Turning Fate/The story of a certain future



another episode
〜あかとしろのあくま(中編)〜


◆    ◆    ◆





 昨日とは打って変わった小春日和。
「……春の空、終日のたりのたりかな……」
 川沿いの道を歩きながら、イリヤはふとそんな句を呟いた。
「あら、蕪村?」
 与謝蕪村。江戸中期の俳人で、絵画の才にも秀でた彼は絵画的イメージを言語によって見事に顕すことに成功した天才である。が、今イリヤが詠んだ句は彼のものに手を加えたものだ。
「本当は海を見ながら詠むべきなんでしょうけど、この空を見てたら、まぁ海じゃなくて空でもいいかなって」
 今日の陽気なら、黒のスプリングコートも苦にならない。元々黒を基調にした服が好みのイリヤだ。今回の旅にも黒系の服ばかり持ってきてしまっていたので、このぐらいの陽気は願ってもない。
「たまに思うけど、あんた、わたしよかよっぽど日本人だわ。見た目はどっからどう見ても“外人さん”なのにねぇ」
「育ちとそこに根差す感性の違いよ。リンはきっとイタリアあたりに行けば丁度ね」
 育ちで言えばイリヤはそもそも日本育ちではないのだが、とは言え彼女の場合は事情が込み入っている。よって、正しく人間としての感性が培われたのは日本で暮らし始めてからだと考えれば、当然の帰結なのかも知れなかった。ちなみに、いつの間にか得意料理も洋風ではなく和風に落ち着いてしまっている。
「……イタリアよりはドイツと言って欲しかったわ」
 かたや凛は、日本在住とは言え幼少時からずっと西洋文化に触れて育ってきたのである。考え方も西洋魔術師のそれが深く根付いてしまっているし、日本人的でないのも仕方がないと言えばなかった。
「リン、ドイツのことバカにしてるでしょ?」
「そういうアンタはわたしをバカにしてるでしょうが」
 閑静な住宅街の丁度真ん中あたりを流れる川は、意外な程に澄んでいた。
 青い空と、澄んだ川の流れ、そして通常家屋に紛れて立ち並ぶ武家屋敷に交互に目をやりながら、のんびりと歩く。
 他愛もない雑談混じりに、時折擦れ違う人々に会釈したりしながら、二人はようやく目当ての屋敷の門を前に立ち止まった。
「意外と近かったのね」
 ホテルから直線距離で約一キロ程の場所に建つ、大きめの武家屋敷。
 別段魔力のようなものは感じられないが、残滓も無いのが逆に不気味だった。ここまで綺麗に遮断出来るとは、想像以上の術者かも知れない。
「……確かに、この屋敷にあるわ」
 聖杯の器から漏れ出す独特の“臭い”。此処まで近付いてしまえばどんなに遮ろうとしても不可能だ。かつて同質の存在であったイリヤの感知能力を誤魔化しきれるわけがない。
「……舐められたもんね」
「どうしたの?」
 正門の前に立った凛が、眉をひそめた。
「結界が張ってないわ。入るならどうぞ、って感じに」
 それどころか、錠すら下りていない。罠か、もしくは自信の顕れなのか。
 凛の魔法陣によってこの屋敷の所在が知れたのは、ほんの一時間程前のことだ。結局昼過ぎまでかかってしまったが、流石に昼日中から派手にドンパチをやらかすわけにもいかない。昼間のうちにまずは偵察を――そのつもりで此処まで来たのだが……
「……誘ってるのかしら?」
 外からでは判断しかねるが、しかしどうにも大掛かりな罠が仕掛けてある気配もない。少なくとも魔術に類する仕掛けはあるまい、実に静かなものだ。
「いつまでもこうして考えてても埒があかないし、乗り込む?」
 そう言って、イリヤが一歩前に出た。確かにその通り、このまま門の前で突っ立っていても意味がないのはわかっている、わかっているのだが……
 どうにも、釈然としないのである。
「……仕方ない。このまま帰るのも何だしね」
 が、特に罠も感じられない、結界も何も張られていない門を前にして、ただ帰るというのも癪な話だ。
 相手だってこの町中、それも真っ昼間から戦うつもりもあるまい。その上で誘っているのなら、話し合う意志の現れである可能性も高い。結果がどう転ぶかはまだわからないが、入ってこいと言うのなら、敵さんの顔くらい拝んでから帰るのも悪くはないだろう。
 魔術以外の罠に備え、念のために身の回りに障壁を張っておく。
「じゃ、開けるわよ」
 イリヤの細い指が、重たそうな扉に触れた。
 冷たい。
 分厚い鉄板をさらに木板で覆ったこれが、厳重に閉じられていたならぶち破るだけでも骨だったろう。
 果たして、鬼が出るか蛇が出るか。
 ゴクン、と二人同時に喉を鳴らし、いざ、開門……かと思われたその時。
「……へ?」
 相棒のそんな間の抜けた声に、凛は咄嗟に身構えた。
「……」
 一方、イリヤの身体は予想外の事態に固まっていた。その手は既に扉には触れていない。射抜くような凛の視線の先で、イリヤが押すよりも先に、扉が勝手に開いていく。
「自動ドア?」
 訊いてはみたものの、魔術式の自動ドアにしては魔力を欠片も感じなかった。かといってこれが機械式だと言うなら、屋敷の主は余程の道楽者か、もしくは此処はとんでもない要塞だ。
「違うわ。手動よ」
 数歩後退りながら、振り返らずにイリヤがそう答えた。彼女の長い銀髪の合間を見れば、扉の先にはいつの間にか一人の人物が立っていた。
 スラリと伸びた長身、金の短髪、そして瞳は吸い込まれそうな碧眼。
 上下濃紺のスーツと清潔な白いYシャツ、紅いネクタイをピシリと締めたその様は、一見男性と見まごうばかりの容姿ではあったが、出るべきところが出て、引っ込むべきところが引っ込んだ理想的なスタイルは、これでもかと言うくらいに女性であることを意識させる。イリヤと見比べてもまったく遜色がない……要するに、凛にとっては溜息の種にしかならない類の相手である。
「はじめまして」
 そう言った顔に浮かんだのは、全く邪気のない大人の微笑。加えて左の目元にある泣き黒子が、女性としての色香を付加しているように感じられた。
「ふむ……予想以上に可愛らしいお嬢さん達だ。驚いたよ」
 その表情からは、特に含みのようなものは感じられない。素直に驚いたといった態度に、思わず二人とも毒気を抜かれる。
「それじゃあ、行こうか」
 姿勢を崩さず、機械のように正確な歩調。
 女性は茫然とするイリヤの脇を抜け、咄嗟に身構えようとした凛の肩を気安げにポンッと叩いた。
「なっ!?」
 緩やかな動作に、しかし反応が間に合わなかった。
 凛の左肩に乗せられたままの女性の右手は、全く流れるように自然に彼女の鍛え抜かれた警戒網をかいくぐったのだ。
「立ち話も、なんだろう?」
 そう言って、さっさと歩いていってしまう。その背中は、あまりにも無防備だった。
「……どうする?」
 イリヤの問いかけに、暫し己の左肩を凝視していた凛は、視線で次の行動を促した。この上は、ついていく以外に仕方があるまい。
「早くしないと、置いていくよ?」
 催促するような女性の言葉に、二人は顔を見合わせた後、急ぎ踵を返した。





◆    ◆    ◆






 ぜんざい、と呼ばれる甘味がある。
 漢字で書くと、『善哉』。あまりにもお馴染みな、餡汁の中に餅や白玉を入れた和風甘味の決定版である。汁粉とも呼ばれるが、単に別名というわけではなく関東と関西で全くの別物となるらしい。関西風はつぶしあんの汁粉、関東風は白玉餅などに濃いあんをかけたものが基本形なのだそうだ。
 地方によってはさらに、入れる餅も、通常の餅であったり焼き餅であったり、最近ではアイスやクリームを和えたものも女性を始めとして人気が高い。
「ちなみに、『善哉』というのは仏教用語で、元々は釈迦が弟子を褒める際に用いた言葉なのだそうだ。で、何故これが『善哉』と呼ばれ出したのかというと、ある小坊主が小豆の汁の中に餅を入れて食べたところ、たいへん美味しかったので、一休禅師に供したのを『善哉、善哉』と称賛され、それがぜんざいの始まりとなったのだそうだよ。汁粉というのは、まぁそのままだ」
 そう言って、女性は焼き餅を上手に箸で千切ると口の中に放り込んだ。硬い焼き餅を箸で千切るのは非常に難儀なことだが、彼女のそれは下手な日本人よりも遙かに洗練された箸使いだった。
「へぇ……そうなんですか。和食に関しては結構勉強したつもりでも、まだまだ全然奥が深いわ」
 善哉に関する蘊蓄に、感心したと言った様子で頷きつつ、イリヤも餅にクリームを絡めて口へ運ぶ。美味しいもの、特に甘いものを口にする時の彼女の笑顔は見ているだけで周囲の者の顔をも綻ばせるとは凛の言葉だ。
 だが、今日の凛は事情が違った。
「……食べないの? お汁粉、冷めちゃうよ?」
 凛の視線は、目の前で湯気を立てる汁粉――この場合はこし餡の汁の中に白玉の入ったものである――ではなく、向かい側に座って焼き餅入りの関東風善哉を食している女性へと注がれていた。
「リン、人の頼んだものばかり羨ましそうに眺めてるのは、ちょっと卑しすぎると思うわ。そりゃね、隣の庭っていうのは綺麗に見えるものかも知れないけど……」
「いや、仕方ないよ。何しろこの店の焼き餅善哉は絶品だ。羨望の眼差しで見てしまうのも詮無きことだろう」
 すっかり意気投合したらしい二人は、箸を動かす手を休めることもなく、肩を震わせる凛を眺め、しみじみと餅を頬張り、茶を啜った。心なしか、徐々に震えが大きくなってきている。
「……食べるかい?」
「食うかーーーー!」
 ついに爆発した凛を尻目に、イリヤは口の周りに付いたクリームを拭き取った。淑女たる者、クリームが付きっぱなしというのは、とてもよろしくない。
「そもそもイリヤ、アンタまでなんでこんなに和んでるのよ!」
「食事中に席を立つのはどうかと思うわ」
 にべもない。
 そんな二人のやりとりを微笑ましく眺めながら、しかし、突然何かを思い出したかのように、女性は箸を置いて凛とイリヤを交互に見やった。
「ああ、そうか。自己紹介がまだだったね」
 私としたことが、うっかりしていた……そう言うと、
「バゼット・フラガ・マクレミッツだ」
 恭しく頭を下げた。窓から差し込む陽光を反射して輝く髪の合間で、ルーンのピアスが揺れて光る。
 その清廉な態度に、流石の凛も言葉もない。さらに、イリヤからの咎めるような視線もあってか、バツが悪そうに着席した。何とか気を取り直し、もう一度女性の顔を見る。何より、ここでこのまま名乗らずにいるというのも、単にふて腐れているようでらしくない。
「はじめまして。わたしは遠坂凛。で、隣にいるのが――」
「イリヤスフィール・フォン・アインツベルンです。初めまして、メイガス」
「ふふ。御丁寧な挨拶、痛み入る」
 バゼットとイリヤの手が、再び箸へと伸びる。イリヤがここまで頓着しないところを見ると、聖杯強奪の犯人かどうかは別として、少なくともバゼットは悪人や外道の類ではないと言うことだろう。イリヤのその辺の直感は信頼出来る。
 溜息を漏らし、凛も自分の箸へと手を伸ばした。このままでは本当に汁粉が冷めてしまう。冷めた汁粉というのは気持ち悪いくらい甘さが際立つので苦手だ。
 よくよく冷静になってみると、本当に美味しそうな匂いだった。こし餡の汁も、さらっと上品に仕上がっているものと見える。なんのかんのと言っても、凛とて甘いものを喜ばないなどという希有な女ではない。甘味の魔力の前では天才魔術師と言えどただの一人の女だ。
「……いただきます」
 観念したかのように呟き、唇の端に付いたクリームをペロリと舐めとる相棒を見るともなくそのまま割り箸を割ろうとして、
「……あ」
 ――失敗した。片方に上部が三分の一ほど持っていかれてしまっている。
「……無様ね」
 イリヤの視線が冷たい。
「すいません。彼女に新しいお箸を……」
 そう言って右手を上げたバゼットに、近くにいたウェイトレスの女の子が返事を返し、ニコニコしながら新しい箸を取りに店の奥へと小走りに向かっていくのを眺めながら、凛は無性に敗北感というか、負け犬の気分を味わっていた。



「……ところで、ミス・マクレミッツ」
「バゼットでいいよ。味の方はお気に召して貰えたかな、ミス・トオサカ?」
「わたしも凛でいいわ。ええ、ちょっと甘すぎる気もするけど、なかなかのものね」
 少しだけ嘘だった。本当は充分に満足している。
「そうか。それはよかった」
 相変わらずの、邪気のない笑顔。どうにもペースを崩されまくりでおもしろくないが、役者としてはバゼットの方が一枚も二枚も上手らしい。
「昔、知人に極端な辛党がいてね。私がこうやって甘いものを食べていると、延々たらたらと顰めっ面で苦情……本人曰く説法をあげ連ねたものさ」
 箸を持つ右手を休めることなく、器用に小豆を口元へと運ぶ様すら麗しいというのは一体どういう事だろう。なんて事はない雑談にすら気品が漂うというのはいくらなんでも卑怯だと思う反面、凛は彼女の声と仕草をとても好ましく感じている自分に気付いていた。
「甘いものを食べている女性に文句を言うような奴は、極刑に処されるべきね」
「君もそう思うかい?」
「当然だわ」
 だから、今漏らした言葉と笑みも素直な気持ちから来たものだと思う。
 しかし個人としての彼女を好むか好まざるか、善人か悪人かなどと論じたところで意味はないのだ。よっていつまでもこうして世間話に興じているつもりもない。聞くべき事、確認しなければならない事をまずはどうにかしなければ、なんのために此処まで遠出してきたものやら。
「……バゼット」
 汁を飲み干し、凛は改めて正面からバゼットを見据えた。我関せずと最後のクリームをもの惜しげに口元へ運ぶイリヤは、全て凛に任せるつもりらしい。
「単刀直入に聞くわ。貴女は――」
「聖杯なら屋敷にあるよ。確認済みなのだろう?」
 器の底に残ったあんこを、焼き餅の欠片で絡めて綺麗に回収しつつ、バゼットはあっさりそう言ってのけた。
「……いやに簡単に認めるのね」
「否認する気はないよ。冬木の教会から聖杯の器を持ち去ったのは確かに私さ」
 あまりにも自然な態度に、拍子抜けすら出来ない。
 テーブルに備え付けられていた紙ナプキンで口周りを拭いつつ、その表情には悪びれた様子の欠片もないバゼットの表情は依然として穏やかなもので全く底が見えないが、しかし心象が悪くないままなのも不思議だった。
「それにしても、見事な感知能力と魔法陣だったよ。流石は冬木の赤い魔女、トオサカ・リンと白い魔女イリヤスフィール。聖杯戦争を生き延びただけの事はある」
「……知っていたの? わたし達の事」
「実は、ね。ああ、怒らないで欲しい。それにしてもあの神父、人が悪いにも程があるな。私の事は、何も聞いていないのかい?」
 無言で頷く。
 老神父からは、犯人の正体は見当もつかないとしか聞かされていなかった。しかし、今のバゼットの言い方からするとどうもおかしい。
「……あの狸め……まぁいい。どうやら順を追って話した方が良さそうだ」
 そう言うと、バゼットは再びウェイトレスを呼んだ。
「あんみつを一つ、追加で。君達は、お代わりは?」
「みたらしだんごお願い」
「あ、わたしクリームあんみつ」
「ではそれと、お茶のお代わりを」
 どうにもチラリチラリとバゼットを見ながら、ウェイトレスは伝票を片手に奥の方へと引っ込んでいった。





◆    ◆    ◆






「まずは改めて名乗らせて貰おうか。私の名はバゼット・フラガ・マクレミッツ。五度目の聖杯戦争で、ランサー、クー・フーリンのマスターだった魔術師だ」
 早々に届いたあんみつ――心なしか量が多い気がする――をスプーンですくいながら、バゼットはゆっくりと、噛み締めるように言った。
 その言葉に、凛とイリヤにとって忘れることなど出来ない冬の記憶が甦る。思わずだんごを皿に戻し、凛はバゼットの顔を凝視した。
「ランサーの、マスター? それじゃ、綺礼に令呪を奪われた協会からの派遣魔術師って……」
 聖杯戦争後に神父から聞かされた、言峰綺礼というイレギュラーなマスターの所業と顛末。なるほど、よくよく思い返してみればバゼットという名前には確かに聞き覚えがあった気がする。
「私のことだよ、リン。君のことは言峰から聞いている。随分と、立派な魔術師に育ったようだね」
 まだ不慣れなリンという発音に比べ、ひどく懐かしむように口にされたその名、その発音はとても自然なものだった。
「彼にはまったく酷い目に遭わされたものだ。まさか、突然後ろからバッサリやられるとはね。おかげでランサーを現界させる暇もなかった」
 そう言って、バゼットは今まであんみつの器に添えられていた左手を静かに卓上に翳して見せた。今までは右腕ばかり使っていたので気が付かなかったが、その左腕の動きは何処かぎこちない。
「その腕は……」
「義手だよ。外出する時以外は外しているんでね、どうにも不慣れでいけない」
 左手の指を握ったり開いたり、確かめるように動かしながら、苦笑する。
 信頼していた相手に後ろから左腕を斬り落とされる……その痛痒が如何ほどのものだったかは想像もつかない。表情からは、彼女が一体何を考えているのかを読みとることは出来なかったが、それでも、そこに浮かぶ感情が単純な憎悪でないことだけはわかる。
「……どうして、聖杯を?」
 だから、回りくどく聞くのはむしろ悪いと思った。気を遣うとか遣わないとか、そういう事ではなく。
 一方、隣で黙々とクリームあんみつを食べているイリヤには、何となくこうなる事がわかっていたのではないかと、凛はふとそんな気がした。意識の深層、そのもっとも深いところに沈んでしまってはいるものの、イリヤはランサーの記憶も所有しているはずなのだ。
 視線をイリヤからバゼットへと向け直し、だんごを銜えながら、凛は返答を待った。バゼットの方はと言えば、あんみつを心底美味しそうに咀嚼している。
「いや、なに。一つだけ、叶えたい願いがあったんだ」
 新たに蜜柑をスプーンですくいながら、特に何でもないかのように返ってくる答えが、そのせいで余計に重みを帯びている気がした。
 そもそも当たり前の話なのだ、叶えたい願いも無しに聖杯を求める方が珍しいのだから。内容や目的がどうあれ、聖杯を持ち去った以上は何か切実な願いを持っているであろうことは明白だ。
 故に問題なのは、その内容と目的なのである。
「バゼット……わたしとしては音便に事を済ませたいの。だから、出来ればその願いの内容というのを聞かせて貰いたいのだけれど、構わないかしら?」
 相手のペースに自ずから合わせて出来るだけ自然に訊ねつつ、三串セットのみたらしだんご、その二本目に凛は手を伸ばした。汁粉はやや甘すぎる感があったが、だんごの方は程良い甘じょっぱさでついつい手が伸びてしまう。
「ああ、構わないよ。別に隠す程のことではないしね」
 おそらくは、本心だろう。隠すつもりが無いというのは。
 そもそも、凛はこのバゼットなる人物を詳しく知っているわけではない。神父は彼女と戦って傷を負っていたが、それも重症という程のものではなかったし、もしかしたら冗談ではなく本当に無血解決だってあり得る。聖杯が器だけでは何の意味も持たないものだということを説明し、彼女が退いてくれさえすれば万事解決だ。
「なに、簡単なことだよ。しかし簡単なことだが、万能の釜でなければ難しいことでもある」
 風が出てきたのだろうか、雲の動きが早い。テーブルの上で、光と影が忙しなく入り乱れる。
 三人とも、既に手の動きは止まっていた。
 静寂。
 どのくらいそうしていただろう。不意に、バゼットの腕が動いた。
 右腕ではなく、左腕が、何かを手繰り寄せるかのようにゆっくりと動き、掌が閉じられ、そしてまた開かれる。
「言峰綺礼を、生き返らせたい」
「……え?」
 耳を、疑う。
 言峰綺礼――五度目の聖杯戦争の仕掛け人。凛を裏切った兄弟子、イリヤをさらい聖杯にした外道。そして、バゼットから左腕を奪ったその男を――
「どう……して」
 波打つ心臓の音が、ひどく煩い。
 とは言え、この動揺はきっと相手を理解出来ないからではなくて……
「さぁ、ね。彼を生き返らせて何がしたいのか、正直私にもよくわからないんだ。この左腕の恨み言を聞かせてやりたいのか、私と同じ目に遭わせてやりたいのか、それとも……」
 そこで言葉は句切られた。
 開かれた左手の指を、一本一本確認するかのように見つめているその瞳が、本当は何を見ているのか。
 ああ、だからか。凛は、彼女が何を思って聖杯を奪ったのか、わかってしまった。
 自分にはそれがわかってしまう事に、気付いていたから。だから、あんなにも動揺した。認めざるをえないから。
 聖杯を望む、強く純粋に願う心。
「ただ、それでもあの男ともう一度、会いたい。会って話をしたいんだ」
 自分達は、それを誰よりもよく知っているはずではなかったか。
 人を甘いと笑えたものではない、自分の甘さも相当なものだとつくづく思い知らされる。初めから回避は不可能だったのだ。
 だが……だが、それでも――
「バゼット、それはただの器に過ぎないわ。聖杯を起動させるには……」
 それでも戦わずに済むのなら、どんなに可能性は低くとも話し合うことで済ませられるならそれに越したことはないのではないかと――そう考えてしまう自分のことが、以前よりも嫌いではない。
 それが、例え容易く打ち砕かれてしまう幻想に過ぎなくとも。
「知っているよ。英霊の魂が必要なのだろう?」
 イリヤは、黙って瞳を閉じた。
 凛以上に、彼女と出会った瞬間から、イリヤにはわかっていたことだ。それは槍兵の記憶を持つからだとか、そういった理由からではない。自分の中に眠るランサーの記憶は依然として奥深く沈んだままだ。確信は、別にある。
「そこまでわかっているなら――」
「英霊は何も聖杯戦争にのみ呼び出されるわけじゃない」
 紡がれた言葉の主と、遮った言葉の主。
 似ていたから。
 彼女達は、とても似ていると、そう感じたから。
「なら、何年かかろうと世界中を回って彼らが現界する度に狩り、聖杯を満たしてやるまでさ」
 なんと非現実的な、しかし力のこもった妄言か。
 イリヤとて伊達に何年も凛と組んで荒事に対処してきたわけではない。物腰を見れば、相手の実力にそれなりのあたりをつけるくらいの事は出来る。だから、わかる。
 彼女は強い。魔術師としても、おそらくは戦士としても一流だろう。だが、それでも英霊に届くはずなどない、非力な人間に過ぎないと言うのに。
 それなのに――否、それ故に、彼女はきっと諦めない。
「……それが、貴女の……」
 そこまで言って、凛は静かにバゼットの左腕を見つめた。
 バゼットは柔らかく微笑んでいた。
 いつの間にか、風は止んでいた。
 それでも流れ続ける雲を見上げながら、イリヤは少し冷めたお茶を啜った。





◆    ◆    ◆






「つきあわせてしまって、悪かったね」
 奢る、と言うバゼットに、あくまで割り勘でと凛が言い張り、結果小銭を持ち合わせていなかったイリヤが現在レジに立っていた。ウェイトレスが少し残念そうにお釣りを手渡している。
「いえ。美味しかったし、有意義な時間だったわ」
 また少し風が出てきたらしい。
 ゆっくりと扉を開け閉めし、三人は外に出た。



「門の錠は、かけないでおくよ」
 バゼットの笑顔は相変わらずとても綺麗で、しかしだからこそ違う笑顔を見てみたいものだと、凛は心からそう思った。
「ノックはしないわ」
「ああ。わかった」
 イリヤに自分達の分の小銭を手渡し、二人同時に踵を返す。
 別れの言葉は、特に必要ないだろう。イリヤも同様に感じたのか、すぐに凛の後を追う。バゼットの気配が、次第に遠のいていった。向こうも振り返ったり立ち止まったりする気はないらしい。
「困ったわね」
「うん」
 何が困ったのかなんて、聞くだけ野暮というものだ。
 イリヤの相槌に、凛は僅かに息を漏らした。
「わたし、ランサーのことってあんまりよく知ってるわけじゃないんだけどさ」
 彼との邂逅は、一度きり。
 それでも、弓兵と槍兵、二人の英雄の死闘はいまだ目に焼きついている。
「でも、彼はいい奴だったんだと思うわ」
 けして満足のいく召喚ではなかったろうその最期は、しかし誇り高い、クランの猛犬の名に恥じぬだけのものだったと聞いた。
「わたしも、そう思う」
 イリヤもまた、彼と会ったのは一度きりだ。ただ、彼の魂を受け取った時、けして悪い気はしなかった。それどころか、とても清々しく、けれど少しだけ残念だったと、そんな想いを同時に受け取った。
「リン」
「なに?」
 見上げた空、流れる雲の白さが眩しい。
「まだ、終わってないんだね」
 答えは、無い。
 とっくに終わったものだと思っていた。
 自分達が終わらせたことで、全ては終わったものだと思い、しかし違っていた。
「……ったく、厄介事を押しつけてくれたものだわ」
 わざとらしく全身に包帯を巻いた老神父の、すっとぼけた顔が頭をよぎる。強奪されたなど、よくもまぁ言ったものだ。おそらくは申し訳程度の攻防をしただけであっさりと受け渡したに違いない。バゼットの言うとおり、まったく見事な狸ぶりだと思う。
 毒づきつつ、凛は胸ポケットからリラックスパイポを取り出して銜えた。
「それ、本当にリラックス出来るの?」
「んー……微妙。まぁ、無いよかマシな程度」
 目の前の煙草の自販機を、敢えて無視する。本当はこんなパイポではなく紫煙を燻らせたい気もしたたが、それはそれで安っぽいとも思えた。
「……でも、安っぽいのも煙草の魅力よね」
「何それ?」
「わたしの持論」
 禁煙者であるイリヤにはサッパリだったが、しかし喫煙している凛を見ること自体は嫌いではない。結構、様になっていると思う。そのせいか、パイポを銜えてアンニュイな表情をしている凛の姿は微笑ましかった。
「本当は、わたし達も終わってなんかいないのかもね」
 そう言って、不意に凛が歩みを止めた。
 終わらせたつもりになっているだけなのかも知れない、と。今、凛の言ったことを、イリヤも全く考えたことがないわけではなかった。
 あの冬の町で起こった、あらゆる出来事。その全てを覚えている。鮮明に、けして忘れることなど出来やしない。
 だが、それでも自分達は自分達なりに決着をつけたのだ。
「行こう、リン」
 だから、立ち止まらない。
 凛の手を、勢いよくイリヤが引いた。終わっていないなら、終わらせるまでだ。そしてバゼットにも、そうあって欲しいと思う。彼女ほどの魔術師が、自分達を選んでくれたのだ。ならば、全力で応えよう。
 一際強い春風が吹いた。
 早足で歩く二人の頭上を、雲は静かに流れていた。






〜to be Continued〜






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