◆    ◆    ◆





 一月一日、アラスカ・ユーコン基地関係者居住区。
 深夜とは言え、廊下は明るい。当然だ。夜勤シフトで働いている人間や、半夜勤といった時間帯で仕事を終えて部屋に戻る職員も少なくはない。
 そんな廊下を、クリスカとイーニァは歩いていた。
「イーニァ、やはりやめないか?」
「……やだ」
 もう何度同じやりとりを繰り返しただろう。クリスカが自分達の宿舎に帰ろうと何度言っても、今夜のイーニァはずっとこの調子だった。どうしていつにも増して頑ななのか、理由を考えてみても、やはり一つしか浮かんでは来なかった。
 ユウヤ・ブリッジス。
 イーニァがこんなにも強く拘るのは、彼が関係しているからにおいて他には無い。
「だが、こんな遅くに訪ねても、あの男ももう寝ているだろう」
「……ううん。おきてるよ。ユウヤは、おきてる」
 確信的な表情のイーニァは、どうしてか、少し怒っているようにも見えた。彼女のこんな貌はクリスカでさえ滅多に見た覚えがない。
(何か、感じるのだろうか。あの男、ブリッジスのことで)
 そう考えただけで胸がざわめくのは相変わらずだったが、今のクリスカには、それがどうしてなのか以前よりもわからなくなってきていた。
 自分にとって誰よりも大切な存在である少女、イーニァが興味を持ち、懐いた相手――だからこそ、気になっていたはずだ。クリスカの意識の中心はイーニァであり、また彼女以外にありえないはずだった。
 なのに、今は……
(……ユウヤ・ブリッジス)
 イーニァのことは無論、今でも何ものにも代え難い、自分にとってもっとも大事な少女なのだと断言出来る。しかしそれとはまた違った意味合いで、クリスカはユウヤのことを意識していた。否定など、出来ないほどに。
「……あ、ユウヤのへや」
「ッ!?」
 クリスカが思索に耽っているうちに、どうやら目的地に着いてしまったらしい。イーニァはスキップでも踏むかのように軽やかにユウヤの部屋らしい扉の前まで駆け寄ると、インターホンを押した。
「……」
「……」
 反応は、無い。
 もう一度、少女の細い指がインターホンを押す。
「……」
「……やっぱり、もう寝ているんじゃない?」
 出来る限り優しく諭すように告げたクリスカに、イーニァは寂しそうに振り向いたかと思うと、突然跳ねられたかのように方向転換、今来たのとは逆の方に駆け出した。
「あっ、イーニァ!?」
「ユウヤ!」
 イーニァが駆け、飛び込んだ先にいたのは、彼女が今名を呼んだ通りにユウヤがいた。
「イーニァ!? クリスカも、どうしたんだこんな時間に」
 飛び込んできたイーニァを抱き締め、その頭を優しく撫でながら、ユウヤはクリスカへと尋ねた。
「あ、ああ……いや、イーニァが、散歩がしたいと」
 大嘘だった。
 散歩などではない。イーニァには、どうしてもユウヤに会いたいという確固たる目的があり、クリスカもそれを止めきれずにこうして着いてきてしまったのだ。
 だがユウヤはそれを聞いて、いつものイーニァの放浪癖なのだろうと納得してくれたようだった。
「なんだ、またか? でもダメだぞイーニァ。こんな遅くに散歩なんてしてたら。それにこっちの居住区に夜中勝手に入ったなんてバレたら、問題になっちまうからな」
 こちらは国連側の居住区であり、昼間ならばまだしも夜中にソ連兵であるクリスカとイーニァが勝手に出歩いていていいような場所ではない。見つかってスパイとして吊し上げられてしまっても文句は言えないのだ。
 普段ならばこうしてユウヤに注意されると、イーニァは寂しそうに肩を落として渋々従うのだが、今日は違っていた。
「……うー」
 小動物のような唸り声を微かにあげて、イーニァはユウヤの顔を睨め上げていた。もっとも迫力などは欠片も無い。傍目には小さな妹が兄に我が侭を言っているような光景だ。しかしそれでも、クリスカにとっては驚くべき事だった。
「イーニァ?」
 いったい何が気に入らないのか、イーニァはユウヤのジャケットの裾を固く握りしめてまだ唸っている。
 それから彼女の口を衝いて出たのは、驚くべき言葉だった。
「……ユウヤから、ユイのにおいがする」
「いっ!?」
「なっ!?」
 狼狽し後退ったのはユウヤだけでなく、クリスカもだった。
 イーニァは、今、何を言ったのだろう。
 こんな真夜中に、どこからともなく戻ってきたユウヤへと飛びつき、そうしたら何故か不機嫌で、唐突に、唯依の、匂いがすると……
「ッ!?」
 あまりのことに、クリスカは思いっきり顔を逸らしていた。
 ユウヤと唯依が仲が良いのは知っている。男女の機微、情実といったものに疎い、と言うより殆ど真っさらなクリスカであっても、唯依がユウヤに対して抱いている感情が果たしてどのようなものなのか、何度か彼女と接するうちにいい加減に気付いていた。
 となると、今、ユウヤから唯依の匂いがするというのは、
「……――ッ!」
 火の点いたように赤く染まった顔を、ユウヤにだけは見られたくないと思った。逸らしたままの顔を両手で必死に覆い隠し、クリスカは一刻も速くイーニァを連れてこの場から離脱しなければならないと自分に言い聞かせ、何とか顔を見られぬよう彼女の手を引こうと覚束ない足取りで近付いた。
「クリスカ」
「え?」
 だが、手を掴まれていたのはクリスカの方だった。
 いつの間にかユウヤから離れていたイーニァは、何やら真剣な顔つきでクリスカの手を握り締めていた。
 彼女もユウヤと唯依のことを察し、帰る気になったのだろうか。そう考えるとどうしてだろうか、胸のざわめきがさらに激しくなったが、クリスカはそのような不確かな感情を振り払うように頭を振ると、いつも通りの自分を心懸け、イーニァの手を引こうとして……逆に、引かれた。
「イーニァ?」
「……だめ」
 フルフルと、イーニァが頭を横に振っていた。
「何が、駄目なの?」
「このままじゃ、ユウヤをとられちゃう」
 一瞬、クリスカは、イーニァが何を言っているのか理解出来なかった。
「え? ブリッジスを? ……なに?」
「このままじゃ、ユウヤをユイにとられちゃう」
 再び繰り返し、イーニァはクリスカの手をか細い腕で懸命に引っ張ると、何がどうしたのか理解出来ないでいるユウヤのもとまで引きずっていった。
「な、なぁ、イーニァ。いったいどうしたんだ? なんか変だぜ、今日のお前……」
「へんじゃ、ないよ。へんなのは、ユウヤ」
 少し怒った風に言うと、イーニァはクリスカの背後に回り、ユウヤに向かってグッと背を押した。
「えっ!?」
 あまりのことに反応出来ずにいたクリスカは、そのままユウヤに身体を押しつける形となり、ようやく元に戻りかけていた頬をさらに赤々と染め上げた。
「イ、イーニァ!?」
「何を!?」
 驚いている二人に、イーニァは小首を傾げると、再びユウヤの隣に移動して袖を抓んだ。
「それで、ユウヤは、ユイとなにをしてきたの?」
 直球だった。
 止めなければ、と思うのに、クリスカはクリスカでユウヤと密着したままどうしてか動けずにいた。
 肉体も精神も不安定だ。薬が切れたのだろうか。いや、しかしきちんと適量摂取している。問題はないはずだ。
 では、なぜ……
「な、何って……一緒に酒を飲んできただけだ」
「うそ」
 即返され、ユウヤが口籠もる。
 まるで全てを見ていたぞとでも言いたげなイーニァの視線が、今日に限ってたまらなく怖ろしい。
「ほんとは、もっと、なにかあったんだよね?」
 ニッコリと微笑んだイーニァに、ユウヤは頷くしかなかった。





◆    ◆    ◆





「それで、どうしてこんな事になっているんだ!?」
 こっちが聞きたい、とばかりにユウヤは叫ぶクリスカに対して盛大に溜息を吐いた。





 





「……オレに聞かれてもなぁ。イーニァに聞いてくれ」
「イ、イーニァ!」
 困ったように叫ぶクリスカを、イーニァはニコニコと見つめていた。
「うん。これなら、きっとまけないよ?」
 所変わってユウヤの室内。
 彼の抵抗を押し切って入り込んだイーニァは、持っていた鞄から小さな布切れを取り出すと、突然その場で服を脱ぎ始めた。あまりのことに制止したユウヤをキョトンと見つめ返し、さらにクリスカの服まで脱がせようとし始めたのだから部屋主としてはたまったものではない。仕方なく洗面所に飛び込み、着替えが終わるまで待っていたユウヤがやがて目にしたのは、
「クリスカ、ぜったいにかてるね」











 ……今や懐かしいとも言える、グアドループ基地で彼女達が披露した水着姿だった。
 ……一応断っておくと、クリスカはスクール水着の方ではなくビキニの方だ。得意満面な顔のイーニァは、どうしてかスク水だったが。
「勝てるって……タカムラ中尉に、その、何をどうやって勝つと言うの?」










 困ったように問いかけるクリスカへと、イーニァは笑顔を崩さない。どうも楽しくてたまらないらしい。傍目にも今の彼女のテンションが上がりっぱなしなのがよくわかった。
「ユウヤ、いったよね」
「へ?」
 間抜け面を晒しているユウヤへと確認を取りつつ、イーニァは再び鞄に手を突っ込むと、そこから酒瓶を取り出した。
 見るからに度数の高そうな、ハラショーソ連なウォッカ様だ。もっとも向こうでは蒸留酒は全てウォッカと呼ぶらしいのでこの場合のユウヤの認識が正しいかどうかは見た目ではわからなかったが、イーニァが蓋を開けた途端に周囲に漂いだした酒の香気は、それが冷凍庫に入れても凍らない類の酒であると雄弁に物語っていた。
「おさけ」
「お、おお」
 匂いにあてられたのか、既にイーニァの頬はほんのりと赤くなりつつあった。しかも彼女は、何を思ったのかそのまま酒瓶を傾けたのだ。
「ひゃんっ!?」










 クリスカの、豊満な胸の谷間へ。
「イーニァ!? お前、いったい何を――」
「え? だって、ユウヤはユイと、おなじことしたんでしょ?」
「うっ」
 無邪気に問われると言葉に詰まらざるをえない。
 先程、イーニァの激しい詰問に遭ったユウヤは結局抗いきることが出来ず、唯依と酒を飲んでいたら酔った彼女が胸元に酒を零し、そのまま自分にもたれ掛かって寝てしまったのだと包み隠さず正直に彼女に教えてしまったのだった。
 だが、しかしだからといって何故クリスカの胸にウォッカをぶちまけたのかは理解に苦しむ。
「やっ、イーニァ、冷た……ん、くっ」










 胸の谷間に注がれた酒が溢れ、お腹の方へと伝っていく。
 なんともはや、絶景という他無い光景だった。ヴァレリオやヴィンセントが聞いたら血の涙を流して悔しがるかも知れない。
「んっ、……くぅ……ッ」
 身悶えるクリスカの姿はあまりにも扇情的だった。先程の唯依とはまた違った意味で、普段生々しい現実感を伴わない氷のような美女があられもない声をあげているというのはひどく背徳的な美しさを伴っていた。
「は……ぁ……うっ」










 何かを堪えるような喘ぎ声が、キッと閉じられた唇からどうしようもなく漏れだしていく。
 部屋の床はいつの間にか酒浸しになってしまっていたが、ユウヤとしてもそんな事を気にしていられる心境ではなかった。まったく、一月の一日だからと皆どうかしているとしか思えない。こうして見入ってしまっている自分も、無論含めて。
「……うん。もぉ、だいじょうぶかな?」
 ようやく注ぎ終えたのか、イーニァは酒瓶を軽く振った。
 飛沫が少しばかり宙を舞ったものの、どうやら瓶の中身はすっかり空になってしまったようだ。部屋の中の酒臭さたるや、それはもうとんでもない状態だった。
(……うっ、やべっ)
 ユウヤとて、唯依ほどではないにしろ大分飲んでいるのだ。まだかろうじて素面の状態を保ってはいたものの、この大量の酒気にあてられてはたまったものではない。
 クリスカとイーニァも、また同様。
「……んっ、う、ぅ……ん」










 胸の谷間に酒を溜めたまま、クリスカは朱の散った顔を振るい、身悶えしていた。
「……あ、ダメだよ、クリスカ。うごいたら、こぼれちゃう」
 イーニァはそんなクリスカに何をさせるつもりなのか、ゆっくりと背を押してユウヤに近付かさせた。
 何をする気か、と。尋ねようとして、結局ユウヤは言葉に詰まってしまった。ニコニコと微笑んでいる顔は本当に楽しそうで、つい見ている側も綻んでしまう。クリスカがイーニァをあんなにも大切にしている理由もわかろうというものだ。
 しかしそんな無垢な天使は、次の瞬間、G弾もかくやのとんでもない爆弾を投下した。
「このまま、ユウヤにおさけ、のんでもらわないといけないんだから」

 ――時が止まった。










 硬直したクリスカの谷間から、酒が零れ落ちていく。
「あっ、あっ、……ユウヤ、はやく、はやくのんで!」
 慌てたイーニァは、既に間近にあったユウヤへとクリスカの身体をグイッと密着させていた。
「うわっ!?」
「ひゃうっ!?」
 普段のクリスカからは想像もつかないくらい可愛らしい悲鳴をあげた彼女の胸から、ウォッカが飛び散っていく。そのうち数滴は、この場合は果たして幸運と言うべきなのか、呆けたように開けっ放しだったユウヤの口へと吸い込まれていった。
「……ああ」
 残念そうなイーニァの声が室内に響く。










 酒浸しになった自分の身体を見下ろしてから、クリスカはどうにも表現に困る顔をして、やがてそれは安堵のものだったのか、ホッと短い吐息を漏らしていた。
 何を安堵したのかは、ユウヤにはわからなかったし、クリスカ自身もわからないでいた。
 と、何とも気まずい雰囲気のまま訪れた沈黙は、
「……すー」
 突然聞こえた小さな寝息によって破られた。
「イーニァ?」
 見れば、クリスカの背を押したまま、もたれ掛かるようにしてイーニァが眠りに落ちていた。
 元々こんなに遅くまで起きているような少女ではないのだ。そこにこの大量の酒気を吸っては、今まで起きていられたのがむしろ不思議なくらいだった。
「……寝ちまった、のか」
「ああ」
 なんともまぁ、天使のような寝顔とは今の彼女のようなものを言うのだろう。ユウヤとクリスカは自分達が密着したままなのも忘れて、暫しその愛くるしい寝顔に見入っていた。





◆    ◆    ◆





「……今夜は、すまなかったな、ブリッジス」
「いや、ああ、その……うん。気にしてないから、そっちも気にするなよ」
 ハッハッと空笑いするユウヤに、クリスカは憮然と「そうか」とだけ答えると、ドアノブに手をかけた。
 気まずい。
 唯依に続き、クリスカとイーニァとまで、なんとも気まずい新年のスタートもあったものだとユウヤは肩を落とした。
 ガチャリ、とドアが開く。
 イーニァを負ぶったクリスカが、廊下に誰もいないことを確認してから滑るように退出しようとし、
「……С Новым годом」
「?」
 チラと振り向いて、何事か口にしていた。
「今、なんて言ったんだ?」
 ロシア語のようだったが、早口だったし小さく囁くように呟かれたためユウヤにはまったくわからなかった。
「……あけまして、おめでとう」
「え?」
 おそらく自分は間の抜けた顔を晒していたことだろう。
 うっすらと、まるでイーニァに向けるような笑みを浮かべたクリスカの囁きは、ユウヤの鼓膜を優しく撫でた。
「新年の、挨拶だ。……イーニァからの、代わりにな」
 代わりにと言った途端、いつも通りのクリスカがそこにはいた。それを今の自分は残念に感じているのかどうか、ユウヤには判断がつかなかった。
 扉が、閉められる。
 その最後の瞬間、
「……С Новым годом」
 もう一度、先程と同じ言葉を投げかけられた気がしてユウヤはクリスカに確かめようと手を伸ばし、やめた。
 足音もなく、ただ気配だけが廊下を遠ざかっていくのが感じられた。まるで雪の精霊にでも化かされた気分だ。
 新年の、挨拶。
 最初のものがイーニァの代わりなら、ではもう一度呟いたのは誰の言葉だったのか。
「……は、は」
 我知らず笑みを浮かべ、ユウヤは酒浸しの自室を振り返った。まったく噎せ返るような匂いだ。
 まずは換気扇を入れて、床を拭いて……
「……オレ、何時に寝られるんだろうな」
 時計を見るのも億劫なまま、ユウヤは取り敢えずバケツと雑巾を取ってこようと洗面所へ足を向けた。










〜END〜





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