episode-18
〜聖杯大戦争〜
Part 12 disillusion


◆    ◆    ◆






「うぉおおおおおおおおおおおおおおッッ!!」
「ぁあああああああああああああああッッ!!」
 それは、剣の咆哮だった。
 振るわれた者は剣、剣を握る者も剣。双振りの剣が、双振りの光刃を振り抜いたのだ。全力で。臆することなく。全てを懸け、投げ打って。
 エクスカリバーとカリバーン――ダブルカリバーがサドラの巨体を斬り裂くのを、凛は、志貴は、シオンは、バルスキーは、楓は……さらには鳴り響く戦闘音と震動に何事か耐えきれなくなってシェルターから顔を出してしまった者達は、皆、まばたきさえも忘れ、見つめていた。
 それは、神々しい光景だった。
 あの冬木を包み込んでいた霧が真っ二つに裂かれ、その先に立つ巨獣が苦悶の悲鳴をあげて崩れ落ちていく。まるで映画のワンシーン、クライマックスのような現実だった。
 闇を斬り裂く人類の英雄幻想。滅亡を予感させる冬木の中でこんなにも希望に充ち満ちた光は随分と久しく感じられ、気付けば市内の各所から小さな歓声が上がり始めていた。
「すご……士郎も、セイバーも……なんで――」
 ――なんでこんな芸当が出来るのか。
 二人が聖杯戦争で起こした奇跡を知る凛をして、呆然と頬を引き攣らせるより他に無かった。驚かされることには慣れているつもりだった。のに、ここまでの極めつけには脱帽だ。
 サドラの断末魔が冬木全体に響き渡るかのように、長く、長く、続けられていた。数千年、数万年を生きたであろう神話級の獣が、死ぬのだ。怪獣は幻想ではない。肉を持つ、生物だ。
 だから死ぬ。どうしようもなく、死ぬ。
 当たり前のことなのに、凛はまだ信じきれずにいた。
「倒……した」
 地響きをたてて倒れたサドラは、暫し死にきれず藻掻いていた。そのたびに小規模な地震が起こり、力を使い果たしたのだろうセイバーと士郎は互いを支え合ってかろうじて立っていた。
「……はぁ、はぁ」
「……ふ、は、ははは」
 士郎にもたれ掛かりながら、セイバーは豪快に笑った。
 戒めから解き放たれた女の心底からの笑みだった。
「セイバー……」
「ふ、ふ……これでもう、アルトルージュから与えられていた魔力もほぼ使い果たしました。ですが……怪獣を一匹屠ることが出来たのですから、僥倖……でしょうか」
 自分一人ではそれすら無理だったに違いない。士郎が一緒に、双振りの聖剣と化してくれたからこその勝利だ。まだ目の前に幾つもの脅威が残されていると頭で理解しつつも、誇って良い一勝だとセイバーには感じられた。
 問題なのは、余韻に浸る時間が無いことだ。
 一つの物語であったならばここで自分達の勝利を誇り、カーテンコールであったろうに。
「まだ無理をしなければならないのに……不思議ですね。シロウがいるだけで、体力も魔力も限界だということを忘れそうになってしまう。もしかすると、貴方は伝染するのかも知れない」
 少しだけ意地の悪い言い回しに士郎は眉間にしわ寄せ、けれど何も言い返せず嘆息した。
 サドラの動きがついに止まろうとしていた。少しだけ名残惜しそうにセイバーは士郎から離れると、ついてもいない血糊を払うかのように聖剣を二度ほど振るい、余力を確かめているのか拳を軽く握っては開き、それを数回繰り返した。
「……まいったな」
「シロウ?」
 何とも複雑な表情で士郎は鼻の頭を掻いていた。
「本当はさ、もう無理はするな、休んでろ……って、そう言いたいんだ。でも、今日は……今日だけは、言えそうにない」
「むしろそんなことを言われては困ります」
 呆れたように、憮然とセイバーは己が主人の顔を見上げた。
「状況は理解しているのでしょう? ……それに、僅かですが私にはアルトルージュ側の情報もあります。いいえ、話さなければならないことは山のようにあるのです」
 決意の表情で、少女騎士は残る怪獣戦力を睨め上げた。
 霧が晴れてきたせいか、連中の巨体はよく見える。心なしか鳴き声もはっきりと聞こえる気がした。可視にあることで存在感が増しているのかも知れない。
 まるで峰巒だ。だのに動く。重々しく、雄大に。
「そうだな。聞きたいことはたくさんある。でも、……ああ、なんて言えばいいんだろうな」
「?」
「セイバーと話したいんだ。凄く。……別に何ヶ月も何年も離れてたワケじゃないのに、色々あり過ぎて」
「それは私も同じですよ。ですが」
 恋人の貌でセイバーが安らいで見せたのは、ほんの一瞬だった。すぐさま騎士の、剣の貌へ戻った彼女は、目の前の怪獣達。アントラーとエレキング。少し離れて、デットン。既に何処かへと泡のように消えたダンカン。
 そして……倒れ伏している、ゴジラ。
「こいつらを片付けてから、存分に話しましょう」
 傲岸不遜な態度は、しかしながら英雄にはかくも似合う。
 方法など思い浮かばない、完全な窮地であるにも関わらず、士郎はその傲岸に頼もしさを覚え、不遜を讃えた。
「そうだな。こいつらを、片付けてから」
 疲れ果てているはずの身体に漲る充足感に破顔しつつセイバーと並び立つ士郎の横に、凛と桜が駆け寄ってきた。
「片付けてから、ね。……あんた達が言うと何でもないコトみたいに聞こえるから不思議だわ」
「先輩、セイバーさん、その、なんて言うか……凄かったです。あんな大きな怪獣を、斬り倒してしまうなんて」
 目を輝かせている桜の腕の中では、ライダーの首が何とも言えない微妙な表情をしていた。
「正直、驚いています。まさか二人でサドラを倒してしまうとは」
 現状戦力で敵側の怪獣と正面からぶつかり合っても勝てるわけがないと判断していたライダーにとっても、二人の勝利は驚嘆すべき事だった。どう出し抜くか、どうゴジラを利用してやるかにのみ鬼謀を働かせようとしていたのが馬鹿馬鹿しく思えてくるのが、けれどやはり嬉しいと感じられるのは自分が英霊でも蛇怪でもなく彼らの仲間であるところのライダーであるからなのだと実感し、やがて顔を柔和に綻ばせていた。
 と、そんなライダーを見てセイバーは軽く目頭を押さえていた。
「……正気に返って改めて目にすると、首だけのライダーが平然としている姿は……その……かなり精神的にクるものがありますね。いったい何がどうしてそのような姿に……?」
「色々とあったのです」
 セイバーがショックを受けるのも無理からぬ事だったが、今はそれについて話している暇はない。
「ですがこれで霧と雷による結界は失われました。外部からの援軍もすぐにこちらへと進軍してくるはず」
「権藤一佐の話が本当なら、結城少佐って人は絶対に呼応して動いてくれるはずよ」
 結界以外に外部からの増援を防ぐための措置はとられていたとしても、ヴァン=フェムの軍団に加えて自衛隊や防衛軍、さらに二十七祖のメレムが同時進行を仕掛ければ防ぎきることは困難なはず。その混乱に乗じて一気に大聖杯まで攻め込むことが出来れば、勝機は充分にあると判断し、凛は晴れゆく霧の果て、柳洞寺の方角を睨めあげた。
「そうなれば、残る不安要素は……アルトルージュの能力に関してだけど……」
「それに関しては、すみません。私も彼女の能力の全容まではわからないのです。契約や盟約の類、召還に特化している以外にも、明らかに英霊とは異なる、悪霊に近い存在すら平気で顕現させている節がある……あれはまるで死者蘇生です」
 綺礼の姿を見たことで、凛も同様の疑いは抱いていた。少なくとも彼は英霊として召還されるような器ではないし、霊魂だとしてもただの人間霊に過ぎないはずだ。
 だがそれにしては違和感があった。そもそも純粋なる死者蘇生まで使いこなせるならアルトルージュは魔術ではなく魔法を使用出来る、ということになる。少なくとも彼女が魔法使いであるという情報はどの組織のデータにも無い。
 真っ向から敵対している白翼公の陣営でさえ魔法を確認していないというのであれば、彼女の能力は――
「――確証は、ありません」
「……シオン・エルトナム?」
 唐突に会話に割って入ったのは、志貴の眼の具合を看ていたシオンだった。ただその顔は彼女には珍しく戸惑いと懊悩が覗き見え、これから語るのであろう事の複雑さを如実に物語っていた。
「ただ、この二日間、奇襲計画を練る傍ら、ずっと考えていました。彼女の能力について。……これは、あの“夏の悪夢”を経験した私達ならば、皆心当たりのある事なのです」
「貴女は……確かアトラスの錬金術師の」
 情報としてはシオンのことを既に知り得ているセイバーは、彼女の発言を邪魔しないよう短く「セイバーです」と名乗ると先を促すよう口を噤んだ。
「シオン・エルトナムと申します。……セイバー、アルトルージュ・ブリュンスタッドが魔法使いであるという報告は私の知る記録上、過去一度もありませんでした。英霊である貴女やライダーの目から見ても、彼女の能力は魔法以外のものに相違ありませんでしたか?」
「魔法に関しては専門ではありませんが、少なくともそのようには感じられませんでした。ライダー、貴女はどうです?」
「私も同じですね。とは言え、魔術としても少々毛色が異なる。死者蘇生と言うよりは精巧な幻術……しかも実体のある類、とでも言えばよいのか。形態としては独自異界形成……ある種の固有結界に似ているようにも感じました」
 セイバーとライダーの答えにシオンは低く唸ると、躊躇いがちに天を仰いだ。霧が、晴れていく。まるで幻に包まれていたかのような冬木が現実に回帰していくかのような光景だった。
 なのに、シオンの考えが正しければ幻よりも厄介な悪夢こそがアルトルージュを中心に渦巻いているのだ。
「凛」
「?」
「アルトルージュの能力は、とうに察しはついています。おそらく、これで間違いない」
「なっ、ならなんで今まで黙って……」
 問いつめようとする凛に、シオンは眉間に皺寄せたまま頭を振った。
「確証のない“情報”を使えば、利用される可能性がある。噂や疑心があの能力の糧です。ですから憶測でものを言うわけにはいきませんでした。……貴女も死者を見たと言っていましたね、凛。つい先刻アインツベルン城で」
「え、ええ」
 綺礼の皮肉気な笑みが凛の脳裏を過ぎった。彼は死者だ。間違いない。生きているはずのない過去の存在だ。
 そんな男が、目の前に再び現れた――
「ですがそれは死者蘇生ではなく、貴女の悪夢なのです」
「私の、悪夢?」
 ――ならば、そう。悪夢という言い方は的を射ている。
「……やっぱりか。あの時と符合するところが多すぎて、まさかとは思ってたけど」
 眼を押さえながら呟いた志貴にシオンは小さく頷いた。
 おそらくはシオンにとってこそ最大にして最悪の、悪夢。一年前に滅ぼした宿業にして因縁。
「……“ワラキアの夜”」
 凛の表情がハッと硬くなる。
 名前だけは知っていた。……いや、名前しか知るはずのない死徒だった。
 それは、誰も姿を確認することなくしかし存在だけはするとされてきた死徒二十七祖。名前以外の情報の無いアンノウン。
「繰り返しますが……確証は、ありません。ですが、アルトルージュの能力は、かつてワラキアと呼ばれた死徒のそれと……類似、しすぎているのです」





◆    ◆    ◆






「これは……まいったな。計算外だ」
 声に悔しさは感じられない。
「……でも素晴らしいものだと思わないか?」
 フィナが自分に語りかけていることは無論知りつつ、リタは素知らぬ体をして晴れゆく霧を見上げる人々の歓声を聞き入っていた。怪獣が残っているのだから当然とは言え、まだまだ少ない。しかし彼らの目には、天を斬り裂いた一刀はまぎれもなく希望の光として映ったはずだ。シェルターに戻り、口伝えにそれが広がれば、怪獣に対する恐怖も次第に薄まっていくはず。
 そんなリタのつれない態度を気にもとめずに白騎士は続けた。
「英雄の一撃が、大怪獣を屠り去った。当然、人々は沸き立つ。絶望の暗雲を斬り裂いた光の刃に涙すら流して。俺も随分永いこと生きてきたが、こうして英雄譚が生まれる様を直接目にするのは初めてかも知れない」
 空々しい言い回しだった。心中で毒突きながら、リタは改めてフィナと自分との間合いを計った。
 相打ち覚悟ならば充分に討てるというのは、嘘ではない。稀代の吸血剣士、リタ・ロズィーアンにはその程度の底力は備わっていると自負している。フィナとなら相打ちで果てても構わないと、それも偽り無く本心だった。
 なのに出来ないでいるのはどうしてか。
 感傷かと、しかしリタは自嘲してその想いを振り払った。
 違う。もっとおぞましい何かだ。
「本当にね、計算外だ。君達に希望を与えるつもりなんか無かったんだ。こちらとしては、ゴジラのせいで怯えきってしまっている姫様に絶望の娯楽をお見せして元気になって貰いたかったのに」
「これでは黒姫様は愉しめませんわね。ようやく希望の光を見つけた人間は、わたくし達闇に生きる者達にとっては天敵のようなものですもの」
「まったくだ」
 ようやくリタが言葉を返してくれたのが意外だったのか、フィナは小さく肩を揺らした。ジョーガンの照準はまったくぶれさずに。
「サドラがやられてしまったせいで霧も晴れてしまう。雷による結界もエレキング単体では不可能だ。ヴァン=フェムの軍勢と防衛軍、自衛隊……冬木に雪崩れ込む戦力はどのくらいか」
「……手持ちの駒で、どこまでやるつもりですの? いえ、どこまでやれるつもりでいますの?」
「まだこちら側の怪獣戦力は潤沢だよ? ヴァン=フェムの魔城が総出でかかりでもしない限り――」
 言いかけて、フィナは言葉を切った。否、切らざるをえなかったということか。
 リタは嗤った。
 嗤うべきではない、いっそ恐れおののかなければならない状況にあってフィナの反応が可笑しくてたまらなかった。
「だから貴方は詰めが甘いと言うのですわよ」
 唇の端を引き攣らせながら、リタはゆっくりと起き上がっていく漆黒の巨山を見つめていた。
「詰めが、甘い……か。……違うな。リタ、そいつはむしろ俺を買いかぶってる。この場合、評価すべきはまだ悠然と起き上がろうとするヤツの生命力じゃないか?」
 言われリタは確かにそうかも知れないと納得した。
 フィナは甘いところがあるが、それでも投入した戦力を鑑みれば油断も慢心も欠片も無く挑んだはずだ。なのに殺しきれなかったのは偏に怪獣王の並外れた生命力が故だろう。
 ゴジラが、立ち上がっていた。
 ダメージの残る肉体、だ。
 引きずるようにして起き上がった巨躯はしかし立ち塞がるエレキングとアントラーを睥睨していた。両者の間に身長差は無い。むしろ首の長さの分、エレキングの方が勝っている。さらにゴジラは力が入りきらないのか僅かに屈んでいた。
 けれど、睥睨なのだ。
 まぎれもなく見下していた。今の今まで自分を圧倒していた二大怪獣を、雑魚を見るかのように。
「王者、か。かつてあらゆる怪獣を、ヒトの軍事力を圧倒的な暴力でねじ伏せ、叩き潰してきた者の……獣風情が、誇りを持つのか」
「おバカですわねぇフィナ。……獣風情だから、ですわよ」
 フィナもリタも呑まれていた。
 睥睨の中には間違いなく自分達も含まれているのだ。それどころか、己以外の全てがその対象なのだろう。
 ゴジラが、吼えた。
 忌々しげに。自らにダメージを与えた二頭の怪獣を、まるで鳴き声だけで蹴散らそうとでもするかのように。
「……リタ。俺は、つくづく自分が小者のように感じられて、今はどうしようもなく自己嫌悪だ」
「アナタを慰めるのは癪ですけれど、わたくしだって似たようなものですわよ。先日アルトルージュを前にした時と言い、わたくしはこんなに格好悪い女だったのか、なんて……」
 苦笑し合い、二者は小者の矜持を振り絞ってゴジラを睨めあげた。向こうはこちらを見てさえいない。意識などしているはずもない。その屈辱を、そのまま認めてしまえるほど素直な二人ではなかった。
「それでも俺は、ゴジラを倒す。ヤツは……姫君のためには絶対にここで殺しておく」
「……フィナ」
「エレキング! アントラー!」
 命令はない。ただの叱咤だ。
 だが動けぬ木偶の坊のまま薙ぎ倒されてしまうよりは、叱咤されてがむしゃらに動いた方がまだマシというもの。
 エレキングの金切り声が響き、アントラーは巨大な顎をカチ鳴らした。巨大な二頭が己を鼓舞する様は、それだけで周囲を押し潰さんばかりに激しく圧迫した。
 そして、二頭は強大な怪獣王に再び挑み掛かった。



 エレキングの長大な尾が霧を散らしながら、音速に迫る速度でゴジラへと迫った。幾つものビルが弾き飛ばされるも、勢いはとどまるところを知らずまだダメージの残る巨体を打つ。
 インパクトの瞬間、大地が大きく揺れた。
 野太い両脚と尻尾でしっかと大地に根を下ろしたゴジラは、エレキングの尻尾に一歩たりとも退くことなくその場で耐え、舐めるなとばかりに一鳴きした。
 しかしそのままでは終わらない。エレキングは電流の迸る尻尾を鞭のように振り回し、めったやたらにゴジラを打ち据えていく。打撃と電撃の相乗攻撃は、空中に無数の轟雷を発生させながら高速で繰り返された。
 巨大な乱舞は冬木の市街を滅茶苦茶に破壊していった。十年前の災害を乗り越えようやく復興を遂げた新都が微塵と砕けていく様が、皮肉にも霧が晴れていくことで否応無く視界に入り込む。それは先程芽生えたちっぽけな希望を再び踏み砕くには充分過ぎた。
 さらにポツリポツリと、人集りが増えていく。
 ただ怪獣が歩くならば兎も角、怪獣同士の戦闘が頭上で行われればシェルターと言えども確実な安全など保証出来たものではない。先程よりもさらに多くの人々が地上に顔を出し始めたのも無理からぬ話ではあった。
 何が起こっているのかもわからぬまま、地下に閉じ込められて死ぬのを良しとしない人間は少なくはなかった。
 果たしてそこで彼らが目にしたのは――
「……ゴジラ」
 一方的に攻撃されるゴジラの姿だった。
 十年前、自分達の街を破壊し尽くしたあの怪獣王が、満足に抵抗も出来ぬままやられているのだ。恐怖に泣き崩れる者、絶望に打ち拉がれる者は勿論、中には再来を畏れるよりも先に、溜飲を下げる者も多かった。
 だが、しかし。
「……ゴジラが」
 視線は、釘付けだった。
 皆、ゴジラを見ていた。攻めているエレキングを見ている者は僅かにしかいなかった。ゴジラが敗れれば、そのままエレキングとアントラーがゴジラ以上の脅威となって立ち塞がるにも関わらず、また同様に少し離れた位置で暴れているデットンに注意を払う者も殆どいなかった。
 ゴジラの低く唸る声が大地を揺らした。
「ヒッ!?」
 今の今まで、やられているゴジラを見て薄ら笑いを浮かべていた男はそれだけで腰を抜かしていた。
 エレキングの猛攻は止まらない。それどころか勢いを増し、激突する音も重くなっているにも関わらず、ゴジラは唸り続け、やがて咆哮をあげた。
 天を劈くどころか、冬木そのものを爆ぜさせ、残っていた霧全てを吹き散らすかのような凄まじい咆吼だった。
 人々は、見た。
 エレキングの尾による乱打を受けながら、猛然と前進するゴジラのあまりに度外れた威容を。
 攻撃が軽いはずはない。ほぼ同程度の重量の相手からの、おそらくは全力の打撃なのだ。
 エレキングの目の部分から生えたアンテナがキュラキュラと頼りなさ気な音を立てて廻った。獣だからこそ、反応は敏感だった。なのに星側の尖兵として遣わされた巨体は逃げるという選択が出来ない。金切り声をあげながら、必死に尾を振るい続けた。
 人々の目にはエレキングはどう映っていたのだろう。
 確かに、人類に対し友好的ともとれる行動をとった怪獣の記録は過去に無かったわけでもないが、敵の敵だから味方という単純な考えが通用するほど浅はかな存在とは違う。結局は巨大特殊生物災害という観点で見ればゴジラにせよエレキングにせよどちらが勝っても特に変わりはしないのだ。
 それでも、ゴジラの勝利という事実は冬木の人々の心を打ち砕く。それはあまりにも重すぎるのだ。
「い、いや、もう一体が!」
 エレキングへと突き進むゴジラに襲いかかったのは、言うまでもなくアントラーだった。巨大な顎がゴジラの胴体を挟み込み、両断してやるとばかりに強烈に締め上げていく。鋸歯が黒い外皮へと喰い込み、ギチギチと耳障りな音が響いた。
 昆虫型の怪獣というのは、手足が細いようでありながら見た目に反してパワーは強い。アントラーも同様、パワーだけならばエレキングを軽く上回り、体重差を補ってなおゴジラにも迫るだけのものがあると、少なくともフィナなどはそう踏んでいた。
 そんなアントラーの突進と、大顎の締め上げを――
「ウソ……だろ?」
 誰かが、ポツリと漏らした。
 嘘だと思い込みたかったのは、シェルターを出て、戦いを見つめていた全ての人々の共通意見だった。
 ものともしない。
 アントラーの突撃を、挟撃を、踏ん張りを、全てものともせずにゴジラは進んでいた。アントラーの関節部が軋み、甲殻にヒビが入り始める。
 アリジゴクの悲痛な鳴き声というものを、居合わせた者達は初めて耳にすることになった。
「ひ、いぃいいいいっ」
 耐えきれずしゃがみ込んだ老女は、それでも見上げていた。ゴジラがアントラーの大顎を両腕で掴み、無理矢理にこじ開けていくのを。挟み込む力は拮抗すら出来ず、つい今し方までゴジラの胴体を締め上げていたはずのそれはすぐさま可動の限界まで開かれ、破滅の音が聞こえるまではそう時間はかからなかった。
 メキ、メキ、と。頑強な大顎が、へし折れていく音。
 アントラーは絶叫していた。人間の声帯ではとても真似出来ない叫びが、ようやく顔を覗かせた晴れ渡る空に響き渡った。
 大顎が引き千切られる音が聞こえたのとほぼ同時に、アントラーは仰向けに倒れていた。泡を噴き、痙攣している姿はもはや戦闘の継続などどう見ても不可能だった。
 しかしまだ終わらない。倒れているアントラーの腹に、へし折られた大顎が無慈悲に突き立てられた。
 今度こそ、断末魔の悲鳴が響いた。
 夥しい量の体液を折れた顎部と腹部から溢れさせながら、アントラーはじたばたと藻掻き続けた。藻掻く頭部を、ゴジラの野太い脚が踏み潰し、粉々にした。





◆    ◆    ◆






「ようやく……霧を払った先に見えた現実がこれとは。一難去ってまた一難どころの話ではありませんね」
 一年前の、ワラキアとの戦いのあらましを凛達に語ろうとしていた矢先、シオンは、ゴジラによってアントラーが一方的に虐殺されたのを見て苦々しく言い放った。
「エネルギーの補給を一度もしていないなんて、嘘みたいだな」
 目覚めて以降、連戦に次ぐ連戦。フィナの結界の中で怪獣の群れとやり合っていたとはとても思えないゴジラの様子に、志貴は怪訝そうに眉を顰めていた。
 ゴジラが復活したあの日から、放射能エネルギーを補給したという情報は入っていない。もっとも冬木に突入して以来情報を遮断されていたのだからその間に補給をしたという可能性も無くはなかったが、ゴジラの状態を感知出来る未希がそれを掴めなかったというのも考えにくいことだった。
「いったいどれだけの生命力を秘めているというのか……」
「十年前と、同じですね。この、光景は」
 シオンの呟きにかぶせるようにして、セイバーは感情のこもらない声で言った。十年前、第四次聖杯戦争の最後に聖杯によって呼び寄せられたゴジラの大破壊を、この中でもっとも間近で見ていたのはセイバーのはずだった。
「被害を少しでも減らそうと、私はゴジラの前に立った。……いいえ、この場合は“立ったつもりだった”と言った方が正しいでしょうね。結局、私の力は何一つ通用することなく、足止めすら出来なかったのですから」
 つい今し方サドラを倒したとは言え、ゴジラの壮絶な力を目の当たりにすれば勝利の実感などそれこそ今の空のように雲散霧消してしまう程に儚いものだった。
 直接相対した記憶が、肌が、魂が覚えているのだ。ゴジラの強大さを。
「ただの生物であるならば、ミサイルを撃たれ、レーザーで焼かれ、私達の宝具による攻撃を喰らい続ければ、いつかは蓄積したダメージで倒れる。倒れなければおかしい。なのに、ヤツは倒れない。全身を焼かれようと斬られようと、止まることなく街を破壊し続けた。あの忌まわしい、戦いとも呼べぬ蹂躙されるだけの時間はまさに悪夢のようでした」
 凛と桜は、新都が燃えていく光景をはっきりと覚えていた。当時の記憶が無い士郎も薄ぼんやりとではあるが、紅蓮の炎に包まれる街、天に舞い上がる火の粉と文明の燃え滓、粘土細工のように次々と崩れていく建築物などが頭の片隅に残っていた。
 地獄の記憶だ。
 ゴジラという一個の生命が作り出したこの世の地獄が、今また冬木に具現しようとしているのだ。
「……本当に、エネルギーの補給をしてないんでしょうか?」
 ポツリと漏らしたのは桜だった。
「ええ。少なくとも二日、いえ三日前の時点では原発がゴジラに襲われたなどの被害報告はありませんでした。世界中が混乱していますから確実とは言えないまでも、未希のESP能力でもゴジラの消耗は確認済みです」
 答えながらシオンも何か引っかかることがあるのか、顎に手をあて思索に耽る。フィナの固有結界内でどのような戦闘があったのかはわからないが、結界が解けた時点ではゴジラは明らかに劣勢だった。それはまず間違いなく消耗からくるものだったはずだ。なのに今ではあっさりと逆襲に転じている。
 ゴジラは実体を持たない幻獣の類ではない。肉体を持つ、現実の生物だ。世界中の人間が抱く恐怖や畏敬の概念は、英霊に対する信仰心や知名度のように直接ゴジラに力を与えるものではない。シオンの中の学者気質が、いかにゴジラが出鱈目な生物であると言ってもどうしても納得いかないのだ。
 何かしら理由はあるはず。ゴジラが、満足にエネルギーを補給もせずに戦い続けられる理由が――
「ひゃっ!」
 数百メートル離れた距離に雷が落ち、誰かが悲鳴をあげた。凛か桜か、ともあれ距離が距離だ。シオンも分割思考の全てを対ゴジラに割り当ててはいたものの、落雷には腰が引けていた。
「す、凄い雷だな」
「はい。『月光雷竜』エレキング。その攻撃力と範囲はアルトルージュが現在使役している怪獣の中でもトップクラスです。何しろ、サドラの霧を媒介にしていたとは言え、一都市全体を高威力の雷の結界で覆い尽くしてしまうほどの力ですから」
 士郎とセイバーのやりとりに、シオンは改めてエレキングを見た。相棒のアントラーをやられてしまい、迫り来るゴジラへと必死に放電攻撃を繰り返している。近距離戦では到底勝ち目がないと悟っているのだろう。
 ゴジラにばかり気を取られてしまっていたがエレキングのエネルギーも相当なものだ。単一生物がこれだけの電力を発生させ続けているのだから、怪獣というのはつくづく常識外の生き物なのだと思い知らされる。
「しかし……やはり怖ろしいのはあの電撃を意に介さず猛進し続けるゴジラ……――んっ!?」
 不意に、シオンは何事か閃いたかのように頭を垂れた。
 ゴジラは、エレキングの攻撃を避けようともせずに、ひたすら前進し続けていた。





◆    ◆    ◆






 エレキングは生き延びるために必死だった。
 星側の神獣だとか、アルトルージュの命令だとか、そういったものではなく、単純な生存本能で雷撃を放ち続けていた。
 アンテナがキュルキュルと忙しなく回転し、口の部分からは三日月型の雷弾が連続で射出される。さらに全身から雷を放電させ、サドラの霧無しに自力だけで周囲に結界を張り巡らせていた。
 ゴジラは近付いてくる。熱線を吐く気配はない。ひたすら猛然とエレキングに向かって直進してくる。
 それは、明確に恐怖だった。
 生物である以上、怪獣も恐怖を感じる。死を忌避し、なんとしてでも生き延びようとする。今のエレキングにとって、ゴジラとは即ち死そのものだった。自分を壊し、滅ぼす、最悪の存在だった。
 星からのバックアップがあるとは言えエレキングの力も無限ではない。こうもがむしゃらに雷を放ち続けていてはガス欠になるのは時間の問題にも関わらず、死への恐怖が勝り突き動かした。
 雷光が迸る。
 エレキングは、気付かない。結局、最期まで気付けなかった。
 長い尾がゴジラの全身を締めつけ、最大出力で電流を流す。たとえ怪獣の生命力、肉体の頑強さを持ってしても到底耐えきれない量の電流がゴジラの全身を駆け巡った。
 もし――
 ゴジラに、笑うという表現が可能だったなら、盛大に笑っていただろう。哀れなエレキングの抵抗を。
 それどころか礼を言っていたかも知れない。
 ゴジラは避けなかった。
 エレキングの電流を使用した攻撃を、たとえかわすことが可能なものであっても全て受けきって、今またこうして最後の足掻きとも言える放電を全身で喰らっていた。
 ――喰らって、いたのだ。
 文字通り。
 エレキングは果たして気付いただろうか。
 ゴジラに引き千切られた尾に、既に電流が流れていなかったことに。正確には、流したはずのものが全てどこかへ消え去ってしまっていたことに。
 金切り音が悲しく木霊した。
 既にあらかた霧の晴れた冬木の空に、鮮血が舞った。
 尾を引き千切られたエレキングが、痛みに身悶えながら懸命に逃げようとしていた。が、逃げられない。千切られた尻尾の付け根にゴジラの指がしっかりと喰い込んでいた。
 そのまま、エレキングは抵抗らしい抵抗も許されず転ばされ、ゴジラの蹴りをまともに腹に喰らって藻掻いた。
 アンテナが廻る様が人々の目には酷く悲しげに映った。
 キュルキュルと、まだ死にたくないのだと必死に訴えかけるかのように廻るアンテナを、ゴジラが無慈悲に踏み潰す。相応の硬度はあったのだろうアンテナも、6万トンを超すゴジラの体重で踏み潰されてはパキリと呆気ない音をたてて砕けてしまった。
 アンテナを失ったエレキングは、なおも悲痛に泣いた。その口目掛けてゴジラの爪先が凄まじい勢いで蹴り込まれていた。
 完全な虐殺だった。
 エレキングはアンテナを廻すことも鳴くこともかなわず、両手足を動かし藻掻いた。そこにゴジラの蹴りが数発叩き込まれた。
 口だったはずの場所から血泡が漏れる。既にエレキングからは生命力は感じられない。放っておいても死ぬだろう。
 その首を、ゴジラは踏み砕いた。
 断末魔の叫びすらなく、エレキングは絶命していた。夥しい血が新都の大地を赤く染め抜いていくのを、地上に出ていた人々は黙って見ていた。目を離すことも出来なかった。
 まだ残っていたものなのか、エレキングの身体からはバチバチと電気が漏れ出していたが、それもすぐに無くなった。
 否、喰われた、と言うべきか。
 充分に腹を満たしたとでも言いたげに、ゴジラは咆哮をあげた。
 エレキングの死骸を踏みにじりながら、この世の全てを見下すかのように、その咆哮は響き渡っていた。





◆    ◆    ◆






「やはり……ゴジラはエレキングの電流からエネルギーを補給していた……だから攻撃を避けようとしなかった!」
 ゴジラを睨め上げながら、シオンはギッと奥歯を噛みそう吐き捨てた。気付くのが遅すぎた。気付いたところで何かが出来たとも思えないが、少なくともシオンはまるで自らの失策だったかのように拳を握り締め、全身を震わせ俯いた。
「電気を……そのまま喰ったのか?」
 志貴の問いに、シオンは俯いたまま答えた。
「電気そのものをエネルギーとして吸収出来るという情報はありませんでした。過去に自衛隊が何度か高圧電流でゴジラを撃退しようと試みたことがあり、最初のうちはそれなりに効果もあったとは資料で読みましたが……」
「最初のうちって……つまり、繰り返しているうちに効果は」
「ゴジラの、G細胞の持つ自己進化能力は異常です。私も怪獣を研究していたのでわかりますが、ゴジラのそれは様々な衝撃に対して即座に耐性を身につけてしまう。電気に対しても耐性があるからあのように無防備に突っ込んでいったのだろうとは思っていましたが、まさか吸収まで可能だったとは……いえ、もしかすると戦闘中にそのように変質したのかも知れません」
「そ、それじゃゴジラはもう万全ってこと!?」
 ゴジラの襲撃を利用しようと提案した当人でありながら、改めてその絶大な力を目の当たりにした凛は狼狽していた。利用したつもりが、あの力は下手をすればアルトルージュ達を一掃しさらには冬木を、日本を、そして世界すら滅ぼしかねないものではないかという危機感が焦燥となって胸を焼いていた。
「いえ、あくまでゴジラの主なエネルギーは放射能のはず。電流から一時的に補充したのだとしても、万全ではない……そう、思いたいところですが」
 分割思考を総動員してシオンはゴジラの、そしてアルトルージュ達の動きを予測しようとしていた。この場に残る怪獣はすぐ近くで暴れているもう一体だが、ゴジラはそちらは気にすることなく既に柳洞寺へ向けて動き出していた。十年前に自らを呼んだものに、果たしてどのような執着があるのかゴジラならぬ身には到底理解出来ないことだ。
 ただ、論理的思考ではないと自覚しつつも、シオンはゴジラが抱く感情が何となくわかるような気がした。
 未希が常々言っていた、ゴジラから発せられている激情。
 かつて自分を呼び寄せたものを、ヤツは許せないのだ。
 この地球でたった一つの生命であるが故に。ゴジラはあまりに強く、あまりに孤独で、あまりにも暴威だった。
(戦闘の最中、雷への耐性どころかエネルギーを吸収する体質にまで進化したのだとすれば、我々はまだゴジラの力を読み誤っている。人智の及ぶところではないという意味合いでは、ヤツの方がよっぽど神獣と呼ぶに相応しい存在なのかも知れませんね。……いや、神ならぬ、まさに魔王か)
 胸騒ぎがした。
 アトラスの錬金術師だった自分が、そのような曖昧なもので未来を予感するなど滑稽だ。
 そう。予測ではなく、予感だった。
 余裕など無いのに、シオンはどうしても気になってしまい分割思考の一つをその予感へとあてていた。
 ふと、思う。
 ワラキアならば――ズェピア・エルトナム・オベローンであったならばゴジラをどう読んだだろう。避けようのない破滅の未来に絶望し、答えの無い未来こそを望んだあの男の紅玉のような眼に、破滅そのものであるゴジラはどう映ったことか。
 聞いてみたいだなどと、笑い話だ。
「……まずは未希達ともう一度合流しましょう。彼女ならもしかすれば今のゴジラの回復の度合いがわかるかも知れない。出来ればゼロともなんとか合流したいところ――」
 言いかけて、シオンは照りつける陽射しに目を細めた。
 霧に包まれていたせいでわからなかったが、今日はどうやら晴天、それも真夏日であったらしい。
 暑さはあの夏を思い出させる。
 アルトルージュの能力についても、凛達に説明しがてらもう一度よく考え直してみる必要があった。ことワラキアに関することである以上、シオンは必要以上にナイーブになってしまう。自認しながらも制御出来ない、それはシオンの傷だった。乾いた瘡蓋の下で、まだグズグズと膿んでいる傷だ。
「ミキのESPでゴジラの状態を確認して……それからどうするのです? このままでは放っておいてもゴジラだけで大聖杯を破壊、アルトルージュ・ブリュンスタッド達を壊滅しかねませんが……」
 ライダーの言うことも一理あった。利用するどころかゴジラだけで全てケリがついてしまいかねない。が、そう言っておきながらライダーと、そしてセイバーの表情は険しかった。
「……ゴジラのあの力を見てなお、アルトルージュを侮れないというのはわかります。どちらにせよ楽観は出来ません」
 地響きを立ててゴジラは新都を後にしようとしていた。置き土産とばかりに大きく振るわれた尾が街を破壊していく様子を見て、今にも挑みかかっていきそうな士郎の手を握り締めながらセイバーはシオンの決断を待った。凛も口を挟むつもりはないらしい。
 何より――
「……」
 シオンは、何も言わない志貴を一瞥した。
 確証はないが、アルトルージュが出張っている以上もしかしたらアルクェイドも一緒にいるかも知れない。ならばゴジラによって彼女達がただ壊滅させられる事態はなんとしても防ぐ必要がある。
 誰のためにか。
「……ふ、ふ」
 ナンセンスな己の思考にシオンは自嘲し、情けなく顔を歪めた。
 なんという未熟で、愚鈍で、手の施しようのないくらいに情けない女なのか。それでも、アトラシアの名を捨てた時からもはやそんな女としてしか生きられないのは自覚済みだった。利己的な自分を今さら否定したところで仕方がない。
 誰かのためにと言いつつも、結局は自分のためなのだ。そう考えなければ哀れすぎると思えるくらいには、自己憐憫の情も持ち合わせていた。
「もうすぐ外からの援軍も来てくれるはずです。今は、ゴジラの侵攻に合わせて私達もアルトルージュの元へ向かうことを考えましょう。……決戦です」
 シオンの言葉に、誰もが静かに頷いた。





◆    ◆    ◆






 柳洞寺地下大空洞の最奧。
 メディアは、大聖杯復活のための最後の儀式に取りかかろうとしていた。最後とは、要するに中枢システムの代替品であるイリヤを組み込む作業のことだ。
 もっとも、組み込むと言っても機械的にパーツをはめるような作業ではない。この二日間で大聖杯用に調整したイリヤの回路を魔力的に接続さえしてしまえば大聖杯は復活だ。そしてアルトルージュの魔力がそこに合わされば、壊れた願望機はまさしく破滅の杯となって起動する。
 人類は、滅ぶだろう。
 アルトルージュの怖ろしさを間近で感じ続けたメディアにとってそれは確信だった。
 魔女だの、反英霊だのと呼ばれようとも自分は所詮ただの人の成れの果て、愛する男と一目再会したいがために動く哀れな一人の女に過ぎない。
 アルトルージュは、違う。違うのだ。
 人間を超越しただとかそんな安易なものではない。人間など彼女を計るには最初から勘定に入れていない、入る余地がないのだ。
 しかし、だからこそメディアは眉を顰める。
 二日前からアルトルージュの様子がおかしかった。
 意識を奪われ人形のようなイリヤを抱き締めたまま放そうともせず、彼女は震えていた。時折啜り泣きながら、一心になにかの恐怖に抗おうとしているように見えた。
 そう、恐怖だ。アルトルージュ・ブリュンスタッドが人間の感情をこうも強く顕しているのは、初めて見ただとかそれ以前に違和感があった。これではまるで人間の少女のようではないか。
「怖れ、ね」
 自分にとっての恐怖を思い出し、メディアは苦笑した。
 怖ろしいものなど幾らでもあった。裏切りの魔女として人々から怖れられ蔑まれ、忌むべき悪名のみがこうして後世まで残り英霊とされている身には、世界など負の感情で満ちている。
 ここは寒いなとメディアはローブの裾を握り締めた。
 温めて欲しかった。温もりが欲しかった。たとえこの世界が滅びる前の刹那の再会に過ぎないのだとしても、逢いたかった。
 そのためなら裏切りもしよう。人類そのものを。
 最終工程がまた一つ進んでいく。アルトルージュとイリヤの相性は良いようだ。二人の接続自体はなんら問題はないだろう。
 果たしてアルトルージュは何を望むのだろうか。何を望めば人類を容易く滅ぼせるだろうか。
 ただ滅べという抽象的な願い方では効率が悪い。かといって物理的なものを望むくらいならアルトルージュの現状の戦力で時間はかかっても人類を滅ぼすには充分なはずだ。
「……読めるわけがないわね」
 苦笑し、新たな路を開き刻む。
 と、その時だった。
「――ッ!?」
 ゾワリ、と。
 目に見えない闇の手でメディアは全身を撫でられたかのように錯覚した。いや、果たして錯覚だったのだろうか。
「い、今のは……っ」
 杖を振り翳し、反射的に身構える。少し離れた位置では黒騎士リィゾが同じように大剣を構えていた。
「リィゾ=バール・シュトラウト! 今、何が――」
「ぬ、うぅ……姫様」
 メディアの言葉など聞こえていないかのように呟いたのは確かに姫というアルトルージュを指す言葉だった。
 いったい彼女に何があったのか、メディアが考えるよりも先に第二波が、きた。
「は、……ぁ……ッ」
 濁流としか表現出来なかった。
 黒い汚泥のような濁流が全身を撫でた。聖杯から流れ出る泥とは似て非なるものだ。汚染する類のものでは無いようだったが、それでも激しい嘔吐感にメディアは膝を突いた。
 動悸が激しい。脂汗で全身がグッショリと濡れていた。
「姫様!」
 リィゾの叫びが聞こえ、メディアは顔だけをそちらに向けた。
 闇が蠢いていた。形を成した闇が奇怪な音と魔力を溢れ出させながら。その形状はネロ・カオスとなり、呀となり、言峰綺礼となり、そして葛木宗一郎の形となって、その後も形状の変幻流転を繰り返した。
 待ち侘びたはずの葛木の姿に喜ぶよりも先に、メディアはその禍々しさに恐怖した。
 闇の中心には、アルトルージュが立っていた。傍らには相変わらず抜け殻のようなイリヤを連れている。
「……きた、よ」
 アルトルージュは、泣いていた。
 ただでさえ紅い眼をさらに真っ赤に泣き腫らし、ガタガタと震えてイリヤを抱き締めている。尋常な様子ではなかった。
「い、いかん! まだ――」
 取り乱した様子のリィゾが近寄ろうとするも、ネロのような闇が邪魔で近付けないようだった。
「わたしを、こわしに……あいつが、きた……す、すごく、おこって、まきちらして……あ、ああ……こ、わい……こわい、よぉ」
「きゃああっ!」
 急に大聖杯が発光し、メディアは弾き飛ばされた。
 まだ起動式は立ち上げていない。大聖杯は修理途中の不安定な状態のままだ。
 そこに、アルトルージュは歩いていく。
 止めなければ不味いと、メディアは思った。どうしてかはわからなかったが、それは彼女の中の、ヒトとしての本能だった。否定しようにもしきれない、残された人間の部分だった。
 しかし無情にもメディアは動けない。彼女の腕は捕らえられていた。捕らえているのは宗一郎だった。
「あっ」
 アルトルージュが、泣きながら大聖杯に触れる。
 瞬間、大空洞全体が震えていた。
 メディアは、静かに瞳を閉じた。








〜to be Continued〜






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