episode-18
〜聖杯大戦争〜
Part 10 黄金の輝き(中編)


◆    ◆    ◆






 ただ、嬉しかったのだ。
 個人として感じた喜びにおいて、あれ以上のものは無かったろうと思うし、これからもそうありはしないだろう。大袈裟にでは無く、きっとそうだ。
 衛宮士郎は、個人としての喜び――はもとより自らの欲望に対する善果、悪果を問わずあらゆる報いにして自身にのみ返りくるもの――を頑なに否定し、目を背けんとする性情にあった。他人に対しては頑張ったなら頑張っただけ、努力したなら努力しただけ報われなければ嘘だと本気で考えている癖に、である。
 とは言えそれらは彼の生い立ちに起因するものであり、一概に士郎を責めることも出来まい。むしろ彼がそのような少年であったからこそ彼の騎士王は永きに渡り己を縛り続けた理想と言う名の鎖――悪く言えば妄執――から解き放たれたのだとすれば、やはり二人は出逢うべくして出逢ったまさにこの世に一対のみの剣と鞘だったのであろう。
 だから、嬉しかった。
 ようやく出逢えた剣と鞘の、あまりに尊く美しい剣がこれからも無骨で未熟な鞘と共に在り続けたいと願ってくれたことが。衛宮士郎個人の、捨て去ったはずの、捨て去らなければ生きていけなかったところの感情が溢れ、迸り、自身を潤した。
 笑顔で、頷いた。
 満面の。彼女へ向けた愛しさの全てをまま力強く手繰り寄せるかのように。
 彼女を――セイバーを守ろう、と。意識的にも無意識的にも、士郎は士郎としての全身全霊でもって共に生きようと言ってくれた最愛の女性を守り抜こうと誓った。自身の力が彼女に遠く及ばないことはこの場合さして重要な問題ではない。そも、士郎は守ると決めた相手に対し彼我の能力差など考えた例しがないのだから、今さらな話だった。
 新たに自らを縛った誓いは、不思議と重たくもなければ痛くもなかった。何ら痛痒を感じぬこの大切な想いを胸に、穏やかな日々を安寧でもって過ごす、なんてことはない宝石のような……――奇跡。それは士郎を気付かぬうちに“ある未来”から遠ざけ、剣と鞘は幸福に暮らしていくはずだった。
 なのに――



「う、あ……ぁおおおお……ッ」
 凄まじい膂力で、押し込まれる。
 華奢な矮躯からは想像もつかない絶望的なまでの力の差に、それでも士郎は砕け散りそうなくらい歯を食いしばって耐えた。
 セイバーの剣。
 普段、鍛練の場などで見せる太刀筋とは明らかに異なる、“殺し”を纏って振るわれた戦場の剣は、士郎の全身を投影し受け止めた偽聖剣ごと深々と押し込めた。腕が、曲がる。腰が沈み、膝が折れていく。
「く、そ……ぉ」
 息は吐き出される一方、新たに吸い込む余裕が無い。身体中の細胞は酸素と休息を欲しがり、けれど士郎はそれら要求を悉くはね除けた。
 守った先には、凛がいる。セイバーに彼女を斬らせるわけにはいかなかった。凛の生命は元より、セイバーを守るためにも、今、士郎は退くわけにはいかなかった。
「し、士郎!」
 意識ははっきりとしていても、黒く濁ったセイバーの剣気にあてられたためか凛は身体の自由が利かないようだった。逃げようとしているのか、士郎に助力しようとしているのか。ともあれ、微かに震える手足は彼女の意思を汲むことなく、窮地に怯えているのがわかる。
「姉さん、先輩!」
 桜の叫びは、悲痛だった。そもそも、士郎がセイバーの剣をかろうじてながら受け止めていられるだけでも驚嘆すべき事なのだ。彼の弛まぬ修練の成果に、しかし感動している暇はなかった。
 桜は、なりふり構わずに飛び出そうとしていた。魔力を練り、影を伸ばそうだとかそういった思考は一切カットされていた。ただ守るべき人達のために己を投げ出そうと、それは生物としての本能ではなく間桐桜という少女の本能的行動だった。けれど、動けない。まるで足が石にでもなってしまったかのように上がらないのは、実際に彼女に微弱な石化の魔眼を行使している存在がいたためだ。
「サクラ、待ってください」
「ライダー!? 止めないで! ……お願い、お願いだから……――」
 少女の懇願に、ライダーは何も答えない。答えずに、士郎とセイバーの姿のみを注視していた。石化はかけていない。ただ見ているだけだ。
 そうして数秒後、
「……おかしいとは、思いませんか?」
「え?」
 動かぬ足を引きずってでも士郎と凛を助けに入ろうとしていた桜に、ライダーはそう呟いた。
「シロウは……確かによく鍛練しています。半年前よりも余程強くなった。ですが、セイバーの一撃はその程度で受け止められる程甘くはありません」
 ――もし、全力であったならば――
 そう続け、ライダーはもっとよく注視するよう桜を促した。確かに……操られているだとか、セイバー本来の高潔な強さを削ぎ落としているであろう部分を全て差し引いても、単純な斬撃の威力だけでそれは士郎の命を奪うに充分すぎるだけの威力を持っているはずだ。桜の脳裏を、『士郎ならばセイバーを助けられるかも知れない』といったライダーの言葉がよぎる。その真意を問いただそうとするよりも先に、傷だらけのリタが動くのが視界の端に映った。
 リタの手は、傷だらけになりながらも力強く日傘を構え、セイバーへと向けられていた。今のセイバーは士郎に釘付け、リタに気付いた様子はない。それどころか、リタの存在などスッポリと抜け落ちてしまったかのように剣と鞘の影は重なり合っていた。
「あ……」
 あまりにも自然な光景に、桜は理解した。
 理屈も、方法も、何もわからない。何一つわからないけれど、理解したのは希望だった。あんなにも暗く深いセイバーなのに、けれど彼女はセイバーなのだ。
「そう、か……そうよね、ライダー」
「はい」
 ならば言葉はいるまい。
 士郎の視線が宙を彷徨い、桜とライダーを捉える。さらに直後、交えた相手はリタだった。
「リタ・ロズィーアン!」
 士郎に呼びつけられ、日傘を構えたまま、直立にして不動だったリタの顔に微かな笑みが浮かぶ。
「……なんでしょう?」
「その先! 歩道、ポストのあるすぐ脇だ!」
「!」
 霧にぼやけた先、ほんの僅か、赤味がある。そのポストにリタは全神経を集中させ、目を細めた。
「確証はない! けど、俺が解析――いや、感じた歪みは、そこだ! 多分、そこが一番弱い!」
 凛にもリタにも即座の解析など到底不可能だった固有結界“パレード”の駆動式。あまりにも広大な効果範囲を誇るが故にどうしても存在してしまう綻びを見破ることが出来たのは、構造把握に長けた士郎の特性でこそ可能な看破だった。
「わかりましたわ。……ところで」
「……?」
「手助けは、必要ですかしら?」
 答えなどわかりきっているとでも言いたげな悪戯っ気に満ちた表情は、つい先刻までの士郎ならムキになって激昂していたかも知れない。けれど今は違った。こうしてセイバーと剣を合わせているだけで、士郎は奇妙な充足感を得ていた。
 殺気も、憤怒も、憎悪も、何も感じなくなっていく。ただ無心に剣を合わせているのみの、時間。
 だからこそ、わかるのだ。手に取るように。
「……大丈夫だ。あんたは、結界を破壊してくれ」
 頷いて結界の綻びへと向かうリタを見送りもせずに、士郎の目は正面、セイバーだけを見据えていた。
 わかる。
 この剣は、虚ろだ。
 もし凛達に聞いていた通り、セイバーがアルトルージュと無理矢理に再契約させられながらも自らの意思を伴った状態で自分と打ち合ったなら、こうはならないはずだ。どころか士郎など一刀のもとに斬り倒されているのが必定だった。
 今のセイバーの剣には実が無い。完全に操られているだけの剣。剣気も殺意も、それらしいだけのまやかしだ。そんなものに、偽物であろうともヒヨッ子が振るっているのであろうとも、尊く輝く理想を具現した“約束された勝利の剣”が負ける道理が無い。
「……違うだろ、セイバー……ッ」
 歯軋りの音が大きく響く。
 士郎は――ずっと、責任を感じていた。セイバーを、あの伝説のアーサー王に永らく求め続けた聖杯の入手を、過去の改変という望みを諦めさせ、今の時代に、自分のもとに留まらせてしまったことに。それはあくまでセイバーの新しい望みであり、彼女自身の願いであり、士郎が負い目を感じる必要性は無い……などというのは、ただの理屈に過ぎず、気休めにもなりはしなかった。
 セイバーと共に生きる上での責任感は、双肩に重くのし掛かり、それでも彼女がすぐ隣にいてくれるなら士郎は健やかに真っ直ぐ歩んでいけるはずだったのだ。
「ぐ、うぅううう……!」
 そのセイバーがいなくなった時、士郎の心には闇が涌いた。じくじくと、まるで塞がらない傷痕のように士郎を蝕み、錯乱させ、狂わせた。
 初めて、心から愛しいと想った相手。
 自分は幸せになってはならないという脅迫じみた観念とは明らかに矛盾した感情は、衛宮士郎という少年の傷を確実に癒していった。かつて求めた“セイギノミカタ”という歪んだ理想も、正しく結実しようとしていた。
 けれど、それは――
「……は、はは」
 鍔迫り合いが長引けば長引く程に、士郎の心に冷たい悲哀が浸透していった。がむしゃらにセイバーを探し求めていた時とは打って変わり、信じられないくらい落ち着いているのが自分でもわかる。士郎は乾ききった笑いを浮かべながら認めていた。……要は、依存していたのだ。セイバーに。
「……情けないよ、なぁ。愛想つかされても仕方ない」
 かつての士郎だったなら、気付いた瞬間に出口のない袋小路をグルグル回ることしかできなかっただろう。
 けれど、今は違う。
 今は、違っていた。
「……でも――っ」
 今の士郎は、もっと単純だった。
 目の前にある愛しい少女の顔が、しかし曇った眼に自分は映っていない……それが喩えようもなく哀しくて、士郎は剣を押す力を強めた。
「こんなの……こんなの、お前じゃない……お前の、剣じゃない……!」
 セイバーと打ち合っている事実がもたらす充足感は、やがて本来と異なる彼女の剣に不満を覚え、沸き立つ哀しみのまま使命感へと変わっていく。
 単純な、至極単純な使命感。己の欲求も正しく内包したそれは、力となって腕に、剣に宿った。
「お前の剣は……俺が……俺だけじゃない、みんなが憧れた騎士王の剣は……俺の剣になると言ってくれた剣は……――」
 士郎の腕が、徐々にセイバーを圧し返していくのを凛は驚きながらも納得して見つめていた。
 凛にもわかった。今のセイバーの剣には、あの初めて邂逅した際に感じた美しさも荘厳さも何一つ感じられない。ならば士郎が負けるとは思えなかった。士郎とセイバーを良く知るが故に、確信していた。が、その反面、冷静さを取り戻した頭はセイバーを操る要因を探し出そうと猛回転する。
「どうすれば……外的要因で操られてるって言うなら、一番怪しいのは鎧か、剣か……」
 そこを撃ち抜けば……黒い血の縛りが不完全だというならセイバーが一気に元に戻ってくれる可能性は高い。友人を救いたいという打算抜きの本心を除いても、今の局面でセイバーがこちらの陣営に加わってくれるのは非常に助かる。何としてでも見極めようと、凛はすぐ目と鼻の先で繰り広げられている攻防を凝視した。
「――こんなものじゃ、無い!!」
「ッ!?」
 遂に圧しきられる形となり、能面のようだったセイバーの相貌が微細ながら崩れるのが見えた。
「うぉおおおおおおおおおお!!」
 士郎が吼え、投影された聖剣がセイバーの黒く染まった鎧を掠める。
「!」
 凛は、見た。
 欠けた鎧から漏れ出す、ドロリとした障気のような魔力を。イメージはかつて聖杯から溢れていたアンリ・マユのそれにも近い。まとわりつき、引きずり込まれていくような魔力には戦慄を覚えた。
「やっぱり、その鎧が――!」
「うわっ!?」
 凛が叫び、士郎の意識も一瞬鎧へと逸れた。その隙に体勢を立て直したセイバーは剣を大振りして間合いを広げた。
「くそっ、なら、もう一度!」
 今度は鎧を目掛けて剣を振るおうとするも、能力的には圧倒的な差があることに違いはないのだ。セイバーの剣撃を全て抜けて鎧のみを断ち斬るような真似、士郎に容易く出来ることではなかった。
「士郎、退きなさい!」
 そこに、凛が割って入る。セイバーの剣気にあてられ喪失していた戦意も、それが虚ろなものであると見破ってさえしまえば並外れた意思力を持つ凛の回復は素早かった。士郎が半身程も退いた瞬間、効果など無いとわかりつつも放たれたガンドがセイバーに直撃する。
 セイバーの動きに乱れが生じた隙を縫い、凛は一足で士郎に並んでいた。そのまま、簡潔に問う。
「斬れる?」
 セイバーの斬撃をかいくぐり、鎧を斬ることが出来るのかどうか。まともに考えたなら到底不可能だが、
「多分、あんたの投影したその聖剣なら……いいえ、あんたの手でしか、セイバーは救えない……!」
 やるしかない。
 士郎一人の力でセイバーに一撃、それも鎧を両断するだけのものをくわえられるわけがないのだとわかっていても、同時に士郎にしか出来ないのだとも確信しているから。無理でも、やるしかない。
 ――そう、士郎一人では、無理だ。
「……」
 セイバーの腕が動くのがはっきりと見て取れた。凛は士郎の答えを待たずに動き出す。そして、さらにもう二人。セイバーに向かって動く影があった。
「志貴!」
「おうっ!」
 シオンのバレルレプリカによる牽制に回避行動をとったセイバー目掛けて、志貴の放った蹴りが剣を持つ手を強かに打つ。
「!」
「うわっ!?」
 僅かに跳ね上げられるも、しかしそれだけだった。セイバーは蹴り足が引っ込むよりも先に力強く腕を振るい志貴を押し返すと、そのまま横薙ぎに彼を両断せんとする。あわや真っ二つの志貴を救ったのは、シオンのエーテライトだった。
「そのような体勢での、斬撃など!」
「――ッ!」
 セイバーの腕を絡め取ったエーテライトが力業での斬撃を逸らし、間一髪助かった志貴は全身を捻ってその遠心力でもって再び蹴りを放った。鋭く、天を衝くかのような蹴りが、エーテライトで流されたセイバーの腕を今度こそ跳ね上げる。
「今だ、狙え!」
 誰に向かって投げられた言葉なのか、火を見るよりも明らか。全身の血が泡立つのを感じながら、士郎は動こうとした。
 だが――
「ちぃっ!」
 距離がありすぎたか、それとも所詮は打ち合わせもないなか急増で呼吸をあわせろと言われたことの無理か。士郎が動き、辿り着くよりも先にセイバーはエーテライトの拘束を引き千切り、距離を取ろうとする志貴を睥睨しながら大振りに剣を払っていた。
「流石に成功確立が四割を切るようなものでは甘過ぎましたか……」
「でも間違っちゃいない。……やるさ。何度でも」
 豪風のようなセイバーの斬撃から逃れ、志貴は手近な電柱へ跳ぶと、三角跳びの要領でセイバーの背後に回ろうとした。弾かれたように反応したセイバーを、霧の中微かな煌めきを見せながら無数のエーテライトが縛る。四肢を拘束され、ほんの数瞬動きが鈍ったセイバーの懐へと志貴は侵入しようとし――
「!」
 咄嗟に、避けた。
 避けたところを、聖剣が薙いでいる。数瞬の拘束など意味を為さないとばかりに豪快な一撃だった。
「なかなか懐へ入らせては貰えませんね」
「あんた達……なんで」
 エーテライトを繰りつつバレルレプリカの引き金に指をあてたままのシオンが隣へと近付いてきたのを士郎は訝しげに見つめていた。
「残念ながら、バルスキーとリタは今後主戦力としてどうしても必要になりますから貴方のサポートには回せません。二線級どころか三線級で申し訳ありませんが、我慢してもらいますよ」
「いや、そうじゃなくて!」
 なんで、と。
 どうして自分を……いや、セイバーをそこまでして助けようとするのか、士郎にはわからなかった。
 志貴はセイバーに対して因縁がある。志貴から大切な女性を奪ったのは、他ならぬセイバーとライダーだ。アルトルージュに無理矢理従わされていたとは言え、ライダーの首を落としたのと同様障害を排除するという意味合いにおいては危険を冒してまで助けようとする必要はない。それに、セイバーを助けようと無謀な真似を繰り返す士郎にだって彼らは辟易としていたはずだ。なのに、
「君なら、助けられるんだろ?」
 事も無げに志貴は言い放っていた。セイバーの斬撃を紙一重で回避しながら、士郎を見据え、
「いや、違うな。……助けたいんだろ?」
 当たり前のことのように――否、当たり前のことを、口にしていた。
「……あ」
 士郎は、
「……あ、ああ!」
 ただ、駆けた。
 志貴の言葉に、なんと答えたらいいのかわからない。だから答える代わりに、走った。走りながら、聖剣を振りかぶる。セイバーはエーテライトによって大きく動きを阻害されていた。鎧を斬るなら今しかないとばかりに特攻した士郎の頬を、
「――ッ!」
「うおっ!?」
 嘲笑うかのように、セイバーの斬撃によって巻き起こされた突風が撫でていた。
「凛、桜! 貴女達も早く向こうへ! 権藤一佐が手近なシェルターを探して……――くっ!?」
 シオンの顔色は変わっていた。二重三重に張り巡らせていたエーテライトを全て引き千切られたのだ。指先の感覚からセイバーの力を察し、分割された思考が幾通りもの策を瞬時に練るも、確率的にはどれも危うい。
「流石は稀代の騎士王……英霊の中でも間違いなく最強クラス……私と志貴では、荷が重すぎる……!」
 焦りを浮かべつつも、シオンは横目に士郎を一瞥した。勝因は、彼の存在以外にはない。かつてのシオンなら決して導き出しはしなかった答えには、しかし賭けるだけの価値はあると判断していた。
「シオン!」
「志貴、一度退いてください!」
 予備に仕掛けておいたエーテライトが地面をのたうち、空を裂き、全方位からセイバー目掛け殺到した。
(多分に打算的ではありますが……)
 ――まず、一つ。どちらにせよ、セイバーは打開しなければならない最悪の壁であること。
(この束縛も保って三秒、志貴の特攻を足しても合計で五秒がいいところですね。……けれど、それで……)
 ――そして、もう一つ。現時点におけるこちら側の戦力不足を補うに、セイバーを引き込めるものなら何としてでも欲しい。その辺りの目論見は凛と同様、ただの人助けで戦力を割ける事態はとうの昔に終了しているのだ。もっとも、多分に甘さを含んでいることは自覚していた。
 倒すだけなら……自陣の戦力を集中的に投入すればライダーの時と同様、可能ではあるだろう。だが、今はそこで首を縦に振れない。
「衛宮士郎……貴方に、出来るというなら……!」
 やって貰わなければ、なるまい。その程度の事をせずして世界を救えないのなら、尚更のこと。
 志貴に目配せし、シオンはエーテライトをあらゆる角度からセイバーに仕掛けるべく巧みに操った。眼鏡だけは外さないよう志貴には言い含めてあったが、どうしてもの事態に陥れば彼は躊躇無くセイバーの死を視ようとするだろう。人類の理想たる英霊の中でも極めつけの死は、反英霊のライダーやハサン達とは比較になるまい。志貴の脳は確実に危険なダメージを被るに違いなく、それだけは……シオンの排しきれない個人的感情が、何としても免れたようと必死だった。
「……ここは、私が!」
 志貴を守ろうとする感情を冷静に分割し、シオンの指は巧みにエーテライトを操り、セイバーの足を幾度と無く止め続けた。引き千切られ斬り払われても、伸び、たわみ、のたうつモノフィラメントは豪壮な騎士王にとっても厄介なものであるらしく、必然的に隙も増えてくる。
「細すぎて駄目でも……束ねれば、僅かな時間を稼ぐくらいは出来るはず!」
「!」
 セイバーの能面が顰められ、感情が垣間見えたことでシオンは不覚にも吹き出しそうになってしまった。感情を排しきれないでいる自分と、感情を殺されてしまったはずの彼女。間に横たわる差を思案しつつ、錬金術師の思考と手は動きを止めない。しかしセイバーの動きも止められない。
「志貴と、士郎が飛び込む隙だけはなんとしても――なにっ!?」
 突然、大地が揺れた。
 シオンは知っている。この揺れ方。大地の奥深く、地獄の底から怪物が這い出してくるかのような……悪寒が背筋を撫で上げた。
「志貴ッ!」
 アスファルトにひびが入る。盛り上がっていた。目の前の一部が隆起し、霧と相まって視界を潰していく。
「この局面で……結界外の護衛か!」
 吐き捨てるようにシオンは隆起した大地よりもさらに大きくそびえ立つ異様を見上げた。
「怪……獣……っ」
 咆吼は、絶望の音色に聞こえた。





◆    ◆    ◆






「結局見失っちまった」
 零の後を追いかけサイドファントムを飛ばしていた有彦だったが、濃霧によって閉ざされた視界の中では結局彼に追いつくことも出来ずに立ち往生してしまった。電磁波なども遮断されているらしいが、この霧には視界を遮る以外にも人間の感覚を狂わせる効果が作用しているよう思えてならない。
「なんか聞こえるか?」
「……うん。少しだけど、聞こえる」
 ライダースーツを纏った状態のさつきは、向上している聴力を使い音を頼りに味方が何処にいるか探ろうとしていた。或いは、敵の動きだ。怪獣が動けばその音は余程離れていても察知出来ないはずがない。
 移動中、僅かに怪獣の鳴き声が聞こえた気もしたのだが、今ではそれはおさまってしまっていた。不意に掻き消えてしまった、とでも言えばいいだろうか。聞こえなくなったのだ。有彦の聴力では聞こえたとしても方角や距離までは特定出来ない。
「……今、爆発音が聞こえた」
「爆発音ってーと」
「うん、リタさんだと思う。あっち」
 さつきが指し示した方角へとサイドファントムを走らせる。心なしか霧が薄くなってきたため、速度を上げることが出来た。
「ひっそりと静まりかえった街ってのは不気味だなぁ……ゴーストタウンって感じで」
「映画とかでありそうなシチュエーションだよね」
「おいおい、変な事言うなよさっちん……そういうこと言うと化物に襲われるってのが映画のお約束だろ」
 呆れたように言いつつも、有彦の顔は笑っていない。ホラー映画なら、この静けさは化物が襲撃してくる前兆のようなものだ。急激に霧を裂いて襲ってくる化物の姿を想像し、有彦は身震いした。
「オバケはななこだけで充分だからな」
「だからオバケじゃないですよぉ」
 やはり怖がっているななこからの苦情は無視し、有彦はサイドファントムの本来の速度からすればスローモーションのような動きで新都を走り抜けた。人々がシェルターにしっかりと隠れているのだからこれはゴーストタウンではない。が、今のこの光景は人類の黄昏を肌で感じさせる、なんとも気分の悪いものだった。注意深く視線を巡らせれば巡らせただけ、嫌気がさしてくる。
「もっとも、怪獣にもし滅ぼされた世界なら街がこんな綺麗に残ってるワケはないけどよ」
「そうだね。……東京、今頃はどうなってるだろ」
 レギオンとギャオスによって東京は滅茶苦茶だ。怪獣が闊歩する魔都と化しているのは想像に難くない。
 いつかは、全てが元通りに戻る日が来るのだろうか。この冬木も、東京も。そして、世界中が――
「うおっ!?」
 地面が揺れたのは、その時だった。
「きゃっ!」
「やややあああゆゆ揺れるでですすよぉおお」
 なんとか転倒だけはすまいと車体を捌き、有彦は揺れる車道の上を走った。
「この揺れ……」
「うん、近い!」
 すぐ近くだ。これならば有彦にも見当がついた。苦八苦しながらもハンドルを切り、震源地へと近付いていく。
「――畜生め、出やがったな!」
「おい、今の声」
「権藤一佐!」
 大分薄まった霧の向こう、複数の人影のうち一つから聞き覚えのある声がして、有彦はサイドファントムを急停止させた。





◆    ◆    ◆






「なるほど、用心深い男のようだなフィナ=ヴラドって野郎は……対ゴジラに手持ちの全戦力を投入したとばかりに思ってたが、ちゃ〜んとこっちにも相手を残してくれてやがったワケだ」
 毒づき、権藤は慎重にメーサー銃を突如として現れた巨体へと向けた。霧が、心なしか晴れてきている。この距離であの的の大きさ、霧も薄まったとなれば外す要因がないが、今は、撃てない。すぐ後ろに楓達一般人がいるし、何よりリタが動けない。
「すいませんわね、権藤一佐」
「まぁ、こちとら仮にも自衛隊なんでね。軍属でも自衛官でもない以上、あんたは民間人扱いだ。守り抜くのがお仕事ってモンさ」
 権藤の軽口にニコリと口の端を釣り上げつつ、リタは結界の歪みに集中した。数発、爆破でこじ開けようと試してみたけれど流石は名にしおうフィナのパレード、綻びた部分であっても簡単には穴を穿てそうになかった。となれば、魔力を集中させ、特大の一発をお見舞いする以外にない。
「しかし、なんで唐突に霧が……?」
「予想はつきますけれど……あの腰抜けにしては思い切った事をしたものですわね」
 サドラが結界内でゴジラと戦っていることを、権藤は無論知らない。霧はサドラの体表から常に散布されているもの、サドラ本体が固有結界内に閉じこもってしまっている以上、最低限を残して晴れていってしまうのは当然だった。同じくエレキングによる雷の結界も現在は働いていない。外部の人間がそれと気付けば戦況は一変するものを、けれどフィナはゴジラの完全殲滅に踏み切ったのだと権藤が知れば、おそらく彼はフィナ=ヴラド・スヴェルテンのことを賞賛していただろう。
「それじゃリタさんの準備が完了するまで、わたし達でやるしかない……って、事ですよね?」
「まっ、そうなるな。まずはここから引き離すぞ」
 権藤の指示に、合流したばかりのさつきは力強く頷いた。怪獣と戦う、それはライダースーツを身に纏っていてなお凄まじい重圧となってさつきを押し潰そうとした。ネビュラから送られてくる殺戮の意思も、恐怖心を全て拭い去ることなど出来ない。だが、生身の権藤がやると言っているのだ。志貴もシオンも、強大な敵と戦っているのだ。
 逃げられないし、逃げたくない。
「頼りにしてるぜ、仮面ライダー」
 有彦からの激励に、さつきは仮面の中で唇を引き結んだ。有彦だって、危険には違いないのだ。彼に怪獣の相手をさせるわけにもいかないので、バルスキーと一緒にここでリタや楓達を守る段取りになってはいたが、敵方も他に手勢がいないとも限らない。ハサンやネロ・カオス、呀などがどこに潜んでいるかわからない今の冬木では結局は誰しも安全とは言えなかった。
「乾君こそ、気をつけてね」
「気をつけろって言われてもなぁ……怪獣になんて襲われたら俺の装備じゃ一撃でお終いだし。英霊だかと戦って生き延びられる自信も無いしな。せめてこの駄バケがもうちょっと役に立ってくれれば違ったんだけどよ」
「し、仕方ないじゃないですかぁ! 有彦さんの潜在魔力じゃ到底わたしを使うなんて不可能なんですから」
 一応、有彦をサポートするという名目でヒト型をとっているななこではあったが、彼女が今言った通り有彦の能力では第七聖典を使いこなすことは出来ない。結局、せいぜいが魔力探知機として機能することくらいで、有彦としてはそれが気に入らないらしかった。
 さつきには、有彦の気持ちが何となくわかる。彼も戦いたいのだ。いや、正確には友人である志貴やさつきを助け、守れるだけの力が欲しいのだろう。
 さつきも、そうだった。志貴に守られ、助けられるだけの関係が嫌で、自分にとってのヒーローだった彼のヒーローになろうとこうして仮面をつけて戦っている。その想いがあるからこそ吸血鬼の衝動やネビュラがもたらす殺戮の意思に呑み込まれる事無くいられるのだ。
「有彦さんがもっとすっごい潜在能力持った反則級のチートキャラなら今頃はわたしを使いこなして並み居る強敵を壊滅させてたんですよぉ」
「ってそれ俺のせいかよ!?」
「当たり前です。なんてったってわたしは超高性能な精霊兵器ですから。転生批判は魂をも剔り穿ち霧散させる強力無比な必殺の一撃ですよ」
「知るか、そんなモン。俺にとってオメーはただのクソ重たい荷物で、ニンジンをバカ食いするだけの厄介な女だっつの」
「はぅううっ!? ひ、ひどいですぅ〜」
 酷い、と言いながら『女』の部分でななこの耳がピクンと反応したのをさつきは見逃さなかった。一応女扱いはされていることに喜びを隠しきれないらしい。
 微笑ましいな、と。しかしそんな温かな感情は、一瞬で冷え切ってしまっていた。
「避けろ、ななこ!」
 有彦の叱咤と共に、
「ひぇええええっ!?」
 ななこの情けない悲鳴が木霊する。電柱を、家屋を薙ぎ倒し、凄まじい風圧でライダースーツを撫でたのが怪獣の尻尾による攻撃であるとさつきが気付いたのは、本能的に地面へと伏せてからだった。
「野郎、こっちにとうに気付いてやがったか!」
 地面から出現したばかりで薄れたとは言え霧もまだ残っている現状、まだこちらの所在には気付いていないだろうと踏んでいたものの、権藤の目論見は外れてしまっていた。なるほど、普通の怪獣ならそうだったろう。しかし仮にもこいつはフィナ=ヴラド・スヴェルテンを護衛するためのガーディアンなのだと考えを即座に改める。
「バルスキー、アンタはリタと嬢ちゃん達を頼む!」
「心得た!」
 権藤を気遣う言葉をバルスキーは投げはしない。対特殊生物戦において権藤はプロ中のプロだ。知識にせよ経験にせよ、バルスキーは己のデータを凌駕するだけのものがあると認めていた。
「だ、大丈夫なのかよ?」
 心細そうに尋ねてくる楓に、バルスキーはさてどうしたものかと無骨な頭を捻った。女性を安心させられるような気の利いた言葉、持ち得ていない。と、楓の身体を後ろから抱き締める者がいた。
「うわっ、リズさん!?」
「……大丈夫」
 片腕で楓を抱きながら、もう片方の手には巨大なハルバードが握られている。怪獣を相手にするにはほとほと無意味な武装とも思われたが、バルスキーとて所詮は対人、対吸血鬼の近接戦に特化した機体だ。あまり言えた義理でもない。
「イリヤに会うまで……イリヤを、助けるまで……みんな、守るから……だから、大丈夫」
 淡々として、けれど不思議と心強い。
「ふん。なんだ、蒔にしてはしおらしいな。変なものでも食べたか?」
「蒔ちゃん、あんまり拾い食いとかしちゃダメだよ」
 冗談を投げかける鐘と由紀香も、よく見れば微かに震えていた。震えていたが、それだけだった。
「……強いな」
 少女達の健気さに一人ごち、バルスキーは怪獣へと向き直った。霧の中に立つそいつは、見るからに鈍重そうで……スピードに優れたタイプでなくパワー型だろうとはすぐに察しがついた。ありふれた、という言い方は奇妙でも、陸上型の巨大特殊生物にはもっとも多い四足二足の切り替えが可能な爬虫類タイプ。一見トカゲのようなシルエットだが、口先がまるで嘴のように尖っているのがわかった。即座にデータ照合を開始し、過去に出現した個体に類似するものはないか検索する。すると一件、よく似たシルエットが見つかった。
「このシルエット……確証は持てないが、以前に日本で確認されていたものの同種か?」
 バルスキーが人間だったなら、怪獣の姿をもっとよく見ようと目を細めていただろう。しかし彼の目は細まる事はない。霧の中の熱源を感知し、スキャンしたシルエットをより正確な映像に修正せんと機能するだけだ。
 困難な照合作業がようやく終わる段になった、まさにその時だった。
「なに!?」
 一条のメーサー光が怪獣の首筋へと命中し、鋭い咆吼が大気を揺らした。
「馬鹿な、あの位置では近すぎる!」
 権藤がしくじったのか? だがその可能性は低いとバルスキーは即座に否定した。百戦錬磨の権藤がおかした失敗にしては些か粗末すぎる。
 何より、今の一撃は、狙っていた。
 首ではなく頭部を狙った、殺意を伴った一撃だった。
「乾くんッ!」
 霧の向こうからさつきの声が聞こえた瞬間、バルスキーは己が失態を悟った。居ない。本来なら自分と一緒にこの場で女性陣を守っているはずの青年の姿が、消えていた。激しい自責と同時に、バルスキーのAIは激しく混乱していた。
 ――何故?
 わからない。彼が飛び出していった理由がわからない。バルスキーがその答えに辿り着くまでには、あと二〇秒ほど必要だった。



「テメェ……テメェはぁあああああッ!!」
 メーサーブレードを射撃モードにし、有彦はありったけの憎悪と殺意を込めてトリガーを引き絞った。単発型のメーサーブリットが怪獣の首や胸に着弾し、頑強な皮膚を焦がす。が、焦がした程度では巨体は揺るぎすらしない。皮一枚火傷しただけで人間が死なないように、ごく僅かな痛痒を感じることはあっても怪獣の驚異的な生命力にとって有彦の一撃はまさに蟻の一咬みに過ぎなかった。
「有彦さん、有彦さん何やってるんですか!?」
 現在仮にもマスターである有彦の側を離れるわけにもいかず、くっついてきたななこが絶叫する。
「うぉおおおおおおおおお!!」
「有彦さぁんっ!」
 マスターと精霊の間に結ばれたラインを通じて、眩暈がする程のドス黒い感情がななこの中に入り込んできていた。あの日、東京で壊れたシェルターの入り口を見た時よりもなお深く、激しい。
 有彦は、騒々しくて剽軽なところもあり、それでいて常に冷静に場を見ているような、そんな青年だった。怒ることも悲しむこともある。けれど、ここまで暗い感情は初めてだった。思わず前足で己の身体を抱き締めるようにして、ななこは震えていた。
 怖い。
 有彦から溢れ出す激情が、怖ろしい。
「死ね、死ね、死にやがれぇええええッ!!」
 メーサーがさらに幾つも着弾する。怪獣は無論そんなものに脅威を感じた様子もなく、ただ鬱陶しそうに喉の奥で低く唸った。
 ――攻撃が、くる――
「危ないですぅっ!!」
「うぉあっ!?」
 ななこの全身全霊を用いたタックルが、間一髪で有彦を瓦礫の中に押し倒していた。その上を怪獣の尻尾が凄まじい勢いで通り過ぎていく。
「ぐっ……く、くそ……あの野郎……ッ!!」
「ちょっと、どうしちゃったんですか有彦さん!?」
「うるせぇっ!!」
「ヒ――ッ!?」
 怒鳴りつけられ、ななこは身を竦ませた。ゼクト・ギアのマスクで覆われた有彦の貌が憤怒に歪んでいるのは明らかだった。
 怒り、憎しみ、そして……悲しみが、ななこの中に大量に流れ込んでくる。人が持つ感情の奔流が、ななこを構成する霊子を震わせた。
「なんで、なんでテメェがいやがる……テメェは……あの時、退治されたんじゃなかったのかよ……!?」
 メーサーブレードのトリガーに指を合わせながら、有彦は霧に浮かぶ巨体を睨め上げた。
 退治されたはずだった。有彦自身の手によって倒すことは、もう不可能なはずだった。なのに、今、目の前にそいつがいる。憎い仇が、そこにいる。
 かつて、乾有彦から家族を奪った、怪獣――
「テレスドン!! テメェは、テメェだけは絶対に、この俺の手で……ッ!!」
 ありったけの怨嗟を込めたメーサーが、再び怪獣の皮膚を焦がした。



 有彦の突然の攻撃に、権藤は舌打ちしていた。
「もう少し肝の据わった奴だと思ったんだが……俺の見込みが違ったかよ……!」
 毒づき、なるべく距離をとろうと走る。権藤のメーサー銃は有彦のメーサーブレードよりも威力は上だ。それこそ並の怪獣が相手なら、当たり所によっては致命傷を与えることも出来る。距離をとって撃ち、相手の注意をこちらに向けなければ有彦はもとよりリタ達が危ない。
「乾くん……なんで?」
 仮面の下で、さつきも顔を顰めていた。有彦のことは権藤よりもよっぽど良く知っているつもりだが、彼はあのような無謀な攻撃を仕掛けるタチではない。これまでの戦闘などを顧みても、怪獣が相手とは言え錯乱して銃を撃ちまくるとはとても思えなかった。
「何があったの?」
 直接問いたくても、そんな余裕がない。今は権藤と一緒に出来る限り早くこの怪獣を引き離さなければならなかった。専用の銃、アクセレイガンを手に、さつきは走った。権藤よりも速く、ただひたすら、志貴や有彦、シオンのために怪獣に立ち向かおうとする姿は、まさしくヒーローのものだった。





◆    ◆    ◆






 隆起した地面、倒れた電柱、倒壊した家屋。
「くっ、これでは……!」
 障害物の多さにシオンは歯噛みした。セイバーの足止めを続けようにもこれではエーテライトの動きが制限されすぎてしまう。
 即座に新たな計算式を打ち立てるも、この悪視界ではどこに不確定要素が転がっているかわからない。廃墟同然と成り果てた周囲を睨み、シオンはセイバーがいるであろう咆吼へとエーテライトを伸ばした。
「バレル・レプリカを使おうにも邪魔なものが多すぎる。かと言ってこのままでは……」
 士郎が、志貴が危ない。彼らだけではセイバーの動きに抗しきれない。
「シオン!」
 いつの間にか、壁を蹴って志貴がすぐ目の前に着地してきた。苦しげに見やり、シオンは出かかった言葉をしかし呑み込む。
 志貴の手は、眼鏡にかけられていた。
 簡単な言葉で止まってくれる相手でないことはシオンも重々承知していた。しかし止めなければ、秋葉やさつきに顔向け出来ない。
 七つ。最大数に分割された思考が神経が擦り切れる程に激しく考える。考えに考え、考え抜く。けれどどのような計算式でも事態を好転させることは不可能だった。苦し紛れにエーテライトを繰り出そうとするシオンの手を志貴が止めていた。
「そう心配そうな顔するなよ」
「で、ですが!」
「別に、確実に……その、駄目になるってワケでもないんだろ? 可能性が高い、ってだけで」
「志貴……眼鏡越しであってもわかるはずです。彼女の霊格の高さは人一人がどうこう出来る範疇を悠に超えてしまっている……貴方の神経は……いえ、それどころか精神ごと、ズタズタにされてしまう……ッ!」
 出来うる限りの楽観さを見せた志貴に対し、シオンはらしくもない熱の籠もった口振りで告げた。直死の魔眼がどれだけ驚異的なものであっても、それを備えている志貴の肉体はあくまでただのヒトなのだ。常人より幾らか優れた身体能力があっても、ことこれに関しては気休めにもなりはしない。
「それに、鎧で操られているならあの鎧の死だけを視るようにすれば……――」
「そんな器用な真似が、出来ますか?」
 返事に窮し、志貴は頬を掻いた。
「ほんの一瞬であれば、大丈夫かも知れません。ですが志貴、貴方は一瞬で彼女の鎧の死点を見切り、その上であの豪剣をかいくぐって切れますか? 突けますか? ……無理だ。出来るわけがない……!」
 志貴の手を軽く押し退け、シオンは周囲の瓦礫へと向けてエーテライトを伸ばした。
「士郎も、このままでは犬死にです。アーサー王……いえ、セイバーを救出するためには彼は必要不可欠な存在。ここは無理矢理にでも退かせて、場所を変えて再び挑むのが――」
「セイバァアアアアア!!」
 言いかけたシオンの言葉は、士郎の雄叫びに掻き消され結局言い終えることは出来なかった。聖剣を振りかぶった士郎が全力で斬りかかっていくのが見えた。
「なっ!?」
 シオンは、まばたきすら忘れて見入っていた。
 特攻を難無く弾かれた士郎が、吹き飛ばされて倒壊した家屋に激突する姿は滑稽ですらあった。
「馬鹿な! どうして、この局面で特攻など愚の骨頂ではないですか! これでは結局救えない、どうしても救いたいならもっと熟慮すべきなのに……」
 怒鳴っているのは感情の乱れからだ。ではどうしてこうも乱れているのか、シオンは気付いていた。気付いていてなお、その思考をシャットダウンする。気付きたくなかったという感情さえ、今のシオンを苛立たせた。
「仕方ないさ」
「志貴! そんな言葉で片付けては――」
「俺だってそうだよ」
 あまりにも自然に志貴が言ったので、シオンは理論展開も何も出来ずただ押し黙ってしまった。
「同じさ。目の前にアイツがいたら、きっと狂ったように特攻してた。実際、リィゾに挑んだ時とかそうだったし。リタさんとナルバレックさんがいなければ確実に死んでたよ」
 下唇を噛みながら、シオンは志貴を見据え、息を呑んだ。悟りを開いた聖人だって、仮にも戦闘中にこんな穏やかな表情は出来まい。素直に、そう思う。
「恥ずかしい話だけどさ。……この感情は、病気みたいなものだから。綺麗なんかじゃない。どうしようもない妄執に突き動かされて、それでも……今の彼を、俺は正しいと思う。だから、助けたいと思うよ」
 眼鏡を外し、柔らかく微笑すら浮かべながら、志貴は短刀を逆手に構えてセイバーへと狙いを定めようとした。狙うは彼女本体ではなく、あくまで騎士王を捕らえている暗黒の澱み。それだけならば、志貴に流れる退魔の血が多少はダメージを緩和してくれるはず。しかしセイバーの動きはあくまで俊敏だ。見切り、鎧のみに集中して視るなど不可能に近い。
「……」
 謝罪の言葉を出しかけ、志貴はさて誰に謝罪するつもりなのかと眉を顰めた。士郎にもセイバーにもそこまで義理立てる必要はない。今すぐにでも大声でリタやバルスキーの名を叫べば、彼らが助けに来てくれる可能性は充分にあり得る。
「でも、仕方ないよな」
 重ね見てしまった。理由は、それだけで充分だ。
「志貴ーーーッ!!」
 シオンの悲叫が木霊する。ひとまずはセイバーを直視しないよう、志貴は跳んだ。何としてでも懐に入り込み、鎧の死点を見極める。それさえ、出来れば――
「ッ!?」
 ――心臓が、爆ぜたかと思った。
 目の前に騎士王の端正な顔があった。跳び込もうとした時には、既に彼女が踏み込んできていたのだ。視界を広く持たなかったが故の失策だった。
 不覚、と。後悔するよりも先に剣圧が首にかかる。
 視る、視ない、以前の問題だった。視界はこんがらがってしまっている。混乱する頭で志貴は幾つか、どうでもいいことを考えていた気がした。それにしても、走馬燈の流れる余裕すらない凄絶な斬撃に自分はきっと感嘆していたのだろうと――
「……あ、れ?」
 ――今度は、回想出来ていた。
 不思議だと、意識を彷徨わせる。
 セイバーの、剣は、
「ぐ、ぐ、ぅう……!」
 止まっていた。
 止められていた。
「えみ、や……?」
 セイバーの黒く濁った聖剣は、士郎がかざした光り輝く聖剣によって受け止められていた。
「死なせ……られるわけ、ないじゃないか……!」
 ギリッ、と。奥歯を噛む音が聞こえた。
「あんただって……助けたいヒトが、いるんだろ!?」
 重くのし掛かるような言葉だった。
「……そう、だな」
 惚れた女を助け出すまで、死ぬわけにはいかない。単純な話だ。それだけで、諦めかけていた心に火が灯る。
「だったら!」
「ッ!」
 士郎と鍔迫り合っているセイバーの膝が、志貴の下段蹴りによってカクンと力を失った。そのまま頽れそうになりながら、強引に体勢を立て直そうとするセイバーの足下が突然弾け飛ぶ。
「士郎! 遠野さん!」
「遠坂!?」
 魔力の残滓が立ち上る掌を突き出したまま、凛がその場から離れるようもう片方の手振りで訴えていた。彼女の隣には、桜がいた。桜の腕には、ライダーの首。
「今よ、ライダー!」
 ブレーカー・ゴルゴーンを外し、キュベレイを開放したメドゥーサの両眼が、妖しく光る。
「セイバー……少し、我慢してください」
「――ッ!!」
 凄まじい魔力の奔流がセイバーを捉え、一気に圧迫したのがわかった。周囲の空間はそのままなのにセイバーの身体だけが歪んで見える程の強力な重圧は、石化を免れているだけでも驚異的なのだろう。
 気付けば、士郎は走っていた。
 全身の血が沸騰していた。おそらくは最後のチャンスだろう。ライダーの視線上に重ならないようにだけ気をつけ、全力で疾走する。
 このまま、このまま聖剣で斬りつければ――
「そんなっ!?」
 驚愕は、凛と桜、そしてライダーのものだった。
 セイバーが、踏み出していた。あの超重圧の中にあってなお大地を踏みしめ、剣を構えようとしていた。
 けれど、――止まらない。
「士郎!?」
「先輩、戻ってぇっ!」
 振り下ろせば、終わるのだ。
 セイバーを取り戻すことが出来る。愛する女性を、自分を愛していると言ってくれた誰よりも大切なヒトを救い出すために、士郎は踏み込んだ。
 振り下ろす士郎と、振り上げるセイバー。本来ならばどうしようもなくセイバーの速度が上。しかしキュベレイはまだ破られたわけではない。
「シロウの方が、速い……!」
「うぉおおおおおおおおおおおおおっ!!」
 雄叫び。
 一閃。
 鎧が、欠ける。
 欠けた箇所から闇が漏れだしていく。
 セイバーの身体が蹌踉めき、途中まで振り上げられていた剣が、降ろされ……
「まだ!?」
 きらない。
 セイバーの瞳は輝きを取り戻さないまま、今一度豪剣を振るおうとしていた。狙うは士郎の胴。横薙ぎに、両断するべく剣が持ち上がる。
 士郎は、既にセイバーの剣の動きを見ていなかった。彼が見ていたのは僅かに欠けた鎧のみ。一撃で足りなかった己の技量不足を嘆くよりも、もう一撃加えることを選択し、再び聖剣が迅る。
 今度こそ、タイミングは互角だった。二人の斬撃は互いを同時に斬り裂く。凛も桜も、ライダーでさえそれは疑わなかった。
 悲劇の回避は、不可能で、けれど誰一人として認めようとはしなかった。認められるわけが無い。
 それは、
「そこまで我を通したのなら、この期に及んで諦める馬鹿が何処にいやがりますか!?」
 シオンも同じだ。
 数々の障害物を乗り越えようやく辿り着いたエーテライトが、セイバーの腕を拘束する。捕らえられたのは腕一本のみ。それで、充分。
 士郎の剣が下ろされていく。狙うは先程傷つけたのと同じ箇所。もう一度、そこを……
「違う!」
「ッ!?」
 ビクリ、と士郎の腕がぶれた。
 志貴が叫んでいた。士郎からは見えないそこで、直死の魔眼はセイバーの鎧を視ていた。彼女の動きが極力制限されているおかげで、鎧のみに集中出来た。騎士王の身体にまとわりつく黒い汚泥のような鎧装の点と線。それらがなるべく集中している箇所。
「拳一つ分、右だ! そこが弱い!」
 まるで自分がパレードの綻びを言い当てた時のような既視感に、士郎は笑った。志貴のことは……多分、好きか嫌いかで言えば好きではない。自分とはどうしようもなく違う生き方の青年なのだろうなと、思う。
 それでも、笑った。
 惚れた女のために戦う男同士だ。その一点で、好悪を超えた“何か”を士郎も感じていた。
「セイバァアアアアアアアアアッッ!!」
 拳一つ分、右に。
 切っ先が鎧を斬り裂く。
 今度こそ、欠けるのではなく、真っ二つ。
 溢れ出たのはこれまでにない大量の、闇。
 そして、眩いばかりの黄金の輝きだった。








〜to be Continued〜






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