フェイトさん恋愛事情




◆    ◆    ◆





「……朝、か」
 寝起きの頭を小さく振り、欠伸を噛み殺しつつフェイト・T・ハラオウンはボソリと呟いていた。
 あまり快適な目覚めとは言えない。どちらかと言えば寝起きは良い方のはずなのだが、ここ数日は少しばかり事情が異なっていた。
「ん……っ」
 軽く伸びをする。
 そして、深呼吸。
 吐息が室内の空気と溶け合い、カーテンの隙間から差し込む朝陽が机の上に置かれた写真立てを照らしていた。そこに写っているのは、機動六課ライトニング分隊の面々。つまり隊長であるフェイトと、副隊長のシグナム。そしてフェイトの“家族”でもあるキャロ・ル・ルシエと、エリオ・モンディアルの、四人だった。
 まるで本当に血の繋がった家族であるかのように笑顔で三人並んでいるフェイト、キャロ、エリオ。一人横を向いているシグナムは傍目には無愛想に見えるが、実際には照れているだけなのだと長い付き合いであるフェイトはよく知っている。
 この写真に写っているのは、自分にとって掛け替えのない絆そのものだ。
 なのに――
「……はぁ」
 形良い唇から漏れ出たのは、何故か溜息だった。
 理由はフェイト自身、よくわからない。ただ先日六課が担当したある事件以来、どうにも胸の中に、こう、靄のようなものがかかっているのだ。
 その靄が、フェイトから快適な目覚めを奪っていた。
「シャワー、浴びよう」
 まだ少しぼーっとする頭を持ち上げ、フェイトはベッドから降りた。危うくバランスを崩しそうになったが、そこはたとえ寝起きでも近接戦のエキスパートである。絶妙なバランス感覚で体勢を立て直すと、覚束ない足取りながらも脱衣所まで無事に辿り着いていた。
 気怠さに辟易としながらパジャマのボタンを外していく。はやてからも有給の消化率が悪いとしょっちゅう注意されているし、いっそ休んで気分転換にくり出そうかとも思ったが、その提案さえ今のフェイトにはあまり魅力的には感じられなかった。
 下着を脱いで、浴室の扉を開ける。浴室内の湿った空気に気分がさらに落ち込んだ気がした。
 シャワーの蛇口を捻り、熱めのお湯に素肌を打たれてフェイトは悩ましげに息を吐いた。お湯を吸った長い金色の髪が、まるで今の心の内そのもののようにズシリと重たくなる。
「……どうしたんだろう、私」
 左腕が、少し痛んだ。先日の事件で敵の不意打ちを喰らった箇所だ。シャマルの回復魔法で傷そのものは既に塞がっているが、まだ少し痛みが残っている。
 対魔導師戦に於いて無類の強さを発揮するAMF――アンチ・マギリンク・フィールド――を搭載した自律機械兵器、ガジェットドローンは日に日にその性能を上げてきており、ほんの僅かな油断や不注意が命取りとなりかねず、それはフェイト程の使い手であっても例外ではなかった。今回のコレも、まだまだ経験の浅いエリオとキャロの二人に注意を向けた一瞬の隙を突かれた結果だ。
 本当に、危ないところだった。
 多数のガジェットドローンが発生させたAMFによって障壁を無効化され、立て続けに放たれた射撃を一射二射とかわしたものの三射目で左腕を負傷――もし助けが入らなければ、あそこで死んでいたかも知れない。
 そう……助けられて、しまったのだ。
 ――『フェイトさん、危ないッ!』――
「――っ」
 あの時の事を思い出し、フェイトは左腕の傷痕にそっと触れていた。
 フェイトを庇うように飛び出した小さな身体は、ガジェットドローンのエネルギー弾を斬り裂き、その勢いのままに数体の敵を屠ると、日頃温厚な彼からは想像もつかない凄味の効いた声で『よくもフェイトさんを!』と叫んでいた。そうしてチラと振り向いた顔は、フェイトが知っていたはずの彼とは全然違っていて――……いったいいつの間に、あんなに頼もしい顔が出来るようになっていたのだろう。
「……エリオ」
 本来なら自分が守らなければならないはずの少年の名を呟き、フェイトは瞑目した。
 自分を守ろうと必死に槍を振るう少年の姿が瞼の裏に浮かぶたびに、左腕ではないどこかが痛む。
「……エリオ」
 再びの呟きが、シャワーの水音に掻き消されていく。
 正体不明の痛みに顔を顰めながら、フェイトは感覚が無くなるくらい左腕を握り続けていた。





◆    ◆    ◆





 その日の訓練は散々だった。
「フェイトさん、もしかして具合が悪いんじゃないですか?」
 心配そうなキャロにそう尋ねられ、フェイトはかろうじて笑みを形作ると首を横に振った。
「ううん、何でもないの。ただ、ちょっとあなた達が予想以上に成長してたから、驚いちゃって」
 嘘ではない。本業が忙しくて訓練にはたまにしかつきあってやれないフェイトだったが、その度に新人達は驚嘆すべき成長を遂げている。特に年若いと言うよりもまだ幼い二人、キャロとエリオの急成長には目を見張るものがあった。
 キャロの魔法で能力を向上させたエリオの攻撃は、素早さにせよ攻撃力にせよリミッターをかけた状態のフェイトにとっては充分脅威に値する。容易くやり過ごしているように見えるのは偏に経験の為せる業であり、単純な数値上の能力のみで比較すれば、ブーストされたエリオとリミッター状態のフェイトの間にそう差はないのだ。
 加えて今日のフェイトは原因不明の絶不調ときている。
 注意力は散漫、動きも精彩を欠き、エリオが牽制気味に放った斬撃の間合いを読み誤ってバリアジャケットの裾を僅かに斬り裂かれてしまう始末。
 別件で出張中のシグナムが見たなら、好敵手の体たらくに間違いなく激していたろう。
 晴れ渡る空の青さがやけに眩しい。
「あの、フェイトさん……本当に大丈夫ですか?」
 ズキリ、と――胸が痛んだ。
 優しいはずの言葉が、心に波をたてる。
 キャロと同様、エリオが心配そうにフェイトの顔を覗き込んでいた。
 まだ幼い、あどけなさの残る少年の顔。自分を姉とも母とも慕い、本物の家族に向けるのと遜色のない情を向けてくる少年の瞳に、フェイトは一瞬釘付けになっていた。
 ――『フェイトさん、大丈夫ですか!?』
 先日の戦闘後の光景が甦る。そしてそこから想起されるのは、自分を守るために飛び出した小さな身体。普段の彼、自分がよく知っている少年とは別人のように頼もしい、男の貌――
 そこまで考えて、フェイトは高まっている頬の温度に気がついた。
「もしかして、この前の怪我が……」
「だ、大丈夫」
 声が上擦る。
 どうしたというのだろう。エリオのことを、真っ直ぐに見ていられない。
 それでも不自然にならない程度に気をつけて顔を逸らしながら、フェイトは左腕に気をやった。特に痛みはない。不調の原因は、先日の負傷ではない。
「エリオの動きが凄く良くなっていたから、本当に、ただ驚いただけだよ」
「い、いえ! そんな」
 褒められて畏まるエリオが微笑ましい。これが、フェイトがよく知っているエリオ・モンディアルだ。真面目で礼儀正しく、努力家で正義感にも溢れ、人一倍勇気はあるけれどその分危なっかしくもあって――だから、目を離せない……十歳の男の子。その事を確認するように軽く頷くと、フェイトは訓練を再開しようと急ぎ気味に前に出た。が、まだ少し身体が硬かったのだろう。
「あっ」
 足がもつれ、視界が傾いていく。
 鍛え抜かれた反射は咄嗟の事にもバランスを取り戻そうとしたが、勢いがついていたためか立て直せない。転倒を覚悟し、受け身を取ろうとしたフェイトを、
「フェイトさん!」
「……エリ、オ?」
 エリオが、支えていた。
 フェイトの胸くらいまでしかない、男の子にしては線の細いエリオが、体格に見合わぬ力強さでしっかりと転びかけた自分を支えてくれている。その事がさらにフェイトを動揺させた。
「やっぱり調子悪いんですね!? キャロ、シャマル先生を」
「は、はい! すぐ呼んで――」
「大丈夫だから!」
 エリオの腕で抱きとめられながら、フェイトは思わず大声をあげていた。驚いたキャロが振り返ろうとしたまま硬直してしまっている。悪いことをしてしまったなと、後悔の念が湧いた。それ以上にどうしてあんな大声が出てしまったのか自分でもわからない。
「あ……ご、ごめんねキャロ。驚かせちゃって」
「い、いいえ、大丈夫です。ちょっと、ビックリしちゃって……す、すみません」
「エリオも、ごめんね。ちょっと足がもつれちゃって」
「いえ、そんな。それより、本当に……」
「うん。大丈夫だよ」
 二人を安心させるようニコリと微笑んで、フェイトは素早くエリオから離れた。エリオの温度が遠ざかり、僅かな喪失感が胸を過ぎる。
(……なにを、バカなことを)
 そんな感覚は気のせいだと自分に言い聞かせ、フェイトは身体の調子を確かめるように腕を伸ばし、爪先で地面を数度叩いた。何も問題はない。右手に持った愛用のインテリジェントデバイス、バルディッシュ・アサルトも正常に作動中だ。頬に手をあててみても、別段熱など無い。
「……うん、大丈夫」
 繰り返し呟いて、フェイトはバルディッシュを半身に構えた。
「訓練、再開しよう。もう一度、さっきのがまぐれじゃないって証明……出来るかな?」
「頑張ります!」
「が、がんばります!」
 エリオとキャロの息はピッタリだ。機動六課結成時、それまで面識の無かった二人を引き合わせるに際してほんの少しだけ不安もあったが、どうやら完全に思い過ごしであったようだ。初出動以来、訓練でも実戦でも二人は抜群のコンビネーションを発揮しつつある。コンビを組んで三年になるスバルとティアに迫る勢いだ。それはフェイトとしては喜ぶべき事であって、決して憂うような事ではなかったはずだ。
 ――なのに。
「行くよッ」
「はい!」
「はい!」
 ――どうしてなのだろう。
「はっ!」
「く、うぅ!?」
「エリオくん!」
 バルディッシュの一撃を受けたエリオが後退し、その彼にキャロは衝撃緩和の魔法をかける。そしてアイコンタクト。小さく頷いたエリオは地面を思い切り蹴りつけると、アームドデバイス、ストラーダを真っ直ぐに突き出しフェイトへ特攻を仕掛けた。
 速く鋭い、良い攻撃だった。エリオ一人でも充分に強力な一撃が、桃色の魔力に包まれてさらに威力を増す。ブーストアップ・ストライクパワー。対象の攻撃力を上げるキャロの補助魔法だ。が、
「同じ手ばかりじゃ、実戦では通じない!」
「わっ!」
 命中寸前まで引きつけてからフェイトはスッと身体を反らした。なまじ渾身で放ったためか、エリオはその僅かな動きに対応できない。ここでバルディッシュを横薙ぎに振るえばチェックメイト。
 しかし、
「……え?」
 すれ違いざまに見えたエリオの顔には、笑みが浮かんでいた。
「我が乞うは疾風の翼! 若き槍騎士に駆け抜ける力を!」
「ッ!?」
 ブーストアップ・アクセラレーション。キャロの魔法によってエリオの速度がさらに上がる。結果、バルディッシュは空振りし大きく隙が生まれた。
「止まって!」
 そこですぐさまレジスト。補助魔法を解かれたエリオはストラーダの柄を地面に突き立てて急ブレーキをかけると、それを軸にしてフェイトに向け蹴りを放つ。
(まさか、さっきのアイコンタクトでここまで……?)
 二人の成長に驚きつつも、フェイトは空振りしたバルディッシュを胸元まで引き戻し何とかエリオの蹴りを受けた。今の戦法、まだまだタイミングに甘さはあるが息は合っていた。二人がもう少し戦い慣れしていたら果たして受けきれたか自信はない。
 けれど、今度こそここまで。
「ああっ」
 ストラーダを軸に全身を使った蹴りを受けられ、今度はエリオが隙だらけになる番だった。
「エリオくんっ!」
 キャロの悲痛な声が響く中、エリオの蹴りを流したバルディッシュはそのまま跳ね上がるように彼の腹部を捉えていた。



「いてて……」
「大丈夫、エリオくん?」
 キャロに抱き起こされながら、エリオは「やっぱりフェイトさんは強いや」と自分を倒した相手に尊敬の眼差しを向けていた。それでいてどことなく悔しそうにも見えるのはやはり男の子が故だろう。
「でも、さっきのは良い攻撃だったよ。二人とも、どんどん息が合うようになってきてる」
 呼吸も、個人の能力も、本当に驚くべき速度で向上している。リミッター状態で相手をし続けていられるのもいつまでだろう。
「後は訓練を続けて、呼吸と同じように動きもきちんと合わせられるようにすれば、二人のコンビはもっと強くなれるよ」
 コンビの部分を強調され、エリオは照れたように頬を掻き、キャロも恥ずかしそうに俯いてしまった。十歳の男の子と女の子としては、それぞれ思うところがあるのだろう。
 ――今までなら、そんな二人の姿を見ても微笑ましく感じるだけだった。
「……あっ」
 不意に胸に走った痛みに、フェイトは思わず顔を顰めていた。まだ恥ずかしがっている二人に気付かれなかったのは、果たして幸いだったのか。
 ――わからない。
 痛んでなどいない左腕を握りしめ、フェイトは正体不明のなにかを堪えるように唇を噛んだ。
 自分は、一体どうしてしまったのだろう。
 さっきまで晴れ渡っていたはずの空は、いつの間にか雲に覆われていた。
 一雨、来るのかも知れない。
 息苦しさはきっとこの天気のせいなんだと、フェイトは自分に言い聞かせるように何度も心中で繰り返していた。





◆    ◆    ◆





 それから数日は、何事もなく過ぎていった。
 フェイトは機動六課に所属しながらもかつて執務官としてならした腕を生かし捜査任務に従事している事が多く、そのため長期に渡って隊舎に不在というのも珍しくない。今回も捜査のために別次元へ飛び、また数日間隊舎を留守にしていた。
 仕事に専念することで頭を冷やそうと、どこかそんな心算があったのは間違いない。実際、捜査に没頭している間はあの正体不明の痛みに悩まされるような事もなかった。
(うん、大丈夫……もう、平気。何ともない)
 数日ぶりに六課隊舎の廊下を歩きながら、フェイトはほっと胸を撫で下ろしていた。もう左腕も完治している。痛むところなんて、どこにも無い。自分は完調だ。
「ふふ。さて、と」
 課長室――六課部隊長であるはやての部屋の前まで来て、フェイトは手にした今回の報告書をもう一度確認するようにペラペラ捲ると、軽く端を揃えた。
 ドアをノックする。
「……?」
 反応がない。留守、だろうか? しかし受付ではやての所在を確認した際は今は課長室で仕事中だと言われたし、どうしたものかと首を傾げつつフェイトはさらに何度かノックすると、ドアノブを回してみた。
「開いてる」
 仮に息抜きやトイレだったとしても、課長室は機密の山だ。鍵を閉めずに出ていくはずがない。特にはやてはそういった部分は友人や知人達の中でもかなりしっかりしている方である。ならば、やはり室内にいるのだろうと視線を巡らす――必要さえなく、ドアの正面、執務机にはやてはいた。やはり仕事中なのか、難しい顔で広げた本を眺め――
「……うふ」
「!?」
 ――ていたかと思うと、突如としてはやての唇がニマ〜っと歪んでいた。
「ん〜、ふふ、ふふふふ、ふふふふふふふ……」
「は、はやて?」
 ニタニタと笑いながら、はやては身悶えしていた。かれこれ十年来の付き合いだではあるけれど、彼女がこんなにもアレなのはよっぽどの事だ。
「あの、はやて。報告書、持ってきたんだけど……」
「んふふふふ」
 返事は無し。
 聞いてない。と言うより、確実に聞こえていない。
 一体全体どうしてこんなトリップしているのか、フェイトは軽い眩暈を覚えながらも親友の背後に回ると、彼女が読んでいるらしい本に目を通した。どうやら仕事に関係のないただの雑誌……情報誌の類のようなのだが……
「……最新ブライダルフェア情報。結婚式場をお探しのアナタへ、オススメはここ……って、はやて、これ、何の――?」
「そやな〜、やっぱここよりもこっちの方がええかなぁ。でも場所的には……いや、やはり教会式じゃなく神前式の方が……でもカリムの手前やっぱ教会か――って」
 雑誌の内容を読みとるために身を乗り出したフェイトにようやく気がついたのか、はやては油の切れたブリキ製食い倒れ人形のようにギギギッとニヤついたままの顔ごと首を回していた。
「……フェイトちゃん?」
「うん」
「……なんで?」
「いや、だから報告書を届けに」
「……いつから?」
「二、三分くらい前、かな?」
 気まずい空気が流れた。
 はやての首が再びギギギッと回って元の位置に戻り、パタムと雑誌を閉じる。表紙にはゼクCミッド版と書いてあったが、フェイトはよく知らない雑誌だった。知らないままに、思った通り、気になった通りに質問してみる。
「はやて」
「……なに?」
「結婚するの?」
 ボンッ、と。
 爆破系の魔法が炸裂したのかと、フェイトは真面目にそんな感想を抱いた。爆発元ははやての顔面、しかし魔法を喰らったにしてはダメージが無い。いや、ダメージはあるのか。顔が病気もかくやと朱に染まってしまっている。
「な、ななな何言うとるン!? そな、け、けこ、結婚やなんてまだまだ六課も軌道に乗りきってない言うのに出来るワケないやん!?」
 顔の前で凄い勢いで両手を振りながらはやては必死に否定していた。と、そこでフェイトは「そう言えば……」とようやくここ最近管理局で囁かれている噂の事を思い出していた。
 捜査官として外出しているのが多いためか、基本的にフェイトは職場に流れる噂のようなものには詳しくない、と言うより無頓着である。人の噂も所詮は七十五日程度、一々気にしていられるような時間の余裕は敏腕捜査官であるフェイトにはない。そんなフェイトが僅かにでも記憶の隅に覚え留まらせていたのは、噂が親友であるはやてに関するものだったためだ。
 噂の内容は至極簡単。別にはやてを悪し様に言うとかこき下ろすとかではなく、なんと『あの八神はやてが近々結婚するらしい』という内容だった。
 無論、聞いた時はそんな事あるわけがないと右の耳から左の耳へと風のように流したフェイトだったが、当のはやてがブライダル雑誌を読みつつニヤニヤし、言及された途端にこの慌てようとくれば噂を信じたくもなる。
「ねぇ、はやて」
「うっ……は、はい」
 正面から真っ直ぐ見つめられ、はやては縮こまりながら返事をした。
「結婚……は置いとくとして。もしかして、今、お付き合いしてる男性とか、いるの?」
 ゴシップな好奇心からの質問ではなかった。ただ純粋に、親友が自分の知らないところで異性と交際しているのかもしれないという不確かな情報に戸惑いを覚えたと言った方がいい。けれど口にしてから、訊くべきではなかったのだろうかとフェイトは少し後悔した。はやてが自分に何も告げなかったのはそこに告げられないだけの理由があったからなのではないかと、そう考えると自己嫌悪に陥ってしまいそうになる。
 懊悩するフェイトの目の前で、はやてもまた難しい顔をしていた。が、やがて観念したかのようにフッと一息漏らすと、椅子に深々と腰を沈めてから実に穏やかな笑顔で質問に答えた。
「――うん。実は、そうなんや」
 照れくさそうに、はにかむように。
 この上なく幸せそうなはやてを、フェイトは何やら不思議な心持ちで眺めていた。
 恋愛というものについて、フェイトは今まであまり深く考えた事はない。別に自分の出自――正常な人間としての生まれ方をしなかった事――に今だコンプレックスを抱き続けているとか、多少はあったかも知れないがそれが全てと言ってしまえる程に卑屈な性格ではないつもりだった。第一、いつまでもその事でグジグジ悩み続けるのは自分を一人の人間として愛してくれている友人や家族に対しあまりにも失礼というものだろう。
 結局、どうして恋愛について考えた事がなかったのかを問われれば、そんな暇がなかったからと答えるしかなくなるのがフェイトのこれまでの半生だった。十九歳の若さで執務官の資格を持ち、魔導師としてのランクもオーバーS。そんな人物が管理局で暇を持て余していられるわけがない。西へ東へ東へ西へ、東奔西走仕事仕事にまた仕事の生活では恋なんてまずその前段階から始まりやしない。それにやはりフェイト自身は気がついていないが、管理局に所属する男性職員の大半からは端から高嶺の花と諦められている節もある。
 暇もなければ出逢いもない。しかもフェイトのような隙の無い才媛を真っ向受け止めてくれるだけの度量まで相手に求めるとなれば、それはおよそ天文学的な確率に落ち込むのではあるまいか。
 等々、様々な要因を考えつつ強いてフェイトの恋愛経験のようなモノを挙げるとするなら、初恋は義兄であるクロノだった……のかも知れない。しかしそれも初恋と呼ぶにはあまりに淡く儚いものだった。頼りになる義兄への敬愛とは別に、年上の、客観的に見ても充分に格好いい男の子に対する憧れは確かにあったと思う。けれど、クロノがエイミィと結婚すると聞いた時、所謂失恋の痛みや悲しみ、嫉妬のような感情はついぞ湧いてはこなかった。本当に、ただひたすら純粋に義兄と義姉の幸せを願ったし、今もその気持ちに変わりはない。
 だから、フェイトは親友が浮かべた表情を不思議そうに眺める事しか出来なかった。映画や小説にある“作り物の恋物語”ではなく、本当に、本物の……恋――をしている、親友の、顔。
「ほんま、ごめんなフェイトちゃん」
 不意に立ち上がったかと思うと、、はやては心底申し訳なさそうに頭を下げていた。
「え? は、はやて、どうしたの急に?」
「いや、なんかほんま突然で。フェイトちゃんとなのはちゃん、それにすずかちゃんやアリサちゃんには真っ先に報告せなあかんと思てたんやけど……その」
 段々と、消え入るように言葉尻が萎んでいく。
「そ、その……いざ話すとなると、恥ずかしくて」
 恋人が出来た事を報告するだけならまだしも、何せ恋の成就に至るまでの経緯が経緯だ。包み隠さず話すのは恥ずかしすぎるが、かといってどこまで秘密にしてどこから明かすべきか、親友達が相手だからこそ線引きが難しい。
 しょんぼりと俯いてしまったはやてにフェイトは暫し呆気にとられていたが、やがて気を取り直すと、一言。
「おめでとう」
 そうとだけ、告げた。
「……あ」
 ハッとなって顔を上げたはやてが見たのは、フェイトのこれ以上ないくらい優しい微笑みだった。
「うん。……相手の人の事とか、よくわからないけど。でも、はやては今、幸せなんだよね? だから、ね。おめでとう、はやて」
 心からの祝福に、はやては目頭が熱くなるのを感じていた。なんだか最近、泣かされてばかりな気がする。
「ありがとな、フェイトちゃん」
 フェイトの肩にコテンと頭を預けながら、はやては精一杯の感謝をその一言に込めた。
 肩から伝わってくる鼓動と温かさに、フェイトははやてが今どれだけ幸せなのか感じ入っていた。
 大好きな人がいる。大好きな人が自分の事を大好きでいてくれる――その、お互いの気持ちを心から信じる事が出来る。それは、なんて素敵な事なんだろう。
 自分にもいつかそんな日が来るのだろうか。もし来るのだとすれば、相手はどんな人で、どんな風に自分を愛してくれるのか。自分は、どんな風に相手を愛するのか……
 そこまで考えた瞬間、
「……っ」
 数日ぶりに、あの痛みが走った。
 思い浮かべたのは、一瞬。本当に、ほんの一瞬だけ――……一人の少年の面差しが、脳裏をよぎった。
 真剣な、とても真剣な表情。必死に、懸命に大切な人を守ろうとする、まだまだあどけない少年が見せた男の貌。どうして今この時に、彼の事を思い出すのか。
 ……馬鹿馬鹿しい――そう、言い切る事が、出来ない。
「フェイトちゃん?」
 急に身を固くした親友の事が気になったのか、いつの間にかはやてが心配そうにフェイトを見上げ、様子を伺っていた。
「どうしたん? 何か――」
「あ、あっ」
 軽く眩暈を感じ、フェイトははやてから離れて後退ると、手に持っていた報告書を今更のように突き出した。宙を彷徨っていたはやての手が躊躇いがちにそれを受け取る。
「……ごめん、はやて。私、用事を思い出した」
「ふぇ、フェイトちゃん!?」
 急に背を向けて走り出したフェイトを止めようとはやては手を伸ばしたが、いかんせんその速度から閃光とさえ渾名されるフェイトの全力疾走である。止めようがない。
「ど、どないしたんやろか」
 呆然と呟くはやてを余所に、フェイトは廊下を駆け抜けていった。
 激しく波打つような動悸と、火傷しそうなくらい熱く火照った頬に戸惑いながら、ついさっき頭に浮かんでしまった考えを完全に打ち消そうと、走って、走って――なのに駄目だ。消えない。動悸も、火照りも、ありえない考えも、何一つ消えない。
「そんな……そんな、事……ッ!」
 ――あるはずがない――
 否。
 あっては、ならない。
 なのに駄目だ。耳の奧で反響するのは、彼の叫び。瞼の裏に浮かぶのは、彼の背中。傷ついた自分を身を挺して守ろうとする、少年の雄姿。
 彼の事は、彼がまだ幼かった頃からよく知っている。自分と似た境遇の少年を、時に母のように、時に姉のように、時に師のように、育て、教え、導き……それが二人の関係だった。大切な、とても大切な、宝物のような関係。
「だから、私は……私はっ」
 隊舎を出て、肩で息をしながらそれでもフェイトは走り続けた。
「どうして……どうしてなのよ……っ!」
 傾きかけた陽の光が、金色を紅に染め上げている。
「……エリオ――ッ」
 掛け替えのない大事な家族だったはずの少年の名がフェイトにもたらしたのは、やり場のない決壊寸前の感情のうねりと、ひたすら胸を締め付ける名状しがたい痛苦だけだった。



 気がつくと、そこは訓練場だった。
 夕暮れの時分とは言えまだ新人達は訓練に明け暮れているのだろう。擬似森林が鬱蒼と広がり、夕陽を遮られたフェイトの周囲はまるで今の気持ちのように薄暗く闇が澱んでいる。
 今の時間ここに来れば、エリオに会ってしまうかも知れない。それなのに、足は無意識にここを目指していた。
 会いたかった、のだろうか。
 もしそうなら……何のために会いたかったのか。フェイトは天を仰ぎ、乾いた笑みを漏らした。
「私、駄目だ。こんなんじゃ」
 保護者なのに。母なのに、姉なのに、隊長なのに。
 自分の立場を明確にせんと、フェイトはエリオとの関係を思い描けるだけ思い描き、瞑目した。風にそよぐ枝葉の音は、まるで本物の樹木のようだ。魔法技術によって再現された疑似フィールドとはとても思えない。
 深く息を吸って、己の心と向き合う。
 あんな情動は所詮は気の迷い、勘違いなんだと言い聞かせ、吸い込んだ息を吐き出すとともにフェイトは虚空を睨んだ。
 もう、迷ったりしない、絶対に。そうでないと、全てが現実になりそうで、怖かった。自分の心に生じた小さな風が、波を起こし、やがて大渦となったそれに呑み込まれてしまう前に。
「……隊舎に、戻ろう」
 これ以上ここにいてはいけないと、何かが警告している。今は駄目だ。今会ったら、波濤を止める術がない。
 木々に背を向け、フェイトは足早に歩き出した。
 きっと明日になれば何もかもが元通りになる、元通りにしてみせると誓った――のに。
「――あれ? フェイトさん」
 運命は非情にも風を吹かせる。
 いつもなら任務が終わるとすぐに会いたくなる少年の声が、鋭い棘となって胸に突き刺さった。
「あ、フェイトさん。帰っていたんですか?」
 少年と一緒にいる少女の優しい声も、まるで自分を非難しているかのように聞こえて、フェイトは悲鳴をあげそうになるのを必死に堪えていた。
「おかえりなさい、任務お疲れですフェイト隊長!」
「お疲れ様です!」
 声色から幼い二人の喜びようが手に取るようにわかる。なのに、駆け寄ってくる足音に対してもフェイトは振り向く事が出来ずにいた。いつものように「ただいま」と、その一言さえ口に出来ない。
「フェイトさん?」
「あの……どうしたんですか?」
 背を向けたまま、言葉を発しようともしないフェイトを二人とも流石に不審に思ったのだろう。歩調がゆっくりとしたものに変わり、声に心配そうな色が混じる。
 任務から帰ったばかりで疲れているんだろうかと、エリオもキャロも保護者の体調を案じた。だがそれにしても今日のフェイトは妙だった。
 やがて、ゆっくりと金の髪が流れ、フェイトが振り返る。
「うん。ただいま、二人とも」
 その顔に浮かんでいたのは、紛れもない笑顔。エリオとキャロが敬愛する、大好きなフェイト・T・ハラオウンの笑顔がそこにあった――はずだった。
「フェイト、さん?」
 なのに二人の胸に生じたのは、小さな違和感。
 いつも通りのフェイトのはずなのに、何かがおかしい。その程度の事に二人が気付かないわけがないのだ。フェイトだってそのくらい充分にわかっているはず。だって三人は、家族なのだから。
 それでも、フェイトはまるで仮面のように貼り付けた美しい笑顔を崩すことなく、
「二人とも、こんな時間まで訓練してたんだ。お疲れさま」
 あくまで平静を装って接してくる。
 エリオもキャロも、たまらなく悲しくなった。フェイトに何があったのかはわからないが、まだ幼い二人なりに何か任務中に辛い事でもあったのではないかとおもんばかり、なんとかして彼女を元気づけられないものかと頭を悩ませた。しかし悲しいかな、二人ともそういった経験が絶対的に不足している。これは、といった名案がなかなか浮かんでこない。
「今日は、何の訓練をしてたの?」
 だからフェイトからの質問に、
「あっ、はい! 前回の訓練の時フェイトさんに言われたように、もっとキャロとの連携に呼吸だけじゃなく動きそのものを合わせられるようにその訓練を」
 エリオがそう答えたのは、単純にフェイトに喜んで貰いたいという一心からだった。
「うん……そっか。二人とも、頑張り屋さんだから、きっとこの数日で随分と上達したんだろうな」
 それでもフェイトの声はやはりどこか虚ろな響きを含んだままだった。どうしていいかわからず、途方に暮れたキャロは肩に止まっている相棒、白銀の飛竜フリードリヒの頭を撫でてやった。フリードもフェイトの事が心配なのか、悲しそうな鳴き声をあげる。
「あ、あの……っ」
 話を続けようとして、エリオは言葉に詰まった。これ以上何か言葉をかけようにも、自分はどうしようもなくまだ子供で、それがエリオにはたまらなく歯痒かった。
 ――……このままじゃ、駄目だ! ――
 拳を握りしめ、エリオは強くそう思った。フェイトは、物心ついた頃からずっと自分の事を守り続けてきてくれた恩人だ。そんな女性が、今、どうしてかはわからないけどこれまで見た事がないくらい辛そうにしている。
 何か、何か出来る事はないだろうか。
 手にしたストラーダに視線を落とし、エリオは何やら決意したかのように唇を引き結んだ。
「あの、フェイトさん」
「どうしたの?」
 そして――偽りの笑みを浮かべたままのフェイトに、言い放つ。
「僕達と、勝負してください……!」



 正直、フェイトはすぐにでも寮に帰って迷走する自分の目を覚ましたかった。このままでは最後に残った保護者としての自分までも粉々に砕け散りそうで、怖かったのだ。
 さっき、ずっと二人で訓練していたと言うエリオの言葉と、キャロとの仲睦まじげな仕草に、あろう事か胸を痛めている自分を発見したフェイトは暗澹たる想いに包まれていた。エリオの事ばかりではない、キャロだって掛け替えなく大切な少女のはずなのに、自分はあの一瞬何を考えたろうか。
 痛い。
 張り裂けそうなくらい、心が悲鳴をあげていた。
 それでもエリオの申し出に応じてしまったのは、あまりに真剣な彼に気圧されてしまったからだ。
「フェイトさーん、準備出来ましたー!」
「わたしもでーす」
 百メートル程向こうで、エリオとキャロが手を振っている。
 勝負を持ちかけられはしたものの、仮にも訓練中に真剣勝負をやらかすわけにはいかないし、今日は模擬戦の予定も組まれてはいない。何より一日訓練しっぱなしで疲労の極みにあるエリオとキャロを相手に果たしてどんな勝負を……と思案した結果、フェイトは前回のおさらいという意味合いも込めて、二人協力して自分に一撃与える事が出来れば勝ち、出来なければ負けという条件を提示した。似たような内容の訓練はなのはもよくやっているし、二人とも慣れたものだろう。
 フェイト相手にこの勝負は、一瞬の交差でほぼ全てが決すると言っても過言ではない。それは前回、もっと以前からの訓練でもよくわかっているはずだ。近距離戦の達人であるフェイトに対して長期戦はない。ブーストされた状態での、ほんの数合。体力的にもエリオにはそれで限界のはずだ。
 夕闇の中で、視力を強化したフェイトの目にはエリオとキャロが頷き合うのがはっきりと見えた。ジクジクと気持ちの悪い感覚が全身に広がっていく。
(私、こんなに嫌な女だったんだ)
 自己嫌悪。
 手にしたバルディッシュ・アサルトは斯様な主の無様をどう捉えているのか、ずっと無言のままだ。
「……ねぇ、バルディッシュ」
《……》
「私、どうすればいいんだろうね」
《Sir,As you thought》
 無機質な声は、突き放しているようにも、慰めてくれているようにも感じられる。
 と、そんなやりとりをしている間にキャロの姿が淡い燐光を放ち、闇を照らしていた。
「最初から、ブーストの重ねがけ」
 ブーストアップ・アクセラレーションとブーストアップ・ストライクパワー。エリオの力が高まっていくのがこの距離をおいてもわかった。先日のように、途中でブーストしてこちらの裏をかくのはやめたらしい。
「同じ手は通じないって、ちゃんと守ってるね」
 本来なら喜ばしいはずの教え子達の成長が、胸を掻き乱す。
 バルディッシュを上段に構え、フェイトは雑念を振り払おうと集中した。余計な事は何も考えず、ただ教え子達の上達を見届けようと、そう考えているのに……
「……エリオ、キャロ」
 抑えが効かない。大切な子達を今まで通り見守る事が、キャロの光に包まれているエリオの姿を正視する事が出来ない。
 噛みすぎた唇からは、錆びた鉄の味がした。
 唾液を呑み込もうとして、口の中がカラカラに乾いている事に気付く。
 いけない。先日のエリオの動きを思い出す。あれにさらに磨きがかかっているとすれば、半端な精神状態で対応するのは危険だ。フェイトがではなくエリオが、である。
「それじゃあ、フェイトさん」
 エリオの身体がグッと前傾する。初撃はブースト状態での渾身の一撃。もしかしたらそれだけで決めてしまうつもりでいるのかも知れない。むしろそのくらい増長してくれていた方がフェイトとしては楽だった。正面からくるとわかっている一撃なら、どれだけ速かろうともいなして返せるだけの絶対的な能力差、地力と経験に裏打ちされた自信がある。けれどエリオは、それだけでは終わるまい。
 あの年頃が陥りがちな増長と慢心、エリオはそれらとは無縁の希有な少年だった。その資質が今は恨めしい。
 フェイトは確信していた。
 彼は――キャロ・ル・ルシエと協力したエリオ・モンディアルは、きっと自分の想像の上をいく。
「……行きますッ!!」
「!」
 弾丸のように、エリオの小さな身体が跳びだしていた。加速に定評のあるスバルに勝るとも劣らない、一級の速度だ。
(凄い……本当に、凄いよ。エリオ、キャロ)
 エリオ自身の能力もさることながら、彼の力をここまで引き上げているキャロの補助魔法もまた一流の水準に達している。若干十歳で、二人とも驚くべき成長速度だった。
「……でもっ」
 所詮は直線。
 このまま特攻してくるだけなら避けるまでもない。カウンターで終わりだ。フリードがブラストフレアの発射準備をして後方に待機中のようだが、ただの牽制だろう。威力は高くても彼のブレスは命中精度に難がある。近接戦闘を仕掛けている味方の援護には不向きこの上ない。
 エリオがフェイトの間合いに入ろうとする。その瞬間、カウンター狙いでバルディッシュが振るわれていた。そこでキャロの叫びが木霊する。
「止まって!」
 先日と同様、急激なブースト解除。
 速度を落としたエリオが前回よりも器用に体勢を崩さぬよう急ブレーキをかける。フェイトも当然読んでいる。バルディッシュの振り幅は、即座に次の行動に移れるよう極小さいもの。
「その程度じゃ、応用とは呼べない!」
 バルディッシュの連撃がエリオに襲いかかる。これで終わってくれれば、何も問題はない。ざわめく心は、かろうじてまだ保ってくれている。まだ、フェイトは保護者でいられている。
 けれど――
「エリオ君!」
 再びのキャロの叫び。
 振り向きもせず、エリオが小さく頷くのが見えた。フェイトの目には――二人の繋がりが――見えてしまった。そこに、致命的な隙が生まれる。
「クルッ!」
「!?」
 意識が逸れていたのはほんの刹那。その刹那に、白く小さな弾丸がフェイトの脇をすり抜けていった。
「……フリー、ド?」
 ブレスではない、フリード本体による牽制。ブラストフレアはおそらく先程エリオのブーストを解除したのと同時にキャンセルしてあったのだろう。かくして刹那の隙はさらに広がり、エリオの持つストラーダが一つの呪文を完成させるための時間を許してしまっていた。
《Sonic Move》
「ッ!」
 エリオの小さな身体が、ブースト状態をも凌駕した超加速でもって疾駆する。手近の木を蹴り、三角跳びの要領でフェイトを急襲。
 勝利を確信したのか、キャロが歓声をあげようとしているのがフェイトには見えた。本当に、凄い子達だ。褒めてあげたい。褒めて、あげたいのに……
「う、あ」
 フェイトの唇から漏れ出たのは、彼女の美貌におよそ似つかわしくない呻きだった。
 仮面の笑顔が歪んでいた。
 どうしてだろう。こんな時に、はやての笑顔を思い出す。恋人が出来た事をフェイトに祝福された彼女が見せた、本当に幸せそうな、綺麗な笑顔。
 恋している笑顔なのだと、フェイトは思った。恋している人は、みんなあんな風に綺麗な笑顔が出来るのだろうなと――だから、自分のこれは違うのだ。自分は、歪だ。やはり真っ当な人間ではないから、あんな笑顔は――
「うっ」
 ――出来、ない――
「ああーーーっ」
 慟哭にフェイトの全身が震えた。
 悲泣が腕を通じ、愛用のデバイスに魔力が籠もる。
「……バル、ディッシュ……」
 超加速状態で突っ込んでくるエリオに対し、フェイトがとった動きはほんの一工程。ただ、バルディッシュを彼に向けて突き出しただけ。魔法によって意識、及び視野を拡張していたフェイトでも、ソニックムーブの速度に対してはその程度の動きしかとれない。
 だが、それで充分だった。
「あっ」
 エリオの顔に驚愕の色が浮かんだのはほんの一瞬。ソニックムーブはまるで停止した時間内を駆けるが如く、こと加速力においては強力極まりない魔法だ。相手がフェイトでなければ、たとえはやてやなのはであったとしても今のエリオには対応しきれなかったかも知れない。故に、これは単純に相手が悪かった。
 エリオとキャロのとった戦法自体は今の彼らにとれる最上のものだったろう。しかし相手は閃光の異名をとる、こと速度に関しては剣の騎士シグナムをして捉えきれないと言わしめたフェイトである。加速系魔法の長所も短所も、知り尽くしている。
 エリオの小さな身体が、ただ突き出されているだけのバルディッシュに突っ込んでいく。そして、今までの速さが嘘のように、フェイトの目にはスローモーションでゆっくりと宙を舞うエリオが見えた。
 震える唇が『え・り・お』と動く。けれど動いただけで、音にはならなかった。
「エリオ君!」
 音になったのは、少女の悲鳴。
「キュクルー!」
 キャロとフリードが横たわるエリオへと駆け寄っていくのを、フェイトは暫し呆然と見つめていた。
「……わ、私――」
「エリオ君! エリオ君!」
 キャロが泣きながらエリオの名を呼び続けている。
「うっ!」
 突然己が身を襲った嘔吐感に、フェイトは顔を顰めた。身体をくの字に曲げ、口元に手をやりながらそれでも視線は倒れたエリオと傍らで彼の名を呼ぶキャロへと注がれている。エリオは、まだ目を覚まさない。
 ボロボロの心と体を引きずって、フェイトは動いた。ようやく動けた。
「キャロ、シャマル先生を呼んできて! ……早く!」
 うまく動かない口を精一杯広げ、フェイトは必死に叫んでいた。
「え……あっ」
 フェイトの叫びに、弾かれたようにキャロは顔を上げるとグッと涙を拭った。エリオのもとを離れたくないという気持ちと、急いでシャマルを呼んできて看てもらわなければという気持ちが鬩ぎ合っているのが傍からもよくわかった。
 エリオの事が、本当に大切なのだろう。その気持ちを推し量ってなお、フェイトは絞り出すようにキャロを促した。
「キャロ……お願い」
「は、はいっ!」
「キュクー!」
 立ち上がり、フリードと一緒にキャロは懸命に走っていった。途中、何度か振り返ってこちらを見ていた姿が痛ましい。
「……ごめん、キャロ」
 エリオの傍らにしゃがみ込み、脈拍を計ったり頭部に負傷はないか確認しながらフェイトはポツリと呟いていた。けれど、今本当に謝りたい、謝るべき相手はキャロではない。
「ごめん……ごめん、ね……エリオ」
 口の中は依然として乾いたまま、汗の一つもこぼれないのに、どうしてだろう。涙だけは不思議と枯れることはなかった。
 地面に叩きつけられた時についたのか、エリオの手や足には細かい擦り傷が幾つか、しかしそれ以外には酷い傷などはないようで、少しだけ安心した。――けれど、軽傷を喜ぶだなんて今のフェイトには出来るはずもない。
 いつもの自分なら、もっと上手くやれたはずだ。エリオの特攻を冷静に見極め、効果的に対処し、それこそ掠り傷一つ負わせることなくいなすことも出来たはず。なのにこの体たらくで何がトップエースか、何がエリート執務官か。
「ごめんね……エリオ、ごめんね……」
 跪き、謝罪を繰り返しながらフェイトは泣き続けた。涙の雫が数滴、エリオの頬に伝い落ちる。
「……フェイトさん……泣いて、るんですか?」
 いつの間に目を覚ましたのか、エリオはうっすらと開けた目でフェイトをじっと見つめていた。まだ意識が朦朧としているのか、口調はやや辿々しい。
「どう、して……泣いてるんですか? ……痛っ」
 起き上がろうとして、エリオは苦痛に顔を歪めた。身体中が痛い。その痛みが気付けとなったのか、覚醒していく意識でエリオは自分が敗北したことを悟った。
「そっか……僕、負けちゃったんですね」
 思いの外すっきりした顔つきで呟くと、エリオは目を閉じて嘆息した。
「やっぱり、フェイトさんは強いなぁ」
 その一言に、フェイトが強く頭を振る。
「違う……違うの。私は、強くなんて、ないんだ。強くなんて、ないんだよ……。私が……本当に強かったら、エリオに……こんな怪我なんて、させなかったのに……っ」
 エリオはしっかりと目を見開き、首だけ動かしてフェイトの顔を真っ直ぐ見つめた。彼女に保護され、家族として暮らすようになってから、こんな風に泣いている姿なんて見たことがなかった。
「違います。フェイトさんは、何も悪くない。悪いのは、僕です」
「そんなこと……そんなのことないっ。悪いのは、私で……そのせいで、エリオ、怪我しちゃって――」
「でも、フェイトさんが泣いてるのは……僕の、せいなんでしょう?」
 エリオの言葉を「違う」と否定しようとしたが、口から出てくるのは嗚咽ばかりでフェイトはただ子供のように頭を振るしか出来なかった。
 この涙の原因が誰のせいかと言えば、確かにエリオなのかも知れなかった。どうしようもなく胸が痛むのも、頭が混乱するのも、涙が止まらないのも、エリオのことを考えているからだ。根幹にある原因は、そういった意味ではエリオで間違いない。
 そのように泣き続けるフェイトを見ているのは、エリオもとても悲しかった。だが、悲しいけど、目の奧が熱いけれど、自分まで泣くわけにはいかない。健気な、男の子の意地だ。
「……フェイトさん、最近、なんだか辛そうにしてました」
「……」
「僕のせい……なんですよね?」
 そう言ったエリオは、寂しそうな笑みを浮かべていた。悟られないよう気をつけていたつもりで、彼の鋭さを甘く見過ぎていたのかも知れない。自分と接する時のフェイトの態度に、不自然さを感じていたのだろう。
「……僕のせいなら、何とかしなくちゃって……そう思ったんです。でも、僕に出来る事なんて、悔しいけど何も無くて……。ならせめて、訓練の成果を見てもらおうって、そう、思ったんですけど……全然、駄目でした」
 フェイトは、スバルにとってのなのは同様、エリオにとって憧れであり、目標でもあった。フェイトのように強くなって、フェイトのように人々を救いたい。大切な人達を守れる騎士になりたいと、エリオはずっとそう思って、そのために強くなろうとし続けてきた。今は無理でも、いつかはフェイトのことも守れるように。だから今回も、そのために得た強さを彼女に見せようとする以外に少年は何も方法が思いつかなかったのだ。
「僕は……ずっとフェイトさんに守られて、面倒を見てもらって……でも、そのせいでフェイトさんは、本当ならしなくても良いはずの苦労だって、背負い込んじゃったはずで……。だから、嫌われたって仕方ないんだって……わかってるんです」
 今度こそ、フェイトは全力で否定したかった。嗚咽を抑え込み、絶対に違うのだと言いたかった。言って、エリオを抱き締めたかった。なのに身体が自由にならない。涙も、止まらない。
「でも、それでも僕は……僕にとってフェイトさんは恩人で、とても大切な人だから。今は無理だけど、いつかはフェイトさんのことを守れるくらい、強くなりたい。……たとえ嫌われても、僕は、あなたのことを守りたいから」
 もう、否定も誤魔化しもしようがなかった。
 しゃくり上げながら、フェイトはエリオの身体に覆い被さるようにして崩れ落ちていた。
 子供だとか、弟のようだとか、もうそんな風には思えない。
 エリオを見る目は、自分の中ではとっくにに変わってしまっていたのだ。それに気付こうとせず、必死に否定していただけ。
「……エリ、オ……、エリオーっ」
 好きだ。
 自分は、この少年のことが大好きだ。
 はやてのように笑えなくても、自分が真っ当な人間でなくても、キャロが彼に幼い恋心を抱いているのだとしても――
 優しい彼が。自分を守ると言ってくれた小さな騎士が、好きで、本当にどうしようもなく好きでたまらなくて、フェイトは、これ以上エリオを好きだという自分の気持ちに嘘を吐くことは出来そうになかった。出来ないから、涙が零れてしまう。
「う、うぅあぁぁ……」
「フェイト、さん」
 自分に覆い被さるようにして泣き続けるフェイトを、エリオはどうしていいのか戸惑いながら見つめていた。
 震えている、細い肩。
 揺れている、金の髪。
 彼女は、こんなにも小さくか弱かったのだろうか。
「フェイトさん……」
 ようやく動くようなった手で、エリオはフェイトの頭にそっと触れた。触れた途端彼女の身体が僅かに硬直したのがわかったが、ほんの一瞬のことだった。
 ゆっくりと、長く美しい金色の髪を梳くように撫でる。
 昔、フェイトに保護されたばかりの頃。慣れない環境に戸惑い、まだ彼女にも心を開いていなかったエリオの頭を、フェイトはよくこうやって撫でてくれた。その時のことを思い出しながら、エリオは優しくフェイトの頭を撫で続けた。
 母のようなフェイト。
 姉のようなフェイト。
 けれど彼女はエリオの母でもなければ姉でもない。間違いなく言えるのは、エリオにとってフェイトが他の誰よりも、一番大切な相手であると言うことだ。
 なのはやはやて、スバルにティア、他の機動六課のみんな。それにパートナーのキャロも無論大切だけれど、それでも、どちらがより大切かなんて馬鹿げているけれど、フェイトのことだけは完全に別だった。命を懸けても、命を捨ててでも守りたい――絶対に守らなければならない相手なんだ――と、エリオは幼いながらにはっきりと理解していた。
 その感情を何と呼べばいいのか、エリオはまだ知らない。
 知らないからこそエリオの手は純然で、温かかった。
「……はぁ」
 どのくらいの間そうしていただろう。
 泣きやんでもまだフェイトはエリオの胸に頭を乗せていた。甘えてもらっているようで、エリオは嬉しかった。手は、依然として髪を撫で梳かしている。
「……あ」
 暫くされるがままになっていたフェイトだったが、ぼーっと自分を撫でるエリオの手を見ていて気がついた。
「エリオ、血が……」
 掠り傷程度だが、まだ血が滲んでいる。
「このくらい、大丈夫ですよ。小さい時も、転んで怪我した時なんかはアルフに『そんなの舐めておけば治る』とか言われて……」
 言いながらエリオは照れくさそうに傷を口元に運ぼうとして、
「……んっ」
 フェイトによって遮られていた。
「フェイトさん?」
 不思議そうにエリオが首を傾げる。そんな彼の手を掴んだままフェイトは傷口を一頻り眺めていたかと思うと、突然――
「……そうだね。消毒、しておこうね」
「っ!?」
 ペロリ、と。
「フェ、フェイトさん!?」
 エリオの手の傷に、舌を這わせていた。
「ちょ、フェイトさん、そんな、いいですよ」
「ダメ……だよ。バイ菌、入っちゃうから」
 ドギマギしながらエリオは手を引っ込めようとしたが、フェイトにしっかと掴まれているため動かせない。まるで猫がじゃれ合うかのように、フェイトはエリオの手の傷を一通り舐め終えると、上気させた頬をさらに赤く染め上げ、視線を下方にずらしていった。
「足の方も、何ヶ所か擦り剥いてたよね」
「う、うわ……ぁ」
 チロチロと、くすぐったく舌が傷口を這い回る感触にエリオは身悶えた。始めは膝頭だったのが、徐々に上、太股の擦り傷にまで到達すると流石にエリオは慌てた。
「も、もういいです、ほんとに、いいですから!」
 それでもフェイトはやめない。
 舐めると言うよりも、まるで口吻だ。時折小さく悲鳴を漏らすエリオを弄ぶかのように、フェイトの口と舌は止まらない。
 困っているエリオの顔が殊更に可愛かったからだとか、色々と理由はある。でも、こう、何と言えばいいのだろう。フェイトは少しだけ悩んだが、すぐにどうでもよくなった。
 口づけたいのだ、エリオに。
 もっと単純に、有り体に言ってしまえば――キスしたい。でも流石に口は恥ずかしいと言うか、兎も角、傷口の消毒に託けて彼の身体の至る所に口吻をしたかった。
「ん、ちゅ……む……フフ」
 啄むようにエリオの傷に口づけるフェイトの目は、泣き腫らして真っ赤だった。けれど、その顔には何かを吹っ切った、ある種の清々しさが漂っていた。
 エリオは、久しぶりにフェイトの最高の笑顔を見ることが出来たような気がして、とても嬉しかった。





◆    ◆    ◆





「フェイトさん」
「……なに?」
「いえ、その。もう一人で歩けますよ」
 全身の擦り傷をフェイトに舐め尽くされたエリオは、ようやく立ち上がれるまで回復したかと思うと自分でシャマルのところまで行くと言い出した。待っていればすぐにキャロが連れて帰ってきてくれるとフェイトは説明したのだが、おそらく本音は照れ隠しだったのだろう。エリオは強弁に歩くからと主張し、フラフラとまだ覚束ない足取りで歩いていこうとするのでフェイトが脇にピタリと張り付いて歩行を助けているのだ。
 肩を貸せれば良かったのだが、いかんせん二人の身長差でそれは無理だった。でも、すぐにでもエリオは自分の背なんて追い越していくのだろうなと考え、フェイトは少しだけ寂しいような、嬉しいような、不思議な感覚に包まれていた。
「まだ無理しない方がいいよ。少しフラつくでしょ?」
「ええ、でもほんの少しなのに……」
「いいから、遠慮しないで」
 エリオのことを異性として好きなのだとはっきり認めたフェイトではあったが、その事をエリオに告げるつもりはない。少なくとも、彼の背が自分よりも低いうちは言うまいと、曖昧に決めていた。
 自分に嘘は吐けない。でも、そこで想いをがむしゃらにぶつけてもエリオのためにはなるまい。自分の想いは、きっと少年の枷になる。彼はとても素直で、優しくて、でも……優しすぎるから。
 彼の進む先にはまだたくさんの可能性が広がっているのだ。今のまま訓練を続けて、ベルカの騎士を目指すも良し。他に自分に合った進路を見つけて、そちらに新たに進むも良し。エリオがどのような道を選ぶとしてもフェイトは応援する気でいたし、その邪魔をしたくなかった。
 でもそれは立て前で、単に勇気がないだけなのかも知れない。何しろクロノへの憧れを除けば、初めて異性を恋愛の対象として意識したのである。何をどうすればいいのか、フェイトにはさっぱりわからなかった。
 でも、こうして触れ合っているととても安心出来る。温かさがひどく心地よい。
「……フフ」
「フェイトさん?」
 前途は多難だ。何せ相手は九つも年下の男の子。それにまだはっきりそうと決まったわけではないが、強力なライバルもいる。
(本当にごめんね、キャロ)
 今頃、彼女はシャマルに状況を説明でもしている頃だろうか。それとももう連れ出して、こちらに向かっている途中だろうか。
 キャロのことを大切だと思う気持ちにも、嘘はない。エリオを想う気持ちとは意味を違えてしまったけれど、キャロだってフェイトにとっては掛け替えのない女の子だ。だから彼女が本当にエリオに対し恋心を抱いているのだとすれば、自分は退くべきなのだろう。実際そうなったとしたら、退くしかないだろうなとは考えている。
 その時は、また泣いてしまうのだろう。悲しみからか、寂しさからか、それとも、嬉しくて泣けるようになるのか、今のフェイトにはわからなかった。
 わかるのは、今感じているこの温度が本当に心地よいこと――
「どうかしたんですか?」
「ううん。何でも、ないのよ」
 横から見つめられていることに気付いたエリオは不思議そうに尋ねたが、フェイトは相貌を僅かに綻ばせて話をはぐらかした。
 この先、何があるかはわからないけれど、保護者として女として、自分は決断を迫られる日がきっと来るだろう。
 だけど、せめて……もう少し。こうしている、間くらいは――
 慣れない気持ちのこそばゆさに、フェイトはもう暫く浸っていたいと思った。





〜to be Continued?〜






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