと頷かせた。
「うん、いつでもいいよ」
「こっちもオッケーです〜」
 さつきの足下にケース状態で収納されているななこにも今回は重要な役割がある。速度が上がってきたらサイドファントムにメレムが仕込んでおいた防御障壁のスイッチにアクセスし、展開。有彦とさつきを守るという必要不可欠な役だ。こればかりは魔術の訓練などやったこともない二人にはやりようがない。
「……よしッ!」
 冬木を覆う霧のうち、外界と遮断するための完全な壁として生じている部分は、地上なら直線距離にしてほんの三キロ程度だ。この阪神高速道を使用したにしてもそれは変わらないはずである。
 しかしほんの三キロと言ってもそこはあらゆる者の出入りを阻む雷の巣であり、ガルーダが持ち帰ったデータから判明した放電量と速度、そして破壊力は常軌を逸していた。
 陸路において霧中の雷を振り切るために必要な速度は時速にしておよそ六〇〇キロ超。
 メットの中で、有彦の頬を冷たい汗が伝った。
 六〇〇キロである。口にするのは簡単だが、それはもはやバイクの速度ではない。ゼクトギア・ネオとメレムの障壁に守られてなお肉体にかかる負荷は予測がつかないのだ。
 自分に、出来るのだろうか。
 今からでも頭を下げて、結城に代わって貰った方が良いのではないかと……寧ろその方が成功率は格段に高いはずだ。素人の有彦と歴戦の兵である結城とでは雲泥の差がある。
 自身の安全のためではなく、さつきとななこ、そして霧の中で戦っているであろう志貴のためにも自分ではなくここは結城に任せるべきではないのか。何度も有彦はそう悩んだ。
 意地を通そうとしているだけではないのか。その意地のためにさつきとななこを巻き添えにするのか。貴重な装備を無駄にしてしまうのか。
 この危機的状況下で我を通すことにどんな意味がある?
「……乾くん」
 メットの下で懊悩する有彦に気付いているのかいないのか、呼びかけたさつきの声は何とも穏やかなものだった。
「行こう。遠野くんが、待ってる」
 その言葉は、どんな激励よりも有彦の心を鼓舞した。
 まったく、結城に言った通りだ。ダチ二人のためなのだから、仕方がない。悪い意味ではなく、良い意味で仕方がない。何せ乾有彦というのはそういう男なのだから。
 かくして最後の覚悟の火は灯った。
「っしゃーーーーっ! っくぜぇーーーーーーーッ!!」
 高らかに上がったのは有彦の叫びとマシンの咆哮。サイドファントムが凄まじい勢いで走り出し、銀牙とシルバーブルーメもそれに続くように阪神高速道を冬木目指して突っ込んでいく。
 サイドファントムの速度はすぐさま三〇〇を超え、そのまま加速し続けていった。前傾しハンドルを握る有彦は、もはや完全に吹っ切れていた。時速四〇〇が、五〇〇が、六〇〇がなんだと言うのだ。走り出してしまえば後は素人も玄人もない。出せる限りの速度で突っ切るだけだった。
 そんなサイドファントムに併走する銀牙も、慣性を無視したジグザグ軌道で上空を高速飛行するシルバーブルーメにも、雷を恐れる様子など微塵もない。
「防御障壁、展開します!」
 ななこが言うやケースが淡い光を放ち、魔力の壁がサイドファントムの周囲を覆った。途端にそれまで身体にかかっていた負荷がグンと軽くなる。
「よーしよし! これならいけるぜァッ!」
 ありえないくらいの高揚に有彦は絶叫した。常識外の速度がついさっきまで悩んでいた自分を嘘のように魅了し、虜にされていくのを有彦は感じていた。
 もっと速く、もっと速く――
 さらに増していく速度。メーターの針は既に五〇〇を示している。
 怖れるものなど何も無い。有彦はそう感じていた。このまま雷霧に突っ込んでも雷が自分達に届くわけがない。何故なら今、サイドファントムはその名の通り幻の如く疾走しているのだから。
 もうすぐ、もうすぐ雷霧に届く。
 霧の間に覗く雷が、有彦にはまるで竜の舌のように見えた。雷鳴はさながら竜の咆哮、霧は竜の巣だ。
 目を凝らしてもあまりの速度のせいで目測では霧までの距離が測りきれない。何しろ秒単位で大きく変動するのだから無理からぬ事だった。しかし確実に縮まっている。
 届く、届く。
 竜の口がどんどん近付き――その時、有彦は視界正面に何やら奇妙なものを捉えていた。
「……なんだ、ありゃ?」
 竜が泡を吹いている。少なくとも、今の有彦にはそう見えた。大口を開けて自分達を待ち構えている竜の直前の道路が不気味に泡立っている。
「おい、弓塚……ありゃ――」
「乾くん、気をつけてッ!!」
 さつきが悲鳴をあげた。
「うぉっ!?」
 いつの間にか路面が泡で覆い尽くされていた。ハンドルを取られそうになるのを咄嗟に堪え、かろうじて速度を保つ。が、このままでは危険だ。この泡は絶対に自然発生したものなどではない。
『あっちゃ〜。どうやら番兵みたいだね』
 この期に及んで気の抜けるようなメレムの声が頭の中に直接聞こえてきた。念話、というやつだろう。
『あの贋物がやりそうな事だよ。陰湿というか悪趣味というか……こっちのやる事なんて全部お見通しって感じだね』
「メレムさん、感心してる場合なんかじゃないですよ!?」
『別に感心してるわけでもないんだけどねー。あの贋物に感心なんて想像しただけでも嫌だなぁ。ゾッとするよ』
 慌てふためくさつきがおもしろいとでも言いたげに、メレムはさらに飄々と関係ないことをのたまった。そうこうしている内に泡は膨れ上がって何かの形を成そうとし始めていた。
 有彦は横目でチラと併走する銀牙を見たが、彼は既に銀牙銀狼剣をいつでも投擲出来るよう構えに入っている。メレムはあてにならないとばかりにさつきもメーサーガンを構え……ようとしたのだけれど、既に十メートル、二〇メートルと大きさを増しつつある泡の塊を前にしては呆然とするしかなかった。
 でかい。いや、まだでかくなり続けている。
 次から次へと地面から湧き出す泡は今や巨大な壁となって一行の前に立ち――湧き塞がっていた。
「こんな……こんなの、どうやって!?」
「ちくしょ、今からじゃ止まれねぇぞ!」
 急ブレーキをかけたとしても六〇〇キロに届こうとしている現状ではとても止まりきれたものではない。下手をすればサイドファントムはバラバラ、有彦とさつきも投げ出されて一巻の終わりだ。
「ななちゃん、障壁を全開にして止まれないの?」
「む、無理ですよ〜。この障壁はわたしが張ってるんじゃなくて、あくまでメレムさんがかけた術のスイッチを押しただけなんですから」
 優れた霊的存在ではあってもななこ自身には術を行使するような能力は無い。あくまで第七聖典に宿る精霊に過ぎないのだ。
「クソッタレ! 弓塚、構わねぇからメーサーぶっ放せ!」
「む、無理だよ! あんなに大きいのに、メーサーガン程度じゃ。それにこの速度じゃ上手く撃てないよ!」
「撃たないよりマシだ! じゃなきゃななこ投げろ!」
「うぎょっ!? な、何言ってるんですか!?」
「あーーーーっ、何か手はねぇのかよ!?」
 状況は掛け値無しに絶望的だった。有彦は吠えながら必死に考えを巡らし、さつきは障壁越しにも感じる風圧の中メーサーガンを何とか構え、ななこはガタガタとケースごと震えている。
 泡は今やただの泡ではなく一個の生命としての形状を成し始めていた。それは、怪獣だ。数十メートルの巨躯に、人智の及ばぬ能力を秘めた最悪の化物だ。かつて有彦から家族を奪った、憎むべき存在だ。
 有彦は己の無力を呪った。呪いつつ、しかし打開策は浮かんでこない。こんな時に回らない知恵に果たして何の意味があろう。姉の一子ならきっと紫煙を燻らせつつ妙案の一つでもパッと思いつくのだろうに、それが悔しくてたまらない。
 無駄とわかりつつもブレーキに手をかけ、何とかサイドシートの二人だけでも助けられないかと思いめぐらしつつ、有彦はままよと眼を閉じた。
 そして、ブレーキをかけようとした瞬間、
『大丈夫。そのままフルスロットルで突っ切ってよ』
 メレムの声が再び頭の中に響いてきた。
「フルスロットルって、怪獣どうすんだよ!?」
『あっはは。気にしない気にしない。ボクが――』
 メレムの言葉が終わらぬ内に、熱風がスーツ越しに有彦とさつきの全身を撫でていた。続いて炎灼の塊がサイドファントムと銀牙の合間を縫って阪神高速道を焼き焦がす。
『ボクが、何とかするからさ』
 突き進む炎が道を切り拓いていく。
 泡が瞬時に蒸発し、成りかけの怪獣に大穴が開いていた。その泡のトンネル目掛けてサイドファントムと銀牙が突っ込む。復元しようと藻掻く泡の中を、まるで自分達も炎の弾丸と化したかのような気分で有彦は通り抜けていた。目前には炎弾の影響で歪んだ霧が不気味に口を開いている。
『そう、それでいいよ。……ボクは後から追いかけるから』
「おい、後からって――!?」
 そんなメレムの声に問い返そうにも、サイドファントムと銀牙は既に雷霧の中へと呑み込まれていた。
 メレムの声は……もう、聞こえない。
 最後に後ろを振り向いた瞬間、有彦とさつきが目にしたのは空を飛ぶシルバーブルーメではなく、大地にしっかと仁王立ちする雄々しくも麗しい巨大な女神像の姿だった。





◆    ◆    ◆






「ふぅ……このタイミングで妨害とはね。流石のボクも肝が冷えたよ。……あの贋物女め、やってくれるよまったく」
 努めて明るく、しかし底冷えのする声で言い放つと、メレムは腕を組もうとして、左腕が組むべき相手を見つけられずに空を切った。
「おっと。いけないいけない」
 シルバーブルーメの体内に収まる形で搭乗している今のメレムには、左足と、そして右腕が無かった。理由は勿論、四肢としてでなく怪獣として顕現させているためだ。
「たまにしか使わないから、どうにも右腕がないっていうのは慣れなくていけないや。ねぇ、ウインダム?」
 眼下にて仁王立ちし、銃型の左手を前方に突き出し構えをとっている鉄色の女神像へと語りかけ、メレムは機嫌をもう直したのかニコニコと微笑んだ。
 メレム・ソロモンの右腕を成す怪獣――否、女神の姿を模した彼女をそう呼ぶのは不適当だろう。魔獣でも怪獣でもなく、寧ろここは巨大ロボットとでも呼ぶべきか。とは言えヴァン=フェムの魔城ゴーレムとは明らかに異なる外見は、機械的でありながらどこか生物的な、女性特有の柔らかさを感じるフォルムをしていた。
 彼女の名は『機巧令嬢』ウインダム。
 メレムのお気に入りでもある、四肢の中では主に火力、遠距離攻撃を担当する部位だ。特に今の状態は、炎の属性を相乗させた事により左手に銃型のアタッチメントを追加装備したファイヤーウインダムと呼ばれる形態だった。この形態をとると、通常時は眩く輝く銀髪が燃えるような紅に染まる。有彦達が進むべく泡状の怪獣を吹き飛ばし道を切り拓いたのは、炎銃から放たれた炎の弾丸だった。
 しかし気は抜けない。
「さぁて。まさか一撃で倒せたわけでもないよね」
 大穴を空けられ吹き飛ばされた泡は再び一つ箇所に集まり、巨大な形を成し始めていた。
 青白い巨躯、血のように赤い目、全身からはさっきまで泡だったとは思えない鋭角な棘が無数に生えている。
「やれやれ。あの女の趣味をそのまま表したかのように醜悪な外見だ。ボクのウインダムとは比べモノにならないや」
 蔑むように嘯くと、メレムは左手を顎に添えてウインダムに念を送った。このように醜悪な化物に足止めを喰ったというのが実に腹立たしい。シルバーブルーメとウインダムの同時顕現、さらにファイヤーウインダムの形態をとらせたことでメレムの魔力はかなり消耗していた。これでは有彦達の後を追うのに一旦体を休めなければならないだろう。その苛立ちを込めて――
「いいよ、やっちゃってウインダム。そんな泡の塊、全力で塵も残さず焼き尽くしちゃえ」





◆    ◆    ◆












◆    ◆    ◆






 主からの凶悪な破壊の念を受け、ウインダムは了解したとばかりに細腕を挙げた。と同時に左手の炎銃と頭部の飾りに備わったビーム砲が連続で火を噴く。火力を担当するだけあってその破壊力たるやヴァン=フェムの魔城に勝るとも劣らない威力だ。
「お前はここで潰させてもらうよ」
 アルトルージュ・ブリュンスタッドがどれだけの手勢を率いているのか詳細は不明だが、今相対しているような強力な怪獣はそう多くはないはずだ。一体ずつ仕留めていけば必ず品切れになる。そうすれば後はあの鼻持ちならない護衛のオセロコンビと白い魔犬、そしてアルトルージュ本人をぶちのめすだけだ。
 メレムはアルトルージュを張り倒す自分を想像し、端正な相貌を喜悦に歪ませた。
 ピーターパンとは程遠い、悪魔のような笑顔が、そこにあった。








〜to be Continued〜






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