Angel Re-Birth



◆    ◆    ◆





 海が見たい、と彼女は言った。





◆    ◆    ◆





 思ったよりも、綺麗だな――というのが、初めて本物の海を見たアンジェラ・バルザックが抱いた特に面白味もない、しかし偽らざる感想だった。
 正直、もっと汚染され泥水じみた広大な水溜まりを想像していたのだ。宇宙から海の青さは見ていたものの、人生の殆ど全てを過ごしてきた電脳空間《ディーヴァ》でこれまで聞き及んでいた地上世界の知識はおよそ『綺麗』なものとはかけ離れた荒涼とした破滅の世界で、だから海も、こんなにも青く、水平線の果てで空の蒼と溶け合う荘厳な美しさとはかけ離れたものに違いないと、そう思い込んでいた。
「ほわ……」
 間の抜けた声を漏らし、フラフラと砂浜を夢遊病者のように歩いて行く。
 呼ばれている気がした。
 海に。
 ザザァ……という、寄せては返す波の音。かつての地上の記録から細部に至るまで精緻に再現されていただろうリゾートスペースで聞いた音と何一つ変わらないはずなのに、まるで違う。
 漂ってくる、潮の香り。仮想空間で嗅いだものよりも複雑な気がする。何やら生臭く、単純に好い匂いとは言い難い。けれど、嫌ではなかった。
 潮風に髪を巻き上げられ、咄嗟に手で押さえる。ディーヴァの風は、もっと優しかった。人の邪魔をしないよう、悪感情を抱かせないよう細やかに配慮され、常に温度や強弱を調節されていたためだ。地上の風には無論そんな機能は無い。
 あらゆる既知情報が既知にならない。この世界は、アンジェラの知らない“何か”で充ち満ちている。
「脱いだ方がいいぞ」
 唐突に後ろから声をかけられ、アンジェラは二秒ほど小首を傾げると、次に三秒ほど自身のまだ幼さの残るマテリアルボディを見下ろし、
「ばっ!?」
 真っ赤になって声の主を顧みた。
 壊れかけた堤防の方から、純白の砂浜を片手を挙げてゆっくりと歩いてくる男。その髭面には相も変わらず人を食った笑みを浮かべ、アンジェラが振り向いたのを確認するや挙げていた手を下ろすと今度は足下を指差している。
「靴だ、靴。海に入るなら、素足の方がいい」
 てっきり服を脱げと言われたのかと勘違いしたアンジェラはその言葉で一層顔中に朱を散らし、「わかってるわよ!」と照れ隠しに語気を荒げてブーツを脱ぎ捨てた。
 脱いだ途端、灼けた砂の熱にアンジェラは思わず目を見張った。
 火傷しそうなくらい、熱い。まさか騙されたのでは? ともう一度男――ザリク・カジワラ、通称“ディンゴ”――を顧みてみると、そちらも同じく靴を脱いで「熱ちっ!」と飛び跳ねて戯けている。豊かな髭も相まってか実年齢以上に老成した雰囲気を纏っているくせに、こういうところは妙に子供っぽい。
 足の裏、指の間に感じる初めての刺激は、長くは続かなかった。我慢出来ないくらい熱かったのは最初だけ、やがてギュッと砂を握るように新たな一歩を踏み出すと、アンジェラは再び波打ち際へと近付いていった。
 目の前には果てしない青が広がっているのに、足下に寄せる波は陽の光を反射してキラキラと宝石みたいに輝きながらも驚くほど透き通っている。
 海水。
 初めて触れる、本物の海の水。
 おっかなびっくり、砂で灼けた足を浸してみる。
「……あ」
 冷たい。
 熱で真っ赤になっていた足が海水に冷やされ、何とも言えず心地良い。次第に慣れてくると、今度は逆に水温の暖かさが感じられてくる。波音とともにまとわりついてくる感触がくすぐったくて、自然と笑みがこぼれた。
 ディーヴァがエージェントの地上作戦用にと用意した装備なのだから、スーツもブーツも少し濡れた程度なら何も問題は無いはずだ。ディンゴもそのくらいはわかっているだろう。わかっていて、それでも彼は素足の方がいいと言ったのだ。ブーツ越しでは、きっとこんな感動は味わえなかったに違いない。
 いったん海から出たアンジェラはグローブも外して素手になると、ブーツと一緒に波の届かない場所に並べ置いて、再び、今度は脛が浸かる深さにまで入ってみた。
 歩いてみると水が重たい。重たさを実感しつつ、おそるおそる海水を手で掬い取ってみる。地表の七割以上がこのただの塩水によって占められているのかと思うと、それは途方もなく壮大で、奇妙で、あまりに不思議すぎて、気付けばアンジェラは圧倒されていた。
 リアルワールド。
 今さらながら実感する。
 仮想空間ではない現実の世界。掌に掬った塩水はその象徴だ。
 太陽光を受けてキラキラ輝く宝石の欠片を鼻の高さにまで持ち上げ、まじまじと見つめた後、不意にアンジェラはそれを口元に運び……
 寸前、「ちょっ、おい!」というディンゴの声が聞こえた時には、もう遅かった。
 勢いよく掌の海水を飲み干したアンジェラは、ゴクリと喉を鳴らした直後「しょっ!? かぁああああああああっ!!」と絶叫を迸らせたのだった。



「お前さん、たまに信じられないくらいアホな真似するよなぁ」
 まだえーえーと塩っ辛さに嘔吐いているアンジェラを呆れ顔で見やりつつ、ディンゴはひんやりと冷えた器を差し出した。水筒の水はアンジェラが一気飲みしてしまったため、少し歩いた先にあった店で買ってきたのだ。こんな辺鄙なところでよくも営業を続けていられるものだが、漁場も近いし案外需要はあるのかも知れない。
「うー……なに、これ?」
「ん? 知らないか?」
 器を受け取った後、アンジェラは一頻り不思議そうに中身を観察すると、キョトンとした顔でディンゴに尋ねた。水やジュースの類ではない。アルコール飲料でも……というか、飲み物じゃない。器の中身は細かく砕かれた氷がメインで、その上から毒々しいピンク色の液体がふりかけてある。
「こいつはかき氷ってものだ」
「かき……氷」
 何度かその言葉を反芻し、眉間に皺を寄せて暫く俯いていたかと思うと、やがてアンジェラは弾かれたように顔を上げた。
「かき氷!? アレって実在する食べ物だったの!?」
「……いったいディーヴァのデータベースにかき氷がどんな風に記されてるのか気になるところだが、実在するもんだ。ってか、早く食わないと溶けるぞ」
 そう言って、ディンゴは自分の分のかき氷をスプーンで掬い取ると、「こうやって食べるんだ」とまだ驚いたままのアンジェラに手本を示した。と言っても単にザックリとスプーンで掬い取っておもむろに口に運んだだけだ。
 なんだかいつも以上に子供扱いされている気がして、アンジェラは見てなさいよとばかりにスプーン山盛りに氷を掬うと、勢いよく器と口とを往復させた。
 冷たくて、甘い。まったく見た目の通り、氷の上に甘ったるいシロップをかけただけ。単純明快なシロモノで、組成自体はただのジュースと変わらない。なのに美味しい。海水の塩っ辛さがまだ残る口内にじんわりと沁み広がっていく。
「これ、本当にただ氷を粉々に砕いただけなの? ちょっと形状が変わるだけでこんなに違ってくるなんて……」
 陽射しの暑さも相まってか、スプーンを動かす手が止まらない。
 シャクシャクシャクシャクと小気味よい音を立て、高速でかき氷をかっ込むアンジェラにディンゴはニヤリと笑いかけると「気をつけろよ」と小声で告げた。
 いったい何の事、と首を捻ろうとした瞬間、ソレはきた。
「いっ――〜〜〜〜〜ッ!?」
 こめかみにキーンと鋭く走る痛み。いったい今度は何のダメージなのか、何者かの襲撃なのか、周囲を見回してもなんら異常は無い。ただディンゴがさもおかしそうにクックッと肩を揺らしている。
「気をつけろって言ったろ。……安心しな、ただの関連痛ってやつだよ」
「かんれん、つう?」
「冷たいものを急激に食べたせいで、咽頭の神経が感じた痛みをこめかみ辺りのものと脳が勘違いしちまってるのさ。なに、すぐ治まる」
 言われてみれば、確かそんな現象があると生身の肉体に関する医学データで目にした覚えがある。あまりにどうでもいい知識過ぎて記憶の奧の方に放り投げたままだったものを引っ張り出し、ウーッと唸った後、ややペースを落としてアンジェラはかき氷を食べ尽くした。
 生身の肉体は、不便だ。こんなワケのわからない事で痛みを覚えるし、その原因を突き止めようにも検索して一発で該当の知識を呼び出したりも出来ない。不測の事態への臨機応変な対応力はディーヴァの保安要員にも当然求められてはいたが、このリアルワールドではその価値が何倍にも重く感じられる。ディンゴというガイドがいなければ三日ともたずに野垂れ死んでいたかも知れない。突っ慳貪に接してはいるが、彼には世話になりっぱなし、感謝のし通しだった。
 一度その事を告げてみたところ、『あんたはまだこの世界に生まれたばかりなんだ。仕方無いさ』と笑われた。相手を蔑む笑みではなく、子供を温かく見守る笑みだ。それはとてもむず痒くて、けれど安心出来る、心地良いものだった。
 今のアンジェラは背も低いし胸も小さい、ディンゴ曰くロリィな外見だが中身は立派な大人……のつもりでいた。子供扱いされる事に最初の内は腹も立ったものだが、最近はそうでもなくなってきた。
 彼の言う通り、この世界での自分は子供なのだ。生まれたて、右も左もわからない。見るもの聞くもの触れるもの全てが新鮮で、驚きに満ちている。
 かつて人間が電脳世界へその住処を移す際に捨てていったものを一つ一つ拾い集めながら、自分は今成長のただ中にある――そう考えれば、この未発達なマテリアルボディで案外丁度良かったのかも知れない。自分の成長を実感しながら歩んでいけるというのは、ディーヴァでも地上でもそうそう出来ない貴重な体験だろう。
「ところで」
「?」
「なんで海水をあんな、一気飲みしようだなんて考えたんだ?」
 かき氷を食べ終わり、なんとはなしに並んで海を眺めていると、ディンゴが訝しげに問うた。本気で理解に苦しむと言いたげな、それでいて神妙さも孕んだ顔だ。或いはアンジェラにはアンジェラなりの深慮深謀があってそうしたのではないかという可能性も視野に入れて慎重に尋ねているのかも知れなかった。
 そんなディンゴに、アンジェラは事も無げに、
「ほんとにしょっぱいのか、確かめてみようと思って」
 そう言い放ったのだった。





◆    ◆    ◆





 その日は海岸近くの安宿に泊まった。
 シャワーの心地よさを知る事が出来たのは、アンジェラにとってリアルワールドで暮らすようになってから最大の収穫の一つだったと言ってもいいだろう。
 汗と潮風でべたついた肌や髪が熱い湯で洗い流されていく。ゆったりと湯船に浸かって思いきり手足を伸ばすのも好きだが、あれはそこそこ良い宿でしか味わえないのが難点だった。その点シャワーはよっぽど場末の、本当に寝床以外何も無いような所以外なら大抵は常備してある。使えるお湯の量に制限がかかっている宿も多いが、ここは海に流れ出る川も付近に幾つかあるため水は豊富らしく、ありがたいことに使い放題だった。
「ふぅ……」
 一通り汚れを落とし、蛇口を捻ってお湯を止めるとアンジェラは深く息を吸って吐き出した。
 埃っぽい大気も、新陳代謝によって何もせずとも汚れていく肉体も、シャワーによる爽快感を倍増させるために必要なアクセントなのだと最近はそう考えるようにしていた。無駄なものを無駄と考え切り捨てるから良くないのだ。どんな事象にも何かしらの意味があるのだと思えば、ディーヴァと比べて一見不合理で無駄だらけのこの世界はむしろ雑多な意味に溢れている。
 タオルで全身を拭き、バスローブを纏ってシャワー室を出る。
「シャワー、空いたわよ」
 宿に泊まる際、大抵アンジェラはディンゴと同室にしていた。宿代をなるべく浮かすためだとか色々と建前はあれど、最大の理由は……何とも情けない話ではあるが、夜中に一人で寝るのが怖ろしかったためだ。
 夜の闇と静寂は、地上に放り出されたばかりのアンジェラにとっては得体の知れない恐怖の塊だった。フロンティアセッター事件で初めて地上に降りた直後は、『どうせすぐにディーヴァに帰るのだから』とさして気にもならなかった数々のものが、この先ずっと暮らしていくのだと実感した途端に怖くなった。
 クローゼットと壁の間に、ベッドの下に、カーテンの裏に。常に何かが潜んでいるのではないか、ディーヴァから差し向けられた刺客がいるのではないか、自分もあの闇に呑まれて溶け消えてしまうのではないか。妄想だと自覚していても、どうしようもなく震えが止まらなかった。
 そういった理由をハッキリとディンゴに告げたことはない。ただ、彼は全て察してくれている風でもあった。同室であることに『いいのかい?』と最初に確認をとった後、何も言わないでいてくれるのは、だからだろう。
 そんなディンゴからの返事が、無い。
 キョロキョロと不安げに部屋中を見回してみるが、彼の姿は何処にも無かった。
「……そう言えば、酒場に行くとか言ってたっけ」
 歓楽街と呼べるほど大したものではなかったが、宿に向かう途中数軒の酒場が建ち並んでいるのを見かけ、ディンゴが後程仕事探しと情報収集も兼ねて飲みに行くと言っていたのを思い出す。彼は優秀な地上調査員だが、何もディーヴァ専属というわけではない。この地上で生きていくためには何処にいようと仕事を探し収入を得る必要があるのだ。
 アンジェラの現在の肉体年齢は十六歳相当なので、ディンゴから酒場へはなるべく出入りするなと言いつけられている。これは子供扱いと言うよりは単に無用な厄介事を避けるためだった。
 十六歳という肉体年齢相応に胸も薄く尻も小さい貧相なアンジェラの身体だが、世の中にはそういう体型に劣情を催す救いがたい連中も大勢いる。酔っていれば尚更だ。
 それに無法なようでもこの世界にはこの世界なりの厳然たるルールがある。特に未成年の飲酒は、問題無く許されている街もあれば厳しく取り締まられる街もあったりと極端なので、酒場への出入りは注意する必要があった。
「リアルワールドのアルコールかー……」
 ディーヴァでは成人だったのだし、仮想空間内でバーチャルアルコールに酩酊した経験くらいはある。が、基本的にアンジェラは仕事第一のワーカホリックな日々を送っていたため、実のところあまり飲んだ覚えは無い。酒の味も、酩酊感も、本音を言えば今一つ良さがわからなかった。
「生身で飲んでみれば、また違うのかしら?」
 興味がなくはないのだが、その結果また醜態を晒してディンゴに笑われるのもおもしろくない。特に今日は海水の件でも呆れられたばかりだし、自嘲しよう、とアンジェラは窓辺に移動すると、やや逡巡した後、思い切ってカーテンを捲った。
 一瞬、闇と向き合う恐怖に胸がざわめいた。ディンゴのいない一人きりの部屋。地上での生活には大分慣れたつもりでも、やはりまだ不安は大きい。こうしていると圧し潰されそうにもなる。
 それでも捲らずにはいられなかった。
 見てみたかった。夜の海を。
「はぁー……」
 思わず感嘆の息が漏れる。
 夜の海には、昼とは違った趣があった。
 昼間は水平線で海の青と空の蒼が溶け合っていたが、夜の闇と混じり合い、月と星の煌めきを水面に映す今の光景はそれ以上に幻想的だった。
 夜空とは、宇宙の暗黒だ。けれど無窮の闇ではない。そこかしこに光がある。大小様々な光に混ざって、あの中のどれかはアンジェラとディンゴの大切な友人が乗った外宇宙探査船のロケット光なのかも――そんな風に考えて、アンジェラはクスリと相貌を綻ばせた。
 ザザァ……ザザァ……という波の音が、昼よりも深く鼓膜に響く。ディンゴの好むロックとは異なるけれど、これも音を骨で感じていると言えばいいのだろうか。
「……でも、ちょっと違うかも。骨じゃなくて肌に染み入る感じ、っていうか」
 このまま何時間でも耳を傾けていられそうだった。最近では以前よりロックも悪くないと感じ始めているが、こんな風に穏やかなのも良い。
 窓を少しだけ開け、夜風を浴びてみると恐怖が薄らいでいく気がした。或いは、深く静かな波の音が優しく打ち消してくれているのか。
 海。
 広い海。
 昼間は初めて見る現実の海に圧倒されるばかりでいたが、こうして一人で佇んでいると海にまつわる過去の記憶が甦ってくる。無論、本物ではなく仮想空間での、作り物の海の記憶だ。
 まだアンジェラが保安局エージェントになりたてだった頃に遭遇したある事件で、彼女は四人の男達が求めた楽園の風景を見た。エメラルド色の海が水平線の彼方まで続き、真っ白い砂浜を押し寄せる波が濡らす。透き通った水の底には珊瑚の森が見え、潮風に吹かれたハイビスカスの花が揺れている、南国はタヒチの海。この海よりもさらに綺麗な、まさしく楽園と呼べる風景ではあったが、こうして本物と比べてしまうとやはりあれはデータだったのだなとしみじみ思う。
 ただ穏やかで美しい、人間にとっての原初の風景、それこそが楽園であると語った人がいた。メモリを失うことを怖れ、怖れから人々が諍いを起こす、そんなディーヴァが楽園であるはずがない。このタヒチの海で裸の自分一人で生きていられる幸福、それこそが楽園なのではないか、と。
 あの時、それを聞いてアンジェラは『違う』と思った。
 冷たくて暖かくて、優しくて厳しい。生命は全てこの海から発生したのだという当たり前の知識は持ってはいたものの、より高次の存在へと進化した人類にとっては今さら不必要な過去だとかつてのアンジェラはそう考えていた。楽園はもっと先に、手を伸ばし、求め、歩みを止めずに進み続けた先にこそあるものだ。数々の問題を抱えつつも、人の進化の証したるディーヴァこそは楽園にもっとも近いものなのだと、あの頃はそう信じていたかったのだ。
 もっとも、電脳の楽園を追放された今となってはそれも信じられなくなっていた。
 楽園なんて、何処にも無いのかも知れない。或いは人の心の中に、人の数だけ存在する、夢幻も同然のものなのか。
 自分はあやふやだ。確たる芯が無い。すぐに迷い、揺らぎ、見失う。そんな自分にも、果たして楽園はあるのだろうか。
 この世界で生きていく事を選んだ自分が、何を求め、何処に向かって生きていくべきなのか、アンジェラはそれを知りたかった。
 海を見れば、少しは何か掴めるのではないかと思っていた。答えとまではいかずとも何かしら指標くらいは得られるのではないかと。しかし現実は、そう都合のいいものでもなかった。
 言い様の無い感覚に胸がざわつく。
 求めれば求めただけ、アンジェラは楽園が遠ざかっていく気がした。



「うっ、う〜〜〜〜ん……!」
 夜の砂浜で、アンジェラは思い切り伸びをした。
 湯冷めしないようそれなりに厚着してきたものの、夜の潮風はそれでも肌寒い。部屋で窓を開けて感じる分にはやや涼しいといった程度で済んだのに、外に出てみると昼間の暑さが嘘のような冷え込みだった。それが、むしろ思考の迷宮にはまり込んでしまった頭の熱を程良く冷ましてくれる。
 ディーヴァにいた頃はもっと楽だった。幾つかの可能性を並べ、計算し、検証し、確率を割り出し、よりよい解答を導き出してそこで終わりだった。対して、生身の今は悩んでも可能性一つまともに浮かばずこうして気分転換に散歩などしている。
 宿で借りてきたサンダルを脱いで素足で砂浜を踏み締めると、昼間とは真逆の刺激にゾクリと肌が粟立った。
 闇に目を向けると、まだ恐怖はある。その恐怖を振り払い、一歩、二歩、スキップを踏むみたいに軽やかに、月と星座が見下ろす砂浜を舞う。夜気の冷たさに反して身体は昂揚していくのを感じた。徐々に動きは激しさを増し、いつしかアンジェラは自らの影とワルツを踊っていた。
 月明かりに照らされた長い髪が、金色に煌めいて虚空を流れる。
 ダンスの経験なんて殆ど無い。波音を伴奏に、自分の内側から湧き上がる情動に従っているだけだ。それだけなのに、これならいつまでだって躍り続けていられそうだった。
(楽器でセッションするのは無理でも、ギターに合わせて踊るなら……)
 ふとそんな事を思いつき、ディンゴのギターをイメージして少しステップを変えてみる。静かで優しい波音とは正反対の、荒々しく情熱的な“骨で感じる”音。彼のロックに合わせるのは難しそうだけれど、
(こんな感じに……)
 先程よりもやや大袈裟に、腕を大胆に振って、足で力強く大地を叩く。共にワルツを踊っていた自身の影を今度は置き去りにする勢いで激しいリズムを刻み、煌めく髪を翻らせる。
(うん、悪くない)
 なんとか踊れそうだった。
 これなら、もし万が一、今は遠い星の海を旅している友人と再会する日が来たとしても、今度は一人だけ除け者にされることもなく、二人のセッションに自分も混ざっていくことが出来る。そうなったらきっととても楽しいだろう。想像しただけでワクワクと胸が弾む。頬が弛み、笑みがこぼれるのを抑えきれない。なのに、
「ッ!」
 折角身体も温まり、気分もノッてきたのに、忘れていた恐怖が突然甦り胸を締め付けた。
 怖い。
 ジワジワと恐怖が身体を包んでいく。
 全身に纏わり付く闇を薙ぎ払うかのように、アンジェラは腕を振った。だがぎこちない。さっきまでは自由自在に動かせていた身体がまるで思う通りに反応してくれない。
 悔しい。
 負けたくない。
 意地になってがむしゃらに躍り続ける。それは迫り来る“何か”への叛逆を想起させる、鬼気迫る舞だった。
 やがて一頻り舞い終えたアンジェラが波音に混じって聞こえるパチパチという乾いた音に振り返ってみると、そこにはいつの間にかディンゴが立って拍手を送ってくれていた。右手の人差し指と中指の間にスキットルの口を挟んでいるものだから音の間隔はひどくまばらだ。
「いつからいたの?」
「ついさっきさ。上手いもんじゃないか」
「……そうかしら。自分じゃ、よくわからないけど」
 ついさっき、というのが嘘じゃないならおそらく彼が見たのはダンスも終盤のはずだ。皮肉のつもりかと訝しんでみたものの、どうやらディンゴは本心からあの躍りと呼べるかも怪しいがむしゃらで不格好な動きを褒めてくれているらしい。
「やってたのかい? ダンス」
「いいえ、全然」
「なら、才能だな」
 ニヤリと笑い、ディンゴはスキットルを傾けクイッと一口分喉に流し込むと、もう一度拍手を送った。
 不本意なものをあんまり素直に褒められたため、アンジェラは真っ赤になって俯くと、再び彼に背を向け波打ち際にしゃがみ込み、暗い海へとおもむろに両手を突っ込んだ。
「ひゃんっ!」
 ダンスで火照った身体があまりの冷たさにブルリと震え、海中から勢いよく手を引っこ抜く。そのまま体勢を崩し、アンジェラはペタンと尻餅を突いてしまった。
「おいおい、大丈夫か?」
 スッと伸ばされたディンゴの手を掴むのもなんとなく癪で、アンジェラはたっぷり数秒太くゴツゴツとした指を見つめると、盛大に溜息を吐いてからその場に座り直した。
 伸ばした手のやり場を失い、暫くどうしたものかと思案して頬を掻いたりしていたディンゴだったが、こちらも軽く嘆息してアンジェラの隣に座る。
 お互い、特に言葉はなかった。
 昼間かき氷を食べ終えた後のように、ただ並んで海を見つめる。
 波の音以外には何も聞こえない、静かな海。
 ディンゴの横顔をチラリと一瞥してから、アンジェラは抱えた膝に顔を埋めた。ふて腐れているみたいできまりが悪いが、さりとて自分から話しかけるのも躊躇われた。昼に引き続きいくらなんでも子供っぽ過ぎたかなと、我ながら呆れてしまう。

 ――でも、ディンゴなら――

 時折、ディンゴはこちらの心を読んでいるのではないかとアンジェラはそう感じることがある。アンジェラの様子がおかしくとも、ディンゴは彼女が特に必要としていない時には言葉をかけることもなく放っておいていてくれる。逆に、何でもいいから声が聞きたい時などはそれと察して他愛もない軽口を叩いてきたりもするのだから、まるで魔法使いだった。
 今夜も、彼は魔法を使ってくれるのではないかと期待している。
 アンジェラが必要とし、欲している言葉を。求める答えを。自分自身もよくわかっていない恐怖や疑問の正体をあっという間に解き明かして、心の澱みを取り払ってくれるに違いないと。
 けれどどれだけ待っても、ディンゴは何も言ってはくれなかった。
 五分、十分と時間が過ぎ、すっかり身体が冷え切ってしまった頃にはアンジェラの中の期待は不安への変わっていた。
 気を悪くさせてしまったのだろうか。怒らせてしまったのだろうか。それともあまりに自分が子供っぽすぎて、呆れてしまっているのだろうか。
 胸中に渦巻く不安に耐えきれず、膝に埋めていた顔を上げると、ディンゴと目が合った。
 アンジェラが心配していた怒りや呆れを含んだ視線は、そこには無かった。
 いつも通り。優しく自分を見守ってくれているディンゴの瞳がそこにあるだけ、のはずなのに、今は僅かに隔意を感じる。突き放されているような、そんな感覚だ。
『甘えるな』
 そう言われている気がして、アンジェラはたじろいだ。ついさっき触れたばかりの、冷え切った夜の海水を頭から浴びせられたかの如くに身が竦む。
 違う。
 ここ暫く安穏と旅をし、地上で生きていくことに対し向き合う中でアンジェラは危うく錯覚してしまうところだった。彼は何もアンジェラの全てを許容しただ無条件で甘えさせてくれる存在ではない。あくまで、アンジェラ・バルザックがこの世界に一人で立って歩こうとするのを手伝ってくれていただけだ。なのに今、アンジェラは何もかも彼に委ね、頼り切ろうとしていた。自分で立とうとするのではなく、一方的に彼に縋り、甘えようとしたのだ。

 ――生まれたばかりの自分の、けれどディンゴは父親ではないのに……――

 恥ずかしい。恥ずかしい。恥ずかしい!
 普段のちょっとした勘違いや世間知らずからくる恥じらいとはまったく異なる、今すぐこの場から消え去ってしまいたい羞恥にアンジェラは縮こまった。
 同時に、悔しい。屈辱だ。
 ディンゴの包容力に寄り掛かって、享受するだけの自分。それが、そんな程度がアンジェラ・バルザックだったのか。ディーヴァの檻から脱し、地上で新たな人生を生きようとした覚悟はどこへ消えた。
 このままでは、たった一人で孤独な永劫の旅に出たフロンティアセッターにも笑われてしまう。
「……ーーーーーーっ」
 縮こまっていた全身に、強引に力を送る。思いっきり息を吸い、血を、酸素を巡らせ、爆発的なエネルギーを溜め込み、グッと拳を握り締めて。
「うわぁああああああああああああああああああああああッ!!」
 アンジェラは吼えた。
 咆吼をあげた。
 雄叫びを、声が枯れ、喉も潰れんばかりに。腹の底から迸らせる。
 そんな彼女を、ディンゴはポカンとして見つめていた。
 それでいい。もっと驚かせてやろうとアンジェラが勢いよく立ち上がり、駆ける。
 砂浜を、全力疾走。消えてしまいたくなるほどの、あんなに恥ずかしい思いまでしたのだ。もう何も怖くなんかない。夜の闇なんてこの生命溢れる咆吼と疾走で消し飛ばしてやる。そして――
 ドボン。
 突っ込んだ。
 頭から。
 海に。
 暗く冷たい真夜中の海に。
 飛び込む瞬間、ようやく我に返ったディンゴが昼間アンジェラが海水を飲もうとした時みたいに止めようと手を伸ばしているのが見えた。
 昼間足だけ浸して歩き回っている際に気付いた。この海は少し進むと途端に深くなる。それでもまだ充分に底に足がつく深さではあったのだが、アンジェラは凍えそうな身体を抱え込むと、胎児のように丸まった。
 身体の芯まで冷え込んでくる。心臓はバクバクと高鳴り、耳鳴りがしてきた。全身の皮膚が引き攣って痛いくらいだ。
 暗黒の波間にたゆたいながら、考える。ディンゴに与えてもらうのではなく、自分で考えなければならない。そうでなければ意味が、甲斐が無い。生身の肉体を得た、新たに生まれた意味が。
(……ああ、そうか)
 生まれてしまったから、怖いのだ。
 生命を持つ肉体の檻。食欲を満たすために食事し、睡眠欲を満たすために眠り、月に一度は月経の痛みに悩まされる。怪我をすれば血が流れ、辛ければ涙が零れる。生きるということ。だがそれはいい。それらはただの苦痛だ。本当の意味での恐怖ではない。
 アンジェラが怖ろしかったのは、生まれてしまったがためにいつか必ず訪れる自身の死、それまでに果たして己が何を成せるのか、まるで見えないその闇をこそだったのだ。
 ディーヴァにいた頃はあまりに稀薄だった寿命という概念。年老いてやがて死ぬ、自然の摂理。自分の時間は有限で、この不毛な大地であといったい何年生きられるのか。生きている間に、答えを、自分だけの楽園を、見つけられるのか。
 それが怖い。考え出すと焦燥でいても立ってもいられなくなる。何も得られず、何処にも辿り着けず、ただ無為に死んでいくのだとしたらなんて怖ろしいのだろう。
 自分の生を意味のあるものにしたい。役割を決められ、ただそのためだけに寿命無き仮初めの生を与えられるディーヴァとは違う。しっかり生きて、しっかり死ぬ。そんな自分でありたいと強く願い、アンジェラは丸めていた四肢を伸ばした。
「ッはァアーーーーーーーッ!!」
「おあっ!?」
 海面を破り仁王立ちしたアンジェラの姿に、彼女を探して自身も海に飛び込もうとしていたディンゴは思わず後退った。それを見て、アンジェラが心底不思議そうに首を捻る。
「……何してんの? あんた」
「いや、何してんのってお前……そっちこそ何してんだ」
 アンジェラの無事な姿を見てドッと疲れたのか、ディンゴがガックリと肩を落とす。そんな彼に不敵に笑いかけるとアンジェラは朗らかに答えた。
「生まれ直したのよ。今、ここで、母なる海ってやつから」
 エッヘン、と胸を張る。
 そんな事をして何になるのか、実際馬鹿馬鹿しい。馬鹿げているとアンジェラも自覚している。でも、必要なことだった。
 改めて、生まれること。
 任務のために肉体を与えられるのでも、ディーヴァから逃げるためでもなく、この世界で生きるために。
 アンジェラ・バルザックは今、生まれた。
「ほら、間抜け面してないで祝いなさいよ」
「はぁ?」
 さっきからディンゴは呆然としっぱなしだ。彼に読み切らせなかったのがまた愉快で、アンジェラはケラケラと笑いながら大股で海から出た。
「っくしょんっ!!」
 しかし寒い。
 全身の震えが止まらない。早く温まらないと風邪をひいてしまう。
「……祝杯をあげるわよ」
 まだ事態を呑み込めずにいるディンゴの手からスキットルを奪いとると、グビグビと豪快にアンジェラはその中身を飲み干した。中に入っていたのは今のご時世珍しい、合成アルコールではない本物のウイスキーだ。とは言えアンジェラには苦いやら辛いやら味なんてまるでわかりはしない。
「ほらカンパイ! ……ヒック」
「カンパイって……あぁああ、もう空じゃねぇか、高かったのに……」
 苦労して手に入れた高級品をろくに味わいもせず勢い任せに飲まれてしまい、ディンゴは声にならない悲鳴をあげた。
「いいからヒック! アンジェラ・バルザックちゃんの生誕を祝してー……ヒック! ハッピーバースデーッ!!」
 身体中ポカポカと温まる。と言うより、熱い。
 浮遊感と昂揚感に笑いが止まらず、アンジェラはしょんぼりと項垂れているディンゴの肩をバンバンと何度も叩いた。
「ギター! ギター持ってきなさいよ! そんであれ、ALISE、弾いてよ。骨で! ……ヒック」
「ギターなんざ車の荷台だし別に骨で弾くワケじゃ……」
「じゃあ唄って! そしたらわたし、踊るから……うん、踊る。踊りたい」
 酔っぱらいに真顔で懇願され、ディンゴはさてどうしたものかと頭を掻いた。普段何気なく唄ってはいるが、いざこうして頼まれて唄うとなると気恥ずかしい。けれどアンジェラを見れば、この一連の突飛な行動が彼女にとってはとても重要なケジメ、或いは禊であることは理解出来る。
 やや置いて、「しょうがねぇなぁ」とディンゴは口端を弛めた。
(本当に、おもしろい奴だよ、あんたは)
 一緒にいて飽きる事がない。これまでにも何人か、暫く一緒に行動を共にした相棒はいたが、彼女ほど手のかかって目の離せない、なのに放っておけない相手は初めてだ。
 コホン、とわざとらしく咳払いして喉の調子を整える。
 生誕を祝して、と彼女は言った。なら、これはバースデーソングだ。出来る限り盛大に祝ってやろう。
「調子に乗って、目ぇ回すなよ?」
「らいじょーぶよ。……ヒック」
 全然まったくこれっぽっちも大丈夫そうには見えなかったが、ディンゴは星空を見上げ、長く息を吸い、そして唄い始めた。千鳥足のアンジェラが、それに合わせて危なっかしいステップを踏んでいく。全身濡れ鼠なせいで幾つも飛沫がディンゴにかかったが、そんなもの互いにお構いなしだ。
 真夜中の海岸で。
 ビショ濡れで。
 もっと熱く、もっと高らかに。
 星が一つ瞬いた。
 遙か宇宙の彼方で、フロンティアセッターも誕生を祝福してくれている気がして、アンジェラはさらに激しく大地にステップを刻んだ。





〜end〜






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