◆    ◆    ◆





 最初に。
 幼馴染みの変わり果てた姿を見た瞬間、純夏は目一杯に混乱した挙げ句、殴りかかりたくなる衝動を抑え込むのに必死だった。
 まず。
 殴りかかったが最後、多分カウンターで自分が斬られる。
 冥夜に、と言うよりも、側に控えている月詠真那に。
 それにしたところで殴りかかりたい衝動はいかんともし難く、仕方ないので純夏は武の部屋の壁を殴った。
「てめっ!? 純夏、俺の部屋を壊す気か!?」
 そんな文句を言われても、この胸中に渦巻くたとえようのない憤りを、彼はどう癒してくれるというのか。無理だろう。不可能だ。だから純夏は殴るのだ。壁を。
「や、やめぬか鑑! 壁が壊れてしまう」
「あらあら……ヒビが」
 焦る冥夜とは対照的に、どこか呑気な口調の悠陽は、しかし内心は純夏と同じらしかった。少なくとも、端で見ている霞の目には、悠陽の額のあたりに漫画でお馴染みの怒りマークが浮かんでいるのがそれはもうありありと、見えた。
「う〜〜〜……う〜〜〜〜……」
「ウーウーうるせぇ! 雪山帰れ!」
 と、いつもならここで武の拳骨が純夏の頭に炸裂するところを、今日ばかりは何も起こらなかった。怒りのあまりに両頬をまるでカエルかハリセンボン、はたまたオタフク風邪のように膨らませているのに、武に動きは見られない。言葉だけだ。
 ……と、別に頬を膨らませているのではなかったと脳内で訂正し、霞は改めて武を見た。ジッと見た。
「こ、こら社。そう見つめるな。恥ずかしい」
「……あ、すいません。……いえ、白銀さんを」
「ああ、……そ、そうか。すまん」
 どうして武の顔を見ていて冥夜が恥ずかしがるのか。
 どうして純夏が壁を殴るのか。
 どうして悠陽がホホホッと笑いながら額に怒りマークを浮かべているのか。
 どうして真那が心底嬉しそうな顔をしているのか。
 どうして武の顔が左右にまぁるく膨れているように見えるのか。
 順序立てて考え、考えに考え、考え倦ねて――霞は天井を仰ぎ、呻いた。
「……あがー」
 まったく、それ以外に言葉も無かった。



「やっぱり香月先生に見せるべきでは?」
 ようやく天井から視線を戻した霞は、なんとか平静を保ちつつ、真っ当なようで危険な意見を口にした。
 夕呼に見せたらおもしろがって何をしでかすかわからない。武としてはガクガクと震えるのみだ。
「……あんっ」
「ちょっ、冥夜ッ!?」
 急に艶っぽい声をあげた妹に、悠陽が血相を変えた。
「なんという声を出すのですか、貴女は」
「い、いえ……その、タケルが震えて……んっ、く、……ふぁ」
 純夏も霞も赤面していた。色っぽすぎる。
「う〜〜〜〜〜やっぱり殴るぅ!」
「待ってください、純夏さん」
 か弱い力で必死に純夏を羽交い締めにし、霞は懸命に止めようとした。実際にはその後ろから真那が掴んでくれていた。
「止めるな霞ちゃん! 止めないでぇ!」
「殿中です、殿中です、純夏さん」
「いやだぁ! 一発、一発キラを殴らせてぇ! キラを殴るぅスター!」
「確かにキラですが……違います。その人は白銀さんで、それに冥夜さんです」
 武で冥夜。
 ワケのわからない言い回しだったが、他に言い様がないためどうにも仕方がないのだった。
 そうなのだ。
 仕方がないのだ。
 純夏が武を殴れないのも、武が純夏を叩かないのも。
 だって今の武は、武にして武に非ず。
 アンリミタケル、オルタケル、タケルに色々あるけれど――

「くふぅんっ!? ちょ、バ、バカ! あまり震えるな、やめぬかタケル!」
「ぐぁああああ! 殴る、殴るぅううううう!! 後生だからぶっ飛ばさせてぇえええ〜〜〜……」

 ――平面タケルの白銀武は、冥夜の黒いタートルネックのシャツに、ベッタリと要らぬど根性を発揮して貼り付いているのだった。





◆    ◆    ◆





ど根性タケル





◆    ◆    ◆





 ――事の起こりは、12月16日の昼過ぎに遡る。



「プレゼン……ト? ……私に、か?」
「お、おお」
 ぶっきらぼうに包みを差し出した武は、あまりの喜びに今にも跳躍ユニットをつけて噴射跳躍しそうな冥夜からプイッと顔を逸らし、空いている左手でポリポリと頬を掻いた。
 右手の包みはリボン付き。誰がどう見てもプレゼントのそれで、今日は他ならぬ冥夜の誕生日だった。
 無論、武と悠陽の誕生日も今日なのだが、今、二人の間に漂う甘ったるい空気はそういった現実から切り離された桃色の時空を形成しているため、さして関係ないのだった。
「あ、開けても……よいだろうか?」
「ど、どうぞどうぞ。あ、開けてくれ。大したモンじゃねぇけど」
 武なら包装用紙などビリビリに破くところを、冥夜は丁寧に、薄皮を剥ぐようにして解いていくと、やがて出てきた一着のシャツに目を輝かせた。
「これは……」
「ああ、うん。……その、プレゼントって言っても、高価なモンとか俺の小遣いじゃ無理だし、それに御剣のお嬢様にそういうのも、アレだろ? だから普段使えるもので……お前、冬場は黒のタートルネック着てること多いから、……その、気に入ってるのかなぁって思って……」
 あれやこれやと多弁になってしまう自分に激しく自己嫌悪に陥りつつ、武はチラと横目に冥夜を見た。
 ……物凄く、感動しているようだった。
「……ど、どうだった?」
 放心している。
 まだ放心している。
 まだまだ戻ってくる気配がない。
「……はっ!」
 三十秒くらい経ち、ようやく冥夜は戻ってきた。
「そ、その……何と言えばよいのか。……う、嬉しい。……わ、私はとても嬉しいのだ! ……正直に言えば、この服は動きやすいからいつも似たようなものを着てしまっているだけで、それ以外に特別気にしたことはなかったのだ。……で、でも! タケルが、ちゃんと私を見てくれていたのだと思うと、その……あ、ああ! 兎に角、今の私は感無量で……う、うぅ」
 真っ赤になって俯いてしまった冥夜はたまらなく可愛らしくて、武は抱き締めてしまいたい衝動を抑えるのに必死だった。
 ふと互いに言葉が途切れてしまい、二人は沈黙の中、お互いの様子を、出方を窺っている状態だった。
 心臓の鼓動がやたら激しい音を立てる。打楽器でも叩き鳴らしているかのようで、武はその音が冥夜にも丸聞こえなのではないかと忙しなく視線を彷徨わせた。
 そうして時間が過ぎ去ること、五分ほど。
「……あの、……タ、タケル」
「うっ、うんっ!?」
 変に声が上擦ってしまい、武は穴があったら入りたい、無くてもそこら中をドリルで掘りまくりたい気持ちでいっぱいだった。
「その……今、着てみても、よいだろうか?」
 訊かれるまでもない。
「あ、ああ。いいぞ。……着てくれ。うん……着てくれ」
 そう言い残し、武はいったん部屋から出た。
 深呼吸して、一生懸命落ち着きを取り戻そうと素数でも数えてみることにした。
「1、2、3、5、7、11、13、17……」
 扉の向こうから、衣擦れの音が微かに聞こえた。
「18、21、24、35、38、42……」
 完全に狂っていた。
 そのまま素数でも何でもなくなった数字を数え続けて二十秒くらいも経ったろうか。
『タ、タケル。もうよいぞ。入ってくれ』
「128、136、ひゃくよひゃひゃいっ!?」
 舌を噛んだ。
 噛みながら、武は扉を開けた。
 開けた瞬間、
「……あっ」
 足が、もつれた。
 いくらなんでも緊張しすぎだ何やってるんだ俺の馬鹿、と考えながら転ぶ武の目の前には冥夜がおり、
「わわっ!?」
 ただでさえ緊張していたところを武が転けてきたことで動揺した冥夜まで、後ろに退こうとして足をもつれさせていた。
「おおぅっ!?」
 まず倒れたのは武。その上に覆い被さるように、
「うわっ!?」
 冥夜が倒れ込み――




◆    ◆    ◆





「――で、気付けばこのど根性タケルが出来上がってた、と」
「……はい」
「……そうなのです」
 所変わって白稜柊の科学室。
 武と冥夜からの説明を一通り聞き終えた夕呼は、大変珍しいことにまず何を言うべきか言葉を選んでいるようだった。そうして気難しそうな顔をして頭を掻き、首を振って、ようやく二人を正面から見据えて、一言。
「……馬鹿じゃないの?」
 改めて言われると、武も冥夜も不本意ながら頷くしかなかった。馬鹿馬鹿しいにも程がある展開なのは、間違いない。
「それで、何とか武様をお助けする方法はないものでしょうか?」
 神妙極まりない悠陽からの問いにも、夕呼はもう考えるのも億劫だとばかりに両手を返し、ヒラヒラと振った。
「はい、お手上げ〜」
「先生、もっとマジメに考えてくださいよぉ!」
「鑑〜。あんた、この状況をマジメに考えられんの? 考えてたらあたしの天才的頭脳が破壊されるわよ。そしたら世界の損失よ? もし明日宇宙からエイリアンが攻めてくるようなことがあれば、世界は破滅するわよ?」
 突拍子もない例え話のはずなのに、純夏は何故か言い返すことも出来ずグムゥッと低く唸った。
「まぁ、そうねぇ。どうしてこうなったのか科学的に検証するなら、多分アレね」
「……アレ?」
 首を捻った霞に、夕呼は話すのも馬鹿馬鹿しいけど仕方がないとばかりに語り始めた。
「この世界には、数々の並列世界があるとあたしは考えてるわ。そしてその世界同士はね、遠いようで実際には凄く近い、薄皮一枚隔てたような所にあるんじゃないか、とも考えてるのよ」
「はぁ」
 早くも理解を超え始めたのか、純夏が眉を顰めながら適当な相槌を打った。
「それで、今回の件は……白銀が、並列世界における白銀武の同位体と、御剣妹とのショッキングな激突のショックで奇妙な形に入り交じってしまったんじゃないかと説明できるワケ」
「並列世界の同位体、ですか?」
 こちらは純夏と違い、真面目に聞いていた悠陽が聞き返すと夕呼は深々と頷いた。
「ええ、そうよ。白銀の同位体」
「俺の同位体って……つまり、どういう?」
「この場合は、シャツね」
 一同、静まりかえった。
「はぁ!?」
「くふぁっ!?」
 シャツの中で武が思いっきり顔を歪めたため、胸を刺激された冥夜がまたもや色気たっぷりの喘ぎを漏らした。
 しかしそんなのお構いなしに、夕呼は武に詰め寄ると、ビッと指差して解説を始めた。
「だーかーら、アンタは異なる世界では黒のタートルネックシャツである可能性もあるって事なのよ! 同位体ってのは必ずしも人間なら人間と限った話でもないの! もしかしたら植物とか鉱物とか炉端の石とかそこのフラスコとか校庭のライン引きとか重いコンダラとか近所の野良猫とかレレレのおじさんとかトイレットペーパーの芯とか鍋のフタとか天井のシミとか世界の数だけアンタの色んな同位体が存在する可能性があるのよ! それで、今回は二人が転けた衝撃で、この世界のアンタとどこぞの世界のアンタであるシャツが混じり合ったの! これ以上はあたしの頭が馬鹿になる! 以上、説明終わり!」
 それ以上はもうウンともスンとも言わず、夕呼は大事な実験の続きがあると言い、結局武達は科学室を追い出されて帰路に就いた。





◆    ◆    ◆





「つまり、どうすればいいんだろうな」
「……わからん」
 途方に暮れて、武と冥夜は同時に溜息を漏らしていた。折角の誕生日だというのに、まさかこんな事になろうとは思っても……いや、誰だって思いつくはずもなかった。
 肩を落とし、トボトボと力無く歩く冥夜を見れば、純夏や悠陽、霞も何も言えなくなってしまう。
「……ごめんな、冥夜」
「タケル? 何を謝るのだ。そなたは何も……」
「いや、俺があの時緊張して転けたりしなけりゃ、こんな事には……」
「それを言ったら私とて、倒れてくるそなたを普通に受け止めていれば良かったのに……妙に気が高ぶっていたばかりに……」
 互いに謝り合い、二人は溜息を吐いた。
 暫く無言のまま歩いて、夕焼けに染まる街並を見つめ、もう一度溜息が零れた。
「……嬉しかったのだ」
 ポツリ、と冥夜は呟いていた。
「え?」
「……本当に、嬉しかったのだぞ?」
 冥夜はまるでシャツを抱き締めるかのように手を回すと、消え入りそうな声で、言った。
「そなたに感謝を」
「冥夜……」
 またもや二人だけの世界が構築されていくのを、許すべきか怒るべきか、純夏と悠陽、霞は複雑な面持ちで見つめていた。
「タケルちゃん、ずっとあのままなのかなぁ」
「どうなのでしょうね」
「……わかりません」
 今度は三人が沈痛な溜息を吐く番だった。
 三人とも、今日の武の誕生日のためにプレゼントを用意していたのだ。なのに相手がシャツではどうしていいものやら。誕生パーティーに招待してある千鶴や慧達にもどう説明するべきか、悩みは尽きなかった。
「……でも」
「……はい?」
 純夏が、ぎこちない笑みを浮かべていた。
「……着てみたいよね」
「……え?」
「……タケルちゃん」
 言われてみて、夕陽と霞は立ち止まるとそれぞれ目を瞑り、少々考えてみた。
 答えはすぐに出た。
「着たい、ですわね」
「……私も、着てみたいです」
 少女達の目は、獲物を狙う狩人の目へと豹変していた。



「冥夜ッ!」
「姉上ッ!?」
 急に飛びかかってきた双子の姉をかろうじて避けた冥夜は、ただならぬ気配に眉を顰めた。
「な、どうしたのです? いきなり」
「……武様をお助けする、良い方法を考えついたのです」
 その言葉には、冥夜も目を輝かせるしかなかった。
「本当ですか!?」
「マジか、悠陽!?」
 もし本当ならどんなに助かるか。流石に悠陽は頼りになると感心している二人にズイッと近付くと、満面の笑みを浮かべ、悠陽はシャツの裾を掴んでいた。
「……あの、姉上?」
「冥夜の着ているシャツに潰され貼り付いたのなら――」
「……悠陽?」
「――私が着れば逆に分離するはず!」
 このお姉ちゃん何を言っているのだろう。どう反応してよいかわからず、武と冥夜はあんぐりと口を開けた。
「ですから。ブラックホールに吸い込まれたものはホワイトホールから吐き出されるでしょう? それと同じような原理で」
 滅茶苦茶もいいところだった。
「ワケがわかりませぬ、姉上!」
「そうだそうだ! わたしだってタケルちゃんを着たい着たい着〜た〜い〜〜〜〜……ッ」
「痛ぇッ!? こ、こら引っ張るな純夏!?」
「……私も、着たいです」
「霞まで!?」
 少女三人、一人の少女に群がってシャツの裾やら袖やらを引っ張り合う光景は、十二月の寒空の下まったく奇妙奇天烈摩訶不思議なものだった。
 だがしかし、本人達にしてみればこれは真剣極まりない奪い合い、果てしなき女の闘争なのだ。
「あ、姉上、鑑、社まで……しょ、正気に戻れ! このままではタケルが裂けて――」
「いででででででででっ!? やめろ、やめ――」
 ――ビリッ、と。
「あ」
「あ」
「……ぁ」
 破滅の音が、聞こえた。
「ぎゃおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッ!!」
 陽は沈み、空に一筋、星が流れた。





◆    ◆    ◆





「……って夢を見たんだ」
「……へぇ〜」
 12月16日、午前7時30分。
 純夏は、いつものように叩き起こしに訪れた武の部屋で、腕組みしながら彼の弁明を聞いていた。
「いやぁ、驚いた。ホント、死ぬかと思ったぜ。……で、その恐怖のあまり、俺はワラにも縋る思いでな、手近にあったものを、こう、モミッと」
「ふぁんっ!」
 ついつい鷲掴みにしたたわわなソレをモミモミしてしまい、武はやたら満足げな笑みを浮かべた。揉まれた冥夜も、頬を真っ赤にしてなんとも幸せそうだった。
「ですからね、純夏クン。僕としてはこれはいつものように冥夜が忍び込んできたために起きてしまったアクシデントでありだね、僕もなるべく理性的な対応を試みるから、君にも是非とも人間としての理性を保ちつつ的確な判断を――」
「でぇえええきるかぁあああああああああああああッッ!!」
「ボボイボイボボボーーーーーーンッッ!?」
 朝もはよから、武が虚空へ還っていく……





◆    ◆    ◆





「はぁ? 白銀が御剣ン家の屋根に? 成層圏から落下してベッタリ貼り付いた? ……知らないわよンなこと」
 早朝からワケのわからない電話をかけられ、夕呼は不機嫌に頭を掻きむしった。





〜END〜





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