Lied der Liebe




◆    ◆    ◆





「……ゆまに彼氏が出来た疑いがある」
「そう。それは良かったじゃない」
 神妙な顔つきで『ここだけの話なんだけど』と打ち明けてきた杏子ににべもなく返し、ほむらは手酌で盃に酒を注ぐとグッと一息に飲み干した。
 日本酒に特有の米の旨味に加え、甘味に酸味、渋味が口中で渾然一体となり、喉をスッと流れ落ちていく。その事に一抹の寂しさを感じつつも、鼻腔を抜ける吟醸臭にほうっと熱っぽい息を吐きながら、さてもう一杯と再び手酌する。
 純米吟醸、飛露喜。最近のほむらのお気に入りだ。
「……ふぅ。この一杯のために魔獣と戦っているようなものね。最高だわ」
「お前、なんつーか飲みに来る度思うけど変にオッサン臭いよな」
「いいじゃない。これが正しい日本酒の楽しみ方よ」
 呆れたように言ってからハイボールをグビグビと喉を鳴らして飲む杏子の方がよっぽどオッサン臭いのではないか、とはほむらは思っていても口にしない。折角日本酒と焼酎の取り揃えが良い店に来ているのになんでいつもいつも一杯目は必ずハイボールを飲むのか……だなんて、口にしたらきっと戦争だ。酒食に関しては自分も杏子も、この場にいないマミも確固たる持論とポリシーを持っている。だからほむらはそこに土足で踏み込むような真似はしない事にしている。良い酒飲みというものは、飲みながら喧嘩なんてしないものなのだ。
「なんかまた頭の中で一人でカッコつけてるだろ」
「……そんなこと、ないわよ」
「まぁいいや。そんなのはどうでもいいんだ、別に。お前がカッコつけだなんて今さらさ。……あ、親父さん、あたし白エビの昆布〆ね。それとホタテのバター焼き」
「私はホワイトアスパラを」
 へい、と小さく返事をし、調理に掛かる店主は以前に魔獣に襲われていたところをほむら達に救われ、その際偶然にも魔法少女の姿を目にしてしまったという経緯がある。
 平生ならばそこで超常の世界について根掘り葉掘りと尋ねてくる相手を振り払い、黙って立ち去るのが魔法少女業の慣わしなのだが、彼はまったく動じた様子も見せず、ただ『礼をしたいので自分の店に来て欲しい』とだけボソリと告げると、なんなとなく雰囲気に呑まれてついていったほむら達に結局何も訊く事もないまま自慢の酒と食事をこれでもかというくらい振る舞ってくれた。
 以来、ほむら、マミ、杏子を始め、見滝原近隣で活動する魔法“元”少女達は時折この店――炉端焼き『灸兵衛(きゅうべえ)』というなんとも皮肉な店名――を訪れては魔法少女業の愚痴を吐き、くだを巻いて帰って行く。それでも相変わらず店主は何も訊こうとはしない。無愛想な顔つきで、極上の酒食を饗するだけだ。
 よって、ほむらが機嫌良さそうに『きゅうべえ』と口にする時は大抵はこの店の事を指す。不機嫌そうなら、白い宇宙畜生の事だ。
 ともあれ、そんな事はお構いなしに現在不機嫌極まりないのは杏子の方だった。不機嫌と言うよりも正確には周章狼狽していると言うべきかも知れない。今朝、ほむらに『今日はパトロール終わったら炙兵衛行こうぜ』と声をかけてきた時から、ずっとだ。
「兎に角、だ。ゆまに彼氏だぞ? 彼氏。こ、恋人だぞ? そんなのが出来たかも知れないんだぞ?」
「そう。それは良かったじゃない」
 一言一句最初と変わらぬ答えを返し、ほむらはまた酒杯を干そうとして、
「よかねーよ!」
 という杏子の絶叫に邪魔をされた。
「ちょっと杏子。お酒が波立つじゃない」
「酒以上にあたしのハートがビッグウェーブ到来中だっての!」
 一体全体杏子がどうしてそこまで動転しているのかさっぱり理解出来ず、ほむらは眉根を顰めた。
「ゆまだってもう十八よ? 彼氏くらいいてもおかしくないでしょうに」
「だ、だってあいつもうすぐ受験なんだぞ!? それをお前、こんな時期に彼氏がどうとかそんな、イ、イチャイチャチュッチュな真似……、……ダメ、だろ?」
「そ、そこで尻窄みにならないでよ。こっちまで恥ずかしいじゃない」
 まだ宵の口ならぬ酔いの口だというのに、真っ赤になってわたわたと手を動かし、そのままテーブルに突っ伏してプルプルと肩を震わせている杏子を見ているとなんだかほむらの方まで妙に気恥ずかしくて、助けを求めるように店主へ視線を預けた。が、そんなの知らぬ存ぜぬとばかりに初老の親父は囲炉裏でホタテを焼いている。
 このまま二人で恥ずかしがっていても仕方がないので、コホンと小さく咳払いするとほむらは気を入れ替えんとシャツの襟を正した。
「まぁ、確かに大切な時期だけれど……あの子、成績は悪くないのだしそこまで心配する程のことではないでしょう?」
「い、いや、だけどさ!」
「だけど?」
 追い打ちをかけ、心理的優位を保つことで自分の中の気恥ずかしさを強引に屈服させたほむらはツツッとテーブル上の水滴に指を這わせ、杏子と自分との間に一本線を引いた。
「……だ、だいたい……やっぱ、ゆまにはまだそーいうの、早い、だろ? ……うん、早いよ」
「ちなみに聞くけど、……『そーいうの』って、どーいうの?」
 さっきまでも真っ赤だったのに、ほむらの問いに一層顔を真紅に染め上げた杏子はフニャフニャと言葉も発せられぬまま口だけ動かすと、ようやく搾り出したかのようにあーだのうーだの呻き声をあげた。
「で。どーいうの?」
「い、言えるわけ、ねーだろそんなの……さ、察しろよ! ばかぁ」
「……ウブだウブだとは思っていたけれど、想像以上ね。今の貴女を見たら多分どんな男の人もコロッといってしまうんじゃない?」
「うーーー! ……親父! 村尾、ぬる割りで!」
 子供っぽく唸り、飲み終わったハイボールのジョッキをドンと乱暴にテーブルに置いてから、杏子は腕を組んでそっぽを向いた。それを見て、少しばかりからかいすぎたかも知れないなと嘆息し、ほむらは「悪かったわ」と両手を顔の高さに挙げ謝意を示した。
「村尾と白エビ、それとアスパラ、お待ち」
「どうも」
「……うぅ」
 目の前に置かれた小鉢から早速白エビの昆布〆を摘み、杏子は今さら赤面を誤魔化そうとぬるま湯で割られた焼酎をグイッと勢いよく煽った。
「白エビ、美味ぇなぁ」
 やもすれば水っぽく、エビ特有の生臭さのある白エビが、昆布で〆られたことにより何とも口触りが良い。酒が進みすぎてしまうのが難点だ。
「無茶な飲み方は良くないわよ。……アスパラ美味しい」
 ほむらはほむらで、ホワイトアスパラに舌鼓を打っていた。噛み締めると口の中にアスパラの旨味がジュワッと水気となって広がる。ただ茹でたものに塩を少々振っただけでどうしてこんなに美味しいのか、まったくもって不思議だ。初夏の頃のものと比べると旬を外しているためかややエグ味がある気もしたが、それでも箸が止まらない。ついつい飛露喜の方も進んでしまう。
「私もそろそろおかわりかしらね。……御主人、田酒をぬる燗で」
「今日は山廃と特別純米とありますが」
「じゃあ山廃で」
「へい。……と、その前にホタテ、お待ち」
「おー、待ってました! もう焼いてる匂いがたまんなくて……熱っ! はふっ、熱いけどこれも美味ぇよ親父っさん」
 そうだろうそうだろう美味いだろうと言いたげに、店主は小さく頷いた。
 囲炉裏でじっくり焼かれたホタテの、貝殻に溜まったスープから漂う香りが嫌味なくらい食欲をそそる。杏子が小躍りしそうな勢いで汁気たっぷりのホタテを噛み締めるのを見て、ほむらは矢も楯もたまらず酒蔵室に向かおうとしていた店主を呼び止めた。
「……すいません。私もホタテバター焼き、追加で」
「へい」
 店主の背中が、冷暗の酒蔵室へと消えていく。高級料理店のワインセラー並に日本酒や焼酎の管理に気を遣っている店主自慢の設備だ。それまで日本酒などその辺に常温で放置しておくものだと漠然と考えていたほむらは、初めて店主から光や温度の管理について聞かされた時目から鱗が落ちる思いだった。
「しかし、なんだな」
「?」
 ホタテのワタを噛み千切り、熱さにホフホフ言いながら、杏子は残った飛露喜をチビチビと舐めるように飲んでいたほむらを真っ直ぐに見つめていた。
「お前ってさぁ、昔はそうは思わなかったけど、ポン酒似合うよなぁ」
 やけにしんみりと、そんな事を言う。
「なによ、薮から棒に」
「やっぱ黒髪だからかねぇ。あたしはほら、この通り赤毛じゃん? 日本酒や焼酎飲んでても今一つサマにならないって言うか」
「マミさんがホッピー飲んでる姿よりはサマになってるわよ」
「アレと比べるなよ……。まぁでも、なんかなー」
 指先で自分の毛先をクルクルと弄り、杏子は物憂げに吐息した。
 ループ期間中もそうだったが、仲が深まるにつれ杏子は自分の赤毛とほむらの黒髪を何かと比べたがる傾向にある。ほむらとしては、杏子のややくせっ毛気味な赤毛は彼女のイメージにピタリと合致する見事な色と髪質だと思うのだが、本人的にはコンプレックスとまではいかないまでも気になるらしい。
「それは……確かに貴女の場合は木製のジョッキでエールでも飲んでガハハー! とか笑っている方が似合うかも知れないけど」
「あたしゃ海賊か!?」
「少なくとも深窓のご令嬢よりは海賊の女頭目よね」
「くそー……言い返せねぇのがマジウゼェ」
 悔しげに歯噛みする杏子の背後を、店主が田酒の一升瓶を抱えて足音も立てずに通り過ぎていく。
「でもいいじゃない。私は好きよ、貴女の髪」
「……それでもストレートな黒髪ロングが羨ましい。くれ」
「……私に丸坊主にでもなれって言うの?」
「魔法尼か。新しい呼び方の候補に一つ追加だなこりゃ」
 尼僧の姿で薙刀状の武器を振るい魔獣と戦う自分達の姿に、ほむらは思わず噴き出しそうになった。ただでさえ魔獣も僧のような格好をしているというのに、タチの悪い冗談だ。
「でも、尼さんね。……もしかして、ゆまの男女交際に反対なのって」
「んあ?」
「悪気があって聞くわけじゃないけれど、宗教的な意味合いで厳しく言ってるだとか、そんなつもりで――」
「よせやい。……あたしはもう、神様を信じてなんかいないさ。それを引きずって言ってるワケじゃねぇよ。本当に……ただ心配なだけで。その、き、清い男女交際を心懸けて欲しいってのは、信仰関係無く、……あー……親父、イカ刺し」
「へい」
 いくらか照れ混じりのトーンの低くなった声での注文に、店主の返事は何一つ変わらない。黙々とほたてを囲炉裏に乗せ、ほむらの田酒を燗している。
 杏子がゆまを過剰なまでに心配する影には、亡くなった妹の事もあるのだろう。それが別に身代わりとして、死者の代替品として見ているからというわけではないのだとしても、どうしても割り切れない感情はあるし、妹にしてやれなかった分までゆまにとっての良き姉でいてやろうとする杏子の心情は、わかるのだ。だからそれがゆまを蔑ろにし、干渉のし過ぎで彼女を不幸にするもので無い限りはほむらも尊重したいと思っている。そのために余計な部分へ踏み込んでしまったのを詫びる気持ちで、ほむらは残っていたホワイトアスパラを小皿によそい、杏子へ差し出した。
「あれ? いいのか?」
「ええ、美味しいわよ」
「じゃ遠慮なく。……うわー、すげ、なんだこの汁気」
 見ているだけで気持ちの良くなる杏子の食べっぷりに感心しているほむらの前へ、店主がぬる燗を置く。全てを見計らっていたかのようなタイミングだった。
「……ふぅ」
 ただでさえ香りの芳醇な山廃仕込がぬる燗にしたことにより一層際立ち、ほむらはうっとりと酒息を吐き出した。全身の火照りが、ポカポカと心地良い。酒の味も知らずに逝ってしまったさやか達に申し訳ないくらいだ。
 卑屈にならない程度に過去に想い馳せつつ、ほむらはじっくりと五臓六腑に美酒を染み渡らせた。
「なぁ」
「ええ」
「あたしって、過保護なのかなぁ」
「過保護ね」
 きっぱりと言い切られ、杏子は力無く肩を落とした。
「……でもさ、最近のニュースとか見てるとさ、変な男とか、駄目な奴に引っかかったりしてたら、なんて……どうも嫌な考えばかりが浮かんで来ちまうんだよ」
「あれでしっかりしているもの。女を金蔓や、射精のための道具としてしか見てないような男になびく子じゃないでしょう? 心配し過ぎよ」
「しゃっ!? だ、だからそう言うことストレートに言うんじゃねぇ!」
「……本当に異性関係とかウブね。可愛すぎるわ」
 今度からこの手の話題の最中に杏子が何度赤面して何度怒鳴るか数えてみるのもおもしろいかもしれない、と考えほむらはほくそ笑んだ。が、やられっぱなしでいつまでも泣き寝入りする杏子ではなかった。
「ちっくしょ……だいたい異性関係どうのって、お前だって男の影なんてねーだろ」
「む」
 そう言われてしまうと、返事に窮してしまう。
 これまでに何度か、男性から告白を受けたことはあった。その度ほむらは試しにつき合ってみようという気にもなれず断り続けてきたわけだが、どうも自分は恋愛というものに関して意識がやけに淡白なのではないかと、そのように感じるのだ。
 さやかの事を悪く言うつもりもないのだが、果ての見えないあのループの間、ほむらにとって恋愛というものはそれが自分のものでは無いにせよ厄介な障害の一つに過ぎなかった。その事で、苦手意識のようなものを植え付けられてしまっているというのも関係しているのかも知れない。
 今も昔も、自分にとって大切な、大好きな人達というのは同性ばかりだった気がする。杏子やマミ、ゆまにしてみても、しかしこれはもはや家族愛とでも呼ぶべきものだろう。
 同性愛的な性癖は持ち合わせていない……と、そう思うのだが、やはり異性に対する特別な感情というのが、もう二十五にもなるというのにほむらには今一つ解らなかった。
 それとも……敢えて解らぬフリをしているのか。
「なーんかまた難しい顔してんなぁ」
「ちょっと、ね。……色々と、考えてみたのよ」
「色々?」
「色々」
「ふーん。……しっかしなぁ。このままじゃあたしもお前もアレだよ、ついでにマミも。なんて言うんだっけ、その……えーと、……あー、あれか。も、……も?」
「喪女?」
「あーそうそれそれ、喪女。このままじゃ魔法尼どころかあたしら全員魔法喪女じゃねーか」
 またぞろとんでもない事を言い出すものだ。魔法喪女という字面にウンザリしつつ、そう言えばそんなタイトルをどこかで見た気がしてほむらは記憶の領海をサルベージしてみた。
「……あ。思い出した」
「何が?」
「魔法喪女って、あれよ。ゆまが好きだったアニメじゃない」
 そう指摘され杏子も思い出したらしく、あーあーと相槌を打った。
「あー、なんだっけ。“魔法喪女フィジカルなのらアラサー”だったっけ?」
「確かそんなタイトルだったわね。人気シリーズの七作目だか八作目で、婚期を逃した主人公が親友の育児話や両親が持ってくるお見合い話、果ては血の繋がらない娘のコイバナなんかで毎週毎週心理的に追い詰められていくサディスティックな展開は私もついつい夢中になって見入ってしまった覚えがあるわ」
 主人公の低町なのらは魔空管理委員会に所属する魔導師で、シリーズ一作目の頃はまだ年齢も一桁の魔法少女アニメだったのだが続編が出るたびに作中の時間が進み、結局二十九歳にまで成長してしまった超人気作だ。
 最新作のアラサーでは魔空管理委員会壊滅を狙う無元帝国との過酷な死闘を主軸に、前作での強敵達が仲間になったり今作でも敵かと思われた極悪非道な奴らが実は良い奴らで仲間になったり他にも色々仲間になったりしながら主人公のなのらが実家から「いい加減魔法がどうとか次元がどうとか言ってないで結婚しなさい」と言われて窮地に陥るというスリリングな展開で話題を呼んだ。しかもなのらの親友達は既に結婚して子供までおり、さらに旧作で引き取り育てていた養女もなのらに先んじて彼氏を作るというまさに孤立無援の境遇は視聴者の涙を誘い、その後に劇場版まで製作された程だ。
「いやー、そうそう、そんなアニメだった」
「ええ。もう何年前? あれってまだ続いてるのかしらね」
「さあなー。……って、おい。笑えねーぞ今のあたしら。マジで」
 場の空気が一気にお通夜モードへと移行した。
 別に二人ともそこまで結婚願望が強いわけでもない。わけでもないが、事実を事実として受け止めるとそれは予想以上に重く、冷たかった。
「イカ刺し、お待ち」
「……あ、ども」
 店主が差し出してきたイカ刺しの皿を受け取り、杏子はそれに箸をつけようとして、「ん?」と小首を傾げ、やがて冷凍庫で一晩冷やしたブラックホールさながらだった空気を蹴散らすかのようにポンと手を打った。
「そうだそうだ忘れてた。あいつがいたじゃん、お前の男」
「え?」
 などと箸を突きつけられながら言われても、ほむらはまったく身に覚えが無い。
 いったい誰のことだと眉を顰める顔とイカ刺しとを肴に村尾のぬる割りを飲み干し、プハーッと盛大に息を吐いてから杏子は一転して明るい調子で「なんだよ忘れたのかよ酷い女だな」とせせら笑った。
「ほらあいつだよ、ご近所の。鹿目さんちのタツ坊」
 思考、完全停止。
 呼吸、完全停止。
 脈拍、完全停止。
 全てが止まる。時間が止まる。
 かつては時間を止める側だったものが、今、停止しているのは世界の中でほむら唯一人だった。
 そうして、経つこと数秒。
「――ブッ!」
 再び時の秒針が動き出す。
 完全に、不意打ちだった。
 想定外の死角から無防備な隙目掛けて意表を突かれたと言って良い。肉体と精神の内部に大地震と大嵐と大噴火が一気に生じたかのように激しく動揺し、ほむらはそのまま盛大に咽せった。
「ゴホ! ゴフ、ゴホ! ……ちょ、杏子、貴女ね……っ」
「なっははは」
「タ、タツヤはそんなのじゃ……ない、わよ……! ふぶ! ふ、ひゅ……はぁ、ふ、ふぅ……だ、第一、あの子まだ中学生じゃないの!?」
「いやー、いっつもからかわれてばっかりだし? たまにはこうやってからかい返してやるのも……って――」
 言葉を句切り、杏子は神妙な顔をした。
「……おい、ほむら」
「な、なによ?」
「……何故そこで照れる」
「〜〜〜っ!?」
 思わず自分の頬を手で覆い、ほむらはらしくもなく狼狽を露わにした。
 照れてなどいない。いないはずだ。
 鹿目タツヤ。
 今年で十四歳になる、Cerchioの近所に住む鹿目家の一人息子。
 この世界には存在しない親友、“鹿目まどか”の弟で、まどかがもう何処にもいないのだと理解しつつも彼女の幻を追い求めるかのようにしていた十一年前の自分に一つの区切りをつける切っ掛けをくれた少年の優しげな相貌を思い浮かべ……ほむらは勢いよく頭を振った。そのせいで不覚にも酔いが回り、眩暈を起こしてしまう。
「お前、まさか――」
「ち、ちち、違うわよ! タッ、タツヤのことはその、私にとっては弟みたいなもので、決して貴女が考えているようなイチャイチャチュッチュなものでは、ないわ」
 フラつきどもりながらもかろうじて断言し、ほむらは短く深呼吸した。そこへ、杏子がさらに追撃を仕掛ける。
「じゃあ本当に、全然そういった感情は無い、と」
「……無いわ」
「円環の理に誓って?」
「え、円環の理に誓って」
「なら」
「?」
「なんで目を逸らす?」
「ッ!?」
 ダラダラと、嫌な汗が涌いてくる。
 実際ほむらはタツヤをそういった対象として今まで見た事はない……はずだ。ただ、この世界でまどかの存在をほんの僅かにでも感じさせてくれる少年を普段から気に懸けていたのは、事実だった。
 自分の中で折り合いはつけたとは言え、まどかの面影のようなものにはどうしても懐かしさを感じ、反応してしまう。タツヤの、姉に似た中性的な容貌も含めてどうしたってまどかを想起させる存在なのだ。それを抜きにしたところで、やはり彼個人に対して抱いているのは弟に向ける感情なのだろうと、そう自分と杏子を納得させてこの件は終わりにしてしまいたいのに、アルコールは無情にもほむらの意識程度を低下させていく。
 全ては酒のせいなのだ。
 きっと、そうに違いない。今の自分は、ちょっとばかりいつもよりも深く酩酊してしまっているだけなのだ――
「おーい、ほむらー」
「……なによ」
「こっち向けよー」
「……嫌よ」
 杏子が現在どんな表情をしているかなんて、考えるまでもない。そもそも声の調子からしてやけに弾んでいる。
 いったいこの局面をどうやって打開し、あわよくば杏子に逆襲してやるべきか。グネグネとうねる酔脳をフル稼動させて……ほむらは崩れ落ちた。
「うぅ……まどかぁ」
 こうなったら女神様に助けを求めるしかない。
 どうか宇宙の、次元の彼方で見守ってくれているのであろう親友にして女神よ、この哀れな喪女を救いたまえ――とほむらは一心に祈った。
 ……しかし、何も起こらなかった。
「またか。お前酔うとすぐマドカーって口にするよな。ホント、誰なんだ?」
「……私なりの、魔法の、呪文みたいなものよ」
「マミのティロ・フィナーレみたいなもん?」
「断じて違うわ」
 流石にティロフィナと一緒にされてはかなわないとほむらは首を横に振ろうとして、やはりやめた。これ以上酔いが回るのは避けたい。
 それに、自分にとっての魔法の呪文というのはあながち間違ってはいない。もしくは『Oh My Goddess!』のようなものだ。ほんの気休め程度でも、戦い以外で役に立つ魔法なんて、所詮そんなものなのだから。
「でも今はマドカよりタツヤだよなぁ。えぇ、ほむらさんよう?」
「だから……その……それは……」
 もう一度よくと考えてみても、どうにもその感情の正体には靄がかかったままでピタリと一致する解答を得る事がほむらには出来なかった。
 第一、仮に特別な感情を抱いていたとしてそれでどうなるのだろう。どうすればいいのか、そもそも、自分はそれをどうにかしていいものなのか。
 思考の迷宮は、入り乱れるばかりだ。
「ホタテバター焼き、お待ち」
「! ええ、どうも」
 これ以上妙な方向に思考が流れては困る、という状況下で、店主の声とホタテバター焼きは天からの救いにも等しかった。
「なー、タツヤのことは――」
「ほむほむ、ほむほむ」
 なんともわざとらしく頬張り、口内粘膜が火傷に悲鳴をあげるのもお構いなしにほむらはひたすらホタテを堪能した。美味い。横で相変わらずタツヤタツヤと喚いている杏子を無視し、貪欲に美味に浸る。思考の中身を全て入れ替えるため、一心不乱に口を動かす。
 と、そんなほむらをチラリと一瞥してから、店主が唐突に口を開いた。
「ホタテの、スープあるでしょう?」
「……ほむふ?」
 貝殻ごと囲炉裏で焼かれたホタテには、バターと醤油とホタテ自身から染み出したものが混ざり合った最高のスープがそれはもう当然ながらたっぷりとある。
「そいつをね、白飯にかけてやると、また……美味いんですよ」
「!」
「ゲッ! あたし全部飲んじまったぞ!?」
 この世の終わりのような顔をして杏子が身を捩る。それを横目に、ほむらは店主に向かって力強く頷いた。店主は何も言わず、おひつの中からツヤツヤと白銀色に輝く見事なコシヒカリを碗に盛っていく。これも羽釜で炊いた逸品だ。
「……フッ」
「なんだその笑みはぁあ!?」
 ホタテ汁かけご飯と、誤魔化しと。
 二重の意味で勝ち誇りながら、ほむらは店主から受け取った飯茶碗へと、一切の躊躇無く極上スープをブチまけていた。




◆    ◆    ◆





 たらふく飲んで、たらふく食べて。
「……うぉーい、ほむらー」
「……なによ」
「元気かー?」
「……元気よ。それと、それは私ではなく蟹の甲羅」
 虚ろな目をしてケタケタ笑いながら皿上の蟹の甲羅に話しかけている杏子は、誰の目にも明らかな程に駄目な人全開だった。二十五歳の女盛りが赤ら顔でこれでは、魔法喪女もなかなか現実味を帯びてしまっている。
「むー、なんてこった。ほむらはスベスベマンジュウガニだったのか」
「残念ながら、違うわ。あとそれはただのズワイガニよ」
「なるほど、ズワイかー。ちなみにだな、あたしの正体は、実はイシガキオニヒトデだったのだ」
「なるほど、吃驚ね」
「ビックリしたか?」
「吃驚したわ。珊瑚の悲鳴が聞こえてきそうよ。守らなくちゃ」
「そーかそーか。ビックリかー。悲鳴もかー。サンゴってジュウゴ?」
「大戸島でしょ」
 話が噛み合っていそうでまったく噛み合っていない。理由は簡単、ほむらの方も赤ら顔で、眼もどんよりと濁っているからだ。だのに自分は酔ってなどおらず素面のつもりでいるのだからなんともタチが悪い。
「でも、どうしてイシガキオニヒトデが魔法少女なんてやっていたの?」
「んー? ……なんでだろうなー。……出稼ぎ?」
「そう、出稼ぎだったの。イシガキオニヒトデの生活も大変なのね」
「おう。大変だったんだぞー。なのにゆまは……ゆまの奴……う、うぅううう」
 自称イシガキオニヒトデは泣き上戸だったらしい。蟹の甲羅をしっかと抱きしめて、盛大に泣き出した。
 そのまま暫く啜り泣く杏子の頭をほむらはなんとなく撫でてやっていた。
 店主は相変わらず無言だ。聞いているのか、いないのか。おそらく明日の仕込みでもしているのだろう。休まず動き続けている。
 いつの間にか杏子も泣き止み、店の中は静まりかえっていた。
 既に酒も尽きているが、閉店も近いこの時間では新しく注文するのも憚られぼんやりとしていたほむらに、テーブルに突っ伏したまま杏子が呟いた。
「……戸籍の上では、さ」
「……」
「あいつ、天涯孤独なわけじゃん」」
「そうなるわね」
 ゆまに血縁らしい血縁はいない。一度調べてみたが、両親はそれぞれの家から勘当も同然の状態にあったらしく、ゆまの存在自体認知されてはいないようだった。そんな所へ連れて行ったとしても、不幸になるだけだ。少なくとも当時の杏子には、ゆまが悲しみに暮れる不幸な未来しか視えなかった。
「幸せな家庭をさ、持たしてやりたいんだよ。……あたしの勝手だって、わかっちゃいるけど……どうしても。……あいつは、さ。あいつが不幸だったのは、そんなのは、どこにもあいつ自身に落ち度とか、責任なんて、無かったんだから。あいつは、幸せになって良いんだ。……あたしは……、とは――」
 続く言葉を呑み込み、杏子は肩を震わせた。
 その願いが自分の中の何処に端を発しているのか、自覚しているからこそ歯痒いのだ。そんなものをゆまに限らず誰かに押しつけるべきではない。過剰なまでに背負わせ、願うのは、呪いと同じだ。なのに、自分でも上手く制御出来ない、ままならない感情を酒臭い息と一緒に吐き出し、杏子は再び眦から涙を伝わせた。
「……なぁ、ほむら」
「なに?」
「恋って、なんなんだろうな」
 改めて問われてみると、実に哲学的な難題だ。そんなもの臆面もなく答えられるのは詩人くらいではないだろうか。
 昔の自分だったなら、斜に構えて皮肉混じりの答えでも返し、適当にお茶を濁していたことだろう。今のほむらには、出来ない芸当だった。
「その恋でゆまが幸せになれるんならさ……良いのかな、って。けど、あたしにゃ恋ってなんなのか、よくわかんないから」
「してみればいいじゃない、恋」
「……お前やマミがするんだったら、あたしもしてやんよ」
 テーブルに突っ伏したまま、視線だけ向けてそう言った杏子の声には、優しく、慈しむようないたわりが含まれていた。
 自分との違いをしみじみと実感させられて、ほむらは自嘲した。同じ言葉を口にしたとしても、そこにはきっと染み入るような優しい温度なんて無い。だからほむらは杏子の赤い髪が好きなのだ。
「ゆまなら、大丈夫よ」
 諭すように言いながら、ほむらは赤毛を手櫛で梳いた。
「信じてあげなさい。妹でしょう? 貴女の、自慢の」
「……うん」
 結局は、そうするしかない。
 出来る事なんてタカが知れている。
 魔法の力なんて、まったくの無力だ。
 だから顔を上げて、涙を拭うしかない。泣き虫の姉だなんて、どうやって妹の助けになってやれるものか。
 グシグシと手の甲で乱暴に目尻を拭うと、杏子は「変なコト言って、悪かったな」と詫びてぎこちなく頬を弛めた。
「別にいいわよ。この次は、私の愚痴にたっぷりつき合ってもらうから」
「おう、いくらでもきやがれ! タツヤとの恋の相談でもいいぞ!」
「……そこはまず自分の心配をしなさいよ」
 いつの間にかすっかり酔いも覚めてきている。
「命短し、恋せよ乙女……か」
「……魔法乙女だったら、恋なんて楽勝で出来るってことか?」
「何言ってるのよ」
 最後に一杯ずつ、烏龍茶を頼み、二人は乾杯した。
 特に何に対して乾杯というわけでもない。それでも、グラスとグラスのぶつかり合う音は、妙に晴れ晴れと深夜の店内に響いた。





◆    ◆    ◆





 後日。
 ようやく祝福の言葉を述べる気になった杏子がほむらやマミの後押しを受けてゆまに「おめでとう」と告げたところ、彼氏が出来たなんてまったくの勘違いだったことが判明。
 あまりの恥ずかしさにそのまま自棄飲みにつき合わされたほむらが結局また愚痴を聞かせるのではなく延々聞かされる側に回る羽目となったのは、また、別の話。





〜end〜






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