◆    ◆    ◆





 自分が歳をとることを素直に喜べていたのは果たしていつの頃までだったか、神宮司まりもは扇風機の風に前髪を揺らしながら、ボーっとそんな事を考えていた。
 受験や就職を控えし三年生を受け持っていた去年と違い、一年を担任している今年の夏はわりと暇だ。言外に「今日くらいは有休をとっても」と職員室の各所から向けられてくる視線に甘えてしまっても良かったのだが、特に誰かに祝って貰える予定も無いという苦々しい寂寥が結局はこうして職場に足を向けさせた。無駄に意固地なのが自分でも困りものだ。別に、予定が無いなら無いで部屋でゴロゴロ不貞寝していても良かったのに。
 去年は、この時期はつき合っている相手がいた。けれど受験生の担任というのは受験戦争の要たる夏をそうそう私事で休めるはずもなく、泣く泣く出勤したのを克明に覚えている。去年と今年が逆であったなら良かったのにと、あまりに負け犬根性が染み着いた己の考えにまりもは暗澹たる想いに囚われた。いったいいつから自分はこんな大人になってしまったのだろう。
 純粋に誕生日を喜んでいた頃の自分は、きっとこんな風に扇風機の風を浴びてへにゅうっとダレながら寂しいIFストーリーを妄想したりなどせず、眩いばかりの笑顔でケーキの上の蝋燭の灯を吹き消していたはずだ。
「……はふぅ」
 暗く、陰鬱とし、重苦しく、闇の気を纏った、高威力溜息だった。省エネ中の職員室の気温が一気に三度ばかり下がったよう誰もが錯覚するくらいの負のオーラを悶々と放ちながら、まりもは別段急ぎでもない書類を手にとって、ジトーッと流し読んだ。
 ――今年、自分は幾つになるのだったか。
 努力して忘れようとしても人は過ぎゆく歳月からは決して逃げられないのだと、まりもは最近になってつくづく痛感させられていた。もう、何が嫌かって味噌という言葉を聞くのが嫌だ。味噌汁も味噌焼きオニギリも大好きなのに、居酒屋の〆でそれらを頼もうとすると一瞬躊躇してしまう自身の呪わしさにまりもの枕は最近湿りっぱなしだった。
 高校一年だった頃、今の年齢の自分をどう想像していたか、考えるだに哀惜が慟哭となって零れ出しそうになる。教師になるのは高校の時分からの夢ではあったが、流石に、流石に今この年齢に達する頃にはめでたく寿退職しているしているだろうな、なんて……
「……へふぅ」
 人の夢と書いて儚いだなんて漢字を生み出した奴はきっと人間学を究めた天才だったのに違いない。けれどその天才に今は殺意しか湧かなかった。
 人型の暗黒が流動するかのように、まりもの上半身がウゾゾッと机の上を移動した。同僚達がタタリ神の顕現にビクリと身体を震わせるのもお構いなし、ペン立てからボールペンを取り出す。赤青黒で色を変えられる、お馴染みの三色ボールペンだ。今必要なのは、書類に簡単なチェックを入れるための赤だった。
 なのに。
「……うぅ」
 まるで不機嫌な獅子が唸ったかのようだった。
 赤のペン先を紙に何度擦りつけても、これっぽっちも線など引けやしなかった。インク切れだ。まごうことなく、どこをどう見てもインク切れだ。
 そのインク切れが、まま今の己の境遇であるかのように感じられてまりもはついに机へと突っ伏した。剣折れ矢尽き、割れた盾の向こうに百万の軍勢を見てしまった古代ローマの兵士のように、今、神宮司まりもは完膚無きまでの絶望の奈落へ転がり落ちようとし――
「ちょっとー、まりもー」
 ――職員室の些か立て付けの悪い扉をガラピシャンッと勢いよく開け放った親友の言葉によって無理矢理引き上げられていた。
「……うに?」
「ウニじゃないわよったく明礬で形整えたウニみたいな顔して。ほら、出かけるんだからシャンとなさい」
 そう言って、香月夕呼は有無を言わさずまりもの腕を引っ張り上げる。
「ちょ、ちょっと何なのよ夕呼!? 出かけるって、今仕事中――」
「どうせ仕事なんざ大して無いでしょ? あたしも無いもの」
 相変わらず横暴極まりないジャイアニズムが炸裂し、席を立つ羽目になったまりもはそのまま夕呼に手を引かれたった今開け放たれた扉の前まで連れてこられてしまった。しかし夕呼がどう言おうと今は勤務中であり、流石に勝手に出ていくわけにはいかないとまりもは掴まれた腕を振り解こうとしたのだが、
「あー、師岡先生。この子、連れて行きますので」
「ああ、早退で処理しておこう」
「せ、先生っ!?」
 かつての恩師のあまりにあっさり過ぎる返事に仰天しつつ、まりもは省エネ中の職員室よりもさらに暑い廊下へと連れ出されていた。むあっという八月特有のまとわりつくような熱気が肌を瞬時に蒸らす。
「ま、待って、待ちなさいよってば、ちょ、夕呼!」
「何ようるさいわねぇガキみたいに。あんた今日で幾つだと思ってんのよ?」
「ゴップッハポァアッ!!」
 MAX160h/kmの剛速球が脇腹を抉った。痛恨のデッドボールだ。死ぬ。
「あら、珍妙な叫び声ね」
「うぅ……もういやぁ」
 力無くズルズルと引きずられていくまりもの脳内では、味噌汁と味噌焼きオニギリが美味しそうに湯気をたてていた。香ばしい匂いが鼻腔をくすぐり、どことなく郷愁を誘う。腹よりも胸が満たされていく感じだ。
 なのに、その胸は夕呼の投げた剛速球の直撃によって粉々にブチ砕かれていた。
 味噌の香りが伽藍となった胸を抜け、溢れる。
 味噌が、世界に充ち満ちていく。
 右を向いても左を向いても味噌、味噌、味噌。赤味噌白味噌糞味噌だ。
 そんな味噌まみれの世界の中心で、まりもには「アッーーーー!!」と声にならない叫びをあげ続けることしか、出来なかった。





◆    ◆    ◆





「……ラーメン?」
「そ。ラーメン」
 愛車のストラトスを法定速度ギリギリ……破っているような速度で走らせ、夕呼は何でもないことのように答えた。しかし、それにしてもまりもの疑問は尽きない。それどころか一層大きく膨れ上がっていた。
「何でラーメンなの?」
「ん? 食べたかったから」
 これまたいともあっさりと。夕呼からの清々しいまでの返答にまりもはシートにズズズッと腰を沈み込ませた。
「あのね、夕呼」
「ったく、前の軽トラのオッちゃんムカつくわねぇ。なんであんなすっトロい速度で満足出来るのか不思議でならないわ。男ならもっとラディカルでグッドなスピード出すモンでしょうが」
「軽トラのオッちゃんのことは置いておいて」
「嫌ぁよ。公道すっトロく走ってるオッちゃんおばちゃんってどうしようもなくムカつくでしょ? え? なに、もしかしてあんたムカつかないの?」
「ムカつくことも多いけど安全運転でやってるんだし」
「あのねぇ、亀のように遅く走れば安全ってワケじゃないのよ? 道路を走る全ての車両がその時の交通量なんかに合わせた適性速度でスムーズに走行出来るかどうかが重要なの。あんなのは安全でも何でもなく無用な混雑、渋滞を招くだけよ。完全平和主義を訴えながら戦争の火種バラ撒いてるのと同じだわ。何処の歌姫よ」
 これ以上は何を言っても馬耳東風だ。そもそもまりもが聞きたかったのは夕呼の安全運転観などではなく、何故、どうしてラーメンなのかという事だったはずなのに、話は完全に逸れてしまっていた。
「で、何でラーメンなのかって?」
 と思ったら急加速で逸れた話が戻ってきた。
「そ、そうよ。しかもここもう東京抜けて埼玉じゃない」
 まりもの言う通り、夕呼のストラトスは横浜を出て、東京を抜け、埼玉南部をなおも北上していた。だと言うのに何処へ向かっているのかは一切口にしないのだ、彼女は。
「んー、午前中に暇だったから物理準備室で適当なグルメ雑誌読んでたのよ。そしたら群馬の方だったかしらね。なんか美味しいラーメン屋あるみたいで急に食べたく――」
「群馬ァッ!?」
 ギョッとして、まりもはシートから腰を浮かしかけた。
「群馬。……だった気がする」
「気がするって何よ!?」
「……いやぁ、うっかり雑誌持ってくるの忘れちゃったのよね」
 まったく、これっぽっちも似合わない仕草で「テヘッ」と舌を出した夕呼に壮絶に呆れながら、まりもは再びシートに沈み込んだ。いっそこのままズブズブと沈んでいって、車の底が抜けてアスファルトに激突し、そこでも穴を空けて地下深くまで潜ってしまいたい。そうして謎の地下空洞に辿り着き、美しい地底湖に沈んで地底毬藻になるのだ。そうしたら特別天然記念物どころか世界的に有名な自然遺産となり、引く手も数多、男なんて選り取りみどりアホウドリ、ハリウッドの大物男優とだってつきあえるかも知れない。
「……ああ、でも毬藻じゃ駄目よね。手も足も胸も穴も無いものね」
「あんた、何言ってるの?」
 アレな人でも見るかのような夕呼の視線もなんのその、まりもは車窓の外を流れていく景色、と言うよりは夏という季節そのものをしみじみと見送っていた。カラリと晴れた青空に、でかでかと浮かぶ入道雲。喧しい蝉の声に、西瓜の路上販売。東京を少し出ただけだというのに、現代日本もこうして改めて見れば意外と懐かしい風景が転がっているものだ。
 そんな夏の原風景に、少しだけ心が落ち着いた。
 やがて夏を見送った視線が隣席へと移る。
「……」
「……? なによ、人の顔ジロジロ見て」
「……別に」
 てっきり、横暴に見えて実際には親友である自分の誕生日を祝ってくれるつもりなのではないかと期待もしたのだが、やはり考えすぎだろうなとまりもは嘆息した。
 これまで夕呼が誕生日を祝ってくれたことは何度かあるが、毎年というわけではない。特に親孝行というわけでも親不孝というわけでもないごく普通の少年が気紛れに母の日にカーネーションを贈るかどうかくらいの確率頻度だ。つまり、覚えていて且つ気が向けば、程度。
 覚えているのは確かだ。教室からまりもを連れ出した際に、今日で幾つになるのかなんて極悪な一言を投げかけている。けれどまさか、祝いで群馬、なのかどうかもよくわからない所までラーメン、ということもあるまい。ならば今日のコレは神宮司まりも2○歳の誕生日とは一切関係なく、本当にただ偶然ラーメンが食べたくなった夕呼の暴走につき合わされているだけなのだろうとまりもは自身を納得させた。
「あ、誕生日オメデト。あたしからのお祝いはラーメン奢りって事でよろしくね」
「なのにあんたはぁあッ!?」
 納得させた途端にコレだ。
「な、なによ? チャーシューとゆで卵くらいならトッピングしてもいいわよ?」
 金は持ってるくせに微妙にケチ臭い。
「そんなこと言ってんじゃーないわよ!」
「え、じゃあメンマ? それとも刻みネギ?」
「ち、が、い、ま、す!」
「えー、ナルトはあるかどうかわかんないわよ?」
「だから! ラーメンのトッピングじゃなくて!」
 かくして、この不毛な言い争いは埼玉を抜けるまで続いたのだった。





◆    ◆    ◆





「味噌ラーメン一つ」
「あいよーっ! ミソ一丁!」
 ピシッ、と。
 空間に亀裂が走ったよう自分でもハッキリとそれが感じられた。
「ん〜? どしたのまりも、早く注文しちゃいなさいよ」
 なんでこうも悪魔のような笑みが似合うのか、親友を問いつめたい。問いつめたいったら問いつめたい。問いつめたくてたまらない。
「いやぁ、我ながら自分の記憶力に惚れ惚れするわね。何だかんだでお店の場所はハッキリ覚えてたわけだし」
 夕呼の声を聞きながら、メニューを持つまりもの手はフルフルと小刻みに震えていた。わざとらしすぎる。だいたい彼女の天才的な頭脳が午前中に読んだばかりの雑誌の内容をすぐさま忘れるなんてありえなかったのだ。忘れた、だなんて方便もいいところだろう。
「……なん、なのよ」
「ああ、美味しそうな匂いよねぇ」
 素知らぬ顔で今か今かとラーメンの湯で上がりを待つ夕呼の実に憎たらしいことよ。第一、同い年のはずなのにこの余裕は何なのだろう。そう考えると、もしかして自分だけ通常空間を生きていて夕呼の周囲だけ停滞空間と化しているのではないか、彼女の超科学はそれすら可能にしてしまったのではないかと錯覚したくもなる。
 いや、しかしそれにしてもだ。
「……う、うぅううう」
「ほらぁ、まりもも早く頼んじゃいなさいよ。あたしだけ先に食べて待ってるのなんて嫌よぉ?」
 悪逆にして非道。夕呼の口が今すぐ耳まで裂けたとしても自分は別段驚きもしないだろうなとまりもは中途半端に冷房の効いた店内のおかげか頭の中の少しだけ冷えた部分で鬼女と化した夕呼を想像し、辟易とした。とは言え、全体としてはやはり熱に浮かされた部分の方が大きい。
 熱エネルギーはすぐさま衝動へと変換されていた。即ち、全身全霊で叫び出したくなる行き場のない怒りやら哀しみやら、負の感情の塊だ。
「なんで……なんで……」
 まさか、まさか目指していたラーメン屋が――
「なんでよりにもよって味噌ラーメン専門店なのよぉおっ!?」
「ヘイ、ミソ一丁お待ちィ!」
 店の親父のやたらイイ声が響き、夕呼の前に差し出された味噌ラーメンはそれはもうさぞ美味しいのであろう香りと湯気を放っていた。麺はスープの味が濃いためか太麺、表面に見える具はメンマとチャーシュー、キャベツやモヤシなど野菜類。どれも味噌の味がよく染みていそうで口内に唾が溢れた。その唾をまたゴクリと飲み干す。
「あー、美味しそ。それじゃ先に食べるわよ? いただきまーす」
「あんたなんて遠大な嫌がらせすんのよ!? 群馬まで来てわざわざ味噌ラーメンとか! そもそも同い年でしょ!? 私と同じで三十路一歩手前でしょ!? タイムリミット近いのにどうしてそんな平然としてられるわけ!?」
 必死な、あまりにも悲痛な訴えだった。水木一郎がタイムリミットが近いことを高らかに歌い上げるかの如くに叫んだまりもを、割り箸でズルズルと太麺啜りながら夕呼が嘲るように睥睨する。
「べっつにー。あたしは三十代にそこまで危機感抱いてないもの」
「むんグッ!」
 キッパリと言い切られ、まりもは言葉に詰まった。確かに、大袈裟に騒いでいるのは自分の方だけで夕呼は一切気にしている様子など無い。と言うより夕呼は元々老けてるので今さら三十路になろうと何も変わりは――
「……まりも、流石にそれは失礼よ?」
「……ごめんなさい」
 何考えてたのかはお見通しだったらしい。シュンとなって肩を竦めたまりもをよそに、夕呼がラーメンを啜る音が店内にズルズルズルズルと響く。彼女の雰囲気にはそぐわない豪快な食べ方だが、ラーメンときたらやはりこれだろう。音も立てずにラーメンを食べるなどラーメンに対する侮辱だ。不敬だ。冒涜だ。
「……はぁ」
 溜息一つ、まりもは改めてメニューを見た。
 味噌ラーメン。
 味噌チャーシューメン。
 ネギ味噌ラーメン。
「……味噌ラーメンしかないじゃないよぉ」
「餃子もあるわよ?」
「ふぇ?」
 メニューを裏返してみると、確かに特製焼き餃子とあった。
「味噌入ってるけど」
「えぅッ」
 本当だった。よく見れば特製味噌焼き餃子とある。
 味噌とニンニクのたっぷり入った餃子……きっと美味しいだろう。美味しいに違いないであろう事がまたどうしようもなく悲しかった。
「……うぅ、ふぇ〜〜〜〜ん」
「あーあー。もう良いじゃない、歳のことなんか諦めて味噌ラーメン食べなさいよ。美味しいわよ?」
 もう涙で曇ってメニューも見えやしない。
「諦められないわよぉ〜〜〜〜ぅ。……味噌チャーシューメン、大盛り〜」
「あいよー! 味噌チャーシュー大盛りね! 一丁!」
 結局、泣きながらまりもは味噌チャーシューメンを頼んだ。
「それだけでいいの? 何でも奢るわよ?」
「……あぅ〜、味噌餃子もお願いしますぅ〜」
「ヘイ、味噌餃子一丁!」
 もうこうなったら味噌への想いの全てを含めて、食べまくってやるだけだ。コップの水を勢いよく飲み干し、まりもは口をへの字に、眉を八の字にして麺の湯で上がりを今か今かと待ち構えた。
 それを横目に、スープをレンゲで啜って、一言。夕呼が呟く。
「……まりも」
「あうぅ……ぇえ?」
「あんた、いったい三十路の何をそんなに怖がってるわけ?」
 本当に何て事無く、至極あっさり核心を突かれまりもはたじろいだ。夕呼の表情を見る限り、特に含みもなく単純に疑問に思っているから聞いてみただけ……のようだ。
「ソコがわかんないのよねぇ。あたしは気にならないって言ったけど、まぁ女なら気にするのが当たり前とも思うわよ? けどあんたの場合異常よ。気にするどころかなんでそんなにまで恐怖してるの?」
 呻き声すらピタリと止めて、まりもは親友からの問いかけに答えることもなくぼんやりと店の天井を見上げていた。染みだらけだが、清掃は行き渡っているらしく不潔感は無い。
 換気扇の回る音、空調の音、流しっぱなしになっているテレビの音。様々な雑音の中、夕呼が麺を啜る音と、オヤジが麺を茹で上げる音だけが不思議と澄み切って鼓膜を震わせた。
 音はあるのに、その時間は奇妙な静謐となってまりもには感じられた。
 時の流れが緩慢だ。
「――……」
 ふと、思う。この時の流れが、怖いのだろうか。
 漠然としているのだ。
 理由なんて、本当はまりも自身もよくはわからない。なのに、全身にまとわりつくかのようにその恐怖は何処からともなく湧き上がり、這い寄り、いつの間にかあらゆる負のオーラを綯い交ぜにして――味噌にすら怯えさせた。
 無情に流れていく時間が、形の無い焦燥が、恐怖の源なのだろうか。
 ――違う。
 そんな事ではない。まりもが怖れているのは、焦っているのは、そんな事などではなく、もっと別の、そう、それは……――
「へイッ! 味噌チャーシュー大盛りお待ち!」
「ッ! ……あ」
 弾かれたように、まりもは目の前に置かれた味噌チャーシューメン大盛りへ視線を合わせた。濛々たる湯気、味噌の香りに五感が痺れる。味噌の味と匂いは他を殺すとも言うけれど、味噌ラーメンは好きだ。味噌汁も、味噌煮込みうどんも、味噌田楽も、どて焼きも、大好きだ。
「餃子もう少し待ってね!」
 オヤジのイキの良い声を聞きながら、まりもは割り箸を割った。パキリ、と綺麗に割れたので気分が良い。ラーメンを食べる前に割り箸が上手く割れないと何故か味まで落ちた気になる。
 そのまま、割り箸をスープにくぐらせ、麺を挟む。ストレートな太麺は滑りやすいので力加減に気をつけつつ、口元へ近付け、フーフーと二息。
 そうして、ズルズル、っと。
 麺が、口の中へと吸い込まれていく。
 ゆっくりと、咀嚼。やはりなんとも味噌ラーメンらしく、味噌の味しかしない。だがその味噌の味が良い。味噌ラーメンにはアタリもハズレも無いなんてよく聞くけれど、そんなの嘘だなぁとまりもは思った。少なくとも、自分の味覚にとってこの味噌ラーメンはとても美味しい。
「美味しいでしょ?」
「……うん」
 何故か『してやったり!』とでも言いたげな顔をして、夕呼は満足げに頷くと再びレンゲを口へ運んだ。さらに数回往復させ、最後はもう面倒臭いとばかりにどんぶりを抱えてスープを飲み干す。ラーメンのスープを飲む姿さえ妖艶に映るというのは反則のような気もしたが、そんなことで難癖をつけても仕方がないのでまりももラーメンを堪能することにした。
「味噌、って発酵食品だけど……現象としては腐敗と変わらないのよね」
「……」
 ズルズルと麺を啜りながら、夕呼の独白に耳を傾ける。
「人体に有用なら発酵と呼ぶ、……定義付けなんて、所詮そんなものだけど、腐ってなお美味しいなんて大したもんじゃない」
 ……まさか、味噌を使っていい話風にまとめるつもりなのだろうか。流石にそれはどうだろうと、メンマを噛み締めながらまりもは眉を顰めた。いや、そもそもこの流れだと、もしかして――
「だからね、まりも。あんたも腐ってもなお美味しく感じられるよう、そんな味噌みたいなイイ女を目指して――」
「ズルッ! ンむ、グゥウッ!? ……んぐ、ゲホ! ……だ、誰が腐ってるのよ誰がぁあアッ!?」
 色々とヤバイところから麺が飛び出しそうになるのを賢明に堪えながら、まりもはかろうじて夕呼の話の〆だけは阻止したのだった。





◆    ◆    ◆





 ――多分、自分がまだ何かを成したと思えないからだ。



「……はぁ」
「ちょっと、まりもぉ? そんなブラック企業で残業手当も貰えず日付変更まで働かされてようやく退勤出来た瞬間のSEみたいな顔しないで、もっといい顔してくれない? ほら、スマイルスマイル」
「……はぁ〜い」
 夕呼に促されるまま、まりもはぎこちなーく笑みを浮かべた。口の端が歪み、頬が引き攣っているのが嫌でもわかる。
「ポーズも、本番に向けて練習練習。カメコのみんなはそんな程度じゃ満足してくれないわよ?」
「……うぇ〜い」
 気を取り直そう。まりもは頬を両手で挟むと、そのまま上へとずらしていって、伊達眼鏡の位置を正し、ついでに前髪を掻き上げた。
 そうして、お色気タップリに、ニッコリ。
 腰に手をあて、前屈みになり、胸を強調して、ハイポーズ。
「そうそう、やれば出来るじゃない。それでこそまりもよ」
 何がどうそれでこそなのかは知らないが、いったん諦め――もとい覚悟を決めてしまえば後は慣れたものだ。しかし誕生日プレゼントという流れでラーメンを奢られたはずなのに、そのお返しにとばかりに来る夏の例のイベントでコスプレさせられるというのは如何なものなのだろうか。
 現在、その衣装合わせと称して戻ってきた物理準備室で一人コスプレショーの真っ最中。そう言えば去年の秋頃はコスプレさせられているのを教え子に目撃されたわねぇとまりもは感慨深げに……滂沱した。
「うんうん。もっと胸強調しても良いわよ〜? ……フフ。三十路手前の女教師が、よりにもよってピンクのプラグスーツなんて着て……」
「ちょっ!? 自分で着せておいて笑わないでよ!?」










 嫌がる相手に無理矢理着せておきながら、しかもようやく年齢のあれこれに自分なりに答えを出しかけていた矢先にとんでもないことを言う女だとまりもは今さらながらに己が親友の人格破綻ぶりを嘆いた。
「だって……うん。でもまぁ、似合ってるわよ? これぞまさにマリモ・イラストリアス……プッ。ク、……クク、……ちょ、ちょっと『ニャッ♪』とか言ってみてくれない?」
「だから笑わないでぇえええっこれ以上辱めないでぇえええっ」
 嘆願しつつもポージングは崩さない。夕呼によってコスプレ戦士としていつの間にか鍛え抜かれてしまったまりもの悲しいサガだった。
「そんなに嫌がらずともいいじゃない。まだまだこんな格好だって出来る年齢ってことよぉ? 可能性は無限大、ってね」
「……うぅ」
 馬鹿にされているのか見透かされているのか、判断に苦しむところだ。ともあれまりもはさらに胸を強調したり、お尻を突き出してみたり、夕呼の指示するがままに様々なポーズをとり続けた。
 何とはなしに、夕呼の言葉を反芻する。
 まだ何だって出来る年齢……――そう、なのかも知れないし、そうじゃないのかも知れない。人間の時間はどうしたって有限で、可能性は悲しいけれど無限大ではない。夕呼だってそんな事は百も承知のはずなのに、それでも明け透けにああ言い放つのだ。
 それは彼女の強さで、そう考えられないのは自分の弱さなのだろうか。
 まだ誕生日を素直に喜んでいた頃に夢見ていた二十代の自分は、もっと色々なことを為し得ていたはずなのだ。なのに現実はそんな事もなく、ただ流されるままになんて無責任なことを言うつもりはないけれど、しっかりと何かを為し得たという自信も持てないまま、また歳を刻んでしまった。
 どうしたものか。
 どうすればいいのか。
 恐怖も焦燥も全てはその懊悩の内。二十代の時間はもはや残り少ない。果たして自分は、かつて夢見た事の何か一つでも、成せるのか。
「難しく考えすぎなのよ、あんたは」
 椅子の背もたれに思いっきり背を預けながら、夕呼はしょうがないわねぇとでも言いたげに苦笑していた。やっぱり見透かされていたのだろうかと、赤面しつつまりもは無言でポーズをとり続けた。
「あんたの過ごしてきた時間も、これから過ごす時間も、無駄でも無意味でも無いのに、思春期みたいに悩んじゃって。……ほら、そのこと証明する恰好の材料が到着したみたいよ?」
「え?」
 その事を証明する、とはいったいどういう意味なのか。まりもが夕呼に真意を問うよりも先に、
「まりもちゃーん、誕生日おめでとう!」
 ガラリと準備室の扉が開き、
「神宮司教諭、誕生日おめでとう御座います」
「神宮司先生、おめでとうございまーす!」
「まりもせんせー、おめでとーございまーす!」
 ドタドタと、今年の春に卒業した懐かしい面子が花束やらプレゼントらしい箱やらクラッカーやらを手にして、ドッと押し寄せてきた。
「み、みんなっ!?」
 まりものまだ長くはない教師生活の中でもとりわけ問題児、けれどもっとも思い出深い面々が、殆ど全員揃っている。
 いったいどうして、と。まりもは夕呼へと視線を巡らせた。全て彼女が裏で糸引いていた、とは思わないが、かなり深く関係しているに違いない。その証拠に先程から懸命に笑いを堪えている。
 ――これが証明で、いいじゃないの――と。まるでそう言っているかのようだった。
 これで、いいのだろうか。
 今までの時間、これからの時間。こういう事なのだろうか。
 ともあれ、まりもは感極まって溢れ出す寸前の涙をたっぷり目尻に溜めながら、可愛い元教え子達に久方ぶりの挨拶と、感謝を告げようとして……
「……?」
 みんなが、困ったように視線を泳がしていることに気がついた。つい今の今まで、祝福の温かな風に充ち満ちていたはずの部屋の空気が、吹き荒ぶ木枯らしへと変じてしまっている。
「ど、どうしたの、みんな?」
 誰一人としてまりもを直視しようとしない。どころか何やら言い淀み、口元をヒクつかせてさえいる。
 いったい、何故――
「……ッ!!!?」
 ――そこまで考えて、ようやく、まりもは気がついた。
 今の自分の、格好。
 ギギギッと、首が下を向き、確認する。
 ポーズも、アレのまま。
「……いや、その……まりもちゃん」
 元教え子は、深く深くとても深く思いやるような眼をして、言った。
「……歳、考えようぜ?」
 その瞬間、とても大切な何かがひび割れて崩れ落ちていくのを、まりもは確かに感じ取り、崩落していくその世界の中心で、ただ、ひたすらに心の奥底から、1、2、3、ハイッ――

「いぃいいいいいいいいいいやぁあぁあああああああああ〜〜〜〜ッッッ」

 ――絞り出されたのは哀れな哀れな女の悲泣。
 大切なことを得たのか失ったのか。
 答えを掴んだのか逃したのか。
 ともあれ確かなのは、今日また一つ、歳を重ねたという事実のみ。
 駆け寄った元教え子達の同情の視線と、腹を抱えて爆笑している親友の涙目に見守られながら、神宮司まりもは二十数回目の誕生日をこうして無事に迎えたのでありました。
 ちゃんちゃん。





〜おちまい〜





Back to Top