episode-18
〜聖杯大戦争〜
Part 5 月の涙


◆    ◆    ◆






 まず最初に動いたのは、リタだった。
 重傷の身とは思えない反応、これが本当に片脚だけによる跳躍かと疑いたくもなる勢いでもって、ネロに襲いかかる。
「死人は大人しく死んだままでらっしゃるべきではありませんの? フォアブロ・ロワイン!」
「ふむ。しかし死すらも超えてこその混沌……故にな」
 一斉爆破。
 振り上げられた日傘による号令一下、ありったけの爆破魔術がネロの獣を片っ端から消し飛ばしていく。
「その混沌の獣王が、あろう事か姫君の狗とは!」
「それに関しては言うべき事はない。だが仮初めであったとしても諦めきれぬものもある」
 コートの裾から飛び出す獣の塊。牡鹿のツノやバッファローのツノが伸びてリタのまだ無事な足を狙うも、爆破膜がネロの攻撃の全てを遮り一つたりとも届かない。
「貴方とは相性がよろしくて、ね」
「白翼公旗下最強の剣士、伊達ではないかッ」
 666もの獣から成るとは言え単体の能力ではタカが知れているネロは、広域を一気に薙ぎ払えるリタのような能力からすればまだ与し易い相手だった。強敵であっても分の悪くない戦いだ。
 だから……脂汗の原因はネロではない。
 ネロの背後からこちらを見ている凶眼だ。
「バルスキー、頼みますわよ!」
「承知!」
 間断なく吹き荒れる爆破の嵐。その爆煙を裂いてネロに肉薄したのはバルスキーだった。
 リタもバルスキーも、相手の脅威を知っている。自分達が致命的なまでにあの闇に勝てないであろう事を理解している。そのために、速い。迅速且つ的確な判断でもって、バルスキーは正拳をネロの胸部へと叩き込んでいた。
「ぐ……っ、き、機械人形風情がッ」
 一撃必殺の拳が、まさしく槍の鋭さでもって突き刺さる。
「そうやって固まっていてくれさえすれば、いくらでも殴り倒してくれるわ!」
「ぐ、お、おぉおおおっ!?」
 閃光連撃。
 殴る……確かにそれは拳。攻撃方法としては正しく拳殴であったが、バルスキーの正拳をただの拳殴と評すのは正しくない。数多の格闘技、その達人クラスのデータを元に成るバルスキーの近接格闘戦能力はまま達人級だ。この正拳中段突きも空手という技術の粋を集めた必殺の攻撃力を秘めている。
 しかし、ただの機械が繰り出したのではそれは鉄塊の一撃に過ぎない。仏作って魂入れず――魂の無い拳などでは、ネロ・カオスという稀代の化物にダメージを与えられるはずがないのだ。
「シィィッ!」
「ッ!!」
 ネロの長身がくの字に曲がる。
 バルスキーの連撃は止まらない。その腰の回転も、突き出される腕の加速も、手首の返しも、機械の動作ではなかった。データの通りに動きを模倣再現るのではなく、バルスキーという個が、最速、最強の動きと威力でもって混沌の身体を撃ち据えていく。
 人形使いヴァン=フェム――その最高傑作にして彼の子にも等しき戦闘機兵ゴーレム、バルスキーの魂が混沌を撃つ。
「りやぁああああっ!!」
 且つ、さらに、
「クスッ!」
 リタの斬撃が重なった。
 拳と日傘、それぞれに超級、必殺の威力を秘めた攻撃の重ね当てには反撃に移る隙など一切無い。ネロを持ってして、防御も回避も不可能だった。
「がっ!」
 混沌が頽れ、蹈鞴を踏む。
「これで、終いだ!」
「大人しく、成仏なさいな!」
 決着かと思われた。
 事実、ネロ・カオスでなければ終わっていただろう。
「……ほざくな」
「ッ!?」
 影が、膨れ上がる。リタの爆破をも凌駕する、それは激しく膨張した影の爆発だった。
「お、おおおおおおおっ!?」
「これはっ!?」
 大量の牙と爪が弾丸のように二人へ襲いかかる。獣としての形すら持たぬ攻撃部位のみの具現、そして散弾。
 一つ一つの威力は高くはないが、数が多すぎる。まともに喰らえば致命必至な雨霰を、リタとバルスキーはその場から一歩も退くことなく次々と迎撃していった。ここで自分達が避ければ、後方にいる志貴達がまともにこの雨弾を浴びることとなる。ネロも、その事は当然見越していた。
「我が獣の爪牙からは、逃げられん」
 とは言えリタとバルスキー、自分と同格の相手をこれ以上一度に二人相手にするような愚を進んで犯すネロではない。背中から漆黒の翼が生え、そのまま空中へ舞い上がる。
「逃がしませんわよ!」
「喰らえいッ!」
 日傘と鋼鉄の指が狙いを定め、凄まじい勢いでネロの周囲の空間が爆発、さらに小型ミサイルが吸い込まれていく。連続で生じた爆風から身を守るように伏せる志貴達を後目に、リタは決して手を緩めようとはしなかった。
「バルスキー、残弾は何発程お有りかしら?」
「二十発……十九、十八……出し惜しみはしませんとも!」
「オッケ♪ その意気、です、わっ!!」
 相手は666の生命を持つとされる最悪の化物だ。それもどうやって復活したのかわからないときている。トドメをさすのにやりすぎると言うことは無し、徹底的に叩く以外にはない。
「ここでネロを倒してしまえなければ……」
 リタの目が、チラと黒き姫君へと向けられる。正視は出来ない。リタほどの強者であってもアルトルージュの眼は猛毒だ。強者であるが故にリタは正しく理解していた。力量の差を。
 アルトルージュ・ブリュンスタッドに力で対抗できるのは、自陣ではどうしようもなくトラフィムだけなのだ。それがために、今のリタの全力は勝利するための全力ではなく、事もあろうに逃げをうつための全力であった。
 ――リタ・ロズィーアンともあろう者が。
 血の味のする唇を噛み締め、リタは感情の全てを咆哮とともに解き放っていた。全魔力、全感情がそのまま爆破へ繋がり、ネロの生命を跡形もなく吹き飛ばそうと荒れ狂う。
 アルトルージュの行動は読めない。が、今この場でこちらを全員縊り殺そうだとかそんなつもりはないようだった。幸いと見るのが妥当なのに、リタは自分を許せない。
「わたくしを……ロズィーアンを……この、リタを――ッ」
 日傘が指揮棒のように振るわれ、空中でネロのいるらしい場所が今までにない大爆発を起こす。霧に覆われた空間そのものを吹き飛ばさんばかりの、大威力だった。
「はっ……はぁ、はぁ……ふ、はぁ……こ、これで……」
「……残弾、ゼロです」
 肩で息するリタは限界を超えていた。
 セイバーとの戦闘が彼女にもたらしたダメージは並の吸血鬼ならばとうに死んでいておかしくないだけのもの。そも、彼女は不死性の高さは低くもないが高くもない、祖の中ではむしろ平均以下だ。このまま戦い続け消耗し続けたなら間違いなく命に関わる。
「リタさん!」
 駆け寄ってくる志貴に笑いかけようと、リタは振り向こうとし――
「……ッ!?」
 そんな余裕は、無かった。
「リタ・ロズィーアン!」
 咄嗟に飛び出したバルスキーが鋼鉄の身体でもって影撃を防ぐ。しかし彼の耐魔装甲でも完全に防ぎきることは出来なかった。
「ぐおっ!?」
 ストライプの巨躯が薙ぎ飛ばされていく。
「バルスキー!?」
 薙ぎ倒したのは黒い巨人。泥沼のように地面に広がる影から上半身だけを生やしたそれは、全身から多用な獣のパーツを生やし一瞬たりともその形態をとどめず変化し続けていた。
「惜しかったな、リタ・ロズィーアン。貴様が或いは完調であったならば、我が全ての生命を爆殺せしめることもまた可能であったやも知れぬが……」
「……ネロ・カオスッ」
 巨人の顔がネロのそれに変わる。
「知っているだろう。我が命は個にして666。全てを一度に滅ぼしでもせぬ限り、混沌の波は砕けてもまた大海に戻る。波をどれだけ蹴散らそうとも海が潰えることはない」
 嗤いながら、ネロは元のコート姿に戻っていった。その彼の後ろに立つ小柄な少女を守るかのように。
 万事休すか、と。
 バルスキーを助け起こし、志貴達を後ろに庇いながらリタは歯噛みした。こうしているだけで圧し潰されてしまいそうだ。
「……くす、くす」
 総毛立つ。
 尻尾を巻いて逃げ出したいなんて感覚は、戦闘狂を自認するリタにとって初めてかも知れなかった。





◆    ◆    ◆






「こぉの、スカタンッ!!」
「へぶっ!?」
 目の前で繰り広げられる戦闘に目を奪われていた士郎は、突如として横殴りに一撃を喰らい吹き飛ばされていた。
「アンタって奴は、本当になんでこう……あぁっ、もう!」
 自慢の黒髪を掻きむしり、凛は苦虫を噛み潰したかのような顔で散々に唸るともう一度士郎をぶん殴ろうと手を振りかぶり、やがて溜息と共におろした。
 この惨状を見れば彼がどうしてまた無茶な特攻を仕掛けていたのか嫌でもわかる。愛する家族を、思い出のたくさん詰まった家を、同時に奪われたのだ。さらには、すぐ目の前でイリヤが最悪の危難に見舞われているというのだからたまったものではない。
「……はぁ。で、イリヤは……今、向こうにいるの?」
 唇を引き結び、凛は霧と煙に霞みながらいまだ爆音の響く方を顎先で示した。呆然と見上げていた士郎はようやく我に返ったかのようにうんうんと首を振る。
「だ、だから急いで助けないと! それにイリヤだけじゃない、蒔寺達もいるんだ!」
 凛の眉がさらに寄る。
 最悪に輪をかけた最低の状況だ。ぶん殴った程度では士郎をとても止められまい。とは言え、魔術師としての意識はリタの言う通りに逃げるべきと警鐘を鳴らし続けている。
 見覚えのない眼鏡の青年――おそらくは、彼がリタの仲間である遠野志貴という人物なのだろう――と視線を交わし、凛は軽く頷いて見せた。志貴も同じように首肯する。状況判断が出来ていないのはまず確実に士郎だけのようだ。リタの仲間が無鉄砲且つ向こう見ずな者達でないだけでも助かった。
 が、それにしても……
「死徒二十七祖に、優しそうな眼鏡のお兄さん……あとは」
 どうみても場違いな、自分達と同年代くらいの女性と、その手の知識に疎い凛は首を捻るしかなかったが、あれはそれこそ士郎の夢たる“正義の味方”様とやらではないだろうか。しかも、二人。
「遠坂、俺は……」
「ちょっと黙ってなさい」
 なおも言い募ろうとする士郎を睨み付け凛は志貴に駆け寄った。
「遠坂凛です。遠野志貴さん?」
「ええ、そうです。……って君は、間桐さんの……?」
「姉です。それより」
 桜の安否も気に懸かるが、凛は敢えて触れず挨拶もそこそこにこれからどうすべきかを志貴と話し合いたかった。冷静に、かつてない程に冷静に努める必要がある。聖杯戦争の時よりもなお冷淡に狡猾に、むしろあの戦いを経て手に入れた己の全てを動員し現局面を乗り越えなければ、自分を守って消えていった相棒の弓騎士に申し訳が立たない。
 表情を消し、凛は口を開いた。
「リタ・ロズィーアンのダメージは深刻です。急いで撤退しなければ、少なくとも彼女は保ちません」
 不死の化物たる二十七祖の一角が、凛に肩を借りてようやくここまで辿り着けたのだ。その上であの大規模爆破の連発は頭が下がる思いではあるけれど、とても保つまい。このまま戦い続けたのでは遠からずリタは限界を迎え膝を折る。
 彼女を捨て石にこの場から撤退するという手も考えたが、現状戦力として敵と互角以上にやり合えるのはリタ、そして彼女と共に戦っているゴーレム、バルスキーのみだ。凛は仮面ライダーであるさつきの能力を知らないし、現在後方で暗黒魔戒騎士・呀と戦闘中の零の事も知らない。リタから聞いた情報と目にした現状が全てだった。だからこそ、リタは捨てられない。彼女のことを好ましく思うかそうでないかなど些末、情を交えずに判断した上で彼女はこの先も必要なはずだった。
 見捨てるべきは――
「……ッ」
 ――友人達。
 多少の犠牲を覚悟してでもイリヤは救い出す必要がある。しかし楓や鐘、由紀香達は……救えない。自分達の手で掬い上げることが出来る水の量は限られているのだ。
 握り締めた掌に爪が深く食い込むことすら今は不要な甘さだとでも言いたげに、凛は何度も拳を開閉させた。
「アルトルージュ・ブリュンスタッドがイリヤを使って聖杯を修復するつもりなら、なんとしても彼女だけは助ける必要があると、思います。あの聖杯をアルトルージュほどの者が利用するというのなら、間違いなく怖ろしいことになるはず」
「俺は、その聖杯ってやつについてあまり詳しくは知らないんだけど……本当に、願えば何でも望みがかなうのかい?」
 志貴の疑問に、凛はあっさりと首を横に振った。
「あの聖杯は願望機としては既に壊れていたんです。コスモスが土地の浄化は行ってくれたけど、聖杯をそのまま修復しても多分汚染されたままのものしか……むしろその方が人類を滅ぼす力としては都合が良いはずですから」
「そんなに、危険なものなのか」
「あらゆる人の願望の意味をねじ曲げ、破壊と簒奪でもってのみ望みをかなえる大量殺戮兵器みたいなもの……と言えば、わかってもらえますか?」
「それは……」
 志貴の表情が強張る。
 アルトルージュが願い望むままの破壊と簒奪、やもすればそれは王手となりうる一指しかも知れない。
 わからない、読めないのだ。凛は己の小賢しさを必死に総動員してみたが、アルトルージュが聖杯を使って何を目論んでいるのかは見当がつかなかった。
 ありふれた事象なら容易に想像がつく。しかし、単純な戦力であれば英霊やガイア神獣を数多抱えるアルトルージュはいずれ人類を掃討するに充分なだけのものを有しているのだ。今さら聖杯のようなものを用いる、それも冬木の聖杯を欲する理由がわからない。
「単純に破壊と簒奪に用いるつもりなのか……でも、それだけじゃない気がする」
「リタさんも、言っていたな。アルトルージュの考えだけは読めない……人間の思考では読みとれないのがあの女だ、って」
 全員が押し黙る。
 ネロがリタ、バルスキーとの戦闘に集中しているためか獣達の攻撃は止んでいた。ハサンも、さつきを警戒してでもいるのか仕掛けてくる様子はない。相変わらず爆発音などは聞こえてくるものの、凛には奇妙に静謐な時間だった。
 が、それは長くは続かない。
「……あ」
 誰が漏らした声だったか。
 今の今までひっきりなしに響いていた爆音が、止んでいた。
「リタさんっ!?」
 まさか、と。未希が血相を変える。
 志貴、凛が身構え、さつきがいつでも大技に入れるよう腰を沈めて霧の向こうを睨み据えたその瞬間、
「ぐぁあ……あっ」
「か、ふ……っ」
 バルスキーが、そしてリタが吹き飛ばされ、目の前に転がされていた。
「二人とも……」
 駆け寄る志貴と、彼らを守るため凛はいつでも魔弾を放てるよう残った魔力を掻き集め、前方に腕を突き出した。その横にはメーサーブレードを構えた有彦が並び、さらに前には数歩、さつきが歩み出る。士郎は……逡巡していた。
「コレ……」
「あん?」
「すっごく、やばい状況だよね」
「……だな」
 先程までの比ではなく危険な状況なのだなと、仮にも何度も死線を巡ってきたさつきは感じ取っていた。ハサンや獣の群れなど問題にならない脅威が圧倒的存在感、威圧感を――決して、放ってはいないのだ。
 だから、恐怖した。
 背筋が震える。さつきの怖れがライダーシステムに伝染したのかフォトンラインが微弱に点滅していた。
 と、
「霧が……」
 凛の呟きに、さつきと有彦も仮面の下で瞠目していた。
 晴れていく。
 これまでどんなに動き回ろうと、魔力の波にも爆風にも晴れることなく周囲を覆い続けていた濃霧が晴れていく。
「いや、違うぞ、これ……ただ晴れてるんじゃねぇ」
 有彦の指摘は正しかった。
 霧は晴れるのではなく、道を空けているのだ。道を空け、少女が立つ姿を晒していた。
 小さな姿だった。
 脇に控えるネロ・カオスの長身と比べるまでもなく小さな、幼い、可憐な少女の姿があった。
「う、っぷ!」
 急に込み上げてきた吐き気に有彦は口を押さえていた。
「あ、あっ、ああああ」
 凛の膝が、折れる。
「……う、うぅ」
 頭を振るさつきに、ネビュラが少女を殺すよう喧しく指令を送り続けていた。だが、無理だ。殺せない。ライダーシステムがどれだけ優れた機能であったとしても、あまりに無力だった。無力であることを理解できるくらいには、さつきも戦士だ。
「……皆さん、すみませんわ、ねぇ……」
 力無く、志貴に抱き起こされたリタがくたびれた笑みを浮かべていた。バルスキーの目の光りも、細い。
「万事休す……ですわ」
「一矢報いたいが、身体が、動かん」
 二人の言葉はそのまま全員の言葉だった。
 どうしようもなく身動きが取れないのだ。がむしゃらに突っ込めば、或いは一矢報いるだけなら可能かも知れない。志貴にせよさつきにせよ、地力はまだしもそれだけの可能性はあるはずだった。志貴には一撃必殺の異能が、さつきにはヴァン=フェムの技術を駆使したライダーシステムがある。けれど、動けなければ全て無駄だ。
 そう、動けなかった。
 ただ……一人を除いては。
「イリヤァーーーッ!!」
 彼が動くことが出来たのは、アルトルージュという強大な闇のすぐ隣に、グッタリと力無く横たわっている真白い少女がいたからに違いなかった。
「士郎ッ!?」
 せっかく消していた凛の表情が崩れた。止めなければと手を伸ばす。が、届かない。届かなければ彼に待つ末路は明らかだというのに、手が短すぎる。
「無礼が過ぎるな、人間。仮にも、姫君の御前で」
 ネロが道を塞いだ。蠢く影は、士郎など即座に欠片も残さず喰らい尽くすだろう。けれど士郎は止まらない。
 愚直。
 愚鈍。
 真っ正面から、真っ正直に。
「うぉおおおおおおおおおおおっ!」
 双剣――干将、莫耶を、振り抜いた。
「ぬぅっ!?」
 ネロの目が見開かれる。
 打ちかかってくる少年の実力を、混沌は正確に見抜いていた。戦力にして獣二匹分……それが精々。以上の戦力は過剰であると判断した上で放った、犬が二匹。
 しかし、果たしてその首が跳んでいた。
「ほぉ……人間め、やるな。流石は……人間風情ッ」
 感心も関心もネロには刹那だった。いつまでも捨て去った衝動に囚われる彼ではない。象の牙が、犀の角が、虎の爪が、大鷲の嘴が士郎を囲み、一気に殺し尽くさんと迫る。
 それを阻んだのは、志貴だった。
「アンタが戦いたがってたのは俺じゃなかったのか!?」
「復讐への意欲など、とうに霧消している。感情で動く域は超えたと、知らぬ貴様でもあるまい」
 知っているから、志貴は反論せずに短刀を滑らせた。
「相も変わらぬ、死線を裂く刃の厄介な事よ。捨てたモノがざわめくぞ、殺人貴……ッ!」
 ネロの口端が楽しげに歪む。志貴と戦ったネロは全て別の存在、記憶の連続などありえないのに、彼は識っていた。あらゆる己と遠野志貴との殺し合いを、他ならぬ志貴の記憶から、恐怖から産み落とされた混沌の雫として。
 故に嗤うのだ。
 嗤うはずのない混沌が、嗤いながら腕を突き出す。揚々と前進する。志貴を殺し、喰らい尽くすために、牙を研ぐ。
 だが志貴も士郎もその目はネロを見てはいなかった。
「……クス、クス」
 可愛らしく、禍々しい、少女。
 背筋が凍り、そのまま全身が氷砕されてしまいそうな圧倒的な悪寒に抗いながら、二人は目指していた。ネロはその道上に立ち塞がる壁に過ぎない。
「お兄ちゃん達……がんばってる、ね。……イリヤの、ため? それとも、ジンルイの、ため?」
 アルトルージュの小さな手は、同じくらい小さなイリヤの手としっかと繋がれていた。
「オトモダチ……イリヤは、わたしの大切なオトモダチだから……ずーっといっしょに、ね? いるの」
「黙れぇッ!!」
 叫び、がら空きのネロ本体に士郎は双剣を突き立てていた。
「どけっ! お前なんかの相手をしている暇はないんだ!!」
「急くな、人間。急いたところで、貴様が成せることなどタカが知れている。……それでも急くか。ヒトであるが故に――」
「喋り過ぎなんだよ、今日は」
 一閃だった。
 今にも士郎を取り込もうとしていたネロの身体があっさりと両断され、上半身が地面に転がる。
 一方、斬った志貴も眼を押さえながら膝を突いていた。
「……貴様も急くか。しかし焦りすぎだ。いつもの貴様なら、今の一撃は薙ぐのではなく死点を突いていたろうに」
 転がった上半身は、さもつまらなそうに言い放つと散っていた影を掻き集めて下半身の代わりを作り上げていった。
「フフ。おもしろいね、そうやって……タタカウ、の」
 なんて穏やかな顔で笑うのか。
 しかし惑わされるわけにはいかない。惑わされるわけにはいかぬと、士郎は駆け抜け、少女に斬りかかろうとして――
「うぅっ!?」
 気付いてしまった。
 アルトルージュがイリヤと繋いだ手。そこから流れ出してくる、圧倒的な負の感情。全てを滅ぼすための意思。それは……――この世全ての、悪――
「……聖、杯」
 聖杯の魔力が……不完全なものにせよ、二人の少女が手を繋いだことによって溢れ出しているのだ。
「まだ、ね? ……なおって、ないの。でも、イリヤは、つながってるから……ちょっと、だけ。わたしも、つないでみたの」
 まるで何事もないかのように平然と述べると、アルトルージュはさらに聖杯の魔力を引き出そうとイリヤの手を握り締めた。白い手と白い手が、少しずつ赤くなる。
「もっと……だせる、よ? わたし、イリヤと、オトモダチだから。もっとたくさん、いーっぱい、ね? だせるの。だから……だか……、? ……あっ――」
 ――唐突に。
 アルトルージュの言葉と動きが、止まった



「あ、あぁああ……っ、こ、これ……ッ!」
 士郎達を援護すべきかリタ達に応急処置を施すべきか、判断に苦しんでいた凛は唐突に頭を押さえて踞った。
 ドス黒い気配を感じる。
 憎悪と呼ぶのも生ぬるい負の感情の塊。全てを滅消せんとするこの世全ての悪の鼓動が耳の奧、脳に直接響いたのだ。
「なんでっ、大聖杯はまだ修復中なんでしょ!?」
 吼えたところで意味はない。けれど吼えずにはいられなかった。
 どんなに小賢しく知恵を回しても、相手は必ずその上をいく。読み切れない、予測しきれない事態にそれでも知恵を絞ろうとしている時点で、読み合いは負けだったのだ。
 ……否。
 読み合ってなどいない。
 凛は結局一人で思考回路を磨り減らしていただけで……
「だ、大丈夫!?」
 さつきに助け起こされながら、凛は悔し涙を流さないようにするだけで精一杯だった。結局、また何も出来ていない。自分の無力さに目の奧が熱くなってくる。
「……危険、だわ」
「あん? 危険って……この期に及んでまたなんだよ? 怪獣様のご登場か? それともゴジラでも来るってか?」
 わかりやすく悪態を吐きながら、メーサーブレードを構える有彦に隙はない。素人だからこそ素人なりの必死さが今の彼の最大の武器だった。
「嫌ですわね……今ゴジラなんて出てきたら、最悪どころの話ではありませんわ」
「うむ……しかし、不覚だ。動こうにも、動けん」
 リタとバルスキーは、二人ともらしからぬ弱々しさだ。けれどそれを叱咤するだけの余裕は誰にもない。皆、一杯一杯だった。
 ……ただ一人、未希を除いては。
「凄い……悪意を感じる。これが、聖杯……なの?」
「え、ええ。多分、そうです。半年前にわたし達が感じたのとほとんど同じ気配……だから」
 が、そんな凛の説明を聞いているのかいないのか、未希はあらぬ方向を見つめながら膝を震わせていた。
「違う……これは、違う。そうじゃない……そうじゃないのっ」
「? 違うって、何が――」
 尋ねようとした凛の言葉は、しかし続けられなかった。
 全てを掻き消すほどの悲鳴が、周囲に響き渡ったために。



「あぁああああああああああああああーーーーーーーッッ!!」
 突然のことに、志貴も士郎も困惑を隠せなかった。当然だ。
「あああああああっ、ああっ、ああああああああああああッ!!」
 今の今まで可愛らしく微笑んでいたはずのアルトルージュが、泣き叫んでいた。頭を抱えたかと思いきや両腕でしっかと身体を抱き締め、その次の瞬間には今度は狂ったように手足をバタつかせている。怖い夢でも見た子供のように……泣きやまない。
 もしこれが正真正銘ただの幼い少女であったなら、問題は何も無かったはずなのだ。
 しかし、
「あぁあああああああっ!! あああああッ、あーーーーーッ!!」
 完全なる、狂乱。
「わぁっ!?」
 アルトルージュが泣き喚くたびに、膨大な魔力が渦を成して周囲に吹き荒れていた。
「衛宮君、頭を低くしろ! これは……な、薙ぎ払われるぞ!?」
 明確な攻撃の意思を持たない無意識の魔力暴走である。なのにその威力たるや一流の魔術師が放つ渾身の魔弾にも匹敵する、凄まじい魔風だった。
「そんな、こと……言われても……う、ぐっ」
 士郎とて姿勢を低くして何とか耐えようとはしているのだが、如何せん風の威力が高すぎて気休めにもなっていない。吹き飛ばされるのは時間の問題だ。
「いったい、何が起こったんだ?」
 士郎の疑問は即ちこの場に居合わせたほぼ全員の疑問だった。ネロでさえ、主の異常による影響か膝を突き、身体の形状が安定していない。影が粘土のようにうねり、のたうち、止むことなく千変万化を繰り返している。
「ぐ、ぬぅおおおおおおおおっ」
 まさに混沌。
 形容しがたい表情を見せ、ネロは志貴へ向けて手を伸ばした。
「しょ、所詮は……仮初め……混沌を、夢見た者の末路……果ての果て……だ、が……それでも、私は――」
 苦悶、ではなかった。
 今のネロが見せているのは、志貴がかつて見たことのない表情。彼が本当に志貴の悪夢からのみ生み出された存在であるならば見せられるはずのない表情だった。
「ネロ……カオス」
 一抹の寂寥を覚えたのは、志貴もまた彼への因縁を深く己に刻み込んでいるからに他ならなかった。
「……フ、フフ……人間」
「ッ」
 ネロが、霞む。
 全身にノイズが走り、徐々に存在を薄れさせていく。
「おそらくは、これが最後ではあるまい……姫君にとて、斯様な感情があったことは私をして驚きではあるが……忘れるな。私は、貴様の悪夢。例え忘却の彼方よりでも……幾度でも……」
 捨て台詞、ではなかった。
 そう呼ぶにはあまりにも凄絶に、ネロは志貴へとさらなる因縁を刻みつけ、消えていった。
「……あいつ」
 ようやく、冷や汗の実感が湧く。
 ネロとの再戦を予感しつつ、志貴は魔風によって吹き飛ばされそうになっていた士郎の腕へと手を伸ばした。
「退こう、衛宮君」
「ぐっ、で、でもそこに……そこにイリヤがッ」
 アルトルージュとイリヤが立っている場所はまるで台風の目だ。
 黒い少女の足下はまず安全地帯。そこに倒れているイリヤもまた安全であると言えた。
 しかし、いったいこれは何事なのか。
 アルトルージュ・ブリュンスタッドは何故急にこれだけの――恐怖を感じて……
「やぁああああああっ!! やっ、やだぁっ!! みてる、コッチみてるすごく睨んでるッッ!! あいつが、あいつが視てるよ……あ、あぁぁああああああああ……あーーーーーーーーっ!!」
「あいつ? あいつって……」
 いったい何のことなのか、誰のことなのか。問うても答えられる状態ではあるまい。
 ともあれ、チャンスだ。
 魔風のことはさておき、今ならネロもいない。おそらくは呀もネロと同様に消滅しているはず。撤退するなら今をおいて他にない。
 だが……
「衛宮君」
 士郎は、このまま引き下がらないだろう。
 気持ちは痛いほどにわかる。志貴とてもし目の前に囚われのアルクェイドがいたなら、全てを捨て去ってでも挑みかかっていったかも知れないのだから。
 それでも今は耐えて貰うしかない、と。決意し、志貴が士郎を引っ張ろうとしたまさにその瞬間。
「姫様ーーーーッ!!」
 現れた黒衣の男は、志貴の理性を消し飛ばすのに充分すぎる存在だった。
 黒騎士――リィゾ=バール・シュトラウト。
 あの日、アルクェイドを奪っていった者の一人にして、志貴に完全な敗北を味わわせた最強の吸血騎士。
「リィゾォオオオオオッ!!」
 暗殺者の体術に任せ、志貴の身体が魔風に乗る。
「なっ!?」
 士郎の驚愕は当然のもの。志貴の動きはもはや尋常のそれではなかった。まさに風と一体化したかのような、流れ。流れのままに、慄然とする冴えでもって、短刀がリィゾを断ち割らんと迫る。
 しかし――
(やっぱり……視えないッ)
 眼鏡を外し、全神経を集中させた状態であっても、志貴の魔眼にリィゾの死点どころか線の一本すら視えはしなかった。だが例え視えなくとも……頭、首、心臓、いずれであっても貫き切り裂けばリィゾがどれだけ不死身であっても多少のダメージは通るはず。そう信じて、志貴は襲いかかっていた。
 絶妙のタイミング。
 この距離、この速度。かわしきれるはずなど無い。
 なのに、
「もら――ッ」
「黙れ、小わっぱぁッ!!」
 剛腕による大刀一線。弾き飛ばされたのがどちらかなど言う必要すらない。志貴の体術如き涼風にも劣ると、リィゾの肉体が雄弁に物語っていた。
 そも、今の彼の目には志貴など全く映っていない。
「姫ッ! 姫様あ!!」
「あぅああああああっ!! やあああああああああああ!!」
 狂乱するアルトルージュを抱き締め、リィゾは歯噛みしていた。彼にもこの事態は全くの予想外だったのだ。
「このままでは……いかん」
 唸りながらアルトルージュを抱き上げ、さらにイリヤを小脇に抱えたリィゾが逃走しようとしているのは明白。先程まで撤退の機会を伺っていたことも忘れて志貴は阻止せんと駆ける。士郎も志貴のような変則的な動きではなく直線的に、猪突猛進とでも呼ぶべき特攻を仕掛けていた。
 奇しくも二人の動きは上下。
 共に感情を爆発させた上での後ろを顧みることのない捨て身の一撃である。戦士の中の戦士たるリィゾがそのことを読み誤るはずもない。しかし黒騎士の手は二人の少女で塞がっている。
 一瞬、リィゾが考えたのはイリヤを投げ捨ててニアダークを構え、向かってくる二人を撃破するという至極簡単且つ当然の選択だった。しかしそれは馬鹿げている。
 イリヤこそ、必要な存在なのだ。
 大聖杯の修復に協力しているリィゾだからこそ、イリヤの必要性を誰よりも強く理解していた。彼女を投げ捨てて雑魚を二人蹴散らしたところで何の意味があろう。
 故に、リィゾが選んだのは――
「……」
 無言の威圧。
 黒騎士の凄絶な剣気が魔風と相まって二人を押し返す。
「う、おぉおおおおおっ!?」
「衛宮君!?」
 遂に耐えきれなくなった士郎が吹き飛ばされ、志貴も今以上の接近が出来ない。どれだけ踏み込もうとしても、無理だった。
「リィゾオオオオオッ!!」
 恨み連なる、遠吠え。
 しかし志貴の迸る感情、アルクェイドへの想いなど容易く踏みにじり、砕くリィゾの剣気。
「……今は退く」
 底冷えする声で、リィゾは告げた。
 見過ごせるはずがない。リィゾも、アルトルージュも。アルクェイドに害を為すならどんな相手であろうとも容赦はしないと決めたのだから。なのにこの場でリィゾを倒さずしてどうしようと言うのだ。
「はいそうですかと逃がすかよ!」
 定石外の体勢からリィゾの死角を突いて蹴りが放たれる。
「アルクェイドを、返してもらうっ!」
 どうせ死を視る事が出来ないのなら、手足が折れるまで殴り、蹴り込むのみだと志貴の気迫が告げていた。蹴りをかわしながらリィゾの戦士の性はその気迫に反応する。志貴を正面から叩き潰してやりたいのは山々だったが、今は時間がない。
「アントラーッ!!」
 リィゾの号令一下、今の今まで沈黙を守っていた怪獣が大顎をギチギチと鳴らしてかぎ爪を振り下ろす。
「怪獣ッ!?」
「せいぜい戯れろ。アントラー、殺す必要はない。姫様は、まだそ奴らと遊びたがっているからな」
 命じつつ、リィゾは自身もまだ戯れたがっていることに気付いていた。志貴はおもしろい。実力的には遥かに格下とは言え、こちらを昂揚させる何かがある。
「ま、待てぇッ!!」
 伸ばした手が虚しく空を切る。
 跳び去ったリィゾの腕の中で、アルトルージュがガクガクと全身を大きく震わせているのが遠目にもわかった。どうしようもないくらい大きな魔力を放っていた少女がどうしてあそこまで怖れて――
「危ないッ!」
「うわっ!?」
 士郎に引っ張られ、志貴はアントラーによって巻き上げられた大量の土砂や石塊の直撃をかろうじて避けた。
「イリヤ、イリヤーーーーーッ!!」
 イリヤはグッタリしたまま動きがない。ただその頬を流れる涙だけが宙を流れ落ちていた。そして……再び辺りを覆い始めた濃霧が黒騎士と二人の少女の姿を掻き消していく。
「待てぇえっ!!」
 届かない。
 そびえ立つアントラーの巨体は、壁だった。
 志貴と士郎に出来ることと言えば、己の無力さに打ちひしがられる事のみだった。





◆    ◆    ◆






「霧が、また」
 頭を押さえて踞っていた未希を気遣いながら、凛は相変わらず読めない事態の推移に下唇を噛んでいた。
 アルトルージュが悲鳴をあげた途端、凄まじい魔力が溢れた事までは確認できていたが、そこから先は未希や有彦を守りながら魔風に耐えるだけで凛達も精一杯だったのだ。その上で怪獣が動き出したのだからたまったものではない。
「士郎、あいつ……っ」
「……だ、大丈夫。二人とも、無事……」
 未希は頭痛が酷いのか、玉のような汗を浮かばせてそれだけ口にするとまた蹌踉けていた。
「逃げられ……ませんわよね」
 諦めたかのように呟くと、リタは迫り来るアントラーを見上げた。
「大きすぎますわ」
「ちょっと、リタ・ロズィーアン!?」
 諦めるつもりなのか、と。叱咤するつもりで彼女を振り返った凛はギョッとした。
 逃げるだの諦めるだの次元が違う。リタは毅然と立ち上がり、日傘を構えアントラーに挑みかかる気でいたのだ。
「大きすぎますけれど……まぁカマキラスの三倍程度ですし、やってやれないことはありませんわよね」
「無理よ!?」
 どうしてそんな事をサラリと言えるのか、理解に苦しむ。無鉄砲は士郎で慣れきったと思っていたが、甘かった。未希よりもこちらの頭痛が酷くなりそうだ。凛は苛立ちを隠そうともせずにリタのドレスの裾を引いた。
「逃げるの! 貴女さっきも怪獣の相手なんてごめんだから逃げるって言ったでしょう!? それとも何? 逃げるって言葉が嫌なら戦略的撤退! これでどう!?」
「……えー?」
「どうしてそこで嫌そうな顔されなきゃいけないのよ!?」
 別に嫌だとか言うわけではない。逃げ切れるものならリタとて逃げたいのだが、今度は傷が重すぎてむしろ逃げる自信こそがなかったのだ。ならばいっそ、と……けれど、それは捨て鉢になり過ぎていたなと、差し出された凛の手を見てリタは自省した。
「肩くらいならまた貸すわ」
「うむ。リタ・ロズィーアン殿、ここは無理せずに撤退した方が得策だろうな。この拳でも、あの巨体は倒せそうにない」
「……まっ、わたくしの花火でも、あの外皮はキツ過ぎますわね」
 バルスキーからの進言もあり、リタは渋々折れた。そうして意見がまとまったと見るや、有彦はメーサーブレードを肩に抱えてやれやれと首を振った。
「よっしゃ、じゃあ遠野とあの衛宮って野郎を回収してさっさとずらかろうぜ」
 全員が頷いたのと、
「イリヤーッ!」
「リズッ!?」
 霧を裂いてリズが飛び出してきたのはほぼ同時だった。
「リン? イリヤとアル、見なかった?」
「見たけど今は……アル?」
 彼女にしては珍しく非常に焦っているようだった。口調は変わらないながらも心なしか早口だ。白いメイド服も汚れ、所々が破けている。土砂をまともに喰ったのだろう。さらに付け加えるなら、彼女は一人ではなかった。背中に一人、負ぶっている。
 と、間断無く、
「ちょっ、待ってよリズさん! ……って遠坂!?」
「……おや」
「あっ、遠坂さん!?」
 楓と鐘、由紀香も現れた。
「三人とも……良かった、無事だったのね」
 一度は切り捨てるべきと判断を下そうとした友人達の無事な姿に凛は身勝手と知りつつも胸を撫で下ろしていた。非情になりきるなど、結局自分には出来ないのかも知れない。
 凛が短な安堵に浸っている中、リタとバルスキー、そして未希はそれぞれ別の事に目を見開いていた。
「あらあら……シオン・エルトナムに権藤一佐ではありませんの」
「どうやら無事……だったようだな」
 リズが背負っていたのは紛れもなく権藤、楓と鐘が両側から肩に腕を回し運んできたのはシオンだった。
「はりゃ? 遠坂の知り合い……の知り合い?」
「ほぉ……これは奇縁だな」
「リンのトモダチなら、返す。イリヤ探さなくちゃ」
「ま、待って待ちなさいってばリズ! 今は逃げないとってかこの人重いから!」
 気を失ったままの権藤を突き出され、凛は絶叫した。無理だ。持ち運べるわけがない。
 と、もう一方では、
「……もしかして、由紀香ちゃん?」
「み、未希お姉ちゃん?」
 未希は由紀香と互いを指差し合って瞠目していた。
「……さて。どうすんだ? 逃げねーのかね」
 何やら混乱してきた。知らない顔がぎゃーぎゃー喚いているのを呆れたように見つめ、有彦は早く逃げないとマズイんじゃないのかと言おうとして……やめた。面倒そうだ。隣ではさつきが志貴はまだかとウズウズしている。いっそ迎えに行った方が良いかとも思ったが、二重遭難などしたらコトだ。
「うぅ、遠野君……ほ、ホントに大丈夫かな?」
「まぁ遠野のこったから大丈夫だとは思うけどな」
 確証はない。けれど何となく、有彦なりのそれは直感だった。異能など何一つ持たない一般人ではあるけれど、知った顔の死に関してはそれなりに鋭敏なつもりだ。が、志貴にはそういった不安は不思議なくらい感じない。
「むしろ危ないのは――」
「きゃあああっ!?」
 アントラーのかぎ爪が、大地を蹂躙する。
「こっちだっての!」
「う、うんっ!」
 全員自己紹介や状況説明だなんて悠長なことをやっている余裕はない、とばかりに全力で駆け出した。リズはそれでも後ろ髪引かれていたようだが、凛に袖を引かれてやむなく走り出した。
「……イリヤ、アル」
「イリヤなら多分もうあそこにはいないわ……ええ」
 霧によって相変わらず魔力や気配を察知するのは困難だけれども、凛にもそのくらいは読めていた。アントラーの猛攻は、突然泣き叫び始めたアルトルージュが撤退したためだ。
 おそらくは、時間稼ぎ。
「何が起こってるのよ……ホントにッ」
 理解不能な事態の連続に眉を寄せながら、凛は走った。
 大聖杯の復活。
 怪獣と英霊、他にも幾多の化物だらけの冬木。
 アルトルージュの登場と、錯乱。
 そう……錯乱。
「アルトルージュ・ブリュンスタッドは、どうして――」
「――感じ取った、から」
「……え?」
 由紀香に肩を借りながら走る未希が、額を押さえながら唐突に答えていた。
「感じ取ったんだわ。大聖杯と……コネクトした瞬間に、爆発的に膨れ上がったから……きっと、全部一気に流れ込んできて――」
「ま、待って! 感じ取ったって、何を……」
 足は止めない。
 由紀香は凛以上にワケがわからないと言った顔をしている。
 未希は……どこか、遠くを視ていた。
「おーーーいっ」
「みんな、無事か!?」
 志貴と士郎の声が後ろから聞こえてきた事にホッとしながら、凛は未希の続く言葉を待った。
 本当に嫌な予感しかしない。それに、えてしてこういう時ほど嫌な予感ってやつは当たりやすいのだ。
 まったく……泣きたくなる。
 泣いて解決できるなら――そんな、まるで子供が親に駄々をこねるような程度の事態ならばどれだけ楽だったろうか。
 もっとも凛には親に向かって駄々をこねたような記憶はほとんど無い。だから駄々のこね方など知らないし、どうしようもない事態でただ泣き叫ぶには、聡すぎた。
 一寸先も満足に見えない濃霧の中、激しくなっていく動悸を抑えようともせずに凛は待った。
 奇妙に長い時間だった。感覚は狂っていたのだろう。或いは、それは精神の防衛本能だったのかも知れない。本能に対する感謝など無論することなく、走り出してから何十、何百回目かもわからない荒い息を吐き出した時、凛は聞いた。

「――ゴジラ」

「……え?」
「大聖杯とアルトルージュが接触した途端、膨れ上がった」
 それは、世界で最も忌むべき名の一つ。この冬木においてはいまだに深すぎる爪痕を残す名だった。
「未希、お姉ちゃん?」
 由紀香の顔色がまるで死人のように見えたのは霧のせいだけではあるまい。
「動いてる……向かってきているわ」
 荒々しい呼吸音に紛れて、ゴクリと息を呑む音がハッキリと聞こえた。凛のものだけではなく、おそらくは未希の言葉が聞こえた全ての者が同時に呑み込んだ音。
「ゴジラが……この、冬木に」
 泣けない自分が、凛には癪で仕方がなかった。








〜to be Continued〜






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