無限に広がる大宇宙……
生まれゆく星もあれば、死にゆく星もある。
その片隅に浮かぶ青い星。
太陽系第三惑星……地球。
宇宙と比べるにはあまりにもちっぽけな一つの閉塞した世界で、それでも人々は日々を生きていく。
生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥し。
変化のない日常をこそ幸せと知る者は少なく、しかして大半の人々はそこに疑問を抱くこともなく埋没していく嗚呼無常なるかな人生。
だが、何かの拍子に脳裏を掠めることもある。
果たしてこれでいいのだろうか?
その日、いつものように夕飯の準備をしながら、少女は気付いた。気付いてしまった。
自分もいつの間にか今の生活に埋没してしまっていることに。
その事を悪いとは言わない。むしろ自らの生い立ちからすれば現在の埋没は甘美なる幸福であるとも言える。
だが、だがしかし彼女は埋没を看過して過ごすにはあまりにも高潔すぎたのだ。
何故ならば……
――そう……何故ならば、彼女は地球人ではなく……
彼女は、宇宙人だったのです――
るーてぃんわーく
〜ルーシー・マリア・ミソラの“うー”研究論〜
「……というわけで、現状を打破するためのアイデアを戴きに来たぞ」
「……のっけからご挨拶ねぇ」
珍しい客人へと茶と茶請けを差し出しつつ、向坂環はそう言って苦笑した。茶は玉露、茶請けは彼女自身が漬けたカブの千枚漬けだ。この客人は非常に味にうるさいため、出す側としても気を遣うが、そこはそれ。むしろ俄然やる気を出すのが環という女性の性分である。
唐突に用件を切り出した客人は、お茶を一口、千枚漬けを一枚摘むと、目を見開いてバンザイするかのように両手を高く上げ、
「るー」
と一言、どうやら歓喜のものらしい声をあげた。
環の顔にも『してやったり』と言った笑みが浮かぶ。
「ただしょっぱいだけじゃなくカブの甘味がよく出ている。それでいて玉露の強い旨味とも殺し合わない。うーたまは相変わらずそつがないな。るーでもこんなに美味い千枚漬けは滅多にないぞ」
「るーこちゃんにそう言って貰えるとは光栄ね。……でも、カブの千枚漬けって宇宙にもあるものなの?」
「当然だ。るーでも宇宙カブの宇宙千枚漬けは宇宙お茶請けから宇宙飯の友にと宇宙大人気だぞ」
なんでも宇宙を上につければいいというものでもないと思うのだが、それは言わないでおこう。どうにも庶民的な宇宙の神秘に苦笑しつつ、環は客人――るーここと、ルーシー・マリア・ミソラ――に先程の用件の続きを促すことにした。
「で、いきなり現状の打破と言われても……何か困ったことでもあったの?」
その言葉に、るーは眉を寄せ、僅かに身を乗り出すと、よくぞ聞いてくれたとばかりに本人曰く“宇宙開闢以来の極めて困難な問題”を口にした。
「……うん。何も無くて困っている」
「そう……それは大変ね。お帰りはあちらよ?」
「るぅ〜!?」
朗らかに笑いながら、環はるーの両肩を掴むと力尽くで彼女の身体を立ち上がらせ、そのままクルリと反転、玄関へと道を指し示した。よく見るとこめかみの辺りがピクピクと震えている。相手が弟の雄二であったならば得意のアイアンクローで頭蓋を握り潰していたことであろう。
「待て、うーたま。まだ相談は終わっては……」
「あっはは。いい、るーこちゃん? 宇宙ではどうか知らないけど地球では言っていい冗談と悪い冗談があるのよ?」
「冗談など言っていない。るーの誇りにかけて、真面目な相談だ」
確かに、真剣な物言いである。どうやらからかわれているわけでもないらしい。
相手が真剣である以上、自分からしてみてどんなにふざけた問題でも相談を承ったからにはこちらも真剣に応える必要がある。普段は飄々としてこれでもかと言うくらい我が道を貫いて生きている環だが、その辺の感覚は、何というか、必要以上に義理堅い。育ちや家柄のせいもあるだろうが、古風である。
「……はぁ。わかったわよ。聞いてあげるから、座りなさい」
「礼を言うぞ、うーたま。伊達にお姉ちゃんキャラじゃない」
「……こういう時は、つくづく損なキャラづけだと思うわ」
再び座り直し、向き合って互いにお茶を啜る。
「で、何も無くて困っている、と」
「そうだ。まったくもって、何も無い。天下泰平事も無し。所謂“るーてぃんな日々”というやつだ」
いつもどちらかと言えば無表情で思考の読めないるーだったが、今日は珍しく一目でそれとわかる。色々と思うところもあるが、こんな顔をされたのでは相談に乗る以外ないではないか。
「それは――要するにタカ坊との間に何も無い、と言う意味で捉えていいのね?」
重々しく頷く。
なんだかもう、それだけで全て察しはついた。環とて伊達や酔狂で河野貴明の姉貴分を気取っているわけではない。加えてるーのこの表情を見れば、いやはや、大仰に溜息を吐く以外どうしたものやら。
「でも、タカ坊が超がつくほどのオクテなのはるーこちゃんも知ってるでしょ? なら別に焦る必要も――」
「それはわかる。だが、アレは異常だ」
環の言葉はるーの深刻な一言によって遮られた。どうやら予想よりも遥かに深刻な事態らしい。
「……本当になんにもないの? 単に……その、回数が少ないとか、淡泊だとか、そういうわけじゃ……」
言いながら、顔が火照ってくるのがわかる。
常にイニシアティブをとった冗談めかしての会話ならば兎も角、真面目くさった顔でこの手の話は経験のない環には些か酷なものだった。生来の負けん気の強さからなんとか平静を保とうと必死に虚勢を張ってはいるが、果たしていつまでもつことやら。そうだ、いくら何も無いとか言ったところでるーと貴明はかれこれ二ヶ月程も同棲しているのだ。とすれば少なからず何かしらはあったはずで、なのにどうしてお姉ちゃんキャラだからというだけの理由で自分はこんな相談を受けているのだろう。
「回数が少ないどころじゃないぞ。それどころか、今までに一回っきりだ」
「いっ……! ……ま、まぁ、確かに少ないわね」
さらに頬が赤く染まる。
一回、という回数の提示がやたらと生々しい。大人っぽい容姿の自分とは違い、るーのそれはまだ少女のものだ。幼馴染みで妹分でもある柚原このみ程に幼くはないとは言え、成熟しているとは言い難い。
そんな彼女と、ずっと弟も同然に可愛がってきた、さらには男性として少なからず意識もしている貴明が、その、既に一回そういうことをいたしてしまっているのだと……
「うーたま、顔が赤いぞ。熱でもあるのか?」
「にゃーーーー!? な、なんでもない! なんでもないから心配しないで!」
突然、下から覗き込むように現れたるーにあたふたと言い訳しつつ、環は慌てて後退った。いくら考え事をしていたとは言えまったく移動の気配を感じさせないとは、油断がならない。
「そうか。うーは皆身体が弱いからな。特に今は季節の変わり目だ。充分に気をつけた方がいいぞ」
元の位置に戻り心配そうに言って茶を啜る姿は何処をどう見ても宇宙人には見えなかった。るーが宇宙人であることを環も信じる事にしてはいるが、これでは疑うなと言う方が無理だ。それとも大熊座にあるという彼女の母星は日本と同じ文化形態でもしているのだろうか。
「それにしても、二ヶ月近くも一緒に暮らしていて一回……確かに、少ないわね」
「だろう? この間も、デートに行った時にるーからねだってみたんだが、うーの根性無しのおっぺけぺーめ。結局してくれなかった」
なんだか相談と言うより愚痴っぽくなってきた。
それにしても、るーがどんな台詞と表情でねだったのかは興味深いが、自分の彼女からデート中に誘われてもノーリアクションというのは確かに異常すぎる。
「あー……ほ、ほら。ホテルとかだと逆に落ち着かない人もいるらしいから、そのせいじゃないかしらね?」
一応、フォローを入れてみた。
だが、るーは不思議そうに首を傾げると、
「るーはホテルになんて行ってないぞ」
などと言うではないか。
「へ? じゃあ、何処で……」
「公園だ」
「にゃふーーーーーーっ!」
盛大にお茶が噴き出された。
「うーたま、汚いぞ」
「ゲ、ゲホッガホッ! き、汚いぞって……こ、公園でだなんて……!」
もう駄目だ。鏡なんて見なくてもわかる、茹で蛸だ。環は両手をジタバタと振り回しながらしきりに何か言おうとしては舌を噛みそうになって言い淀むのを繰り返す。いくら宇宙人だからって公園でねだるなんて公序良俗に反する。不潔だ。卑猥だ。エロスだ。タイーホだ。
「る〜?」
一方、るーは心底不思議そうだった。
いつも泰然としている環が一体どうしてここまで焦りまくっているのか理解出来ない。さて、何かおかしな事でも言っただろうか?
「別に公園でするくらい、るーでも普通だぞ」
「宇宙じゃ普通かも知れないけど地球じゃ駄目なのよ!」
「るー!?」
予想外の剣幕で怒られ、今度はるーが驚く番だった。環はまだアオがどうとかカンがどうとかブツブツ呟いている。
「そうか、うーは思ったよりも厳しいのだな。まさか公園でちゅーをねだっただけで怒られるとは思わなかった。許せ、うーたま」
「待ちなさい」
「る、るー?」
がっちりと力強く両肩を掴まれ、今までにない迫力の環にるーは思わず息を呑んだ。るーは戦士たる種族だが、これ程の殺気は広大な宇宙にあってもそうそうお目にかかれるものではない。
「……一回っきりって、もしかして……キス?」
肯定の意で頷く。
「そうだ。ちゅーだ。……なんだと思っていたんだ?」
途端、穴の空いた浮き輪のように殺気が萎んでいく。
ヘナヘナと床に崩れ落ちていく環を、るーはわけもわからず見やっていた。
「うーたま、やはり具合が悪いのか?」
環は、今日自分が何度溜息を吐いたのか数えるのはもうやめようと思った。
「しかしまさかキスを一回だけって……甲斐性なしにも程があるわね」
気を取り直し、お茶のお代わりを湯飲みに注ぎながら、環はブツブツと呟きつつその点を反芻した。
ホッとしたと同時に、どうしてだろう。何やら言い様のない感情というか、納得がいかない。るーへの同情めいた感情の他に、貴明に対して沸々と沸き上がる何かがある。同棲している恋人相手にもコレなのだ。自分が過去に何度か企てた誘惑など、いやはや、実に馬鹿馬鹿しい。
そこが彼の彼たる由縁であると頭ではわかっているのだが……後で何かしら悪戯でもして憂さを晴らそう。
「うーたま、さっきからブツブツとおかしいぞ」
「え? あ、なんでもないのよ。……さて、それにしても困ったわね。ねだってもキスすらしてくれないだなんて、どうしたものかしら……」
るーは俯き、物憂げに湯飲みの中を覗き見た。
「まったくだ。全宇宙規模生物学的見知からしてみても納得がいかない。愛し合う二人の間に何も起こらないなど、どの銀河連合、連盟のデータベースに問い合わせてみても導き出される理由は同じだ。即ち、機能ふ――」
「ストップ! ……いくらなんでもそれはタカ坊の名誉に関わるから、間違っても本人を前にして言っちゃ駄目よ?」
大慌てでそれ以上の発言を阻止する。でないと憂さ晴らしどころの話ではない。
「では、イン――」
「だから駄目だってば!」
「イーデ――」
「駄目ーーー!」
「るぅ〜……」
さらに困った顔。そんな顔をされても環だって困るし、かといって止めなかったなら貴明がある意味死んでしまいかねない。と言うか死ぬ。いつもの調子でるーにズバッとそれを言われたら間違いなくショックで死んでしまう。
「……あ、でも」
「るー?」
「タカ坊、あれでちゃんとエッチな本とかは隠し持ってるから、その、駄目って事はないはずよ、ええ」
「カモフラージュかも知れない」
即答。
にべもない。
どうやら此処に来るまでにも随分と悩み抜いたらしく、最早るーの頭の中では信じたくなくともそれが解答として結論づけられてしまっているようだった。
「大体、あんなわかりやすいところに隠しておくのはおかしい。それでなくとも以前からうーこのなどがよく出入りしていたはずなのに、本気で隠そうという意志が読みとれない。もしもるーがうーの立場だったなら、うーこのに見つかることだけはなんとしても避けようとするはずだ。だからあれはカモフラージュだ。……るぅ〜……」
自分で言って落ち込んでいては世話がないと思うのだが、るーの言うことにも確かに一理ある。と言うかもっともだ。
このみのような女の子に隠しておいたエロ本を見つけられるというのは、おそらく男であれば誰もが避けたい事態のはずだ。色んな意味で冗談では済まされない可能性が高いからである。宇宙人ということを差し引いても一般常識から大きく外れているるーでさえそう思うのだから、これは間違いないはずだ。
だと言うのに……ベッドの下やら机の引き出しの奥やら、およそ隠す意志など見受けられない場所ばかり……
「いや、だけど、まさか、タカ坊が……ねぇ?」
しかしそう考えると全てに納得がいってしまうのだ。
かねてよりのこのみのアタックにも一向に反応せず、環の誘惑にも頑として動じず、同棲中の恋人であるるーにもなんら手を出さない……それは何故か? 即ち、彼のナニがそうしてどうして正常に機能していないからではないのかと――
「……タカ坊……う、うぅ……なんて事なの……あの若さで、そんな……私、お姉ちゃんなのに、ナニもしてあげられないなんて……」
環はその両眼に涙をたたえ、弟分の悲劇を嘆いた。
よくよく思い返してみれば、自分が誘惑するたびに彼が見せていた表情。あれは深い悲しみからくるものではなかったか。ああ、もしそうなら、自分はなんて残酷な女だったのだろう。
だが、そんな悲嘆に暮れる環の肩を優しく叩く者がいた。
「気をしっかり持て、うーたま。この星は兎も角、宇宙の医学は偉大だ。きっとナニかしら治療法がある」
「……るーこちゃん」
そうして、差し出された手を、しっかと握り返す。
「そう……よね。ナニはなくとも、何とかなるわよね」
「そうだ。ナニもかもが手遅れだったとしても、るー達が希望を捨てなければ、きっと明日はある。信じることこそがるーだ」
頷き合い、二人は足早に玄関へと向かった。
目指す場所は、ただただ彼のもと。
きっと何とかなる。信じる心は、絶対に力になるから……
「だからさっきから言っている。病気じゃないのだから恥ずかしがるな、うー」
「そうよ、タカ坊! 黙ってお姉ちゃん達に全て任せなさい!」
「な、まっ! ちょっ!? お、俺は正常だぁあーーーーーー!!」
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