episode-18
〜聖杯大戦争〜
Part 1 THIS ILLUSION


◆    ◆    ◆






「ヘルメス・トリスメギストスという名を聞いたことはありますか?」
 石化の後遺症によるものか、とても完調とは言えない身体を引きずるようにして歩くシオンは、メーサー銃を油断無く構えた権藤へと不意にそんな問いを投げかけた。
「ヘルメス・トリスメギストス?」
 舌を噛みそうになる名前に、権藤が記憶の底を攫うように鍛え抜かれた野太い首を捻る。
 公園の周辺を見回り始めてから十分程経つが、シオンが権藤へと話しかけてきたのはこれが初めてだった。そもそも彼女の回復具合からすれば偵察などとても出来るような状態ではないのだし、人手不足でさえなかったなら公園に寝かせてきたところだ。よって話すことすら億劫なのだろうと考えていた権藤は少しだけ驚いたが、そんな様子は欠片も見せず、周囲を見渡すついでにチラとシオンを一瞥しただけで、
「あー、そうだな」
 ぶっきらぼうに答えていた。変に気遣っても彼女の性格からすれば意地を張るだけだろう。短いつきあいながらもそのくらいのことは把握している。
「確か大昔の有名な錬金術師だったか」
 シオンに協力を要請され、それに応じると決めた際に錬金術に関する一般的な歴史、情報は頭に叩き込んである。魔術協会絡みの、所謂秘術めいたモノは兎も角、ヘルメスの名前くらいは知識として当然覚えていた。
「伝説の賢者の石とやらの精製に成功した唯一の錬金術師。もっともモデルになったとされるヘルメスは一人じゃない。大元はギリシャ神話のヘルメス神だって話だし、要は架空の人物だろ?」
 権藤の答えにシオンはまるで合格ですとでも言いたげに頷くと、さらに続けて問うた。
「概ね、それで合ってます。ではパラケルススは?」
「そっちはもっと有名だな。ってか中世ヨーロッパの実在の医者かなにかじゃなかったか」
 銃口を傾げながら、権藤はどうして今頃そんな質問をするのだろうとシオンを見やった。彼女は意味のない質問や言葉遊びをするタイプの人間ではない。言葉には必ず何らかの意味を持たせて話す、そんな少女だ。
「ええ、有名です。その他にもローゼンクロイツ、サンジェルマン伯爵……一般的にも有名な錬金術師と言えばその辺りですか」
「あー、まぁ、そうだな」
 その二人は秘術を極めて数百年を生きた同一人物という説もあったはずだが、さて錬金術の奥義を究めた不老不死など実際にあるものか……と考えてから権藤は苦虫を噛み潰したかのような顔をした。目の前には半人前とは言え不老不死の代名詞たる吸血鬼がいるのだ。その上で魔術という術理について考え巡らせれば、実際に数百年生きている錬金術師の一人や二人くらいいてもおかしくはない。
「……んっ」
 やはりまだ辛いのか、シオンは立ち止まってグッと脚に力を込めた。これには権藤も手を差し伸べようとしたが、シオンは気丈にもそれを拒むとまだ話は終わっていないとばかりに頭を振った。
「彼らには、共通点があります」
「共通点?」
「所謂、“賢者の石”というものです」
 錬金術について学ぶべくもなく聞き覚えのあった言葉に、権藤はクックッと喉の奥を低く鳴らした。
「あー……金を産み出す石だったか。んなもんが本当にあれば世界経済は大混乱だろうがな」
 と、冗談交じりの権藤に、
「ありますよ」
 さらりとシオンは返した。
「……あるのか?」
「ええ。物質を変換させる魔術で、人工的に金を産み出すことは不可能ではありません。……まぁ、技術的にそこまで簡単なことでもありませんし、その技量に達している魔術師や錬金術師なら金儲けなどということに時間を費やすくらいなら自分の研究に没頭するでしょうが。資金調達に困って造った金を売るくらいの真似はするかもしれませんが、その程度では金の価値は暴落しません」
 何でもないことのように言われても、権藤のように魔術寄りではない人間からすれば金をホイホイ産み出せるなど古来より人間が求めて止まなかった夢物語の最たるものだ。自分は金に執着はない方だと思うが、それでも唸ってしまう。
「お前さんも、その、なんだ。金を造れたり、するのか?」
「いいえ。私の在籍していたアトラス院ではその手の物質の変換は特に研究されていませんでした。扱っていたのは事象や情報についてが主で、金を産み出す技術なんてむしろ俗物のソレだと嘲笑すらしていましたね」
「俗物ねぇ。まぁ、金目当ての研究ってんなら魔術だ錬金術だと関係なくこっちの世界でも俗物扱いだわな。実際はどこもかしこもどっちもどっちって感じなんだろうが」
「研究機関などというものはどこもそうです。まぁ、自分達と異なる研究を軽視することで意欲を向上させるというのは単純ですが効果的な手ではありますからね」
 かくいうシオンもかつてはアトラス院の研究を至上のものと考えていた時期が確かにあった。世界の真理を解き明かし、この世を来るべき破滅の事象から救う研究に身を費やすなど確かにそれは偉業中の偉業だ。誇るに足る研究であると思う。が、狭苦しい穴蔵から出ようともせずただただ自己の研究に没頭している様は一度外から眺めてしまえば哀れという以外にない。実際に終末が迫った今この時も、あの穴蔵の老人達は黙々と研究を続けているのではないだろうか。虚栄を拒み、研究と作業にのみ邁進する姿はある意味では錬金術師の鑑ではあるが、事ここに至ってはやはり愚か者の類だろう。
 結局、そのような在り方、自分が何をしているのかという疑問にぶち当たってしまったからこそシオンという天才は穴蔵を出てしまった。その結果が今や陽の光をまともに浴びることの出来ないこの肉体であり、終末へと立ち向かっているという現実なのだから、そこだけを見ればシオンは確かにあのワラキア――ズェピア・エルトナム・オベローンの後継者と言えるのかも知れない。
 あれだけ憎み、追いかけたタタリと同じ道を歩んでいる……馬鹿馬鹿しく、愚かしく、けれど不思議と悪い気はしなかった。
 ……と、分割思考の一方でそのようなことを考えつつ、もう一方では権藤との会話も当然忘れてはいない。
「とは言え“賢者の石”というのは何も金を産み出す物質や技術のみを指す言葉ではありません」
「なんだ、違うのか?」
「ええ。“賢者の石”という言葉は様々な意味を持ちすぎているのです。賢者の石を得るための作業をマグヌス・オプスなどと称したりしますが、この大いなる作業によって得られるのは金に限った話ではなく、永遠の命をもたらす霊薬であったり、純粋なエーテルの結晶体であったり、完全物質と呼ばれることもある……物質変換技術の最終到達点を“賢者の石”と称しているとでも言えばわかりやすいかも知れませんが、その意味するところは往々にして異なる場合が多い。トリスメギストスもパラケルススもローゼンクロイツも、彼らが手にしたと言われる“賢者の石”はいずれも“賢者の石”でありながら物質としての意味は違えていた。ただ、実際に目指したところはそう違わない」
「ははー、つまりアレか。賢者の石を産み出すマグヌス・オプスってのは、えーと、なんだったか……。ああー、そうだそうだ。真理の力、“アルス・マグナ”とかいうやつと同じなワケか」
「そうですね。“賢者の石”と“アルス・マグナ”は別個のものとして扱われる場合も多いですが、本質的な点では変わりません」
 大いなる秘宝――アルス・マグナ――
 それは形ある物質を指す言葉ではない。究極へ至った錬金術の力によって人が神に至る道そのものである。失われた真理の力への到達と賢者の石の制作は表裏一体、同質のものだ。
 金を産むのも不死を得るのも、そして完全物質などというものを造り出すのもこの真理の力へ至るための行程に過ぎない。故に、様々な“賢者の石”は“アルス・マグナ”と呼んでも差し支えないとシオンは考えている。
 そして、もう一つ。
「で、なんで今そんな話を? お前さんのことだ、意味のない雑談ってワケでもないんだろ」
 権藤の言う通りだった。
「……聖杯、についてです」
 聖杯という言葉を聞いただけで、シオンがそれ以上何かを言うまでもなく察しがついたのか、権藤は納得顔で腰に手をあてた。
「なるほど。何でも望みをかなえてくれる聖なる杯か」
 わざわざ賢者の石について講釈を垂れておいてその名を出されれば、余程の暗愚でない限りは意味を解そうというものだ。
「完全物質とは言い得て妙だが……要するに、本質的にはソレもまた同じようなもんだと」
「少なくとも、この地で聖杯戦争とやらを始めた魔術師達が目指したものはそう言えるだろうと思います。元より魔術も錬金術も同祖の術理ですから」
 所謂、魔術師達が言うところの“根源への到達”は錬金術の“アルス・マグナ”とほぼ同義だ。根源の渦――神の座への到達こそが、魔術師や錬金術師と呼ばれる研究者達のほとんどが目指す最終目標である。
 冬木の聖杯戦争における錬金術的な要素に関しては、あのアインツベルンが関わっているのだからこれは明白だった。一般的に広く知られた物質の変換と生命の創造を目指す、アトラス院とは異なる錬金術の大系を汲む錬鉄の魔導アインツベルンの名は穴蔵にいた頃からよく知っていた。なのでイリヤという少女についても、ライダーの説明で納得がいく。
 故に――シオンは厳しい顔をしていた。この戦いにおける、聖杯の危険性に。権藤もはっきりと気付いたのだろう。
「アルトルージュ・ブリュンスタッド……どういう相手なんだ? 俺も仕事柄、名前だけは以前にも何度か聞いた事があるんだが、詳しくは何も知らなくてね」
「それが……彼女の人となりなどは私もよく知らないのです」
 これは権藤も予想外だったらしい。
「……嫌味のつもりはないんだが、情報に関してあんたの有能さは知ってたつもりだ。それが……」
「白翼公やヴァン=フェム卿は知っているはずなのですが、彼らの言によれば『口で言っても理解出来まい。“アレ”はそういう女だ』との事で」





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 その後、メレムに聞いた時も似たような答えを返された。実際に自分で会ってみなければ到底理解出来ず、その理解も『理解出来ないことを理解出来る』に過ぎないのだ、と。
 これでは幾らシオンでも予測の立てようもない。
「そんな相手が、聖杯を欲しがってるワケか」
 神妙に、シオンは頷いた。
 アルトルージュとは個人的に――向こうはばシオンのことなど知りもしないだろうが――因縁がある。
 ズェピア・エルトナム・オベローンと契約し、力を与え、彼がワラキアの夜と呼ばれる祖に成り果てる原因となった少女。
 全ては繋がっているのだと……シオンは確信していた。その繋がりは長い時間と距離を経て、今、極東の島国で最悪の結実を果たそうとしている。
「……本当に、急がないとマズイようだな」
 権藤も険が増す。
 出来ればもう少し時間を置きたい。シオン、バルスキー、そして志貴は戦闘で消耗しているし、士郎や桜の疲労も色濃い。彼らを置いていくというのも一つの手だが、戦力は喉から手が出る程に欲しいし、士郎は能力的には低くても聖杯戦争を勝ち抜き大聖杯を破壊したという経験と実績がある。それに、
(彼は、アーサー王への切り札になるかもしれない)
 手札としては充分に価値があるとシオンは判断していた。
 ただ、熱くなりやすいのが連れて行く上での最大の欠点か。先程もライダーの話を聞いて真っ先に駆け出そうとしたのを抑え付け、今はようやく公園で待機させているのだ。
 事は急を要するが、急いては事をし損じる。出来ればあと最低でも二〇分、全員に休息をとらせたい。シオン自身もそのくらい偵察がてら身体を動かしておけば痺れもとれるはずだ。それに精神的な意味でも、特に士郎と桜には時間が必要なはずだった。
 他に懸念事項と言えばリタとどう合流するかだが、さすがにこちらから探しに行く余裕はないし、取り敢えず未希が感じる限りではリタは桜の姉である凛共々無事であるらしいのでそっちで勝手に上手くやってくれるのを信じる他ない。
 未希のESPでイリヤの位置を探ることが出来れば一番楽なのだが、こうも様々な気配が入り乱れていては難しすぎる。凛と桜を探知出来たのは近くにセイバーやサドラといった特異な存在がいたためであって、彼女達だけでは見過ごしていたろう。
 やるべき事、そして考えるべき事は山のようにある。焦燥に駆られそうになるのを堪えるだけでも大変だった。
 そんなシオンの心中などお見通しだったのだろう。
「なぁ、シオン嬢ちゃん」
「……なんです?」
「そう気負うなよ。俺も、言えた義理じゃないがね」
 言いつつ少なくとも外目には気負いのない権藤が頼もしくありまた羨ましくもあった。権藤にせよ結城にせよ、あのゴードン大佐にしてもそうだが、彼ら歴戦の兵には天才と呼ばれるシオンが持ち得ぬ屈強な精神が宿っている。メレムは彼らをシビトと称したが、しかしそういった精神は定命たる人だからこそ宿るものではないかと思う。事実、権藤達のそれはトラフィムやリタのものとは明らかに性質が異なっていた。
「……こうして話していると、権藤一佐が無理矢理に同行すると言い出した理由がよくわかりますね」
 少し悔しいですが、と続けてシオンはホルスターに手をやった。
「なぁに。単なる俺の我が儘さ」
 権藤も、メーサー銃を構え直した。
「気付いていたんですか?」
「それこそ舐めて貰っちゃ困る。こちとら対特殊生物戦の専門家だぜ? 戦った中には電子イオンを利用して身体を透明化出来るようなヤツもいたくらいだ――っ!」
 言うなり、権藤はトリガーを引き絞っていた。霧の中をメーサーの光がうねりながら迸る。
 メーサーは塀を粉砕し、
「ギギッ!」
 その影から、不気味な黒尽くめが飛びすさるのが見えた。
「怪獣なんてヤツは、普段は大概でけぇ図体を隠して生きてるもんでね。おかげでこういう連中にゃ鼻がきくのさ」
 嘯きながらも権藤の一挙手一投足には油断の欠片もない。戦士としての彼の本能が理解しているのだろう。あの黒尽くめが果たしてどれだけの脅威であるのかを。
「メドゥーサ……ライダーからの情報が確かなら、アルトルージュの配下は規模はどうあれほとんどが英霊で構成されているそうですから、アレもおそらくは英霊のはずです。気をつけてください」
「英霊、ねぇ。あの黒尽くめがか? よくは見えなかったけども、ありゃそんなご立派な風体にゃ見えなかったぞ?」
 朗々たる声で挑発的な台詞を吐きつつ、権藤はもっとも近い電柱へ向けて二射目を放った。電柱が半ば程で砕け、折れた上半分がアスファルトに倒れ込んで地響きを立てる。
「どう見ても悪霊の類だ。なぁっ!」
 さらに、三射目。
 しかし二射目も三射目も目的は中てることではない。三射目は志貴達のいる公園の方角を狙って虚空に伸びた。それが霧の中を漂っている電気エネルギーと干渉し合って火花を散らす。
「これで気付いてくれたとは思いますが……」
「大体が敵さんも本気で気配を隠す気はなかったろう。どう考えてもわざとだ」
 気配を発したり消したり、黒尽くめは獲物である二人をコケにするかのように移動している。
「一応、休憩が終わったらあの衛宮って坊主の家に行ってみる手筈だったよな」
「はい。上手くいけば桜の姉と行動を共にしているリタとも合流出来ますし、イリヤという少女も保護出来るかも知れない」
 もっとも後者は望み薄だ。
 衛宮邸の位置などは敵もとうに把握済みであり、イリヤがそこにいたならむしろ捕まっていない方がおかしい。とは言えライダーの話ではイリヤの事などいつでも捕まえることが出来たのに今まで放置していたらしいので、アルトルージュの真意はシオンには一向に読めないでいた。なら、もしかすればアルトルージュの気紛れの隙を衝いてイリヤを保護出来てしまう可能性もある。
「……出たとこ勝負、なんてのは本意ではないんですが」
「諦めな。だいたいがこの勝負、人類が生き延びられるかどうかなんざとっくに博打みたいなもんだ」
 悲壮感の欠片もなく吐き捨て、権藤は駆け出した。シオンもその後に続く。
「方角はこっちで合ってるのか?」
「そのはずですが……いいんですか? 罠かも知れませんよ」
 敵は相変わらずわざとこちらに気配を読ませながら、仕掛けてくる様子はない。罠と考えるのが当然だが、しかし罠なら罠でそこにどんな目論見があるのかがわからない。
「だからって俺達二人じゃあの黒尽くめ一匹倒せないのが現実だ。なら連中の誘いに敢えて乗ってやるのも手だろうよ」
 そこまで言い切られてはシオンも反論のしようがない。
「……わかりました。衛宮邸へ向かいましょう」
 牽制、と言うよりは鬱憤晴らしにバレル・レプリカを黒尽くめに向けて発砲する。無論、命中なんてしない。けれど自分を納得させる景気付けにはなった。
 駆ける、と言うよりは早歩きに近い速度で二人は霧の中を衛宮邸へ向かった。一応、シオンの頭には冬木市の地図が叩き込んであるし、予め遠坂家や衛宮邸といった冬木の魔術師達の拠点の位置もチェックしてある。
 と、不意に権藤が笑い出していた。
「ふっ、ふふ。クック」
「何がそんなにおかしいんです?」
「いや、なに。衛宮って名前がな、どうにも懐かしくてなぁ」
「彼と知り合いだったのですか?」
 驚いた様子のシオンに訊かれ、権藤は首を横に振った。
「いいや。俺の昔のダチに、同じ衛宮って名前の奴がいたのさ。だからその名を聞いてると、どうにも懐かしくってねぇ」
 いつもの皮肉気なそれではなく、今の権藤の笑顔はまるで少年のようだった。人懐っこく、悪戯好きそうな、こんな貌を見せられればメレムもまさか彼をシビトなどとは称せまい。
「もし今この町にあいつがいたら、まぁ一も二もなく何某かの行動を起こしてたろうな。……あの士郎って坊主程の火の玉野郎じゃなかったが、どこか似てる気がするよ」
「正義感の強い人だったんですか?」
「んー、まぁ、そうさな」
 嘆息しながら、権藤は懐かしい友人の面影を思い出していた。
「正義感が強いって言うより、ありゃ正義の味方だったよ」





◆    ◆    ◆






 公園は沈黙に支配されていた。
 誰も、何も口を開こうとはしない。士郎と桜はライダーによってイリヤの危急を告げられて後、すぐにでも彼女を探しに行くと飛び出そうとしたのを諫められてからずっと俯いている。二人が何を考えているのかは、そもそもの事情を理解していない綾子にはとても読めるものではなかった。
 そしてライダーは……正直、まだ正視するには慣れない。常から目を見張るような美女だと感じていた友人が奇抜なアイマスクをつけ、それだけならまだしも首だけの姿を晒しているのだ。もはや正視しろと言う方が無理だった。
 で、現在ライダーは首だけなのに器用に寝息をたてている。『今の私は霊体化出来ませんし、無駄に力を消費しないためにも暫く休みます』とのことだったが、綾子には当然のように何の事やら理解出来なかった。
「……はぁ」
 溜息は好きじゃない。
 吐くと幸せが逃げるだなんてそんなナンセンスな意味合いからではなく、美綴綾子の武人としての心構えの問題だ。散々無力さを痛感した今でも十数年来培ってきた心構えが変わるわけはなく、綾子の精神は今や疲労の極みにあった。
 夢でも見ているかのような気分だ。
 現実感に乏しすぎる。横から聞いていた限りでは、士郎も桜も、それに凛も、よく見知った友人や後輩が魔術師と呼ばれる超常の存在で、ライダーに至ってはあの神話に登場するメドゥーサと呼ばれる怪物ときたものだ。もっと詳しい話を聞きたいとは思ったが、今の三人の様子からしてそれも難しい。
 ――疲れた。
 結局、今の自分の状態を端的に言い表すならそれだった。考えても理解出来ないことに頭を使ったところで出るのは答えでなく知恵熱だけだ。考え耽るのは嫌いではないが、綾子は頭脳労働タイプの人間ではない。
「……はぁ」
 再度、溜息。
 そうして霧に覆われた空を見上げた途端、
「あの、飲みます?」
 ズイッと、ジュースの缶が差し出されていた。
「へ? あ、ああ……どうも」
 反射的に受け取りながら、綾子は缶を差し出してきた相手を見やった。確か三枝未希と呼ばれていた少女だ。多分、自分と同い年くらいだろう。志貴はまだしもバルスキーと行動を共にしているのがとても似つかわしくない、穏やかそうな相手だった。
「そこの自販機で買ったものですけど」
「えー、あー、その……あ、ありがとうございます」
 何の変哲もないオレンジジュース。子供の頃はよく飲んだものだが、最近ではめっきりご無沙汰だった気がする。
 渇いた喉に、過剰な甘さがありがたかった。
「向こうの二人にも差し入れたんですけど、ジュースなんて飲んでる余裕、無いみたいで」
 労るように、未希は黙りこくっている士郎と桜がいるであろう方角に視線を向けた。霧にぼんやりと二人の影が映っている。
 何もわからない綾子よりも、あの二人は事態を把握しているからこそ辛いのだろう。未希が差し入れたらしいジュースも、それぞれ手をつけた様子はない。
「そりゃあたしなんて、まだ気楽な方ですよね」
 苦笑しつつの綾子の言葉に、未希も目を細めた。
「自己紹介、ちゃんとしていませんでしたよね。三枝未希です」
「美綴綾子です。あっちの衛宮士郎と同い年で、間桐桜とは同じ部の先輩後輩なんですけど、その……一般人です」
 最後のは冗談交じりに付け足して、綾子は右手を差し出した。軽く握手して、未希に隣に座るよう促す。
 とは言え何から話し、そして訊けばいいのやら。少し悩んだが、取り敢えず気になったことを綾子は訊いてみることにした。
「三枝さんも、その……魔術師、なんですか?」
「いいえ、違いますよ。私はESP――所謂“超能力者”と呼ばれるもので……あ、それと名前でいいですよ。未希って。敬語も別に必要ないです」
 ありがたい申し出だった。三枝と呼んでいると、ぽやんとした別の友人の事が強く連想されてしまって話しづらい。
「じゃあ未希、さん。あたしも名前でいいんで。勿論、敬語も無しで」
 少女達はまだ少し余所余所しく、けれどもはにかんだように微笑み合った。そんなごく日常的な空気がひどく懐かしいもののように感じられる。
 と、和みながら綾子は何か話そうとして、
「……ぁー」
 何をどう話せばいいのか、いきなり言葉に詰まった。
 そもそも質問したとして、込み入った事情を自分のような一般人が耳に入れてしまってよいものかどうか微妙だ。機密を知ったら消される、だなんて馬鹿馬鹿しい展開はあり得ないとは思うが、しかし絶対に無いとも言い切れない。何せ、綾子にとって現状は万事につけ“知らない世界”である。
 そういった綾子の躊躇いは未希にとって容易く予想出来る反応だったのだろう。
「疲れた、よね」
「そりゃ……まぁ」
 軽い世間話のようなノリで話を切り出してくれたのがありがたい。一息ついて、綾子は残っていたオレンジジュースを飲み干し正面から未希に向き合った。
「ねぇ、未希さん」
「なに?」
「正直に答えて欲しいんだけど……今、冬木――ううん、冬木だけじゃない、世界って、どのくらいやばいの?」
 漠然と、けれどどうしても聞いておきたかった。
 きっと「そうだ」と答えられても「違う」と答えられても現実感に乏しいであろう事は目に見えている。実際問題として、世界各国で頻発しているギャオス事件もそれまであくまで対岸の火事的な、ニュースで紛争やテロを見ているのと変わらない気分でしか捉えていなかった。今だってそうだ。身に迫る危険の実感がようやく湧き始めてきたような状態で、世界なんて認識出来るはずがない。
 それでも、事実として聞いておきたかったのだ。
 未希は少しだけ困ったような顔をしたが、やがてスッと息を吸うとやや重々しく、
「……瀬戸際」
「え?」
「人類は、今、瀬戸際で戦っているわ」
 そう、答えた。
「ギャオスによって世界各国の軍隊や地球防衛軍も疲弊して、さらにその影では……さっき聞いていたと思うけど、吸血鬼と呼ばれる者達の一派が暗躍しているの。本来なら人類を守ってくれるはずの英霊も、敵に回ってしまったわ。それに――」
 そこまでで、未希は言い淀んだ。
 これ以上話すべきか否か。『地球生命そのものが人類を排除しようとしている』だなんて、未希自身とてもではないが信じたくない事だ。ただ、あまりにも大きな意思の事は感じていた。
 その意思は、常に視ているのだ。距離も場所も時間も関係なく、未希は視線を感じる事がある。特に強く感じるのは、未希がゴジラを感じようとしている時だ。
 ――あれは、ゴジラを強く意識している――
 だからある種の同調に似た状態に陥ってしまうのだろうと未希は考えていた。
 地球生命の事も、ゴジラの事も、話すには躊躇われる。
「あの、未希さん。……あたし、その……」
 そんな未希の様子を心配したのか、綾子はショックを隠しきれないながらも話しかけていた。ただ、さすがに言葉を選んでいるようだ。どうにも歯切れが悪い。
 やがて、その顔に微かな決意が刻まれる。
「あたしにも……その、何か手伝える事って、無いかな?」
 士郎とライダーの戦いを見ているしか出来なかった不甲斐なさから、多少なりと考えていた事だった。
 確かに、戦力として自分は役立たずもいいところだろう。けれど未希のような自分と大して歳の変わらない相手がこうして特自に協力しているのを見ては、自分にも何か出来る事はないかと、綾子はそう考えずにはいられなかった。
 だが――
「……」
「?」
 答えず、未希は悲しげにやや俯くと、一呼吸置いて今度は相変わらず霧に覆われたままの周囲を見回し、
「霧で、全然見えないけど」
 前振りもなく、唐突に独り言のように語り始めた。どこか遠くを感慨深げに眺めている――そんな眼をして。
「懐かしいな、冬木も」
 未希の口から漏れ出た言葉に、綾子は少しだけ驚いていた。
「懐かしいって……未希さん、以前にも、冬木に?」
「うん。十年前までは、新都の方に住んでたから」
 十年前まで――それだけで、おそらく十代半ば以上の冬木住民なら八割方は事情を察する事が出来るはずだ。
「じゃあ、未希さんは……」
 言葉が続かない。
 未希は寂しそうに頷いた。
 この都市の歴史に刻み込まれたあまりにも忌まわしい記憶。実際に目撃して生き残った人間も、少なくない。綾子の友人や知人の中にも、燃えさかる炎の中に巨大な漆黒の影を見た者は何人かいるはずだった。
 それは十年前に冬木市を襲った悪夢――当時、伊豆諸島の大黒島で四十年ぶりの出現を確認され、静岡の井原原子力発電所を襲撃し日本中を震撼させた――怪獣王ゴジラによる、兵庫県冬木市襲撃事件。
「十年前、私は父と母を失ったの」
 淡々と語る未希の胸中に渦巻く感情はいかなるものか、幸いにも家族は全員無事だった綾子には窺い知れなかった。
 しかし、シェルターへと避難する途中、未遠川を挟んだ対岸が赤々と燃える様は忘れようにも忘れられない。祖父母はまるで戦時の空襲のようだと怖れ、嘆いていた。
 新都はゴジラによって徹底的に蹂躙、破壊し尽くされ、特に被害の大きかった中心部は今なお再開発の目処が立たず、冬木中央公園として寂れた様相を呈している。実際にゴジラが暴れたのは一時間にも満たない時間だったというのに、まさに人智の及ぶべくところでない、未曾有の大破壊だった。
 綾子は時折、何とはなしに中央公園に行ってみる事がある。
 植樹はされているがあくまで申し訳程度で数は少なく、ろくにベンチすら無いそこは公園と言うよりもただの荒野だ。
 生々しく残されたゴジラの足跡は大きく、眺めているだけで口内は渇き、背筋を冷たい汗が伝った。人一人が持てる武力などどれだけちっぽけなのか、時に増長しそうになる自分への或いは戒めのつもりだったのかも知れない。
「両親を一度に亡くした私は、生命科学研究所を経て、それから精神科学開発センターに引き取られたわ。深山町に住んでいた親戚は自分達が引き取ろうかと言ってくれたんだけど、以前から予知能力のようなチカラを持っていた私の事で両親は何度か研究所の方に相談していたらしくて」
 未希がどうして今そんな話をするのか、綾子は何となくわかるような気がした。
 悪夢のような災いは、しかし現実として存在する。
 どんなに信じられなくても、信じたくなくても、今の冬木は怪獣や吸血鬼、そして英霊といった脅威に曝されているのだ。
 半端な覚悟で臨めば、火傷じゃ済まない。
「綾子さん」
「……うん」
「気持ちは、嬉しいの。凄く。……でも」
 未希は酷く申し訳なさそうに言葉を紡いだ。
「安全な場所……と言ってもシェルターしかないけど、そこでお別れになると思う」
 それでも自分も手伝いたい、と――綾子は、どうしても言う事が出来なかった。言葉自体は喉まで出かかっていた。でも、未希の表情があまりにも憂いを帯びていたから……
 逡巡。
 まだ、迷っている。けれど、どんなに迷っていても、綾子には頷く事しか出来そうになかった。
 やがてゆっくりと、その頭が下げられていき――
「うぉおおおおおおおっ!!」
「え――っ!?」
 突然、辺りに怒声が響き渡っていた。





◆    ◆    ◆






 バルスキーの剛腕が一閃されると共に、今の今まで彼自身が腰掛けていたベンチは粉々に砕け散っていた。
「ぬぅ、かわしたか」
 突然のバルスキーの行動に士郎達は動揺を隠せない。まず異常に気がついたのはバルスキーと志貴、未希と、そしてライダー。
「サクラ、私を抱えてあちらの柵の方まで逃げてください」
「え?」
「早くッ」
 バルスキーが破壊したのとは隣のベンチに置かれていたライダーの首を抱え、桜は言われるままに柵の方まで逃げた。途端、ベンチに何本もの黒塗りの短剣が突き刺さる。
「襲撃!?」
 士郎、桜、綾子の三人は瞬時に事態を理解出来なかった。ただバルスキーの放った小型ミサイルが公園の木々を吹き飛ばし、その影と霧の合間を縫って黒い影が移動したのを捉えたのみだ。
「そんな……今の今まで全然気配なんか無かったのに」
 呆然と呟きながら未希も桜と同じく柵の側へと避難する。
「どうやら気配を消して相手を始末する、暗殺者の類のようだ。遠野志貴、対応は可能か?」
 暗殺者と言えば志貴は暗殺者一族の出だ。それを踏まえた上でのバルスキーの問いかけだったが、あくまで出自がそうであるだけで、幼少時に身体に覚えさせられた基礎的な体術や暗殺の手管だけでは本職が相手となると些か心許なかった。
 しかしそうも言っていられまい。
「正直自信はないけど、やってみます」
 短刀を構え、相手の動きよりも寧ろ息づかいに集中する。
 完全な不意打ちではなくこうして一度相手に姿をさらしてしまったなら、暗殺者は持ち前の素早さやトリッキーな動きで相手を攪乱して狙う以外にない。実力差が圧倒的ならば無論正面から挑みかかってもこようものだが、バルスキーを相手にそれを可能とするだけの能力があるならわざわざ暗殺紛いの動きはとらないはずだ。
 重要なのは相手の攻撃の挙動、その呼吸。如何なるタイミングで本気の『殺し』のための一撃を放ってくるのか。
「……くっ!」
 投擲された黒塗りの短剣を弾き落として、志貴は冷静に相手の力量を分析した。
 幸い、シエル程素早くもなければ黒鍵のような威力もない。志貴がよく知るあの強さよりは一回り下だ。この程度なら、厳しいに違いはないが対応は可能と判断する。
 ――が。
「どう、くる?」
 相手は暗殺者タイプの敵だ。正々堂々、正面から一対一の勝負など望めるはずもない。後方に非戦闘員を抱えた状態で戦うには難がありすぎる。ではまず未希達を逃がすか?
「バルスキー」
 呼ばれ、鋼鉄のゴーレムはうぬと唸った。
 ここで志貴と自分が敵の抑えに回り未希達を逃すのは可能だが、果たして暗殺者がこいつ一人とは限らない。逃走中の彼女達を守るための護衛がもう一人必要だ。
 自分達以外に戦力はと言えば……
「首を斬ったのは早計だったか」
「でも斬らなきゃ契約から逃れられなかったって……」
 それは今更仕方がない。
「ここは俺一人で抑えに回る。遠野志貴、君は彼女達を連れて彼の屋敷まで逃げてくれるか?」
 バルスキーの提案が現状ではもっとも有効に思えた。黒尽くめの暗殺者によっぽどの隠し球でもない限りは、バルスキーなら遅れはとるまい。逆に志貴が抑えに回ったのでは、地力で劣っている以上分が悪すぎる。
「俺もこやつを何とかしたらすぐに行く」
「でも、場所は……」
「なに。冬木の地図はインプット済みだ」
 頭部を指さしながら頼もしく応え、バルスキーは再び小型ミサイルを、今度はジャングルジム目掛けて発射した。
「ヒッ、ヒヒ!」
 嘲るような嗤いを残して黒尽くめが弾かれたように跳ぶ。
「奇っ怪なヤツだ」
 やや呆れたように、バルスキーが突っ込んでいく。
 ――その時だった。
「あっ!」
 距離的にはそう遠くない、ごく近くだろう。何かが倒れるような地響きが聞こえてきた。この音は、おそらく――
「誰か……戦ってる?」
 戦闘音。となれば、付近を見回りに行った権堂とシオンの可能性が非常に高い。あちらも襲われたと見るべきか。
「おそらく、敵は複数。移動中に襲われるかもしれんが」
「……やってやりますよ。それしかなさそうだ」
 バルスキーが三度小型ミサイルを発射するのに合わせ、志貴は柵に向かって飛び出した。その勢いのまま、剣を手に女性陣を守ろうとしていた士郎の肩を叩く。
「衛宮君!」
「え?」
「君の家まで、案内を頼む」
 応戦するんじゃないのか、と言いかけて士郎は口を噤んだ。この中でライダーを除けば、士郎と桜がもっとも英霊に詳しい。英霊を相手に戦うというのがどういう事か、目の前の眼鏡の青年よりもよっぽどよく知っているつもりだ。志貴やバルスキーの実力の程は知らないが、少なくとも正面から戦ったのでは自分では相手にならない。
「シロウ、彼の言う通りにしましょう」
「ライダー?」
「今は、他に手がありません」
 自らの手で桜を守れない歯痒さに、ライダーは唇を震わせていた。アサシン程度、自分が万全ならまず勝てる相手だ。少なくとも小狡い闇討ちを得意とするハサン・サッバーハを相手にするならバルスキーよりも自分の方が相性がいい。
 手も足も出ないとは、まさに今のライダーの事だった。
「今はバルスキーが抑えてくれてる! だから、早く――」
 女性陣を危険に曝すわけにはいかないと、志貴はそう言いたかったのだろう。
 士郎は僅かに逡巡したが、すぐさま弾かれたように先頭に立って走り始めた。左右の手には莫耶と干将が握られている。
「こっちだ!」
 その後ろに女性陣を続けさせ、志貴は最後尾に警戒を怠らぬようついた。シオンと権藤が心配だが、こちらの戦闘音も向こうに聞こえているはずだ。なら、あの二人が何某かのアクションを起こしていないわけがない。
「向こうも衛宮邸に向かってくれてればありがたいんだけど」
 最悪こっちに引き返してくる可能性もあったが、しかしその場合はバルスキーと合流出来る。
「……いいように動かされてるな」
 気に入らない。間違いなく、罠だ。
 その罠に乗ってやる他に手がない自分達に嘆息しつつ、志貴は周囲の気配に深く集中していった。





◆    ◆    ◆






「……十中八九、アレだな」
「……ですね」
 早歩き程度の速度を保ちながら、権藤とシオンは黒尽くめの敵に牽制の銃撃を繰り返しつつ衛宮邸の付近にまで到達していた。
「待ち伏せ、だと思うかい?」
「どうでしょう。待ち伏せるくらいなら、あの黒尽くめはそれこそ私達を十回以上殺す事が可能だったはずですが」
 面倒な事などせずにさっさと殺してしまうのが合理的だったはずだ。衛宮邸で待ち伏せなど、あまりにも無駄が多すぎる。
 ……わからない。
 幾通りもの予測を組み立てながら、しかしそのいずれもが決定打に欠けている事にシオンは苛立ちを感じていた。それが理知的な計算に基づく流れであるなら、いかようにも解きほぐしてみせる自信がある。それだけの能力が自分にはあるのだと、過信ではなくまったく正しい自己分析による自負だ。
 なのに、わからない。
 計算出来ない。予測出来ない。
「……クソッ」
 権藤に聞こえないよう注意しながららしくもなく毒づき、シオンは現在位置を割り出した。この通りをもう暫く行けばそこに衛宮邸があるはずだ。黒尽くめが自分達をそこに誘導しようとしているのなら、向こうの動きから見てもこれで間違いないはずである。
 あと五〇メートル、四〇メートル……
「もう見えてきてもいいはずですが」
「この霧じゃそうもいかんか」
 相変わらず視界は最悪だ。立ち並ぶ日本家屋もほとんど見えない。せいぜいが塀と、そして屋根や庭木が見える程度。
 三〇メートル。
「あれ、ですね」
 まずそれらしい塀の影を確認したのは、シオンだった。
「結構大きい屋敷だな」
「結界を張っていると言っていましたが、見事なものですね。魔力の残滓は感じられない。それとわかる結界など二流三流の仕事ですが、遠坂凛は大した魔術師のようだ」
 感心しながらシオンは塀に沿って門を目指した。
 魔力は感じられない。無論、敵と思わしき者の存在も。相変わらず黒尽くめは後ろにピタリと張り付いてきているようだが、暫く前から短剣の投擲も止んでいた。
 吐き気を催すくらい、嫌な予感がする。
 胸がムカムカしていた。苛立ち、歯噛みして、シオンは敵が仕掛けてくるのを待っていた。何か反応があるのを、待っていた。
 シオンの計算が正しければ、残り二〇メートル。そこに衛宮邸の門があり、くぐれば立派な日本家屋があるはずだ。
 もう、着く。
 着いてしまう。
 十メートル。いかな濃霧でも門の影が見え始めてきた。
 後ろの黒尽くめ以外、何も無いのか? 待ち伏せもなく、ただこの屋敷まで誘導したかっただけなのだろうか。
 分割思考がバラバラに複数の可能性を系統立てて考え倦ねる。
 嫌な予感が消えてくれない。引っかかっている。理解不能な現状に何かが警鐘を鳴らしていた。
 そして、距離は、ゼロになろうとして――

 ――閃光。



「うぉぉおおおおおおおおおっ!?」
 権藤は全身を使って、咄嗟にシオンを押し倒していた。
 凄まじい爆風が体中を煽る。耳は爆音でやられたのか、音の大小がまったく判別出来ない。距離感も掴めなかった。
 シオンは……
「おぃ、だぃじょぅぶか?」
 自分の声が自分のものでないかのようだった。
 頭の中を滅茶苦茶に反響する声に舌打ちしながら、権藤はシオンが無事か確認した。
「……ぅ、うぅ……」
 衝撃で目を回しているようだが、どうやら大した怪我などはしていないらしい。ホッと胸を撫で下ろしつつ、権藤は今の今まで自分達が目指していた屋敷へと視線を向け直していた。
「……やってくれやがる」
 霧に映る色は、赤。
 紅蓮の炎が煌々と権藤の顔を照らしている。
 燃える屋敷を背に、自分達を追い立てていた黒尽くめと、さらに何人かの影が立っていた。まるで、幻想の像のように。
 ――隙あらば、喰らわしてやろう。
 メーサー銃の引き金にかけた指に留意しつつ、権藤は自分達を見下ろす忌々しい幻を睨め上げていた。








〜to be Continued〜






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