Turning Fate/The end for beginning



episode-05
〜剣霊〜


◆    ◆    ◆





 冬木市は、龍脈と周辺一帯の霊脈が複雑に交差集合する日本でも有数の霊地である。そのためか、古来より多くの魑魅魍魎の類がこの土地を狙い続け、それらの流入を防ぐために数々の結界がしかれてきた。
 柳洞寺は、冬木市全体を覆う結界の基点であると同時に、龍脈の動きを押さえる要石でもある。その地下にある大空洞こそ冬木の霊的中心、いわば心臓部であり、聖杯などという桁違いな霊的存在の召還にも耐えうる事が出来る理想的な地としてアインツベルンとマキリはそこに目をつけた。それが二百年前。
 二百年。この冬木の地では聖杯を巡って、英霊や大魔導達の強大な魔力と願望、さらには闘争に巻き込まれ命を落とした者達の怨念が入り乱れてきた。外からの流入のほとんどを防ごうと、これでは内側から吹き上がる邪霊には対処のしようがない。
 結界がしかれる以前、数百年前は柳洞寺には常に退魔を生業とする法力僧が幾人もつめていたのだが、結界完成後は次第にその数は減っていき、ついには西洋魔術を生業とする遠坂家に霊地管理の実権が移って後、柳洞寺は退魔の業から完全に離れることとなってしまった。結界の隙間や綻びを抜けてくる魔物や、極希に結界内で生じる邪霊の始末くらい遠坂家のみで充分だったからだ。
 それが、よもやその後、聖杯戦争という副次的に多くの邪霊を生んでしまう儀式がこの地を舞台に執り行われる事になろうとは誰が予想しえただろうか。
 教会から派遣されてくる監督役が、代行者であったり魔術師であったりする理由の一つがこれである。魔の存在の浄滅こそ聖堂教会の本義故に。
 冬木市の霊的治安は、こうして遠坂と教会の手によって守られてきたのだ。



「でも、実際にわたしがこうして邪霊相手に戦い始めたのは聖杯戦争の直前からなんだけどね」
 強力な怨念や残留思念が、この世界に満ちている大源(マナ)の力を借りて現世に踏み止まってしまった存在、邪霊。
 実体は無く、それ故に物理的な破壊をもたらすわけではないが、放っておくと土地の霊脈や人の霊子に干渉して災害を引き起こす、人間にとってはまごうことなき存在悪。
 空中に漂うそれらは、魔の素養のある人間であれば漠然とだが感じ取る事が出来る。それが魔術師ともなれば、多少のコツと集中力は必要となるが視認する事も充分に可能だ。
 普段見えているものとは別のものを視る、慣れた者でも戸惑ってしまいがちな感覚操作。
 深山町、住宅地の少々奥まった場所にある袋小路。そこで、今、凛とイリヤの視界を漂う邪霊の数は計七体。
 いまだ新しい魔術回路が開ききっていないイリヤはあくまで後方配置、実際に戦うのは凛一人。並の魔術師であれば、七体の邪霊を一人で一度に滅するのはそれなりに骨だ。
 ……だが。
「……シッ!」
 魔力を込めた手刀が振るわれる度に、邪霊達は断末魔の呻きにも似たイメージを現世に焼き付けて散ってゆく。
『――キエタクナイ――』
 脳にドロリとまとわりついてくる、そんな強烈な負のイメージを歯牙にもかけずに振り払いながら、凛の攻撃は止まらない。
 手が、足が、邪霊達を構築する以上の概念でもって彼らを打ち砕き、周囲を清浄な空気へと換気していく。
 邪霊如きに、魔弾は不要。手足の先にほんの少しだけ魔力を集中してやって、後はただ千切ればいい。遠坂凛の魔力と体術をもってすれば、なんら難しくはない、簡単な事だ。
 突き、払い、殴り、蹴り、踏み、砕く。
 あっという間に六体を滅散。
「こいつで、最後ね」
 元より邪霊に逃げるなどという知能はない。彼らにあるのは、ただ宙を漂い、次第に群れ、一ヶ所に集まって災禍を為そうとするその悪辣な本能のみ。
 凛の手が邪霊を貫き、魔力のもたらす淡い燐光が内から弾ける。
『――イヤダ!――』
 自身の存在が、千切れ、薄れ、掻き消えていく圧倒的な恐怖。
 だが、所詮は己が不幸を嘆き、今を生きる者に嫉妬するだけの惰弱な精神が漏らした嘆き。凛の揺るぎない心力を前にしては、なんら影響を与えることなく消え去るしかない運命。
 霧散。
 周囲にはもはや邪霊の気配はない。
「これで、深山町の主立った“場”は全部潰したわね」
 霊脈上、もしくは過去何らかの曰くがあったものか、あらゆる土地には霊が集まりやすい“場”というものが存在する。
 冬木市にある主立った“場”の数は、十六ヶ所。
「リン、あったわよ」
 その悉く全ての場所に描かれた、邪霊召還のための簡易魔法陣。
 間桐臓硯の手によるものと思われる事件のニュースから今日で四日。事件自体はあの一度だけで、その後似たような事件は起こっていない。ただし被害者は……当然行方不明のままだ。
 そして、その日から冬木市中のあらゆる“場”で邪霊が騒ぎ出した。教会の老神父と手分けしてその始末にあたってみたところ、見つかったのが何者かが描いた小型の魔法陣だったというわけだ。
「ほら、こっちこっち」
 イリヤの指さす場所には、これまで回った場所とほとんど変わらない紋様が刻まれていた。残留している術者の魔力も、全く同じものだ。
「……完全に遊ばれてるわね」
 魔力を集中し、そこに刻まれていた魔法陣を破壊する。
 これが臓硯の仕業である事は明白だった。紋様を構成している符号は、間桐が儀式に用いるのと同じものだ。
 敵たる相手に宣戦を布告しておきながら、姿を見せずに姑息に立ち回ろうというのか、それとも別の意図か……凛にはまだ判断がつかない。元より隠形の相手である。すんなりその姿を現さないのではないかとは思っていたが、ならば最初からあのようなメッセージを流す必要もない。
 果たして何を考えているのか……判断を誤れば敗北は必至。焦燥は即座に死に繋がるだろう。
「ま、いいわ。イリヤ、今夜はもう帰るわよ。全ての魔法陣を潰したんだから、明日になればまた何か動きでもあるでしょう」
 急いては事をし損じる。相手の所在が知れない以上、不本意だが後手に回るしかないのが現状だ。それならば、充分な休養をとり、イリヤの術式へとなるべく多く時間を回した方がいい。
「イリヤ?」
 と、返事のない彼女が気になり振り返ってみたところ、屈み込んでたった今破壊された魔法陣の残骸に手をかざしながら、イリヤは何事か考え込んでいるようだった。
「どうかしたの?」
「……やっぱり、この魔法陣の回路、似てるわ」
 目を細め、何かを確かめるように刻印を指でなぞる。
「似てる? 似てるって、何に――」
「サーヴァント召還システム」
 逡巡なく、はっきりと告げられたその一言に、思わず息を呑む凛に向き直り、イリヤはすっくと立ち上がった。
 答えは既に出た。が、理由がわからない。口元に手をあて、思案しながらも現状で判明している事象を選んで言葉を紡ぐ。
「でも、今までの“場”もそうだけど、どの魔法陣も微妙に一ヶ所か二ヶ所、符号が変えてあったの。基本的なカタチは大聖杯に刻まれたサーヴァント召還システムを極端に簡易化したものだったけどね」
 言うなれば、何かを試していたかのような跡。だが果たしてそれに何の意味があるというのか。大聖杯は一つの完成されきったシステムだ。その一部分だけを弄くったところで、邪霊や亡霊を呼び込むのが関の山なんてことくらい、システム開発者の一人である臓硯が知らないはずがない。
「そん……な……いったい何のために?」
「まだわかんない。でも、凄く嫌な予感がする……」
 予感と言うよりも、確信に近い。何が起こるかはわからないが、それが自分達にとって非常に良くないこととだけは魔術師の直感でわかる。
「……わたしの魔術も、今日明日中には使えるようにしておかないと……多分、取り返しがつかなくなるよ」
 凛は、いつも強気なイリヤがここまで青い貌をしているのを初めて見た。それだけで事態がいかに深刻かはわかろうというものだ。だが……
「……まぁ、それも貴女に人並みに生への執着ってやつが芽生えてきたからなんでしょうけどね」
「どうかしたの?」
 半年間共に挑み続けてきた身としては、この深刻な事態にあってそれでも素直に喜ばしい。半年前、綺礼に連れ去られるときでさえ子供らしからぬ達観した表情を崩さなかった彼女が、斯様な動揺を見せてくれているという奇妙な達成感。それだけで、凛は自分の中にある事態解決への意欲が増していくよう感じられた。
「なんでもないわ。行きま――――誰ッ!?」
 突如、凛とイリヤの脳裏に、ドス黒い膜によって自分達の意識が覆い尽くされるイメージが湧き出す。
 通路側にあった街灯が、妖しく明滅する。
 腐臭。微かに聞こえる、蟲の羽音。
「ふむ、流石はアインツベルンの用意した器じゃな。もっとも、大本はユスティーツァの完成させたシステム。こう簡単に気付くのも道理か」
 その嗄れた声は、闇の中から聞こえてきた。
「……ようやくお出まし?」
 普段の強気な表情のままで、内心の動揺を押し殺した凛の声が、狭い袋小路に響く。付近の住民に気付かれないようと彼女が張った結界は破られてはいない。それなのに、相手の接近に全く気がつかなかった。
 油断したわけではない。相手が上手だった、それだけの事だ。だがそれだけの事ゆえに、慎重にならざるをえない。
「流石は遠坂の跡継ぎよ。即席にしてはなかなか上出来な結界だったと言えよう。だが、まだムラッ気があるな。あの程度では、ワシには通じぬよ」
 ぬぅっ、と、闇から闇が産み出されるかのような感覚。
 二人の前に姿を現した小柄な怪老は、皺に埋もれた眼を細め、矍鑠と笑った。特に構えを取るでもなく、無造作に杖に体を預けたその様は、何処にでもいる好々爺に見えなくもない。だが、その威圧感は本物。ただそこに居るだけで禍々しい霊気が吹き出してくるかのような、負の存在感。
 間桐臓硯。五百年の時を生き、聖杯戦争におけるサーヴァントの令呪システムを完成させた大魔術師。
「く、くく……そう畏まらずともよかろうて。ワシはただ挨拶に来ただけよ」
 余裕。
 凛の手は、既に魔晶石へと添えられ、意識も魔術行使へと向けられている。後は力在る言葉を唱え、解き放つだけで目の前の怪老を殺せるだけの魔弾が撃てる。その事に気がついていないのか、それとも何らかの対応策があるのか。
 自己の魔力が貯め込まれた宝石による魔弾と比べれば相当劣るが、見たところ臓硯は障壁を張ってあるわけでもなく、その体も実体に間違いないらしい。これなら充分に一撃で決められるはず。なまなかな方法では防御しきるなど不可能な攻撃だ。と言うことは、本当に気がついていないのだろうか?
「挨拶?」
 だが、敵は五百年を生きてきた男。いくら自分達を舐めているだけなのだとしても、おかしい。無防備すぎる。
 冷静に、努めて冷静に。凛は自分がここ一番で判断を誤り、失敗しやすいことを誰よりもよく理解しているつもりだ。故に、ここで性急に事を運ぶわけにはいかない。まずは相手の出方を窺って……
「うむ、そうじゃ」
 慎重に、おかしな動きや言動があれば即座に解き放てるように。
「お初にお目にかかる。ワシが間桐臓硯」
 そもそも、常時冷静さを失わないというのは魔術師としての前提条件みたいなものだ。
 魔術師は怒ってはならない。悲しんではならない。感情の揺れは魔術の失敗を招き、自身を危険に晒すことになる。常に心態を平静に近づけ、想定しうるあらゆる局面を思い描き、必要な対応を迅速に選定し、目的の完遂を成すのが魔術師としてのあるべき姿。そうやって生きてきたし、これからもそうするつもりだ。
「愛孫の桜がいつも世話になっておるようじゃな。この場を借りて、祖父として礼を言っておくぞ」
 そう、冷静に。クールに。ドライに。ありったけの魔力で、目の前に立つ妖怪爺を粉々に吹き飛ばす。欠片も残さない。台所でゴキブリを見かけた時、躊躇するだろうか? 否。断じて否。即座に殲滅するに決まっている。それと同じだ。自分に斯様な不快感を与える蟲など許せない。許せるはずがないではないか。
「……リン、ちょっと……リン?」
 瞬時に高まる魔力。解き放たれるのを今か今かと待ちかねているその手の中の暴風を、目標に向ける。
 隣でイリヤが戸惑いの表情を浮かべているが、そんなことは関係ない。わかっていることはただ一つだ。即ち、
「下衆が、桜の名前を口にするなってぇのよッ!!」
 遠坂凛は、間桐臓硯を許せない。その存在を許せない。
 それだけのことだ。





◆    ◆    ◆






 閃光が疾る。
 激昂と共に凛の手から解き放たれた魔力の牙が、臓硯の矮躯を喰い千切ろうと猛然と突き進んでいく。
 魔晶石に込められた魔力を自身の魔力に上乗せして放つ、ランクBに相当する魔弾。その破壊力たるや、邪霊如きならばこの一撃で数百体を消し飛ばすことが可能な程だ。
 いかに相手が魔術師であろうと、無防備な状態で喰らえば所詮は人間の肉体、確実に微塵となるは必定。
 臓硯は動かない。障壁を張った気配もない。ただ、笑っている。不快極まりない、下卑た笑いだ。
 そんな奴が、可愛い妹のことを孫と呼ぶなど、凛は許せない。平静でいろなんて無理に決まっている。無理だと思ったらやらない、それは魔術師としてと言うより、遠坂凛としてのスタイルだ。
 衝撃が臓硯に到達し、包み込もうとする。
 呆気ないが、これで終わりだ。間桐臓硯――五百年を生きたマキリは、二十年も生きていない小娘の手でその妄執共々砕け散る。それはなんて馬鹿馬鹿しい最後なのだろうか。無様にも程がある。
 魔力の光が二人の視界から臓硯の完全に姿を覆い隠した。終幕。もうすぐ轟音と共に老人の肉体は爆散する。
 だが、しかし――
「……え?」
 凛は信じられない、と言った表情でその光景を見やった。
 自分の放った魔弾が真っ二つに割れたかと思うと、吸い込まれるようにして消失してしまったのだ。
 当然、臓硯は爆散などしていない。依然として二人の目の前に立ち、嫌な笑いを浮かべているままだ。
 先程との相違点は、一つだけ。
 臓硯のすぐ前に、いつの間にか一人の男が立っていた。
「ふむ。信じられない、と言った貌じゃな」
 臓硯が笑う。その笑いなど気にもとめず、男は悠然とした様を崩さない。
 一目見ただけでその男が普通でないことはわかった。魔力や霊気がどうとかではなく、少なくとも羽織袴姿で日本刀を携えた男など現代日本に居るはずがない。『信じられない、と言った貌』の理由は、それぞれ違っていた。
 凛は知らない、男の名前を。故に、その驚愕は単純に自分の渾身の魔弾が彼に防がれたためのもの。
 イリヤは知っている、男が何者であるかを。故に、その驚愕はただ単純に彼と出会ってしまったがためのもの。
「なんで……なんで貴方が此処にいるの……?」
 危機を告げる直感は間違っていなかった。自分達では、彼には絶対に敵わないことをイリヤはよく理解している。
 理由は至極簡単だ。何故なら、最強を誇った彼女のサーヴァント、バーサーカーですら彼を撃破することが出来なかったのだから。
「会うのはこれで二度目か、バーサーカーのマスターよ。イリヤスフィール、と言ったか。久しいな」
 ニヤリ、と。並の男が見せたなら嫌悪が立つ笑いも、この男が見せればなんとも優美なものとなる。
 二メートル近い長刀を、構えもせずにただぶら下げ、泰然と立つ侍。
「……アサシン……」
 アサシンのサーヴァント、佐々木小次郎。前回の聖杯戦争時には柳洞寺の山門を守り、進入を試みたあらゆるマスターとサーヴァントを撃退して見せた男。
 居るはずのない、居てはならない男が、そこに居た。





◆    ◆    ◆






「アサシン、ですって?」
 前回、凛は柳洞寺へと直接攻め入ったわけではない。アサシンのサーヴァントが佐々木小次郎であり、セイバーに匹敵、もしくは凌駕する程の神域に達した剣士であることを又聞きで知るのみである。
「イリヤ、本当に……」
「アサシンよ。間違いないわ」
 凛とは違い、イリヤは実際にこの男と相対した。
 柳洞寺山門におけるバーサーカーとアサシンの戦いが、イリヤの脳裏に甦る。



 バーサーカーの台風のような攻撃を前にしても、アサシンはその微笑を絶やすことは無かった。燕返しとは彼の秘剣の名だが、皮肉にもまさしく飛燕の如くに全ての攻撃を捌き、流し、避けきったのである。
『惜しいな。稀代の英雄ヘラクレスの剣も、狂ってしまえば所詮はこの程度か。威力はあれど、それだけよ。華がない』
 そう言って、剣士の矜持からかけして自分からは攻め込まず、回避のためだけに長刀を振るうのみ。
 そんなわけだから、結局決着はつかないまま。空が明るみ始める頃にイリヤは撤退せざるをえなかった。能力的には上だったのだし、あのまま戦い続けていればいずれは勝てたろうが、バーサーカーも何度かは殺されていただろう。
 Aランク以下の攻撃は全て無効化すると言われるバーサーカーの不死身の肉体であっても、あの剣士の必殺の太刀を受け切れた自信は無い。
『出来れば狂う前の貴公と太刀合いたかったものだが……ままならぬものよな。とは言え、貴公は主に恵まれただけマシか』
 別れ際、アサシンはバーサーカーにそう漏らした。果たして狂える大英雄にその言葉が届いたのかどうかはわからないが、彼は戦闘中もバーサーカーに普通に話しかけていたのが気になった。
『あなた……バーサーカーの言ってることとか、わかるの?』
『なに。言葉はなくとも、剣を合わせていると何となくそんな気がするまでよ』
 アサシンのマスターがこの時代の人間ではなく、それどころか同じくサーヴァントであるキャスターで、しかも彼自身はこの山門を媒介としているためこの場からは動けないでいることにイリヤは気付いていた。
 アサシンは正統な英霊ではないが、それでも大聖杯を通して呼び出された今回のサーヴァントの一角である。そうである以上は、聖杯として英霊の魂を収集する役目にあるイリヤにはあらゆる事情が筒抜けとなるのが道理。
 彼は憂いているのだ。誰よりも戦いを望みながら、しかし満たされないその空虚さを。敬愛するに値しない主から、意にそぐわない命を与えられ、それに従わざるをえない己の不遇を。
『バーサーカーのマスターよ、御身をそこにいる大英雄は真実大切に思っている。その事だけは、どうか忘れずにな』
 寂し気に言って、アサシンはスゥッと音もなく消えた。
 その時、バーサーカーが吼えた。それは、何処か哀し気な咆吼だった。



「イリヤスフィールよ、一つだけ聞きたい」
「……なに?」
「バーサーカー――ヘラクレスは、あの大英雄は満足して逝けたか?」
 アサシンの瞳には、あの時と同じ悲哀が宿っている。その瞳を見れば、たった一度会っただけ、それも不本意な戦いではあったが、彼が本当にバーサーカーの最後を気にかけていることだけはわかった。
「バーサーカーは、セイバーと戦って……負けちゃったわ。最後まで、わたしの事を心配してくれてた」
 彼は敵だ。今にも自分達はその長刀の前に斬り伏せられてしまうかも知れない。それでも、自分以外の誰かがバーサーカーのことを気にかけてくれていたのが、イリヤは嬉しかった。
「……そうか。よい、最後だったのだな」
 その涼し気な顔に、僅かに喜びの色が浮かぶ。バーサーカーを倒したのがあのセイバーで、マスターであるイリヤがこうして今も元気でいる。ならば、彼は満足のいく最期を遂げられたのだろう。彼と剣を合わせた者として、それは実に羨ましく、また喜ばしい。
 だが……
「しかし、残念だ」
 その顔が不意に翳る。苦渋ともとれる表情は、常に優雅たる剣士には似合わない。故にその懊悩の深さが窺い知れた。
「私は……おぬし達を斬らねばならん」
 静かにそう言って、右手に携えた愛刀『物干し竿』を凛とイリヤへ向ける。歪んだ表情から、その行為が彼にとって不本意なことだとはわかる。だが、発せられる殺気はまごうことなく本物。どんなに納得のいかないことでも、斬るとなれば躊躇は無い。彼はそういう男だ。
「……凛よ」
「ん?」
 イリヤを背に庇うようにして、その身を前に乗り出した凛が一体何を言おうとしているのか、アサシンにはわからなかった。
「遠坂凛。前回の聖杯戦争ではアーチャーのマスターだった魔術師よ。こっちは貴方の名前を知ってるのに名乗らないでいるのは失礼だから、名乗っておくわ」
 それはなんと気丈な行為か。『目の前の男に自分が殺される』と、わかっていながらも我を通しきれる人間など、そうそうお目にかかれるものではない。居直りにしても、見事と言うより他無い。
「かっかっか! 流石は遠坂の跡継ぎ! 何とも肝が据わった女丈夫よ。これであの桜の姉だというのだから、何ともはや――」
「うるっさいわよこの妖怪爺……! アサシンを倒したら、次はアンタをブチ殺すんだって事を忘れるんじゃないわよ」
 臓硯の言葉を遮る凛の激昂。
 アサシンはさらに驚いた。たった今目の前で啖呵を切った少女は、諦めていない。居直ったのではなく、彼女は本気で自分を倒し、後ろにいる主をも倒すつもりでいるのだ。
 ならば、情けをかけるのは無粋。侮るなどは無礼千万。
 剣士の顔から迷いが消える。
「では、最後に改めて名乗ろう。我はアサシンのサーヴァント、佐々木小次郎……であった者」
「……で、あった者?」
「今の我が身はただの亡霊。真名も小次郎に非ず。名も無きただの剣霊よ」
 晴れやかにそう告げ、剣士は駆け出した。
(速いッ!!)
 凛の手が新たな魔晶石に添えられ――しかし、これは魔術による迎撃が間に合う速度ではない。ああは言ったものの、正直倒す手段など思いつかなかった。
 仮にも英霊として召還され、あのセイバーですらが純粋な剣技では及ばないと述懐した程の相手である。それは人間の及ぶ領域ではない。
 凛の後ろで、イリヤは必死で自分の魔術回路をこじ開けようと力を込めた。途端、体の数ヶ所からまるで鋭利な刃物で切り付けられたかのように血が噴く。
 痛みに顔を顰めながら、それでもやめない。こんなところで死ぬわけにはいかないのだ。自分も、凛も。
 だが、そんな少女達の想いも疾風の如き剣の前ではまさに風前の灯火。刹那の一撃を前にしては、何の意味も持たない。
 迫り来る長刀。
 せめて苦しまぬように、と。全力、全速でもって振るわれたそれは猛然と二人に襲いかかり……
 しかし――
 永遠とも思える数瞬が経過してもなお、その刃が二人の身体に届くことはなかった。
「むぅ!?」
 その驚愕は、臓硯のもの。
 アサシンの繰り出した必殺の太刀。それは、横から伸びた一本の槍で受け止められていた。
「……ふふ。見事なものだ」
 剣士に動揺は見られない。彼は、ただ期待の籠もった眼差しで自分の一撃を受け止めた相手を見ていた。
 一方、凛とイリヤも自分達が助かったことがまだ理解しきれていないのか、呆然とした表情で救い主を見つめている。
「……ったく。お前ら、家主に黙って夜出歩くからこんな目に遭うんだぞ」
 視線はアサシンから逸らさずに、衛宮士郎は、そう言って二人を窘めた。






〜to be Continued〜






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