episode-18
〜聖杯大戦争〜
Part 3 hollow


◆    ◆    ◆






 その姿は、ある意味で彼の夢そのものだった。
「ラァイダァァァァアアアアアアキィィィィィィック!!」
 地面に亀裂が走り、巨大な怪獣が姿を現そうとしている中、必殺の叫びとともに繰り出されたのは光り輝く蹴撃。自分達をあれだけ苦戦させていたハサンが、まるで台風に薙ぎ倒された案山子のように吹き飛んでいく。
 さらに続く攻撃でハサンの首を鷲掴み、信じられない膂力で放り投げる。投げ飛ばしたハサンには最早興味もないといった体で向き直った先には、有象無象の獣の群。黒い、煮え立つ汚泥のような獣達は鋭い牙をかち鳴らしている。
 あまりにも雄壮な姿に、士郎は見惚れていた。
 素顔を仮面で覆い隠した正義の味方。その数々の逸話を養父切継から聞かされて育った士郎にとって、目の前で展開される嵐のような戦闘はまさしく夢の欠片であり――
「大丈夫だった!? 遠野君!!」
 ――なのに、夢は現実を口にしていた。
 遠野。遠野志貴。
 今日知り合ったばかりの青年。自分とさして歳も変わらぬはずなのにやけに落ち着いて見える彼の名を、呼んでいた。目の前に颯爽と立つ正義の味方、仮面ライダーが。
 ……しかも、少女の声で。
「あ、ああ。大丈夫……だけど……。もしかして、弓塚?」
 知り合いなのか、と。
 士郎はどうにも釈然としない気持ちで二人のやりとりを見つめていた。おかしな気分だった。
「うん。わたし……なん、だけど……その」
 攻撃の手は休めずに、仮面ライダーサツキは少しだけ恥ずかしそうに仮面を俯かせた。
「……弓塚」
「……うん」
「……もしかして、恥ずかしい?」
 時間にしてほんの数瞬、沈黙がおりた。
「……ぶっちゃけ、少し」
「……悪かった」
 ペコリ、と志貴が軽く頭を下げると、さつきはさらに高々と雄叫びをあげてハサン、そして獣の群へと突っ込んでいった。
「再会を喜ぶには、邪魔者が多いよね」
「ああ。そう、だな」
 志貴も気を取り直したかのように数体の獣を斬り伏せていた。士郎も我に返り、襲いかかってきた狼型の影を干将莫耶でメッタ斬りにする。……が。
「な、なんだこいつら!?」
 斬ったはずの影が次々と再結合し、唸り声をあげながら再び飛びかかってきた。その腹目掛けて再び双剣を振るうも、やはり斬ったそばから傷口は塞がってしまう。
「不死身、なのか……?」
 焦燥が膨れ上がる。怪獣の大顎は炎上した衛宮邸の残骸を挟み砕き、奇怪な唸り声をあげていた。
 チラと他の二人の戦いを見てみれば、さつきは極悪なまでの破壊力で獣の全身を完全に粉砕していた。あれではたとえ再生が可能でも飛び散った影を再び寄せ集めるだけで時間がかかるだろう。そして志貴はと言えば、
「――ヒュッ!」
 唇から漏れ出す鋭い呼気とともに、獣を刻んでいた。しかも斬られた獣はそのまま消滅してしまっている。士郎が斬った相手とは明らかに異なっていた。
「なんで……っ!? うわっ!」
 獣は狼などの四足獣ばかりではなかった。ワニのような爬虫類もいれば熊のような大型のほ乳類、昆虫のようなもの、魚類のようなものまで多種多様な形状をしていた。それ故に、攻撃に用いてくる部位も防御に用いる部位も多岐に渡りすぎていてまったくと言っていいくらい読めない。
 双剣を朱色の魔槍へと変え、士郎は距離を取ったスタイルへとシフトした。様々な爪牙を前に、自分の力量で接近戦は些か厳しすぎる。それに、この槍の力を使いこなせればあの不死身の獣達ももしかすれば殺しきることが出来るかも、との淡い期待もあった。
 集中し、槍を突き出す。朱色の魔槍はワニ型の影の眉間を貫き、士郎は手早く引き抜くと新たな獲物目掛けて突きを放った。貫かれた獣は暫くは動きを止めたが、しかしやはり完全に倒すには至らない。すぐにも再生し、動き出してしまう。
「衛宮君、この獣達の相手は君じゃ無理だ!」
 志貴が叫び、士郎へと迫っていた数体の獣を瞬く間に細切れへと変えてしまう。
「間桐さん達を、守っていてくれ! こいつらの相手は、俺と……弓塚でするから! 早く、逃げないと……っ」
 事実上の戦力外通告――少なくとも、士郎にはそう聞こえた。半年前と比べれば士郎も幾分か理性的に戦況を判断できるだけの力はついてきている。今の自分ではハサンを倒すことは当然ながら、この獣の群に抗する力もない。怪獣の相手なんて論外だ。
 なのに足が退こうとしないのは、志貴と背中を預け合って戦う仮面ライダーの事がどうしても気に懸かるからか。
 志貴は必要最低限の挙動で相手を一撃のもとに下し、さつきは暴風のような攻撃で殺戮の限りを尽くしている。
「ねぇ、遠野君」
「ん?」
 大きな鼠のような影を踏み砕きながら、さつきは気恥ずかしげに志貴へと話しかけていた。
「初めて、だよね」
「何が――」
 言いかけて、口を噤んだ。なるほど、彼女の言わんとしていることが、何となくだけれどわかった。
「一緒に戦おうって。わたしにそんな風に言ってくれたこと、今まではなかったから……」
 鯨のような影が、拳を喰らい四散する。
 二年前の吸血鬼事件の時、さつきはただ志貴達に救われるだけの存在に過ぎなかった。一年前のタタリ事件の時も、友人となったシオンを介して彼のサポート的な役回りを演じはしたものの、それはとても共に戦ったとは言い難いだろう。
 志貴がこれまで戦場で自らの背中を預けるようにしてきたのは、アルクェイドとシエルくらいだ。秋葉やシオンでさえ、そこまでは至っていない。
 だから――
「遠野君!」
 さつきの拳、ライダーパンチが獣達を粉々に吹き飛ばす。
「わたし、頑張るから!」
 右脚に迸るフォトン。そのまま、目にも止まらぬ速度で繰り出された回し蹴りが巨漢なハサンの胴を薙いでいた。
 ライダーシステムによって呼び覚まされた獣性が、獣達を蹂躙していく。敵は666? 伝説の暗殺者? 怪獣?
 ……知ったことか。
「やっつけてやるんだからぁっ!」
 ようやく、並び立てた。
 自分にとってのヒーローを助けることが出来る喜びに、さつきは仮面の下で幸福な笑みを浮かべていた。
 しかしその幸福を、混沌が嘲笑う。
「ほぅ。人間だけではなく、我らと同じモノもいるか」
 獣とハサンで出来た壁の向こう、コートの下に真っ暗な混沌を宿した悪夢の具現に、志貴は歯噛みした。
「……弓塚、張り切るのはいいけど、アイツは危険だ」
「うん。わかってる。……一年前、わたしも少し戦ったから」
 あの時、街を闊歩する悪夢の群れを志貴とは別行動をとりながら叩いて回っていた際に、さつきも一度、目の前の男とは対戦していた。その結果は散々たるもので、かろうじて逃走に成功したのが今でも信じられない程だった。
「そうか。仮面の貴様は私と戦ったことがあるのだな」
 他人事のように呟き、混沌は形だけの笑みを浮かべた。
「ならばもう一度、見るがいい。原初の混沌さながらに、生と死をも超越し混じり合った極黒の悪夢を。生々流転の理を覆す我が混沌の大海、今この戦いがたとえ刹那の儚き夢に過ぎぬとしても、人間よ、若き仮面の吸血鬼よ……侮れたものではないぞ」
 666の獣の因子を内に内包した最悪の吸血鬼。
「随分とお喋りじゃないか、ネロ――」
 二十七祖が十位、『混沌』。
「――ネロ、カオス!」
 志貴の右腕が一閃される。それはネロの前方に配置していた獣達を事も無げに斬り消し、続く跳躍はそのまま蹴りへと流れた。
「そうだな。今回の私は些か口が軽い。おそらくは――」
 蹴り飛ばした犬が空中で鴉へと姿を変える。鴉の翼は一瞬志貴の視界を遮り、飛び去った後には巨大な鮫の顎が迫り来ていた。
「うおっ!?」
「遠野君!」
 その鮫の顎をさつきの膝蹴りが弾き飛ばす。
「あ、ありがとう弓塚」
「どういたしまして!」
 口だけでなく手も動かしながら、二人は次々と溢れ出る混沌の波に逆らった。
「多弁なのはワラキアと、そして姫君の影響かも知れぬ。嗤え、人間。我は混沌を目指したが辿り着けず、今では斯様な悪夢の残滓だ。しかしこの身は貴様の悪夢。よくよく、祟るぞ」
 続くは巨大なムカデ。蜥蜴のようなものもいる。
「精々苛まれるがいい」
「相変わらず次から次へとよくも出せるもんだな!」
 ムカデを払い、蜥蜴を踏みつけ、鴉を刻みながら、志貴はネロに肉薄しようと迫る。さつきはそのサポートに徹し、志貴を横から狙う獣達を粉砕していた。怪獣が出現した以上、一刻も早くこの場から逃げ出したかったがネロはそうさせてくれるつもりは毛頭無いらしい。奴を倒すか、ダメージを与えて隙を作るしかない。
 ネロの特性上、通常の攻撃で殺しきるのはまず不可能だ。666もの生命系統樹全てを一度に倒さなければ、この混沌は容易く復活してみせる。そのため、圧倒的破壊力をもつ桁外れの広域攻撃、もしくは彼の肉体に秘められたルールを覆せる異能をもってしか混沌を撃ち破ることは出来ない。さつきでは、まず無理なのだ。
 だが、志貴ならば……殺すことが出来る。
 直死の魔眼は混沌でさえ、殺せる。
「しっ!」
 呼気と共に繰り出される斬撃の数々。眼鏡を外した眼に痛みが走るが、そうも言っていられない。
「このっ、このっ、このぉっ!!」
 志貴に迫るまさに獣の波濤を打ち砕きながら、さつきは汗など拭えるはずもないのについ額を拭く所作をした。いかに仮面ライダーと言えども多勢に無勢が過ぎる。いや、むしろその姿こそ逸話の通り、仮面ライダーなのか。
 額を拭った手をスナップをきかせるようにしてから、一拍置いての全力パンチ。バッファローのような影を巨大な頭ごと粉砕する。しかし、その腹の下から新たな何者かが飛び出していた。
「ギギッ!」
「きゃっ!?」
 また別のハサンが半月刀でもって斬りつけてくるのを、さつきは短い悲鳴をあげつつも足刀で刀の持ち手を砕きやり過ごしていた。どうにも、東京脱出の際に戦ったハサンと比べるとこの場にいるハサン達は数のみが多くそこまでの脅威を感じない。が、やはり怖ろしいのは数だ。獣の群に紛れ込んだ暗殺者は厄介極まりない刺客と化している。
 と、またハサンが二体、さつきを挟み込むかのように手斧と鉈を振りかぶって飛びかかってきた。
「うわわっ!」
 手刀、裏拳でそれぞれ迎撃を試みる。ハサンの武器はいずれも重心や角度、反りなどを工夫して、刃物や鈍器としての機能を殊更人を殺しやすいものに特化して仕上げられているが、超常の力を持った宝具や神器と比べれば所詮はただの道具だ。ギアを纏ったさつきの防御力はまともに考えればまず破りきれない。けれど、それも装甲が厚いところに限った話だ。関節部などを狙われてしまえば、特に人体急所を狙い定めて一撃を放つハサンが危険なことには違いない。
 一体目。手斧での一撃を右手甲の部分で弾き、返す刀で手刀を首に叩き込む。
 二体目。繰り出される鉈を振り下ろした左手で下方に流し、跳ね上げた裏拳で顎を打つ。
「うん!」
 システムとの同調も問題ない。
 そのまま再び志貴のサポートに徹しようとするさつきだったが、
「よーし、このまま……えうっ!?」
 崩れ落ちた二体のハサンの足下から現れた蛇が、足首に絡みついていた。そこに隙が生じてしまう。
「キキキッ!」
 そして、突如として迫り来る三体目。エモノは柄を極端に短くした手槍。大きく溜めに入った姿勢で突進から全力の刺突を放たれれば、おそらくギアでも耐えられない。両腕で防ごうにも、いつの間にか背後に出現したヒヒのような怪物がさつきの細身を羽交い締めにしていた。
 万事休す――かと思われた瞬間、
「危ないっ!」
 投擲された一対の夫婦剣がハサンの胴と足に命中していた。全力での突進が仇となったのか、深々とめり込んだ二刀によって三体目はそのまま動かなくなる。
「あ、ありがとう」
 仮面から礼を告げられ、士郎は複雑な顔をした。
「でも、どうして……」
「衛宮君!」
 さつきの疑問、そして志貴からも叱咤が飛ぶ。
「早く後ろへ! みんなを連れて逃げるんだ!」
「だけど二人じゃ、無理だ!」
 そう、無理だ。どう見ても、あの獣達と暗殺者の群れを二人で凌ぎ、掻き分け、一際強大な気配を放っているコートの大男を倒すなんて不可能に決まっている。
 だけど、桜達を守り、この場から逃げ出さなければいけないのも紛れもない事実であり――悩み、迷い、結局は後ろに退くことをよしとしない常からの性情によって踏み止まってしまった士郎は後悔混じりに歯軋りし、二人の援護をしようと前に踏み出そうとした。
 その、瞬間。
「ああ、二人じゃ無理だよなぁ」
「……え?」
 突然後ろからかけられた声に、士郎は振り向いた。
「また、仮面……ライダー?」
 また、新たな仮面の戦士。今度は声からして男のようだ。しかしさつきと比べると体つきはがっしりしているのにどうしてか華奢に見えてしまうのは、纏っているスーツのせいだろうか。……白い仮面に装甲、頭部から生えたアンテナがシロアリを連想させる。
「おっと。オレはライダーじゃねぇよ。なぁ、弓塚!」
「あはっ。そうだね!」
 彼の登場で元気を取り戻したのか、さつきは景気よく五体ほどの四足獣を一度に消し飛ばしていた。
 一方、志貴は信じられないとでも言いたげに目を見開いている。
「……そ、その声……まさか」
 一緒に行動しているらしいことは既に聞いていた。けれど、まさかそんな、彼も冬木に来るだなんて……
「ボーっとしてるんじゃねぇよ、遠野!」
 白いゼクト・ギア、その右手に装備されたのは特別製のメーサーブレード。放たれた光線が志貴に牙を突き立てようとしていた獣達を消滅させる。
「有彦!?」
「おうよ! なんだかえらく久しぶりな気がすっけど、遠野ぉ、元気だったかぁ!? うわっははははははは!」
 手近な獣をブレードの刃で斬り裂き、有彦は緊張を覆い隠すかのように大声で笑った。実戦、それも自分で刃を振るい、敵を撃つなんてこれが初めてだ。やや興奮気味ながら、影山に習った通りのやり方で敵に照準を合わせ、トリガーを引く。
「けど、オレが来たからには百人力だぜ」
 少し震えた有彦の虚勢に、志貴は呆気にとられ……やがて、口を歪ませた。
 どうして有彦があんなものを着込んで戦場に現れたのか疑問は尽きないけれど、でも、心強い。戦闘に関しては彼は素人も同然、やもすれば足手まといだというのに……
「そう、だな。頼もしいよ、有彦!」
 刃を振るい、志貴も笑った。
「だろ?」
 有彦もさらに笑って続ける。
「はは。……と、カッコつけといてなんだけど、急いでここから逃げねぇとな。怪獣とやり合うつもりはねぇだろ」
「お前……本当にカッコつけておいてなんだな」
「んじゃやるのか? アレと?」
 地面から這い出ようとする怪獣は、既に上半身をほぼ露出させていた。こんなにも近距離で見ていると、その威容は悪質な冗談のようだ。圧倒されてしまう。
 巨大なアリジゴク。それが、霧の中に浮かぶシルエットに対して志貴と有彦が共通で抱いた感想だった。
「……やらないよ。無理だろ、どう見ても」
「あは、あはは……だよねぇ」
 さつきも同意する。
 しかし逃げるためには、ネロを何とかして……出来ることならイリヤも助け出してしまいたかったが、あの闇のような少女の手から救い出すのはあまりにも困難なように思われた。
「でも……このままじゃ」
 聖杯が奴らの手に渡ってしまう。連中の目的は不明ながら、その結果が人類にとって良いことであるはずがない。そんな志貴の苦悩を見て取ったのか、有彦は一転して静かに問うた。
「遠野……向こうに、敵の親玉みたいな奴がいるんだろ?」
「あ、ああ。多分、アレがそうだと思う」
 闇そのもののような相貌、それに気配。おそらくは、いや、間違いなく彼女こそが敵首魁。人類を滅ぼそうと企む吸血鬼、黒の姫君。アルトルージュ・ブリュンスタッドに違いあるまい。
 いったいどうすればいいのか、眉間に皺を寄せた志貴のすぐ隣までメーサーブレードを振り回しながら駆け寄ると、有彦はやや落ち着いた声で語りかけた。
「そんな不安そうな顔するなよ。大丈夫だ」
「え?」
 妙に自信ありげな有彦に、志貴は怪訝そうな顔をする。
「すげぇ強い味方が、そっちに行ってくれてるからよ」
 そう言うと、有彦は手当たり次第に照準を合わせてトリガーを引きまくっていた。





◆    ◆    ◆






「やぁああああああああああああっ!」
 既に鎧を纏っていた零は、魔導馬・銀牙に跨ったまま凄まじい勢いで地割れする道を疾駆していた。時間がない。大地を割って現れた怪獣はクリスタル・レギオンの比ではあるまい。銀牙騎士と呼ばれ当代最高峰の魔戒騎士とされる零の力を持ってしても、蟻が巨像に立ち向かうようなものだ。
 狙いは、一つ。
 ここに向かう途中から感じていた圧倒的な魔力。かつて友と協力して倒した最大最強のホラー、メシアにも似た闇の気配を断つために、零は銀狼剣を構えた。
「……烈火」
 緑色の魔導炎が刀身から、そして鎧から迸る。
「炎装ッ!!」
 炎は十字に疾り、刃となって霧を引き裂いた。その途中で零を待ち構えていたのであろうハサンが短い叫び声をあげて両断され、燃え尽きていく。
「雑魚は邪魔だ! どいていろっ!」
『雑魚だからって、侮っては駄目よ、ゼロ』
 相棒であるシルヴァの忠告に軽く頷き、零は濃霧の向こうに目当ての少女を感じ取った。一際大きなクレバスを飛び越え、一気に首を刈り取るつもりで銀狼剣を高々と構える。躊躇などしていられる余裕はない。魔戒騎士がこの現世で騎士の姿をしていられるのはたった九九.九秒に過ぎないのだ。故に、迷うことは許されない。
「貰ったぜ、その首!」
 ようやく視認可能な距離に至り、銀牙は少女を見た。相手が幼子の姿であろうとも、魂の邪悪さには関係がない。それはかつて自分を謀ってくれた番犬所の三神官で嫌という程身に染みている。そんな経験から、零の刃には一切迷いがなかった。
 しかし、闇色の少女は嗤っていた。
 少女を抱きかかえている女性も、すぐ隣で地面に膝を突いているもう一人の少女も突然の襲撃者に身を固くしている中、闇色の少女だけは柔らかく、空を撫でるように指を振るっていた。
『ゼロ! 危ないわ!』
「おおっ!?」
 何かが風を裂いていた。
 少女の首を断たんと振るわれていた銀狼剣を咄嗟に目前で交差させ、零はその攻撃をかろうじて防ぐ。しかし、
「ぐぉおおっ!?」
 防ぎきれない。
 尋常ならざるパワーによって零の身体は銀牙の背から弾き飛ばされ、危うくクレバスに落ちるところをなんとか体勢を立て直して足場らしい足場に落地していた。
 だが、信じられないのは強敵の出現と言うよりも、その姿だ。
「……嘘、だろう?」
『残念ながら、嘘ではないようね』
 零はまるで悪夢を見ているかのように頭を振っていた。シルヴァもまた信じられないとでも言いたげに、口調がどこかしら空虚な響きを含んでいる。
「……」
 無言。それでいて、凄まじい威圧感。
 たった今零を弾き飛ばした相手が、狭い足場にズシリと重たげに落地した。手には巨大なポールアックス、腰には漆黒の剣を携えたその姿は、見間違えようがない。
「……お前はッ!」
 その男は、零の養父と恋人の仇であり――今では莫逆の友と呼べる男、冴島鋼牙が壮絶な死闘の果てに遂に討ち果たした恐るべき魔人。暗黒の……魔戒騎士。
「バラゴッ!!」
 銀狼が吠えた。
 外道に堕ちた魔戒騎士バラゴ。その騎士姿である――呀。
 大気を震わす咆哮にも、しかし暗黒の狼は微動だにせずにポールアックスを構え直すばかり。
「どういう事だ、シルヴァ。アレは、本物か?」
 出来る限り冷静に、零は呀の様子を観察した。
 しかし姿よりも何よりも、全身から発せられる怨念じみた闘気が雄弁と物語っている。こいつは、間違いなくあの時自分達を圧倒した最悪の敵、呀だ。
『本物……かどうかは、残念ながらわからないわね。ただ、幻術の類ではないわ。現実に存在しているのは確かよ。それに……かつての奴と、同質であるのも』
「そうか」
 銀狼剣を油断無く構え、零は呀と暫し視殺戦を繰り広げた。
 思ったよりも復讐心のようなものは湧いてこない。むしろ、今の自分の役割として倒さなければならないという使命感の方が強いよう思えるのは、友のおかげだろうか。それとも、丸くなった……鈍っているだけなのかも知れない。
 ならば、果たして勝てるか? かつては二対一ですら容易くあしらわれたのだ。もし、自分が鈍っているのだとしたら、勝機は薄いどころか無いに等しい。
 鋼牙が勝てたのも、彼の相棒であるザルバの捨て身の助力などがあってこそ。まともに戦えば、力量の差は元より、それ以上に騎士姿でいられる限界時間の差が勝敗を分ける。何せ向こうは騎士姿を解除する必要がないのだから。
「短期決戦で……さて。どこまでやれるかな」
『どちらにせよ時間がないわ。揺れと、地割れが酷いもの。このままじゃ足場が完全に無くなる方が先よ』
「あちゃー。こりゃ、不味いな……っと!」
 不安定な足場を、銀狼が駆ける。
「ッ!」
 その突進をポールアックスの一振りで迎撃せんとする呀。しかし零も何も馬鹿正直に突っ込んだわけではない。
「はっ!」
 左の銀狼剣を地面に突き刺し、ブレーキをかけるとともに跳躍。ポールアックスが銀の残像を引き裂く。
「せぉやっ!」
 中空から、右の斬撃。呀の膂力は自分よりも遥かに上だが、それでも長物を扱う以上はどうしても隙が出来る。狙いは眉間。いかに全身をデスメタル製の鎧に覆われた呀と言えどもその部位へ斬撃を叩き込まれればダメージは必至なはず。
 だが、呀は信じられない方法によって零の一撃を回避した。
「なにぃっ!?」
 ガキィッ、と耳障りな音が響く。
 呀の眉間を狙ったはずの斬撃は、しっかと捉えられていた。思わず目を疑ってしまう回避法。呀は、なんと頭を寝かせ、垂直に繰り出された一撃に喰らいついたのだ。
「こいつ、放せっ!」
『ゼロ、落ち着いて!』
 とてつもない咬筋力だった。空中で踏ん張りがきかないことを考慮しても、まったく振り解くことが出来ない。それどころか、呀は銀狼剣を銜えたまま勢いよく頭を振り始めた。
「うぉおおおおおおっ!?」
 振り回されるまま、零は悟っていた。
 勝てない。
 実力差がありすぎる。少なくとも、騎士姿を顕現していられる時間が残り半分を切った今では勝つための手段が見あたらない。せめて戦闘の直前に鎧を纏い、邪魔な要因がなければ……しかしそれはただの言い訳だろう。この地力差を覆すには、あらゆる手段を講じた上でさらに天運が必要になる。
「くぅう、放しやがれぇッ!」
 手首から先に力を集中、必死に銀狼剣の刃を返す。
「ッ」
 バランスを崩したのか、ついに呀の拘束が緩んだ。その隙を突いて、零は左の銀狼剣で暗黒魔戒騎士の野太い首を目掛け斬りつける。流石にそれは不味いと感じたのか、ようやく零は解放され、空中に投げ出された。
「ってか、そもそもなんでコイツがこんな所に……地獄から黄泉返ったとでも言うのかよ!?」
 なんとか足場目掛けて着地しつつ悪態を吐いた零だったが、依然窮地であることには変わりがなかった。
「それとも、やっぱ悪夢でも見てるのか……」
 ――そう、だよ――
「なっ!?」
 突如脳内に響いたのは、少女の声。直感的にそれが先程目にしたあの闇色の少女のものであると零は確信した。
 零の意を介さず、声は紡がれていく。
 ――……怖いんだよ、ね? ……アナタは、アレが、怖くて……震えて、る。とても……可哀想な、オオカミ、さん……――
「俺が……震えてる?」
『ゼロ!? どうしたの、ゼロッ!?』
 シルヴァには聞こえていないのか、必死に零へと呼びかけてくるが、当人はまるで金縛りにあったかのように反応がない。
 ――おトモダチが、いないから……かな? ――
「なん、だと?」
 ――……おトモダチが、いない……から……だから、……アナタは、怖い、の? ……だから、怖いん、だね。アナタの、悪夢。アナタを、タタる……タタリ……――
「バカなっ」
 否定しようとして、零は息を呑んだ。
 そう、なのだろうか。鋼牙が北の管轄に移ってから、自分は彼の分まで東京を中心とした東の管轄地を守り抜いてきたつもりだった。その間に、ホラーに対して怖れを抱いた覚えはない。
 けれど……今、零は……
 ――おトモダチは、とても、大切……だもの。そばに、いてくれないと……寂しいの、怖いの……わかる、よ? ――
 ビクリ、と零の身体が大きく跳ねた。
『ゼロ!? ゼロッ!!』
 シルヴァの叫びも虚しい。
 ――わたし、ね。おトモダチ、出来たの――
 嬉しそうな囁き声が、臓腑を引き千切る。脳を掻き回す。零の屈強だったはずの全身を、切り刻んでいく。
 ――だから、ね。ずっと、一緒なの。……ね? わたしと、イリヤ、は……大切な、おトモダチ、だから。……嬉しい、なぁ――
 ゾッと、底冷えのする声だった。
 とても嬉しそうなのに、温かみが欠片も感じられない。人間の声で人間の言葉を吐き出しながら、しかし少女は人間ではなかった。人間のはずがなかった。
『ゼロォッ!!』
「――ッ」
 ようやく我に返った瞬間、零が感じたのはポールアックスが振るわれた事によって生じた風圧だった。
「おぉおっ!」
 避けきれたのは運が良かったためか。いや、シルヴァが叫び続けてくれたおかげだろう。我に返るのがあと一刹那遅ければ零の身体は両断されていたに違いない。
『危ないじゃない、ゼロ! さっきからボーっと突っ立って』
「悪い、シルヴァ。……助かった」
 危険だった。
 あの声は深淵だ。取り込まれる。全てを呑み込んで、果てのない暗い空虚な穴へと魂を引きずり込む、そんな魔物のようにも零には感じられた。
 そして、目の前には深淵から這い出た魔物がもう一体。
『残り二〇秒しかないわ。残念だけど、一旦退くべきよ』
「そうだな。あと二〇秒であいつを倒してこの場から逃げ出すなんて幾らなんでも無茶だ」
 だから、逃げるべきだった。それは決して恥じることではなく、至極当然の判断だったから。
 ……だと、言うのに。
『ゼ、ゼロ!?』
 シルヴァがさっきまでよりもなお高い、素っ頓狂な声をあげた。
 零が二刀を構えて呼吸を整えている。
「あと、五秒だけだ」
 退けない。
 あのようなことを囁かれて、退けるわけがない。ここで退いたが最後、零は魔戒騎士でなくなる。魔戒騎士で、狼で居続けるために、零は二振りの牙と牙を連結させた。
 残る力の全てを注ぎ込み、猛る。
「烈火炎装、銀牙銀狼剣!!」
 緑色の炎を纏った巨大なブーメラン。限界まで腰を捻り、充分に溜めを作って……必殺の、投擲。
 狙いは一つ。呀ではなく――
「喰らえッ!」
 ――闇の首。
 一直線に突き進んでいく銀牙銀狼剣は、その標的に間違いなくあの少女の形をした闇を捉えていた。それでいて周囲にいた少女達には被害が及ばぬよう細心の注意を払ってある。
 しかし、当然のようにそれを阻む者がいた。
「ッ!!」
 声にならない唸りをあげて、呀が射線上に飛び出していた。そのままポールアックスの柄でもって銀牙銀狼剣を受け止めようと防御姿勢をとる。
「止める気か! 止められるか、それを!」
 零の全身全霊。常の呀ならば、流すか避けるかしたはず。いくら呀が強かろうともこの一撃は防御可能な限界を超えている。
 ぶつかり合ったのはほんの一瞬。
『やったわ!』
 アックスの柄がへし折れ、呀の胸を銀牙銀狼剣が一文字に斬り裂いていた。斬り裂いてなお、まったく勢いを緩めることなく魔導火を纏った巨大な刃は突き進み続ける。
「そのままだ! そのまま――」
 討てる。そう、確信したとところで、地響きが鳴った。視線を巡らせれば、霧とは異なる砂煙が濛々とまき上がっている。
 呀すら押しのけた銀牙銀狼剣は、止められていた。天空から振り下ろされた、巨大なかぎ爪によって。
 ――残念……だった、ね? オオカミ、さん――
 嘲笑うかのように響く、声。
「くそぉっ!」
『ゼロ、時間よ』
 無情にも五秒が過ぎた。
 呀の出現によって、そちらにばかり意識を傾けすぎていた。最も気をつけるべき存在は他にいたのだ。
 かぎ爪の主は言うまでもない。
 ――……良い、コ、だね。アントラー、は――
 アリジゴクのような大怪獣が、大顎をかち鳴らした。それに、胸を斬り裂かれたとは言え呀もまだ倒れたわけではない。動きを見る限り致命傷には程遠いようだった。
『急いで、ゼロ!』
「わかってるさ」
 悔しいけれど、ここまでだ。
 反転し、零は脱兎の如く駆け出した。
「さつきや有彦は上手くやってるかな?」
『どうでしょうね。でも二人とも運は悪いけれどギリギリのところで悪運だけは強そうだから』
 共に冬木に進入した二人のことを思い浮かべ、零は駆ける。脳裏には言い様のない屈辱の記憶と、
「次は、必ず……ッ」
 倒すべき相手の顔をしっかと刻みつけて。





◆    ◆    ◆






 母屋を爆破され、炎上した衛宮邸はもはや跡形もなく崩壊し、さらには半分以上が地割れに呑み込まれつつあった。地面に走る亀裂を裂け、やや後方に退がった桜達だったが、大きすぎる被害と異常は濃霧の邪魔があったとしても嫌でも目に入る。
 腰を抜かしてしまわないだけ、この場にいた者達は皆まったく大したものだったのではないかと未希は思った。
 実際、桜と綾子はよく耐えている。パニックを起こしかねない状況でなお、衛宮邸の崩壊を見つめていた。
「迂闊でした」
 やや呆けたように、ライダーは呟いていた。
「まさか、彼女自らが出向いてきているとは」
 霧と砂埃の向こう、気配を隠すことはやめたのか、今はその強大すぎる魔力をダイレクトに感じ取ることが出来る。
 黒の吸血姫、アルトルージュ・ブリュンスタッド。
 ライダーとセイバーを始め、多くの英霊達を半ば無理矢理に従え、現行の人類を滅ぼさんとする最悪の敵。
 そして――
「イリヤは、彼女の手に落ちましたか」
 家族と呼んで差し支えない少女を狙う、相手。
「そんな、イリヤちゃん!」
「ちょ、待ちなよ間桐!」
「でもこのままじゃイリヤちゃんが! 先輩達も!」
 桜の悲痛な叫びに、綾子も顔を顰めた。綾子は別段イリヤと親しかったとか、そういったことはない。この半年、せいぜいが二言三言と言葉を交わした程度だ。だが、あの少女が衛宮邸にどれだけ深く馴染んでいたか、士郎や桜、セイバー、それに凛がどれだけ大切に思っていたのかは理解しているつもりだった。
 ……無論、ライダーも。
「ライダーさん」
「どうかしましたか、アヤコ」
「何とか、ならないの?」
 なるなら、首だけの姿とは言えとうにライダーは何かしらの行動を起こしているはずだ。何もしていないというのは、即ち打つ手がないことを表している。そしてライダーに何も出来ないのであれば、おそらくこの場で何かできる人物は、いない。
 だが、諦めきれるか? もしくは、彼らの無事を信じ切ることが、出来るのか。
 信じたくはあった。けれど、そびえ立つ怪獣の巨容がそれを許さない。割れた大地から生えた上半身。あまりの大きさに現実感に乏しいが、まさしくそれは怪獣だった。あのような怪物を前にして誰が一歩踏み出すことが出来るだろう。
 踏み出すことの出来る者がいるとすれば、それは、
「権藤さんやシオンさんのことも、気になります」
 怪獣との戦いを、既に知る者に他ならない。
「私、見に行ってみます」
 宣言し、未希はゆっくりとだが確かな足取りで砂煙の中に踏み込もうとしていた。それを綾子が慌てて止める。
「未希さん、いくらなんでもやばいよ!?」
「でも……志貴さん達はまだ戦ってるけど、権藤さんとシオンさんからは意識を感じられないのよ。でも、生きているのだけは確かなの。もし気を失っていたりするら、助けないと」
 未希の決意は固そうだった。仕方なく、綾子はライダーの意見を仰ごうとそちらを顧みる。
「……ライダーさん」
「無謀過ぎますね」
 即答だった。
「ミキ、貴女は強力なチカラを持っているようですが、戦闘に関しては無力です。行ってどうなるものでもありません」
 非情、且つ無情な言葉ではあったが、しかし事実だ。
「もし本当にゴンドウやシオンが気を失っていたとしても、非力な貴女では抱えて逃げることすらままなりません。……例え、三人一緒に行ったとしても――」
「なら俺が行こう」
 声がした方を振り向けば、そこにいたのはバルスキーだった。
「そこのメドゥーサの言う通りだ。君達が行っても彼らを助けることは出来まい。俺が、行ってくる」
 そう言って拳を作ったバルスキーのボディには、見覚えのない細かな傷が幾つも刻まれていた。
「……その様子だと、ハサンは」
「思ったよりも苦戦はしたがな。途中で増えた奴も含めて、三体。始末しておいた」
 少しだけ馬の雰囲気が明るくなる。
「やった、ね。確か、そのハサンって全部で一九人なんだろ? これで残り一六人か」
「いえ、違います」
 少々わざとらしく戯けた綾子に、ライダーが口を挟む。
「え? だってライダーさん、そう言ってたじゃ……」
「ハサンという英霊は一九……そう、ですね。一九種類とでも言えばいいでしょうか。ですが人数は一九にはおさまらないのです」
 綾子、桜はワケがわからないと言いたげに顔を見合わせていた。一方、未希とバルスキーはむしろ納得がいったとでもいいたげに頷き合っている。
「なるほど。最初の一体と比べ、増えた二体は歯応えが無さ過ぎたが……アレは魔術による分身か何かだったのか」
「正確には違います。ハサンの中には妄想幻像という宝具の使い手がいるのです。詳細は省きますが、彼は最大で八〇人にまで分裂することが出来る」
「なるほど。つまるところ、実際にはあの髑髏面は九八体も存在しているというわけだ」
 面倒極まりない。手練れが一八に、それなりの能力を持った手勢が八〇。倒しきるには苦労しそうだ。
「まぁ、いい。行ってくる。遠野志貴達も連れてくるから、先に遠くまで逃げておいてくれ。怪獣まで現れたとなっては少し離れたくらいでは危険だ」
 言い置いて、バルスキーは駆け出そうとした。が、すぐに立ち止まり、機械らしくもなく溜息を漏らす。理由は、未希だった。何故か彼女はバルスキーの後ろについて走り出そうとしていたのだ。
「どうしてついてこようと……」
「あの中は、危険だから。私が行っても足手まといかも知れないけど……でも、私の能力はきっと役に立つはず」
 確かに、視界最悪な状況下、気配遮断能力のあるハサンを初めとする敵の群れを相手するのにはバルスキーと言えども不安を隠しきれない。未希のESP能力はきっと役に立つことだろう。
 だが、自分だけで守りきれるか……それを考えると、やはり同行は許可出来ない。バルスキーはそう告げようとして、しかし未希の強い意思の込められた視線を見た。
 未希の経歴は知っている。故に、彼女の意思の原動力も、バルスキーなりに理解しているつもりだった。
 機械の自分が人間である彼女を慮る――少し、困惑した。困惑したけれど、その瞳に宿った強さを、戦士であるバルスキーはどうしても否定出来ない。
「……危険は、覚悟の上か」
 力強く頷いて、未希はバルスキーの隣に立った。
「わ、わたしも!」
 一緒に行く、と。前に出ようとした桜を未希が制する。理由は明白過ぎた。だから、桜もそれ以上は続けられない。
「……お願い。桜さんは」
 綾子のことを頼む、と。綾子は桜にとって大切な先輩であり、友人であり、もし彼女を守れなかったなら、それこそ士郎や凛に申し訳が立たない。故に、苦渋だった。
「こちらからも、お願いします。……先輩を、どうか……っ」
 辛そうに、縋るように、桜はバルスキーと未希に託した。出会って間もない二人に、委ねる以外にない。
「それと、伝えてください。……森の奧で、待ってます、って」
 衛宮邸が失われてしまった以上、そこまで退がらなければ態勢を整え直すこともままなるまい。
「わかった」
「はい。必ず」
 走り出す二人の背を見送りながら、桜は手を組み合わせた。
「大丈夫ですよ、サクラ」
 マスターの不安を拭い去るかのように、ライダーが優しく語りかける。綾子も、心底申し訳なさそうに桜の肩に手を置いた。
「間桐。あの二人は……信じられるよ」
 ゆっくりと頷き、桜は身体を反転させた。
 行きましょう、と声にならない言葉で告げ、バルスキー達とは反対の方向へ走り出す。
 目指すは森。
 深く、鬱蒼とした森の奧。
 そこできっとみんなと再会出来ると信じ、桜は走った。
 虚ろに剔れた、あの温かい屋敷の跡を振り返りもせずに。












〜to be Continued〜






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