Futura
かつて、異なる時空でインキュベーターは言った。 『この国では、成長途中の女性のことを、少女って呼ぶんだろう? だったら、やがて魔女になる君たちのことは、魔法少女と呼ぶべきだよね』 ――と。 なるほど、理屈の上では確かにその通りだろう。 少女達は銘々に多感な思春期を過ごし、鮮やかに彩られた青春時代を経ることによって夢見がちな少女期に別れを告げ、やがて蛹から蝶へと羽化するかのように“女”へと変わる。そこに“魔法”を添えるか否か、知ってしまえば「ああ、なるほど」と誰もが納得してしまいかねないその事実に、果たしてどれだけの少女達が気付くことなく哀れ異形の怪物と化していったのか。 もっとも、そんな暁美ほむらの想起するところの“魔女”は今のこの世界には存在しない。魔法少女達の絶望の先に至る成れの果ては、一人の少女の願いによって今後永久に生まれ出ることは無くなった。 魔法少女が魔女になる――その悲劇の因果は覆されたのだ。 覆された……のだが。 「けどなぁ。今のあたしらをどう呼ぶかって言ったらやっぱ“魔女”しかねーんじゃねぇの?」 「それは……そうでしょうけど」 佐倉杏子のどうにも投げやりな返答に、ほむらは皿に並べられたクッキーを不服そうに一囓りし、コーヒーを啜った。 焼きたてのクッキーは文句無く美味い。コーヒーも、紅茶と比べればさして力が入れてあるわけでもないが、近所にあるチェーン店の苦いだけのエスプレッソとは比べるのも馬鹿馬鹿しい。客の入りの少ない時間を見計らってこうして気軽にティータイムを楽しめるのは、間違いなく喫茶店員の役得だろう。 「でも、やっぱりニュアンスの違い、とでも言えばいいのかしらね。魔法少女と魔女ではあまりにイメージに齟齬が――」 「じゃあ開き直って堂々と『魔法少女暁美ほむら(25)です!』って名乗れるか? ちなみにあたしは無理だ。ぜってー言いたくない。円環のお断りだ」 早口に捲し立てられ、ほむらは渋面した。 別に異を唱えるつもりはない。杏子の言う通りだと頭ではわかっているし、ほむらもまさか今の年齢になって“魔法少女”と名乗れるような鋼の神経は持ち合わせてはいない。いないのだけれど……やはりどこか釈然としないものがある。 何しろ、魔法少女と魔女について気の遠くなるような時間を繰り返した記憶を持つほむらなのだ。 宇宙が再編される以前の出来事について、この十一年あまりほむらはキュゥべえ以外には殆ど話してはいない。その記憶はどこまでいってもほむらだけのものであり、誰かと共有出来るものではないからだ。真剣に話せば杏子達は信じてくれるかもしれないが、それはほむら個人を信じただけで本質的な理解には及ぶべくもない。誰からも理解も認識もされない事実は結局は妄想の類として片付けられてしまうのがオチで、ほむらはそれを何よりも厭うていた。 「そりゃお前の気持ちもわかるけどさ。確かに、いい歳した女三人並んで『魔女です』ってのも痛いよ。魔法少女を名乗るのとは別種の痛さがあるのは事実さ。けど他になんか良い呼び名なんて、あるかい?」 一方、ほむらと同い年となる杏子はあくまで一般的な意味合いに於いての魔法少女と魔女という言葉の定義について論じているのだから、二人の意見が食い違うのも至極当然なのだが、ほむらとしては“魔女”と呼ばれるのにはどうしても拭いがたい抵抗があるのだ。 「別に痛いから反対しているわけではないわ。……いえ、痛くないわけでもないけど、でも違うのよ。ええ、違うの」 「そんな風にぼかされてもなぁ。理由言ってもらわなきゃわかんねーって」 パキリ、と音を立ててクッキーを噛み割り、杏子は苦笑していた。 よくよく考えてみれば、ほむらが経験した数多のループの中で、杏子が魔女化したケースというのはついぞ記憶に無い。よほど絶望から縁遠かったというべきか、そんな彼女の精神の強靱さをもっと素直に褒め称えるべきか。ともあれ、再編前世界の記憶を抜きにしても魔女なんて字面からはあまり良いイメージがしないものを、まったく気にする様子も無いのはそれが杏子の根っからの性情なのだろう。 「ならせめて……そうね、ウィッチだとか、ソーサレスだとか」 「いやいやいや、横文字の方がねーだろ。……ん? でも待てよ、今まで気にしたこと無かったけど、外国だと魔法少女ってなんて呼ばれてんだ?」 「マジカル☆ガールよ」 平然と言い放ったほむらの前で、目を点にして杏子は静止していた。 「マジカル☆ガールよ」 もう一度繰り返してみても動き出す気配は無い。 「……まぁ、予想通りの反応だけどね」 数秒後、我に返った杏子はその場で地団駄を踏みながら爆笑しだした。 「まんまじゃねーか! まんまじゃねーか!」 「まんまよ。直訳よ」 「直訳なら☆はいらねーだろ!?」 「きっと欧米的なセンスよ」 初めて目にした時はほむらも唖然としたものだったが、米国人的に星はきっと星条旗を意味するだとか、アメリカン・アイデンティティーのようなものがあるのだろうと勝手に納得……と言うより深く考えるのはやめていた。 「ちなみに魔女は?」 「ウィッチよ」 少なくとも再編後は、辞書に載っている通りにそうであるはずだ。 再編前の世界では『少女から女になる』というインキュベーターの悪辣なセンスによって、“マジカル☆ガール”から“マジカルレディ”といった具合の呼び方が適用されていた。その辺り、やはり根底から事情が異なる。 「だから私としては今後は世界共用ということでウィッチで構わないと思うのだけれど、貴女は何が不満なの? 英語嫌い? それともアンチインターナショナリゼーション?」 「不満、ってか……うーん。英語嫌いってワケでも無いしそもそも横文字使っただけで国際化とかそんな事考えちゃいないけど、最近のさぁ、猫も杓子もなんでもかんでも横文字にしたがる風潮があんまり好きじゃないんだよ。日本語の文化破壊に繋がるってーか。もっと日本人であることをさ、大事にしたいじゃん?」 「……元教会の娘の言葉とも思えないけど、言いたい事はわかるわ」 言ってから、ほむらは自分のコーヒーと杏子の紅茶を見比べて眉を顰めた。 「私達ももっと緑茶を飲むべきかしら。茶菓子も団子や饅頭にして」 「お、いいねぇ。マミが泣きそうだけど。あー……なんか八つ橋とか食いたくなってきた。あんこ食べたい、あんこ」 「それはギャグで言っているの? ……まぁともかく、魔法少女の衣装もあれよね。もっと日本らしく着物や武者鎧をイメージするとか」 「てーと武器もアレだな。あたしの槍は蜻蛉切みたいな」 やいのやいのと盛り上がりながら、ほむらは弓道着や胸当て、鉢がねや武者籠手をベースに大弓の弦を引く和風魔法少女な自分をイメージしてみた。 (……悪くないわね) 自分の鴉羽のような黒髪には、確かに和装はよく似合う。杏子も赤銅色の鎧武者姿などは存外はまりそうだ。 「思ったより私も貴女もピッタリくるわ」 「だなぁ。じゃあ、マミは……」 「やっぱり大量の火縄銃じゃない?」 想像してしまったらしく、杏子はまたも盛大に噴き出した。 「必殺技は大筒を使って『帝炉・風否亞麗』みたいな感じね」 時は戦国。勇猛にして果敢なる伝説の武田騎馬軍と長篠にて相対したたった一人の巴マミは大量の火縄銃を一人ぼっちでバンバンバンバン撃ちてしやまん。数千対一の決戦はそれでもマミ有利に進み、追い詰められた武田騎馬隊へ向けてついに発射される今必殺の、帝炉・風否亞麗―― 「ぶあっはははははははははははははは!! ひー、ひ、ひひぃー……っ」 勢いよくテーブルを叩きながら、杏子は完全に過呼吸で突っ伏していた。ほむらも自分と杏子のカップを持ち上げて避難させつつ頬をヒクヒクと痙攣させながら必死に耐えている始末。 そうして、マミの一人長篠合戦に一頻り大爆笑後。 「ひ、ひー……は、あー……はは。やっぱ妙ちくりんな名前と言えばマミだよなぁ。いっそ魔女以外の新しい言葉もマミに考えてもらうか? あいつだったら嬉々として『そうねぇ、じゃあこんなのはどうかしら?』みたいな感じで衝撃的なのを披露してくれるだろうし。つーわけで、なんか良いアイデア無いかー?」 杏子にそう振られ、カウンターの向こうで食器の整理をしていたマミはニッコリと微笑んだ。 「二人とも、さっきから随分と楽しそうだったわね。……それはそれとして、今の時間はお客様は少ないしお店も暇だけど、せめてもう少し、こう……店員として、何かあるんじゃない?」 店内の温度が、2℃ばかり下がった気がした。 「……やべぇ。おかんむりだ」 「まぁ、あれだけ大笑いしていれば気付かれるわよね」 「お前が変なこと言うからだろ! ……プッ、や、やば……ク、ヒヒ!」 懸命に笑いを噛み殺そうとしている杏子を見つめ、仕方ないわねぇとでも言いたげに溜息を吐くと、マミは再び手を動かし始めた。さすがに本気で怒ったりはしていないようだが、やや憮然としている。 「さて、んじゃ休憩もお終いってことで」 カップに残っていた紅茶を飲み干し、杏子は勢いよく席を立った。皿の上にあったクッキーもいつの間にか全て消失している。 「店長様がおかんむりだし、ゆまが帰って来る前に店の前を掃除でもしてくるか」 最後に一枚食べようとしていたほむらからの恨めしげな視線をヒョイと避け、箒とチリ取りを手に杏子は店の外へと出て行った。 「なら私はテーブルを拭いておくわ。それと補充も……、……マミさん、紙ナプキンの残りって今あるだけだったかしら?」 「あ、ごめんなさい。昨日発注しておいたから明日には届くはずよ。もしかしてもう全然無かった?」 どうだったろう、と記憶を探りながらカウンター内に入り、紙ナプキンやシュガースティックの在庫がしまってある棚を確認してほむらは補充分を盆の上に乗せた。 「今日明日くらいはもつでしょうけど、結構ギリギリね。危なかったわ」 「ダメねぇ、この時期は茶葉の方にばかり意識がいってしまって……」 もうじき秋摘みの茶葉の出荷とあってか、マミの意識はそちらへ向きっぱなしとなっていた。もっとも、店主である彼女の紅茶とケーキに対する並々ならぬ拘りと情熱によってこの店は成り立っているので、ほむらとしてもそこに関しては口出しし辛い。さらに付け加えるなら、一度雑貨等の仕入れ発注だけでも自分や杏子が担当した方が効率が良いのではないかとマミに進言し試しにやってみた事もあるのだが、ほむらの場合は必要以上に注文のし過ぎで在庫過多、杏子の場合はケチり過ぎて即在庫不足とあまりにバランスが悪すぎたため、以来発注業務の一切は結局マミの仕事になってしまったという経緯もある。 「でも……難しいわね」 「? 秋茶の品質に問題でもあったの?」 食器の整理を続けながらポツリとマミが呟いたのを聞き拾い、ほむらは今年の茶葉の出来が悪かったのだろうかと小首を傾げた。しかしどうやら違ったようだ。 「ああ、いえそうじゃなくて。……さっきのあなた達の話よ。成長した魔法少女を魔女と呼ぶべきかどうか、みたいな」 「……私としては“魔女”という言葉にはまったくこれっぽっちも良いイメージが無いし、出来れば勘弁願いたいの」 一見無表情なようで、その実よく見ると眉間に微かに皺を寄せているほむらの様子から余程嫌なのだろうと察したマミは、さて何か良い案はないものかと手を休めることなく思案した。 「そうね。“魔法少女”なら正義のヒロインかも知れないけど、“魔女”だとどうしても悪の魔法使いだとか闇に堕ちた魔導師的な響きがあるものね。一風変わったところだと軍師系の知恵者だとか電子戦のプロフェッショナルだとか――」 「そういう意味ではなかったのだけれど……まぁ、いいわ。ともあれ、他に何か呼び名があれば……杏子の言う通り新しく考えるのも手ね」 しかし日本語というものも、自由度が高いようでこれでなかなか、むしろ高すぎるために既存の枠に収まらない新造語や新用法を考え出すのも難しい。 「でも、どうして今さら……ええ、まぁ、これまでも考える機会はそれはあったけど。確かにいつまでも無視してはいられない事ではあるけれど。……そうよね、いつまでも無視してなんて、いられないわよね。……私達、大人なんだし」 「マミさん、無理しないで。ソウルジェムが濁るわ」 この問題に関して、思考の袋小路は無窮の闇だ。迷い込むと抜け出せなくなる危険性がある。せっかくこの歳まで共に生き延びた親友を、生き延びた年月が原因で失いたくはないのでほむらは早めにマミにストップをかけた。 「……大丈夫よ。落ち着いているから」 嘘だ。 つい先日も最近シャワーを浴びて肌が水を弾かなくなったみたいな話を彼女がぼやいていたのをほむらはしっかり記憶している。 かといって直視せず無視し続けていてもそれはいつか大きな反動となって自分達にのし掛かってくるかも知れない。心のケアにも通じる問題として、いい加減正面から向き合わなければならなかったのは事実なのだ。 「だけど本当に、どうして突然そんな話を?」 切っ掛けは些細なことだった。 やや長めに息を吐き、大きく吸い直した後、ほむらはゆっくりと口を開いた。 「……ゆまが、もうすぐ大学受験でしょう?」 「ええ、早いものだけど。私達は中学しか出られなかったから、あの子には高校大学としっかり学生生活を満喫してもらいたいわ」 そう語るマミの顔は初めて会った頃から変わらない母性に満ち溢れていて、気恥ずかしい懐かしさに頬が弛みそうになるのを堪えながら、ほむらはコホンと小さく咳払いして話を続けた。 「昨夜杏子とゆまと三人でパトロール中に、『受験勉強中は魔法少女の仕事は休んだ方が良いんじゃないか』みたいな話になったのよ」 「そうね。今のところ見滝原は魔獣の出現率も安定しているし、新人の魔法少女も育ってきているからゆまちゃんが暫く戦列を離れたところで問題はないわね」 いったいそこから先程の話題へどう繋がっていくのか。食器の整頓も終わり、手を止めてマミが傾聴していると、 「そこで、ゆまが言ったのよ」 充分過ぎる間を置いて、ほむらが肝心の部分を告げた。 「『もうすぐ大学生なのに、魔法少女ってちょっと恥ずかしいよね』……って」 マミの動きが、止まった。 それどころか呼吸や脈さえも止まってしまったかのようにほむらには見えた。 「マミさん! マミさん動いて息吸って! ほらヒッヒッフー! ヒッヒッフー!」 「……っと、大丈夫よ。遠い宇宙の向こうで桃色の髪の女の子が優しく微笑んで手招きしているのが見えた気がするけど大丈夫、マミさん平気だから、うん」 「危うく導かれてしまうところだったわね……」 改めてこの話題に秘められた危険性を再認識し、ほむらは口籠もった。 杏子はあんな性格なので、実際大して気にしてもいないのだろう。ほむらもループを繰り返しすぎたせいか年齢問題に関してはまったく気にしていないわけではないもののそこまで過敏でもない。マミの場合、たった一歳の差とは言え年長者、しかも現状連絡のとれる魔法少女の中では最年長組に属してしまっているので問題の根が深いのだ。 「魔女……魔法少女……魔法少女……魔女……」 再編前の世界と違い、今の世界では魔法少女の寿命は比較的長い。正確には年々延びてきている。キュゥべえに言わせれば、世界の歪みである魔獣の出現そのものが増加傾向にあるためグリーフシードが恒常的に足りるようになってきたのと、そのために長く生き延びたベテランの魔法少女が後進の指導教育を行う余裕が出来た事がやはり理由としては大きいらしい。 他にも幾つか要因はあるものの、再編前の世界を知るほむらからしてみれば、様々な協力体制が確立されてきたこと以上にインキュベーターによる事実の隠匿や詐称が無くなったことと、彼らが契約後もある程度アフターケアに務めてくれていることが最大の理由だろうと、非常に癪ではあるもののそう考えていた。 魔法少女は、今や“大人”に成れるのだ。 今後もこの一見冗談じみた問題は『大人に成った魔法少女』が増え続ける事により深刻さの度合いを増していく可能性がある。 「……はぁ。難しいわ」 スティックシュガーの袋を指でピンと弾きながらほむらが懊悩していると、玄関ベルが鳴り一人の少女が息を弾ませながら店内に入ってきた。 「ただいまー。……って、マミさんほむらさん、どうしたの?」 「……生魔法少女よ、生魔法少女が来たわ」 「ええ、生ね。生ものね」 「え? 何言ってるの? え? 生って……え?」 自分に向けられる二対のジト目に困惑している千歳ゆまの膝上で、現役女子高生の証たる制服のスカートが、開けっ放しの入口から吹き込む悪戯な風でフワリと揺れた。
「……なるほど。歳を経て大人と成った魔法少女をどう呼ぶべきか。……非常にデリケートで、難しい問題ね」 音を立てずカップをソーサーから持ち上げ、馥郁たる紅茶の香りを楽しみながら、美国織莉子はそう言ってホゥッと優雅に息を吐いた。仕草と言い、愁いを帯びた眼差しと言い、そのまま映画のワンシーンにでも使えそうなくらいはまっている。紅茶を淹れることに関しては誰にも負けないと自負しているマミだったが、織莉子ほど紅茶を飲む姿が様になる人物は他に覚えが無い。 「普通に考えれば、魔女なのでしょうけれど……」 チラリ、と織莉子が一瞥した先では、ほむらが愛想の欠片も無く能面のままテーブルを拭いている。 「魔女という呼ばれ方は嫌だ、と」 「余程抵抗があるらしくて……」 完全に無視を決め込んでいるほむらに代わり、カップにおかわりを注ぎながらマミが答える。 「と言うより店長。毎度の事ながらあそこで延々テーブル拭いてる店員は無愛想過ぎやしないかい? ウェイトレスの何たるかを一度しっかり叩き込んだ方がいいよ」 織莉子の向かいに座り、新しく注がれた紅茶にスティックシュガーを五本、ジャムを三杯もブチ込んでズビシッとほむらを指差し唇を尖らせている女性の名は、呉キリカ。織莉子とは見滝原を中心に活動しているベテランの魔法少女コンビで、マミやほむらとも何だかんだで十年来の知己となる。変身後のカラーが織莉子は白、キリカは黒なため、界隈では白と黒の魔法少女として名の通りも良い。 二人が来店すると、決まってほむらはこんな調子になるのだ。 「あー……いつもいつもうちのほむらさんが、ごめんなさいね」 「もう慣れたものよ。十年間、ずっとああしてとりつく島もないし」 「……前世の因縁だもの。仕方ないわ」 ポソリ、と顔も向けずに呟いて、ほむらは今度は特に誰かに使われたわけでもない灰皿を丁寧に磨き始めた。あながち間違ったことは言っていない。もっとも、その理由を知っているのはこの世界ではほむら一人だけなのだが。 「前世の因縁……ね。もしかして、前世では私と暁美さんで一人の異性を取りあったライバルだったりでもしたのかしら」 「え? じゃあ何かい? 前世だと私ことキリカ姫は織莉子とあの無愛想店員に求婚でもされてたって事かい?」 怪訝そうなマミと織莉子に対し、キリカの表情は真剣そのものだった。 「……呉さんはいつでも凄い方向へ思考が直列しているわね」 「幾千幾万幾億幾兆幾京……那由他の輪廻すら超えて私と織莉子は無限にして有限に繋がっているからね。言葉にするのも無粋だけど、私達の絆は久遠の彼方、悠久の地平まで届くんだ。なら織莉子が告白する相手なんて私以外にありえないだろう?」 四半世紀を生きてなおこのキャラ作りは尊敬に値する。最近戦闘中に技名を叫ぶのがなかなか苦しくなってきたマミは、エッヘンと胸を反らしているキリカへある種の憧憬を抱いていた。それは、まるでエプロンに隠された豊かな胸の奥で燻っていたかつての魂が荒ぶる感覚にも似て―― 「……マミさん。今さら見習おうなんて、考えてはダメよ」 「べっ、別に考えてないわよ!?」 溜息混じりに呆れているほむらへと言い訳し、マミは『那由他……那由他の彼方に虚空と散り、逝け……ティロ・エターナメンテ……いえ、エスティンツィオーネの方が……』などとブツブツ呟きながらカウンターの奥へと消えていった。 「……マミさんも、呉キリカも、まだ魔法少女のままで問題無いのかも知れない」 「……今、少し羨ましいと感じてしまった自分がいるわ」 珍しく織莉子と意見が合ってしまったことも気に止めず、ほむらはもう見えないマミの背中を見送り続けていた。 「少女の時間は有限にして有限さ。悲しいけど。とてもとてもとても悲しいけど、……でもね、騙して誤魔化して取り繕うことは出来るんだよ」 悟りきったかのように澄んだ瞳でそう言ったキリカは、実は自分達が考えているよりも遙か高みにいるのではないか――ほむらは、無性にそう思えた。 十年前と比べてスラリと伸びた自身の手足、丸みを帯びた胸やヒップラインを見下ろしてみると、満足のいく部分もあれば、やはり加齢という現実に不満を覚えてしまう女のどうしようもない性によって眉間に皺寄る部分もある。 自分達は、少なくとも外見はもうとっくに大人だ。 断じて少女ではない。 「魔法少女も、こうなってしまうと虚しいわね」 「本当、虚しいものだわ。いっそ成長を止めてしまった方が良かったのかしら」 織莉子の言う通り、その選択肢もあるにはあったのだ。多少の魔力は消耗するものの、魔法少女にとって外付けのハードウェアである肉体はある程度は自由に操作出来る。成長を止めるのも決して難しいことではない。 とは言え、いくら魂をソウルジェムとして身体から取り出していてもやはり精神と肉体というものは密接な関係にある。成長を止める事による『自分が人間では無い』という意識は常時ストレスとして蓄積され、ソウルジェムの濁りを加速させてしまう傾向が強いのだ。さらに、成長しないということは社会的にも一つ所に定住することを困難とするため、非定住が苦にならない性分なら兎も角、大方の魔法少女にとってはやはりそれもストレスの原因となってしまう。 ままならないものだ。 暫し無言のまま、ほむらは汚れの無いテーブルや灰皿を磨き、織莉子とキリカは紅茶のカップを傾け続けた。 と、不意に思い出したかのように。 「そう言えば、暁美さん。今週の土曜はお暇かしら?」 「……デートのお誘いなら断固拒否するわよ?」 織莉子に問われ、ほむらは憮然と即答した。キリカは織莉子がほむらを誘ったことに嫉妬すべきか、ほむらが即断ったことに腹を立てるべきか迷っているらしく、忙しなく表情を変えている。 「フフ。残念ながら、違うわよ。例の案件で、また厚木の方に行ってもらいたかったのだけれど……」 それだけで何のことか得心したほむらは、今度はやや申し訳なさそうな顔で問い返した。 「日曜ではダメかしら? 土曜日は……少し用事があるの」 「用事があるなら巴さんでも構わないわよ」 「今のマミさんではダメよ。頭の中が秋茶でいっぱいだもの」 「ああ、確かに。……なら、そうね」 バッグから手帳を取り出し、スケジュール表と睨めっこをしてから、織莉子は薄く微笑んで軽く頭を下げた。 「日曜でも多分大丈夫。連絡は私からしておくから……暁美さん、お願いします」 その態度はまったく好ましいもので、ほむらは所在なく手の中の灰皿を弄くった。以前の時空における記憶の中でもおよそ最悪に分類される関係さえなければ、織莉子もキリカも特に嫌うような要素は無いのだ。それでもわだかまりを御しきれない自分は本当に年齢通りの大人なのだろうかと自問しつつ、ほむらは灰皿をテーブルの上に置くと一言「わかったわ」とだけ返した。 大人に成った魔法少女としては、もう少し歩み寄るべきなのだろう。けれど根っこの部分で、それはもう全てが“無かった”過去のはずなのに許せないと感じてしまう自分がいる。 そんな風に悩みながら口を開きかけたほむらの頭の中へ、 『ほむらさん、織莉子さん、一般のお客様もボチボチ来始めたから魔法少女の話はいったん終了だよ』 ゆまからテレパシーが飛んできた。 玄関ベルが鳴り、彼女の肩越しに新たに数人の女性客が入ってくるのが見える。 『生魔法少女に注意されてしまったわ』 『生魔法少女に注意されてしまったわね』 『またそれなの!?』 困惑するゆまと、羨ましげに少女を見つめる二人の姿に、キリカは諸行無常と言わんばかりにフッと小さく吐息を漏らした。 「ナマものの消費期限も、限り無く有限さ」
廃墟となった教会をいざ取り壊す段になった時、杏子は愛惜と悔恨が綯い交ぜになった複雑な表情で、それでも涙だけは見せなかった。ただ隣に立つゆまの手を握り締め、グッと何かを噛み締めるようにして、かつて自分の願いが引き起こした希望と絶望の成れの果てが消えていくのを見つめていた。 土地の殆どは市に寄付する形となり、教会跡地には小さな公園が作られた。その一角に、小さな石塔がポツンと立っている。 杏子と、マミとゆま、それにほむらが建てた、魔法少女達の墓標だ。 名も銘文も刻まれることなく、ただ円環の理によって導かれていった魔法少女達を悼むためのそこに、ほむらは一人、毎月決まった日に訪れる。 「今日は少し肌寒いけれど、良い天気ね」 まるでほむらの独白への答えのように、風が漆黒の髪を揺らした。肌寒くはあっても、陽光を含んだ風は心なしか良い匂いがする。 「……さやか」 石塔に花を手向け、ほむらは暫し黙祷を捧げた。 この十一年、美樹さやかの月命日のたびに休むことなく石塔へ通っているのは、ほむらだけだった。マミと杏子も年に一度は訪れてくれるものの、この世界での彼女達にとって、あくまでさやかは数多く失われていった魔法少女仲間の中の一人に過ぎないことが、どうしようもなく悲しい。 四人が共に過ごした時間は濃密で貴重なものだったとほむらは確信しているが、実際には一ヶ月にも満たないのだ。そんなさやかを偲び石塔に通うほむらを、二人はもしかすると気遣っているのかも知れない。マミと杏子の認識ではおそらく自分とさやかは無二の親友とでもなっているのだろうなと考え、ほむらは苦笑した。 正直、仲の良かった思い出は少ない。むしろ目的のため本意で無いながらも険悪な関係となってしまった事の方が多いはずなのに、全てが終わってみればほむらの中に残っていたのは臆病で人付き合いの苦手な自分を何かと気に懸けてくれたお節介焼きなさやかの記憶ばかりだった。 ほむらの側から突き放しさえしなければ、さやかは常に優しくあってくれたように思う。その事にもっと早く気付けていたならという後悔が、こうして足繁く通わせているのかも知れない。マミや杏子と違い、さやかとはもうやり直す機会すら無いのだから。 「この前、ね。マミさんや杏子と、魔法少女に替わる呼び方について話したわ。いい加減、私達も少女なんて名乗れる歳ではないから」 今さらながら、なんともくだらない話だったように思う。大人に成ったというのもあくまで年齢と外見の上での話だ。中身までしっかり成長しているという保証も、また自信も無い。特定の時間さえ過ぎれば誰しもが自動的に大人に成れるというのなら、ループによって人の数倍の主観時間を生きてきたほむらなどとうに大人に成れていたはずなのだ。けれど、きっとそうではない。 そこまで考え、ほむらは天を仰ぎ、ゆっくりと言葉を紡いだ。 「ただ歳のことだけ気にして……本当、くだらない話だったわ。……でも、ね」 空へ。 蒼穹の彼方へ。 「私は、貴女ともそんなくだらない話で盛り上がってみたかったわ」 永遠に刻を止めてしまった彼女と。 そしてもう一人。この宇宙の果てで自分達を見守り続けてくれているだろう大切な親友へ届くように。 ……そんな時間にも、往々にして横槍は入るものだ。 「――相変わらず感傷的だね、ほむら」 「……無粋な声で、折角の故人との会話を邪魔をしないで欲しいわね」 唐突に声をかけられても特に驚くでもなく、ほむらは鬱陶しそうに溜息を吐いた。 「久しぶりなのだからそう邪険にしないで欲しいな」 「久しぶり? 何日か前に店で会ったでしょうに」 「店でのボクはマスコットだからね。オチオチと話も出来ないじゃないか」 出来ればこの石塔の前でキュゥべえと話などしたくはないのだが、嫌悪感をなるべく表には出さずほむらは振り返った。この世界では協力体制にあるとは言え、インキュベーターへの悪感情は織莉子達に対するものの比では無い。必要な時以外はその無機質な顔を見たくもないというのが正直なところだ。 「ここは死者が眠る穏やかなるべき場所よ。あなたのような宇宙畜生と話す場所ではないわ」 「それは悪い事をした。ボク達には墓参りという文化も概念も存在しないからね。ただ、君達が死者との間に折り合いをつけるためにそれを必要としている事は行動の原理としては理解しているつもりだよ」 「感情を伴わなければそんなものただの空知識よ。理解とは程遠いわ」 「そう言われてしまうと返す言葉も無いね」 「……で、何の用なの?」 言外に早く済ませろと促し、ほむらは両腕を組んだ。まったく悪びれもしない態度に苛立つだけ無駄なのは嫌という程わかっている。どうせ用件さえ済ませてしまえばとっとと居なくなるに違いないのだ。 「なに、明日また厚木の研究所へ呼ばれているようだったからね。ボクも呼ばれているし折角だから事前に声でもかけておこうと思ったまでだよ」 「……釘を刺したいのならハッキリ言いなさい、インキュベーター」 片眉を微かに吊り上げたほむらを映すキュゥべえの感情の無い深紅の瞳が、鈍い光を放ったかのように見えた。 「釘を刺すなんてとんでもない。ただ、あまり自衛隊とばかり仲良くするのもどうかとね。米軍も絡んでるし、警察の方が良い顔をしないんじゃないかな」 「別に自衛隊と特別仲良くしているつもりはないわ。それに魔獣出現時の対応は自分達の手には余るって言ってたのはあちらさんじゃない」 「それでもメンツってものがある。組織としての体裁もね。人類というものは本当に面倒臭い生き物だよ」 淡々と語り続けるキュゥべえの姿は、愛玩動物と言うよりも禍々しい物の怪そのものだった。初めてこの孵卵器を見た時、自分はどのような感想を抱いたのだったかほむらは思い出そうとしてみて、やはりやめた。可愛らしいと感じた気もするが、もしそうだったとしても苛立ちが増すだけだ。 「相変わらずの上から目線ね。反吐が出るわ」 「そんなつもりもないのだけれどね。……まぁ、あまり一方にばかり肩入れするのはやめた方が良い。織莉子にも伝えたけれど、忠告の意味も込めてね。彼女、数年のうちには政界に打って出るつもりだそうじゃないか」 「魔法少女議員なんて、悪質な冗談のようだけれど。……忠告は、一応頭の片隅には留めておくことにするわ」 自衛隊と警察組織の権力争いに利用されるのは真っ平御免だが、増加し続ける魔獣の出現に対応するには彼らとの密接な協力関係が必要不可欠だ。 再編前の世界にしてみても、魔法少女と魔女の戦いの影で彼らが秘密裏に事態の隠蔽や処理を行っていたことを、ほむらは知っている。インキュベーターもその辺は承知の上であったらしい。 そもそも、人類はそこまで無能な生き物でもない。特定の時期と場所に集中して発生する無数の行方不明事件や器物破損、集団自殺。時折目撃される奇怪な化物や、それらと戦う少女達の姿。自分達の活動は一般社会からはまったく気付かれていないだなんて思い込んでいたのは、当の魔法少女だけだ。 「それじゃこれ以上邪魔をするのも悪いし、もう行くよ」 ボクとしては世間話をするのも吝かではないけれどね、と続け、キュゥべえはクルリと小さな身体を反転させた。どうせ用件さえ終わればほむらが自分達とコミュニケーションをとろうだなんてするはずがない事は彼らもよくわかっている。それが結果として有益に繋がるなら無駄話も進んで行うのが彼らだが、そうでなければ徹底して合理的なのがインキュベーターという種族だった。 「また明日――」 「キュゥべえ」 自分が呼び止められたことが余程予想外だったのか、ほむらを顧みたキュゥべえは心なしか目を丸くしていた。それが少しだけ小気味よくて、ほむらは珍しく表情を和らげると、キュゥべえに問うた。 「……あなた、大人に成った魔法少女をどう呼ぶべきだと思う?」 聞いてみたかったのだ。 かつて魔法少女と魔女について語った、孵卵器に。 この世界の魔法少女は魔女が孵る卵ではない。ならば彼らの視点と理屈から見て、成長した魔法少女とは何者なのか、ほむらは興味があった。 「難しいことを聞くね。そもそも“大人”という定義付けが曖昧だ。単純に年齢的な意味で成人した女性のことを指して言っているのなら“魔女”で良いと思うけど、異なる世界の記憶を持っているらしい君が望んでいるのはそんな単純な答えじゃないんだろうしね。それにボクからも尋ねたいけど、ほむら、君は自分がもう立派な大人なんだと、そう思っているのかい?」 逆に問われ、ほむらは逡巡した後、小さく頭を振った。 「大人という定義づけ……そうね。自分がもう大人に成れているのかどうか、それすらも曖昧だから答えがわからないのかもね」 「以前君から聞いた魔法少女が魔女になるシステム……絶望によって濁りきったソウルジェムがグリーフシードへと変化し、魔女が産まれるんだったね。……なら、魔法少女が大人に成るということは、夢や希望を失い、絶望にまみれた現実を思い知ったまさにその時なのかも知れない」 「絶望にまみれた現実、か」 予想外に詩的な答えだったが、確かにそうだったかも知れないとほむらはかつての世界での出来事を想起して唇を引き結んだ。 「どうだい、ほむら。今の君の、君達の現実は、絶望にまみれているかい?」 「……嫌な聞き方をするものね」 こういう時、インキュベーターに感情が無いものかどうか疑わしく思えてくる。本当はあの無表情な紅い瞳の奧でほくそ笑んでいるのではないだろうか。単に感情を持っていないということにしておいた方が便利だというだけで。 「じゃあ今度こそ行くよ。……ああ、大人に成った魔法少女をどう呼ぶか決まったらボクにも教えて欲しいね。次から使わせてもらうよ」 キュゥべえが林に消えるのを待たず、ほむらは石塔へと向き直っていた。 もう一度、深く、深く、熟考する。 魔法少女について。大人について。魔女について。 果たしてこの世界の、今の人生を自分はどう生きているだろうか。夢と希望をしっかりと抱けているか、絶望に呑まれてはいないか。単にソウルジェムの状態をのみ見るのではなく、確たる自我の認識可能な範囲内において自分の現在の有り様をほむらは考え抜いた。 「……知恵熱でも出そうね」 風が、黒髪をたなびかせた。 何か伝えようとしているのだろうか。そう思って石塔を凝視してみても、当然ながら答えが返ってきはしなかった。 けれど一つだけ。わかったことがある。 「さやか……貴女は絶望して逝ってしまったわけでは無いわよね?」 少なくとも、この世界では。 彼女は絶望にまみれて導かれてしまったのではないのだと。 「あ……っ」 もう一度、今までに無く強い風が吹いた。 ほむらには、それで充分だった。 「また来月、来るわ」 クスリ、と相貌を崩し、踵を返す。 自分はもう魔法少女ではない。かと言って、まだ大人でもないのかも知れない。ではなんと呼ぶべきなのか、もう一度、いや決まるまでは何度だろうと、みんなでくだらなく盛り上がるのだ。 少女のように軽い足取りで帰路につきながら、ほむらはまず自分がどうしても譲れない点については、マミと杏子に即座に伝えようと決めていた。 ――やっぱり“魔女”だけはダメね。不採用だわ―― |
〜end〜 |