一月一日、アラスカ・ユーコン基地関係者居住区。 深夜とは言え、廊下は明るい。当然だ。夜勤シフトで働いている人間や、半夜勤といった時間帯で仕事を終えて部屋に戻る職員も少なくはない。 そんな廊下を、ユウヤは歩いていた。 一人で、ではない。 「ほら、唯依……大丈夫か?」 「う、う〜ん」 肩を貸している相手がいる。 その相手とは、誰あろう唯依だった。それも、着物姿の。 まったく稀有も稀有、服装も相まって珍しすぎる醜態だった。あの篁唯依が、グデングデンに潰れるまで酔う日が来ようとは、果たして彼女を知る誰が予想しえただろう。 何しろイブラヒムですらが驚き、動揺を隠しきれずにいたのだから、普段の彼女からいかに泥酔という言葉、状態が程遠いかがよくわかるというものだ。 それとも、これが多くの日本人が羽目を外してしまう“正月”の効果ということだろうか。衛士の士気を保つためにも宴席という名のレクリエーションは必要不可欠とは言え、やはり周りがもっと気を遣ってやるべきだったと言わざるをえない。 「……う、っ」 「おいおい、頼むから部屋までは我慢してくれよ?」 酔いつぶれた美女を部屋まで運ぶ――古典的ではあるが、清く正しく健全な下心ある男子ならば誰もが憧れるシチュエーション――……と、少なくとも、ヴィンセントとヴァレリオはそう力説し、ユウヤを囃し立てていた。 だが、本人としてはどうにもそうは思えなかったりする。 「……す、すまない……」 唯依のこんな醜態、本音を言えば見たくはなかったという感情が今のユウヤにはあった。あれだけ彼女の日本的精神が凝り固まったかのような堅さに反発していたのに、いざ和解してみれば自分は篁唯依という女性のそんな部分を認め、いつの間にか尊敬にも似た念さえ覚えていたというのだから、思わず苦笑もしてしまう。 「クク」 「……うっ、そ、そんな……笑わなくても」 情けない声で、羞恥に顔を背けた唯依が可笑しくて、ユウヤはさらにクックッと喉を鳴らしてしまった。 「いや、悪い。別に唯依のことを笑ったってワケじゃ……」 「だが、このような迷惑をかけては……申し訳なくて」 「いいっていいって。それに今回の件、悪いのは無理して飲ませたステラだからな」 そうなのだ。 いつもならみんなの抑え役に回るはずのあのステラが、何故か今回に限っては際限なく唯依のコップに酒を注ぎ続け、気がつけばバタンキュー……まったく、どうしてあんな事をしたのかユウヤにはワケがわからなかった。 しかもそんな唯依の世話を一方的にユウヤに押しつけ、自分はとっととタリサ達を引き連れて退散してしまったのだから余計にタチが悪い。だいたい、こんな深夜に酔った女性を男に送らせようとは正気の沙汰ではないではないか。 「……いや、彼女を、悪く言わないでくれ。ブレーメル少尉は、私の相談に乗ってくれていただけ……うっ!」 |
「お、おい、唯依?」 もたれ掛かってきた唯依の、アルコールとは異なる匂いに翻弄されつつもユウヤは鉄の自制心でもって彼女を部屋の前まで連れて行った。 (これが、オレの中に流れる日本人の血なのか……?) 大幅にズレたことをドギマギしながら真剣に考えつつ、ユウヤは唯依に扉の鍵を出すよう求めた。 「……あ、ああ。これが、鍵だ……」 「ふぅ。じゃあ、開けるぞ」 「……うん」 扉を開けると、中は当然の如く真っ暗だった。静謐とした空間に、どことなく厳粛な雰囲気が漂っているのはここが他でもない篁唯依の部屋であることを雄弁に物語っていた。 「一人で大丈夫か?」 「……ああ。ありがとう、大分、楽になった」 まだ少し足取りは危うかったが、唯依はユウヤからゆっくりと離れると室内に入り、電気のスイッチを入れた。 それを見届けると、ユウヤは踵を返し、 「じゃあ、オレはこれで――」 「あっ」 立ち去ろうとしたのを、唯依に袖を掴まれていた。 「……唯依?」 「いっ、……いや、その……きょ、今日は迷惑をかけたし」 「だから、それは気にすんなよ。ステラのことも、別に怒ったりはしないさ」 軽く振り解こうとしても、唯依は思いの外強く袖を掴んでおり、どうやら放してくれそうにはなかった。 「そ、それで……その、お詫びも兼ねて……茶……そう、お茶でも一杯、どうだ?」 こんな深夜に、恋人でもない男を部屋に招き入れるなんて、と。一瞬そう注意しようとしたユウヤだったが、なんだかそれでは自分ばかり一方的に意識しているようで躊躇われた。唯依の事だから純粋に礼をしたいだけなのだろうという、ある種の信頼もある。 「……それじゃ、一杯だけご馳走になろうかな」 そう答えたユウヤの言葉に、唯依はパァッと嬉しそうに目を輝かせていた。
……なのに、いったいどうしてこうなっているのか。 「お、おい、唯依……」 「……ふぇ?」 |
転がっている無数の酒瓶と、徳利と呼ばれる日本特有の酒器を見回し、ユウヤは頭を押さえた。 「もういい加減にやめた方が……」 「……ふ、ふ。いや、まだ、らいじょうぶだ」 呂律が回っていない。 唯依は、明らかに駄目な人になっていた。 「らいじょうぶ、って……ステラに飲まされた分だってまだ抜けきってなかったのに、日本酒もこんなに……」 数多散らばる日本酒は、彼女の話によれば時折唯依の父親も同然の方が半ば強引に贈ってくるらしく、多忙な唯依は飲もうにも飲みきれずに結局溜め込んでしまっていたものとのことだった。 で。 お茶を一杯いただくはずが、どうしたものか一緒に酒を一杯という話になり、以前に肉じゃがを馳走になった話などしているうちに唯依が日本料理や日本酒、焼酎の話を始め、 「……ん、ふ、ふふふぅ」 こうなってしまった。 「さぁ、もぉイッパイ……ふ、ふ」 何がそんなに楽しいのか、ユウヤの湯飲みに酒を注ぎながら唯依はかつてない程にご機嫌だった。 「いや、これ以上は流石に……明日は一応操縦は無いはずだけど、いつも通り業務はあるし」 「……むぅー」 退室しようとすると、そのたびに唯依のこの膨れっ面で止められて酒を飲まされ続ける悪循環。 「そんらこといわずに、もうイッパイ。じょーかんめいれい!」 職権濫用もいいところだった。 とは言え、もしかしたら普段勤勉実直、厳格に努めすぎていることの反動なのかも知れないと思うと、ガス抜きくらいつき合ってやらなければ、と結局ユウヤは湯飲みをグッと傾けた。 ……しかし、ガス抜きはいいのだが…… |
「うっ」 目のやり場に、困る。 唯依が自分のことを信頼してくれているという自信はあったし、彼女の信頼を裏切らないよう最大限努力してはいるものの、思いっきり着物をはだけさせ、ほんのりと朱色に染まった胸だの太股だのを露出させたこれはいくらなんでも無防備すぎだ。酔っているとは言え、酷すぎる。 「ゆ、唯依……その」 「……えー?」 急に名を呼ばれ、嬉しそうにユウヤの方を向いた唯依はその拍子に徳利の中身を零してしまっていた。 |
「ぶっ!?」 ……胸に。 「……あんっ、もったいない……」 偏見的な物言いになってはしまうが、やはり欧米人と比べると東洋人の身体の凹凸というものはそこまで激しくはない。日本人女性は慎ましい気風とともに体つきも華奢な感じの人が多いのだとユウヤは勝手に思い込んでいた。 が、しかし。 「う、うぅ」 鼻と口元を押さえつつ、こうして唯依を見ていると、そのような考えは簡単に吹っ飛んでしまった。ステラや、それにクリスカと比べれば確かに大人しい……と言えるのかも知れないが、それは比べる相手が悪いだけで、唯依のスタイルたるや、日本女性の印象を払拭するには充分すぎた。 |
と、そんなユウヤの視線に気付いたらしい。 「……♥」 突然、悪戯っぽい笑みを浮かべると、唯依は先程酒を零してしまった胸元へとさらに徳利を傾けた。 「な、何をっ!?」 「んっ……いやぁ、こぼして、しまっらなぁ♥」 わざとらしいにも程がある。 胸のラインを伝い、透明な酒の雫がゆっくりと彼女の谷間へと流れ込み、溜まっていく。その光景は、いっそ神秘的、幻想的ですらあった。 |
ゴクリ、と思わず喉を鳴らしてしまったユウヤは咄嗟に顔を背けた。これ以上見ていたら、自制が効かなくなってしまう。絶対に、危ない。そしてそれは、今はこうして酔っている唯依が覚醒した時にどう思うか。 「……ッ」 彼女の信頼を、裏切れない。 裏切ってはいけないのだ。 そう、必死に己に言い聞かせているユウヤへと、 「ユーウー……ヤっ♥」 唯依は、あろうことか身を乗り出し、預けてきた。 |
胸元に酒を溜めたままで。 「お、おい、これ以上の悪ふざけは――」 「……巫山戯てなんて、ない」 一瞬、彼女の声がいつもの調子に戻った気がしてユウヤは不覚にも正面から彼女を見つめてしまった。 「ほら……もう、一杯」 胸の谷間に並々と酒を溜め、潤んだ瞳でユウヤの顔を見上げてくる唯依の姿を。 |
掛け値無しに、美しいと思った。 揺らめく酒の水面にたつ波は、彼女の鼓動に連動しているのだろう。 トクン、トクン、と。 聞こえてくるのは自分の胸の音なのか、それともあの波に合わせた唯依の胸の音なのか。 「……ユウヤ」 酒に濡れた唇が、ユウヤの名を呟く。 魔力だ。 初めて会った頃、日本人形のようだと思った。無愛想で、冷徹で、ユウヤの嫌う日本人の特性に凝り固まった、本当に嫌な女……それが、篁唯依だった。 間違っても美しいだとか綺麗だとか、そういった感情を抱く対象ではなかったはずなのだ。 なのに、今、彼女はこんなにも…… 「ゆ」 ――い、と。 名前を呼ぼうとした瞬間、ユウヤは視界がぶれたかのように錯覚した。が、それはユウヤが酔って朦朧としたためではなく、揺れていたのは、唯依の方だった。 「……は、れ……?」 流石に飲み過ぎたのだろう。 唯依が傾き、谷間に溜まった酒が零れていく。 「おっと」 その身体を受け止め、ユウヤはどうしたものかと彼女の顔を覗き込んだ。いつもよりもやや幼げに見えるのは、むしろこれこそが年相応の、篁唯依の本来の顔なのだろう。 心臓の高鳴りを抑えきれない。 彼女もそうなることを望んでいたのではないかと、男の身勝手な解釈だと自覚しつつもユウヤは自分にもたれ掛かる唯依の身体を求めようとして、 「……くー」 聞こえてきた可愛らしい寝息に、ヘナヘナと脱力していった。
「それで、結局何も無かったの?」 「……うぅ」 ステラの声が頭にガンガンと響く。 青い顔をしながら水を飲み、唯依は弱々しく頷いた。 結局、目が覚めた時自分は寝床に横たえられており、枕元には『おやすみ。二日酔いに注意せよ、中尉殿』と書かれたメモだけが残されていた。 何も無かったのだと気付いた時の脱力感たるや、それはもう、今のステラの比ではなかったと自信を持って言える。 「まぁ、それがユウヤなのかも知れないけどね」 せっかく協力して貰ったのに悪いと感じつつも、今の唯依にはステラの優しげな声すら凶器だった。 自分の押しがまだまだ弱かったのか、それともユウヤの自制心が人並外れて強かったのか、……もしくは、彼が単に筋金入りの鈍感野郎なだけなのか。痛む頭では答えを出すことも億劫だった。 「……はぁ」 重苦しい溜息には数多の苦悩が込められていたものの、さしあたって、 (……どんな顔をしてユウヤに会えばいいんだ、私は……!) 今日だって顔を合わさないわけにはいかないのだ。 悔やむべきは己の軽挙か彼の鈍感さか。 頭を押さえつつ、唯依はもう一度、コップの水を喉へと一気に流し込んだ。 |
〜END〜 |