彼女がメイドに着替えたら





◆    ◆    ◆





 白銀武には愛している相手がいる。
 それは長年使用している布団だ。敷き布団も、掛け布団も、毛布も、シーツも、何もかもが愛しい。特に晩秋から初春にかけての愛くるしさと言ったらもう、幼馴染みの鑑純夏に『わたしと布団、どっちが大事なのさ!?』と訊かれて迷わず『布団』と答え、ブン殴られて成層圏を突破した過去を経てなお変わらぬ想いを貫いている。
 よってこの日も武は愛する布団にくるまって惰眠を貪っていた。
 今日は日曜。いつもなら喧しい純夏が起こしに来る時間もとうに過ぎ去っていたが今日はその心配もない。それに、彼女は昨夜は親友の社霞の家に泊まりに行ったはずなので、訪ねてくるとしても昼過ぎだろう。
 普段から武と行動することが多いためか、特定の同性の友人と親しくしているのをこれまであまり見かけなかった純夏だが、最近はそれも良い意味で変化してきている。幼馴染みとしてこれは非常に喜ばしいことだ。こうして邪魔されることなくダラダラ寝ていられるし。
 と。
(ん?)
 何者かが階段を登ってくる気配がした。
 純夏ではない。純夏の足音は、もっと騒々しい。
 ではまったく覚えのない足音かと言えば、それも違う。この足音には覚えがある。付き合い自体はまだ短いのに、ごく日常的に耳にしている足音だ。まるで当人の性格さながら、実に整然とした足音だった。
 彼女なら……別段自分の眠りを妨げることもあるまい。出会った当初の頃こそ勝手に布団に入り込んでくることもあったが、最近ではその手の行動は控え目になってきている。それに安眠妨害にさえならないのなら布団に入られてもまぁいいやーなどと、純夏がいない事も手伝ってか武は寝惚けた頭でボンヤリとそんな風に考えていた。
 だから、次の出来事は全くの想定外だったと言って良い。

「――ほわぁっ!?」

 武の身体は宙を舞っていた。
 まるで重力の戒めから解き放たれたかのように軽々と、冗談のように空中に踊り出し……しかし重力は残念ながら武を手放してなどいなかった。
「へにゅうっ!?」
 タスマニアあたりにいそうな絶滅寸前の動物っぽい呻き声をあげて顔面から床にダイブ。キッス床。
 痛い。当たり前だがとてつもなく痛い。
「ふごぉ〜〜〜〜! 鼻が、鼻がぁッ! ノーーーーズ!」
 のたうち回る武を見下ろして、この事態を引き起こした人物は「ふぅ、やれやれ」と溜息を漏らした。
 そのままベッドから引っぺがしたシーツを丸め、掛け布団と敷き布団を持ち上げやすいように試行錯誤しながら手際悪くたたんでいく。
 そうこうしている内に、武は涙目のまま顔を上げた。
「おまっ、冥夜ッ! 突然なんて事しやが……る――」
 呆、然。
 自失。
 その瞬間、武の思考は完璧に停止していた。
「なんて事も何も無いぞ。もういい加減に起きぬか」
 見上げた先、腰に手をあて仁王立ちしている少女は、御剣冥夜。
 武にとっては純夏と同様、突然自分の部屋に現れても別段今さら驚きもしない、そんな相手である。
 が、今朝ばかりは違っていた。
「……お、お、おま……」
 これが驚かずにおられようものか。
「む、う……。やはり、変、であろうか?」
 今までの威勢が嘘のように、冥夜は不安げに己の佇まいを見下ろしていた。正面だけでなく背部も気になるためか、腰を回した拍子にスカートがフワッと舞う。
 武は金魚のように口をパクパクさせ、やがて何度も瞬きをし、そして何故このような事になったのかを思い出そうと記憶の引き出しを片っ端から開けては閉め開けては閉め――五秒後、思い出した。
 そして思いだした以上、口にすべき言葉は決まっていた。即ち――
「グ――」
「……ぐ?」
「グッジョブ!」
 武はかつてない程の笑顔でサムズアップしていた。
 メイド姿の冥夜が、そんな武をキョトンと見つめていた。





◆    ◆    ◆





 事の起こりは昨日――土曜の夜へと遡る。



「ぅおっしゃーーーーーーっ!!」
 勝利の雄叫びが白銀家のリビングに響き渡った。
「う、むぅ……ふ、不覚だ」
 それとは対照的な、苦しげに絞り出すような呻き声。
「勝負有り、ですわね」
 そして悠然とした声が、遊戯の完全な決着を告げた。口元に手をあて、やんわりとした笑みを浮かべながら御剣悠陽は勝利に沸き立つ武と、敗北に打ち拉がれている冥夜の姿を見つめている。
「いやぁ、でも驚いたね。まさか白銀君が一位とはさ」
「ふふん。まぁ、これも君のおかげですよ柏木クン? お前が無理矢理売りつけてくれた火星の土地がまさか宇宙移民で二百倍の値段に膨れ上がるとはなぁ。へへ、クックク……♪」
 大喜びの武に柏木晴子はあっけらかんとした笑顔で返しておいた。
 テーブルの上に広げられた大型のボードゲームは、先日発売されたばかりの新型人生ゲームだ。「なんかやたらとおもしろそうだったから」と武が買ってきたそれを今の今まで集まった者でプレイしていたのだ。
 なお、晴子は三位。二位の悠陽とは僅差だ。起こした事業がボチボチの成功を収めた結果だった。
 ちなみに悠陽は職業芸術家。絵や彫刻がまぁまぁの売れ行きをしめした上での好成績である。
「なんか……人生ゲームとは言え白銀君が逆転勝ちというのは納得いかないわね」
 そう呟いた榊千鶴は五位。終始堅実に、職業も序盤からゴールまでずっとただのOLという武に言わせれば「面白味もへったくれもない」進め方の結果なため、表情は苦々しげだった。
「冥夜様、そうお気になさらず。勝負は時の運、このような事もあります」
 主を慰める忠実な侍従、月詠真那は四位。
 職業はそのものズバリのメイド喫茶の従業員。どうでもいいが、この人生ゲームは職業に妙な幅がありすぎる。
「……いや、月詠、慰めは無用だ。会社が潰れてしまったのは私の不徳のなすところ。もしこれが現実であった場合、どうなっていた事か」
 最下位は、冥夜。参加者六人中六位。
 冥夜も晴子と同じく事業を興し、その決断力と天運としか言いようのないルーレット&サイコロ運で終盤までは一位独走状態だったのだが……
「冥夜さんの場合は……運が悪すぎたよねぇ」
「そうね。と言うより、あれは結婚した相手が悪すぎたわ」
 晴子と千鶴が意味深な視線を武に送りつつ頷き合うが、武は相も変わらず勝利に酔っていて気付かない。
 冥夜の事業が失敗し、凋落の一途を辿った原因は彼女の結婚相手にあった。終盤、止まったマスが悪かったと言えばそうなのだが、冥夜は夫に会社の金を持ち逃げされた挙げ句に二〇マスも戻されてしまったのだ。そこで一気にケチがついてしまったのか、止まるマスはどれもろくな事が書かれていない。出す目も全て最悪な結果を引き起こすという不運ぶり。
 その夫に、結婚イベントの際に冥夜がつけた名前がそのものズバリ、“タケル”だったのである。
「あはは。御剣財閥のことを思えば、白銀君とだけは結婚しない方がいいかもしれないね」
 冗談交じりに言いつつ、晴子は月詠と一緒に人生ゲームを片付け始めた。千鶴と悠陽も自分達が使ったカードやコマをまとめていく。
 大喜びの武と失意の冥夜。このなんとも珍しい構図は片づけが終わるまで続いた。



「……で、だ」
「うむ」
 ソファーに偉そうにふんぞり返った武の正面には、冥夜が神妙な面持ちで正座していた。武曰く、勝者の特権らしい。月詠が少しばかりこめかみの辺りをヒクつかせていたが、冥夜本人が認めたためこのような呆れた対比になっていた。
「最下位は優勝者の言うことを何でも一つ聞かなければならない……そういうルールだったよな?」
「ああ、その通りだ。御剣に二言は無い」
 確認し、武はなんとも満足げに頷いてみせた。
 どうも最近は冥夜もここの生活にこ慣れてきたというか、純夏達による影響で武の扱いがぞんざいになってきた感がある。武としてはまっこと遺憾であるというか、ここいらで少しばかりやり返しておきたい。
「フッフフ、それじゃ、なぁ……」
 さらに後ろに仰け反って、偉そうに腕組みなんぞしつつ武は罰ゲームの内容を色々と考えてみた。
 何せ天下の御剣財閥の跡取り娘の一人である。大概の無茶は通って道理が引っ込んでしまうことは散々経験済みだ。
 では、どうするか。
「……う〜ん」
 悩む。おもしろい案がなかなか浮かんでこない。
 そんな中ふと周囲に気を配ると、まず月詠の視線が痛い。次いで千鶴もジト目だ。悠陽と晴子は明らかにおもしろがっている。
 ……改めて考えてみると、実に困った。
 普通の男なら欲望に忠実な望みが頭を掠めそうなものだが、武の場合は彼を取り巻く異常な環境が真っ先にそれを思い浮かべることを良くも悪くも阻害してくれている。
 では武にはその手の欲求が一切無いのかと言われれば、そんな筈もない。彼も年相応に助平である。女体の神秘に対するめくるめく好奇心と飽くなき憧憬は当然持ちあわせている。
 両者の板挟みに武は偉そうにふんぞり返りながら懊悩していた。
 悩んで迷って、冥夜を見る。覚悟などとうに決めている、と言いたげな表情は間違いなく彼女の魅力であった。
 ふと、そんな冥夜の魅力ともう一つ、テーブルの端に置いてある情報誌が視界に入った。瞬間、武の脳裏に素晴らしいと言う以外にない発想が閃光となって駆け抜けていた。自分讃美ここに極まれり。ビバ自分。
「よっしゃ! 冥夜ッ!」
「う、うむ!」
 武の勢いに呑まれ、冥夜がビッといつにも増して背筋を伸ばす。
 そして、武は悪魔のような笑みを浮かべて、敗者に与える罰の内容を口にしていた。





◆    ◆    ◆





 そんなワケで、メイドなのである。
「ああ。いい天気だ」
 メイド姿の冥夜が、窓を開け部屋の空気を入れ換える。……寒い。が、体感温度なんてどうでもよく思えてくる。
 いつものように結い上げるのではなく、今日の冥夜は長く艶やかな髪を下ろしていた。そのためか風に流れる髪が武には妙に新鮮に見えた。
 彼女の頭には見慣れぬ装備――メイドカチューシャがある。これが想像以上にツボだった。髪飾り一つで人間こうも印象が変わるとは、インド人もドイツ人も北京原人もビックリだ。
「天気の良い日は布団を干すこと。これは御剣五つの誓いにも数えられているとても大切な事だが、今まで自分で布団を干すなど一度も経験の無いことであった。しかし、これはよいな。心が晴れ晴れとする」
 手慣れぬ様子で楽しそうに布団を干そうとしている冥夜の後ろ姿をボーっと眺めながら、武は自分の選択が間違っていないことを改めて感じ入っていた。腰に巻かれた大きく赤いリボンが小気味よく揺れている様も武を肯定しているかのようだった。
 そう、このメイド服――風のコスチューム。普段月詠達が着ているようなタイプのものではない、むしろこれこそが武に冥夜メイド化を決意させたものであった。
 昨夜テーブルに載っていた情報誌。今月号の特集は全国のファミレスの制服特集だったのだが、冥夜への罰ゲームを考えていた際、そこに掲載されていた“あるファミレス”の制服が武の脳内で冥夜と奇蹟の融合を遂げ、瞬転、いやさパイルフォーメーションしたのだ。
「? 何をボーっとしているのだ?」
 いつの間にか布団を干し終えたらしい冥夜が不思議そうに武の顔を覗き込んできた。身を乗り出したためか、自然強調された胸などがズームズームズームアップ。当たり前のように武の視線は豊饒としたそこに釘付けとなってしまう。
 白陵柊学園が誇る二大巨乳、彩峰慧と香月夕呼のもの程大きいわけではないが、兎角冥夜の胸は形が良い。眺めていてまったく飽きることがない。そんな整ったバストが両腕に挟み込まれてふにょんと僅かに潰れている様はとんでもなく魅力的だった。
「……いい」
「……は?」
「い、いやなんでもない!」
「そうか? ならよいのだが」
 今一つ納得のいかない顔で、冥夜は床に散らかっていた雑誌を拾いまとめ始めた。屈むと今度はバストではなくヒップの方がひどく扇情的に見えるので武大いに困っちゃう。
 メイド冥夜の破壊力は、武の想像の遙か上空を激走していた。

 ――さて。
 現在冥夜が着用しているこのメイド“ッポイ”コスチュームであるが……
 御剣と大空寺の二大企業傘下の店が多いこの周辺には残念ながら一軒もないのだが、“その筋”では非常に有名なファミリーレストランに“Piaキャロット”という名の店がある。東京近郊に数店舗のみと規模こそ小さいものの、初代オーナーの発案によりそれぞれの店舗でウェイトレスに可愛く且つ奇抜な制服を次々と採用、一気に有名店の仲間入りをした剛の者だ。
 そしてその二号店で採用されているメイド風の制服こそ、只今現在御剣冥夜様がその身に纏っておられるメイド服の正体なのであった。

「タケル」
 気がつけば、どうやら雑誌をまとめ終わったらしく冥夜が再び武の顔を怪訝そうに覗き込んでいた。
 冥夜の吐息が、鼻にかかる。
「……な、なんだ?」
 どもりつつ答えながら、武は鼓動が早まっていくのを感じていた。
 いつもと異なる装いで、それもこうして至近距離に迫られると、改めて綺麗な娘なのだと思い知らされる。下手なアイドルや女優などではとても太刀打ち出来まい。さらに性格も、信義に厚く情を重んじ道理をわきまえ、凛然として芯が通っている。少々古風なのが玉に瑕だが、人を惹き付ける魅力に富み、その上実家は世界に冠たる御剣家ときているのだからまさに非の打ち所がない。
 ――そんな少女が、自分のことを好きだと言う。
 ゴクリ、と喉が鳴った。
 冥夜の、香りがする。
 目眩がした。口の中がカラッカラに渇いている。
 武は冥夜から目を逸らせずにいた。それどころか、まばたき一つ出来ない。彼女の名が示す通り、まるで冥府の夜の闇のような漆黒の瞳に吸い込まれてしまいそうな――そんな感覚に、囚われていた。
「タケル」
 もう一度、桜色の唇が武の名を呼んでいた。
 そして――



「……あれ?」
 自分の部屋のドアを見つめながら、武は呆けていた。
『では次は掃除をするから、暫く出ていってくれ』と言われた時、果たして自分がどんな顔をしていたのか……あまり考えたくない。
 暫し立ち尽くしてから、武はカクンと頭を垂れた。
「……仕方ない。顔でも洗ってリビングに待避しておくか」
 部屋の中からは何やらドタンバタンという派手な音と、時折小さな悲鳴や呻き声が聞こえてくるがこれは気にしたら負けなのだ。
 せめて、せめて部屋が全壊だけはしないよう祈りつつ、武はのんびりと階段を下りていった。





◆    ◆    ◆





「……でもやっぱり不安だ」
「そうですわね」
 答えて悠陽は空々しく笑う。
 リビングでは悠陽と月詠がお茶をしつつ談笑していた。月詠の方は傍目にも不安全開が丸わかりだったが、冥夜から手出し無用を言い渡されてしまったらしく何とも形容しがたい面持ちだ。
「やはり神代か巴か戎か、一人だけでも――」
「無用ですよ。それではなんのための罰ゲームかわからなくなってしまいます。そうでしょう、タケル様?」
「え? あ、ああ。うん」
 メイド姿の冥夜にすっかり魅了されてしまって忘れかけていたが、そう言えばこれは罰ゲームだったのだと思い出し武は弱々しく頷いた。別にそれほど大事なものなんかが置いてあるわけでもないのだが、それでも自分の部屋なのだし愛着はある。心配だ。
 そうして、一服。
 落ち着き無くお茶を啜る武と月詠を一頻り眺めると、悠陽はもう充分に堪能したとばかりに微笑んで席を立った。
「それでは武様、月詠、まいりましょうか」
「へ?」
「悠陽様?」
 戸惑う二人を余所に、悠陽は口元に手を添えたまま優雅な足取りでひょいひょい部屋を出て行ってしまう。残された二人は「はて?」とばかりに顔を見合わせた後、悠陽を追いかけた。
「あの、月詠さん」
「はい」
「悠陽さん、何処に向かってるんですか?」
「それが……わたくしにもさっぱり」
 首を傾げつつ二人がついていった先は、白銀家に隣接する御剣家別邸の地下だった。武は視線で月詠に問いかけてみたが、彼女にもまだよくわからないらしい。
 やがて悠陽は一つの扉の前で足を止めた。
「つきましたわ」
 まるで悪戯を企む子供のような顔を見せると、扉を開けて二人に早く入るよう促す。
 部屋の中は、真っ暗だった。よく見れば何か機械のものであろう小さなランプが点灯しているがそれ以外は何も見えない。
 ナニがナニやらといった様子の武と月詠が中に入ると、悠陽は扉を閉め、パチンと“それ”の電源を入れた。
「……なっ!?」
「……まぁ」
 二人の目の前に、突如冥夜の姿がデカデカと映し出されていた。
 何インチあるのか、ともあれ巨大なモニターが複数、それぞれ別方向からどうやら武の部屋に掃除機をかけているらしい冥夜の姿を映している。うち二つは明らかに狙っているとしか言い様のない角度で胸部と臀部を捉えているため武は反射的に鼻を押さえていた。
「ちょ、これ悠陽すぁん!?」
「オホホ♪」
「いやオホホ♪ じゃなくて!」
「では、クスクス♪」
「クスクスでもゲラゲラでもニタニタでもプゲラッでも無いッスよ! 何ですか何なんですかコレは!?」
 吼える武に悠陽は「う〜ん」とわざとらしく首を傾げると、
「隠し撮り、ですかしら?」
 悪意の欠片もなく言ってのけた。
 が、武から見ればまさに悪魔だ。
「ですかしら? じゃなくて! いつの間に俺の部屋にカメラなんて仕掛けたんですか!」
「三年前」
「げぇええ!?」
「――と言うのは冗談で、昨夜ですわ」
 とてつもなく胡散臭かった。しかし悠陽は武の疑いの眼差しが不服だったらしい。ヨヨヨッとわざとらしく姿勢を崩すと、上目遣いに訴えた。
「武様、わたくしも一人の女なのです」
「はぁ。そりゃあ、はい」
 女も女。それもとびっきりの美女なのは当然武も認めるところだ。
「ならば、愛する殿方の姿を二十四時間監視したいと思ってしまうのもそれは詮無きこと――」
「んなワケあるかぁッ!」
 武からのツッコミに悠陽はニコリと笑顔で応え、手元のリモコンをピポパッと手慣れた動作で操作した。
「御安心ください。二十四時間武様を見続けたいのは山々ですが、それ以上に武様に嫌われたくはありませんから」
 なんだか有耶無耶に誤魔化された気がしなくもなかったが、悠陽に言い切られてしまうと武もどうにも弱い。ここは彼女の言を信じることにして、武はモニターへと視線を戻した。
「……冥夜の奴、部屋を丸く掃除するつもりか」
 顔のアップを見る限り、冥夜自身は楽しんで掃除をしているようだがいかんせん技術が追いついていない。ハッキリ言ってとても下手くそだ。まさに四角い部屋を丸く掃除せんばかりである。
「武様、そう仰有らないでくださいませ。冥夜様は今まで掃除機になど触れたこともなかったのですから」
 なお、当初学校の掃除と同じようにモップと箒を使おうと考えていた冥夜に掃除機の使い方を教えたのは言うまでもなく月詠である。
「でもこの間、悠陽さんが掃除機かけてるの見ましたよ?」
「わたくしの場合、家事は趣味のようなものですし」
 料理と言い掃除と言い、冥夜と悠陽は顔は瓜二つでも中身は相当に違いがある。何となくだが、武の中でも冥夜は一つの事に打ち込むタイプ、対して悠陽はわりと手広く多趣味な印象があった。
「それに……御剣を継いでしまえば、料理も掃除も自分でやる機会は失われてしまうでしょうから」
 そっと呟いて寂しげな雰囲気を覗かせたのも束の間、悠陽はモニターの中の妹の姿を楽しそうに眺め続けていた。
「ん、掃除機はかけ終わったか」
「そのようですわね」
 掃除機をかけ終えたらしい冥夜は、コンセントを抜くと腕組みをして唸り始めた。……どうやら、コードの戻し方がわからないようだ。
「月詠さん、コードの戻し方は……」
「……申し訳ございません」
 教え忘れた模様。
 そうしてモニターの向こうでは、散々悩んだ挙げ句、やがて冥夜はグルグルとコードを手で巻き始めた。
「ぶっ!」
 思わず吹き出しそうになるのを武は必死に堪えた。悠陽も肩が震えている。別におかしいから吹きそうになったのではない。至極真面目な面持ちでコードを巻き巻きしているメイド冥夜が可愛らしすぎたのだ。ちなみに月詠は二人以上に必死な気配を滲ませている。
「我が妹ながら……な、なんて微笑ましい」
「ゆ、悠陽さん、笑っちゃ悪いって。プ、クク」
「た、武様こそ」
 コードを巻き終えた冥夜の表情は達成感に充ち満ちていた。
 そして……扉を開け、廊下に出る。冥夜を追うように画面も切り替わり、その中で彼女は階段を下りて脱衣所に辿り着いていた。
「今度は洗濯か」
「月詠、そなた冥夜に洗濯機の使い方は……」
「はい。一通りお教えいたしました。……ですが……」
 月詠が苦しそうに言い淀む。ですが、の後にどんな言葉が続くのかは容易に想像がついたので、武も悠陽もそれ以上は敢えて追及しようとは思わなかった。
 冥夜は脱衣籠の中から武のシャツやパンツを取り出すと、無造作に洗濯機の中に放り込んでいく。普通はもう少しくらい恥ずかしがっても良さそうなものだが、頓着しないのがむしろ冥夜らしかった。
 ……が。
「むむ」
 悠陽と月詠が何かに気付いたのかモニターを食い入るように覗き込む。
「? どうかした――」
 最初、武はそれに気がつかなかった。と言うより、冥夜があまりに頓着しないものだからむしろ武が恥ずかしくて画面を正視出来ずにいたのだ。
 で、正視した結果――武はギャオーッと叫び出したくなった。
「冥夜も、なかなかやるものですねぇ」
「ちょ、ちょちょちょッ!」
 冥夜は――いったい何を思ったのか、それまで何でも無さそうに洗濯機へと放り込んでいた武の衣類、その最後の一枚であるTシャツをまるで掛け替えのない宝物であるかのようにギュッと抱き締めていた。
「悠陽様、音は……」
「脱衣所は映像しか見えませんね。……残念」
「それは……何とも残念でございます」
「何を残念がってるんだ何をっ!?」
 冥夜の罰ゲームだったはずなのにいつの間にか自分が罰ゲームをやらされてるかのような気になってきた武は絶叫していた。恥ずかしい。このままでは恥ずかしすぎて悶死してしまう。
 冥夜は、何と言おうか……とても安らいだ表情をしており、それがまた武は殊更に恥ずかしかった。
 と、そこで急に冥夜の顔色が変わった。
 玄関のある方へと向き直り、彼女にしては珍しく慌てている。
「お客様でしょうか?」
「……俺、なんかすっげー嫌な予感がするんスけど」
 武の嫌な予感は、おそらく当たっているだろう。
 もう少し見ていたかったのに、などと呟きながら悠陽は通信機らしいものを手に取っていた。
「神代、聞こえますか? 神代」
『は〜い。……って悠陽さまぁッ!? な、なな何用でございますか!?』
「白銀家に今どなたかがいらしたようなのだけれど、わかりますか?」
『ちょ、ちょーっとお待ちください!』
 通信機の向こうから神代巽、巴雪乃、戎美凪の御剣家侍従三人衆……通称三バカがワーワー大騒ぎしているのが聞こえてきた。
 そして待つこと十秒程。
『悠陽様、侵入者を発見しました!』
『しました!』
『しました〜!』
 客が来たか確認しろと言われたくせに、三バカの中では相手は既に侵入者という位置づけになってしまったらしい。
「それで、どなたですか?」
 悠陽の質問に、三バカは声を揃え……美凪だけ間延びして、
『鑑純夏様です!』
『です〜』
 と、まったく想像通りの答えを返してきたのだった。



 冥夜は焦っていた。
 無現鬼道流を修め、常に平常心たらんと構えてはいるものの、なんせ今の冥夜は武人ではなく一人の恋するメイドさんである。好きな男のシャツをつい出来心から抱き締めて恍惚と安らぎを感じながら物思いに耽っていたところに、突如恋敵且つ友人が『ターケルちゃーーーん!』と大声上げつつドアをドンドン叩き始めたのだからたまったものではない。
『タケルちゃーん! いないのー!? いるよねー! いるー!? いないわけがあるかーッ!』
 意味不明な純夏の叫びが木霊する。
 ともあれ彼女の侵入を防ぐのは不可能だ。なにせチェーンをペンチで切断してまで入ってくる相手である。普通に鍵を閉めておいた程度では純夏相手には何の役にも立ちはしない。
「ま、待て! 待つのだ鑑!」
 冥夜は慌てふためいて脱衣所を出た。……が、手には武のシャツを持ったままだ。メイド姿で武のシャツを握り締める冥夜。そんな光景を純夏が目にしたなら、当然――
「いかん! このままではタケルが撲殺されてしまう!」
 結果どうなるかはすんなりと導き出された。……自分が純夏に殴られるのではなく武が殴られると瞬時に思い浮かぶ辺り、冥夜もこの辺の人間関係によくよく慣れたものだ。
 武術どころかスポーツも満足にやっていないくせに純夏のパンチ力は異常だと言ってよい。冥夜もこれまでに幾度となくその鬼の如き殴打を目にしているからわかる。怒れる純夏の拳は武を遥か彼方のバーナード星系までブッ飛ばすだろう。
 メイドとしてここは何としても武を守らねばならない。
 そう意を決し、冥夜は取り敢えず落ち着くべく深呼吸してみた。すると、握り締めたままだったシャツから武の匂いがしてきた。
「……タケル」
 まるで武に抱き締められているかのようだ。そんな幸福に冥夜は思わず身を委ねようとし――
「はっ!?」
 ついトリップしてしまいそうになるのをすんでのところで我に返った。白銀武という存在は御剣冥夜にとって時に麻薬も同然となる。まったく、危なくて仕方がない。
「し、しかしどうしたものか……」
『もう開けちゃうよー! ってか開けるからねー! おりゃーっ!』
 外ではついに純夏が合い鍵を鍵穴に差し込んだようだ。
『ありゃ? うー、なんか最近鍵がうまく開かないなぁ』
 それは毎朝純夏が力の限りにガッチャガッチャとドアに負荷をかけるからなのだが、当の本人は気付きもしないで力の限りにガッチャガチャ。
『え? 霞ちゃん、やってみる?』
「社まで来ているのか!?」
 冥夜の声が裏返る。
 今の今まで冥夜自身はこのメイド姿をとても気に入っていた。何しろ経緯はどうあれ武が選んでくれた衣装である。それに、さっきも彼はよくわからないが感動に打ち震えながらグッジョブと言ってくれた。“可愛らしい”という感覚に不慣れな冥夜だが、こうしてメイド服を着て武のために家事をこなしていると、「もしかして今の自分は可愛いのではないか?」と思えてきて嬉しかったのだ。
 しかし、純夏はまだしも霞にこの姿を見られるとなると、何故だか無性に恥ずかしいよう感じられた。
 一般的な“可愛らしい”の定義に疎い冥夜でも、霞や、それにみんなのマスコット的な存在である珠瀬壬姫が所謂“可愛らしい”少女であることはわかる。彼女達の無垢な純粋さは、無骨な自分からは羨ましくさえあった。そんな少女にこのメイド姿を見られ、もし似合わないなどと思われたなら……
 そう考えた途端、冥夜の頬は羞恥に染まっていた。
『おおっ、霞ちゃん上手ーい! 一発で開いちゃったよ』
『たまたま、です』
「まさか珠瀬まで!?」
 冥夜、絶賛混乱中。
 このままでは純夏と霞だけでなく、壬姫や慧、千鶴や晴子達にまで見られ笑い者になってしまうに違いない。それは、きっととても悲しいことだ。でもそれ以上に、罰ゲームだなんて抜きにしてせめて今日一日は武のためのメイドでいたかった。
 だから冥夜は逃げようとした。
 武のメイドでいるために、メイドな冥夜は目一杯迷走し――

 ――だが、悲しいかな。
「……あ」
「……あ」
 ここは一般的な日本家屋である白銀家。御剣家のような規格外の大豪邸ではなく、脱衣所を出た廊下は一直線に玄関へと通じている。
 メイドコスで手に武のものらしきシャツを握り締め全力で走り出そうとしている冥夜を見て、純夏の目は点になっていた。
 霞も、感情表現が乏しい彼女なりに目を見開き驚きを露わにしていた。

 終わった――そう、冥夜は思った。
 もはや言い訳無用だ。御剣冥夜改め御剣メイドの運命は、風前の灯火だった。
 絶句していた純夏の腕がプルプルと上がる。
 冥夜は反射的に俯いたが、そうすると今度は手に持った武のシャツが目に入ってしまう。安らぎに逃避するわけにもいかず仕方なく視線を逸らすと、今度は霞と目が合ってしまった。
「うっ」
 霞は依然として驚いている様子だった。
「あわ……あわわ……あわわわわわわわ」
 純夏は冥夜を指差して震えている。
 冥夜は怯えるように瞑目した。耳も塞いでしまいたかったが、武のシャツを持ったままだったのでそれは出来なかった。
 こうなったら、どのような罵倒も嘲笑も甘んじて受けよう。その上で武には一切責任がないのだと訴え――……と、そこまで冥夜が考えた時、
「冥夜さんがとんでもなく可愛い格好でメイドさんしてるぅッ!?」
 純夏は、絶叫していた。
「……は?」
 今度は冥夜が絶句する番だった。
「ちょ、何それ何の服? メイドさんだよね? でも月詠さん達のとは違うしでもってか可愛すぎるよ悔しいよこれはアレかまたタケルちゃんの仕業かうわー許せないあのエロ奉行また冥夜さん騙してエロ行為三昧しようとしてたなゆぅるぅせぇなぁいぃぃいいいいでもチクショー可愛いよぉッ!!」
 霞の手を握ってブンブンブンブン、興奮しているためか発言内容は支離滅裂。霞も霞でコクコクと忙しなく相槌を打ちながらウットリと頬には微かに朱がさしている。
「うぅぅぅぅ! 私も着たい〜〜〜! 霞ちゃんだって着たいよね!?」
「……は、はい」
 妙に真剣な面持ちで同意する霞。
 そこで、冥夜は改めて自分の姿を見下ろしてみた。
「そ、そのだな。鑑、社」
「着たい着たい着〜た〜い〜……って、へ?」
「?」
「……その、おかしくは、ないであろうか?」
 既に武にも訊いて確認したことだ。その事を冥夜はもう一度、純夏と霞に問うてみた。が、そんな真剣極まりない冥夜とは打って変わった軽さで純夏はピンとはねた前髪の一部、通称アホ毛をヒュンヒュン振り回すと、
「おかしいもなにも、おかしいくらい可愛いよ」
 平然と答え再び霞と手を繋いではしゃぎだした。
 霞も声こそ小さいものの、はっきりと、
「とっても、可愛いです」
 と答えて微笑んでくれた。
 果たしてこの時冥夜の心に湧いた感情はどう言い表せばよいか。
「あ……ふ、二人とも。……そ、そなた達に、心より感謝――」
「目標発見〜〜〜〜〜っ!!」
「発見だ〜〜〜〜〜ッ!!」
「発見です〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!」
「――をぉ!?」
 冥夜の言葉を遮って乱入してきたのは言うまでもなく三バカ。
「鑑様ゲットォ!」
「わぁ! ちょ、神代さん何だってのさ!?」
「しからばごめん! グールグル!」
「いやぁあああああ! グルグル今日も目が回る〜〜〜〜〜〜!?」
 巽が純夏を抑え込み、雪乃が縄でグルグル巻きに……ついでに純夏本体もクルクル回って目を回していた。そして簀巻き完成。二人は簀巻きになった純夏を抱え上げるとエッホエッホと退散し始めた。
「社様〜、すいませんけど、ゲットさせていただきます〜」
 一方、美凪は霞の手を引いてそのままノンビリと退散。霞も特に逆らうつもりもないらしく、静と動、二つの誘拐劇はこうして幕を閉じた。
「……なんだったのだ?」
 残された冥夜の呟きに答えてくれる者は、そこには誰もいなかった。



 ――いたのは、御剣家別邸地下だ。
「では悠陽様。お二人は」
「そう、ですね。今日一日だけですし、お詫びも兼ねて小樽で極上のお寿司と蟹でも……」
「ではそのように。巴」
『は〜い。お二人様北海道直行ー!』
『え? は? ちょ、へりゃー!?』
 武が口を挟む間もなく、通信機の向こうからは三バカの姦しい声と純夏の珍妙な声が聞こえてきた。霞は……呆気に取られて無言なのか、この手の状況に流される覚悟なぞとうに出来ているのか。
 ヘリのローター音らしきものが聞こえ、通信機からはもう純夏達の声が聞こえてくることはなかった。
「……いいなぁ、寿司と蟹」
 投げやり気味に呟いた武に、
「あら。可愛いメイドよりもお寿司や蟹をご所望ですか?」
 悠陽は、そう言ってクスリと微笑んだ。





◆    ◆    ◆





「? どうしたタケル。まだ掃除は終わっていないぞ?」
 知っている。モニターで見ていたのだから。
 武が部屋に戻ると、冥夜は神妙な顔つきで、しかしながらとても楽しそうに窓拭きをしていた。
「いや、なんつーか、うん。他にすることもなくてナー……」
 後半は棒読みっぽく言いながら、武は横目でチラチラと窓を覗き見た。当然のように所々汚れが落ちていない。それ以上に拭いている最中、力が入りすぎているのか窓からはミシミシと破滅的な音が聞こえてきたため、悠陽と月詠が部屋に戻るよう武に奨めたのだ。
「そうか。では少し待っていてくれ。窓拭きが終わったらお茶でも煎れよう」
 武が来たことで余計に気合いが入ったのか、窓のあげる悲鳴がより致命的なものへと変わる。
「ま、待て冥夜!」
「どうしたと言うのだ、タケル」
 心底不思議そうだ。しかしどうしたもこうしたもなく、このままでは一分ともたず武の部屋の窓ガラスは粉微塵になってしまう。
 ……まぁ、もしそうなってもどうせすぐに修復されるのだろうが、せっかく機嫌をよくしている冥夜が悲しみに沈むのは武も見たくなかった。悠陽と月詠もそう考えたから武を部屋に戻したのだろう。
「そんなにお茶が飲みたいのか?」
「いや、そういうわけでも……」
「ではどうしたと言うのだ?」
 尋ねながら、冥夜は手の中で雑巾を所在なく弄くっていた。……おそらく全力で絞ったのだろう、ボロボロだ。
 武は困っていた。さて、どうしたものか。いっそ本当にお茶がどうしても飲みたいからだと言ってしまっても良いかも知れない。冥夜ならおそらくそれで納得するだろう。
「あー、そのな――」
 が、言いかけた武の脳裏を一つの懸念が過ぎった。
 ……果たして、冥夜はまともにお茶を煎れられるのだろうか?
 何せ料理一つを作るために一々爆発を起こす娘である。お茶を煎れるのに台所を大洪水にするくらいは平気でやってのける可能性がある。それでは駄目だ、結局失敗した冥夜は沈み込んでしまう。
 困った。まいった。
 八方塞がりで、仕方なく武は咄嗟に――

「メ、メイド姿のお前ともっとゆっくり過ごしたかったんだよ!!」

 ……言った。
 言ってしまった。
 言ってから武は今の自分はきっと相当なアホヅラを晒しているに違いないと思った。我ながらなんて恥ずかしいことを堂々と……そう考えるだけで頬が熱くなる。とても冥夜を直視なんて出来ない。
 ふて腐れたようにそっぽを向いたまま、武は冥夜が何か言ってくれるのをただひたすらに待っていた。自分からなんてこれ以上何も言えたものではない。またうっかりとんでもないことを口走ってしまいそうで、武は口を紡ぐしかなかった。
「……。……?」
 けれどどれだけ待っても冥夜が口を開くことはなかった。
 そっぽを向いたまま、武は脇目で冥夜を見た。
「……」
 冥夜は、ぽーっと……武以上に頬を染めて立ち尽くしていた。手にした雑巾がいつの間にか二つに裂けている。
 やがて無惨に引きちぎられた雑巾がポトリと床に落ちた。そのまま冥夜の手は己の頬に添えられ、どうしていいかわからないとでも言いたげに微かに頭を振った。
 嬉しい、のだと思う。だが心が飽和状態で、冥夜には今の自分の感情がまったく理解出来なかった。
 武からグッジョブと言われた時――無論、嬉しかった。
 メイドとして武のために尽くしていると実感した時――当然、嬉しかった。
 純夏と霞から可愛いと言われた時――とても、凄く、嬉しかった。
 しかし今の感情はそのどれとも違っていた。嬉しいの、規模が。これはもはや嬉しいとか喜びとか、そんな範疇にはおさまらない。しかも冥夜にはわかっていた。今ですらまだ到達点ではない。この感情は、きっと、もっと大きく膨れ上がっていくに違いないのだ。
「う……あー」
 武も武で気が気でなかった。
 恥ずかしい。とてつもなくこっ恥ずかしいことを言ってしまった。なのに不思議と嫌ではないのだ。
 いつの間にか武は顔を上げて冥夜を正面から見つめていた。
 漆黒の瞳、整った鼻、そして――桜色の、唇。
 このまま見つめ続けていたらどうなってしまうか、それすら理解出来ないくらい武も間抜けではない。いくら周囲から鈍感だの優柔不断だのと言われようとも、事ここに至って目の前のあまりに魅力的な誘惑に抗おうだなんて不可能だ。ナンセンスだ。
 果たして先に歩み寄ったのは、二人のうちどちらからだったか。
 近付いていく。ゆっくりと、二人、一歩ずつ。
 武の手が、優しく冥夜の肩にかかっていた。
 冥夜の潤んだ瞳が、愛おしそうに武を見つめていた。
 近付いていく。ゆっくりと、二人の、顔と、顔が、重なり合うべく――

 ――ピシリ。

「……は?」
「……え?」
 おかしな音がした。
 二人の知識では、そんな音ではなかったはずだ。もっと、こう、『チュッ』とか、そんな音がするはずだったのに……と言うか、そもそも二人はまだ接触していない。あとほんの数センチのところで止まっていた。
 そうして頭を悩ませているうちに、音はピシピシと鳴り続け……
 冥夜の背後から、パリーンと窓ガラスが砕ける音が聞こえたのは、その直後のことだった。



 早鐘のような心臓の鼓動を必死に押さえ込もうとしつつ、武はハハッと乾いた笑みを浮かべていた。真っ赤になった冥夜の顔は依然としてすぐ目の前にある。今にも限界を超えて煙をあげそうだ。
「……冥夜」
「う、うむ」
 ガチガチの硬い返事。普段の彼女らしからぬ緊張しきった反応に、武はようやく鼓動がおさまっていくのを感じていた。
「……窓が」
「あ、ああ。どうしてだろう……? 割れて、しまったようだな」
 どうしてってそれは冥夜が力の限りに拭いたせいなのだが、本人は欠片も自覚無いらしい。まぁ、自覚していたなら窓が割れるはずもないが。
「……はぁ」
 溜息漏らしつつ武は冥夜の頬にそっと触れた。
 冥夜は緊張のためかビクンッと身を竦ませ、目を閉じた。
 そんな彼女を可愛いなぁなんて思いつつ、武は指で頬を拭ってやった。
「……タケル?」
「ったく。雑巾持ってた手で触ったりするからだぞ」
 目を開けた冥夜はわけもわからずキョトンとしている。これ以上そんな彼女を見ていると、また熱に浮かされてしまいそうだ。
 モニターに映っていた角度を思い出し、武はそちらの方を向くと両手を広げて戯けたポーズをとった。危なかった。あの二人のことだから、録画していないはずがない。
「タケル、一体何が……」
「何でもねぇよ」
 誤魔化すように言い放ち、部屋を出る。
「あっ」
 一瞬冥夜がとても寂しそうな表情を見せたのに、武は飄々と返す。
「ほら、ちり取りと箒持ってくるからガラス片付けちまおうぜ」
「そ、それはメイドの仕事だ。そなたは今暫く居間で――」
「いいんだよ」
 焦ったように武を追い越そうとした冥夜を、武は楽しそうに遮っていた。
「俺もやりたい気分なんだ」
「だが……」
「二人でやりてーんだよ」
 まだ納得いきかねると言いたげな冥夜にぶっきらぼうに言い放つと、武はさっさと廊下に出ていく。その後ろを冥夜も急いで追いかけた。



「なぁ、タケル」
「なんだー?」
 物置から箒とちり取りを出そうとする武に、冥夜は静かに語りかけた。
 もう一度、訊いてみたかった。
 自分はちゃんとメイドを出来ていただろうか。
 ……いいや、違う。本当に訊きたいのはそんな事ではない。
「冥夜?」
 箒とちり取りを持った武が怪訝な顔をしている。
「……なんでも、ない」
 やめておこう。今回のこれはあくまで罰ゲーム。そして冥夜はメイドなのだから、自分から何かを求めるべきではない。
 武からちり取りを受け取って、冥夜は身を翻した。下ろした髪とミニスカートがフワリと揺れる。
「さぁ、早くガラスを片付けてしまおうか。御主人様!」
「ご、ごしゅっ!?」
 突然のことにズッコケそうになった武をしてやったりと見やり、冥夜は軽い足取りで武の部屋へと戻っていった。





◆    ◆    ◆





「……月詠」
「何でございましょう」
 映像を編集しながら、悠陽はある場面で一時停止ボタンを押していた。
「この角度からだと、確実に“して”いるように見えますね」
「ええ」
 そこには武と冥夜の寸止めシーンが――しかし残り数センチにまで接近していたため明らかに寸止めで終わらず達しているように見える――が映し出されていた。
「……少し、ムッとしますね」
「少し、でございますか?」
 月詠はとても楽しそうだ。
「そなたもまったく意地が悪い」
 言いつつ悠陽は手を止めない。良さげなシーンを選りすぐり、御主人様とメイドのメモリーを勝手に作り上げていく。
「鑑さん達が戻ったら」
「はい」
「榊さん達も招いて、上映会でも行いましょうか」
「御意にござります」
 クックッと二人の肩が不穏に揺れる。
 次第に悠陽は作業に没頭していき、月詠は武の部屋の様子を笑顔で眺めていた。こちら側の黒いやり取りなど知る由もなく、モニターの中で武と冥夜は二人で部屋の掃除を続けている。その光景は御主人様とメイドと言うよりは、むしろ――
「……ふふ」
「月詠、どうかしましたか?」
「いえ、何でもございません」
 答えた表情は軟らかい。
 そのまま目を細め、月詠は自らの主達を優しく見つめ続けるのだった。





〜END〜





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