――そうして、永遠にも均しく感じられた刻限は満ち、
 彼女は再び、彼に出逢った。




◆    ◆    ◆



Sparks/Liner High,After.




 …sparks/





 号砲のようにひときわ高く、剣戟が轟いた。

 それがどれほどの克己の産物によるものなのか、彼女は知らない。
 ほんの数日前まで模擬戦ですら容易く打ちのめせていた少年が、今は剣士として己と拮抗している現実に、彼女は驚嘆と昂揚を覚える自分を否定し切れなかった。
 無論、それを面に表すことはしない。この場においてお互いがなすべきことはただひとつずつであり、そして彼女と少年の行く手が交わることももはやない。そんな命の遣り取りの場において――どうしてつかぬまとはいえ師としての歓びなど見せることができる。
 自分と彼は今や敵同士に過ぎない。袂はお互いが決して望んでもいなかったにもかかわらずわかたれ、彼の剣となることを誓った自分が彼を襲う剣となっていることにも、運命の皮肉を覚えこそすれ、感慨など今さら覚えるはずもないし、そもそも自分にはその資格もない。――畢竟、自分が判断を誤り、自ら彼を裏切る破目に陥ったのだから。
 自分の失敗によって、彼はマスターではなくなったのだから。

 後悔はある。自噴も――懺悔も、ひょっとしたら悲哀ですら自分は感じたかもしれない。魔性によって受肉したその身で、彼女は自嘲するように思考し、剣を振るいつづける。
 サーヴァントを欠いたマスターは、もはやマスターではない。いや、いまだ令呪をその身に宿すならば、その資格は持ち得よう。しかし――前回までの聖杯戦争ならばそれでも挽回の目はあったのかもしれないが、全てが破綻に向かって失踪するのみとなった此度において、一介の魔術使いに過ぎない半人前の少年が、どうして無事でいられるだろうか。
 否。
 実際少年は既に五体満足とはいえない。彼はあの森において左腕を丸ごと喪い、隻腕となったのだから。
 しかし再び汚れた身で見えた時、少年には左腕があった。弓兵かりそめの腕に赤布を巻いたその姿は見るだに傷痛しく、彼女はその無謀に呆れすら覚えた。
 人の身に英霊の肉は過ぎたものだ。そんなこと、鈍くはあっても決して愚かではないあの少年が判らないはずもない。
 あのまま死んでいれば、少年は少年のまま、その歪にも気高い生をまっとう出来たろう――志半ばといえど、彼を責めるものなどどこにもいない。はじめて逢ったときから、彼を取り巻く現実はあまりにも過酷だったのだ。むしろそこまで生き延びた僥倖を誇ってさえもいい――そう、彼女は思った。少なくとも、思い込もうとした。
 だというのに、いや、案の定・・・―― 彼女は何度目かも忘れた嘲弄を己に向けた。そう、少年が少年であるならば、彼女の知る彼であるならば、そんな結末を是とするはずもなかった――少年は敵うはずもない敵の前に立った。それとも、守れるはずもない少女を守ろうとした、というべきか? なんにせよ彼は少女のために無謀をはかり、かつて彼の肉体を両断せしめた狂気と兇器の前にその身を晒し、
 それに打ち克ってみせた。
 それは、生身の人間が英霊たるサーヴァントに勝ち得た――というだけの話ではない。
 何ものにも替えがたいはずものを犠牲にして、不可避の死を打倒して見せたのだ。彼女の目の前で。
 正直、彼女は少年のその姿に羨望を禁じえなかった。嫉妬すらあったかもしれない。しかし何にも勝ったのは、憐憫だった。
 巨人を討ち果たし、真っ向と世界に挑むようにして立つその姿は、ひどく悲しく、惨めなものに感じられた。少年は変わってしまったのだ、と彼女は思った。美しかった何かは喪われ、少年は代わりに強さを得た。その姿勢をこそ美しいと評すべきなのかもしれない。なぜなら少年は、彼女が――少女がかつて憧れ、封ぜざるを得なかった道を選んだのだから。だからこその羨望であり、だからこその嫉妬であり、――だからこその、憐れみだった。思う、シロウ、あなたはそれでいいのですか、自分を裏切り、生き方を曲げ、なのに在り方を変えようとしない。それは自滅の路にしか思えない、己のためと生を歪めた姿ですらそれだというなら、貴方は――それではいったい、なんのために生まれてきたのですか。
 自分のためだよ、と少年は答えるだろうか。その答えはきっと、彼女を納得させられない。しかし肯けてしまうのは――ほかならぬ自分が、少年のその姿に在りし日の自分を見てしまうからかもしれない。
 無論感傷だった。しかも、美化に過ぎた。
 似ている、といつからか思うようになった。それがいつからかは知らない。
 それももう、道が違ってしまった今では考える事すら無為だろう、と彼女は思考を打ち切った。

「―――っ」

 剣を振るう自分に意識を戻す。肉体にはまるで不自由がない。ほぼ自動的な斬撃装置。その身に染み付いた業と経験でもって万難を排し千敵を討つ。
 思考さえ分離していたかもしれない。あたかも過去における少女アルトリアアーサーのように、彼の敵としての自分と、彼のサーヴァントとしての自分が混在している。そこに撞着はなく、ゆえに齟齬もない。どちらの自分も既に開始を告げた仕合を止めることは許さない。それは彼女の根幹に根ざす騎士としての矜持かもしれなかった。
 そう、たとえどんな姿で、どんな時代に、どんな立場であっても。
 この身は剣の騎士セイバー・ザ・ナイト、英霊である。強敵と戦うことに喜びこそあれ、何の迷いがあろう。

「くっ―――!」

 質感さえ伴う腐臭に満ちた洞穴に清廉ささえ感じさせる剣戟が響き渡り、そのたびに一対の夫婦剣が幾度となく閃き、彼女が振るう漆黒の聖剣が放つ必殺の打突を躱し、受け、払う。それは一方的といってよい攻防だったが、それでもよくしのいでいるといえた。
 ――彼には危いところがある。
 そう初めに感じたのはいつだったか――振るわれる二刀を払いながら、意識の深層において、彼との出会いを追想していることを自覚する。
 それを無理に打ち切ることはしない。そのような感傷と、騎士としての自分は没交渉である。いかな感情も、剣気によろったこの心身を揺るがすことはかなわない。内界の制御のほとんどが己の兇暴の制御に費やされている今だ、どのみち冷静さなど――正気などあてにはならない。
 だから、彼女はあるがまま、その剣に想いをぶつけるようにして腕を振るった。
 定石など頭にはない、駆け引きなど弄さない、ただ必殺の一撃を、かつての主に向けて叩き込み、これで終わりだと思った刹那、少年は有り得ない鋭さで一撃を防ぎ、反撃してくる。それは幾合も繰り返す。なんということだろう、彼女は思った。これは奇跡だ、数日前までの彼にはこんな芸当は断じてできなかった、しかし今それを彼は可能にしている。自分がその身を虜にされた黒い影から生き延び、英霊の腕を得て、あの森で狂戦士を打ち破り、そして今、自分と打ち合っている――いったいいくつの奇跡を、彼は成し遂げたのだろう。しかしなにより理不尽なのは、それだけの奇跡を成した彼が、まだいくつもの奇跡を成さなければ生き得ないということだ。
 そして――

(っ――シロ、ウ、あなた、は――)

 そして彼の顔には喜色が見えた。剣の英霊である自分と打ち合える喜び、そこには敵となったかつての戦友に向ける悲哀などなく、ただ目標とした師と打ち合えている感動がある。あまりにも純粋といえば純粋であり、またこの上なく共感できる、剣士としての性。

「――はっ!」

 裂帛の気合と共に繰り出される唐竹の一撃を、薙ぎ払うように重ねた一撃で辛くも払う少年。逆袈裟に翻す一刀を寸でのところで――いや、その身を削らせながらも命には届かせない少年。致命を躱し、防戦一方だが、手を緩めれば即座に反撃を予想させる気力の充実――いずれも、一流の使い手以外にはありえない運動だった。
 そしてさらに十合。
 いずれも必殺であったはずの連撃をとうとう防ぎきり、彼は間合いを広げた。息を乱したその姿を冷静に観察し、彼女はある結論を下した。彼の両の手にある夫婦剣、あれでは自分には届かない。その宝具としての真名がどんなものであれ、そこから感じられる魔力は微弱――とはいかないまでも、彼女の所有する聖剣とは比すべくもない。もっとも、いかにランクが低いとはいえ宝具は宝具、油断はできない。だがそれでも、あれは自分には届かない、と直観した。
 ならば、あとは数手で決まる。彼に決定打がないのなら、あとは時間の問題だ。先程から彼女のマスターに呼ばれてもいる。少年と共にこの洞穴に来、見送った少女――彼女にどんな隠し玉があったのかは知らないが、主の身に危機が迫っているのならば、疾く駆けつけなければならないだろう。と、剣を構えなおしたとき、
 ―――?
 そこにきて彼に見えた差異を認め、彼女はひそかに眉をひそめた。傷口に視えるモノ。ぎしぎしと軋み鈍く銀光を放つ不自然なもの。そこにあってはおかしいもの、あれは、
 あれは、――剣だ。
 無数の剣が、彼の体から零落している。
 まるで――躰が剣で、できているみたいに。

「―――ああ―――」

 刹那、天啓の如くある発想が脳裏に閃いて、彼女はいくつかのことを同時に理解した。彼の不自然な頑健さ、回復力、その由来、意味と、つまり――自分と彼の間にあったもの、縁というより絆というべきもの。
 ふ、と彼女はやはり表情には出さず笑った。
 こんなところで見つけてしまう、なんて、つくづく数奇な縁だと、そう思った。

 ―――Heだから、 is the彼の体は bone ofきっと、 his sword.剣で

 奇妙に、肩が軽くなったように、彼女は感じた。それが錯覚であろうことも理解していたが、そんなことはどうでもよかった。――ああ、と思う。なぜ今まで気付かなかったのか。少年が自分の主である意味、理由。考えてみれば、簡単なことだった。
しかしそれにも、もう意味はない。少年はもう彼女のマスターではなく、少女もまた彼のサーヴァントではなくなっていた。
 では遅すぎたのか?
 ――そんなこともない。
 彼女は、それに気付けたことが、少年がそう≠ナあることが、どこか誇らしかった。少年の成しえた奇跡、自分はそれに、微細でも助けとなりえていたのだ。
 果たせなかった責務、無為と化した願い、魔道に落ちたこの身――それらを差し引いても、ただキレイなものを目指し、けれどとどかなかった少年の助けに、自分はなっていた、それはいかにもささいなことですが――彼女はおどろくほど穏やかな心地で思った。シロウ、それでよしとしましょう、不器用なあなたと、あなたがつくってくれた美味しい食事に免じて?
 今度こそ剣を構える。
 もはやこの戦いの結末がどうであろうと、興味は無い。今はただ、この少年との死合に全力を懸けるのみだ。

 そして、少女は少年と、最後の会話を始めた。


  /――Liner high,


 交わしてみれば、それはごく短い遣り取りだった。
 敵にあるまじき忠告と、少年らしいといえばらしすぎる自己犠牲。
 その果てに少年は名称の概念さえ無くした自己をさらに削り、
 とうにあと戻りのきかなかった道程は、先行きさえ失った。
 刹那の交錯には、少年の全てを懸けた命の煌きがあった。
 翻る鶴翼。必死の投擲を剣の騎士は当然のように弾き、少年が再び投影した夫婦剣を足りないと罵る。さらに彼女は、常人には有り得ない直感によって、飛来した背後からの一刀を回避し、言葉通りそこに叩きつけた一撃を刀剣ごと破壊してみせた。
 しかし鶴翼は一対、先に投擲し、片割れを躱された残る陽剣は未だ少女の命を目指し、直前に投影したもう一対――こちらは相棒を破壊された陰剣が少年の手に残されている。
 だが、再び回帰した飛刀も、渾身の一刀も防がれた。、
 計六刃二手。
 そこで、互いに手は尽きた。
 かのように、傍観者には見えた。
 しかし――少年の相手が並みの剣士であったなら、そもそも最初の一手でけりはついている。だからこその六刃であり、二手だった。
 ――少年の回路に魔力が疾る。
 少女の躰は反応できない。速度の問題ではなく、絶対的な間隙として、その停滞がある。生物駆動なら動きようもないその無防備な躰に、
 三手目、――最終にして最期、詰みの一手が叩きつけられる。
 空の両手に三度生み出されたのは宝剣干将莫耶。古の夫婦剣の名を冠するその一対の短剣が、少年の生み出す生涯最後の魔術きせきであり、

「セイ、バー―――………!!!!!」

 その、少女の名としてはあまりにそぐわない無骨な名が、少年衛宮士郎が生涯最後に紡いだ少女の名だった。
 軌跡が交差する。
 少年が文字通り死力を尽くして放った一撃は、騎士というにはか細い少女の躰を、確かに鎧ごと両断した。


  …After/


 洞穴には、遠く近く響く震動と腐臭が満ちている。
 その震動は、この醜悪な妄執の巣窟であるここが、この日をもって崩壊させる事を予感させるには充分なものだった。

「――――」

 異様な気配に眉をひそめることもなく、傍観者――残る最後のサーヴァント、ライダーは倒れ付すふたりのもとへ歩みを進める。

「――ライダー」

 仰向けに倒れたままの片方――躰を両断され、未だ再生に数分を要する状態で彼女に声をかけたのは、少年と死闘を演じた少女――ライダーとマスターを同じくするサーヴァント、セイバーだった。
 だがライダーは彼女に呼びかけには答えず、残った少年――衛宮士郎の容態を確認しようとして、――それが無駄であることを悟り、止めた。
 その身を破って聳える彼の心象たる剣の山や傷は問題などではない、ただ、少年はもう少年ではなくなっていた。彼が彼であった頃の全ては、もう世界から零れ落ちてしまっていたのだ。こうなってしまってはもはや、いかなる奇跡も彼を戻すことはできないだろう。
 そのことに落胆を――むしろ嘆きを感じている自分が不思議でないことが、いっそ不思議だった。この少年のやり方ではいずれこうなることは目に見えていたというのに。
 ――いや。

「……士郎、貴方は、セイバーを倒した」

 そうぽつりと呟いた声はセイバーの耳にも届いていたはずだが、彼女からは何の反駁も返ってこなかった。……結果から見れば、この戦いは紛れもなくセイバーの勝利だろう。しかし、人の身で最強の英霊である騎士王を打倒した――それもまた、紛れもない快挙、奇跡の領分だ。
 だがそれが、喜ぶべきものもいなければ、悔いるものもいない、寂寞とした結果でしかないことも、また事実だった。
 どうしようもない。なにもかも、どうしようもないのだ。やりようはあったかもしれない、だが――自分たちはどこかでボタンを掛け違った。
 それだけのことだ。生きるべきものがそれでも死ぬことなど、それこそ神代から繰り返されていた。いまさら嘆くことでもないし、少年の死地においてなんの手出しもできずにいた自分がそれをするのもふざけた話でしかないだろう。
 そうしてライダーが首を振り、続く震動の源――洞穴の最奧に向かおうとしたとき、再び声がかかった。

「私を殺さないのですか、ライダー」
「――邪魔をするのならば、すぐにでも。
 しかし、その傷は未だ治癒には数分を要するでしょう。……状況は逼迫しています。あなたがその傷を治しきる前に私はサクラに届き、この洞窟から離脱する。先にはアレが控えています。余計な手間は取りたくない。
 それに、この震動は恐らくサクラとアレの抵抗が拮抗しているということでしょう。
 ならばまだ、勝算が消えたわけではない」

 顧みることはない。ただ不退転の覚悟でもってそう答えると、セイバーからは苦笑のような反応が返ってきた。眉根を寄せながら肩越しに振り返る――今は封じる必要のない魔眼で見るセイバーは、現在の彼女のありようには相応しくない、優しげな笑みを浮かべていた。

「……なにかおかしなことでもありましたか」

 時間がないと言いつつも、ライダーはついそう尋ねていた。対するセイバーは笑みを崩さずかぶりを振ると、真剣な瞳でライダーを見据える。

「ライダー。貴女に、頼みがある」
「時間がない、と言いましたが」
「――桜を救う手が、まだあります」

 ぴくり、とライダーの眉根がよった。

「それは――たしかですか」
「ええ、……おそらくは。ですから、私をシロウの――シロウのところへ、少し運んでほしい、のですが」

 ライダーは無言のまま、横たわるセイバーに近寄ると、未だ臓腑を露出したままのセイバーの躰を抱え、すぐ側で動かないままの少年の躰――脱け殻の近くに横たえた。
 セイバーは痛みに喘ぎながらも片腕をついて半身を起こすと、士郎の顔を無感動に見、表情に反して優しげな手つきで彼の顔を撫でた。彼女の手が通り過ぎた時、開いたままだった士郎の目は閉じられていて、そうしている彼は、一見すればほとんど眠っているようにしか見えなかった。

「では、失礼します、シロウ」

 そして次の瞬間、セイバーの手は、数えるのも莫迦らしいくらいにある士郎の体につけられた数多の傷――その中でもっとも深く、大きいもの――つまりはもっとも大量の鋼が突き出ている部分に差し込まれていた。
 ぎちり、と鉄の軋む音が、洞穴全体を震わせる地響きを通してライダーの耳に入った。ライダーが見守るなか、傷口に差し込まれたセイバーの手はどんどん深く士郎の体内へと侵入し、同時に傷口を広げ、さらに多くの剣をその身から零れさせた。

「くっ――つ、は、あ」

 苦痛に吐息を零すセイバー。それを見守るライダー。そして今はもう動かない少年の躰を内界から蹂躙する剣山。一瞬とも悠久とも言える時間を経て、

「っ、――見つけた……!」

 その言葉と共に傷口から引き抜かれた士郎とセイバー自身の血に塗れた手には、一振りの短剣があった。短剣というよりは装飾剣、刀身は鋭角に波打ち、とても実用には向かないつくりのそれを、セイバーはライダーに向かって放った。

「――これは?」

 ライダーは投じられた短剣を受け取りながら、力無く横たわり、士郎の身に頭を寄せたセイバーを見返す。セイバーは一度大きく息をついて、

「キャスターの……宝具です。シロウはそれを契約破りの宝具だと言っていた――シロウが用意していた勝算とは恐らくそれでしょう。
 ……サーヴァントとマスターのラインを強引に断つほどの契約破りです。それが破呪専門の宝具なら、桜とアンリ・マユ――アヴェンジャーの契約つながりを断つことも、あるいは可能かもしれない」
「……かもしれない、とは?」

 訝しげに訊ね返すライダーに対して、セイバーも口早に答えた。

「未だ効力を確かめたわけではない、という意味です。だから、それを検証しなければならない。
 ――ライダー、それでわたしを刺してください」

 その意味を察して、ライダーは動きのない表情をかすかにこわばらせた。

「――――セイバー、貴女、消えるつもりですか」
「迷っている暇は……ないはずです、ライダー。あなたは――あなたも、サーヴァントなのでしょう。ならば、マスターを守らなくてはいけない」

 それだけ言うと、セイバーは瞑目した。眠りを待つように――あるいは死に臨むように? それはどちらも大差無いとも思えたし、まったく違うともライダーには思えた。だがどちらにせよ、時間がない、それはセイバーの言う通りだ。そして自分は間桐桜のサーヴァント、その身に背負う使命は決して軽くない。
 そして、眼前の剣の騎士が定めた覚悟もまた。

「――では」

 それだけ言うと、ライダーは短剣を振りかぶり、セイバーの甲冑の胸元に突き立てた。よどみもためらいもなくそれは行われ――
 一瞬の閃光が洞窟内を走ったように思えたそのあと、間違い無くセイバーへなされていた膨大な魔力の供給が、跡形もなく断ち切られていた。実験は成功――だが、セイバーの外見に変化はない。属性の再反転も見られない。セイバーは未だ、漆黒の姿を保っていた。もちろん、彼女がかつての姿に戻ったとしても、それをもっとも喜ぶべき人物はもうどこにもいないが、ライダーは何の忌憚もなく、それを残念だと感じた。
 それでもそれを口にすることはせず、ライダーは短剣を持って立ち上がるときびすを返した。恐らくは贋作のこの短剣が、製作者の手を離れても効力を発揮するのかはわからない。士郎の手を切り取ってみる、という思考がちらりと脳裏をかすめたが、それはライダー個人にしても選択したくはなかったし、なにより彼に寄り添う騎士がそれを許さないだろう。これ以上、死人に鞭を打つような真似は避けるべきだ、と思って――ライダーはなるほど、と苦笑した。さっきセイバーが苦笑した理由がいま判った。ずいぶんと人間に――というよりも、かのお人好しに感化されたものだ。
 だが、それも悪くない。
 さあ、あとは一度、博打をするだけだ。何者ともしれない少年が数限りなく起こした奇跡だ、マガイモノとはいえ伝説にその名を秘す英霊たる自分がその程度の賭けに勝たずにどうする。
 そうして駆け出したライダーの背中に、今度こそ最後、セイバーの声がかかった。

「ライダー。桜と――そして凛を、よろしくお願いします」
「それは、サクラのサーヴァントとしての言葉ですか、セイバー」

 答えを知った上で、振り返らず、疾駆する足さえ止めず、ライダーは問うた。

「――いえ。……ふたりとも、私のマスターの、大切な人ですから」
「ええ。では、必ず」

 答えに満足し頷いて、――あるかなきかの笑みを顔に浮かべて、ライダーはさらに急いだ。震動はさらにひどくなっている。もうじきこの洞窟も崩れる。マスターの安否も、敬意を表すべき騎士王にその安全を請け負ったマスターの姉の死命も定かではない。なにもかもうまくいく保証などない――むしろ絶望的なことばかりだ、しかしどうだ、自分の思考はセイバーに士郎をとられたあの姉妹へなんと説明すればいいかに腐心しようとしている。そう思うと笑みはますます広がった。愉快だ、この世全ての悪、その生誕を前に、神代の英霊たる自分が案じているのは子供の色恋沙汰。なんて愉快なのだろう。

 これだから、世界はくだらなくもいとおしい。



   …



 まどろみの内に、声を聴いた気がする。


 遠く、水底から水面の音を聴くように、それは実感のない会話だった。

「……そっか。シロウは戻れなくなっちゃったんだね」

 心底残念そうで――悲しそうなその声は、誰ともしれない少年の心を、ひどくざわつかせる色を持って響いた。

「イリヤスフィール、貴女は――」
「うん。だって、これがわたしの役目なんだもん。みんな、それを果たしてるみたいに、わたしだってそれをしなきゃならないでしょ?」
「――――」
「でも――あーあ。せっかくシロウに魔法を見せてあげようとしたのにね。お兄ちゃんなのに、シロウは情けないなぁ――」
「       。        」

 二人の声が聴こえているはずなのに、届くのはほとんどがひとりの声。それは、一方の弱々しさを意味するのか――それとも、一方の、自分への近さを意味するのか。

「でも、駄目だよセイバー。最後になってもしセイバーがアヴェンジャーに獲り込まれたりしたら、シロウがせっかく頑張ったのも無駄になっちゃうもの。
 だから、門はわたしが閉じるよ――」

 そうして最後に。
 イリヤスフィール・フォン・アインツベルン――その名を持った少女は、兄でもあり弟でもある少年の身体に、永遠の別れを告げた。

 ――わたしたちふたりが長生きするコトなんてできない。

 その言葉に、自分は何と答えただろうか――もう、思い出せないけれど、言葉通りの結末になってしまったことが、なぜだかひどく申し訳なく、彼には思えた。
 ああ、申し訳ないといえば。
 自分にはまだ、そういうふうに思わなければならない人がいたような気がするけれど。
 何よりもそれが誰だか思い出せないことがいちばん、申し訳な――




 Sparks Liner High, after/Saber.




 かつて、崩壊を目の当たりにしたことがある。

 目前のそれは、容易くセイバーにその過去を連想させた。
 あの丘で見た終末と、この湿った穴蔵で迎える結末。
 どちらが上等かというなら、たとえ日が差さない暗黒にいるのだろうと、こちらを選ぶ。理由はいくつかあった。だが一番大きなものは、自分がいま、この終わりを受け入れているということだろう。
 間違った。
 間違った。
 取り返しのつかない間違いをしでかした。
 だが、もう取り戻せない。
 何より不思議と後悔が湧かない。それがこの身に巣食う呪詛による影響なのだとしたら、なるほど、必要悪という言葉の意味も――少し違うのかもしれないが――よくわかる。
 そういえば――とセイバーは思う。シロウはよく、わたしのことを生真面目すぎると評していた。ならば今のわたしはちょうどいい、のだろうか。そう考えると、少しだけ可笑しかった。

「――――」

 そして、呼吸を止める。
 シロウ。
 隣にいる少年だったモノには夢があった。正義の味方になるという夢だ。誰もが苦しむことのない、ありえない未来を夢想して、それでもずっとひた走ってきて、それだけのために築いた自分なのに――それを彼は、結局裏切ってしまった。
 それは、自分にはできない決断だった。彼女の場合は少年と異なり、そもそも状況がそんな真似を許さないという問題もあったが、それ以前に彼女自身が己を裏切る事がどうしてもできなかったのだ。しかし、少年にはそれができた。なぜか?
一度決めた事は、最後までやり通す=\―そう告げた少年の目に、嘘はなかった。だから規模の大小こそあれ、きっと自分と少年の覚悟の違いはそんなにない。
 ただ、彼はそれよりも大事なものを――自分の全てを裏切ってでも守らなければならないものを見つけたというだけのことだ。
 しかしその先に何があったのかは、もうわからない。
 自分が全力でその道を阻み、結果少年はもうどこにもいなくなってしまったからだ。
 ……眠ったように動かない少年の身に、今はもう傷はない。彼の中にある彼女の鞘の力である。だが万物からその担い手を守護するその宝具をもってしても、その少年の失われた自己を繕うことはできない。
 だから、傷を癒したのには意味はない。奇跡を願ったわけではなく、自らがつけたその傷を見ることに辛くなったわけでもない。どの道既に崩壊は本格的に始まっていて、彼女と少年が横たわる空洞においても既にあちこちで落盤が起きている。遠からず自分たちは岩に潰され、少年は当然として自分も消える。魔力供給ももう無く、根源への道も先程閉ざされた。なんとなれば宝具を用いて破壊するつもりだったのだが、それはあの白い少女が見事に果たしたようだ。
 ついでというのはひどいかもしれないが、あのふたりはどうなっただろう――セイバーは目を閉じ、彼女の主の想い人と友人を思った。あのいけ好かないサーヴァント、ライダーはうまくやっただろうか。まさか、脱出できずにいるなどということはあるまいが。
 無事なのだろう、きっと。セイバーは無理にでもそう思うことにした。彼女の主は、誰もが笑って暮らせるハッピーエンドを捨てたのだ。文字通り、自身を切り裂く思いで。そこにいたる仔細を知るわけではなかったが、そうまでして求めた親しい人々の笑顔を、彼がそれを見ることを永遠に適わなくした自分が祈る。なんとも傲慢だが、そういった自身の変質にももう慣れたので、セイバーは胸にかすかに生まれた痛みを無視することにした。
 どうせもうじき何も感じなくなるのだ。それが少し早まっても、文句は出ないだろう。
 しかし――それにしても、死までの刻限、それはいかにも永い。
 だから、益体も無いことで時間を潰そうと思った。

「――――シロウ。だいたい貴方は、初めて逢ったときからおかしなマスターだった」

 規則正しいその呼吸を耳にしながら、さらに言葉を募らせる。

「魔力供給は無いし、碌に魔術も使えない。そのうえ聖杯戦争についてもまるきり無知で、挙句の果てには私を婦女子と定めて危険から遠ざけようとしたり――あまつさえ、バーサーカーからかばおうだなんて、無謀なことをしでかしたり」

 言葉にする内に胸に生じてきた熱いものを、彼女は怒りだと断じた。

「凛に対してはやりこめられるばかりで、あなたの安全を思ってしたわたしの提案を無碍に断ろうとしたり、マスターの自覚も無くひとりで町をうろついたり……!」

 少年は動かない。

「己の危険を顧みるということをせず、またそれを改めようともしなかった。いつだって自分より他人を重視して――いえ、あなたには最初から自分などいなかった、それが私にはとても危く思えて――正直、あなたを戦いの場に出さなければならないのが、不安だった」

 涙はでない。彼は敵として自分と戦い、剣士として自分に勝ち、しかし敗れた。
 英雄とはつまり、数多の敗北の上に立つものであり、死の上に立つものである。己の全てを出し尽くし、なお届かない相手をたくさん見てきたし――殺してきた。

「けれど、貴方は真っ直ぐだった。あなたの作る料理はとても美味しかったし、ひたむきに他人のために尽くそうとするあなたの姿は、好ましかった」

 何より自分はアーサー王、祖国に殺され、祖国を滅ぼした王だ。敵となればかつての騎士たちも、息子さえも斬り捨てた。
 それが今さら、彼一人のために、どうして泪を流せるだろう。

「――そう、あなたが間違った、シロウ。私に、ひとりで挑むべきではなかった」

 ――崩壊は既に決定的なまでに進行している。
 落石の一つがセイバーの肩を打ち、士郎の下半身を潰した。
 それでも士郎は――かつて衛宮士郎だった少年は物言わぬままだった。電気的な反射として身体が痙攣しても、閉じられた瞼が開かれることは無く、ただ彼の両足を奪った岩石の下に滲み広がる血液だけが、彼の命を示す証だった。
 それでも、セイバーは独白を止める事ができない。

「だか、ら――シロウ、あなたが、こんなふうになっているのは、おかしいと、思う」

 憐憫などありうるはずもない。
 胸を占めるのは、ただ空虚と、そして疑問だけだった。
 なぜ生き残っているのか。
 なぜここにいるのか。
 こんな結末は正しくないはずだ。シロウは――衛宮士郎にはまだやらなければならないことがあったはずだ。桜を凛と共に支え、日常に戻り、日々を謳歌する――そういう当たり前のことを、彼はこれからもしなければいけないはずなのに。

「そんな――こん、な、莫迦な」

 悔やまなければいけない。
 それができないのならば、当然として少年の死を悼むことさえあってはならない。何の痛痒も無く、今までずっとそうしてきたように、呼吸のようにその死を受け入れなければならない。

「うそ、だ――わたし、私は」

 士郎の身体に覆い被さる。少しでもその存在が長引くように。なぜなら彼女はサーヴァント、マスターをその身命をとして守る存在である。自らより早くマスターを亡くすことなど騎士の名折れ、許しがたい屈辱だ、決して看過するわけには行かない。
 だから――おかしい。
 こんなふうに思っている自分が、理解できない。

 士郎が最期まで視ていた存在・・・・・・・・・・・・・が自分であることに・・・・・・・・・喜びを感じて・・・・・・なんて、いるはずがないし、あってはならない――!

 その音の無い慟哭に呼応するように、一際大きな震動が、洞穴全体を走った。恐らく、その構造の中核をなすべきモノが決定的に破綻したのだろう、そして、

「――あ、」

 それが最期の瞬間であることに、彼女は正直多大な安堵を覚えた。幾多の戦場において彼女を救い、また勝利に導いてきた直感――未来予知じみたそれが、彼女の命に警報を鳴らしている。鋭い岩石が今度抉るのは脳髄か――それとも心臓か。恐らくこれが最期だ――ぼんやりと思う。言うべき言葉はあるか。最後の最期、主の前で醜態を晒した自分。弁解の言葉はあるか?
 そんなもの、あるはずもない。
 だから潔さをとりつくろって、静かに目を閉じた。

 だから、体勢を入れ替えられたことにも、とっさに反応ができなかった。

「――、――、……え?」

 鈍い音を聴いた。
 人が死ぬ音を聴いた。
 体を入れ替え、セイバーの、彼女の小柄な身体を守るようにして覆い被さっているその少年の顔を見た。
 間近で、視線が交錯して、セイバーは反応できないまま、彼の胸を貫き潰したせいで軌道が逸れた、一抱えほどの大きさの鋭い鋭い落石から難を逃れた自分の身体を見た。

「あ――シロウ?――だい、大丈夫ですか……?」

 間抜けたことを呟く。
 大丈夫なはずが無い。大丈夫な人間なんているはずがない。脊髄を断絶されて片肺と心臓を潰されて肋骨が四本も開放されていて臓器のほとんどを零してしまった人間が大丈夫であるはずがない。
 そもそも人間衛宮士郎はとうに死んでいるはずだ。彼という人格、魂は肉体から剥離されて世界から零落した。奇跡を何ダースつぎこんだって無くなったものは還らない。
 だからそれは肉体に残された意思の残滓だ。
 いつだって他人を守ろうとする思い。
 最期に強く思ったセイバーという生真面目な少女。
 それは恋慕ではなかったにせよ、たしかに彼女は衛宮士郎にとって、大きな存在だったのだから。

「セイ、バー」

 それだけ。
 彼女の身を案じるでもなく、守りきれないことを謝るでもなく、その名前だけを遺して、その肉体も終わった。

「――ああ、私、は」

 力を失い崩れる身体を、そのずいぶんと重みを減らした身体を受け止めて、セイバーはようやく理解した。
 彼の剣になると誓った。その誓を果たせなかったこと。
 何よりもまず、それを謝りたかった。悔いていると知るべきだった。
 敵として出会ったことなど問題ではない。誓約を違えた事が問題だった。あの約束は神聖なもので、彼もまた、自分が聖杯を手に入れるために協力すると誓い、事実その為に危険を冒した。その信頼に応えようと思った、しかし挫けざるを得なかった、だから、
 ひょっとしたら戻れるかもしれないなんて、そんな希望を抱いていたから、こんな中途半端をする破目になった。
 ――なんて、無様な。
 今さら気付いた所で全てが遅い、守るべき主は間抜けな従僕を庇って死に、間抜けは何処までも間抜けで死の淵に立ってようやく己の間違いに気がつく始末。そしてなによりももう、立ち上がる気力も無い自身とあと数秒で死に至る現実。魔力も体力もある、生きようと思えばまだ生きられる、近場にはまだ桜がいる、再契約すれば生き延びられる――莫迦な、シロウを殺したわたしと契約などするはずがない、そもそも再契約などそれこそ死んでもしたくない、ああ、なぜ今ごろ気付いたんだろう、わたしは――

 自分で思っている以上に、このとぼけたマスターのことを気に入っていたのだ。

 首筋に目を閉じて眠るように静かな彼の死に顔がある。セイバーはかすかに顔を俯けて肩を動かし、位置を調整した。
 唇と唇を重ねる。そこには温もりがあったが、少年らしい感情の何ひとつさえ、セイバーに伝えてはこなかった。当然だ。士郎は死んだのだから。いや、違う、わたしが守りきれず、彼を殺した。
 だが今はもう謝れない。亡骸に対して、どんなものでさえ、言葉などかけられるはずもない。
 異性を異性として意識しての口づけはセイバーにとって初めての行為であり、また最初の行為には意味があり、呪いがある。口づけは誓約を意味した。そして最初の口づけ――それも乙女の――ともなれば、効果は覿面だろう。
 それは苦し紛れの祈りに過ぎない。
 それでも祈った――真摯に。どこか、どこでもいい、この無限に連なる世界のどれかでいい、今度こそ自分は、彼の剣となる誓いを全うする。絶対に――絶対にだ。何を置いても、その誓いを貫くのだ。たとえ己の愚かさを知らず、彼の強さを知らないとしても、今度は間違えない。剣の騎士のサーヴァント、ブリテン王、なんでもいい、あらゆる自分の称号に賭けて誓う、だから、だから、


 ――シロウと、もう一度逢わせてほしい。




 死にたどりつくまでの永遠の刻限、あの丘で停まった自分とは違う、今度こそ違えてはいけない誓いを胸にして、ずっと祈り、願い続ける。何もかも忘れても、魂が憶えているように。己の愚かさを、今この瞬間の直向さを、強く、刻み付けるように想う。









The End/be continued to “Fate”.












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