Turning Fate/The end for beginning



episode-03
〜姉妹の情景〜


◆    ◆    ◆





「え、と。こっちがローズクォーツとアメジスト、それでこっちの箱が結界用の聖石と魔晶石です」
「別に今日じゃなくても良かったのに。イリヤと約束あったんじゃなかったの?」
「いえ、ちょうど向こうに用事もあったから。それにイリヤちゃんにはさっきそこで会ったから大丈夫です」
「わざわざ悪かったわね、使い走りみたいな真似させて。今お茶煎れるから、ちょっと待って、てー……むー……むっ? ……んー……」
 澄んだ光沢を放つ紅水晶と紫水晶、熟成された魔力の波動を放つ秘石を一つ一つ手に取りながら、うんうん唸る姉の姿に苦笑し、お茶は自分で煎れた方が良さそうだと桜は席を立った。




◆    ◆    ◆





 席を立った桜が向かった先は、今まで居た凛の部屋の隣室。現在、そこはほとんど紅茶専門の給湯室になっている。
 いつもお金がないお金がないと言ってる割には、彼女の姉の紅茶に対する力の入れ様は尋常じゃない。紅茶専門店もかくや、といった揃えぶりだ。しかも、この半年間でさらに加速度的に増えていっている気がする。
 まず手始めに、自分と姉の分のティーポットとティーカップにお湯を注ぎ、あらかじめ温めておくことを忘れてはならない。これを忘れたが最後、大目玉を食らうこと必定だからだ。
 どうにも、遠坂凛にとって紅茶の恨みは時に肉親の情にも勝るらしい。五ヶ月前、まさか仲直りした直後に紅茶の煎れ方で延々六時間も説教されるとは思いもよらなかった。あの時はいつの間にか消えていたイリヤを少々恨めしくも思ったものだ。
 紅茶専用戸棚(こんなものが在るだけでも異常だと思う)の、スリランカの段からディンブラのケースを取り出す。これをストレートで飲むのが、最近の桜のお気に入りだった。
 姉の分は……ルフナにしておこう。砂糖をあまり入れたがらない彼女には、頭脳労働中はなるべく茶自体に甘味のあるものの方が喜ばれる。本当は甘党なくせに、まったく変なところで意固地だ。
 先輩後輩の関係の時には知り得なかった姉の内情に笑みを漏らしつつ、隣室に少し聞き耳を立ててみる。
 隣からは、ああでもないこうでもないといまだ唸り声が続いていた。
 紅水晶と紫水晶は、何処か名のある霊地で採掘されたものらしいので、特に問題はないだろう。問題なのは聖石と魔晶石の出来具合だ。教会で洗礼を受けた聖法具の類である聖石と、無色無属性の純粋な魔力のみが封入された魔力バッテリーたる魔晶石は、結構な割合で粗悪品が混ざっているらしい。
 間桐家の魔術以外、桜は根本的に魔術には疎い。従って、凛のような宝石魔術のスペシャリストならば朝飯前の、秘石の類を見ただけでその成度、練度を測るなどということは到底出来ない芸当だった。今回のように、頼まれて魔術用の道具を受け取りに行くことはあっても、中身に関してはノータッチなのだ。
「もうちょっと、姉さんを手伝えればいいのだけど……」
 義兄の死後、間桐の屋敷にはそれこそ寝に帰るだけのようなものになっている。姿を見せない祖父に対する懸念はあったものの、あまり考えすぎて周囲に心配をかけるのは嫌だったので、敢えて考えないようにしていた。それにあの祖父のことだ。自分にはもう見切りをつけた可能性だって充分にあり得る。
 そうなると、自然衛宮邸や遠坂邸に居る時間が多くなるわけだが、桜のその辺の事情をまったく知らされていない士郎は、現在一人前の魔術師を目指して修行中。凛とイリヤは、時折教会に新しく赴任した神父に協力して聖杯戦争の後始末に尽力している。……だと言うのに、自分だけ何もしないでいるというのはあまりにも申し訳ない。不甲斐ない。情けない。
 今までずっと間桐の家に振り回されてきた自分を労り、出来るだけ魔の世界と関わらせないようにと気を遣ってくれている姉の優しさは素直に嬉しい。しかし桜とて経緯はどうあれ魔術師なのだ。その事実は今更覆しようがない。
 どんなに目を背けても、マスターとしての責務を放棄し、その結果多くの人を傷つけた罪が消えてくれるわけではないのだ。
 自分は罪人だ。罪人ならば、罪は贖わなければならない。
 その旨を伝えたなら、姉はまた『内罰的だ』と言って自分を叱るだろうか?
 ティーポットの湯をあけて、茶葉を適量入れ、湯を注ぐ。蒸らしの時間を計りつつ、再び自問自答を繰り返す。
 あの頃はあれほど人の優しさを求めていたくせに、いざ優しくされると今度は申し訳なくていたたまれなくなるのだから、人間なんてまったく自分勝手な生き物だ。
「……こんな風に考えてしまうから、内罰的って言われるのかしら」
 紅茶の香りが鼻腔をくすぐる。
 要するに、幸せすぎるのだ、今の自分が。
 今までとは比べようもないくらいに幸せだから、本当にこれでいいのか不安になる。誰かの犠牲に上に成り立つ幸福など、果たして許されていいものなのだろうか、と。
 今ならわかる。そう考えることがせいぜいの自分では、自ら率先して他人のための犠牲になろうとする彼の人と並び立つなど最初から無理だったのだ。
 今でも衛宮士郎のことを好きかと問われれば胸を張って好きだと言える自信はある。だが、振り向いて貰える自信は完全に喪失した。
 彼が、今はもう居ない彼女に感じた美しさ。自分がそこに到達することは永遠に無いだろう。
「わたしはわたしで精一杯……出来ることは、お料理したり、こうしてお茶を煎れることくらい……か」
 見も知らぬ誰かのために剣を振るうことも、身を盾にすることも、あまつさえ犠牲になることなんて、自分には出来ない。
 ちっぽけな自分。自己の幸福のために犠牲になった人達のことを儚みつつも、しかしそれ以上のことは何も出来ない自分。
 姉は言った。『まずは自分が幸せになりなさい』と。
 それは正しいと思うし、自分の幸せを考えることが出来ない者が他人の幸せをどうこうしようなど烏滸がましいとも思う。
 ……けれど、それでも彼や彼女の選んだ生き様は、一つの人の理想、その究極だ。哀しいほどに美しい、本来ならば在るはずがないからこその理想。
 故に彼女は世界に選ばれた。人ではない、英雄として。
 ならば、彼もいつかは英雄と呼ばれ、世界の守護者として此処ではない何処かで永遠に守り戦い続ける宿業を背負わされるのだろうか?
 ……と、そこまで考えて桜は我に返った。
「……あ、いけない」
 蒸らしはタイミングが重要。短ければ茶葉の成分が充分に抽出されず渋みの強い味となり、長すぎると今度は味も色も濃くなりすぎてしまう。
 ティーポットを軽く振り、中身をなるたけ均一に。
 茶漉しを通して、それぞれのティーカップに注ぐ。
 姉のルフナ、自分のディンブラ。香り、色、共に申し分ない。この調子なら、味の方も上々だろう。
 隣室からの唸り声はまだおさまっていない。
 取り敢えず、今の自分に出来ることと言えば、唸り続けている姉にこの紅茶を供することぐらいだ。それで姉の心が少しでも安らぐなら、少なくとも自分と姉の世界にとってはまったくの無駄ということもあるまい。
 自分達に一片の幸福をもたらしてくれるであろう紅茶を盆に乗せ、桜は静かに扉を開けた。




◆    ◆    ◆





「むー……また腕を上げたわね、桜。まさかたったの数ヶ月でルフナをここまで上手に煎れられるようになるなんて……」
 しかし、悔しそうに喜ぶというのもなかなかに器用なことではなかろうか。
 今の凛の表情は、どう喩えていいものかとても表現に苦しむ。
 色を見、香りを確かめ、カップの縁に口づけ……口元は嬉しそうに綻んでいるというのに、眉は小難しそうに寄っている。
「ありがとう、姉さん」
 桜のその一言に、さらにおかしさが増すのが自分でもわかる。まったく難儀なことこの上ない性格だと、凛は自身に嘆息した。本当は、もっと素直に妹の上達を褒めてあげたいのに……とは言えこういった細かいところで自粛しないと、歯止めが利かなくなりそうで怖いのだ。
 桜のたっての願いで、自分と彼女が姉妹であることはイリヤ以外には完全に伏せてある。二人の関係を明かすと言うことは、即ち桜が間桐にもらわれていった理由をも明かすと言うことになるからだ。
 確たる理由を桜本人が話してくれたわけではないが、聞いた限りでは外道、外法に近い間桐の魔術をその身に叩き込まれてきた半生。それは余人、とりわけ想い人である士郎には間違っても知られたくないことなのだろう。
 そういった事情も踏まえて、凛は必要以上には桜と姉妹として接しないよう心がけている。流石に二人っきりでいる時は姉と呼ばれて喜色満面破顔の日々だが、それでも気をゆるしたが最後、時と場所を選ばず終始姉として振る舞ってしまいそうで……この問題は実に切実にして難解だ。
 その辺をイリヤは二人がまだ遠慮し合ってるのではないかと心配しているわけだが、こればかりは仕方がない。
「そ、それにしてもあれね。この町に派遣されてくる神父はどうしてああ揃いも揃って破戒僧なのかしら」
 こうやって、急激にそっぽを向いて話を逸らそうとする姉の姿に、最初は桜も大分戸惑った。しかしそれが単なる照れ隠しであることを知った今では、何の不安もなく微笑んでいられる。
「もう。そんなこと言ったら神父さんに悪いですよ。今回のこれだって、相当値切られたって言ってましたよ?」
 凛にとっては第二の師であり、前回の聖杯戦争の監督役であると同時に仕掛け人でもあった言峰綺礼は、戦争終結の際に衛宮士郎の手によって討たれた。そして、彼の代わりに教会から派遣されてきた老神父は、悪人ではないのだがやはり変人……と言うか、結局まともな神父ではなかった。
 聖堂教会に所属しながら魔術師でもある……これは聖杯戦争の戦場である冬木に派遣されてくる以上仕方のないことだとしても、今度の神父は教会用、協会用問わず、魔器聖具秘石等の格安流通ルートとの繋がりまで持っていたのだ。
 ……で、現在、凛とイリヤはそれを餌に聖杯戦争の後始末を手伝わされているというわけである。
 本日桜に教会まで取りに行って貰ったのも、そのいわば闇ルートで仕入れて貰った品々だったりする。綺礼の遺した書物や道具のほとんど全てを無断横領した凛だったが、イリヤの術式にはそれでも足りず、こうして安価高品質のアイテムを手に入れるために悪戦苦闘する日々を送る羽目になっていた。
『我欲ではなく、人のためにしているのですから、主の御心にも背いてはおりますまい』とは件の老神父の言。
「あら、人聞きの悪い。別に値切ったんじゃないわよ。手伝った分に見合うだけの正統な値段にしてもらっただけで」
 事実、凛は聖杯の残留魔力に引き寄せられてきた低級邪霊、魔物の類の相手を散々させられ、イリヤは報告書&始末書の山との格闘をこれでもかというくらい強いられているのだから、あの値段は妥当なもののはずである……と思う。
 ……確かに少し安すぎたかも知れない。いや、でもほんの少しだけだ。多分。
 最近、自分のことを非難めいた流し目で見ることすら出来るようになった妹の成長に感激しつつ、凛は確認の終わった宝石と秘石を箱にしまった。
「……ふぅ。今回も信じられないくらい高品質だったわ」
 目頭を押さえ、頭を軽く二振り。ツインテールが可愛く揺れる。
「お疲れさまです」
 妹からの労いの言葉を心地よく受け取り、うぅ〜んと思い切り伸びをして……はたと凛はその視線を止めた。
「思ったよりも早く済んだけど……どうやら間に合わなかったみたいね」
「?」
 その言葉に、桜も視線を凛に合わせる。
 二人の視線の先、窓の外は――既に雨。
「あっちゃ〜。すぐやめばいいんだけど……これは、流石に……」
「ちょっと、無理そう……あはは……はぁ……」
 本降り真っ最中であった。



「でも、こんなに宝石や秘石を集めてどうする気なんですか? 姉さん。聖杯戦争だって、もう終わったのに……」
 望みは薄いしイリヤにも怒られそうだが、一応三十分程は様子を見ようと二人はティータイムの延長を決定。衛宮邸には一緒に行くことになるが、途中で偶然一緒になったことにして構わないだろう。たまにはそんなことだってある。
 存外に少ない二人きりの時間。いい機会なので、桜はかねてより疑問に思っていた事を姉に聞いてみることにした。
「んー。どうにもね、不安なのよ……聖杯の残留魔力濃度が高すぎることもだけど、間桐の妖怪爺のことなんかもね。何かあったときのため、まぁ備えあれば憂いなしって言うじゃない?」
 事も無げに言う。これが普通の人間であったなら、桜の前では気を遣って間桐臓硯の話題になど触れはしないだろう。しかし、現状の問題点が労りの心などを凌駕すると判断した場合、凛は私情よりもその対策をあっさりと優先させる。
 桜に気を遣うことと臓硯の話題を避けることは、凛の中ではイコールではないのだ。それと、イリヤの術式のことも隠し通さなければならないので、桜の意識はなるべく強く他のことに向けておく必要がある。
 桜としても、好い加減この数ヶ月の間に姉のそういった性格は把握しているので、特にどうということもない。
 と、そこで一服。紅茶を啜り、なにやら物憂げな表情を浮かべる遠坂凛。それは学校でよく見られる、彼女の優等生としての仕草。
「ま、あとはあれね。わたしの趣味よ」
 溜息のように紡ぎ出された、悩まし気な言葉。
「趣味?」
 それが気になって、桜は何とはなしに聞き返していた。
 趣味……と言うと、宝石収集だろうか?
 なるほど。宝石を用いて魔術を行使する遠坂の当主なのだし、宝石収集は実益も兼ねた丁度良い趣味なのかも知れない。何より、丘の上の洋館に住まう優等生お嬢様の趣味としてはピッタリだ。
 だが、続く言葉はそんな桜の凡庸極まる予想を大きく上回っていた。
「そ。宝石を触ったり転がしたり磨いたりキスしたり抱いて寝たりしてると、な〜んか、こう、気持ちよくならない?」
 それを聞いた瞬間、脳が思考を止めた。
「……は?」
 ……何を言っているのだろう、この姉は?
 宝石収集でも鑑賞でもなく、触って転がして磨いて……そこまではいい。問題はその後だ。
 キスをして、抱いて寝る……そう言ったのだろうか?

 ――ワカラナイ――

「幾星霜もの間、地の底で眠り続けていた神秘の力。自然霊すら宿したソレを我が手で好きに弄び、愛でるのよ? あ〜、もう、考えただけでゾクゾクするわ」
 そういうことを熱っぽく語る様は、まさしく変人のそれだ。しかし、優しい妹はそんなことは言わない。いやさ言えない。
「? どしたの桜? 薄ら寒い目をして」
 言ってしまったが最後、きっと一つの何かが終わりを告げる。
「……いえ、別に。わたしの姉さんは実に高尚な趣味をお持ちなんだ、と思って」
「貴女も今度一緒にお風呂入れてみる?」
「遠慮しておきます」
 雨は、まだ当分やみそうになかった。




◆    ◆    ◆





「そう言えば、宝石のことなんかとは別に、姉さんにずっと聞きたかったことがあったんです」
「ん――なに?」
 体にまとわりついてくるかのような夏の雨は、待てども結局やみはしなかった。それどころか雨足は強まるばかり。仕方なく、姉妹仲良く土砂降りの雨の中を衛宮邸へ向けて強行軍中。
 雨音に邪魔されながら、改めて注意深く聞いてみると、姉の声は意外に自分と似ているんだなって事に桜は気がついた。
 話し方が全く違うので普段は気がつかなかったが、声の質自体は以前に自分の声を録音したものを聞いた時と、非常に似た印象を受ける。
 髪の色も、眼の色すらも違ってしまったが、それでもまだ似ているところが残っていたのかと思うと、なにやらとても嬉しかった。
「桜、どうしたの?」
「……え? ……あっ、別に、ちょっと考え事しちゃってて……」
 どうやら少しぼーっとしてしまっていたらしい。不思議そうに自分の顔を覗き込んでくる姉に、桜はバツが悪そうに笑顔を返した。
「ふーん。で、聞きたい事って?」
 とは言え、桜がいきなり物思いに耽る事自体はそう珍しいわけでもない。凛にも人と会話中に突然自己思考モードに入る悪癖があるため、これは長らく魔術師を続けてきた遠坂の血が持つ先天的問題なのだろう。
 故に、気にするだけ無駄だと凛は割り切っている。
 そんなわけで、姉が特に気にしていないらしいことを確認し、ホッとした桜は質問を続けることにした。
 これだけは聞いておこうと思いつつ、今まで聞けずにいたこと。
「姉さんは、聖杯を手に入れたら何を願うつもりだったんですか?」
 以前、イリヤにそれとなく聞いてみたことがあったのだが、『リンのことだから、世界征服ー! とでも願うつもりだったんじゃないの?』と返され、『そうかもね』とその時は一笑に付していた。
 しかし、姉――遠坂凛という人物を知れば知るほどわからなくなってくる。
 彼女は非常に誇り高い。魔術師としては言うまでもなく、一人の人間としての矜持も何があろうと貫き通す。
 たとえ天地が逆になろうとも、己の我を通せるタイプの人間……それが、遠坂凛という女性だと桜は考えている。
 だからわからないのだ。そんな人間が、果たして聖杯などと言う他力本願なシロモノに手を出すだろうか? もしそうまでして欲したもの、叶えたかったことがあるのだとしたら、それは一体どんな願いだったのだろうか、と。
 そんなことを考えながら、これ以上ないくらいに真剣な表情で答えを待つ桜に、凛は傘を持っていない左手でポリポリと頬を掻いた後、
「え? 特に願いなんて無かったわよ」
 なんて、聞いているのが馬鹿らしくなるほどにあっさりと答えた。
「……」
 桜の動きが止まる。
 この人は、自分の姉は、遠坂凛は、今、なんと答えたのだろう?
 特に、願いなど無かった、と、そう答えたのだろうか?
「は……なにも……願いなんて無かった……って、じゃあなんで命懸けであんな危険な戦いに身を投じたんですか!!?」
 我に返った途端に迸った、雨音をかき消すかのような激しい剣幕に、流石の凛も思わず後退る。別に桜は怒っているとかそういうわけではない。ただ、あまりにも単純な疑問、それが大きかったのだ。
「んー……なんでか、って聞かれると、最近自分でもよくわからなくなってきちゃったのよね」
「そんな……だって死んじゃうかもしれない戦いだったんですよ? だから、わたし怖くて……それなのによくわからない、なんて」
 自分の令呪を義兄に譲り渡したときの記憶を辿りながら、桜はどこか縋るような瞳で姉を見た。この疑問に明確な答えを貰わない限りは、きっと自分は一生かかっても姉という人間を理解するどころか、今よりも近づくことさえ出来ない。
 凛も、そんな桜の想いを酌み取ったのだろう。彼女は、常から自分との間にある十一年もの溝を懸命に埋めようとしてくれている。そんな健気な妹に応えるには、今の自分が考えていることを包み隠さず答えるべきだと、そう思い、言葉を紡いだ。
「一番になりたかったから……っていうのも、なんか違うかな。でも、貴女やイリヤほどじゃないにしろ、わたしもずっと聖杯戦争に囚われて生きてきたようなものだしね。なら、やっぱり勝ちたいじゃない? 願いを叶えるためなんかじゃなくて、自分の人生の、価値を証明するためにも」
 冬木の地、遠坂に生まれた者としての意味。それを全うしたかった。そうすることで、自分が父の娘であることを誇りたかったのかも知れない。
 だが、その答えはきっと桜には酷なものだったろう。彼女は、その父が魔術師としての冷徹さでもって間桐にくれてやった娘だ。それでも本気で姉妹が溝を埋めるには、誤魔化しはいらない。言うべきことであるのなら、ハッキリと言う。
「それにね、きっと願いをもつことが怖かったのよ」
「怖い……ですか?」
「うん。聖杯に何かを願う……そうやって何かに頼ることで、自分の中の弱さを浮き彫りにされちゃうんじゃないか、ってね。それが怖かったんだと思う」
 姉の独白に、桜は改めて理解した。
 初めから強い人間なんて、いるはずがない。姉は姉で必死だったのだ、必死に強くあろうとしていたのだ、ということを。そして、それこそがきっと本当の強さ。その強さを、あるがままを受け入れ全てを諦めてきた自分が妬む事など出来ようはずがない。
「姉さん」
「なに?」
「わたし、姉さんのこと大好きです」
 一瞬、凛は何を言われたのかわからず――しかし暫しの間の後、その顔は一気に爆発した。
「あ……な、そ……ば……ッ」
 真っ赤になって口をパクパクさせている姉を見ていると、もう少し意地悪をしたくなってきた。――もしかしたら、今までずっと受け身にまわっていたせいで気付かなかったけれど、自分はすこしサドッ気があるのかも知れない。
 そんなことを考え、桜はニマーッという笑顔を浮かべた。この場に士郎がいたなら、さらなる“あくま”の誕生をさぞや嘆いたことだろう。
「直球勝負に弱すぎですよ、姉さん。そんなんじゃ、先輩には何も通用しないんだから」
「わ、わたしは士郎の事なんて……ッ! 別に……」
 こうなってしまうと凛はひたすらに弱い。守りに入ることも出来ず、一方的に弄くられるのみだ。
「でも、前にフラレたのは自分もだって……」
「あ、あの時は……ものの弾み! その場の勢いその場のノリよ!」
 姉をからかう妹と、必死になって妹に言い訳する姉。今の二人をイリヤが見たら、なんて言うだろうか?
 これは、自分がずっと望んでいた姉妹の情景。その、ほんの始まりに過ぎない。
 ふと気付けば、あれだけの土砂降りだった雨もやもうとしている。
「……聖杯なんて無くたって、望みは叶うんですね」
 不意にそんなことを漏らした桜に、凛も平静を取り戻し、「そうね」とだけ言って頷いて見せた。
 それから、どのくらい無言の時間が続いただろうか。

「でも、今は一つだけ聖杯にかけたい願いがあるわ」

「……え?」
 大人しくなった雨音にさえ、掻き消されてしまいそうな小さな呟き。
 キョトンとする桜に、凛は優しく微笑みかけたまま、
「やっぱり、勝負したいじゃない? 彼女がいないと、中途半端な気持ちのままじゃ前に進めないしね」
 そんなことを、実に清々しく口にした。
「じゃあ、やっぱり姉さんも先輩のこと……」
「好きじゃないわよ? ……まだ、ね」
 ニヤリ、と強気な笑み。やはり、遠坂凛はこうでなくてはらしくない。
「姉さんには、負けませんよ?」
「ふふ。わたしも、あんたには負けないわ」
 雨がやむ。
 雲が割れ、紅い夕焼けが二人を包む。
 たとえどんな内容であろうと、願うこと、望むこと自体はけして悪くない。人が何かを強く願う、その切なる心は、きっとこの空のように綺麗なもののはずだ。
 泣きたいくらい美しい光景を前に、桜はそう思えて仕方なかった。






〜to be Continued〜






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