episode-17
〜激震の冬木〜
Part 7 霧の微笑


◆    ◆    ◆






 爆音、そして轟音。
 ウインダムが膝を突き、ジグラの巨体が沈み込む。
 焼け野原と化した冬木との境界で、メレムはいつもの尊大な笑みをヒクつかせながら冷や汗を垂らしていた。彼の四肢は既に右腕しか残されていない。自立は不可能なので、東京撤退時と同様、後方に待機していた茜に抱っこされている状態だった。
「あ、はは……まったく」
 読みが甘すぎた。
 アルトルージュの手勢とは言え、怪獣の一体程度なら自分の四大魔獣を駆使すれば勝ちは動くまいと……その自信は今や完全に打ち砕かれていた。
「……逃げた、みたいね」
「そだね。ダメージは与えたはずだし」
 結果的に敗北はしていない。ファイヤーウインダムとシルバーブルーメ、そして決戦終盤で解放したジグラは泡状の怪獣を撃退する事には成功した。が、シルバーブルーメは墜落しウインダムとジグラは満身創痍、その上で相手にトドメを刺すには至らず逃走を許し、さらにこのメレムの消耗ぶりを省みればとても勝利とは言えないだろう。判定があれば敗北は間違い無しだ。
「変幻自在の泡状生物か。厄介なヤツだよ、ファイヤーウインダムの火炎で焼き尽くせないだなんて」
 装甲の所々を溶解性のある泡によって溶かされ、片膝を突いているウインダムはパッと見では無表情だがよくよく気をつけてみると少々ムッとしているようにも見える。
「あんなの宇宙生物じゃないの? 反則だよ」
「貴方のシルバーブルーメ……だっけ? あれも充分に宇宙生物に見えるけど」
「ボクはいいんだよ」
 大真面目にメレムが言い切る。
「円盤は清く正しい全世界共通の少年の夢じゃないか」
「私は女だから力説されてもわからないわよ」
 と言うより、円盤形態はまだしも戦闘形態をとると茜にはあれはもはやクラゲにしか見えなかった。クラゲもクラゲ、まるで宇宙クラゲだ。クラゲが少年の浪漫だなんてピンとこない。見た目も武装もウインダムの方がよっぽどわかりやすいというものだが、茜にわからなくともメレムがそれを夢と認識している以上、円盤獣シルバーブルーメは間違いなく清く正しい少年達の夢なのだ。
 メレムの怪獣具現化能力は“ガヴァドン”と呼ばれるある種の降霊能力で、人々の夢や畏敬の念をモデルにして怪獣を作り上げることが出来る非常に珍しく且つ強力な異能だ。そのため、空想具現化のような力とは異なり彼一人の想像で怪獣を産み出せるものではないのである。
 空飛ぶ円盤への夢と、火星人に代表されるような軟体生物的な宇宙人のイメージが混合され、そこにメレム流の装飾を付け加えて具現化させたのがあのシルバーブルーメなのだから、宇宙怪獣のように見えるのも当然と言えば当然だろう。
 ジグラやウインダムも同様である。ジグラは地球最大の生物である鯨への憧れと、凶暴な人喰い鮫への怖れ、深海に潜む正体不明の巨大生物というイメージから産み出された大海嘯の具現たる深海獣。ウインダムは荘厳な女神像に戦乙女の属性を付加させ、武装はその時代における武器のイメージに応じて選択される、美と兵器の具現たる機巧令嬢だ。
 が、勿論制約もある。
「ウインダムは広範囲攻撃は出来ないの?」
「出来ないんだよねぇ、コレが」
 例えばウインダムの装備は個人レベルの武装に限定されるが、これは核や毒ガスなどの大量殺戮兵器に人々が抱くのが恐怖や嫌悪に代表される負の感情がほとんどなためだ。そこに憧憬や畏敬といった正の感情が含まれない限り、夢は怪獣を怪獣として産み出せないのである。
「じゃあ、広範囲攻撃が出来るのは……」
「シルバーブルーメは広域制圧に向いてるんだけど、あの泡とは相性が悪いね。多分、逃げられちゃう」
「要するに、四体とも相性が悪いって事か」
「ま、そーゆーこと」
 口調は変わらずとも多分に悔しそうにしているメレムは見た目相応で、茜は少しだけ彼に親しみを覚えた。外見が子供なのだからやはりこのくらいが丁度良い。
「……それにしても疲れたよ。霧の中が心配だけど、休まないとホントに役に立てそうにないや」
 疲労困憊なのは嘘ではあるまい。吸血鬼なのだし元々血色の良い顔はしていないが、それにしても今のメレムは明らかに青ざめていた。
「ウインダム、ジグラ、もう戻っていいよ」
 主からの呼びかけに、ウインダムはコクリと頷き、ジグラは一声啼いて蜃気楼のようにぼやけたかと思うと消えていった。それでもメレムの四肢はまだ戻る気配はない。
「再構成は後にしよう。ふぁ〜〜〜〜あっ……。少し、寝るよ」
「ちょっと、メレム? 寝るって……」
「いいじゃないか。たまには甘えさせてよアカネちゃん」
「なっ! 貴方ね――」
 抗議しようとする茜の鼻先に、メレムは唯一残った左手の人差し指を突きつけてそっと制した。
「本当なら新鮮な血を吸うのが一番なんだけどね〜。でもさ、そうもいかないでしょ?」
 ニンマリと笑い、メレムはそのまま茜の胸に顔を埋めるようにして早々に寝息をたてはじめた。
 ひっぱたいて起こすか? と一瞬迷ったが、先程までの彼の死力を尽くした頑張りを見ているだけに茜は溜息を漏らすとそっと少年吸血鬼の頭を撫でてやった。
「……仕方ない、わね」
 黙ってさえいれば可愛い顔をしているのは確かなのだ。寝顔からは普段の軽薄さは欠片も見て取れない。
 目が覚めたら、彼に待っているのは再び自らの四肢を駆使しての霧の突破と、強力な怪獣との戦闘だ。せめて今くらいは、望むように寝させておいてやろう。
 メレムを抱っこしたまま、茜は消火作業にてんやわんやの阪神高速道を出来るだけゆっくりと引き返し始めた。自分とてガルーダの修理が完了次第もう一度冬木に挑まなければならないのだ。休息が必要なのは何もメレムだけではない。
 自分の胸に抱かれて眠る少年吸血鬼を始め、茜は彼ら闇の住人を完全に信じたわけではない。突入斑も素人だらけだが、しかしその中で権藤のことだけは信じていた。共にゴジラと戦うために閑職に身を窶しながら牙を研ぎ続けた者同士、彼の実力も信念も痛いくらいよく知っている。
 権藤ならば、きっとやってくれるはずだ。
 ならば自分は自分が為すべき事を果たす。
 茜色に染まりつつある空と不気味に霞む霧とを交互にを見つめながら、茜は静かに決意の炎を燃え上がらせていた。





◆    ◆    ◆






 目尻に涙をためつつ、桜は必死に走っていた。
 霧の中、何度も転びそうになりながら、実際に何度か転んで腕や脚に擦り傷をこさえながら、懸命に走り続けた。
 目指すは衛宮邸。士郎やイリヤと合流し、出来ることならば、たとえ出来そうになくとも姉を助けに戻らなければならない。死徒二十七祖という最古にして最強の吸血鬼集団、その一角を担うリタの実力を疑うわけではないが、相手はあのセイバーだ。桜が知る限り最強の個人戦闘力を有する騎士王である。それに、もし窮地に陥ればリタが凛を見捨てないとも限らない。
(姉さんっ!)
 電柱に正面から激突しそうになりながらも、桜はさらに速度を上げようとした。姉のことを思えば気が気でない。走らなければ不安に押し潰されてしまいそうだった。
 下り坂を、危険を承知で全速力で駆け下りる。
 早く、速く、疾く――!
 気は急くばかり、元より身体強化の魔術に長けているわけではない桜が脚に魔力を込めようとも普段とそう差が出るわけでもない。むしろ焦りは肉体を余計に疲弊させ、もはや気力のみにて桜は己を奮い立たせ走っていた。
 だがそんな状態が長続きするはずもなく、
「あっ!」
 駆け下りる最悪のタイミングで足がもつれた。
 体勢を整えようにも身体は言うことを聞いてくれない。顔がまるで地面に吸い寄せられるかのように、桜は非常に危険な角度で転倒しようとしていた。
 ――ぶつかる!
 覚悟を決め、両眼を閉じた桜の身体を、
「おっと。お嬢ちゃん、こんな霧の中で走るもんじゃないぜ?」
 力強く抱きとめてくれたのは、まったく見知らぬ男だった。
「え? ……あ」
「急いでるのはわかるが、この霧だからな」
 最初に頭に浮かんだのは、軍人という言葉だった。
 皮肉気な笑みを浮かべている中年男性が身につけているのは、迷彩服にヘルメット。サスペンダーにゴチャゴチャとぶら下がっている装備品の中には拳銃のようなものも見える。それに背中に背負っているのは、以前にテレビで見た覚えがあるが確か怪獣との戦闘などに用いられるメーサー銃とかいうものではなかっただろうか。
 と、そこで軍人という言葉はようやく自衛隊員という言葉に置き換えられていた。日本には軍隊は無い。米軍や地球防衛軍の基地が存在はしているが、基本的にこの国を守っているのは自衛隊と呼ばれる組織だ。
(救助に、来てくれた……?)
 そう考えるのが普通だろう。
 しかし、安堵を覚えるよりも先に桜は自分を支えてくれている男性の他に自衛隊員らしき影は一切見えないことに気がついた。彼と一緒にいるのは、雰囲気から自分より僅かに年上だろうと見受けられる女性が一人きりだ。それに救助が行われているにしては周囲が静かすぎる。人々の喜びの声や喧噪などは何一つ聞こえない。
「未希ちゃん、このお嬢ちゃんで間違いないのかい?」
「はい、そのはずです。えっと……」
 女性が一歩進み出て、桜へと手を差し出した。姉の凛と同い年か、それよりも一つ上くらいだろうか。ただ顔立ちは幼いため、自分と同い年かもしくは下のようにも見えた。なので女性と呼ぶよりは、まだ少女と呼ぶべきか。
「冬木を管理する魔術師の方ですよね?」
「あ、わ、私は違います! 管理は、姉さんで……」
 しどろもどろに答える桜を安心させるように、少女は柔らかな表情で真っ直ぐに顔を覗き込んできた。
 この人は、信用出来る――まったく無意識に、そう思わせる不思議な瞳だった。むしろ催眠術と疑いたくなるくらいの、けれど胸に広がる安心感は本物だ。
 と、一瞬。
「?」
 少女は視線を少し下にずらし、桜の身体を確認するかのように眺めると再び真っ直ぐに見つめ、
「じゃあ、間桐桜さんですよね? 遠坂凛さんの妹の」
「はい。そうです、けど」
「ああ、やっぱり」
 言って、手を取った。
「行きましょう。あなたを待ってる人がいるんです」
「私を?」
 男性に目配せし、少女は歩き始めた。
「すぐそこの公園にいます。……ちょっと、今は動きをとりづらい状態なんですけど」
 途中から少女は不自然に言葉を濁すと、唐突に思い出したかのように「そう言えば」と振り返った。
「名前、まだ言ってませんでしたよね」
「え? ああ、そう言えば……」
 と、そこで桜も、まだ二人に先程の礼を言っていなかったことを思い出していた。あのまま転んでいたら今頃顔面が酷いことになっていたのは想像に難くない。
「わたし、未希です。三枝未希」
「権藤だ」
 未希は桜の手を引きながら、権藤は周囲を警戒しつつ名乗り、桜もそれに頭を下げて応えた。
「さ、さっきはありがとうございました。間桐桜です」
 勢いに乗って大きな胸がたゆんと揺れる。それを見て、未希は何事か納得したかのような顔つきでうんうんと頷いた。
「よろしくお願いしますね、間桐さん」
「いいえ、こちらこそ。その……三枝さん」
「未希でいいですよ」
「あ、じゃあ私も桜で」
 実に女の子らしい自己紹介を聞きつつ、権藤はさてどうしたもんかと未希に目配せした。未希も未希で考え倦ねているらしい。いきなり見せるのもショックが大きいとは思うが、事前にどう説明するかも頭を悩ます。第一、二人は魔術寄りの立場ではないのだ。
 やがて二人は仕方ないとばかりに溜息を吐くと、そのまま公園へと桜を連れて走らずとも急ぎ足で向かうのだった。



 大方の予想通りの反応だったと言えるだろう。
「……」
 むしろ泣き叫んだりしない分だけ、同じ年頃の少女と比べればそこはやはり魔術師と言うことだろうか。未希などは、最初見た瞬間流石に悲鳴をあげたものだ。
 桜は、口を開けたまま唖然としていた。
 そんな彼女の反応が気に食わなかったのか、
「久しぶりに会ったというのに、何だかつれない態度ですね」
 ベンチの上に乗せられた“それ”が不服そうに漏らす。唇も喉も特に動いていないからには肉声ではなく、おそらくは念話やテレパシーの類なのだろう。
「……そりゃつれなくもなるよ。ねぇ?」
「……ああ」
 ヒソヒソと小声でやりとりする綾子と士郎を、桜は救いを求めるかのような顔で見た。が、二人はわざとらしく目を逸らすのみだ。
 仕方がない。
 思い切って、桜は現実と向き合うことにした。
「ライダー……どうして、そんな姿に……?」
 もっと心配そうに尋ねるべきだったのかも知れないが、いかんせんライダー本人は平気そうな顔をしているし、そもそも首だけになってしまった相手と応対するなんて初の体験なのでどうすればいいのかがわからない。
 要するに、桜は激しく混乱していた。
「どうした、と言いますか」
 桜からすれば随分と久しぶりにアイマスクをつけた状態のライダーは、首を捻ろうとして失敗し、ころんと転がりそうになるのを隣に立っていた眼鏡の青年によって支えられた。
「ああ、すいませんね、シキ」
「……いや、別に」
 遠野志貴。
 簡単に自己紹介は済ませてあるが、桜は彼が何者なのか一切知らない。ただ、今のライダーに対する反応などから無愛想な青年だなと感じていた。単に自分と同じようにどう対応すればいいのかわかっていないだけの可能性もあったが、それとは別にどうもライダーへの態度に含むところがあるように見えた。
「いったい何があったのよ?」
 再度、少しだけ言葉を言い換えての質問。
 ライダーは今度は首を捻らないよう気をつけて、「さて、何から話せばよいのやら」と呟くと、
「斬られたのですよ。彼に」
 ついさっき、転がりそうになった自分を支えてくれた青年を僅かな顔の動きで示した。
「……え?」
 思わず桜が身構える。志貴は特にどうと言うこともなく、黙って二人のやりとりを見続ける心算であるようだった。
「ああ、ああ、そう構えないでくださいサクラ。悪いのはむしろ彼ではなく私なのですから」
「だ、だって……」
 ここにきてようやく思考が正常な働きへと戻り始めたのか、桜は改めて首だけになってしまったライダーの姿を凝視した。
 痛ましい有様だ。切断部は非常に鋭利な刃物によって瞬時に断たれたものか不自然なくらい整っていて、正面からぱっと見ただけではとても斬られたようには見えない。が、ベンチの上に乗っているのは間違いなくライダーの首のみなのだ。
 続いて桜は志貴を見た。しかし、ライダーの発言にも特にこれと言って反応はない。斬った志貴と斬られたライダー、両者の反応が桜の中では合致せず、再び混乱し始めた。
「ライダー……遠野、さん……」
 ライダーは、桜にとっては大切な友人であり、姉のような女性である、掛け替えのない家族だ。その彼女を、こうして生きて会話は出来るとは言えあろう事か斬首した人物が目の前にいる。けれど志貴は少なくとも悪人には見えなかった。ライダーの発言からも、某かの事情があったろう事は明白だ。
 もう一度、桜は戸惑いながら救いを求めるかのように士郎と綾子の様子を伺った。けれど綾子は難しい顔をするばかり。士郎は幾分かの煮え切らない、怒りとも憎しみともつかない、そうしてどこか戸惑いを含んだ視線を志貴へと向けている。
 何もわからない。結局、桜はぐるっと周囲を見渡してからもう一度ライダーを見つめるしかなかった。そんな桜の戸惑いは当然のものだろう。やがて、ライダーは溜息と共に語り始めた。
「本当に、彼には悪いことをしてしまいました。無理矢理に従わされていたとは言え、目の前で恋人を強奪したのですから」
 それを聞いて、桜ははっと息を呑んだ。反射的に志貴の顔を伺い見ると、僅かだが眉間にしわが寄っていた。
「それにこうして首を落とされなければ、私は今も彼女との血の契約によって言われるがままに凶行を繰り返していたでしょう。サクラ、貴女のことも、傷つけていたかも知れません」
 ライダーが自分のことを傷つける。桜にとっては他のどんなことよりも想像しがたい光景だ。が、反面納得もいく。そのような状況に陥ったなら、彼女は首を落とすくらいは平然とするだろう。
 そして一つ納得したことで、桜は気付いていた。
「ッ! ……じゃあ、セイバーさんも――!?」
 口にした瞬間、何かを殴りつけたような鈍い音が響いた。
 士郎が、傍らのジャングルジムに拳を叩きつけていた。
「長くなりますが……」
「あっ」
「サクラ、貴女にも順を追って説明しましょう。今回の件はこの冬木だけでなく、人類全体の存亡にも関わる大事です」
 士郎を気遣おうとする桜を引き留め、ライダーはそう前置いてから話し始めた。士郎も、理解ってはいるのだと言いたげに。
「私は、無理矢理にある人物に従わされていたのだと先程そう言いましたね」
「う、うん」
「……恐るべき魔力の持ち主です。マスターと契約したサーヴァントを無理矢理に再召還し、契約を上書きするなど例え後押しがあったとしても並大抵の力で出来ることではありません」
 神代の魔人であるメドゥーサにそこまで言わせるとは、果たしてどのような相手なのか。あの聖杯戦争の最中においても桜はこのようなライダーを見た覚えはなかった。
 ただ、皮肉なことにライダーが首だけとなってもこうして現界していられるのはその再召還のおかげだった。サーヴァントとしての縛りから解き放たれ、神話のメドゥーサにより忠実な英霊として現界を果たせたからこそ死なずにいられる。もっとも、その事に感謝などするつもりは毛頭無かったが。
「魔術師……なの?」
「いいえ、違います。彼女は魔術の理を行使する存在ではない。あれは……断じて魔術などではないのです。……だからこそ、私は彼女が怖ろしい」
 ライダーの言葉に浮かぶ感情は、明らかに恐怖だった。
 怯えているのだ、彼女が。あのセイバーに対してすら臆することの無かった、彼女が。その事実が桜を激しく動揺させる。
 長い逡巡があった。
 桜が落ち着くのを待つ、と言うよりはライダー自身が時間を持ちたかったのだろう。
 そうして、震える唇で、ライダーはその名を呼んだ。
「――アルトルージュ・ブリュンスタッド」
 言葉は力を持つ。
 名は魔力を宿す。
 その名前は、ある種の魔術だった。
 聞いただけで息苦しい圧迫感を覚え、桜は全身の毛穴という毛穴から一気に冷や汗が吹き出したかのように感じた。
「吸血鬼達を統べる黒の姫君にして、今回の一連の事件の黒幕とも呼べる存在です」
 淡々と続けるライダーの言葉を、桜は圧倒されながら聞いていた。スケールが大きすぎて想像が追いついていないというのもある。一連の事件、とは、冬木を覆う霧のことだけを指しているのではあるまい。地球全体を今なお襲い続けているあらゆる異常の事をライダーは言っているのだ。
「なん、で……」
 何もわからない。『なんで』という疑問はあまりにも多くの事象にかかりすぎていて、桜自身も何がどう『なんで』なのか理解出来ず、言ってから口元を押さえていた。
 そんな桜の心中を察したのか、ライダーは少しだけ迷い、言葉を句切ってから、
「そう、ですね。まずは彼女が何のために冬木を外界から遮断したのか、その件から話しましょう」
 さしあたって身近な事から説明することにした。
「先程は大まかな説明しかしませんでしたので、他の皆さんももう一度聞いてくださると助かります」
 ライダーからの呼びかけに、士郎と綾子もベンチへと近付いてきた。さらに未希に肩を貸してもらいながらベレー帽をかぶった少女と、権藤と並んでどう見てもロボットにしか見えない――と言うよりロボットが桜を囲むようにして集合した。
「えっと、あの……こちらのお二人は」
「シオン・エルトナムです」
「バルスキーだ」
 簡潔に答え、二人は気怠そうに沈黙した。ダメージを受けているのか、あまり長話を出来るような状態ではないらしい。……そこまで考えて桜も気付いたが、ダメージを与えたのはおそらくライダーなのだろう。志貴の件も踏まえてどうにも気まずい。
 ライダー自身は気にしているのかいないのか、ともあれ全員が揃ったことを確認すると、一拍置いて続きを話し始めた。
「ではまず、アルトルージュの目的から話しましょう。……結論から言ってしまえば、彼女が冬木を制圧した目的は聖杯です」
「で、でも聖杯は――!」
 桜が思わず声を荒げる。
 冬木の聖杯は、半年前に士郎とセイバーが破壊したはずだ。柳洞寺の地下にある大元の大聖杯を聖剣によって斬り裂き、聖杯の器にされかかっていた桜を救い出してくれたのである。その時、凛やイリヤ、何よりライダーも二人と協力して戦ってくれたのだ。
 この冬木に、既に聖杯は存在しないはずなのだ。
 では聖杯が目的とはどういう意味なのか――そんな桜の疑問を、ライダーはわかっているとばかりに頷いてみせた。
「そう、この地の聖杯は破壊されています。ですがアルトルージュはそれを理解した上で……聖杯を、修復するつもりなのです。自らの、目的のために」





◆    ◆    ◆






「ほう、また侵入者でありますか」
 ふむとひとりごち、長身黒尽くめの男――黒騎士リィゾ=バール・シュトラウトは暗殺者の英霊ハサン・サッバーハに目配せで諜報活動の結果報告を続けるよう促した。
「今度の奴らは、陸路から来た」
 ハサンはハサンでも、東京でさつきと死闘を演じたあのハサンではない。全部で十九人いると言われるハサン・サッバーハのうち一人だ。もっともその十九という数すら虚実入り乱れるこの英霊ハサン達を前にしては疑わしいものだったが。
「侵入者はまず、東京でシャイターンの腕を持つハサンを倒した少女とそのサポート役と思われる男、そして精霊憑き兵装が一つ。その他に魔戒騎士が一人だが、こちらは厄介だな。我らでは不意をつこうとも戦闘での勝率はゼロに近い。暗殺も困難だ」
 ゴワゴワと耳障りな声で報告し、ハサンはそう結論づけるとそのまま整然として押し黙った。ハサンの中でも特に大柄な部類に入るであろう巨躯は暗殺よりもむしろ正面からの戦闘向きなよう思われるが、それにしたところで彼も暗殺者に違いはないのだ。己の肉体を一個の道具と割り切り、そこに如何なる私情も挟まず客観的に見据えて判断を下すのが暗殺者ならば、戦闘における勝率の割り出しは他のどんな優秀な英雄豪傑よりも正確だった。
「ふむ、なるほど。では引き続き諜報活動をお願いいたします。他の方々にもよろしくお伝えください」
「了解した、黒騎士殿」
 答え、暗殺者の身体が闇に溶ける。だが、その気配が完全に消え去る前に闇は黒騎士へと問うた。
「……しかし黒騎士殿よ。こう言ってはなんだが、あの魔戒騎士の相手はどうする? おそらく貴公でも手に余るぞ」
 魔戒騎士とはその名が示す通り、魔を戒め、律し、滅する存在である。闇に生きる吸血の鬼であり、さらに真性悪魔ニアダークを持つリィゾでは戦闘における相性は最悪と言えた。同様に白騎士フィナも分が悪いだろう。
「確かに我々吸血鬼では魔戒騎士とは分が悪いですが……そこは英霊殿達に頑張っていただきましょう。当代で一、二を争う魔戒騎士殿と剣技を競いたいのは山々ではありますが、肝要なのは我が主の望みをかなえることでありますゆえ」
 リィゾの答えに納得したのか、今度こそハサンの気配が完全に消え去る。英霊の多くはアルトルージュに対し完全な恭順の意を示してはいないが、ハサン達は別だ。彼らの望みは己だけの名を得る、それのみにある。名を残すことが目的ではなく、ただ名を己だけのものにしたいのだ。
 哀れな望みだが、扱いやすい。彼らは黒い血による強制力が無くともアルトルージュに従うだろう。
 問題なのは、やはり人の理想たる偉大な英雄達だ。彼らの高潔な精神は黒い血に呑み込まれることを拒否し続けている。ガイアの意思も、彼らの矜持まで塗り潰すことは難しい。こちらの意志に理解を示し、自ら進んで従っている英霊もいるが、全体から見ればやはり少数だ。
 磔にされた騎士王を見上げ、リィゾは憐憫の情を浮かべた。同僚によって連れ帰られてから、彼女は失った黒い血を点滴のように再び注入され続けている。おそらく想像を絶する苦しみを味わっているはずだ。
 黒騎士の主、アルトルージュの契約の力は絶大だ。例えどのような大英雄であろうとも完全に抗しきることは不可能だろう。黒い血を多少なりと流しただけで反抗出来たアーサー王は流石としか言い様がない。騎士として尊敬に値する。
 しかし、愚かだ。
 抗い、逆らって何になろう。
 もはやアラヤも静観を決め込んでいる。ガイアの意思は現行の人類を滅ぼすことを決定した。ヒトに逃れる術はないのだ。だからこその英霊の投入だったというのに。
 誇りを尊ぶ騎士王だからこそ、わかるはずだ。守り手にして理想たる英霊が、人類の黄昏に何をすべきかを。
「……いや。わかるからこそ、かもしれませんな」
 悪足掻きとは、果たして醜い行為なのだろうか? リィゾは答えを持っていない。
 英雄と、騎士と、誇りと、そして足掻き。瞑目し、黒騎士が静かに物思いに耽っていた時、闇の中に新たな気配が生じていた。
「……報告」
 また別のハサンだ。
 先程のハサンよりは小柄で、白い髑髏の面だけが闇の中に薄気味悪く浮かんでいる。
 小柄なハサンは抑揚のない声で、簡潔に用件を述べた。
「メドゥーサが、敗れた」
「ほぅ」
 リィゾの目が僅かだが驚愕によって開かれる。
 メドゥーサにはアーサーの行動を阻害する要因、つまり彼女のマスターである人間を近づけないよう命じてあったのだが、よもや倒されるとは予想外だった。
「倒したのはアーサー王のマスターでありますか?」
「否。空路から進入した者達」
「なるほど……リタの仲間でありますか」
「半吸血鬼の娘と、人型ゴーレム。それに、魔眼持ちの男だ」
「魔眼持ちの男?」
 その言葉に反応し、リィゾは眉を顰めた。
 リタと共に来た、魔眼持ちの男。ならば連想される人物は一人しかいない。恋人を守るため、黒騎士たる自分にナイフ一本で挑みかかってきた青年の顔が浮かぶ。
 アルクェイド・ブリュンスタッドの恋人。直死の魔眼を持つ青年。
「なるほど。いらっしゃったのですな、彼が」
 自分を射抜くように見つめていた蒼い眼を思い出し、リィゾは執事然とした微笑ではなく剣士の獰猛な笑みを浮かべた。
 因縁は、それなりに深いと言えるだろう。何しろ彼は東京でリィゾに完全敗北を喫し、目の前でメドゥーサによって恋人を奪われるという憂き目に遭っている。
 意気込みは、十二分なはずだ。
「……だが、俺に直死は聞かんぞ。……どう出る?」
「おやおや、どうしたんだリィゾ? 言葉遣いが素に戻ってるぞ」
 ハサンの面が浮かぶのとは反対方向。闇の中から新たに生まれ出たのは全身白尽くめの優男、白騎士フィナ=ヴラド・スヴェルテンだった。
「何十年ぶりだろうね。ともあれやはりお前はその方がらしいよ」
 茶化すようなフィナにリィゾは顰めっ面で返すと、
「あー……ん、オッホン! ふむ、これは注意せねばなりませんな。気が昂ぶると、どうにもいけません」
 わざとらしく襟を正しながら言葉遣いを直した。
「別に姫様がいない時くらい、素でいいじゃないか。お前のその似非敬語は聞いてて首の後ろがムズムズするよ」
「そうもいかぬでありましょう。執事が欲しいと仰ったのは他ならぬ我らが姫君でございますからな」
 アルトルージュが気紛れにそんな事を言ったのは、もう百年以上も昔のことだ。それからずっとリィゾは彼女の執事としてあるべく胡散臭い敬語を遣い続けている。
 普通ならとうに真っ当な言葉遣いとして定着していてよさそうなものだが、何せ元々が無骨な武人だ。結局慣れきれぬままに似非敬語として定着してしまい、今に至っていた。
「やれやれ。まぁ、今更の話かもな」
「フィナ、それよりもアルトルージュ様は――」
「あの御方に心配なんて無用だろうさ。プライミッツ・マーダーもついてる事だし」
 そう言われるとリィゾも黙るしかなかった。アルトルージュがプライミッツ・マーダーを伴って行動したならば、白翼公ですら正面からの衝突は避けるだろう。黒き姫君と白き魔犬の力が合わされば、この世界に敵しえる存在などほぼいなくなる。護衛の身としては寂しい限りだが、それがリィゾの主の実力だった。
「目的の遊び相手とも接触を持ったようだし、邪魔なんてしたら何を言われるかわからないな」
「ふむ……そう、でありますな」
「随分と愉しんでいるようだよ?」
「それは重畳。では私も自らの役目を果たすとしましょう」
 そう言うと、リィゾはニアダークを地面に突き立てて溝を穿った。今穿った部分と既に穿ってあった部分、その溝は奇妙な紋様を描きかなりの大きさとなっている。
「やれやれ。お前さんも面倒な仕事を仰せつかったもんだ」
「仕方ありますまい。魔女殿が仰るには、ニアダークのような魔剣がこの魔法陣を描くのにはもっとも適しているらしいです故」
 リィゾはチラと視線を彼方へ向けた。
 闇の中、ぼぉっと燐光を放つ人影が杖を構えて何事か念じている姿が浮かんでいる。
「魔女メディア……まぁ、彼女が言うなら間違いはないか」
「半年前は当事者だったわけですからな」
 半年前の聖杯戦争で、キャスターのサーヴァントとして召還された魔女、英霊メディア。彼女が今立っているのは、半年前の件と非常に因縁深い場所だった。
 現在リィゾ達が冬木における根城としている場所――柳洞寺地下に広がる、大空洞。
 その最奥、大聖杯が存在していた台地の中央で、メディアは呪文を詠唱し続けている。目的は言うまでもない。
「修復の目処はたったのかい?」
「魔術は門外漢です故な。私からは、何とも」
 天の杯、大聖杯。
 根源に連なる門であり、人の望みをかなえる巨大な願望機。冬木の聖杯の本体だ。
 だが半年前の第五次聖杯戦争の最後、士郎とセイバーによって破壊されたそれは本来の機能を完全に失ってしまっており、修復はまず不可能といった状態だった。何より中枢部分が粉々に砕け散ってしまっていては、直す直さない以前の問題だ。だから当初、リィゾもフィナも冬木の聖杯になど何一つ期待していなかった。この大魔法陣があれば目的完遂が楽になるのはわかっていたが、使えない、直せないでは話にならない。
 なのに、彼らの主であるアルトルージュは大聖杯の痕跡をとても嬉しそうに眺め、無邪気に微笑んでいた。傍らに立つメディアの腕を引きながら。
「とは言え、システムも構造もほぼ把握しているとの事でありますから、問題はないでしょう」
「神代の大魔術師の腕前拝見、と言ったところか」
 詠唱を続けるメディアの顔は闇とローブに隠され見えない。しかし全身から発せられているただならぬ気配は、強制的に従わされている者のそれとは明らかに異なっていた。
「彼女もかなえたい願いがあるようだし」
「ええ。必死でありますよ」
 メディアの願いについて、二人は何も知らない。別に知りたいとも思わなかった。女の情念が絡んだ望みなどまったく心底からどうでもいい。
 が、内容はどうあれ執念は本物だ。期待出来る。
「さて。では俺はどうすればいい? 黒騎士」
「そうでありますな。アルトルージュ様から命じられた通り、暫くは遊撃手として好きに行動してよろしいのではないかと」
 リィゾはそう言ったものの、アルトルージュは特にフィナには何も命じてはいない。ただ好きにしていいと言っただけだ。彼らの主は万事につけてそうである。
「そうか。じゃあハサンを何人か借りたいんだが」
「了解しました。三人もいれば足りますかな?」
「充分だ」
 闇の中に無言で浮かび続ける髑髏面を顎でしゃくり、フィナは愉しそうに相貌を崩した。途端、髑髏面が音もなく消える。
「あとの二人にはおって連絡いたしましょう」
「頼むよ」
「怪獣は、どういたしますかな?」
 同僚からの申し出に、フィナは「ふむ」と顎に手をやって暫し悩むと、ニヤリとして、
「じゃあデットンを連れて行こう」
 颯爽と歩き始めた。
 主の遊び心を解する、といった意味ではリィゾよりもフィナの方がよっぽど上だろう。元より、性質が近いがために通じ合った主従だ。白騎士の遊撃行為は姫君を充分に愉しませるはずである。
「フッフフ。……さて」
 ニアダークで地面を穿ち、リィゾは再びメディアを見やった。
 計画は順調。トラフィムもヴァン=フェムも、こう後手に回りすぎては挽回のしようもあるまい。
 古い、とても古い友人達の顔を思い浮かべ、リィゾは低く唸るように嗤った。それはここ数百年、誰にも見せたことのない黒騎士の素直な感情の表れだった。





◆    ◆    ◆






「それじゃその、アルトルージュ・ブリュンスタッドは、キャスターを従わせて大聖杯ごと修復するつもり……なのね」
「そうです」
「でも、そんな事が……」
 仮にも聖杯の器として調律された桜にはわかる。あの大魔法陣の構造がどれだけ難解なものであるか。そして中枢のコアを破壊された状態で修復など不可能であるとも。
「そうですね、非常に難しい。キャスターと言えども、新しいコア無しでは修復など出来ないでしょう」
 存外にあっさりとライダーは桜が言いたいことを肯定した。
 桜はホッと胸を撫で下ろそうとし――
「――サクラ」
 当のライダーがいち早く制していた。その表情は険しい。
 それに、士郎も。
「ライダー、……先輩?」
 グッと拳を握りしめ、何かに耐えるよう肩を震わせている士郎を綾子が気遣っていた。それだけで事態は決して楽観視出来ないということがわかる。
 ――嫌な、予感がした。
 予感を拭い去ろうとするかのように、桜は叫んでいた。
「だ、だって! コアになる人がいなければ修復は出来ないって今ライダーが言ったじゃ……ッ!」
 そう、なのだ。
 叫べば叫ぶ程、気付かされていく。
 コアがなければ修復は出来ない。言い換えるなら、コアさえいれば修復は不可能ではない。構造とシステムをほぼ掴んでいるキャスターなら、おそらく――
「キャスター……メディアは無理矢理に従わされているわけではありません。彼女は、彼女自身の目的のために動いています。あの執念を持ってすれば、必ずや……」
 目眩がして、桜は倒れそうになるのをかろうじて堪えた。
 士郎の震えが伝染する。
 もう、答えはわかりきっていた。ライダーが何を言わんとしているか、最後まで聞くまでもない。けれど、実際に聞くまでは信じたくないと、そう思っている自分もいた。
 彼女は、今、何処にいるのだろう。
「……ライダー」
「メディアの目的は、知りません。アルトルージュが聖杯を具体的にどう用いるつもりなのかも聞かされてはいません。が――」
「……ライダー……」
「まず間違いなく人類は多大な損害を被ることになるでしょう。彼女が望む内容の如何によってはそこで詰みです。ですから――」
「ライダーッ!!」
 絶叫する桜を、ライダーは悲しそうに見上げていた。アイマスクに覆われていても今の彼女がいったいどのような目をしているかわからないはずがない。
 桜が、桜だからわかる痛み。それはライダーでさえ本質的な理解は不可能であろう痛苦だ。
「……新しいコアは、誰なの?」
 声が震えているのが自分でもよくわかった。
 既に答えが出ている回答を敢えて求める愚かしさ。
 この場にいない少女の、名を。
「サクラ」
 身体があればライダーは桜を抱きしめてやりたかった。それが出来ないのが何よりも辛い。痛みに刺される胸さえない。
 何処が痛むのかもわからないそれを堪え、やがてライダーははっきりとその名を口にした。
「……イリヤスフィール。新しいコアとしてアルトルージュが選んだのは、イリヤスフィール・フォン・アインツベルンです」





◆    ◆    ◆






 誰かに名前を呼ばれたような気がして、イリヤは不意に立ち止まると辺りを見回した。……とは言え、霧しか見えない。
「ありゃ? どしたのイリヤっち」
「え? ……ああ、うん。誰かに呼ばれたような気がしたんだけど」
 不思議そうに尋ねてくる楓にそう返し、イリヤは首を傾げた。
「気のせいだったみたいね」
 耳を澄ましてみても、特にそれらしい音は何も聞こえない。
「どうした、二人とも?」
「疲れちゃったの?」
 鐘と由紀香も何事かと立ち止まっている。アルを抱っこしたリズも表情こそ変わらないものの心配そうにイリヤを見ていた。
「ううん、何でもない。急ごう」
 大きく頭を振って、イリヤは再び走り出した。
 結局何処のシェルターも満員で、一行は仕方なく衛宮邸まで戻ることにしたのだ。楓達三人は当然知らないが、一応衛宮邸にはかなり強力な結界が張り巡らせてある。やもすればシェルターよりも安全かも知れない。一時的に避難するなら、充分だろう。
 イリヤの速度に合わせながら、それでも一行は急いだ。急がなければ不安に押し潰されてしまいそうだった。顔色が悪いのは由紀香だけではない。
 なのに、一人だけ――
 走るみんなは気付かない。もっとも、気付いたところでどうなることでもなかったろう。
 リズの胸に抱かれ、アルはとても愉しそうに微笑んでいた。
 とても無邪気で、純粋で……、深い。
 その笑顔は、まるで冬木を覆うこの霧のようだった。








〜to be Continued〜






Back to Top