Сладкие Мечты




◆    ◆    ◆





 まさしく悪夢としか言い様の無い、絶望的な状況だった。
「ッ、きゃぁああああっ!?」
「マミさん!?」
 数体の魔獣から同時に放たれた光線は渦を描き、マミの渾身の射撃をも呑み込んで彼女の身体を直撃、吹き飛ばしていた。咄嗟に障壁は張ったものの、それで殺しきれる威力ではない。マミの半身は焼かれ、千切れ、そのまま倒れ伏しピクリとも動かなくなる。
「マミさん! マミさ……、……ゆま、急いで!!」
「わかってる、わかってるけど、でも!」
 ほむらの悲痛な叫びに答えるゆまは、先程から息吐く暇も無く回復の魔法を唱え続けていた。しかし、追いつかないのだ。下半身を丸ごと消し飛ばされた杏子と、左半身を消し炭にされたキリカの二人を同時に治癒しつつさらに重傷のマミを癒すなどいくら回復のエキスパートである彼女にも不可能だった。
「暁美さん! 危ない!」
「くっ、あぁああっ!」
 織莉子の声に、かろうじて身を捻ったほむらは死角からの光線を紙一重で避け、損なっていた。
「ぐ、あぐ……ぅう!」
 右腕の薬指と小指が無くなっていた。
 それでも瞬時に弓に矢をつがえ、反撃で自分を撃った一体は射殺したもののまったく焼け石に水とはこのことだった。魔獣は際限なく現れ続け、ついには予知で全員をサポートしつつ後衛にあたっていた織莉子も前衛が完全に瓦解したことにより押し寄せる魔獣に抗しきれず、腹部を光線で貫かれてその場に膝を突いた。
「か、は……ぁ」
「美国織莉子……! ……なんて、ことなの」
 ほむらの魔力も、限界に近かった。ひっきりなしに回復を続けているゆまもソウルジェムは限界だろう。一時撤退を謀ろうにももはや全てが手遅れだった。ほむら一人では殿を務めることすらままならない。
「杏子! ダメ、しっかりして! 杏子!!」
 ゆまの涙混じりの叫びがほむらの耳朶を打った。
 杏子の魔力と生命力が急激に低下していくのを背後に感じ、ほむらは血が出るくらいに唇を噛み締めながら一心不乱に矢を放ち続けた。殆どトリガーハッピー状態で後先考えずに攻撃を続けながら、しかし本心では今すぐに傷ついた仲間達のもとへ駆け寄って、自分の下手くそな治癒魔法を全力でかけてやりたかった。でなければ杏子も、マミも、織莉子も、キリカも死んでしまう。ゆまもソウルジェムをすぐに浄化しなければ不味い。ほむら自身、あとどの程度もたせられるかは見当もつかなかった。

 ――全滅――

 見滝原を十年以上も守り続けてきた魔法少女達の、呆気無さ過ぎる最期。
 押し寄せる魔獣の波に、今まで築き上げてきたものが全て呑み込まれていく。
 世界も、仲間も、夢も、希望も、未来も、矜持も。
(まどか……さやか……)
 今はもういない友人の顔が走馬燈となって流れていった。
 その流れを殴り飛ばし、ほむらはありったけの魔力を振り絞った。
「……っ、く、……う、うぁああああ!!」
 矢をつがえる。
 矢をつがえる。
 矢をつがえる。
 魔力で矢を生み出すたびにソウルジェムが穢れを増し、それに比例するかのように魔獣の数も増え続ける一方だった。ほむらの全身も光線で至る所を焼かれ、満足に身動きすら取れなくなってきている。
「ひっ、ぐぅ、あ――ッ!!」
「ゆま!?」
 いつの間に回り込まれたのか。後方から新たに現れた魔獣の放った光線が、ゆまの胸を貫いていた。そのまま杏子とキリカの上に覆い被さるように倒れたゆまへと光線が雨霰と降り注いでいく。
「やっ――!!」
 やめて、と。
 そう叫び、三人を守るため跳ぼうとしたほむらの右脚が、弾け飛んでいた。
「〜〜〜ッ!?」
 バランスを崩し、無様に転がりながらほむらは見た。
 ゆまが、杏子が、キリカが、光線によって蒸発していくのを。
 マミが、織莉子が、粒子となって消えていくのを。
「やめて!!」
 叫びは虚空に吸い込まれていく。
 左足だけで立ち上がろうとして再び転び、強かに顔を打ったほむらは血と涙と鼻水でグシャグシャになった顔を歪め、繰り返し叫び続けた。
「やめて! やめて!!」
 空が燃える。
 燃え盛る天空の裂け目から、導きの光が降り注ぐ。
「やめて! まどか!!」
 みんなを連れて行かないで――と。
 ほむらはひたすら懇願した。さやかや、この十年余りの間に出会い消滅していった何人もの魔法少女のようにマミ達が導かれていくのを、それだけはやめてくれと親友に頼み、願い、祈った。
 円環の理は優しく、けれど無慈悲だった。
「あ……あっ、ああ……!」
 温かな光が消えていく。マミを、杏子を、ゆまを、織莉子を、キリカを導き、ほむらただ一人を残して、消えていく。
 いつしか魔獣達の攻撃は止んでいた。
 瓦礫の山の中に、ほむらは呆然とへたり込んでいた。
 そこには何も無かった。
 何も、無かった。
「あぁああああああああああああ!! ああ! ああああああああああああ!!」
 悲泣は誰の耳にも届かない。
 誰も救えない。結局、再構成される前の世界と同じだ。
 暁美ほむらは、誰も、何も、救えない。
「まどか……まどかぁああああああああ!!」
 失われて十年以上も経つ時の砂時計を右手でまさぐり、ほむらは絶叫した。
 時を戻して欲しかった。
 全てが壊れて崩れ消え去る前の優しい時間に戻りたかった。
 どこかで、時の歯車が音を立てた気がした。





◆    ◆    ◆





「まどかぁああああああああああッ!!」
「ひゃいっ!?」
 口から心臓が飛び出しそうな顔で振り向いているまどかを、ほむらは暫くの間呼吸もまばたきも忘れ凝視していた。忘れて、と言うよりは自身の肉体に対する実感が消失していたとでも言うべきか。徐々に感覚が戻るにつれ、目の乾きや、額から流れる夥しい量の汗、それに頬を伝う涙に一つずつ気付いていく。
「……ほ、ほむらちゃん?」
 ほむらの名を呼び、つぶらな瞳をパチクリとさせているのは、まどかだ。
 鹿目まどか。
 鹿目まどかが、突然名前を叫ばれ吃驚して暁美ほむらを見つめている。
「……鹿目、まどか……」
「え? う、うん。そうだけど……」
「ちょ、なんかすっごい叫び声聞こえてきたけど、なんかあった?」
「あ、さやかちゃん。……それが、その、ほむらちゃんが……」
 心配して様子を見に来たのだろう。園芸バサミと蘭の鉢を持って駆け込んできたさやかもいったい何事かとまどかとほむらを交互に見やった。
 そう。
 さやか。
 美樹さやか。
「美樹……さやか……」
「は? どしたのほむら? ってか美樹て。わざわざ旧姓でフルネームとか」
「……あ」
 そうだ。どうしてわざわざフルネーム、しかも旧姓で呼んでしまったのだろう。自問してもどうも記憶が混濁しているようで、ほむらはもう一度マジマジとまどかとさやかを見つめて深呼吸し、思い出したかのようにまばたきを繰り返した。
 今のさやかの姓は美樹ではない。もう二年も前から上条だ。幼馴染みである上条恭介と中学時代から九年間の交際を経てゴールイン。結婚式の際、ブーケを受け取ってしまい途方に暮れたのは他でもない、ほむらだった。
 何より、さやかの事を『美樹さやか』と呼んでいたのはもうずっと以前、まどかを救うために何度も世界を繰り返していた頃の事。無事にまどかの契約を阻止し、ワルプルギスの夜を撃破して以降は普通に友人として、下の名前を呼び捨てにしている。
「ほむらちゃん、変な夢でも見たの? 寝ちゃってたみたいだけど」
「あー、最近魔女退治でちょっと忙しかったし、あたしもそうだけどちょっと疲れ溜まってるのかも……」
「魔……女……」
「今日はお客さんも少ないし、さやかちゃんもほむらちゃんも辛いなら休んでても大丈夫だよ? お店の方はわたしが見ておくから」
 ようやく記憶がハッキリとしてきた。
 そうだ。
 お昼時、いつものように交替で休憩をとっていたほむらは弁当を食べるつもりが急激な眠気に襲われて……どうやらうっかり寝落ちしてしまっていたようだった。
「いえ、大丈夫よまどか。……さっきまで外で作業していたから、中の暖房が心地良すぎてついうたた寝してしまっただけよ」
「あー、わかるわかる。あたしもこの季節は外から中入るとなんかもう何もかも投げ出して炬燵の中に入りたくなるわー」
「じゃあさやかちゃんだけでも、休んでおく?」
「いやいや、大丈夫大丈夫。まだまだ元気イッパイだってば」
 特に強がっている風でもないようだし、さやかも言う程疲労が溜まっているわけでもないのだろう。さやかもほむらも、本格的に無理そうなら素直にまどかを頼ることにしている。それが魔法少女として魔女と戦う親友をサポートしたいからという理由でわざわざガーデニングショップを開き、二人を店員として雇っているまどかの本心からの望みだからだ。だからこそ、無闇に頼るのをほむらもさやかも良しとしない。
「ごめんなさい、心配をかけたようね」
「しっかし凄い叫び声だったけど、どんな夢見たの?」
「ええ……、……よく、思い出せないけれど」
 ぼんやりと頭の片隅に残ってはいるのだが、明確に形に出来ない。ただ、胸の中にとても寂しく悲しい気持ちが満ちているのは自覚出来た。
「ああ……そう、そうだわ」
「ん?」
「夢の中で、マミさんや杏子に、会った気がするわ」
 二人の名前を聞いた途端、まどかもさやかもやや俯き、懐かしそうに目を細めた。その憂いを呼び込んでしまったことを詫びようとしつつも、ほむらは十年近くも前に力を使い果たし、自らが魔女となる前に潔く自決した二人を偲んで目を閉じた。だが、妙に違和感がある。
「そっか……ほむらちゃんもまだ夢に見るんだ」
「あの二人のこと忘れるなんて、出来ないもんね。あたしも、今でもたまに見るからわかるよ」
 まどかもさやかも、亡き友人を悼みながらほむらの肩にそれぞれ手をかけた。これは三人に共通する、痛みだ。傷だ。
 なのにどうしてだろう。頭の中にある共通の記憶が、昔観た映画よりも判然としない。質感が無い、とでも言えばいいのだろうか。二人が自分から死を選んだシーンが、影絵のようにしか脳内で再生されないのだ。
 では夢の中の二人はどうだったか。
 ほむらが先程見た夢の中では、二人は自決ではなく戦いの果てに消えていった、朧気にそんな記憶がある。
(……マミさん、杏子……それに、他にもまだ、誰か……いた? いえ、それよりも二人とも)
 夢の中での二人は、どんな顔をしていただろう。いや、そもそもどんな内容の夢だったのか詳細は思い出せないままだった。とても辛く、悲しかった事だけは解るのに、何があったのかだけ解らない。
「今度の週末……お墓参り、行こっか」
「うん、そうだね」
 まどかとさやかの言葉には、十年の月日を感じた。
 なのにほむらは、夢から覚めたばかりなせいなのか。まるでつい先程までマミや杏子がすぐ傍にいたかのような、そんな気さえするのだった。



「ほむら、そっち行ったよ!」
「了解!」
 62式機関銃を掃射し、迫り来る使い魔の一団を処理しながらほむらは銃器の感触に奇妙な懐かしさを感じていた。62式だけでなく、ベレッタやM82A1も、長らく愛用してきたはずなのにどうしてか酷く懐旧の情が湧いてくる。まるで随分と久しぶりに手にしたかのようだ。つい数日前も、魔女とはこうして戦っていたはずなのに。
「今回の魔女はやたらと使い魔が多いわね」
 湧いて出る使い魔は見た目は愛くるしいヌイグルミだったが、鋭い爪や牙は猛獣のものだ。一匹一匹はさして問題でなくとも集団に噛みつかれ、引っ掻かれてはすぐさま細切れにされてしまいかねない。
 銃弾が命中する度、使い魔は爆ぜ、腸を綿のようにブチまけながら倒れ、消えていく。悪趣味な光景だった。ヌイグルミ好きなまどかにはとても見せられたものではない。引鉄の違和感に戸惑いつつも視界内の使い魔を一掃し終えたほむらは、さやかと共に魔女本体を倒すべく左手の盾に機関銃を収納し替わりにベレッタを取り出そうとして、ふと眉を顰めた。
 時間操作能力を失って以来、この盾はずっとただの防具兼武具収納用の固有装備として使ってきた、はずだった。今日も盾から機関銃を取り出して使い魔達と戦っていたにも関わらず、頭の中で何かがずっと囁いている。鳴っているのだ。
(……違う? こうじゃない。……そう、……これじゃ……――)
「ほむら、危ない!」
「ッ!?」
 ヌイグルミの親玉は豪奢なドレスに身を包んだ西洋人形を彷彿とさせる薄気味悪いヒト型だった。それが巨大な腕でティーポットらしい鈍器を所構わず振り回してくる。寸でのところで回避したほむらは牽制にベレッタを撃ちつつ、相手の弱点を探ろうとした。
(魔女……数こそ■■には劣るけれど、個体別に能力が異なるところが相変わらず厄介ね)
 また、何かが鳴った。
「……■■?」
 頭の中にノイズが走る。ギリギリと締めつけてくるような頭痛に渋面を作り、足を止めたほむらを横から突っ込んできたさやかが抱きかかえて跳躍した。そこをティーポットが殴りつけ、あまりの衝撃に結界内が大きく震えた。
「ちょっとほむら、今日ボケッとし過ぎ! あんなの当たったらあたしらだってペシャンコだよ!?」
「え、あ、……ごめ……う、……ぅ」
 さやかの声が、途中から濁っていた。
 合成された電子音を彷彿とさせる声でさやかが――さやかに見える何者かが話している。それが何者なのか、ほむらは絶えず自身に問い続けた。
(さやか……上条さやか。彼女は、私の仲間。大切な親友の、一人。もうずっと、十年以上も一緒に魔法少女として、この見滝原を守り続けてきた……■■の脅威から――いえ、違う。魔女、……そう、魔女。魔法少女の成れの果て……さやかは、……魔女? 違う、彼女が魔女になったのはもうずっと以前の時間軸で、今の彼女は大好きな幼馴染みと結ばれた、幸福な――)
「ほむらっ! シャキッとしなよ、もう少しだから!」
「え、ええ……!」
 そうだ。もう少しだ。
 慣れた手つきでぎこちなく銃器を操りながら、ほむらは接近戦を仕掛けるさやかを援護しつつ魔女の間接部に狙いを定めていた。



「やっぱ調子悪い?」
 グリーフシードでソウルジェムの穢れを落とし、一息ついたさやかは心配そうにほむらの顔を覗き込んで尋ねた。
「いえ、大丈夫よ。……でも、ごめんなさい。身体の方は何ともないと思うのだけれど、頭が、少しボォッとして」
「ありゃ。もしかすると風邪? ……魔法少女もそこんとこ面倒だよねぇ。昔は自虐して自分のことゾンビだとか言ったこともあったけどさ、結局魂がソウルジェムになっても身体は人間の身体のまんまなワケだし」
「ええ……そうね」
 相槌は打つものの、ほむらは心ここに在らずといった体で自身のソウルジェムを見つめていた。たった今穢れを落としたばかりの魂の宝石は美しく煌めいてはいるが、その輝きにもやはり時折ノイズが走る。
 おかしいのは眼か、それとも脳か。
 自らの疾患を探るべく神経を研ぎ澄ませてみるも、判然としない。ただ、風邪でないのは確かだった。
「明日は仕事休んで寝てた方が良いんじゃない? まどかにも伝えておくから」
「それには及ばないわ。……少し、疲れただけよ」
 そう言ったほむらの額に、さやかがそっと手を当てた。
「うーん。確かに熱は無さそうだけど」
 じんわりと伝わってくるさやかの手の温度が心地良かった。
(ああ、そうか……今、冬……だから)
 季節は冬。
 雪もちらつき始める今は何月の何日だったろう。年は越したのだろうか。それともまだクリスマス前だったろうか。
「ねぇ、さやか」
「うん?」
「聞いてもいいかしら」
「いいけど……なにを?」
「今、……今日は、何月何日だったかしら」
「うひゃ。こりゃホントに重症だ」
 クスリと笑みを浮かべながら、さやかはほむらの手を引いた。急いで帰って、薬でも飲んで寝ろと言うつもりなのだろう。けれどそれよりもほむらは今がいったいいつなのかを確認することの方が重要だった。
「ねぇ、教えて。今日は……いつ?」
「いつって、あんた。そんなの――」
(え?)
 一段と激しいノイズが走った。
 さやかの言葉が聞き取れない。世界が歪み、景色が澱み、静謐とした夜の空気が一変して壊れたラジオのように不快な音を大合奏する。
(これは……魔女の攻撃? まだ魔女がいるの? なら、さやかに教えないと……! さやかと一緒に、魔女を……この騒音の魔女を倒さないと……)
 ふらつく左腕を顔前に翳し、盾の中から大振りのサバイバルナイフを取り出す。不協和音が脳を締めつけ、こねくり回してくるのをほむらは必死に耐えた。
「さやか!」
 返事が無い。
 つい今の今まで目の前にいたはずのさやかが、まるでこの歪んだ世界に溶けてしまったかのように消失していた。
「さやか、何処なの!?」
 いない。
 いない。
 何処にもいない。
 誰もいない。
「冗談はやめて! さやか!!」
 溶けて歪んだ世界はいつしか薄気味悪いホールへ姿を変えていた。その光景が何であるのかを思い出し、ほむらは――絶叫した。
 原色を所構わず塗りたくったようなコンサートホール。
 人魚の魔女が座す、彼女だけの音楽堂。彼女のためだけに使い魔達がオーケストラを奏でる忌まわしいそこの真ん中で、ほむらはナイフを振り回した。
「さやかぁあ!!」
 さやかは答えない。
 人魚の魔女が、哀しげに巨体を揺すっていた。




◆    ◆    ◆





 公園のベンチに呆けたように座って、ほむらは夕陽を見ていた。
 綺麗な、赤光だった。冬の空気が焼ける空の色を映えさせ、ほむらは自分の名が示す炎に包まれた世界で、孤独だった。
「暁美さん」
 いつの間にか、隣にマミが腰掛けていた。
 大人になったマミではない。まだ少女だった頃の、出会った当初の十五歳の巴マミがそこにいた。
「巴さん」
 お互いに、懐かしい呼び方だった。
 呼び方を『マミさん』と変えたのは、いつからだったろう。中学を卒業して暫くしてからだったように思う。マミは杏子も呼び捨てにしているのだから気にせず呼び捨てで構わないと言ってくれたけれど、ほむらは頑なに固辞した。むしろ自分は歳下なのだから呼び捨てにして欲しいと言ったのに、『そっちがさん付けで呼ぶならこっちもさん付けで』とマミは今でもほむらのことを『ほむらさん』と呼ぶ。
 杏子よりも距離が遠い気がして少し妬けることもあるが、それでも、マミをさん付けで呼ぶのがほむらなりの親愛の表現だった。ループ中、マミとも色々な事があったけれど、それでも彼女はほむらにとって尊敬すべき、大切な先輩なのだ。だから、呼び捨てではなくさん付けで呼びたいし、そう呼ぶのが好きだった。
 けれど今は、マミは十五歳で、ほむらは十四歳だった。
「どうして泣いているの? 何か、辛いことでもあった?」
「あ……い、いえ、その……っ」
 指摘されて初めて自分が泣いていたことに気付き、ほむらは眼鏡をずらすと手の甲でゴシゴシと涙を拭った。
「不安だったの?」
「う……、え、ええと……」
「なんだよ。ほむらが人前で泣いてるなんて珍しいな」
 マミと反対の方に、杏子が座っていた。
 彼女も出会った頃の姿で、その隣にはちょこんとゆまも座っている。
「ほむらお姉ちゃん……どこか、痛いの?」
 そう呼ばれるのも随分と久しい。思えば、杏子以外のことはゆまは名前の後ろにお姉ちゃん、もしくはお姉さんとつけて呼んでいたものだった。それが無くなったのは、彼女が中学に入るかどうかの頃だったろうか。
 杏子とゆまは傍目にもまるで本当の姉妹のように見えたが、ほむらも、マミも、ゆまのことは妹も同然だと考えている。十一年も一緒に、家族同然で過ごしてきたのだから当たり前と言えば当たり前だ。
 ほむらは両親に感謝している。
 生まれつき心臓の弱い自分が、中学二年になるまで生き延びる事が出来たのは偏に父と母の並ならぬ苦労があってこそだ。魔法少女となったことで心臓病の不安が無くなってからも、二人はずっと娘のことを心配してくれている。今でも折に触れて一緒に暮らさないかと言ってくれるのを断るたびに、胸が痛んだ。それでも、父と母に感謝し、二人を愛しながらも、ほむらは見滝原での生活を選んだ。家族の定義についてたまに自分の中で曖昧になる事もあるけれど、両親も、マミ達も、どちらも自分にとっては掛け替えのない家族、なのだろう。
「泣ける時に泣かないのは愚か者のすることだよ。人は涙を流せる生き物なんだ。辛いことや悲しいことがあったなら、我慢せずに泣けばいい」
「そうね。暁美さんはそういうのを一人で溜め込んでしまうタイプに見えるものね。たまには吐き出すのも、とても良いことだわ」
 キリカと織莉子がベンチの脇に立っていた。この二人ともつくづく奇縁だ。かつてはたとえ別の時間軸でのこととあっても殺したいほどに憎んだものを、今では戦友と呼んで差し支えない間柄となっている。
「涙か。どういった状況でそれが分泌されるのかは理解しているつもりでも、やっぱり本質は理解出来そうもないや。僕にはどうしてほむらが今泣いているのかがわからないからね」
 小憎らしい事を、足下でキュゥべえが宣っていた。世界が再編されて以降は、不本意ながら彼にも随分と助けられた気がする。
 織莉子とキリカにせよ、キュゥべえにせよ、和解など永久に不可能だろうとそう頑なに思い込んでいたものを、時を繰り返しているだけでは決して成り得ない、十年以上という時を重ね経たからこそ現在の関係があった。
 みんな、いた。
 冬の公園に。この寒い中、きっとほむらのことを心配して。
 なのに足りない。
「……まどかと、さやかは?」
 問いかけても、誰も答えてはくれなかった。
 それが悲しくて、ほむらはまた泣いた。





◆    ◆    ◆





「あんたって、意外と泣き上戸だよねぇ」
「……う、うるさいわね。仕方、ないでしょ……う、……グスッ」
「あはは……ほむらちゃん、はい、ハンカチ」
 小洒落たBARで女三人肩を並べ、カクテルグラスを傾けながらほむらはいったい自分は何が悲しいのかもわからずまどかから借りたハンカチで眦を拭いた。さやかがクックッと低く喉を鳴らしているのがどうにも悔しいが、涙が止まらないのだから仕方がないのだ。
「ほむらはさ、普段から我慢し過ぎなんだよ」
「そんなこと、ないわ」
「さっき織莉子さんにも言われてたけど、わたしもほむらちゃんは普段から溜め込みすぎなんだと思うよ。ずっと見てたから、わかるもん」
 ずっと見ていた、という一言に不覚にもまた眦から涙が零れる。そんなほむらの背中を、まどかとさやかはずっと撫でてくれていた。
「こうしてお酒飲んで泣いてる姿なんて、まったく可愛げあるよ。あの頃は、あんたのそんな一面気付かなかった。気付いてれば、もっとずっと違う関係築けてたのかも知れないのにね」
「……仕方、無いわよ。中学生が飲酒なんて、出来るわけないじゃない」
「あはは。……あー、でも、わたしとさやかちゃん、あの頃実はちょっとだけ飲んでみたことあるんだよね」
 予想外のまどかの告白に、ほむらは目を丸くした。さやかはまだしも、まどかが隠れて飲酒だなんて考えた事もなかった。
「ママのお酒、こっそりと。……あの時は苦いだけで、全然美味しいとは思わなかったなぁ」
「まどかはお子ちゃまだからねぇ」
「あっ、酷いよさやかちゃん! さやかちゃんだって『大人はなんでこんなもの美味しそうに飲むのかワケわかんない』って言って顔顰めてたのに」
「あっははは。そうだったっけ?」
「……クスッ」
 そんな二人につられて、ほむらもいつの間にか笑っていた。まだ涙は溢れていたけれど、笑うことが出来た。
「お、ようやく笑いおったな」
「ほむらちゃんは笑うと可愛いんだから、もっと笑った方がいいよ」
「もう可愛いって歳でもないわよ」
 そこはもう、BARでは無くなっていた。
 まどかの開いたガーデニングショップ。店の名前はわからない。
 その中庭で、見上げれば青空。太陽が、燦然と輝いている。
 庭の木陰に置かれたテーブルで、カクテルグラスはティーカップに化けていた。
「マミさんの紅茶とシフォンケーキ、懐かしいな」
 感慨深く呟いたまどかは、十四歳の頃のままの姿だった。
「今はあの頃よりもっと美味しくなってんでしょ? あんた達のお店、あたしも行ってみたかったわ」
 さやかも十四歳のまま。
 大人になった姿なんて、本当はほむらは知らない。知るはずがないのだ。ほむらが知っている無数の世界、可能性の時間は全てあの一ヶ月に限定されたもののみで、有り得た未来の姿までは神ならぬ身には与り知らぬ事だった。
「これは、まどかが見せてくれたの?」
 ほむらの問いに、まどかは静かに首を横に振った。
「違うよ。わたしには夢枕に立つような力なんてないもん。でも、そうだね。ほむらちゃんが凄く強く望んでくれていたから、もしかしたら……ちょっとだけ、干渉出来てるのかもね」
 その言葉だけで、ほんの少し救われた気がした。
「そんなに不安だった?」
 さやかの問いに、やや逡巡した後ほむらは首肯した。
「そう……ね。不安は、いつだってあったわ。今はそれなりに上手くやれているつもりで、でも上手くいきすぎている気もして。かと思えば、もっと上手くやっていれば違う未来もあったんじゃないかなんて、未練がましくまだそんな風に考えていたりもする。……無意識に、溜め込みすぎていたのかも知れないわね……」
「うーん。素直なほむらは可愛いねぇ。まどかから浮気したくなっちゃうよ」
「もう、さやかちゃんったら」
 頭が妙にクリアで、ほむらはティーカップの中身を全て飲み干すと立ち上がった。その隣に、まどかもさやかもわざわざ並ぶ。
「あちゃー。完全に抜かれちゃったなぁ、背」
「身長だけじゃないわよ?」
 そう言ったほむらの胸をマジマジと見つめ、さやかは地団駄を踏んだ。
「いやいや、いやいやいや! ほっとんど変わんないじゃん! 十四歳のあたしと! 今年で二十六のあんたと! これ勝ち誇れるのか? いいや、無理だね」
「ないわ。それはないわ。さやか、もう少しちゃんと見なさい」
「……わたしなんてもっと小さいよ」 
 自分のなだらかな胸を見下ろし、まどかがボソリと呟いた。それがおかしくて、三人でまた笑った。
 なんて心地良い空気なのだろう。いつまでもここに浸っていたいとそう思う反面、けれどほむらには、歩んできた十一年がある。今年で、十二年目だ。
「もう行くの?」
「ええ、そろそろ帰るわ」
「そっか。気をつけてね」
 何とも気楽な、別れの挨拶だった。
 庭の出口から向こうには、真っ白な世界が広がっていた。そこへ向けて、ほむらは名残惜しくもしっかりと歩を進めた。
「……また――」
 ――逢えるかしら――と。
 尋ねようとして、やめた。
 肩越しに振り向いた先で、まどかとさやかが小さく手を振っているのを見て、ほむらは軽く頭を垂れるとそれ以上の言葉は交わさなかった。
 晴れやかな満足感で、胸はいっぱいだった。
 白い世界へ足を踏み出した瞬間、ほむらの意識はそこでいったん、途絶えた。





◆    ◆    ◆





「へぶっ!?」
「痛っ!?」
 目覚めと同時に額に走った衝撃に、ほむらは思わず頭を押さえて再びその場に転がった。洒落にならないくらい痛い。いったいどこにぶつけたのかと涙で滲んだ視線を巡らすと、同じように口元を押さえて転がっている杏子がいた。どうやら杏子の顎と激突したらしい。彼女の顎はわりと鋭角なので、こういう時は凶器になるのだなとトンチンカンなことを考えながらほむらはさらに周囲を見回した。
 マミとゆまが、何とも言えない表情で痛みに転がる二人を見下ろしている。その手には、マミはお猪口、ゆまは雑煮の入ったお椀。さらにキュゥべえも生意気に雑煮を啜りながらキュッぷいとゲップしていた。
(ああ、……そうか。そう言えば)
 Cerchioは大晦日から正月三が日は休みなので、年末年始で地味に活発化する魔獣を狩りつつ四人と一匹でダラダラ過ごしていたのを思い出し、ほむらはようやく身を起こし直した。
「……寝てた?」
「ええ、グッスリと」
「疲れてたのか、パッタリと寝てたよ。そしたらなんだかうなされてるみたいだったから、杏子が『もしかして餅でも喉に詰まらせてんじゃないか?』って言って」
 ゆまに言われてもう一度杏子を見ると、まだ藻掻いていた。
 つまり、心配して覗き込んでいた杏子に急に目覚めた自分がヘッドバットをぶちかましたわけだ、と理解したほむらはやや寝癖のついた髪をかき上げると、取り敢えず謝罪した。
「ごめんなさい、杏子」
「ふほぉ……ふぇんふぇんひゅまなほうにひへねぇほ」
「何言ってるかわからないわよ」
「全然すまなそうに見えないと言っているみたいだね。それよりもほむら、大丈夫なのかい? まさか本当に餅を喉に詰まらせてうなされてたわけじゃないとは思うけど。……キュッぷい」
「それならうなされる程度では済まなくなってるわよ。あとゲップしながら喋るのやめなさい。汚いわ」
 念のため確認してみても、喉や食道に違和感は無い。餅を詰まらせたのではなく、魔獣退治で疲れて帰ってきたところを炬燵に入って気が弛んだのと酒が入ったせいで急激な眠気に襲われたのだろう。
「どのくらい寝てたのかしら?」
「そんなに長くはないわよ。せいぜい一時間半……二時間くらい?」
「最初は気持ちよさそうだったんだけど、なんか途中から凄くうなされてて……最後の方は静かだったかな。ほむらさん、悪い夢でも見た?」
 夢、と言われてほむらは首を傾げた。
 確かに何か夢を見ていた気がする。夢の中ではとても辛く悲しいことがあったような気もするし、かと思えばとても嬉しいこともあった気もする。
「悪い、夢……だったのかしら」
「はふ。ふぅ……ン。……しっかし初夢が悪夢とは幸先が悪いなぁ」
「初夢?」
 モゴモゴと口を動かしている杏子からそう言われ、ほむらは壁掛け時計に目をやった。現在、一月二日の午前一時を少し回ったところ。値落ちしている間に日を跨いでしまったようだった。
「初夢か。確か元旦から二日、もしくは二日から三日にかけての間に見る夢のことをそう呼ぶのだったね。一富士二鷹三茄子が縁起がいいのだったかい?」
「お前もそういうとこ変に勉強熱心だな」
「少しでも君達への理解を深めようとこれでも日夜努力しているんだよ。日本在住の魔法少女達へは年賀状も出してるしね」
「マジかよ!?」
 これには杏子だけでなく他の三人も驚きを禁じ得なかった。
「ここ数年キュゥべえ宛の年賀状があるのはそのせいだったのね……」
「君達とは半ば同居状態だから出してないけどね」
 キュゥべえの年賀状発言には驚かされたものの、それ以外は特にどうと言うこともない日常の会話だった。
 マミがいて、杏子がいて、ゆまがいて。
 四日になって店を開ければ織莉子やキリカ、他にも常連がいて。それに、タツヤもいて。みんな、いて――
「――あ」
 乾きかけの頬を、涙が一筋伝った。
「ちょっ、ちょっとほむらさん、大丈夫?」
「おいおい、そんなに悪い夢だったのかよ?」
「あ! 枕の下に七福神のお札入れておくといいらしいよ……って、遅いよね」
「いっそ寝直したらどうだい? 炬燵でなく、布団で」
 皆の言葉が、やけに胸に染みた。キュゥべえの言葉にすら有難味を感じてしまうのが癪だったが、ほむらはフッと小さく息を吐くと手の甲で涙を拭った。
 悪夢。
 確かに、そんな記憶はある。
 普段から少しずつ、少しずつ塵のように積もっていった不安が一気に発露されたかのような、凄惨な夢。最悪の事態が繰り返される、まるでかつてのループをも思い出す夢は、それでもやはり悪い事ばかりではなかった。
 最後はとても優しくて、温かかった――はっきりとは思い出せないけれど、少しだけ望みがかなった覚えが、ある。
「……ん」
 寝落ちする寸前まで飲んでいた自分のお猪口を手に、ほむらはなるべく身体が炬燵布団からはみ出さないようモゾモゾと身動ぎしながら徳利に手を伸ばした。
「熱……ぅ」
「燗したばかりだもの」
 とは言え火傷する程の熱でも無い。手酌でお猪口に酒を注ごうとしたところ、横からゆまが手を伸ばしてきたので何も言わずにほむらが徳利を預けると、そのまま注いでくれた。
「……飲む?」
「え、いいの?」
「駄目だ。お前にゃまだ酒なんて早い」
 折角の飲酒の機会を杏子に阻止され、不満そうに頬を膨らませているゆまを見ているとどうしてかほむらは無性に笑えてきた。
「そんなに厳しくしなくてもいいじゃない。ゆまももう十八なのだし」
「いやいや、未成年の飲酒はだな、駄目だ駄目だ。こいつに飲ますくらいならあたしが飲む」
「横暴だー!」
 飲酒や喫煙には編に厳しいところのある杏子が“あのこと”を知ったらどんな顔をするか、想像しただけでさらに笑いが止まらなくなる。“あのこと”が何のことかは思い出せないけれど、ただただほむらは可笑しくて、楽しかった。
「それで結局、初夢はどうだったの?」
 赤ら顔が色っぽいマミに、ほむらは短く唸ってから相貌を綻ばせ、
「良い夢、……だったんじゃないかしら。多分……ええ」
 そう言って、クイッとお猪口の中身を干した。
 飲み慣れた日本酒の芳しい吟醸香が鼻腔を抜けていく中、カクテルの甘い香りが微かに混ざっている気がして、ほむらは小さく鼻を鳴らした。





〜end〜






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