Turning Fate/The end for beginning



episode-02
〜腐蟲暗躍〜


◆    ◆    ◆


 間桐臓硯は腐っている。

 その目、その口、その鼻、その耳、その頬、その額、その首、その肩、その胸、その腹、その腰、その股、その腕、その脚、その骨、その臓物、その脳味噌、その心根、その魂魄……全てが腐り続けている。
 生きながら腐り続け、腐りながら生き続ける怪老。
 町に充満する聖杯の残留魔力を心地よく感じながら、妖怪はふぇっふぇっふぇ、と気味の悪い笑いをその腐った唇から漏らした。
 腐老の身体を構成するは、夥しい数の蟲。
 皺だらけの皮膚という風船に、必要最低限の血と骨と臓物、そしてありったけの蟲を詰め込み、臓硯は今にも破裂しそうに嗤う。
「よい具合じゃ。よもや前回の戦いでここまで濃度が高まってくれようとは……しかも、敵と呼べるだけの敵はおらず、器は二つもある」
 傍観に徹し続けた甲斐があった。不肖の孫を一人、失いはしたが、そのような些事に気を取られる臓硯ではない。
 魔術回路も持たぬ、はなから何の期待も抱いていなかったマキリの後継者。姑息に立ち回ることにだけは長けていたようだったから、よもや生き残るのでは? とも思ったが、出来損ないは所詮出来損ない。分相応な最後だったと言えるだろう。
 だが、今代における正統なマキリの後継が途絶えようと、自分が存在し続ける限りマキリは不滅だ。
 臓硯の血を引く者がマキリの後継なのではない。臓硯の意のままに働き、事を成し、死んでいく者こそがマキリの後継なのだ。
 今回の聖杯戦争では、臓硯の予想外だった出来事が二つ起こった。
 一つは、十年前と同じく完成した聖杯を、最後まで残ったであろうマスター&サーヴァントが再び破壊したこと。そのせいで現在冬木市、とりわけ柳洞寺には聖杯戦争直前に程近い量の魔力が充満している。
 何しろ、二回も連続してあれだけの量の魔力が行き場を失ったのだ。本来ならその都度失われ、およそ六十年かけてゆっくりと再び貯まるはずだったものだが、行き場がもはや無いのだからどうしようもない。冬木の聖杯の色に染まってしまった魔力は、この土地を彷徨い続けるしかないのだ。
 そして、もう一つ。
 聖杯に混入していたはずの悪意が、急激に弱まっている。
 三度目の聖杯戦争のおり、アインツベルンが投入した究極の毒素、復讐者《アベンジャー》の悪意が、大聖杯の中から消滅しかかっているようなのだ。
 あの毒が、臓硯にとっての最後の不安材料だった。
 アレは全てを憎んでいる。この世の全てを呪い殺してもまだ止まらぬだろう悪意に、臓硯が用意した紛い物の器ではおそらく耐えきれまい。アレに抗するには、初めからそう造らない限りは無理だ。
 そうして、器の意識がアレに取り込まれてしまえば、それは途端に自分を殺そうとするだろう。
 最大にして最後の障害……それが勝手に消えてくれるというのなら、好都合だ。現在柳洞寺に充満している魔力で、充分に事は足りる。協会や教会が勘付く前に、速やかに遂行せねばならない。
「第三法へ至る道……ようやくだ。五百年も待たされたが、ようやく我が願いが叶う時が来た」
 臓硯はその皺だらけの顔に喜悦の色を浮かべ、己が生涯に想いを馳せた。
 永い、長い年月を越え、果たして幾度その身を換えたことか。しかし、それももうすぐ終わる。
 蟲と化した肉体が持つ偽りの不死ではなく、魂そのものの不死。
 自分は、ようやくそこに到達できるのだ。そのことに、老魔術師は我を忘れて狂喜した。
 何故自分がそれを求めたのか、何故聖杯に、何故第三法という魔法に挑もうと思ったのかを、彼はもう覚えてはいない。何が手段で、何が目的だったのか。
 それは遠い昔の話。
 マキリ臓硯が腐るよりも、はるか昔の話だったから。
 故に、腐ってしまった間桐臓硯が、覚えているはずのない話だった。





◆    ◆    ◆





「あれ、イリヤちゃん」
「あ、サクラ」
 遠坂邸へと続く坂道を、下ってきたのはイリヤスフィール・フォン・アインツベルン。上ってきたのは間桐桜。
「遠坂先輩のところに行ってたの?」
「ええ。いつものあれよ、健康診断」
 イリヤと凛が日々死の危険をおかしながら術式に挑んでいることは、自分達二人以外には完全に秘してある。魔術とは縁もゆかりもない大河は当然のこと、言えば必ず止めに入るか、変に首を突っ込んで来るであろう士郎にもだ。
 そして、アインツベルン、遠坂に続く最後の御三家――マキリを受け継ぐ桜にも、話すつもりはない。
「サクラ、これからリンに用事?」
「ちょっとね」
「……う〜ん。じゃあ素直にもう少しゆっくりしてくれば良かったかな」
 イリヤとしては、早々に衛宮邸に帰宅。桜の師事の下、入念かつ万全に整えられた態勢でもってあの“あかいあくま”を迎え撃つつもりだったのだが、これはあてが外れてしまった。
「あ、じゃあすぐに済むと思うけど、もう一回一緒に行く?」
「パス。この坂を上るのは日に一度で充分よ」
 間髪入れず即答。
 基本的に歩き回ることは好きなイリヤだが、術式の直後、疲れ切った身体に敢えて鞭を打ちたがるほど酔狂ではない。
 散歩というのは、少なくとも肉体的・体力的にある程度の余裕があるときに行うから意味があるのだ。疲れているときに行っても、疲れが増すだけである。
「それじゃ、先に帰って待ってて。材料、足りないものは買っておいたから。ローリエとオリーブで良かったんだよね?」
「さっすがサクラ! タイガじゃこうはいかないわ。彼女、何頼んでも自分の好きなものしか買ってこないし」
 それじゃまるっきり子供だが……悲しいことに事実だった。
 調理場に立ちもしなければ、頼まれた買い物さえろくにこなせない、それが藤村大河である。いかなフォローの達人・桜とて、「そんなことないよ」の一言すら言えず、ただあはは、と乾いた笑いを浮かべるしか出来ない始末。
「それはそうと、遠坂先輩、今日は何時頃に来るって言ってたかな?」
「これから本人に会いに行くのに、わたしに聞く事じゃないと思うけど……それとも、なに? 姉と妹で、まだ遠慮し合ってるの?」
「え? あ、別にそういうのじゃないのよ。ただ、どうなのかな、って」
 微妙に顔を逸らしながらそう言われても、全く説得力がない。
 それを見て、「やれやれ、仕方ないわねぇ」とでも言いたげに、イリヤは溜息をついた。





◆    ◆    ◆





 遠坂凛と間桐桜が、血の繋がった実の姉妹であることをイリヤが知ったのは、五ヶ月ほど前。義理の兄、間桐慎二の死と、聖杯戦争中に彼が行った所業に対する負い目から立ち直れずにいた桜を、二人で見舞った時のことだ。
 なにしろ、慎二にとどめを刺したのは他でもないイリヤである。イリヤ自身はそのことに何ら罪の意識など持ち合わせてはいなかったが、何かと自分の世話を焼いてくれる桜がそのせいで落ち込んでいるとなれば途端事情は変わってくる。
 しかし、仇本人から義兄の最後を告げられても、桜はイリヤを恨むでもなく自分を責め続けた。
 ――自分が、義兄にマスターの力を譲り渡したのが全ての原因だ――と、そう言って。
 生い立ちのせいか、桜はひどく内罰的な性格をしている。何かあっても、全ては自分が悪いのだと自身に言い聞かせて、すぐに殻の中へ引き籠もろうとしてしまう。今回のことも、そうやって独りでグジグジと傷口に塩を擦り込むかのように膝を抱えていたわけだが、そこで、ついに凛が爆発した。

『アンタ! それでもこのわたしの妹なの!!?』

 一瞬、時が止まった。
 桜が間桐家の実の子ではないことはイリヤも知識として知っていたが、没落した名家のことなどそれ以上は特に興味もないことだったし、敢えて知ろうとも思わなかったため彼女に関する資料は放ったらかしにしておいたのだ。しかし、まさかこの二人が実の姉妹だったとは……
 突然のことに呆けたような顔をしているのは、桜もまた同様だった。
 ずっと姉のことは知っていた。一つ年上で、嫌でも耳に入ってくる同じ学校のアイドル的存在。互いに姉妹であると知りつつも明かせず、ただ、内気な後輩とそれを気にかけてくれる世話焼きな先輩として接する日々。
 全てに恵まれている女性。後ろのことなど、振り返りもせずに、ただ前だけを見つめている眩しい存在。
 恨んだこともある。憎んだこともある。
 祖父や義兄の言いなりに、蟲に蹂躙される日々をおくる自分は、あの人と比べてなんて惨めで汚い存在なのだろうか、と。
 それでも……もしかしたら、いつか助けに来てくれるのではないか。いつかこの昏い穴蔵に手を差し伸べ、自分を引き上げてくれるのではないかと夢見て……
『……なら』

 ――でも、それはけして叶わぬ夢だった――

『なら、なんでもっと早くわたしを助けてくれなかったんですか、姉さん!!?』
 叶わぬ夢だったからこそ、我慢できた。それなのに、どうして今になってこの人はこんな残酷なことを平然と告げてくるのだろう?
 それは、初めて桜が漏らした心の真実だった。
 恵まれた姉を妬み、恨み……それでも好きで、助けて欲しくて――ただ、ただ伸ばした手を掴んで欲しかった……それだけだったのに。
『五月蠅い!!』
 なのに、そんな妹の積もり積もった慟哭に対して、姉は情けもかけなければ容赦もしなかった。
『さっきから黙って聞いてれば、自虐と泣き言ばかりウダウダウダウダと……情けないことこの上ないわ! その挙げ句、何? なんで助けてくれなかった、ですって? ふざけるんじゃないわよ陰険根暗女!!』
『い、陰険ねく……こ、猫被りの欺瞞優等生がいったい何様のつもりなんですか! 人の気も知らないで……大体、助ける気もないのならなんでいっつも弓道場に顔を出してたんです!? 先輩目当てですか! ……そうなんですね? 何もかも持ってるくせに、今度はわたしから先輩まで盗ろうって魂胆なんですね!? この泥棒猫! もうわたしと先輩の家になんて来るな!!』
『ハンッ! 何を言うかと思えば……自分に魅力がないことを棚に上げて他人様を泥棒猫呼ばわり? ちゃんちゃらおかしいわね。なに? アンタのそのエッチィ身体はただの飾り? しかも、わたしと先輩の家ぇ? だいたい、朝晩ずっと一緒にいて告白の一つも出来ないなんて無様にも程があるわ。それとも、黙ってても想いに気付いてくれるものだとか夢見てた? 甘すぎるのよこのフラレ根暗!!』
『なっ……フラレたのはどっちよ!?』
『どっちもよ!!』
 売り言葉に買い言葉とはよくもまぁ言ったものだ。
 呆然とするイリヤを尻目に、言わなくてもいいことや無意識のうちの本音までさらけ出しつつ、二人はさらに加熱していく。
『……ま、吐き出したいことがあるなら、素直に全部吐き出しちゃうのが一番よね』
 気を取り直し、そう言ってウンウンと納得した後、二人に気付かれないようにそっと部屋を出た。
 その後、二人がどうなったのかは知らない。
 ただ、帰宅した際に、
『あら? イリヤちゃん、何か良いことでもあったの? そんなに嬉しそうにして』
 大河にそう言われたことが、ひどく印象的だった。





◆    ◆    ◆





 あれから五ヶ月。対外的にはそれまで通りを装っている凛と桜だったが、二人きりの時には桜が凛を控え目ながらも「姉さん」と呼んでいることを、イリヤは知っている。
 自分を好きでいてくれる人のことは好きだし、好きな人と好きな人が仲良くしているのも嬉しい。イリヤの対人思考は実に単純である。よって、凛と桜が仲良くしているのなら、それだけで喜ばしい。
 だから、二人ともまだ色々と思うところもあるだろうが、出来る限り仲の良い姉妹でいて貰いたいのだ。
「よーし! なんか悩みとかあるならわたしが聞いちゃうよ?」
 こういう時のイリヤは、見た目どう見ても十歳くらいだというのに変に頼もしい。普段は「お兄ちゃーん♪」とか言って士郎にべったりなのに、ここぞという時にはまるでみんなの姉であるかのように振る舞う。
(これじゃわたしの方が年下みたい)
 桜がそう感じてしまうのも、無理はない。
 年上のような年下、悪魔のような天使……イリヤスフィール・フォン・アインツベルンは、そんな矛盾を内包した不思議な少女だった。……どこかの宝石臭い貧乏性とは矛盾の表現法が大違いである。
 それにしても、と桜は思う。こうして自分のことを心配し、背中を押してくれる人がいるというのはなんて幸福なのだろう。いや、今まではただそのことに気付いていなかった。気付こうともしなかっただけだ。
「ううん、違うの。大丈夫よ。遠坂せんぱ……ね、姉さ……んとはうまくいってる、もの。本当に、大丈夫」
 どうにも、人前で姉を姉と呼ぶのは慣れていないためか恥ずかしい。
 他に事情を知っているのはイリヤだけなのだし、周囲を変に混乱させ、気を遣わせるのもなんだからこのことはまだ秘密にしておこうと言いだしたのは他ならぬ桜本人だというのに。
「まだ慣れないんだ。別に隠さなくたっていいと思うんだけどなぁ」
「そういうわけにもいかないのよ」
「ふーん。それってあれ? セケンテーとかいうやつ?」
 日中、遠坂邸に出向く以外は衛宮邸か藤村邸でゴロゴロとテレビばかり見ているためか、近頃のイリヤは覚えたばかりの日本語をやたらと使いたがる。こういったところは外見相応に子供らしい。
「世間体……とはまた違うんだけど……あ、もう行かなくちゃ」
「そうね。空模様も怪しいし。それじゃ、先に帰ってるからね」
「うん。じゃあ、ジャガイモを皮付きのまま、よく洗って一口大に切っておいてくれるかな?」
「了解。下茹では?」
「それはまだ大丈夫。あ、鶏もも肉を叩いておいて」
「わかった。リンとタイガがシロウを叩くかのように叩いておくね」
「イリヤちゃん……それ、叩きすぎ……」
 眉を寄せ、神妙な顔つきで鶏肉の心配を始める桜に笑顔で別れを告げて、イリヤは坂道を駆け下りた。後ろから「あんまり叩いちゃ駄目よー」という桜の不安気な声が聞こえてくるのがおかしくて、スキップでも踏みたい気分だった。
 雨の前の、独特の臭いが辺りを漂いだしている。この調子だと、あと一時間もしないうちに降り出すだろう。
 イリヤは、雨が降る前のこの臭いが好きだった。ジメッとした湿気などは鬱陶しいが、この臭いだけは別だ。この臭いに覆われた町は、何故かいつもより優しく感じられる。
 この町が好きだ。
 自分を好きでいてくれる人達が笑って暮らしている町。自分を道具としてしか見なさなかった、灰色の故郷とは全く違う、優しい町。
 士郎がいる。凛がいる。桜がいる。大河がいる。藤村組のみんながいる。
 本当は、あと二人ほどいて欲しい人達がいたが、しかしそれは叶わぬ夢。ならば、せめて世界を守護する立場にいるはずの彼らは今も自分達を見守ってくれているものと信じたい。
 この幸せな時間を大切にしたい。そう思える今の自分が、以前の自分よりもずっと好きだと、イリヤはそう思った。



 ……と、不意にその軽やかな足取りが停まり、イリヤの白く細い指先が、素早く宙を舞っていた何かを捉える。
「……あ〜あ。せっかく人が良い気分でいたってのに、どうしてこう無粋なのかしらね。嫌になっちゃうわ」
 そう言って、何かを摘んだ手に力を入れる。
 プチンッと、呆気なくそれは破裂した。
 一匹の羽蟲。
 何処にでもいそうな、しかしどんなに分厚い昆虫図鑑を開こうとも載っているはずのない蟲の残骸を、興味なさ気にイリヤは投げ捨てた。
 折角の雨の臭いに、かすかに混ざる腐臭。
「Funf hundert Jahre waren genugende Jahre, um Leute zu verrotten……!」
 苛立たしい。
 好きなものを穢されるのは、非常に不愉快だ。
「Wenn Sie verrotten wollen, verrottet es frei.」
 冷たい、氷雪のような怒りを虚空へ向け、イリヤは家に帰り着くまでにはこの怒りがおさまってくれるよう努めることにした。
 今日の夕飯は精一杯美味しいものを作ってみんなの度肝を抜いてやるのだ。
 なら、美味しいものを美味しくいただくためにも、一分一秒でも早くこんな気分とはさよならしたい。
 気を取り直し、最近CMでよく流れている流行の歌を口ずさみながら、雨の臭う町を軽やかにスキップ。
 嫌なことなどさっさと忘れられるよう、イリヤは自分の料理に驚愕する凛の顔を思い浮かべながら、衛宮邸へと帰路を急いだ。






〜to be Continued〜






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