「で、話を元に戻すとだな。面倒だったんで、こんどは何を企んでるんだってストレートに聞いたんだよ、そしたら――」 『伝説を作るわよ』 お腹空いたからラーメンでも、ってなノリで夕呼先生は言い放った。 伝説、英語で言うとレジェンド。語り継がれる偉業。作れと言われて作れる物ならば、オルテガさん家のお子さんはわざわざアレフガルドくんだりまで行きはしない。 お互い疲れた顔で視線を絡ませる、まりもちゃんと俺。お互い、売られていく子牛のような目だ。ああ、ドナドナが聞こえる。 目と目で通じ合う俺たちを尻目に、ビーカーに注がれたコーヒーで唇を湿らせてから、話を続ける化学教師。 『この先ずっと、白稜柊の歴史に刻まれるであろう、でっかい花火を打ち上げるわよ。アンタたちの学園生活総決算としてね』 勿論、本当に花火の打ち上げをするんでなく、つまるところ、要するにまぁ、覚悟して置けよ、って言われたんだよな。 「あはは、歴史を作るのなんて簡単、簡単。朝早いうちにグラウンドに土器を埋めて、お昼にそれを掘り返すだけでOKだよ」 飛鳥先生こと、マス・オオヤマも吃驚なゴッドハンド振りだな。 ちょっと懐かしいよ。全然OKじゃねぇよ。教科書を書き換える気かよ。 「じゃぁ、外タレ呼んで野外フェスを開催するんだ。で、メインステージの真ん前で客にテントを建てさせればOKだよ」 「ウドー!」 ラストは数メートル先も見えない濃霧の中で、打ち上げ花火で締め。ぼんやりとした明かりと音だけ寒々しく響くなか、死んだ魚の様な目で片づけを始めるスタッフ。バス停の変更を知らずに帰れなくなって切れる客。後日、公式サイトのレポート写真には客席の様子は一切写っていないと。 台風直撃の嵐の中で開催した、フジロックの第一回とはエライ違いだよな。あんな不名誉な伝説はお断りだ。 「だったら、駐車場に止めてあるストラトスのマフラーに、こっそりジャガイモを詰め込む」 「ある意味、伝説にはなるだろうな。現代のドンキホーテとして」 結局詳細は教えてくれなかったけど、まりもちゃんが言うには、料理対決で味を占めた夕呼先生は、どんな甘言を弄したのか知らないが、舌先三寸で丸め込んだ冥夜の財力をバックに、全校を巻き込んだバカ騒ぎを計画しているんだとか。 月詠さん、冥夜が悪い大人に騙されてますよ。なんで止めてくれなかったんですか。 結局、夕呼先生が何かを企んでいるという以外、詳細は一切教えてもらえなかった。ただ、愉しみにしておけと哂った不敵な顔が、どうしようもなく不安を煽る。 「どうよ、話聞いただけでも将来が不安になってきただろ?」 「いやぁ、わざわざタケルに忠告してきたってことは、今回も主に苦労するのはタケルだけなんじゃないかな?」 まるで他人事のように、ではなく、まさしく他人事であるとおっしゃる尊人くん。思い出してみれば、料理対決の時はコイツ完全に外野だったし、球技大会も何だかんだで楽しんでた様子。あれ? 巻き込まれて苦労してるのって、ひょっとして俺とまりもちゃんだけ? 「でっかい花火かぁ。いったい何をするつもりなんだろう。愉しみだね」 愉しくねぇよ。不安で胸がいっぱい、胃がキリキリするよ。 「非常識な事態を非常識なレベルで引き起こすのは確かなんだろうな」 「学校爆破しちゃったり?」 非常識にも程がある。
室内はどうやら茜と霞の貸切だった。正規の訓練メニューからは少々ずれており、もともと霞はそのためにこの時間帯を狙ったのだから道理である。にもかかわらず茜と出くわしたのは不運としかいいようがない。もしくは、僥倖だ。どちらだろうか。霞には判断できない。ただ、茜の人となりは決して不快ではなかった。彼女に嫌われれば恐らく霞は悲しいと感じる。 なら、好きだということなのかもしれない。 最後の力を振り絞り、霞はシャワーのノズルを開く。 控えめな水音と反響する鼻歌がタイルを叩いて、霞の疲労した思考に抵抗なく滑り込んでくる。髪留めを外しているせいもあって、茜の表層思念が霞のそれと共鳴して波紋を起こした。 かちん、と何かのはまる音がした。 リーディングは写真に似ている。一瞬で相対する心象をレセプタに写し取り、それを読解することで思考を言語化するのだ。茜の発散する焦りや寂寞、虚無感に義務感といった波は、霞が抱く多くの感情の模型ともいうべきかたちに符合した。 「……」 前髪を縫って顔を濡らす水滴。瞳に届かぬようまぶたをおろして、霞は運動の余韻にひたる。くたりと膝が折れてタイルにぺたんと腰を落とした。スイングドアが意味をなさなくなるが、もはや霞の意識はなかば夢の中だった。 夢うつつに茜の声を聴く。 「でも意外。バカにするわけじゃないけどさ、社ってすっごい細いじゃない。流すとは言ったけど、本当はこなすとは思わなかったな」 「……」 「見直したっていうとヘンだけど、根性あるんだなっていうか、わたしさ、あんまり社のことよく知らないでしょ? だから……ねえ、なに黙ってるのよぉ。これじゃひとりで喋ってるみたいじゃない。社? や〜し〜ろ〜?」 「…………」 二種類の雨音がひとつ途絶える。きゅっとタイルをこする響きに、恐る恐るドアを押し開ける軋みが重なった。ぺたりぺたりと近づく足音を、霞はどこか遠いものとして聞いていた。 「ちょっと社、まさかまた寝てるんじゃないよね? 調子でも悪いの?――って、うわあやっぱりッ! こわっ、髪タイルに散らばってすっごい怖ッ? 社ッ?」 「……あがー」 完全に脱力して、霞は体を叩くしぶきのリズムに心を預けていた。単調で圧倒的な拍子は余計な思考を拭い去ってくれる。慌てた茜が強引に霞の脇へ両手をさしはさみ、スペースから引きずり出そうと試みる。その勢いで滑って転んで盛大に音を立て、それでも見事に受身を取った茜と、終始眠たげな霞の眼が不意に合う。 「いった〜……あ、アハハ」 「……」 無防備な体勢で漠然と要所を隠して、茜は泣き笑いの表情を見せた。 鍛え上げられた肢体はまぶされた水に輝いているようだった。そしてその肌にはうっすらと残る傷跡。まだ癒えぬ戦いの記憶。そういったものを、霞は痛々しいとは思わなかった。もしかすれば、うらやましいとさえ思った。 霞は億劫な体躯を引きずるように立ち上がる。そして、やはり重たい手を伸ばす。 そのまま、茜の髪を撫でた。 「……社?」 ほんの数秒の感触だった。接触と呼ぶのもおこがましい、末端の交差でしかない。きょとんと頭上の小さな手を上目遣いに見えて、茜はされるがままにしていた。 「ごめんなさい」 「あっ、ちょっと」 口をついた謝罪を置き捨てて、霞はなるべく素早くきびすを返した。もちろん茜が追おうと思えばすぐに詰まる距離でしかない。霞の言葉は、だから拒絶というよりは惹句に近い。 しかし茜は霞を追わなかった。霞もそれは承知していた。霞がその夜日記に書くことは決まった。『わたしたちは、さびしい』。それは最初のフレーズだ。では次の句はどうだ? それも決まっている。『でも』と続く。 『わたしとあの人は、ちがう』 この日、霞は忘れものに気づいた。
奇妙なお見合い状態。声をかけたはいいものの、二の句をどう継げばいいのか考えていなかったらしい。武は困ったように、むぅと唸っている。晴子の隣に立つカレも沈黙を保っている。二人は面識がないようだった。武は柊学園ではなにかと有名になっているし、バスケ一筋でゴシップに疎いカレも知ってはいるハズだが、それが声をかけるきっかけになるわけでもない。 普段の晴子ならごく自然に、意識することもなく簡単に二人を紹介し合えるのに、そうすべきだと思いついてなお逡巡した。酷く錆びついた動きの口を、やっとで開く。 「えっと、こっちは男バスの人で」 「あ、ども」 ぺこりと浅い会釈をする武。逆もまたあっさりと挨拶が済む。武をクラスメイトと紹介する時の晴子のためらいだけが、あっさりとはいかなかった。 「……二人はデート中、か?」 「えっ、いや、その」 男の子と女の子が二人で出かけることをデートって言うならそうかもね。そういうお茶を濁すような、どこにもカドが立たない答えを返せばいい。いつもの晴子ならそうしたはずだ。隣に立つのが武で、問うてきたのが横のカレならば言えたはずだった。なのにほんの少し立ち位置が入れ代わっただけで言葉は出ず、晴子を置いて話が進んでいく。 一応そうっすと、カレの体育会系らしいぶっきらぼうな肯定に何を思ったのか。武はことさら明るく、 「そ……そっかあ、バレンタインより一足先に新カップルの誕生ってか? ちくしょうこのフライングゲッターめ、上手くやりやがって!」 などと囃し立て、照れるカレを小突く。別に彼女ってワケじゃあバーカ今さら信じるかよ。そんなやりとりに置いてけぼりの晴子は、呆然として見つめる。 「しかし男バスねぇ……部活も同じ、スポーツマン同士でお似合いのカップルってやつだよな!」 その言葉に胸をえぐられ、呼吸が止まる。 「――え。お、おい、柏木?」 慌てた様子の武の呼び掛けに首を傾げると、ツイ――と涙が頬を流れる感触で晴子は自分が泣いていることに気付く。涙はあとからあとから溢れてくる。指で拭っても、ギュッと目を瞑っても止まらなかった。 どうしてこんなに泣けてくるのか分からない。ただ、武が二人の仲を祝福するのは……晴子のことをなんとも思ってないと突きつけられるのは嫌だった。分かっていたはずなのに。武との間の距離。その遠さが悲しいと晴子は思った。 一ヶ月前より、ずっとずっと強く。
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