episode-18
〜聖杯大戦争〜
Part 2 きらめく涙は星に



◆    ◆    ◆






 今の心境を言葉にしろと命じられたなら、どのように言い表すべきであろうか。
 士郎は、ただ呆然と目の前の光景を見つめていた。同じように隣で佇んでいる桜のことにも気が回らない。
 家だった。
 十年間。養父、切継に拾われて以来、ずっとそこは、衛宮士郎にとっての帰るべき場所だった。どんなことがあっても、あの聖杯戦争のような命を懸けた戦いに挑んだ時でさえ、衛宮邸はずっとそこにあった。士郎を、迎えてくれていた。
 その家が、燃えていた。
 とは言え燃えているのはあくまで副次的なもので、実際には爆発だった。黒尽くめの敵――ハサンの群れの散発的な攻撃に晒されながら、後もう少しで衛宮邸に辿り着けるというまさにその瞬間、霧の向こうに見えた士郎の我が家は凄まじい轟音とともに閃光を放ち、吹き飛んでいた。
「……あ」
 間の抜けた声だったと思う。
 でも、そうする以外、どうしようもなかったのだ。
 意識はあまりのショックによって刈り取られたまま。志貴が自分の名を叫びながら腕を引いてくれたことにさえ、暫くは気がつかなかった。バランスを崩し、前のめりに倒れてようやく士郎は自分が引っ張られたことを知った。
「ぐっ」
「危ないっ!」
 志貴の叱咤が耳に痛い。半年前、あれ程の死闘を経験した自分がなんという体たらくなのかを、しかし悔やむのは後回しだった。
 意識を無理矢理に覚醒させる。
「また、アサシンか!」
 髑髏面をつけた黒い影が、今までになく近い位置にいた。自分を狙ったのはまさにそいつだろう。中肉中背、コレと言って特徴のない肉体だが、暗殺者としてはむしろ理想的と言えるかも知れない。髑髏面を除き、体格のみで判断すれば実に特徴のない相手だった。
「桜、それにみんなは!?」
 咄嗟に振り向けば、いまだ茫然自失としている桜は綾子に手を引かれて下がっていた。未希も同じく、士郎達から数メートル後方に固まっている。
「……やはり本気では無さそうですね。攻撃も散発的な短剣の投擲のみでやる気が感じられません。殺すつもりはないようです」
 淡々と、桜に抱えられているライダーの首がハサンをそう分析した。そも、殺しを生業とするハサン・サッバーハの必殺率は数多の英霊の中にあって最高と言える。どのような場所、どのような位置からであっても、およそ常人の考えが至るはずもない完全なる殺戮の理を持って殺しを可能とするのが彼らだ。
「バルスキーと俺達を引き離すのが目的?」
 志貴の問いに、ライダーは首を振ろうとして出来ず、仕方ないので髪だけを揺らして否定した。
「違いますね。確かに現状我々の戦力の中核を成しているのは彼ですが、彼の相手に回ったハサンもやはり殺意が薄かった。裏を掻くためにわざとそう見せているだけという可能性もありますが、その程度ではおそらくハサンはバルスキーには勝てない」
 ハサンの遠距離攻撃など短剣の投擲が精々だ。中には宝具でもって離れた相手を殺傷する厄介なハサンもいるにはいたはずだが、バルスキーとやり合っていたアレはそういった手合いではなかったと思う。少なくともその気配はなかった。
 バルスキーの格闘能力は近接戦闘に特化した英霊を相手取っても決して遜色のない、それは一戦交えたライダーが身をもって知っている。ヘラクレスなど英霊の中でもずば抜けた者ならまだしも、単純なハサンの戦闘力でどうこう出来るレベルではない。それにバルスキーの性格を熟知しているわけではないけれど、あの手合いは満身や油断とは無縁の類だろう。事実、バルスキーの気配……と言うよりハサンとやり合っている戦闘音は、僅かな距離を空けているだけでこちらの後を追っていた。こちらを追う片手間で相手が出来ている証拠だ。
 ならば目的は、なんだ?
 足止めにもならない足止め、陽動にもならない陽動、全てが中途半端で、それが不気味だった。
 権藤とシオンに関しても、距離はそれ程離れていない。霧で姿は見えないが、ほんの数十メートル先に気配がある。みんな少しずつ、ほんの少しだけ引き離されて、だから――危機感までも中途半端だった……?
「……いったい――っ!」
 ライダーは全神経を集中させ、周囲の状況を最大限知覚しようと試みた。しかし相手は極まった気配遮断能力を持つハサン達、補足しきるのはほぼ不可能。それでも、全てを捉えきれずともその影くらいはと、ライダーは首だけとなったことにより切り捨てられた肉体の感覚を本当に捨てたつもりでただひたすらにハサンの気配を探ろうと己を研ぎ澄ませた。
 爆破され、炎上している衛宮邸。
 呆然としている士郎と桜、綾子、未希。
 自分と同じく周囲の状況に意識を集中させている志貴。
 少し離れたところには権藤とシオン。
 バルスキーは、二分と経たずに合流出来るだろう。
 その中に含まれる異質。バルスキーと交戦している者と同様の気配こそが重要だった。それは権藤とシオンの前にも姿を現しているらしい。そして、炎の中からユラリと、この場にもまた一体がその身を晒そうとしていた。
「……何を企んで……」
 正確には、ハサンの後ろに立つ者。神話の蛇怪たるメドゥーサをも畏怖させた黒の姫君。しかし姫君の思考を読めないのは既に実証済みだ。彼女の考えは、人格と性情の面で人間寄りである自分には到底推し量れない。
 グッとライダーが下唇を噛むと、痛みが走った。その痛みが、感覚を鋭敏化させる。
「……っ」
 一層冴え渡った感覚はハサンの位置を次々と捕捉していく。
 それでも、せいぜいが六、七人まで。まだいるようだが、やはり全てを捕捉するのは不可能だ。
 囲まれている。しかし、こちらを殺すのが目的ではない。
 そもそも最初の遭遇時、バルスキーや志貴に気付かれる前にハサンは狙えば士郎達ならば充分に殺せるだけの余裕があったはずなのだ。初撃であの場における最強の戦力、バルスキーを狙ったのは確かに納得のいく行動だったが、失敗の可能性を考慮すればより確実性を求める暗殺者のやり口としてはおかしい。
 彼らは皆、自分――メドゥーサという強敵との戦闘で昂ぶっていた。意識が戦闘に集中している、し過ぎている状態。油断無く周囲に気を配り、相手を倒し、仲間を守ること以外に気を配る余裕など無い状態を、ハサンの中途半端な襲撃は打ち崩していた。
 明らかにランクの劣る敵による襲撃は、例え自分では到底敵わない相手だとわかってはいても僅かな安堵を生み出してしまう。その心中はしかしバルスキーを頼りとする依存心だ。そのバルスキーと離れざるをえなくなり、再び危機感が増す。けれど目指す先は我が家。あの聖杯戦争においても、敵の襲撃が全くなかったわけでもないのに決して破壊されることの無かった衛宮邸へ向かうというのは士郎と桜にとってはやはり安心感を生んだことだろう。
 緊張と安堵が繰り返される。
 それは、ただでさえ混乱している者にこれ以上ないくらいの精神的な負荷をかけるのではないか。
 桜の鼓動に耳を傾け、ライダーは愕然とした。
 そうだ。当たり前だ。こんなストレス、どれだけ精神的にタフな人間であろうともそうそう耐えられるはずもない。熱湯と冷水を交互にかけられ続けた物体が果たしてどうなるかなど簡単すぎる問題ではないか。
「サクラッ!」
 炎上するのは少女にとっての安らぎの場。幸福の象徴であったはずの家が燃え、幾つもの影が暗躍する。
 ライダーからの呼び声も聞こえているのかいないのか、桜はハサン達を迎撃すべく指先に魔力を集中していた。
「私が……私が、守らなくちゃ」
 その背には綾子と未希。
 二人を守り、衛宮邸を爆破した憎い相手を倒す。側にはライダーも士郎もいる。知り合って間もないし、全幅の信頼なんて置いていないけれど、力強い味方もいる。
 ……だが、勝てるのか?
「サクラ、落ち着きなさい、サクラ!」
 早鐘のような少女の鼓動に、ライダーは叫んだ。いけない、糸が張りつめすぎている。この状態で戦闘に挑むなど、危険どころの話ではなかった。
 そして、そんなライダーを嘲笑うかのように、
「フ、ヒヒ」
 ハサンが一体、いつの間にか目の前に立っていた。腕にはジャマダハル――西洋では一般的にカタールと呼ばれる、刀身と握りが垂直の、拳の先に刃が来る刺突用刀剣――を携え、他のハサンと同じように仮面に覆われた顔からは欠片も感情を読みとることが出来ない。わかることと言えば、桜の力では到底敵わないという非情な現実だけだ。
 しかし同時にライダーには嫌な確信があった。
「よくも、よくも先輩のお家を……」
「堪えてください、サクラ」
 健気にも、本来なら忌むべき暗い感情を滲ませつつ立ちむかおうとする桜に言葉を投げかけつつ、ライダーはさらに広域に気配を探り出した。
 ハサンだけのはずがない。
 暗殺者の群れは所詮はポーン。こちらを追い立て、囲い込み、絶え間のない緊張感を与え、そうして布石を打つのが役目なら、王手をかけるための駒が確実に近くにいるはず。もしそれが怪獣だったならば……不味い。英霊か吸血鬼なら、首だけとなった自分に残された最後の“力”を用いて切り抜けることも可能だろうが、怪獣ばかりは、無理だ。
 ルックか、ビショップか、ナイトか……それとも、クイーンか。
 擦り切れるくらい知覚を研ぎ澄まし、そうして――
「――ッ」
 ライダーは、呼吸すら出来ない状態で、しかし息を呑んだ。





◆    ◆    ◆






「万事休す、か」
 メーサー銃の引き金に指をかけつつ、権藤はいまだ意識混濁としているシオンを庇うようにハサン達を睨み付けていた。
 せめて一体だけなら、とも考えたが、果たしてメーサーが英霊相手にどの程度の効果を望めるのかわからない。実体さえあるのならダメージは見込める。けれど、霊体としての側面が強い場合は電子的な属性に打撃を与えるのが精々、倒すには至らないだろう。
 霧の向こうからは散発的な戦闘音が聞こえてくる。馬鹿になったままの耳では今一つ距離感を掴みづらく、聞こえてくる声も誰の声なのか判別しがたい。とは言え、志貴達なのは間違いないだろう。
 それでも、苦戦を強いられているのはわかった。戦闘者としての感覚がたとえ聞こえなくとも直接告げてくる。こちらを助けに来るような余裕は無いはずだ。
「へっ」
 皮肉げな笑みが漏れた。
 撃たねばなるまい。
 諦めが悪いのは昔からだ。
「怪獣共と比べれば、テメェらなんざ何匹来ようが敵じゃねぇよ」
 悪態を吐き、シオンを横たえて立ち上がる。そうだとも。今まで怪獣と戦い続けてきた。あのゴジラとすら、正面からぶつかった。それが、その自分がこのような髑髏面相手に臆してなどいられない。
「オラァ!」
 メーサーが射出される。黒い影の群れは当然のように回避して霧の中へと散っていく。倒せようが倒せまいが関係ない。こんなところで終われないのだ。ゴジラに、漆黒の破壊神に一矢報いるまでは、終わってなどいられない。
「おい、聞こえてるか!?」
 霧の向こう、ほんの少し離れた場所にいるであろう仲間達に向けて権藤は高らかに叫んだ。
「権藤さん!? 無事ですか」
「おう、遠野君か。こっちは無事だ!」
 一応、とは加えずに。
「そっちはどうなってる!?」
「ハサン数人と交戦中です! 正確な数は……わかりません。なんだか、おかしい。どうにも気配を読み辛いというか……くっ!?」
「クソ、無理するな! バルスキーはどうした!?」
「っと……、少し遅れて別のハサンを相手してます! すぐに合流してくると思いますけど……」
「わかった! こっちは――」
 権藤が把握しているだけでもハサンの数は四。倒して退けるには骨が折れる。否、骨だけでは済みそうにない数だ。
 けれど、権藤は不適な笑みを崩さなかった。
「こっちは楽勝だ! すぐにそっちのフォローに回る!」
「はい、お願いします!」
 返事を後に、すぐさま志貴の声は聞こえなくなった。戦いに集中しているのだろう。まだまだ未熟もいいところだが、権藤は志貴の素質を見抜いていた。
 戦士、ではない。もっと暗く、むしろ今こうして対峙しているハサン達に近い属性の能力。退魔の暗殺者という彼の生い立ちからすればそう感じてしまうのも無理からぬ事ではあったが、しかし心根が違う。その性根のまま長ずればいずれ楽しみな青年だった。
 それに、もう一人――志貴のすぐ側に、気になる少年がいる。
 あまりにも真っ直ぐな、かつての友とよく似た眼差し。気にならないはずがなかった。
「青臭ぇよなぁ。本当に、青臭ぇ目をしてやがる」
 権藤は、気がついているのだろうか。自分もまた、かつて友と語り合っていた頃、少年と同じ眼差しをしていたのだということを。その眼差しがために、戦い続ける道を選んだことを。
「……そこかっ!」
 メーサーが空中に迸る。
「ちぃ、掠っただけか」
 ハサンの一体が左腕を押さえて濃霧に消えていくのを確認し、権藤はまずは手負いから片付けるべくそいつに集中した。霧の向こうを疾駆する幾つもの影。殺気は感じない。
 そのうちの一つが濃霧を裂いて視界に飛び込んでくる。動きに鋭さがないことから、権藤はそいつが先程の手負いかと認識し、
「……あ?」
 トリガーを引く寸前で、かろうじて思いとどまっていた。
「あ、あ……っ」
 ペタリ、と。
 少女が、尻餅を突く。
「な、なんだぁ!?」
 流石に権藤も面食らっていた。おそらくは逃げ遅れた市民だろうが、それにしてもまさかつい今し方爆発音が響いた場所にこうして寄ってくる筋金入りの野次馬がいるとは思っていなかったのだ。それに、今この周辺はハサンの群れによる結界と化している。どうやって入り込んできたのか、権藤が考えるよりも先に、
「うぉっ!?」
 鼻先を、華麗な蹴り足が掠めていった。
「ま、待て……っ」
 ハサン共の黒装束とは違う、白装束の、女。連中のうちの一体かとも思ったが、あの特徴的な髑髏面がない。面がない代わりにまるで能面のような無表情ではあったけれど、全身から発せられる怒気には相当なものがあった。
「イリヤに、何するの」
「……は?」
 女はそう言うと、右拳を突き出すように構えた。左腕にはこれもまた年端もいかない少女を抱きかかえている。
 そしてさらに、数人。
「リズさん、どうしたん!?」
「む。イリヤスフィール嬢、大丈夫か?」
「こ、転んじゃったの? 怪我はない?」
 少女達が霧の中から現れ、権藤は思考停止に陥りそうになるのを必死に堪えていた。
 ……堪えるための材料なら、ある。
「イリヤ……スフィール?」
 聞き覚えのある名だ。爆発の後遺症と、ハサンとの戦闘。唐突に現れた少女達。混乱する頭を懸命に働かせ、権藤は改めて尻餅を突いている女の子を、見た。
「イリヤスフィール・フォン・アインツベルンか!」
「えっ!? ……あ、そ、……そう、だけど」
 白い女――リズに抱き起こされながら、イリヤは訝しげに答えつつ、お尻をパンパンと叩いて汚れを払った。
「おじさん、誰?」
 当然の質問を受けながら、権藤はさてどうするべきかさらに深々と思案する羽目になった。
 まず、彼女がイリヤスフィールなら、権藤が知る限り士郎の家は彼女の居候先(正確にはイリヤの住居はアインツベルン城なのだが、ほぼ毎日のように衛宮邸に寝泊まりしているのでライダーはそう説明した)のはずなので、爆発から逃げるよりもむしろ何があったのか確かめるため、そして家族の安否を気にして駆けつけてきたといったところだろうか。
 なるほど。そちらは納得もしよう。
 護衛役らしき女性の体術の技量もさることながら、イリヤ自身こう見えて魔術師なのだと聞く。危険を承知で足を運んだのも、そんなバックボーンがあってこそなのだろう。
 しかし一緒にいる少女達は……何やらイリヤを庇って自分を威嚇しているが、ただの女子学生にしか見えない。綾子と同じように友人が巻き込まれただけなのか、それとも彼女達もああ見えて実は凄腕の魔術師だったりするのか……
「……う、むぅ」
 とてもそうは見えない。いや、見た目に騙される気は毛頭無いのだが、権藤の長年の勘は、やはりどうしても彼女達をただのどこにでもいる女子学生としか捉えられなかった。
 そんな足手まといを連れ、さらにはリズが抱える少女も含め、よくもまぁハサンの群れを突破してこられたものだ。しかもイリヤは連中の目的、大聖杯とやらのコアのはずである。
 と、権藤が頭を捻っている事など知った風ではないとばかりに、
「お、おっさん、いったい何なんだよ!?」
 褐色の肌をした気の強そうな少女が、全身を細かく震わせながらビシッと指を突き付けてきた。
「……どうやら自衛隊の方とお見受けするが、もしや、救助が来たのか?」
 こちらは多少冷静らしい眼鏡の少女が問うてくる。もう一人の気弱そうな少女は、自衛隊という言葉に一瞬顔を明るくし、しかしすぐさま再び警戒の色を強めた。
「あー……いや、そのだな」
 唐突にメーサー銃を向けたせいか、誤解を解くのには骨が折れそうだ。と、そんな権藤の背後で、
「……うっ、くぅ……わ、わたし、は……」
 フラフラとシオンが半身を起こしていた。とは言え回復しきるにはまだ時間を要するのか、完全に起き上がることは出来ずにいるようだ。仕方なく権藤は溜息混じりにメーサー銃を下ろした。
「ったく。敵のど真ん中だってのに」
 だが、不思議なことにイリヤ達が現れてからハサンの影が霧の向こうからも消えていた。姿を隠し、機会を狙っているだけかも知れないが、あまりにもおかしい。何か、ある。
「……どんだけ連中の思い通りに動きゃいいんだ」
 ぼやきながら、権藤はシオンを助け起こした。
 こちらのハサンは身を隠したようでも、志貴達の側からはまだ戦闘の音が聞こえてきている。早々に合流しなければなるまい。そのためにもまずはイリヤ達についてきてもらい、士郎なり桜なりに簡単に説明して貰わなければと権藤は顔を上げようとした。
 ――が。
「あっ」
 魂切るような短い悲鳴がシオンの口から零れだしていた。彼女の視線は、権藤の手を借りて起き上がろうとしている途中、ある一点に注がれ完全に停止していた。まばたきすら、忘れて。
「? おい、どうしたシオン嬢ちゃん」
 不審に思いながら、まさかハサンかと権藤もシオンが見つめている方を振り向き見る。
 そこで、権藤もまるで金縛りにでもあったかのように動きを止め、見開いたままの両眼でソレを凝視した。
「……お、あ……っ」
 まるで肺ごと握り潰されたかのように言葉が出てこない。
 胃の腑も腎臓も肝臓も、あらゆる臓物が潰されていくかの如き圧迫感。肉体が正常な動作を忘れてしまっている。冷や汗すら、流せない。
 権藤はこれとよく似た感覚を知っていた。
 自分との間に隔たるあまりにも圧倒的なステージの差。存在自体に天地ほども開きがある破壊神との邂逅。即ち、ゴジラを眼前にした時と似たようなプレッシャー。
 しかしゴジラとは違う。
 ゴジラの放つプレッシャーは破壊と絶望の具現、全てを薙ぎ倒す暴風の如き荒々しさだが、今感じているこれは、全てを薙ぎ倒すのではなく全てを暗黒に塗り潰すおぞましさを秘めている。
 つまり、闇だ。
 蠢く闇そのものが、白い腕に抱かれていた。
 まばたきを封じられた眼に痛みが走る。
「おっさん? ど、どうしたんだ?」
 褐色の少女が困惑しつつこちらを見ているけれど、どうしたのかと問いたいのは権藤の方だった。
 どうして。どうして彼女達はあの闇に気付かないのか。
 リズが抱きかかえている黒く澱み濁った闇そのものに、何故気付かない。何故平然としていられる。
 必死に叫び出そうとする権藤を眺め、闇はニタリと嗤った。実際には嗤ってなどいなかったのかも知れないが、権藤にはそう見えた。闇の口が、ポッカリと虚ろな三日月を形作っている。
 その闇がなんなのか、もはや考えるまでもなかった。
 少女の金の瞳が輝いて、権藤は呼吸すらままならず、シオンと折り重なるようにして倒れて意識を失った。





◆    ◆    ◆






「権藤さん! そっちはどうですか、権藤さん!?」
 防戦一方ながら、志貴はよく戦っていた。
 濃霧により視界が判然としない空間はまさにハサン達のテリトリーだ。正面からの戦闘力ならば、英霊の中でも三流と言って構わないハサンは志貴との間に圧倒的なアドバンテージなど築けない。むしろシオンやアルクェイドとも渡り合った志貴の潜在能力ならば、真っ向勝負でハサンに勝つことも不可能ではなかった。
 しかし、これは暗殺者同士の戦いなのである。
 暗殺者として比較した場合、そもそも志貴とハサンでは殺害する対象物が違う。志貴はあくまで退魔の暗殺者であり、専門は化物だ。ハサンは化物じみた容姿をしてはいても化物ではない。暗殺に特化した元人間、反英霊であってもそれは英霊の一種なのである。対してハサンは人間を殺して殺して、暗殺者という概念の一翼を担うまでに殺し続けた最悪の暗殺者なのだ。
 正面から挑みかかるのではなく、持ち味を生かして戦うようナルバレックやリタには言われたが、その持ち味で自分を上回る相手を前に志貴は焦燥を露わにしていた。
 一秒が一分、それどころか五分のようにも感じられる。
 精妙にして正確な攻撃と防御。いずれもが必殺を狙う一撃、必殺を防ぐ一刀であり、志貴の疲労は限界に達しようとしていた。ただでさえ今日は神話級の怪物、メドゥーサの首を落とすなどという大仕事を行っているのだ。このままではいつ失明に追い込まれるか、わかったものではない。
「権藤さん!」
 答えはない。
 バルスキーと権藤、頼りになる二人と引き離された事も疲労の要因だった。無論、シオンの身も心配だ。
 動きが、精彩を欠き始める。
「く、そぉっ!」
 ふと脇を見れば、士郎もハサンに翻弄され、全身に浅い傷を負わされていた。単純な戦闘力のみを見れば、彼はおそらく志貴の半分、いやそれ以下だ。魔術師とは言えよく戦っているものだが、そろそろ限界だろう。
 ――このままでは、全滅する――
 志貴の中の最も冷静な部分が、そう警鐘を鳴らした。そして警鐘が、別の音となって周囲に響く。
「……いっ! お……ん! どう……んだよ!?」
 聞き覚えのない女の声だった。
 いったい誰の声なのだろうと、志貴が意識を傾けた時、
「……蒔寺?」
 新たに聞こえたのは士郎の呟き。
 そしてまったく予想外な事態が起こった。
「?」
 そう、まったくの予想外。
 周囲を縦横無尽に駆け巡っていたハサンの群れが、消えた。元々気配など満足に感じさせない生粋の連中ではあったが、果たしてこうまで完全に消しきってしまえるものなのか。基礎のみとは言え志貴もかつては外法の技術を叩き込まれた身、可能不可能くらいの見極めは出来る。
 ……不可能だ。
「何処に……消えた?」
 ハサン達は気配を絶ったのではない。志貴が察知出来る範囲から外へ、忽然と消え去ったのだ。
「蒔寺! そこにいるのか!?」
 士郎の叫びが霧の中に木霊する。
「衛宮!? みんな、衛宮無事みたいだぞ! おーい、そっちは無事なのかーっ!?」
 場違いな少女の声に志貴はさらなる疑問を抱きつつ、ハサンの再度の襲撃に備えた。しかし霧の向こうから駆け寄ってくる足音は少女達のもので、感じる気配もそれ以外にはない。
 ……気配――?
「な、んで……」
 今の今まで、気付かなかった。
 少女達が駆けてくる方向に感じていた気配は、権藤とシオン、それにハサン達だけだ。彼女達の気配は、今の今まで存在していなかった。少なくとも、志貴には感じ取ることが出来なかった。
 降って湧いたかのように、少女達が現れる。
 褐色の活発そうな少女。眼鏡をかけた理知的な少女。その二人の陰に隠れた大人しそうな少女は、見知った誰かに面影が似ているような気がした。
 そして、その後ろにまだ幼い少女と、白尽くめの女性。
 白尽くめの女性はどうやらもう一人、子供を抱きかかえているように見え――
「……かっ」
 ――呼気が、止まった。
 心臓を鷲掴みにされたかのように、挙動の全て、まばたきすら封じられる。そこでさらに襲いかかってきたのは、心地よい微睡み、睡眠への欲求に程近い感覚だった。
 志貴には経験があった。
「う、うぅ……お、ま……え……は……」
 ――これは、この能力は……――
 意識が塗り潰されそうになる。
 志貴は懸命に抗いながら、白尽くめの女性に抱かれた少女を見た。嗤う、闇そのものを、見た。視てしまった。





◆    ◆    ◆












◆    ◆    ◆






 抗う。
 奈落の底から自分を引きずり落とそうと伸びてくる手に、必死に抗い、踏みとどまろうとする。
 魅了の魔眼とも呼ばれる能力だ。
 その能力を予め知っており、尚かつ志貴自身も魅了を凌駕する凶悪な魔眼を有していたためか、かろうじて耐え凌ぐ事も出来た。もう一歩、すんでの所で。常人だけでなく、相応に力を持った魔術師達でもこれ程の濃密な魅了をかけられては気付かぬままに相手の意のままだろう。
 目の前の少女達も、操られているのだろうか……?
 どうして平然としていられるのか……こんな、ねっとりとまとわりつく障気そのもののような存在感、身近にいて耐えられるはずがない。これはまったく形を成した暗黒そのものだ。あまりにも自然に、魅了されているとしか思えない。
 志貴はその事を士郎に告げようとしたが、出来なかった。こうして呼吸することすら困難なのに、士郎へと向き直って声をかけるなど到底不可能だ。
「……クス、クスクス」
 無邪気な微笑みに、背筋が凍り付いた。
 どうしてこんなにも負の気配に充ち満ちているのに、あんなにも穢れの無い笑みを浮かべることが出来るのか。人間ならば、吸血鬼であっても無理だ。違う。
 存在の根幹が明らかに異なっている。
 人間である志貴の眼には、少女はひどく歪んだ存在として映った。その歪みの中に恋人の面影を感じてしまったことが、志貴はどうしようもなく嫌だった。
 そんな志貴の思惑を遮って、
「イリヤ!」
 士郎が、少女に駆け寄っていく。無防備すぎるその背に苛立ちをすら覚えたが、志貴は魅了の魔眼に抗うのに精一杯だった。
「シロウ、町が! 怪獣が!」
 しっかと抱き合う二人は兄妹そのままだった。災害映画などであったなら、生き別れた家族が再会する感動的なシーンだったのであろう。しかしそれは所詮は溜めの場面に過ぎない。次に訪れるより悲劇的なシーンを際だたせるための。
「うわー、衛宮の家……吹っ飛んじゃってるじゃん……まさか、こっちにも怪獣か!?」
「いや、こっちには少なくともそんなのは出てない。蒔寺、町は今どうなってるんだ?」
「いや、それが……」
 何から話せばいいのやら、困り果てている楓をすすっとどかし、鐘が前に歩み出た。
「町は大混乱だったが、ほとんどの住民は比較的スムーズにシェルターに待避出来たはずだ。この十年、呆れるくらい続けられてきた避難訓練が役に立ったということだろう」
 十年前のゴジラ襲撃以来、冬木ではどの町区でも三ヶ月に一度は避難訓練が徹底して行われてきた。怪獣大国として世界に不名誉な名の馳せ方をしている日本にとって、怪獣襲来を想定した訓練は必要不可欠なものだったが、それにしたところで冬木のそれは悲劇の傷跡が生々しく残っているためか他の都市と比較してもずば抜けていたと言って良い。
「それよりも、救援はもう来たのか? そこで自衛隊員と思われる御仁に会ったのだが、急に倒れられてしまってな。由紀香が介抱しているのだが……」
 権藤だ。志貴は歯噛みした。
 特自の隊員は、特殊な催眠能力や電波を発する怪獣及び特殊生物への対策として耐性を鍛え抜いている。権藤ほどの猛者ならあっさり魔眼に屈することはないだろうけれど、この威力は極めつけだ。おそらくは耐えきれず、意識を失ったのだろう。
「そうか。三枝も無事か。……? イリヤ、その子は?」
 リズの腕に抱かれた少女を見つけ、士郎は眉を顰めた。逃げ遅れた子だろうか? ペットらしき子犬も一緒だが……
 無論、士郎は志貴が自分に何事か伝えようとしていることには気付いていない。
 ――まさか、一瞬で魅了されたか?
 志貴は最悪の事態を疑念した。しかしどうやらそうではないらしい。少女は、志貴を見つめて無邪気な笑みを浮かべ続けている。
 そんなことしない――と。まるでそう言っているかのようだった。
 何を……この、目の前の闇は何を考えている?
 闇が何者なのか、志貴には大方の見当はついていた。ライダーから得た情報や、それになにより少女が醸し出す雰囲気、気配が雄弁と物語っている。
 ふと、思う。
 この少女の瞳は、何色だったろうか。
 金色に輝いている瞳と、深い漆黒の瞳が、ブレていた。
「……ぐ、う」
 全身の硬直を解こうと志貴は藻掻いた。藻掻いて、藻掻いて、金の瞳からどうしようもなく連想されてしまう恋人のことを想って、柔らかな淡い月の光にも似たアルクェイドへの思いを盾に、持てる力の全てを振り絞った。
 アルクェイドの瞳が月の持つ光なら、少女の瞳は闇と金で構成された暗黒の太陽だ。
 ……姉、か――と。
 焦る一方、どこか冷めた思考でひとりごち、志貴は声にならない雄叫びをあげた。少女が少しだけ驚いたかのように目を見開く。そこは、既に黒かった。
「え、みや……く……に、げ……っ」
 短刀を片手に、志貴は少女に斬りかかろうとした。が、
「キヒヒッ!」
「うおっ!?」
 空中から急降下してきたハサンによって遮られる。
「こいつら!」
 士郎が両手の剣を振りかぶり斬りつけようとするも、また別のハサンが斬り込んできてそれを容易く受け止めた。
 途端、有象無象にハサンが現れる。
「シロウッ!?」
「クソ、イリヤーーーーーッ!」
 士郎とイリヤの間にも数体のハサンが現れ、二人の距離を隔たれていく。自らに向かってくるハサンを迎撃しながらも、志貴は黒い少女から目を離さなかった。
 彼女の仕業だ。間違いなく。
 イリヤ達の気配が感じられなかったのも、ハサンの気配が急に消えたのも全ては彼女によるものだろう。あの暗黒ならば全てを呑み込んだと言われても納得がいく。
「お、まえの」
「……」
「おまえの、もく……てきは……なん、だ?」
 距離は開いている。戦闘の喧噪もある。こんな呟き、少女の耳に届くはずがない。届くはずもないのに――
「……あ?」
 志貴は見た。
 小さな唇が、ゆっくりと自分に応えるのを。

 ――……がく…よ……――

 ゾワリ、と。
 総毛立つ。
 白い霧が、その色を変えていた。そう見えた。
「こいつはぁっ!」
 黒い汚泥が広がっていく。志貴はそれを知っていた。あまりにもよく知っていた。志貴の中にいまだ残り続ける、闇の眷属への恐怖。その最たるものだ。

 ――悪夢が……よ……――

「そんな、馬鹿な事っ!」
 広がっていくのは混沌の海。跋扈するハサン達の合間を縫って、獣達が暗い海から浮上する。
 その数――666。
「お前はっ、お前はぁーーーッ!」
 男の声が、奈落の底から、響く。
「……久しぶりだな、人間」





◆    ◆    ◆












◆    ◆    ◆






 ――悪夢が、来るよ……――

 志貴は、三度、悪夢を、見た。





◆    ◆    ◆






「イリヤッ!」
 突如として足下に広まった黒い泥のようなものを警戒しながらも、士郎は必死にイリヤへと手を伸ばした。
「シロウ!」
 イリヤもまた、士郎へと手を伸ばす。けれど、絶望的に二人の手は届かない。暗殺者と獣の群が二人を隔て、士郎の剣は既に何度と無く砕け散っていた。
「シロウ! シロウ!!」
 士郎が傷ついていくのが見える。少しでも援護しようとイリヤは手に魔力を集束させようとしたが、どうしてなのか一向に魔力は彼女の思い通りにはなってくれなかった。
「……イリヤ、危ない、よ?」
 アルが心配そうに声をかけてくる。確かに、このままでは自分もアルも、それに楓達も危ない。
「シロウーーーーッ!!」
 涙ながらに叫びながら、イリヤはリズに手を引かれた。アルを片腕で抱きとめながら、リズも懸命にここから逃げ出そうとする。
「イリヤ、危ない……!」
「でも、このままじゃシロウが――ッ!?」
 その時、大地が大きく揺れ始めた。
 よりにもよって地震かと悪態を吐きそうになりながら、あまりの揺れにイリヤはその場に膝を突いた。楓達も耐えきれずに、近くの電柱などにしがみついたり地面にしゃがみ込んだりして凌いでいる。
「イリヤスフィール嬢、片膝では危ない、もっと地面にしっかりとしゃがみ込むんだ!」
「う、うん」
 リズもアルを抱いたまま、しゃがみ込んで丸くなっている。
「もう、何だってんだよぉ!?」
 全員の心境を代弁するかのような楓の叫び。まるでそれに呼応するかのように、大地が、裂けた。
「きゃっ!」
「イリヤ!」
 倒れ伏したイリヤの上に、リズが覆い被さった。リズの女性にしては大柄な身体に包み込まれながら、イリヤは裂けた大地から突き出してくる巨大なツノのようなものを、見た。しかし正確にはツノ……では、ない。あれでは、まるで甲虫の大顎だ。
「また怪獣!?」
「しかもさっきの奴とは違うようだぞ、蒔の字!」
 大地が裂けたせいで楓や鐘とも距離が開いてしまった。由紀香はどうなってしまっただろう。それに、士郎は――
「シロウ! シロウッ!!」
 巨大な咆哮が響き渡る。爆破され、炎上する衛宮邸が裂けた大地に呑み込まれていく様は、イリヤにとってまさに悪夢だった。
 今のこの場は、悪夢だらけだ。
「シローーーーーーーウッ!!」
 イリヤの涙、その雫が宙を舞った。
 雫は中空を滑り、流れ星のように大地へと落ちる。
「危、ないよ? ……イリヤ」
 アルが優しくイリヤの目尻を指で拭い、そのまま頬に触れた。ヒヤリと冷たい少女の手が、イリヤを癒す。
「それに、大丈夫じゃ、ない……か、な?」
 ゆったりと語りかけながら、アルは微笑んでいた。一見場違いな、しかしこの状況においてその笑みが如何なる意味を持つのか、今のイリヤには考える余裕なぞない。
「……ほら」
 アルの指し示す方向。霧と土煙によってよく見えない。さらにイリヤの両眼は涙で曇っている。
 幾つもの影が飛び交っていた。それはハサンと、666の獣達が織りなす狂宴であったが、イリヤには士郎を害する禍々しい悪意の塊達にしか見えなかった。
 だが、次の瞬間。
「……え?」
 煌めいたのは、星。
 イリヤの涙ではない。流星が煌めいて、闇を裂くのが見えた。
「……ふ、ふふ、ふ。……正義の味方、かな?」
 アルの呟きは、イリヤにもリズにも聞こえることはなかった。





◆    ◆    ◆






「ラァイダァァァァアアアアアアキィィィィィィック!!」
 フォトンの残光が霧のスクリーンに映える。
 全身を切り刻まれながら防戦に徹していた士郎は、突如現れ、一体のハサンを跳び蹴りで吹き飛ばした相手をポカンと見つめていた。無理からぬ事だ。
 特に……正義の味方を夢見る、士郎にとってその姿は――
「うりゃああああああああああっ!!」
 残光を纏い、腕が新たなハサンへと伸ばされる。
「グギッ!?」
 細身のそのハサンは首を鷲掴みにされ、そのまま凄まじい勢いで放り投げられていた。
 そして、仮面の戦士が振り返る。
 いったい何者なのか、それ以上にどうしてそんな姿をしているのかと士郎はあたふたした――
「大丈夫だった!? 遠野君!!」
「あ、ああ。大丈夫……だけど……。もしかして、弓塚?」
 ――かと思えば、少女の叫びと志貴の問いに、余計に頭を悩ませる羽目になるのだった。








〜to be Continued〜






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