サバラヴ





◆    ◆    ◆





「タケル」
 凛々しくも泰然とした声と、
「タケルちゃん!」
 明るく朗らかな声、
「武様」
 そして清涼かつ穏やかな三つの声が、昼休みの教室の喧噪を一気に打ち消した。毎度の事ながら、教室中の視線が声のした一点へと集中する。ほとんどは『またか』と言いたげな、しかしどこか期待を含んだものだ。即ち――今日は一体どんな騒ぎが見られるのか――3-Bに在籍する者達の興味はそこに集約している。
 だが、今回はいつもと開始からして展開が異なっていた。
「……タケル?」
「あれ? さっきまでいたのに……」
「どちらへ行かれたのでしょう?」
 白銀武の机を囲みながら、御剣冥夜、鑑純夏、御剣悠陽の三人は姿の見えない席の主を捜して周囲を見渡した。……が、影も形もない。首を傾げ、何度も辺りを見回してみても、やはりいない。教室のどこにも武の姿を見つけることは出来なかった。
 拍子抜けしたのはクラスのみんなだ。いつもなら、純夏と御剣姉妹がそれぞれの用意してきた弁当を武へと突き出してどっちの弁当ショーが始まるはずが、当の武がいないという斬新な展開は予想外だった。特に男子の一部からは『じゃあ今日の賭けはどうなるんだ?』といった声があがっている。こちらはこちらで彼女達の勝負に昼食を賭けているのでなかなかに事態は切実らしい。
「……逃げたね」
 彩峰慧は、そう言って口の端を微かに吊り上げた。
 逃げた、という言葉にそれぞれ反応する三人を眺めてから、おそらくは学食か他クラスの友人の所にでも向かうつもりだったのだろう、教室の入り口付近に立っていた柏木晴子に目配せをする。晴子も慣れたもので、それだけで慧の意向を察したようだ。
「ああ、白銀君なら鑑達が弁当の用意をしてる隙に凄い速さで出てったよ」
 苦笑しながら晴子が漏らした解答はまったく慧の読み通りだった。
「えー!?」
 自分の分も含め、二人分だとしてもやたら大きな弁当箱一式を抱えた純夏が非難の声をあげる。昨日、一昨日と御剣姉妹に連敗しているためか、今日は四時起きで作ったいつにも増した自信作だというのに、食べて貰いたい相手がいないのでは話にならない。
「柏木、そなたタケルが何処へ向かったかは……」
「んー、ゴメン、そこまではわかんないなぁ」
 教室から武が飛び出していった瞬間、冥夜達の声が聞こえて晴子も反射的に振り返ってしまったのだから行き先を知らないのも当然だった。他のクラスメート達も同様らしく、みんな無言で首を横に振っている。
「屋上でしょうか? ですが、彩峰さんはここにいらっしゃいますし」
 意味ありげな悠陽の言葉に、彩峰はいつも通りの無表情ながら背中に何かの包みを隠した。誰に対してものらりくらりと本心を隠しながら接する彼女であっても苦手な手合いはいるらしい。
「榊、珠瀬、そなた達は――」
「知らないわ」
「わたしも知らないよ」
 榊千鶴、珠瀬壬姫の両名も行き先を知らず。二人とも妙にソワソワしていることからそれが嘘でないのは明白だった。
「タケルちゃんめぇ……いったいどこに……あっ」
 険しい視線でもう一度教室を見渡し、純夏はこの件で留意すべき要注意人物が二人足りないことにようやく気がついた。冥夜、悠陽も同様に気がついたようだ。なるほど、確かに一人はマイペースながらも行動力に抜きんで、もう一人は存在感の薄さからか隠密に優れている。だが果たして本当に二人が犯人なのか確信が持てない。前者はまだしも、後者が自分からこのように能動的な動きを見せたことは彼女が転校して来て以来一度もなかったからだ。
 ……が、しかしその考えはまったく甘かった。
「ああ、そう言えば」
 唐突に晴子が何やら思いだしたかのように手を叩く。
「白銀君と一緒に鎧衣と社も教室を出てったんだった」
「それを先に言わぬか!」
「ムッキーーーー! 抜け駆けなんて汚いよ!」
「油断も隙も無いとはまさにこの事っ」
 冥夜と純夏は弾かれたように、悠陽はあくまで落ち着き払った佇まいを崩すことなくしかし迅速に教室を出ていった。
「……いやはや、凄いよねぇまったく」
 ニヤニヤしながら、晴子の目は慧と千鶴、壬姫の三人へと向けられていた。それ以上を口にしないのは、決して優しさからではないだろう。
「わ、私は行かないわよ!」
 晴子だけでなくクラス中から注がれる期待の眼差しに耐えきれなくなったのか、千鶴はそう叫んで自分の席に勢いよく腰を下ろした。そのまま鞄から弁当を取り出す。
「……それ、一人分にしては多いよね」
 弁当を広げる手が、止まった。
 二段組の重箱は確かに千鶴が一人で食するには些か多すぎる。
「う、うるさいわね! あ、あなたこそどうして焼きそばパンをわざわざ二つも隠し持ってるのよ!?」
 反論を受けても慧の表情に相変わらず変化はない。ただ、後ろ手に隠した二包みの焼きそばパンがカサリと小さな音を立てたのを壬姫は聞き逃さなかった。
「二人とも落ち着きなよ〜」
 だから仲裁する声にも緊迫感はない。
 やはりこちらも一人分にしては大きめな弁当箱を手に、壬姫は二人を優しくなだめたのだった。




◆    ◆    ◆





「……うぉお〜〜〜! やっぱ学食の鯖味噌定食は最高だぜ」
 鯖味噌と白飯を豪快にかっ込みながら、武は心の底からその味を噛み締めていた。以前はよくこうして学食を利用したものだが、最近はとんとご無沙汰だったため感慨もひとしおだ。
 今にも泣き出しそうな勢いの武を、彼を挟んだ両隣で同じく鯖味噌定食を食べていた二人は思わず箸を止め唖然として見つめていた。
「……美味しい、ですか?」
 そんな社霞の問いも聞こえているのかいないのか、ただひたすら一途、一心不乱に武は鯖味噌を喰らい続けている。
「もう何も聞こえてないみたいだね。よっぽど食べたかったんだなぁ」
 鎧衣美琴の方は、こちらはもう素直に感心していた。確かに今の武の食べっぷりは見る者にもある種の感動を与える男らしさに満ちている。ここまで美味しそうに食べて貰えれば、誘った側としてもその甲斐があったというものだ。
「いやぁ、冥夜と悠陽さんが転校してきてからこっち、毎日豪勢な飯にありつけるのはいいんだけど、この味が恋しくて恋しくて……」
 御剣姉妹の転校直後、D組担任の香月夕呼が主催した“第一回・白銀武の隣の席争奪戦料理対決”以来、武の食生活はそれ以前とは比較にならない急激な向上を見せていた。中でも顕著なのが昼食で、姉妹が用意する超のつく一級品は無論のこと、対抗意識を燃やす純夏や、時には千鶴に壬姫、慧までが競って様々な弁当を差し入れてくるため、近頃は下っ腹と顎の下についたお肉が怖ろしい。たまに一連の食事責めは自分をフォアグラ用に肥えさせているのではないかと疑いたくなる。
 そんな時、ふと武が愚痴をこぼしたのは弁当勝負においては沈黙を守り続けていた美琴と霞の二人にだった。
 美琴は武の“親友”として、霞は“妙な”勘の鋭さ故に、激化の一途を辿る昼食争いに武がそう遠くないうちに辟易するのを見越していたのだろう。果たして彼女達の見解は正しく的を射ていた。

 ――美人は三日で飽きる、ブスは三日で慣れる――

 なんて言葉もあるが、武の場合は美人に慣れて美食に飽きた。
 かくして美琴と霞の協力の下、冥夜達が弁当の準備を始めた一瞬の隙をついて教室を脱出、久しぶりに学食でのランチタイムを謳歌しているわけである。
「ンぐっ。……料理勝負の時に霞が作ってくれた鯖味噌も結構美味かったけど、この学食の鯖味噌はさ、なんツーか、心に響く味なんだよなぁ」
「……あ、ありがとう……ございます……」
 霞の控え目な礼を聞きながら、武は自分でも不思議だった。以前は鯖味噌なんてたまにこうして学食で食べるくらいで特に好物というわけでもなかったのに、最近は不意に食べたくなることがある。料理勝負も最終的には味で勝っていた御剣姉妹に勝利の判定をくだしたとは言え、もっとも印象深かったのは何故か霞の作った鯖味噌だった。
(味覚の変化ってやつか?)
 人は成長するにつれて好みなども変わるらしいから、結局はその程度のことなのかも知れない。
「ふー。ごちそうさま……」
 あれだけの快食撃ならばさもありなん、鯖味噌定食はアッという間に平らげられ、後には微妙に物足りなさそうな武が残された。
「まだ少し食い足りないかなぁ……って、ん?」
 そう漏らした武の目の前に、ズイッと、箸で摘まれた鯖味噌が一片差し出される。
「霞?」
 差し出したのは、霞だった。
「……どうぞ」
「いや、どうぞって……」
 霞の目は真剣そのものだ。普段は感情を読みとりづらい少女だが、今この時ばかりは瞳にとても強固な意志の光が宿っているよう見える。
「……アーン」
 瞬間、学食が凍り付いた。
「は……や、その……アーン、て」
「アーン、です」
 色白な頬に赤みがさしているのは武の見間違いではあるまい。霞も恥ずかしいのだろうがしかし箸を取り下げるつもりはないらしい。
「み、美琴」
 情けない声をあげつつ武は助けを求めるつもりで美琴へと向き直った。
 が――
「ボクも……そのぉ……はいっ! タケル、アーンっ!」
「ぐはっ!」
 こちらも頬に僅かな朱を散らしながら、上目遣いで元気良く鯖味噌を差し出してきた。これを打算抜きでやっているのだから美琴も相当なものだ。
「タケル、食べ足りないんでしょ? だったら、ほら」
「……アーン」
 確かに熱望していた鯖味噌定食、一人前では食べ足りない。食べ足りない気はするが……しかしだからと言って公衆の面前でこれはいつもの弁当勝負以上の拷問である。教室なら見ているのはクラスメートだけだが、ここでは学校中の晒し者だ。
「いや、だからな、二人とも……その、だな?」
 右に霞、左に美琴。これが互いの競争心からくる行為ならまだ断りやすいのだが、双方から共に純粋な厚意が感じ取れるのがまた辛い。
 学食中の視線が自分達に集中しているのが武には手に取るようにわかった。なんか胃を満たすより先に胃に穴が空きそうな空気だ。
 と、そこでさらに胃袋にダメージ追加イベントが発生。
「あー、見つけたぁッ! 冥夜さん悠陽さーん、タケルちゃんいたよーっ!」
「でかしたぞ鑑!」
「武様、こんなところにいらっしゃったのですね」
「げぇっ!? もう見つかっただと!?」
 そのまま逃げる間もなく包囲完了。つい先程まで大いに賑わっていたはずの学食がどうしてこんなにも静まりかえってしまっているのか、武は神様に訊いてみたくて仕方がなかった。訊いたら教えてくれるだろうか。くれないだろうな。神様は常にイケズだ。
「タケルちゃん! 今日は四時起きですんごく頑張ったんだよ! だから四の五の言わずに食え! 貪り食え〜!」
「武様、本日の食材は鹿児島枕崎直送のシブダイだそうですわ。つい今し方捌いたばかりの逸品、とくとご賞味ください」
 左右から差し出された鯖味噌に加え、正面から突き出されたのは二つの弁当。そもそもさっきまで武達の正面には体育会系のゴツイのが二人並んで座ってうどんを啜っていたはずなのにいつの間にかいなくなっていた。横目で確認すると二つ隣のテーブルに既に避難している。羨ましい。
「ま、待て純夏、悠陽さんも! オレは今食ったばかりでもう満腹だから弁当なんて無理だってば!」
「じゃあなんで霞ちゃんと鎧衣さんがアーンなんてしてるのさ!?」
「ぐむぅっ!」
 純夏の目が爛々と輝いている。この状態の彼女を理屈で言い負かすのは非情に難しい。下手に刺激して土手っ腹にドリルミルキィパンチだけはなんとしても避けねば、なにせ今は食後だ。出ちゃう。
「武様……ご自分は食べるつもりはないのに社さんと鎧衣さんのお二人が勝手になさっているだけだなどと、まさかそのような情けない言い訳をするおつもりですか?」
「ひぃっ!?」
 悠陽の丁寧な物腰と穏やかな笑顔は、毎度ながら妙な迫力があって逆らえない。迫力や隙の無さでは御剣姉妹の侍従である月詠真那も同様だが、悠陽の場合は加えてそこはかとない威厳のようなものまであるので尚更だ。
「ほらタケル、早くしないと冷めちゃうよ? ああ、冷たい鯖味噌と言えば前に船が遭難した時に鯖缶が一箱一緒に浜辺に流れ着いてたんだけど肝心の缶切りが無くてさぁ。いやぁ、目の前に食べ物があるのに食べることが出来ないっていうのはとんでもない拷問だよねぇ」
「お前はもっと空気読め!」
「……アーン」
「霞も! 頼むから!」
 四方からの一斉攻撃に精根尽きかけつつ、ふと、タケルは攻め手が一人足りないことに気がついた。
 冥夜は悠陽の隣に立ったまま、姉に加勢するでも他の三人を牽制するでもなく、自ら弁当を勧めようともせずに黙って武の前に置かれた空き皿を凝視していた。
 そのままどれくらい経っただろう。
「タケル」
「だからそんなに食えないって……あん?」
 沈黙を破り、冥夜はズイッと身を乗り出していた。純夏達も武へと伸ばした手を止め、冥夜に注目する。
「先日の料理勝負の時も気になっていたのだが、そなた、そんなにも鯖の味噌煮が好きなのか?」
 真っ直ぐな視線に射抜かれ、武は思わずたじろいだ。真っ直ぐと言えば純夏も大概そうだが、冥夜のまるで吸い込まれそうな黒い瞳には本当に余分なものなど何一つとして含まない鮮烈なまでの潔さがある。
 冥夜にとってこの疑問はそれなりに重要な意味を持っていた。先日の料理勝負、冥夜と悠陽は武がそれとなく食べたいとぼやいた満漢全席を世界有数のコック達に作らせ、味という最も公平な判断の下に勝利をおさめはしたものの、霞の作った鯖味噌に対する武の深々と染み入るかのような凪いだ表情がずっと気になっていたのだ。
 御剣の戦に敗北は許されない、目指すは常に完全な勝利のみ――しかし冥夜は判定に不服があるわけでも完勝に拘っているわけでもなく、ただ純粋にあの時の武が見せた表情の意味を知りたかった。
「んー、その、別に特別好きってワケじゃないと思うんだけど」
 冥夜の視線に多少気圧されながら、武は言葉を紡いでいく。
「なんか食べてると懐かしいって言うか、郷愁を誘う味とでも言うのかねぇ。オレにもわかんねーんだけど、妙に落ち着くんだ」
 そう言った武の表情は、まさにあの日冥夜が見たままのものだった。
「そう、か」
 普段は粗忽でいたずら好きな少年といった印象を拭いきれない彼とは打って変わった落ち着いた雰囲気。かといってそれが彼らしくないわけではなく、不思議と白銀武らしいと感じるのである。
「……あの、それじゃ私、また作りますから……」
 差し出していた箸を引っ込めて、霞は言った。
「白銀さん、食べて貰えますか?」
 控えめなようでいて霞の言葉は温かな力強さに満ちている。
「あ、ああ。そいつは嬉しいけど――」
「月詠、聞いていましたね?」
「はい、悠陽様」
「わぁっ!?」
 いつの間にか武の背後には月詠が平然と立っていた。こればかりは何度やられても一向に慣れることが出来そうにない。
「ならば……」
「早急に手配いたします」
 そして幻か蜃気楼のようにかき消える。消え去る瞬間にチラリと美琴を名残惜しそうに見つめていたような気がしたが、武は気付かなかったことにした。そこら辺の意識は個人の自由だとは思うが知った顔の百合百合した情景は愚息の安息のためにもあまり思い浮かべたくない。
「クスッ」
 涼しげな笑みをたたえ、悠陽は純夏へ視線を向けた。それを挑戦と受け取ったのか、純夏も不敵に笑って悠陽を見つめ返す。
「フッフッフ……タケルちゃん、今日の晩ご飯は期待してくれていいよ?」
「ちょ、純夏、お前今日の晩飯を鯖味噌にする気か!?」
 今食べたばかりなのに。
「素材と技術で劣る分は心でカバー! 今度こそ負けないよ! タケルちゃん、今日は思う存分鯖にまみれてもらうからね!」
 武の叫びなんてやる気に満ちあふれアホ毛をビンビンにおっ立てた純夏にはこれっぽっちも届かないらしい。このままでは今夜の武は鯖まみれ純夏地獄だ。
「じゃあタケル、ボクも今から釣りに行ってくるよ」
「はぁ?」
 鯖味噌を食べ終えた美琴が唐突に宣言した。
「鯖を釣るなら今だと何処かなぁ。そう言えば前に目が覚めたら漁船の中でさ、海を見たら凄い数の鯖の群が泳いでてあれにはビックリしたよ〜」
 相変わらず空気を読もうという気配はない。
 このままでは鯖に溺れてしまいかねないとばかりに武はまだ食事の終わっていない霞に助けを求めようとしたが、彼女もこれでなかなか負けず嫌いの気性である。よく見ると眉間の辺りがほんの少しだけ険しさを帯びている。
 無理だ。霞はこの鯖地獄から武を助けてはくれない。
「今は秋だしねぇ〜。丁度脂がのってて鯖が美味しい季節だから何処に行くか本当に迷っちゃうよ。そう言えば彩峰とか釣り好きそうな感じしない? ねぇタケル」
「海で焼きそばパンが釣れるようならあいつは喜んで釣りに行くだろうよ」
「委員長とか香月先生は堪え性無いから釣り向きじゃないよね。珠瀬とか結構向いてるんじゃないかなぁ」
「少しは聞けよ人の話も!」
「え? タケルも一緒に行く?」
「行かねーよ!」
 きっと明日の今頃は美琴は鯖の群を追って遙か遠い空の下だろう。そう長いつきあいでもないが、武は確信していた。出来れば釣り上げた鯖が腐る前に帰ってきて欲しいところだが、そこは美琴を信じるしかない。
「へー。臭みを取るのに梅干しを一緒に煮るんだ」
「はい。鯖は、やっぱり生臭いので……あと、お出汁にも工夫を……」
 一方、純夏はようやく食べ終わった霞と鯖の味噌煮の作り方で盛り上がっていた。その横に佇む悠陽は自信がありそうだが表情からはそれ以上何も窺い知ることは出来そうにない。美琴は聞いてもいないことを延々喋り続けたままだ。
 そして、冥夜は……
「冥夜、どうかしたのか?」
 まだ難しい顔をして空になった皿を見つめ続けていた。
「タケル、そなたは……」
 何事か口にしようとして言い淀む、普段の冥夜らしからぬ様子に武は首を傾げた。別にいつも彼女が短慮だと言うつもりはない。確かに常識的に考えてありえない勘違いをすることも多々あるが、基本的に御剣冥夜とは迅速かつ的確な判断力を有し、その上でこうと決めたら大胆不敵に実行、常人には想像も出来ない規模で平然と事を成してしまう少女だと武は考えている。
 彼女と出会ってからこのように懊悩する姿を見たのは初めてで、だからかも知れない。待ち受ける鯖地獄のことも忘れ『冥夜でも悩んだり迷ったりするんだなぁ』なんて考えてしまったのは。
「? どうかしたの――」
「あら、もうこんな時間。鑑さん、そろそろ教室へ戻りましょう」
 逡巡している冥夜を不思議に思ったのか声をかけようとした純夏の肩に、悠陽が優しく触れていた。
「社さんも鎧衣さんも、さぁ」
 さらに霞と美琴にも声をかけ、教室へ戻ろうと促す。
「あ、じゃあタケルちゃんと冥夜さんも……わっ、わわ!」
 武の方へと向き直ろうとした純夏の身体がクルリと反転させられていた。まったく力なんてかかっていないはずなのに、肩に乗せられた悠陽の手に逆らえない。
「冥夜」
「は、はい。なんでしょうか、姉上?」
「武様お一人では食器を片付けるのも大変でしょう。ですからそなたは残って手伝って差し上げなさい」
「……ってギャーーーッ!? いつの間にか霞と美琴の食器まで全部オレのに重ねられてるーーーっ!?」
 武の目の前には三人分の大皿小皿、飯と味噌汁の椀が微妙に持ちづらそうな積み方をされていた。
「ではわたくし達は戻りましょう」
 霞も美琴も言われるままに席を立っていた。こういう時の悠陽の笑顔と言葉には有無を言わせない凄味がある。
「……姉上」
 その呼びかけには答えず、悠陽は武に優しく微笑みかけると純夏達を連れて学食を出ていった。



「冥夜さん、どうしたんだろ?」
「……なんだか、悩んでるみたいでした」
 立ち止まって学食を振り向いた美琴と霞は本当に心配そうな顔をしていた。それだけでも悠陽はこの白稜柊に来て良かったと思える。
 同い年の人間との交流なんて今までほとんど持たずに生きてきた悠陽だが、一応は恋敵にあたるはずの相手を心から案じることの出来る少女達の存在は間違いなく希有だろう。
「心配なさらずとも、あの娘なら大丈夫ですよ」
 そう思うと、自然と足取りが軽くなった。
「悠陽さんって、凄いね」
「そうでしょうか?」
 純夏が何をもって凄いと称したのか――確かに我ながら今回は世話を焼きすぎたかと悠陽は苦笑し――
「うん。本当に同い年なのが信じられないくらい」
 ――ピシリ、と。続くその言葉で微妙に笑顔が固まった。それまでの柔らかい物腰が嘘のように歩調がぎこちない。
「わたしも壬姫ちゃんみたいに“悠陽おねーさん”って呼んじゃおうかな」
 さらに、追い打ち。纏った空気が一層重たくなる。
 ちなみに壬姫の“悠陽おねーさん”という呼び方は、最初のうちは『同い年なのだし』と何度か訂正したのだがいっこうに直る気配がないため今では悠陽も諦めている。
「ボクもたまに本気で“センパイ”って言っちゃいそうになるんだよね」
「……お姉、さま」
 今度は目に見えて肩が下がっていった。純夏の場合はまだ冗談交じりだろうが美琴と霞は本気としか思えないのが切ない。
 トボトボと力無く歩きながら、悠陽は目を細めて天井を見上げた。
「……そんなに」
「え?」
「そんなに、わたくしは年上に見えるのでしょうか?」
「うん、見えるよねー」
 悠陽の動きが、今度こそ止まった。迷いも躊躇いもない、まったく美琴らしい即答だった。しかし、それすら悲劇の序章に過ぎなかったのだ。
「月詠さんが冥夜さんのお姉さんだとすると、悠陽さんはなんだかお母さんみたいだよね」
 悠陽、轟沈。
 美琴のあまりにも容赦ない追撃に、純夏も霞も言葉を失っていた。いくらなんでもお母さんは言い過ぎだろうと思うが、かといって上手いフォローの言葉も何一つ浮かんでこない。
 それでもたった数秒で再び歩き出したのは流石としか言い様がない。
「えーと……その、悠陽さん?」
「なんでしょう」
「鯖味噌……頑張ろうね?」
「……ええ」
 純夏は、今程悠陽に親しみを覚えたことはなかった。
 南無。



 積み上げられた食器を二人で持ち運びやすいよう分けながら、武は片手で腹を押さえて笑い続けていた。
「そんなに笑わずともよいではないか」
 恥ずかしさに頬を染めた冥夜が拗ねたように呟く。いつもの凛然とした彼女はいかにも“侍”といった感じで格好いいが、からかった後などに見せるこの拗ねた表情は何とも可愛らしくて、武も柄にもなくドギマギしてしまう。
「いや、だって全然片付けようとしないからどうしたのかと思えば、『給仕は何をやっているのであろうな。それともこちらから声をかけるべきなのだろうか?』ってお前、学食でそりゃねーだろ」
 照れ隠しのつもりが、思い出したらまた吹き出しかけた。
「が、学食での作法など知らなかったのだ。大学の時も食事は全て月詠達が用意してくれていたのでな」
「じゃあなんで悠陽さんは知ってる風だったんだ?」
「姉上と私は別々の大学に通っていたのだ。姉上は何かと自分でやりたがるお人ゆえ、学食を使ったこともおありなのだろう」
「なるほど」
 そう言われてみれば、二人共常識外れな事はするが、冥夜の場合は単純に度外れた世間知らずのため、悠陽の場合はそれとなーくわかっていてやってるよう思える。まぁどちらにせよ傍迷惑に違いはないのだが。
「でもそう考えると双子なのに結構違うんだな」
「当たり前だ。双子の姉妹であってもあくまで別個の人間である。まったく同じ人間を二人育成しても、意味があるまい」
「ま、そりゃそーだ。二人揃って涼宮征伐に向かわれてたら、今頃あいつ墓の下だったかも知れないしな」
「その話はもうよさぬか。思い出すだけで顔から火が出そうだ」
 御剣姉妹転校の翌日。武は水泳部のホープである涼宮茜をその優れた能力から“魔物”と例えて説明したのだが、どこをどう勘違いしたのか冥夜は茜を本物の魔物と勘違いして愛刀皆琉神威を抜きはなちD組に乗り込むという一悶着があった。純夏に言わせれば悪いのは武らしいのだが、今でもこの話は冥夜の弱点となっている。
 ちなみに、その時悠陽は何をしていたかというと、冥夜を止めようともせずおもしろがって事態を傍観していた。この辺のタチの悪さはどこか慧に通じるところがある。
「じゃあ今から学食における食器の片付け方の勉強だ」
「うん、心得た」
 なんて大層な物言いをしたところで、することと言えば食器置き場に持っていき流し台に放り込むだけで何も特別なことはない。
「箸はそこ、んで皿やお椀はその中に放り込めばオッケーだ」
「そうか。自分で洗うわけではないのだな?」
「そりゃなぁ。学食を利用する奴が全員自分で自分の使ったもの洗ってたら馬鹿でかい洗い場が必要になるし」
「確かにその通りだ。奥が深いな」
 深くない。
 そんなわけで片づけはあっさり終わってしまった。珍しそうに流し台を眺める冥夜を横目に、武はさてどう聞いたものかと頭を捻った。
 悠陽が自分達二人をわざわざ残した意図を察すれば冥夜が何を悩んでいたのか聞くべきではあるのだが、下手な聞き方をしようものなら彼女の性格から考えて変に頑なになられてしまう可能性が高い。
 と、いつまでも動こうとしない二人に声をかける人物がいた。
「あっはは、洗いたいんなら洗ってってくれてもいいよ?」
「おばちゃん」
 驚いて武が振り向くと、そこには“学食のおばちゃん”こと京塚志津江さんがニコニコしながら立っていた。
「なんだいアンタ、久しぶりに来たかと思えばまーた新しい女の子なんて連れて来ちゃってさぁ」
「人聞きの悪いこと言わないでくれよ」
 バンバンと肩を叩かれ、照れ笑いを浮かべる武を冥夜は驚いて見つめていた。普段から良く言えば奔放な、悪く言えば大人を大人とも思わぬ横柄な態度を崩さない武がこんな顔を見せるのは非常に珍しい。
「タケル、こちらのご婦人は?」
「ああ、この学食で働いてる京塚さん。旦那さんがこの近所で食堂やってるんだけど、おばちゃんも料理上手いんだぜ? おばちゃん、今日の鯖味噌も最高だったよ」
 先程食べた鯖味噌の味を反芻しているのか、武はとても嬉しそうだ。
「煽てたって何も出やしないよ。ところで、お嬢ちゃんはアレかい? 武の新しい彼女かい?」
「新しいかどうかは兎も角、タケルの伴侶で御剣冥夜と申す者です。京塚殿、以後お見知り置きを」
 今の今まで嬉しそうだった武が急に咳き込んだ。
「どうしたタケル。風邪か?」
「ゲフッゴフッ! ちげーよ! な、なんだ伴侶って!?」
「言葉通りの意味だが……よもやそなた、勉強が嫌いなのは知っていたが伴侶の意味すらわからないわけではあるまいな?」
 冥夜から本気で疑わしげな目で見られ、武はガックリと項垂れた。
「よいか、タケル。伴侶とは“伴う者”“連れ”“仲間”と言った意味もあるが、主な用途としては“配偶者”の意として――」
「知ってるよ! だからなんでオレがお前の伴侶なのかと……おばちゃんも笑ってないで何か言ってやってくれよ!?」
 おばちゃんの豪快な笑い声が、昼休みも終わりに近づき学生もまばらになった学食中へ響き渡る。腹を抱えて丸くなり、なんだかそのまま前方へ突っ伏してしまいそうな勢いだ。
「あっはっはっはっは! 武とそこまで完璧に漫才こなせるのは純夏ちゃんくらいだと思ってたけど、冥夜ちゃん、アンタも大したもんだよ」
「お褒めにあずかり恐悦至極」
「褒められてねーよ!」
「あっははははははは!」
 ますます大きくなるおばちゃんの笑い声に、一体何事かと厨房で働いていた人達まで出てくる始末。さらには声をかけてきた人達にいちいち『タケルの伴侶』と冥夜が名乗るものだから武としてはたまったものではない。
 結局、冥夜に何を悩んでいたのか聞くことも出来ず昼休みも残すところ数分となってしまった。今から教室に戻れば丁度チャイムが鳴る頃だろう。
「ったく、せっかくの昼休みになんでこんなに疲れなけりゃならんのだ」
「恥ずかしがらずにドンと構えていれば良かったのだ。何度も言っているように、私はそなたのものなのだぞ」
 臆面もなく改めてそう言われると、それこそ恥ずかしくなってしまう。武は赤くなった顔を見られないようにさっさと踵を返した。
「ほら、冥夜、戻ろうぜ」
 言うが早いか既に出入り口へ向かって武は歩き出していた。冥夜もその後を追おうとし、しかしすぐに何事か思い出したのかはたと足を止めた。
「……すまぬが先に行っていてくれぬか? 私もすぐに戻る」
「え? ああ、別に構わねーけど」
 戻る前に、やはり聞いてみるべきだろうか――そうも思ったが、やめておくことにした。先に行くよう告げた冥夜の声に迷いのようなものは感じられない。なら、これでいいのではないかと武はそう判断した。
「遅れないようにしろよ。って、オレに言われてりゃ世話ないか」
 わざわざ二人きりにしてくれた悠陽に悪いことをしたような気もするが、学食を出る際、振り向いた武が見た冥夜は、いつも通りの彼女に見えた。





◆    ◆    ◆





「タケルちゃーん、帰ろー!」
「武様、帰りましょう」
「……白銀さん」
「おう」
 放課後。
 純夏、悠陽、霞に囲まれて武は帰路についた。千鶴と壬姫は部の方に用事があるらしくそっちへ、慧はいつも通りにフラリと消えた。美琴はホームルームが終わった途端に本当に釣りに行ったのかどうなのか、兎も角この場にはいない。
 そして、冥夜は――
「冥夜のヤツ、急用が出来たって一体なんだろうな」
 急用が出来たので先に帰っていて欲しい、そう言って何処かへ行ってしまった。純夏も霞も、悠陽でさえもどこに何をしに行ったかは知らないと言う。昼休みのこともあるので気にはなったが、どうにも聞けるような気配でもなかったのでそのまま見送ってしまった。
「……タケルちゃん、そんなに冥夜さんのこと気になッあいたーっ!?」
 純夏にジト目で睨まれ、武は取り敢えずアホ毛の付け根あたりを叩いておいた。
「バーカ、ちげーよ」
「いきなり殴るなんてひどいじゃないのさ!? しかもバカって言った! バカって言うタケルちゃんがもっとバカなんだよこのドバカ!」
「オレがドバカならお前はリック・ドバカだ」
「ムッキーッ! 言わせておけばぁっ!」
 拳を振り回しながら追う純夏と、逃げる武。悠陽にとっても霞にとっても今や見慣れた光景である。正々堂々戦おうと誓い合った間柄ではあるが、やはりこういった幼馴染み同士のじゃれ合いには付け入る隙がない。それを羨ましいと感じる反面、見ていて微笑ましいのもまた事実だった。特に、霞は言葉では言い表せない程嬉しそうにはしゃぐ二人を見る。
「社さんは、お二人のことが本当にお好きですのね」
「……はい」
 霞自身、楽しそうにじゃれ合う二人を見るのがどうしてこんなにも嬉しいのか理由はよくわからなかった。ただ薄ぼんやりと、その光景を夢に見ていたかのような感覚が胸の奥にある。転校初日に武と純夏を見て突然泣き出してしまったのと同じような感覚が。
 そんな記憶はないはずなのに、あの日初めて二人に会ったはずなのにどうしてもそうは思えない。武と純夏ほどではないにしろ、冥夜達に対しても同じように感じることがたまにある。その事を夕呼に話したところ、単なる既視感だろうと言われたがそれとも違う気がするのだ。
 と、そうこうしているうちに校門のところで武がついに純夏に追い詰められていた。
「ま、待て純夏! 話せばわかる、な? ほら、人間には言葉という素晴らしいコミュニケーション手段があるわけで、それを使わないってのはとても悲しいことだと思うんだ。もっと正しく互いの意思の疎通が出来ていれば戦争なんて起こらないはずで、常に世界の安寧を願っているオレとしては今すぐにでもその胸先に構えた危険な拳を下ろしてもらいたく……」
 ジリジリと後退りながら、武は必死に互いを理解し合うことの素晴らしさを説いた。が、純夏はそれを聞いて悲しそうにかぶりを振ると、ゆっくりと両拳を握り直した。
「タケルちゃんの御託はいい加減聞き飽きたよ……話せば理解し合えるなんて所詮は理想論だね。そんなの互いが同じステージに立っていて初めて成立するんだよ。で、今のわたしは美しき復讐者。タケルちゃんは惨めで薄汚い悪党。凄く悲しいよね……わたし達、どこで道を違えちゃったんだろう。もう、平和だったあの頃には戻れないんだよ。だから――」
 純夏の身体が陽炎のように揺らめく。
 もはやこれまで……武は大人しく十字を切った。
「喰らえーッ! 愛と勇気だけが友達の、ドリルミルキィパーンチッ!!」
「――イナバウァーーーーッッ!!!!」
 悠陽の目ですら追い切れぬ鋭さで右拳一閃。抉り込むように放たれたそれは武の身体の真芯を正確に捉え、大気を震わせるドカーンという爆発音とともに遥か空の彼方へと――

 ……………………

「……ドカーン?」
 霞が音のした方を振り向くと、校舎の一部から濛々と煙が上がっていた。
「えー!? まさか火事?」
「火事では無さそうですが……」
 驚いている生徒や教師の声は聞こえてくるが、別段悲鳴のようなものは聞こえないし火の手が上がっている様子もない。煙だけが派手に立ち上り続けている。一体何処から……確認しようと純夏は目を凝らしてみたが、いまいち判然としなかった。
「香月教諭が何かしらの実験でもなされたのでは?」
「わー、凄い説得力……」
 戻って確認しようかという野次馬根性もなくはなかったが、悠陽の一言でなんだか全てに納得がいってしまった。夕呼が何かしたというのであればそれが一番納得がいく。
「じゃ、帰ろっか」
 触らぬ夕呼に祟り無し。下手に関わるとろくな事にならないことは純夏だけでなく悠陽もとうに理解済みだ。
 そんなわけで気を取り直し再び歩き出した純夏と悠陽だったが、一人霞だけがキョロキョロと周囲を見回し、途方に暮れた顔で呟いた。
「……あの、白銀さんは?」
「あ」
「あら」
 武は、星になったのだ。





◆    ◆    ◆





「まさかあんなに吹っ飛ばされるなんてな」
「あは、あははははははは……」
 頭のてっぺんに大きなコブを作った武にジト目で見られ、純夏は霞と一緒に買ってきた鯖を袋から出しながら視線を泳がせた。
「なんツーか、うん。すげぇ体験させてもらったよ」
「そ、そんなにすごかった?」
「ああ……すげぇ、純夏、お前すげぇよ」
 ある意味本気で感心している。まさか以前夕呼に車で轢かれた時よりも飛ぶとは思わなかった。
「わたくしも武道を嗜んではおりますが、あれほどの拳撃を目にしたのは初めてですわ」
「捜しに行った鷹觜も驚いておりました」
 たった今大分から空輸されてきたばかりの関鯖を品定めしつつ、悠陽と月詠はクスクスと笑っている。御剣家に仕える運転手、一文字鷹觜もまさか悠陽と冥夜を迎えに行って殴り飛ばされた武の捜索を手伝わされることになろうとは夢にも思わなかったろう。
「それじゃ、作る順番どうしようか」
 白銀家キッチンは御剣姉妹がやって来てから改修されているが、コンロの数は二つだ。よって一度に作れるのは二人までということになる。御剣邸の厨房を使おうかという話も持ち上がったが、料理対決の時の経験上あそこは広すぎてむしろ使いづらいからと純夏が遠慮した。それと、気分的な問題だが武のために鯖味噌を作るのならやはり白銀家のキッチンを使いたい。
「公平にジャンケンでよろしいのでは?」
「霞ちゃんもそれでいい?」
「はい。私も、それで」
 純夏と悠陽と霞がジャンケンするのをボーっと眺めながら、武は御剣のお嬢様でもジャンケンなんてするんだなぁなんて他愛もないことを考えていた。しかし悠陽がジャンケンをしている姿は微笑ましいが、冥夜がジャンケンする姿というのはどうにも思い浮かべにくい。昼間も話したが、そう考えれば双子と言っても印象から何から大分違うものだ。冥夜のことは呼び捨てることが出来るのに、悠陽のことはどうしてもさん付けがやめられないのもやはり二人に対するイメージの差が大きい。
「それでは、まずはわたくしと社さんから」
「うん。二人とも頑張ってね」
「……頑張ります」
 どうやら先に悠陽と霞、続いて純夏という順番になったらしい。純夏が自分の分の鯖を冷蔵庫に一旦しまい、夕陽と霞がまな板の上にそれぞれの鯖を……
「あれ?」
 そこに至って武は重要なことに気がついた。
「どうなさいましたか、タケル様?」
「月詠さん、いつもの料理人さん達の姿が見えないんだけど……」
 大して言葉を交わしたこともないが、いつもキッチンで食事を作っている料理人達の姿が一人も見えない。そのこと自体は特にどうと言うこともないのだが、驚いたのは悠陽が手ずから鯖を捌いている事だった。正直、これは予想外だ。
「あら、タケル様は悠陽様がお料理をなさるのはおかしいと?」
「そういうわけじゃないんだけど……やっぱ、意外かなぁ、って」
 と言うより、今までまったくそんな素振りがなかったからてっきり料理なんてしないものなんだろうと決めつけていたのだ。そこにキッチンから出てきた純夏が口を挟んだ。
「タケルちゃん普段わたし達が料理作ってるところとか全然見ようとしないもんね。わたしと悠陽さん、よく手伝ってるんだよ? 昨夜のポテトサラダだって二人で作ったんだから」
「ゲッ! マジか?」
 言われてみれば他の料理と比べてポテトサラダだけ豪勢さと庶民臭さが中途半端に混じり合っているかのような感じがしたが、今の今までまったく気がつかなかった。
「マジもマジ、大マジだよ」
 だが何か引っかかる。一体自分の中で何が引っかかっているのかを武は懸命に思索し、五秒程でそれがなんなのかわかった。
「でもいつもの昼飯とか、あと料理対決の時は作ってなかっただろ?」
 そうなのだ。昼食の場合は食べる直前に作るという弁当であって弁当でない形態をとっているためわかるのだが、あの料理対決の時、他のみんなが調理中だというのに冥夜と悠陽は武の部屋にまでわざわざ様子を見に来たくらいなのだ。
「んー、わたしも訊いてみたけど、勝負事には全力を尽くす主義だーみたいなこと言ってたよ?」
「はい。勝負に私情は挟まず、自分が持てる力の全てを尽くし事にあたるのも王道を歩まんとする者の務めです。御剣という巨大な力も使いこなしてこそ初めて意味がある……悠陽様は、その事をよくご存じでございますから」
 月詠の言うことには確かに一理ある。悠陽が料理が出来ると言ってもやはりその道のプロとはとても比べ物にはならないだろう。純夏達の立場からすれば卑怯かも知れないが、むしろ勝負に対して真摯であろうとするなら使えるものは全て使い切るべきである。
 だが、武にはまだ納得がいかないことが二つ程あった。。
「じゃあなんで今は自分で作ってるんだ?」
 まず一つ目。だが、それを聞いた途端に純夏は心底呆れたように溜息を吐いた。月詠も困ったような顔をして答えようとはしない。
「……タケルちゃんの鈍感」
「はぁ? なんだそりゃ……」
「なんでもないよーだ!」
 キッチンからは時折、悠陽と霞の話し声が聞こえてくる。どんなことを話しているのかまではわからないが、二人とも楽しそうだ。そうすると不思議なもので、確かに悠陽は料理が出来るのだなと思えてくる。
 残る一つは、悠陽のことではなかった。
「それと、昨日も一昨日も冥夜はオレと一緒に二階にいたぞ?」
 そう。冥夜が一緒にいたからなんとなく悠陽もそうだったかのように思い込んでしまっていたのだ。
「え? ……そう言えば冥夜さんが料理してるのって見たことないね」
 二人の後ろで、ピクリ、と月詠の笑顔が強張った。
「お前、悠陽さんと一緒に料理してるくせに気付いてなかったのかよ……」
「なっ、そう言うタケルちゃんだって気付いてなかったじゃないのさ!」
「だってなぁ。でもじゃあ冥夜も料理出来るのか」
 月詠の頬を一筋の汗が伝っていく。
「なぁ月詠さん、月詠さんは冥夜の料理って食べたこと――」
「そう言えばタケル様、コブの調子はいかがですか? まだ痛むのでしたら冷やした方がよろしいかと存じますが」
 振り向いた途端、武の頭に月詠の手が伸び、そのまま優しく抱きかかえられる形となった。ほんのりと甘い良い香りがする。
「あーっ! タケルちゃん、なにデレデレしてんのさ!?」
「ち、ちがっ! 別にデレデレなんかしてねぇッ!!」
「あぁんッ♪ 嫌ですわタケル様、そんなに頭を動かされますと……」
「ぬぁーーー!! タケルちゃんのエロ奉行ーーーーーーッ!!」
「何もしてねぇーーーっ!?」
 抉り込むように撲つべし撲つべし。
 再び振り回される純夏の拳を避けて、居間から逃げ出していく武の背中を見送りながら、月詠はホッと胸を撫で下ろしていた。





◆    ◆    ◆





「タケルちゃん」
 純夏の視線が胸に突き刺さる。幼い頃からの長い付き合いだが、こんなにも真剣な彼女を見るのはいつ以来だったか。……先日の料理勝負の時だった気がするのでそんなに昔ではなかった。
「タケルちゃんは、わたしと悠陽さんと霞ちゃん、誰を選びますか?」
「……すまん、ちょっと待て。いくらなんでも鯖味噌ばかり食べ過ぎて流石に気分が……うっ」
「うわ、ひっどー」
 酷いと言われようと昼から続けて今日だけで鯖味噌が四連発だ。確かに記憶の奥底から自分に何か訴えかける味ではあるが、これはいくらなんでも食べ過ぎである。せめてご飯と味噌汁以外にももう少し別の料理を食べて口直しをしたい。
「……白銀さん、大丈夫、ですか?」
「いや、大丈夫には大丈夫なんだが……うー」
 椅子にもたれ掛かってヘタレている武のまるで鯖の腹のような色に変じた顔を霞が心配そうに覗き込む。
「味噌……味噌以外の味を……食べたい……」
「月詠、武様に何かデザートを」
「それではわたくし特製のプディングでも……」
「……それは、お願いします……やめて」
 今の状態でプリンなんて食べたらどんな事になるか想像もつかないが、間違いなくただでは済まないだろう。
 結論から言えば三人が作った鯖味噌はどれも美味しかった。純夏のものは武の味の好みを知り尽くした彼女ならではの味付けだったし、悠陽は極上の素材を上品に仕上げ、霞の鯖味噌はやはりどこか郷愁を誘う味だ。各々違う味ではあるけれどどれも技術的にはどっこいだろう。そんな中から一つ選べと言われても、料理対決の時のように素人の武にもわかるような明らかな差があるわけでもないので非常に難しかった。一つ確実に言えることは、これでもう暫く鯖味噌は食べないでいいということだけだ。
「タケルちゃん、ハッキリしてよ。せっかく作ったんだから」
「そうは言うけどなぁ」
 テーブルに座る三人を見回し、武は大仰に溜息を吐いた。やはりどう考えてもこれと言った決め手が見つからない。
「……?」
 少し気になったのは、先程から悠陽が横に立つ月詠と何度か目配せしていることだった。もっとも二人ともポーカーフェイスが上手いので何か読みとれるわけではないのだが。
「うーん」
 頭を抱え、武は重たげに唸った。どんなに小さくともいい、何か一つ決め手があればさっさと結論を出しあとは胃薬でも飲んでベッドに横になりたいのだが、かといって適当に答えを出すのは作ってくれた三人に悪い。
 困り果て、武が天井を仰いだその時だった。



「……ただいま」
 玄関のドアを開け、冥夜は躊躇いがちに帰宅を告げる言葉を口にした。平常心であろうと何度も自らに言い聞かせているが、鼓動は高鳴る一方でおさまってくれそうにない。やはり、不安だ。
 気がつくと、目の前に待ちかねたかのように月詠が立っていた。
「冥夜様、おかえりなさいませ」
「すまん、遅くなった」
 月詠は冥夜の顔を見るなり破顔一笑すると、手にした荷物のうち学生鞄だけを受け取ってそのまま何も言わずにスッと道を譲った。もう片方の包みに関して一言も触れようとしないのが、なんだか全てお見通しだったかのようで妙に気恥ずかしい。
 思わず眉を顰めた主を見て、月詠はさらに無言のまま目を細めた。その反応が気になったのか、冥夜が怪訝そうに問う。
「……おかしいか?」
「いいえ、そんなことはございません。わたくしは、嬉しいのですよ」
 月詠の言葉にからかっているような含みはない。表情からも、そう言ってくれているのが本心であると冥夜にはよくわかった。不思議なもので、それだけで疲れ切った身体に活力が漲ってくるかのように感じる。
「月詠」
「はい」
「そなたに心より感謝を」
 そう告げた冥夜は、既にいつも通りの彼女だった。
 深々と頭を下げた月詠の脇を自信に満ちた足取りで冥夜が通り過ぎていく。この冥夜らしさこそが肝要だ。頭を上げ、敬愛する主の後ろ姿を見つめながら月詠は心中で激励を送った。
 これからが、本番だ。結果がどうなるかはさておき、冥夜が彼女らしく進んでくれさえすればそれで良い。
「タケルッ!」
 居間に入るなり、冥夜は武のもとへと大股で歩み寄った。
「おう、おかえり……って、なんでお前、怒ってるんだ?」
「む。何を言う、怒ってなどいないぞ」
 顰めっ面で怒ってないと否定されても全然そう見えない。普段から刃物のような鋭さを湛えた美貌だが、今の冥夜は彼女の愛刀皆琉神威の刀身もかくや、触れただけで両断されそうな気配を纏っている。
 武だけでなく、純夏と霞も冥夜の尋常でない迫力に気圧されてしまったのか、まばたきすら出来ずに事態を見守っていた。ただ悠陽と月詠だけが和やかな相貌を崩していない。
「……怒ってないのか?」
「何度も言わせるな。私は怒ってなどいない」
 怒っていないのだとすればどうしてこんなにも高圧的なのか。ともあれ武は浮かしかけた腰を再び椅子へと下ろし、冥夜の様子を改めてよく見直してみた。
 ……が、今度は目をあわせようとしない。手にした包みとテーブルの上、そして武の顔をそわそわと見比べ、深呼吸をしたかと思えば今度は瞑目し、幾らもしないうちにまた視線を彷徨わせる。思いっきり挙動不審だ。しかも、よく見れば綺麗な顔も髪もすすまみれ、包みを持つ手は細かな傷だらけときている。
「……冥夜」
「な、なんだ?」
 訊きたいのは武の方だ。
 このままでは埒があかない。どういうつもりなのか、どうしてすすに汚れているのか、手の傷は何があったのか、ハッキリ問いただそうと武が口を開きかけた瞬間、冥夜はテーブルの上に包みを置いた。
 包みからは、香ばしい匂いがした。
 冥夜の手がスルスルと包みを解いていく。出てきたのは青いプラスチック製の四角いタッパーだった。冥夜の持ち物にしてはひどく違和感があるが、それよりも驚いたのはタッパーの中身だ。
 軽い音を立てて、蓋が外される。
「これは……」
 そこには、黒い棒状のものが二本入っていた。
「……なんだ?」
「み、見ればわかるであろう!」
 と言われても、匂いとそしてまだほんのりと温かそうにたちのぼる湯気から食べ物だとは思うのだが、一見して何なのかはわからない。
 取り敢えず顔を寄せて匂いをよく嗅いでみたが、どうやら見た目程には焦げてはいないらしかった。それよりも、今日だけで何度も嗅いだこの匂いは……
「……鯖、か?」
 鯖だ。確かに鯖の匂いがする。
「うん。鯖の竜田揚げだ」
 さっきまでの顰めっ面が嘘のように、冥夜の顔に満面の笑みが浮かんだ。それがあんまりにも嬉しそうで、武も思わず見惚れてしまう。
「……タケル?」
 言葉もなく自分を見つめる武は一体どうしたのだろうかと、冥夜は不安げに彼の名を呼んだ。が、依然として返事はない。そうするとますます不安ばかりが募っていく。
「その、本当は私も鯖の味噌煮を作るつもりであったのだ。そこで京塚のおばちゃん殿に御指導賜ったのだが――ああ、京塚のおばちゃん殿というのは『おばちゃんと呼ばないと返事をしない』と言われてしまったためで、私としてはやはり目上の方なのだから京塚殿と呼ぶべきであると……いや、こんな話がしたいのではなく、それで味噌煮に挑戦したはよいものの何度やってもうまくいかず、困り果てていたところで京塚のおばちゃん殿からこの竜田揚げを勧められてだな……」
 不安を打ち消すかのように、冥夜は鯖の竜田揚げに視線を下ろすとそう捲し立てた。相変わらず武は無言のままだ。
 駄目、だったのだろうか。
 京塚さんは『昼に味噌煮は食べたばっかりなんだし、いくら好きでも夜は別なものを食べたいはずだよ』と言ってくれたが、武はやはり鯖の味噌煮が食べたかったのかも知れない。
 テーブルの上に置かれている三枚の皿を見て、冥夜は目頭がじわりと熱くなるのを感じた。この皿に乗っていたのは、純夏と霞、そして悠陽の作った鯖味噌だろう。三人の腕前、殊に悠陽のそれはよく知っている。自分の作った焦げた竜田揚げなどとは比べるまでもなく、さぞかし美味かったに違いない。そう考えるとどうしようもなく惨めな気持ちになった。
 御剣家において、古来より双子は最大の吉事であるとされている。“双子は家を分ける”という理由で引き剥がす話はよく聞くが、吉事とするのは珍しい。それというのも歴史書によれば七代目の当主が双子で、その二人の当主は時に光となり影となり互いの足りない部分を補いつつ手に手を取って御剣にさらなる躍進をもたらしたのだという。以来、双子が当主となったのは三度。そのいずれも御剣は飛躍的な発展を遂げてきた。そのため、昼に武に話した通り、冥夜と悠陽は双子でありながらまったく異なる育て方をされてきたのだ。
 悠陽を尊敬しているが、自分が特別劣っていると考える程冥夜は卑屈ではない。劣っている部分もあれば、勝っていると自負出来る部分もある。元よりそうなるよう育てられてきたのだし、それでいいのだと信じて疑ったことなど無かった。姉は料理が出来る、自分は出来ない……それを自然に受け入れていたのだ。
 だが、悠陽や純夏達の手料理を食べる武の顔を見ているうちに、いつしかその意味を考えるようになった。
 冥夜と悠陽が日々武のために用意しているのは世界でも最高峰の素材と技術でもって作られた超一級の料理だ。無論、武はいつも美味しそうにそれらを食べてくれる。しかし、霞の鯖味噌を食べた時のような顔を見せてくれたことは一度もない。
 一度、その理由は何なのであろうと月詠に尋ねたことがある。すると彼女は少し困った顔をしてから、優しく『料理には、味以外にも様々な要素があるのですよ』と答えてくれたのだが、冥夜にはよくはわからなかった。そしてわからないのなら、わからないままにしておく御剣冥夜ではなかった。
 今日だけでどれくらい頭を悩ましたか、数えるのも馬鹿馬鹿しい。武がわざわざ逃げ出してまで学食の鯖味噌を食べたがったのは何故か、料理対決の時に霞の鯖味噌を食べて浮かべた表情は何だったのか、純夏達はどうして手料理に拘るのか……
 悩んで悩んで、悩みまくって、結果冥夜が辿り着いたのは“案ずるより産むが易し”ということであった。要は、自分もやってみればいいのだ。やったことが無いだけで、料理などやってみれば存外に簡単であるかも知れない――漠然とそう考えてさえいた。
 ……そして、思い知らされた。自分がどれだけ甘かったのかを。
 何もかも勝手が違いすぎた。手にしたエモノが皆琉神威であれば、冥夜の太刀筋は精妙極まりない達人の冴えである。鉄扉を断つも薄皮を剥ぐも思うがままの剣腕が、エモノを包丁に持ち替えた途端にこうも勝手が違うとは予想外もいいところだ。
 京塚さんの厳しい指導の下、数限りなく指を傷つけ、いざ捌き終われば今度は味付けの塩梅がわからず、さらには煮ていたはずなのに焼け焦げてしまう始末。途中何度か爆発した理由はいまだにわからない。
 見るに見かねた京塚さんの手助けがなければこの竜田揚げもとてもではないが出来はしなかっただろう。味付けから油の温度、揚げる時間まで全て見て貰い、その上でなお無数の失敗を重ねようやく食べることの出来るものが仕上がったのはついさっきのこと。しかもこれすら偶然の産物だとしか思えない。もう一度作れと言われても、おそらく無理だろう。
 大変だった。無現鬼道流の修行と同じくらい困難を極めたが、作っている間中、冥夜は楽しかった。とてもドキドキした。武が自分の作ったものを食べて、美味しいと言ってくれたなら一体どうなってしまうだろうと――まさか心臓が止まってしまうのではないかと本気で心配になったりもした。その胸の内を話した時の、『そいつは良かったねぇ』と言ってくれた京塚さんの笑顔は忘れられない。
 だが、それも全て――
 冥夜は身の内から溢れ出てくるものをグッと堪えた。
 全ては自らの浅はかさと未熟さが招いたこと。俯き、落ち込んだところで仕方がない。
(これではまるで……ただの炭の塊だな)
 自分が作った不出来な竜田揚げに苦笑しつつ、もう片付けようと冥夜が手を伸ばした矢先、
「……あ」
 武の手がそれを一本、摘み上げていた。
 冥夜が声をかける暇も与えず、そのまま口許へと持っていき、まず一口目、半分程も放り込む。
「タ、タケル」
 固いのか、やたら力を入れて咀嚼しているのがわかった。しかもジャリッとかガキッとかありえない音が聞こえてくる。
 目を閉じて暫くモゴモゴしていたかと思うと、やがて武は残る半分も口にした。美味い、とも不味い、ともまだ何も言わない。
 続けてもう一本も食べ終わると、武は拝み手を作って、「ごちそうさま」と軽く頭を下げた。そうしてゆっくりと目を開け、冥夜を正面から見つめる。
「……ちょっと焦げすぎだな」
「そ、そうか……」
「味付けはもう少し薄い方がオレは好きだなぁ。あと、骨が残りすぎ。何本か刺さったぞ。……おー、痛ぇ」
「……すまん」
 ションボリと、傍から見ていて痛々しくなるくらい悲しそうに冥夜は項垂れていた。覚悟はしていたが、やはり直接聞かされると相当きつい。
 ――やはり、作らなければ良かった――
 自嘲気味な笑みを浮かべ、冥夜が顔を上げると、
「でも、結構いい感じじゃないか?」
 武はそんなことを宣った。
 ……聞き間違いではないかと耳を疑う。
 結構いい感じ? あの、炭の塊が?
「う、嘘をつくな。そんな、そんな筈がないではないか!」
 語気が荒ぐ。嘘なんて吐かれた方が一層惨めだ。
「いや、嘘じゃねーって。今日は味噌煮ばっか食ってたから歯応えのあるもん食いたかったんだ」
「ばか! 全然……褒め言葉になっておらぬぞ……」
「そうか? んー、まぁ、その、なんだ」
 武の指が、冥夜の頬を擦った。すすのせいで真っ黒になった指を暫し見つめ、大きく頷く。
「うん、ありがとな」
 礼まで言われてしまい、むしろ冥夜の方が面食らった。これでは反論のしようがない。困ったように彷徨う瞳は、すぐにその視界に自分と瓜二つの顔を捉えた。
「冥夜」
「……姉上」
 優しげな眼差しで妹を見つめ、悠陽は一つ、質問した。
「納得がいきませんか?」
 周囲を見渡すと、月詠と霞も悠陽と同様に冥夜を見やり、純夏も「これじゃ仕方ないよね」とばかりに柔らかな笑みを浮かべている。
「そなたがどうしても納得がいかぬというのなら」
 再び姉の方を向くと、優しさと厳しさとが複雑に混ざり合った視線が冥夜を射抜いた。
「また今度、より一層努力し、精進すればよいではありませんか」
 悠陽の言葉を聞いて、冥夜の目が静かに閉じられた。あとは冥夜自身がどうするかだ。これ以上は他人が何を言っても意味など無い。
 みんなが見守る中、どれだけの時間が流れたものか。やがてゆっくりと冥夜の目が開かれ、その唇が答えを紡ごうとした瞬間、けたたましい音が部屋中に鳴り響いていた。
「……電話……でございますね」
「ったく、誰だ一体?」
 受話器を取ろうとした月詠を制し、武が取りに向かう。
 なんだか思いっきり拍子抜けしてしまったなと冥夜は思った。張りつめていたものが全て解きほぐされたかのように、ヘナヘナと肩が下がっていく。一体どこの誰かは知らないが、まったくこれ以上ないタイミングで電話をかけてきたものだ。
 そうして、武が受話器を取るなり……
『ああ、タケル? 良かったぁ。なかなか出ないから留守かと思ったよ〜』
「美琴!?」
 けたたましく話しかけてきた電話の主は、美琴だった。
『いやぁ、今鯖釣りに来てるんだけど、鯖の群がなかなか見つからなくて適当に釣り糸を垂らしてたら彩峰がマグロ釣り上げちゃってさぁ』
「彩峰も一緒なのかよ!? ってか今どこだ!? マグロッ!?」
 全員、驚いて武の周りに集まり受話器から聞こえる声に耳を澄ます。
『ビックリしたなぁ。インドマグロを一本釣りなんてボクも初めて見たよ。しかもこれ凄い上物だね。さっすが彩峰だなぁ』
『……このくらい、朝飯前。……朝ご飯は、焼きそばパンでお願い。ね?』
「ちょ、彩峰、おまっ!?」
 彼女達が今どんな顔をしているのか容易に想像がつくが、インドマグロをしかも一本釣りというシチュエーションはわけがわからない。
『もう少し鯖を探してみるけど、駄目だったらタケル、マグロでもいい?』
『……マグロ焼きそば。……美味しいよ?』
『あ、駄目だよ彩峰、マグロは血抜きをちゃんとしなくちゃ! そんないきなり捌いたら血合いだらけに――』
 ガチャン。
「ふぅ」
 受話器を下ろし、武はしみじみと溜息を吐いた。
 一体、何だったのだろう。
 どう反応したものか戸惑い、各々顔を見合わせる。やがて頭の中で状況が整理されるに連れ、誰ともなく笑い声をあげ始めた。
「あははっ。これじゃ、勝負は二人が帰ってくるまでお預けだね」
「そうですわね」
「はい」
 純夏の提案に納得する悠陽と霞を見て、「それでいいのだろうか?」と冥夜は武を伺い見た。一瞬だけ目が合うと、武は「いいんだ」とばかりにさらに大きく笑い出した。
 近所迷惑を気にせず済むのは、こういう時に便利なものだ。



「ったく、こんなに傷だらけにしちまってまぁ」
 自室で冥夜の指にバンソーコーを張りながら、武は呆れ半分、嬉しさ半分の複雑な顔をしていた。自分のためにここまでしてくれたのは勿論嬉しいのだが、その代償がこの傷だらけの指とあっては素直に喜べない。
「よい。元より剣の修行でマメだらけの手だ。今さらこの程度の傷が増えたところどうということはない」
 そう言った冥夜の表情も、嬉しさと照れ臭さが入り乱れた複雑なものになっていた。武との違いは真っ赤に染まった頬だけだ。
 純夏達三人は下で後片付けをしている。月詠は、救急箱を武に押しつけると『わたくし、少々用事が……』と言い残して何処かへ行ってしまった。彼女の主は冥夜と悠陽の二人の筈なのだが、今回は明らかに冥夜にだけ肩入れのしすぎのように思われる。
「……なぁ」
「うん?」
「……いや、やっぱいいわ」
 ――どうして突然手料理だったのか――武はその理由を訊こうとして、やはりやめておくことにした。
「そうか」
 冥夜も特に言及しようとはしない。なんだか今日は冥夜に質問しようとしてはやめてばかりな気がする。
「……タケル」
「なんだ?」
 今度は、冥夜の方から呼び掛けた。指に顔を近付けて一生懸命バンソーコーを貼ってくれている武の頭を愛おしげに見下ろし、訊いてみる。
「本当は、不味かったのだろう?」
「……んなことねーよ」
 そう答えるだろうとはわかっていた。わかっていて敢えて訊ねたのには、理由がある。
「今、間があった」
 少し拗ねた風を装って、そんなことを言ってみるのも楽しい。上から見下ろしているため武の微細な動きも全て一目瞭然だ。少しだけバンソーコーを貼る手の動きが遅くなっている。
「んなことねーって」
「いや、確かにあったぞ」
 ククッと喉の奥を鳴らし、一拍置いてから冥夜は大きく息を吸い込んだ。
 そう。この勝負は、まだ終わってなどいない。
 御剣の戦に敗北は許されない。それ以上に、冥夜はこの勝負に負けてやるつもりは毛頭無い。
「覚悟しておくがよいぞ」
「あ?」
 思わず顔を上げた途端、冥夜の吐息を鼻に受けて武は目を白黒させた。今にも触れてしまいそうな艶っぽく濡れた唇に心臓の鼓動が跳ね上がる。
 凛然とした冥夜。いつも通りの御剣冥夜。なのに、どうしようもなく高鳴る胸を武は抑えきることが出来なかった。
「次こそは、必ずそなたに美味いと言わせてやる」
 そう宣言した冥夜の顔は、自信に充ち満ちていた。





〜END〜





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