Turning Fate/The story of a certain future



another episode
〜あかとしろのあくま(前編)〜


◆    ◆    ◆





「……暑い」
 五月、にしては高すぎる気温。
 雲一つ無い、憎らしいくらいに晴れ渡った青い空。
「こんな日に黒なんて着てくるからよ。この前白のワンピ買ってなかったっけ?」
「……今日はなんとなーく黒着たかったの」
 肩下からほぼ袖全体にスリットの入った少し大胆なデザインの黒い春ニットは、スラリとした長身の女性にはよく似合っていたが、如何せん今日の天気との相性は最悪だったようだ。しかも、スカートも黒。
 おそらくはまだ十代、少し幼さの残る面差しは二十は超えていまい。
 アルピノを思わせる程の白い肌と、ルビーの瞳。そして腰下まで伸ばされた見事な銀髪に、黒の上下は怖いくらいよく似合うが、太陽様はどうもそれが気に食わなかったらしい。
「それに、ここまでいい天気だなんて思わなかったのよ」
 そう言って体を反らすと、華奢な体つきのわりに豊かな胸の膨らみが余計に強調されて、相方に苦い顔をさせる。
「もう、こっちは結構暑いって、神父も言ってたじゃない。天気予報だって今日は昼頃から真夏日よりだってちゃんと言ってたわよ?」
 ピシャリ、と言い放ち、キャスター付きの大型スーツケースを引きずる女性も、実は赤いスプリングコートが大分暑いと見える。どんなに涼しい顔でいても、うっすらと額を伝う汗までは誤魔化せない。それに、彼女とて下は黒のロングスカートなのである。あまり人のことを言えた義理でもないのだ。
「ほーら、急ぐわよ」
 年の頃は二十を幾つか超えたくらいか。見るからに気の強そうな瞳がなんとも印象的だ。
 勢いよく振り返ると、僅かにウェーブのかかった黒髪が揺れる。背まで伸ばされた艶のある長髪は、見ていて溜息が漏れそうになる程美しいが、それがまた彼女の端正な顔立ちによく似合っていた。
「急ぐのは構わないけど、リン。いい歳した女が大股でスーツケース引きずっていく姿は見ててあまりいい感じはしないわよ?」
「うっさいわねぇ。だったらアンタが引いていきなさいよ」
「威勢のいいこと言っておきながらジャンケンに負けたの、だ〜れだったかなぁ」
「……イリヤ、覚えてなさいよ」
 遠坂凛とイリヤスフィール・フォン・アインツベルン。
 取り敢えず、今の戦闘はイリヤの勝利に終わった模様。



「それにしても、たまに冬木を出るとつくづく思うわ」
「なにが?」
「空気が清浄だって」
 聖杯戦争があろうと無かろうと、冬木に漂う魔力のいわゆる“臭い”は独特のものだ。凝り固まった怨念のせいもあるのだろうが、悪臭と言っても差し支えのない胸のつまるような魔力なのである。まるで放射能のようなそれを全て浄化するのはもはや不可能に近い。
 故郷アインツベルンの鉄の城や、その周囲を覆う黒い森も魔力の“臭い”は相当酷かったが、それでも冬木よりはマシだったとイリヤは思っている。
 故に、滅多に冬木から出ることのない凛や、特にイリヤにとって、外界の空気というのはそれだけで非常に清々しいものなのだ。
「土地管理責任者として、何か思うこととかないの?」
「じゃあ、あんたはその助手としてどうにかしようとかないの?」
 ムーッと唸るイリヤに、ニヤリと笑みを浮かべる凛。
「わたしが色々と表立つと、協会から何言われるかわかんないわよ?」
「ま、そりゃそうなんだけどね」
 イリヤは魔術協会に属していない。奇しくも故父衛宮切嗣と同じくフリーの魔術師として、元々が裏の世界の住人である魔術師達のさらに影に隠れて行動している。イリヤ自身は父と同じということで現状に満足しているらしいが、未登録の魔術師ばかりを何人も抱えている土地管理者としては正直頭が痛いこともある。
「とはいえ、あんた達を登録するわけにもいかないものね」
 隠し通さなければならない秘密が多いのは、魔術師としてはむしろ栄誉なことなのかも知れないが、多すぎるのも考え物だ。が、しかし自分の“家族”を守るためのそれは闘いでもある。魔術師としてではなく、人間としての面倒を抱え込むのも大切なことだろう。
「それじゃ、取り敢えずホテル行って荷物置いてこよ。下調べはそれからで」
「そうね。……で、イリヤ。そろそろ二度目のジャンケン、しない?」
 勝機があるのか、凛はグッと握った右拳を突き出し、勝ち誇った笑みを浮かべた。





◆    ◆    ◆






 教会の老神父から今回の依頼を受けたのは、つい一昨日前のことだった。
 新都にある、かつて言峰綺礼が神父をしていたそこに保管されていた、ある第一級の聖遺物。それを強奪されたので、取り返して欲しい――少々大袈裟に全身を包帯で覆った神父は、そう言って凛の前に聖石のつまった箱を差し出した。
 犯人はどうにも戦闘者としても腕利きの魔術師だったようで、老人はまったく太刀打ちできなかったらしい。魔術師としても、代行者としても高い実力を有する彼が手も足も出なかったと言うからには、相当な使い手だろう。
『でも、それならわたし達じゃなくて協会か教会に頼んだ方が確実じゃないの?』
 凛もイリヤも確かに戦闘に長けた魔術師ではあるが、そんなに大切なものなら自分達よりも専門の連中に頼んだ方が確実なはず。両組織にはそれこそ人の身でありながら英霊すら凌駕する規格外な連中だって所属しているのだから。
 だが、それでも老神父は彼女達以外には頼めないのだと言う。何しろ、盗まれたものが盗まれたものだから、と。
 では一体何を盗まれたのか?
 当たり前のその質問に、暫しの沈黙の後、神父は重々しくその白髭に覆われた口を開いた。

 ――聖杯の器――

 錬鉄の魔導アインツベルンが作り出した杯。五度目の聖杯戦争の時、協会と教会の目をイリヤから逸らすために監督役へと送られたものとは言え、性能的には申し分なしのそれを強奪されたとなれば、奪った相手もまた聖杯でもって何かを企む輩なはず。
 なるほど。それならば事態収拾に最も適しているのは確かに遠坂凛をはじめとした一連の関係者達である。
 それが聖杯の器である以上、イリヤの感知能力を使えば何処に在ろうと場所を特定することは容易だ。何しろかつては同種であったもの、並大抵の遮断では隠しきれるものではない。
 報酬は、前払い分で目の前の聖石。後払いで宝石や魔晶石、他にも簡単な聖遺物を幾つか。
 返事は至極簡単だ。当然、了承。
 この仕事を、自分達以外の誰かに任せる気はない。
 赤と白の魔術師は、力強く頷いて教会を後にした。





◆    ◆    ◆






「……リン、あなたがケチなのは前々から知ってたけどさ」
「……何も言うな」
「いいえ、言わせてもらうわ。……幾らなんでも、これはないんじゃない?」
 口調自体は静かなものなのに二人して声が大きいのは、せまっくるしい部屋に響く隣のビルの空調設備の音が酷く喧しいからだ。
 美女二人が並んで立つと、部屋はそれだけで一杯一杯。どうも、元々はシングルだった部屋に無理矢理ベッドを二つ並べた感がある。
 ビジネスホテル。それも、築何十年経ってるのかもわからない、超がつく程のオンボロの。ありがちだが、部屋全体がヤニ臭い。
「これなら学生宿だってよっぽどマシじゃないのよ!」
 禁煙家、怒りの主張。
 イリヤは高校時代に友人達と小旅行に行った際に泊まった格安の学生宿を思い出していた。確かに古くはあったが、それは人情味のある古さだった。気のいい老夫婦が営むそこで友人達と一晩過ごした事は一生の思い出だろう。あの時は自分に真っ当な高校生活をおくらせてくれた保護者に感謝もしたものだ。
「だ、だって、そんなこと言ったって此処が一番安かったのよ!? 仕方ないじゃないの、今月はピンチなんだから!」
「……今月“は”じゃなくて、今月“も”でしょ?」
 魔術師としての技能が上がれば上がる程、宝石にかける値段もべらぼうに上がっているのが家系圧迫の最大の原因である。学生時代はきちんと払っていたはずの食費も最近は滞納気味、と言うよりお情けで免除状態だ。
 年々酷くなってきているが、こと金銭に関わることであれば彼女の誇りなんてものはあてにしない方がいい。が、それでも泊まり先がこれというのはあんまりだ。
「ま、まぁあれよ。ちゃっちゃーと終わらせて、冬木に帰れば万事解決よ」
「本当にそう願いたいわね」
「ぐむぅ」
 そもそも、悪いと言えば神父も悪い。
 実際のところ、今回の聖杯強奪の件が公になれば協会と教会からお叱りを受けるのは彼なわけで、自分達に依頼したのも秘密裏に事を解決したかったからというのが大きいはずである。
 なら、旅費くらい出すのが筋というものではないだろうか?
 とは言え、その辺の交渉を全て凛任せにしたイリヤも悪かった。目の前に宝石という報酬がちらついている限り、彼女がポカミスをやらかすことは予想出来る事態だったのに、気付いた時には後の祭りだったというわけだ。
「ま、今さらごねても仕方ないわね。取り敢えず行きましょうか」
「もうちょっと休まない? わたし、ずっと荷物引いてきたから腕痛いんだけど……」
「……どうしてあそこまでジャンケンが激弱なのか、不思議でならないわ」
 腕がパンパンの凛には悪いが、これ以上ここにいると息がつまりそうだ。
 夜には空調の音も止んでいればいいのだけれど、と祈りながら、凛とイリヤは部屋を後にした。



 洋館が建ち並ぶ冬木とは違い、この町は情緒溢れる日本の古都、といった印象を受ける。歩いてみた感じ衛宮邸のような武家屋敷も少なくはない。
「なんか、やっぱりいいわねぇこういうの」
「そう言えば、あんた和風なものって好きだものね」
 外国人がたまに抱いているような変な偏見ではなく、イリヤは純粋に日本の文化というものが好きである。特に家屋に関しては父親譲りの感性なのかも知れない。下調べ、と言うことは重々承知でも、どうしても目がいってしまう。
「日本人はもっと自国の文化に誇りを持つべきよ。リンもあんな洋館やめてもっと日本的な屋敷にするべきだわ」
「日本人が自国の文化に誇り持たなすぎ、ってのは認めるけど、わたしは洋風が好きなのよ」
「じゃあ、アインツベルン城あげよっか?」
「謹んでお断りするわ。交通の便悪すぎ」
 葉桜の緑が眩しい、桜並木の遊歩道。
 神父の話では犯人は西洋魔術の使い手だったらしいが、この町に潜伏しているとなるとどうもイメージが日本的嗜好の術者としてしか浮かんでこない。となると、犯人は日本かぶれの外国人魔術師と考えた方が良さそうだ。
 何故なら、日本人で西洋魔術に手を出している家系というのは大概は外国かぶれのはずだからで、そうでなければわざわざ外国から流入してきたものに手を出さずとも日本にだって幾らでも高度な術体系は存在しているからである。
 馬鹿馬鹿しいことかも知れないが、西洋魔術が本格的に日本に流入した頃というのは開国後の日本総欧米化とも呼べる時期であった。この国でそれなりに歴史を持つ西洋魔術の家系というのは、大概はその時期に西洋文化の一端としての魔術に触れ、魅了された家ということになる。
 さらに、極論してしまえばほとんどの魔術師にとって魔術なんてものは所詮は手段であり、西洋か東洋かなど実際のところは趣味で選別するのが大半だったりする。
 それと、以上の点を踏まえずとも遠坂の家系が西洋かぶれなんてことは、今さら言うまでもない。
「犯人はあんたみたいな奴かもよ」
「あら、もしそうならきっと平和主義者だろうから話し合いで解決よ?」
 そう言って、何故か誇らしげに胸を張るイリヤ。今では凛の妹、桜に匹敵する程にたわわに実ったそれが立派な双丘を形作る。
「……身長で負けるのは兎も角、あんたのそこがそうなるだなんてね。それこそ考えもしなかったわ」
 まさか、成長という人体機能を取り戻したイリヤがその後の数年でぐんぐんと背を伸ばしたのはまだしも、さらにこれだけの武器を手に入れるなど、当事は凛だけでなく誰も予想していなかったに違いない。彼女の保護者である藤村大河も、悔しさに床や柱を殴る蹴る日々である。無論、衛宮邸の。
「ふふーん。ま、血筋よ血筋。お母様もスタイルは確かこんな感じだったし……あ、でも誰かさんは妹に似てないもんね。血筋にも限界はあるか」
「うっさい。わたしは日本人としては平均なの、へ・い・き・ん。奥ゆかしい日本人女性にはそんなブツは必要ないのよ」
「……リン、洋風が好きなんじゃなかったっけ?」
 カウンターヒットクリティカルダメージ。
 ニンマリ。
 駄目だ。“しろいあくま”はもはや完全に“あかいあくま”と肩を並べるまでに成長した。
いや、それどころか総じて見た場合あくまとしてのポテンシャルはあちらの方が上かも知れない。
「イリヤ……怖い子」
「いやぁ、良いセンパイに恵まれましたから」
 二人とも、くっくっと肩を震わせて笑い合う。
 そうこうしているうちに、陽も傾きかけてきた。一通り魔力を感じる場所を歩いてはみたが、どうにも確実さに乏しい。この町にあるのは間違いないのだが、ジャミングをかけている魔術師はまったく相当な手練れのようだ。明確な位置だけがどうしても掴めない。
「……仕方ない。今日のところは引き上げね」
「あのホテルに?」
「あのホテルに、よ」
 夕陽の紅がイリヤの銀髪に輝く。しかしそれがどんなに美しくとも今晩のことを思うと気分は陰鬱だ。
「もう、ホント最悪」
「ま、いいんじゃない? どうやら、気晴らしを用意してくれたみたいだし」
 凛の言葉に、イリヤはさらに肩を竦めた。
 いつの間にか、並木道には自分達以外には誰もいなくなっている。
 蜃気楼のように揺らめく紅彩。漂う濃密な魔力。
 人避け、視界の歪曲……極々簡単で、しかし相当強力な隔離結界。
「最悪の二乗。帰ったら即シャワーだわ。わたしが先に使うわよ?」
「残念ね。あのホテル、浴室ないの」
 凛のしれっとした言葉に、イリヤが石化したかのように固まる。
「……マヂ?」
「マジもマジ。大マジよ。わたしも受付の時フロントで言われて吃驚するどころか呆れたもの」
「……正気の沙汰じゃないわ。帰る……わたし、もう、帰る……」
「はいはい。取り敢えず、お客さんを何とかしてからね」
 そう言って、凛は手近の木に寄りかかった。腕を組み、固まったままのイリヤとその正面を見つめる。
 ボコリ、ボコリと地面が盛り上がり、這い出してきたのは五体の骸骨。黒光りして如何にも硬質な姿を見る限り、こいつらの触媒元さんは普段からカルシウムを充分に摂取なさっておられた御様子。
 竜牙兵。魔術師達が使役する使い魔達の中でも戦闘力がとりわけ高く、かなり厄介な相手である。それが五体も――これが意味するもっとも重要なところは、
「……敵は相当な金持ちね」
 そう、そこだ。
 彼らを使役するには竜の牙という高価なアイテムが必要となるためやたらと金がかかるので、能力的には確かに高いのだがコスト的な問題が常につきまとう。それを惜しげもなく……凛は思わず溜息が出た。勿体ない。
 竜の牙から生み出された死の剣士達が、いまだ茫然と固まっているイリヤへと殺到する。その動きは俊敏、尚かつ防御力も侮れない強敵だ。だと言うのに、凛にはイリヤを助けようという気配すらない。
「金がかかってるのは認めるけど、五体じゃちょっと足りなかったわね」
 そう言って、右手でポケットをまさぐる。
 さて。腹癒せにあの数では少しばかり物足りないだろうが、浴室に関する解決策はあるので宥め賺すこと自体は難しくはないはずだ。
 竜牙兵の残骸から主をうまく逆探知出来れば御の字。
 もっとも、怒れるイリヤが竜牙兵達を欠片も残さず粉砕しなければ、の話だが。
 ――と、そんなことよりこれはどうしたことだろう。本来なら胸ポケットにあるはずのものが、見つからない。
「……ん? むー……あ、しまった……」
 衣類についた全てのポケットとハンドバッグを調べ尽くし、そこでようやく、そう言えば煙草は先日『元気な赤ちゃん産めなくなっちゃったらどうするんですか!』と言われて妹に全て処分されてしまっていたことを思い出した。
 別に、たまに思い出したかのように一本か二本ふかすだけなのだから気にする程のものではないと思うのだが、どうも自分の周りの人間は煙草に関して神経が過敏すぎる気がする。ライバルにして親友、そして数少ない女性の喫煙仲間である美綴綾子女史も、そう言って嘆いておられた。
 しかし、普段それほど吸っていないとは言え、一度吸おうと思ってしまうとどうにも口がムズムズする。仕方なく愛する妹から煙草の代わりにと渡されたリラックスパイポを銜えて、急場を凌ぐことにした。
 柑橘類の味と香りが添加されているそれは、スースーとして銜えていると確かにリラックス出来るような気がしなくもない。実際には相当微妙だったが、そうとでも思わないとなんだか虚しすぎる。
 ようやく落ち着いたところで、後はのんびりと事態を静観することにした。
 今の一連のマヌケな行動を、結界のおかげで人に見られずに済んで助かったなぁなんて事を考えながら。





◆    ◆    ◆






「ん〜〜〜〜〜キモチいぃ〜〜〜〜!」
 結い上げた銀髪の上に手拭いを乗せ、イリヤはその長い手足を思いっきり伸ばして息を吐いた。なんだか息と一緒に魂まで吐き出しそうな勢いだ。
「やっぱり温泉とか銭湯って最高ね〜身体がとろけるわ〜〜〜」
 ふにゃーっとそのまま浴槽に溶け込んでしまいそうな脱力っぷりに、凛も思わず苦笑する。身体は成長しても、こんなところはやはりイリヤだ。
「ま、わたしも好きだけどね。こればっかりは日本に生まれたことを感謝するわ」
 如何に西洋かぶれを自認していても、日本の良さはやはり日本の良さ。こうして銭湯の広い湯船に浸かっていると、よくぞ日本人に生まれけり、という気分にもなるというものだ。
「でしょ〜? 他の国にはないもの〜」
 機嫌が直るどころか、こんなに上機嫌な彼女を見たのは久しぶりかも知れない。
 先程の短い戦闘の後、『落ち着きなさいな。ホテルには浴室はないけど、ホテルの裏は銭湯になってるのよ』と告げた瞬間のイリヤの顔ときたら、もう。
 ホテルの影になっていて見えなかった古式ゆかしい長煙突を見た瞬間など、胸の前で両手を組んで感動していたくらいである。
「わたしが小さかった頃は深山町にも銭湯あったんだけどね」
 しかし、銭湯と小さな映画館というものは悲しいことにもはや前時代の遺物だ。
 何処の家庭にも備え付けの風呂場があり、ビデオが普及仕切った今、場所をとるだけで利用率が振るわない両者は消えていく運命にある。
「勿体ないわ〜。こ〜んなに気持ちいいのにね〜」
 ほんのりと上気した白い肌は、同性の凛の目から見てもどうしようもなく色っぽい。いやはや、これではしろいあくまどころかしろい魔女だ。
 もっとも、銭湯に無邪気に感激する魔女がいるならの話だが。
「……ん?」
 と、気がつけばイリヤが何やら真剣な面持ちでジーッと湯船の中の凛の身体を眺めている。
「どしたの?」
「……リンの脚って、やっぱりすごくカッコイイ……羨ましい」
「あら、ありがと」
 確かにイリヤの造形美は完璧に近いが、こと脚線美にかけてならば凛も負けてはいない。スラリと長い脚の艶めかしさは驚嘆ものだ。普段はニーソックスやロングスカートに隠されているそれは、一度抜けばあらゆるものを斬って捨てるまさしく伝家の宝刀である。
 イリヤの美しさは何処か人形めいた神秘的なものだが、凛の場合は実に健康的で躍動感のある美しさだと言えるだろう。
 結論。どっちもものごっつ美人。
 その後、たっぷり一時間半、「あらあら、外人さん?」「お嬢さん達、綺麗ねぇ」と羨ましそうに話しかけてくるご婦人方との語らいを楽しみつつ、二人は日本の文化を思う存分堪能した。



「で、締めはやっぱそれ、と」
「あったりまえよ。……ん、ん、ん……プハーッ!」
 バスタオルで覆われた瑞々しい身体。その腰に手をあて、風呂上がりに瓶入りコーヒー牛乳を飲み干すこの快感。そう、コーヒー牛乳である。あくまでコーヒー牛乳。他の呼び名などけして認めぬとばかりにコーヒー牛乳。
 幸福絶頂のまさに極みと銭湯文化を謳歌するイリヤを横目に、凛も缶ビールの蓋を開け、グビグビと飲み干していく。これはこれで立派な銭湯文化と言えるだろう。
「あ〜あ。こんなことなら浴衣と団扇と下駄でも持ってくるんだったわ」
「あんたって本当にそういうところ全力投球しようとするわよね」
「出し惜しみしないのがモットーだもの。藤村流の」
 納得。
 子は親の背を見て育つと言うが、イリヤが日本に来てから見てきた背中は大河や凛も含めてほとんど全員全力投球型。ならばこれは当然の帰結だ。
「ところで、夕飯はどうするの?」
「食べたいものとかある?」
「お寿司か天麩羅かすき焼きー」
「……なによその使い古されたメニューは」
 どうにも、日本家屋と銭湯を立て続けに堪能したせいか、思考がわかりやすく外人的になってしまっているらしい。
「定食屋で我慢なさい。すぐそこの角の定食屋が美味しいって、さっきお風呂場でおばさんが教えてくれたわ」
「オッケー。あ、それとどうなの? 術者の方、わかりそう?」
「誰かさんが思いっきり竜牙兵を叩き壊してくれたせいで面倒だったけど、何とか大丈夫だとは思うわ。明日の朝、遅くとも昼までには正確な位置も掴めると思う」
 ホテルの自室に仕掛けてきた、逆探知用の魔法陣。狭いので設置には苦労したが性能には自信がある。どんな強力な遮断結界でも、イリヤの聖杯感知能力と凛の魔術を複合、駆使すれば打ち破れないはずはない。
 後は、果報は寝て待て、いやその前に食べて待てである。
 ドライヤーで念入りに長い髪を乾かしながら、二人はさてこの町の名産は何だったかと夕飯に想いを馳せた。





◆    ◆    ◆






「……ん、美味し」
 箸を持ちつつサムズアップ。
 銭湯に引き続き、定食屋もイリヤ的に大満足だった様子。
「ん、こっちも美味しいわよ」
 凛も箸を持つ手を休めない。
 イリヤが頼んだのは治部煮定食。半煮えの状態ながら充分に柔らかい鶏肉が、独特の和風とろみ餡汁と相まって何とも食欲をそそる。問題があるとすれば、せっかく銭湯ですっきりしてきたのに汗だくになってしまうことか。
「はふ、はふ……ん、……はぁ」
 ついつい夢中になって暑く煮立った汁を喉を鳴らしながら飲んでしまった。淑女的にはどうかと思うが、とは言えこの場合は音を立てながら飲むのが正しい食べ方である。
「ちょっともらってもいい?」
「んぐ……ん、いいわよ。その代わり、そっちも少し頂戴ね」
 等価交換成立。
 魔術師の箸が互いの椀と皿とを交錯する。
 凛は焼き魚定食、本日はのど黒焼きだ。のど黒というのは、捌いた際に喉から腹までが黒いためにつけられた名前で、実際には赤ムツのことである。脂ののった白身を単純に塩焼きしたものだが、これがまた滅法美味い。
 冷やの名酒・天狗舞を片手に、凛様ご満悦。
「それにしても、相も変わらぬ酒豪ッぷりね」
 風呂上がりにビール。定食屋で日本酒。おそらく、寝る前にも何かしら飲む気満々のはず。
「旅行に来たら、名物料理と名酒を楽しむのは義務よ、義務」
 イリヤも酒は嫌いではないが、それほど強いわけでもないので進んで飲むことは少ない。たまに家で晩酌に付き合って、嗜む程度である。
 対して凛は飲む。大分、飲む。
 学生時代はほとんど飲まなかったのに、どうにも本人曰く、『酒と煙草は卒業してからのお楽しみ』という自分ルールを打ち立てていたらしい。いや、日本の法律的には問題なく実に健全なんですが。
 ともあれ、倫敦留学から帰国して後の凛と酒との縁は、もはや切っても切れないものとなっていた。
「……あ、もう空だわ。すいませーん、お冷やもう一本追加でー」
「ザルね、ザル」
「ふ。いい女にはいい酒が似合うものなのよ」
 悔しいがそれは当たっていると思う。味にうるさいのはもはや家族全員共通のスキル、強い弱いは別にして、酒の味の善し悪しはイリヤにもわかる。美味い酒は本当に美味い。
 そうして、美味い酒を聞こし召す凛の姿は堂々と様になっており、ほんのりと朱を散らした頬はえも知れぬ色香を漂わせているのだ。それはイリヤには無い類の女の艶で、正直羨ましくもある。よってからに、
「はい、お姉さん。なんや二人ともえらいべっぴんさんで、おばちゃん羨ましいわ」
 定食屋のおばさんが世辞抜きにそう言ってしまうのも無理はない。
「あら、いやですわ。ほほ……イリヤ、あんたも飲む?」
「んー……それじゃ一杯だけ。すいません、お猪口一ついただけますか?」
「はいはい。ちょっこし待っててね」
 軽い足取りで厨房へと戻っていくおばさんを見送りながら、改めて店内を見回してみた。
 作り自体は古いが、掃除の行き届いた清潔さを感じる。二人の宿泊先とは雲泥の差がある狭い店内には、自分達を含めて現在三組しか客はいない。入った時には既に時間的なピークは過ぎていたのだから当然と言えば当然か。
 酒は地酒を中心に取り揃えてあるが、それよりかはやはり食事を中心に据えた店構えなのだろう。
 何から何まで実にイリヤ好みの店であった。
「はい、どうぞ。それにしても、お嬢さん、お箸の使い方お上手やね」
 お猪口到着と見るや、即座に凛の手が徳利とともに伸びる。彼女がやたらと人に酒を注ぎたがるのは承知のこと、気にせずにイリヤはおばさんとの談笑を続けた。
「ええ。この国に来て、もう大分経ちますから」
「うちの常連さんにもね、一人外国の方がいらっしゃるんやけど、その人もお箸の使い方がお上手でねぇ。ここ何日かは忙しいのかお見えになってないんやけど」
「あ、そうなんですか。でも、確かに最初は戸惑いましたけどコツさえ掴んでしまえばとても便利ですよね、お箸って」
 ほほほ、と笑い、なみなみというか、本当に表面張力限界ギリギリに注がれたお猪口を両手を使って慎重に持ち上げる。正面に座する酒豪はまったく容赦というか限度というものを知らないのが困りものだ。
 ゆっくりと、まずは一口。口内で舐め、転がすように、充分に味を堪能する。
「ふぁ……美味しい」
 心底美味しそうなその顔に満足したのか、おばさんは嬉しそうに再び厨房へと戻っていった。
「あーあー、あんたってばホントに反則的に可愛いわ」
 喉を流れ落ちる酒精の熱に浮かされたように、真白き肌がほんのりと朱に染まる様の愛らしさは、筆舌にしがたい。
 凛は相方の微笑ましい酒の干し方に見入りながら、グイッと勢いよく杯を傾けた。








〜to be Continued〜






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